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毘沙門天を祀っているのになぜ吉祥寺? 

きっしょうじ もみじあおい 
●水銀地名

開運坂を登っていくと山の中腹に吉祥寺はあった。
境内には夏の暑さに負けないような真紅の紅葉葵が咲いていた。
ハイビスカスに似ている。
紅葉葵は、学名をHibiscus coccineusという。
どちらもアオイ科の植物なので似ているのだろう。

本堂前にある燈籠には毘沙門亀甲紋が描かれていた。
毘沙門天はもともとはクベーラというインドの神で、夜叉を使役して鉱山で財宝を採掘させる神であった。
毘沙門亀甲は鉱物の結晶をデザインしたものだと思う。

私は毘沙門天を祀っている山はかつて鉱山だったのではないかと考えているのだが、吉祥寺がある場所の地名を丹原という。
丹とは辰砂(水銀)のことである。
かつてこの地では辰砂が採掘されていたのではないだろうか。

● 柴水山宝塔院吉祥寺縁起

本堂前で手を合わせていると若いお坊様がやってきてお手製だというパンフレットをくださった。
(ありがとうございます!)
そこには次のような内容が記されていた。

816年、12月3日、空海は高野山の丑寅の方角に鬼門除けの毘沙門天を安置するため、高野山を下ると小高い山の山上に紫雲がたなびいているのをみて山に登った。  
すると生身の毘沙門天王が出現して、『ここは高野山の七里丑寅にあたる。私の姿を刻んでここに祀るように』と告げた。
空海が一夜で毘沙門天を刻むと、生身の毘沙門天王は姿を消した。  
空海はそこに堂宇を建立し、毘沙門天王の開眼にあたって身を清めようとしたが、山上には一滴の水もなかった。  
そこで『柴手水の法』をもちいて山内の檜葉をとり、印を結び真言を称えて身を清め、開眼供養をした。  
空海が『私はこれから高野山に伽藍を建立する。建立が成就すれば境内の樹木より檜葉を生えさせたまえ』と毘沙門天に誓って檜葉を投げると檜葉は木にかかり、そこから檜葉が生じた。
空海は『柴手水の法』から 『手』の一字を除いて『柴水山』と号し、毘沙門天が手に持つ宝塔を院号とし、脇立ちの吉祥天女の御名より柴水山宝塔院吉祥寺と名づけた。


●寅も百足もない

ここは日本三大毘沙門天王出現地霊場のひとつで、他のふたつは信貴山朝護孫子寺と鞍馬山鞍馬寺とされている。
私は朝護孫子寺も鞍馬寺もどちらも参拝したことがあるのだが、吉祥寺には朝護孫子寺や鞍馬寺にあるものがなかった。

朝護孫子寺には張子の虎があり、本堂の欄間には百足のレリーフがあった。
そして鞍馬寺のケーブルカーの乗り場には、百足を描いた茶碗などが展示されていて、本堂の前には狛犬の代わりに阿吽の虎の石像が置かれてあった。
しかしここには虎も百足も見当たらない。

毘沙門天がご本尊なのに脇立ちの吉祥天女の名前をとって寺名とするというのも不自然である。
吉祥天は毘沙門天の妻とされる女神である。

●井上内親王への信仰の厚い五條

五條は井上内親王に対する信仰の厚い土地であった。

井上内親王は光仁天皇の皇后で、ふたりの間には他戸親王があった。
771年、光仁天皇の皇太子に他戸親王がたてられた。
ところがその翌年の772年、井上内親王は光仁天皇を呪詛したとして皇后の位を剥奪された。
他戸親王も母・井上内親王に連座したとして廃太子となり、代わって山部王が立太子した。
井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡の没官(官職を取り上げられた人)の館、に幽閉され、775年に二人は幽閉先で逝去した。
その後、井上内親王は怨霊になったと考えられ、『本朝皇胤紹運録』には『二人は獄中で亡くなった後、龍となって祟った。』とあり、『愚管抄』には『井上内親王は龍となって藤原百川を蹴殺した。』と記されている。

