毘沙門天を祀っているのになぜ吉祥寺?
●水銀地名
開運坂を登っていくと山の中腹に吉祥寺はあった。
境内には夏の暑さに負けないような真紅の紅葉葵が咲いていた。
ハイビスカスに似ている。
紅葉葵は、学名をHibiscus coccineusという。
どちらもアオイ科の植物なので似ているのだろう。
本堂前にある燈籠には毘沙門亀甲紋が描かれていた。
毘沙門天はもともとはクベーラというインドの神で、夜叉を使役して鉱山で財宝を採掘させる神であった。
毘沙門亀甲は鉱物の結晶をデザインしたものだと思う。
私は毘沙門天を祀っている山はかつて鉱山だったのではないかと考えているのだが、吉祥寺がある場所の地名を丹原という。
丹とは辰砂(水銀)のことである。
かつてこの地では辰砂が採掘されていたのではないだろうか。
● 柴水山宝塔院吉祥寺縁起
本堂前で手を合わせていると若いお坊様がやってきてお手製だというパンフレットをくださった。
(ありがとうございます!)
そこには次のような内容が記されていた。
816年、12月3日、空海は高野山の丑寅の方角に鬼門除けの毘沙門天を安置するため、高野山を下ると小高い山の山上に紫雲がたなびいているのをみて山に登った。
すると生身の毘沙門天王が出現して、『ここは高野山の七里丑寅にあたる。私の姿を刻んでここに祀るように』と告げた。
空海が一夜で毘沙門天を刻むと、生身の毘沙門天王は姿を消した。
空海はそこに堂宇を建立し、毘沙門天王の開眼にあたって身を清めようとしたが、山上には一滴の水もなかった。
そこで『柴手水の法』をもちいて山内の檜葉をとり、印を結び真言を称えて身を清め、開眼供養をした。
空海が『私はこれから高野山に伽藍を建立する。建立が成就すれば境内の樹木より檜葉を生えさせたまえ』と毘沙門天に誓って檜葉を投げると檜葉は木にかかり、そこから檜葉が生じた。
空海は『柴手水の法』から 『手』の一字を除いて『柴水山』と号し、毘沙門天が手に持つ宝塔を院号とし、脇立ちの吉祥天女の御名より柴水山宝塔院吉祥寺と名づけた。
●寅も百足もない
ここは日本三大毘沙門天王出現地霊場のひとつで、他のふたつは信貴山朝護孫子寺と鞍馬山鞍馬寺とされている。
私は朝護孫子寺も鞍馬寺もどちらも参拝したことがあるのだが、吉祥寺には朝護孫子寺や鞍馬寺にあるものがなかった。
朝護孫子寺には張子の虎があり、本堂の欄間には百足のレリーフがあった。
そして鞍馬寺のケーブルカーの乗り場には、百足を描いた茶碗などが展示されていて、本堂の前には狛犬の代わりに阿吽の虎の石像が置かれてあった。
しかしここには虎も百足も見当たらない。
毘沙門天がご本尊なのに脇立ちの吉祥天女の名前をとって寺名とするというのも不自然である。
吉祥天は毘沙門天の妻とされる女神である。
●井上内親王への信仰の厚い五條
五條は井上内親王に対する信仰の厚い土地であった。
井上内親王は光仁天皇の皇后で、ふたりの間には他戸親王があった。
771年、光仁天皇の皇太子に他戸親王がたてられた。
ところがその翌年の772年、井上内親王は光仁天皇を呪詛したとして皇后の位を剥奪された。
他戸親王も母・井上内親王に連座したとして廃太子となり、代わって山部王が立太子した。
井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡の没官(官職を取り上げられた人)の館、に幽閉され、775年に二人は幽閉先で逝去した。
その後、井上内親王は怨霊になったと考えられ、『本朝皇胤紹運録』には『二人は獄中で亡くなった後、龍となって祟った。』とあり、『愚管抄』には『井上内親王は龍となって藤原百川を蹴殺した。』と記されている。
また水鏡には『(井上内親王の祟りによって)777年冬、雨が降らず、世の中の井戸の水は全て絶えた。宇治川の水も絶えてしまいそうだ。12月、百川の夢に、百余人の鎧兜を着た者が度々あらわれるようになった。また、それらは山部王の夢にも現れたので、諸国の国分寺に金剛般若をあげさせた。』とある。
井上内親王と他戸親王が幽閉されたのは奈良県五條市須恵付近(五条駅南側)であるとされる。
須恵付近はかつて下馬町と呼ばれていて、ここを下馬せずに通行すると井上内親王の祟りで落馬すると言い伝えられていた。
また井上内親王は奈良から流される時、産屋峰(今の奈良カントリークラブ五条コースの辺り)で男児を出産したという。
男児は後に母と兄の怨みを晴らす為、雷神となったという伝説がある。
井上内親王の墓は奈良県五條市御山町にあり、吉祥寺から1kmも離れていない。
790年には井上内親王や早良親王を祀る御霊神社(御霊本宮)が、800年には霊安寺が創建されている。
その後、御霊本宮から分祀され、現在五條市内には23もの御霊神社があるという。
よほど井上内親王の怨霊は恐れられたらしい。
加えてこの地は高野山の東北、鬼門にあたっていた。
そのため、空海が井上内親王の霊をここから高野山方面に近づけないようにと建立したのが吉祥寺なのではないだろうか。
堂宇を建立した空海が清めようとしたが、山上には一滴の水もなかったというエピソードは興味深い。
『水鏡』には井上内親王の祟りによって、雨が降らず宇治川も涸れかかっていると記されている。
どうも井上内親王は旱魃をもたらす女神であったらしい。
開運坂を登っていくと山の中腹に吉祥寺はあった。
境内には夏の暑さに負けないような真紅の紅葉葵が咲いていた。
ハイビスカスに似ている。
紅葉葵は、学名をHibiscus coccineusという。
どちらもアオイ科の植物なので似ているのだろう。
本堂前にある燈籠には毘沙門亀甲紋が描かれていた。
毘沙門天はもともとはクベーラというインドの神で、夜叉を使役して鉱山で財宝を採掘させる神であった。
毘沙門亀甲は鉱物の結晶をデザインしたものだと思う。
私は毘沙門天を祀っている山はかつて鉱山だったのではないかと考えているのだが、吉祥寺がある場所の地名を丹原という。
丹とは辰砂(水銀)のことである。
かつてこの地では辰砂が採掘されていたのではないだろうか。
● 柴水山宝塔院吉祥寺縁起
本堂前で手を合わせていると若いお坊様がやってきてお手製だというパンフレットをくださった。
(ありがとうございます!)