また水鏡には『(井上内親王の祟りによって)777年冬、雨が降らず、世の中の井戸の水は全て絶えた。宇治川の水も絶えてしまいそうだ。12月、百川の夢に、百余人の鎧兜を着た者が度々あらわれるようになった。また、それらは山部王の夢にも現れたので、諸国の国分寺に金剛般若をあげさせた。』とある。

井上内親王と他戸親王が幽閉されたのは奈良県五條市須恵付近(五条駅南側)であるとされる。
須恵付近はかつて下馬町と呼ばれていて、ここを下馬せずに通行すると井上内親王の祟りで落馬すると言い伝えられていた。

また井上内親王は奈良から流される時、産屋峰(今の奈良カントリークラブ五条コースの辺り)で男児を出産したという。
男児は後に母と兄の怨みを晴らす為、雷神となったという伝説がある。

井上内親王の墓は奈良県五條市御山町にあり、吉祥寺から1kmも離れていない。

790年には井上内親王や早良親王を祀る御霊神社(御霊本宮)が、800年には霊安寺が創建されている。
その後、御霊本宮から分祀され、現在五條市内には23もの御霊神社があるという。
よほど井上内親王の怨霊は恐れられたらしい。

加えてこの地は高野山の東北、鬼門にあたっていた。
そのため、空海が井上内親王の霊をここから高野山方面に近づけないようにと建立したのが吉祥寺なのではないだろうか。

堂宇を建立した空海が清めようとしたが、山上には一滴の水もなかったというエピソードは興味深い。

『水鏡』には井上内親王の祟りによって、雨が降らず宇治川も涸れかかっていると記されている。
どうも井上内親王は旱魃をもたらす女神であったらしい。
吉祥寺・・・奈良県五條市丹原町914

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[2014/08/25 21:00] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)

蜘蛛の巣に住む観音 (東大寺 三月堂) 

東大寺 三月堂 百日紅
三月堂と百日紅

●不空羂索観音と土蜘蛛

728年、聖武天皇と光明皇后が幼生した基皇子の菩提を弔うために若草山麓に山房を設けて9人の僧を住まわせた。
この寺が金鍾寺である。
8世紀半ば、金鐘寺には羂索堂や千手堂が存在していた。
この羂索堂が現在の東大寺三月堂だと考えられている。
その後、741年に聖武天皇は国分寺建立の詔を発し、742年に金鐘寺は大和国の国分寺となり金光明寺と改められた。

東大寺 三月堂 鹿
三月堂と鹿

三月堂はもとは寄棟造正堂と礼堂の二つの建物からなっていた。
鎌倉時代に礼堂を入母屋造りに改築して2棟をつないだため、不思議な形をしている。
正堂は天平初期、礼堂は鎌倉時代の建築となる。
三月堂は現存する東大寺最古の建物である。

堂内には美しい天平仏たちが安置されている。
中央に安置されているのが三月堂御本尊の不空羂索観音である。
像高3.6メートルもある巨大な像で、宝冠には約2万粒の宝石がつけられている。 
三月堂・不空羂索観音 画像

不空羂索観音の四本ある左手のうち、下から二番目の手に羂索を持っておられる。

羂索とは狩猟の道具で、5色の糸をより合わせた縄の片端に環、もう一方の端に独鈷杵の半形をつけたものである。
不空羂索観音はその羂索であらゆる衆生をもれなく救済する観音であるといわれる。
同じく不空羂索観音をご本尊としている不空院(奈良市高畑町1365)を参拝したとき、「羂索とは網である」と説明を受けた。
私は不空羂索観音が羂索を投げる姿を想像してみた。
羂索の網はぱあっと広がって、まるで狂言や六斎念仏で演じられる土蜘蛛のようではないか。
清水寺 中堂寺六斎 土蜘蛛
そう思って改めて見てみると、不空羂索観音の光背は蜘蛛の巣に似ている。
不空羂索観音の腕は8本だが、蜘蛛の脚も8本である。
不空羂索観音とは土蜘蛛をあらわしたもので、その光背は蜘蛛の巣をイメージしたものなのではないだろうか。

土蜘蛛とは奈良時代の記紀や風土記に登場するまつろわぬ民のことである。
まつろわぬ民とは、謀反人のことであるといってもいいだろう。

不空羂索観音の肩にかけてあるケープのようなものは鹿の皮であるが、鹿もまた土蜘蛛同様、謀反人を比喩したものだとする説がある。

●志貴皇子暗殺説

以前、図書館で志貴皇子暗殺説について記された本を読んだのだが、本のタイトルや著者の名前を忘れてしまった。(申し訳ありません!)

その本には次のような内容が記されていた。

①日本書紀の仁徳天皇紀に『トガノの鹿』という物語が記されている。
雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。
雌鹿は夢占いをして、
『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』
と答えた。
翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。

かつて謀反の罪で殺された人は塩を振ることがあった。
トガノの鹿に登場する雄鹿は謀反人の比喩ではないか。

②萩は別名を『鹿鳴草』という。萩もまた謀反人を比喩したものではないか。

③笠金村が志貴皇子の挽歌を詠んでいる。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)

志貴皇子の邸宅跡と伝わる百毫寺(奈良市白毫寺町392)に萩が植えられているのは、この挽歌にちなむものではないか。

百毫寺 萩
百毫寺 萩
④笠金村は志貴皇子の挽歌を二首詠んでいる。
a.高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)
b.御笠山野辺行く道はこきだくも繁く荒れたるか久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)

aの歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせ、bの歌は志貴皇子の死が実は最近のことではなく、ずいぶん以前のことであったかのようである。
万葉集詞書によれば志貴皇子の薨去年は715年としている。しかし正史では716年となっていて1年ずれがある。
志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年ほど伏せられていたのではないか。

⑤のちに志貴皇子の子である光仁天皇が即位している。志貴皇子には皇位継承権があったのではないか。

これらの説を読んで、私はなるほど、そのとおりだろう、と思った。

①のトガノの鹿の物語は、鹿の夏毛には白い斑点があるのを、塩に見立てたものだと思う。
また白い萩も塩を振ったように見える。
萩には紫色の花もあるが、こちらは雌鹿をイメージしたものだと思う。
というのは次のような歌があって、恋する女性は紫色に喩えられていたように思われるからである。
紫は 仄(灰)さすものぞ つば市の 八十のちまたに 逢へる児や誰 /詠み人知らず
紫色に布を染めるには灰を媒染として用いていた。
灰をいれると布が紫色に染まるように、男にあったとたん、女がぽっと赤くなった、というような意味だろうか。
紫の 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも/大海人皇子
という歌もある。

⑤のちに志貴皇子の子である光仁天皇が即位していることから、志貴皇子には皇位継承権があったのではないか。
とあるが、これを裏付ける伝説が奈良豆比古神社にある。

『平城津彦神社由来』にはこのようにある。

大友皇子側についていた志貴皇子は壬申の乱の後は政治的に不遇で、その亡骸は奈良山の春日離宮に葬られた。 
志貴皇子の第二皇子である春日王(田原太子)はハンセン病を患い、奈良坂の庵で療養していた。
春日王の二人の息子、浄人王と安貴王(秋王)は春日王をよく看病していた。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)に長けており、ある日春日大社で神楽を舞い、父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、市場で売って生計をたてていた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。
のちに志貴皇子の皇子である光仁天皇が即位すると、志貴皇子は光仁天皇より『田原天皇』と追尊された。
田原天皇はまた春日宮天皇とも呼ばれたが、これは奈良坂に住んだ春日王のことと関わりがあるかもしれない。 


しかし『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』によれば、地元の語り部・松岡嘉平さんは次のような語りを伝承しているという。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。


ここに「志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった」とある。

●志貴皇子を暗殺したのは誰?