そこには次のような内容が記されていた。
816年、12月3日、空海は高野山の丑寅の方角に鬼門除けの毘沙門天を安置するため、高野山を下ると小高い山の山上に紫雲がたなびいているのをみて山に登った。
すると生身の毘沙門天王が出現して、『ここは高野山の七里丑寅にあたる。私の姿を刻んでここに祀るように』と告げた。
空海が一夜で毘沙門天を刻むと、生身の毘沙門天王は姿を消した。
空海はそこに堂宇を建立し、毘沙門天王の開眼にあたって身を清めようとしたが、山上には一滴の水もなかった。
そこで『柴手水の法』をもちいて山内の檜葉をとり、印を結び真言を称えて身を清め、開眼供養をした。
空海が『私はこれから高野山に伽藍を建立する。建立が成就すれば境内の樹木より檜葉を生えさせたまえ』と毘沙門天に誓って檜葉を投げると檜葉は木にかかり、そこから檜葉が生じた。
空海は『柴手水の法』から 『手』の一字を除いて『柴水山』と号し、毘沙門天が手に持つ宝塔を院号とし、脇立ちの吉祥天女の御名より柴水山宝塔院吉祥寺と名づけた。
●寅も百足もない
ここは日本三大毘沙門天王出現地霊場のひとつで、他のふたつは信貴山朝護孫子寺と鞍馬山鞍馬寺とされている。
私は朝護孫子寺も鞍馬寺もどちらも参拝したことがあるのだが、吉祥寺には朝護孫子寺や鞍馬寺にあるものがなかった。
朝護孫子寺には張子の虎があり、本堂の欄間には百足のレリーフがあった。
そして鞍馬寺のケーブルカーの乗り場には、百足を描いた茶碗などが展示されていて、本堂の前には狛犬の代わりに阿吽の虎の石像が置かれてあった。
しかしここには虎も百足も見当たらない。
毘沙門天がご本尊なのに脇立ちの吉祥天女の名前をとって寺名とするというのも不自然である。
吉祥天は毘沙門天の妻とされる女神である。
●井上内親王への信仰の厚い五條
五條は井上内親王に対する信仰の厚い土地であった。
井上内親王は光仁天皇の皇后で、ふたりの間には他戸親王があった。
771年、光仁天皇の皇太子に他戸親王がたてられた。
ところがその翌年の772年、井上内親王は光仁天皇を呪詛したとして皇后の位を剥奪された。
他戸親王も母・井上内親王に連座したとして廃太子となり、代わって山部王が立太子した。
井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡の没官(官職を取り上げられた人)の館、に幽閉され、775年に二人は幽閉先で逝去した。
その後、井上内親王は怨霊になったと考えられ、『本朝皇胤紹運録』には『二人は獄中で亡くなった後、龍となって祟った。』とあり、『愚管抄』には『井上内親王は龍となって藤原百川を蹴殺した。』と記されている。
また水鏡には『(井上内親王の祟りによって)777年冬、雨が降らず、世の中の井戸の水は全て絶えた。宇治川の水も絶えてしまいそうだ。12月、百川の夢に、百余人の鎧兜を着た者が度々あらわれるようになった。また、それらは山部王の夢にも現れたので、諸国の国分寺に金剛般若をあげさせた。』とある。
井上内親王と他戸親王が幽閉されたのは奈良県五條市須恵付近(五条駅南側)であるとされる。
須恵付近はかつて下馬町と呼ばれていて、ここを下馬せずに通行すると井上内親王の祟りで落馬すると言い伝えられていた。
また井上内親王は奈良から流される時、産屋峰(今の奈良カントリークラブ五条コースの辺り)で男児を出産したという。
男児は後に母と兄の怨みを晴らす為、雷神となったという伝説がある。
井上内親王の墓は奈良県五條市御山町にあり、吉祥寺から1kmも離れていない。
790年には井上内親王や早良親王を祀る御霊神社(御霊本宮)が、800年には霊安寺が創建されている。
その後、御霊本宮から分祀され、現在五條市内には23もの御霊神社があるという。
よほど井上内親王の怨霊は恐れられたらしい。
加えてこの地は高野山の東北、鬼門にあたっていた。
そのため、空海が井上内親王の霊をここから高野山方面に近づけないようにと建立したのが吉祥寺なのではないだろうか。
堂宇を建立した空海が清めようとしたが、山上には一滴の水もなかったというエピソードは興味深い。
『水鏡』には井上内親王の祟りによって、雨が降らず宇治川も涸れかかっていると記されている。
どうも井上内親王は旱魃をもたらす女神であったらしい。
吉祥寺・・・奈良県五條市丹原町914
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