志貴皇子暗殺説の本には、志貴皇子を暗殺したのは誰か、については記されていなかったと記憶しているが、私は元正天皇が怪しいと思う。

というのは、万葉集詞書によれば志貴皇子は715年に薨去したとされているが、この年、元正天皇が即位しているからである。
志貴皇子には正当な皇位継承権があり、元正天皇自分が皇位につくために志貴皇子暗殺を企てたのではないだろうか。

元正上皇と舎人親王が贈答しあった歌が、万葉集にある。

あしひきの 山行きしかば 山人の 我に得しめし 山つとぞこれ/元正上皇
(山道を歩いていたところ、たまたま逢った山人が、私にくれた山の土産であるぞ、これは。)

あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰/舎人親王
(陛下は山へ行かれて山人に土産をもらったとおっしゃるのですか。「山人」とは誰のことなのでしょうか。山人とは陛下のことではありませんか。)


山人とは『山に住む人』『仙人』という意味だが、『いきぼとけ』とよんで『心や容姿の美しい女性』のことをさす言葉でもあった。

私はこの歌は志貴皇子の次の歌に対応しているのではないかと思う。

むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山の猟師(さつを)に 逢ひにけるかも/志貴皇子
(むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。)


大伴坂上郎女という人が次のような歌を詠んでいる。

大夫(ますらを)の 高円山に 迫めたれば 里に下り来る 鼯鼠(むささび)ぞこれ/大伴坂上郎女
(勇士たちが高円山で狩りをして、里に下りてきたむささびがこれです。)


大伴坂上郎の歌の中に『 高円山』とでてくるが、高円山には志貴皇子の墓がある。
つまり高円山に住むむささびとは志貴皇子のことである。
志貴皇子は自分自身をむささびに喩えて歌を詠んだのだろう。

元正上皇がいう『山人』とは志貴皇子、『山人がくれたみやげ』とは『志貴皇子の死』を意味しているのではないだろうか。

元正天皇が女の身でありながら皇位についたのは、弟の首皇子へ皇位をつなぐためであった。
首皇子を即位させることは、元正天皇の祖母・元明天皇の悲願だった。

707年、文武天皇が崩御すると、文武天皇の母親の安陪皇女は、文武天皇の子である首皇子へ皇位をつなぐために中継ぎの天皇として即位し元明天皇となった。
715年、首皇子はこのときまだ14歳と若く病弱であったこと、また藤原氏との対立などもあって、首皇子の同母姉の氷高皇女がやはり中次の天皇として即位して元正天皇となった。
724年、元正天皇の譲位を受けて首皇子が即位し聖武天皇となった。
727年、聖武天皇と藤原光明子の間に基王が生まれたが、基王は728年に夭逝してしまった。

聖武天皇や藤原光明子は基王が夭逝したのは志貴皇子の怨霊のせいだと考えたのではないだろうか。

想いだしてほしい。
三月堂は728年に聖武天皇と光明皇后が夭逝した基皇子の菩提を弔うために創建された金鐘寺の 羂索堂だったことを。
そして三月堂のご本尊・不空羂索観音の光背が蜘蛛の巣のように見え、手に持った羂索を投げる姿を想像すると、狂言や六斎念仏の土蜘蛛にそっくりであること。
不空羂索観音の肩には鹿革のケープがかけられており、鹿=謀反人をイメージさせることを。
三月堂の不空羂索観音は志貴皇子の怨霊封じ込めの像ではないだろうか。

●タケミカヅチの本地仏

鹿は春日大社の神使とされており、不空羂索観音は鹿皮のケープを身に着けている。
このようなところから、三月堂の不空羂索観音は春日大社の御祭神であるタケミカヅチの本地仏とされている。

春日大社は藤原氏の氏寺で、三月堂から歩いてすぐの場所にある。

本地仏とは本地垂迹説からくる言葉である。
日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うために仮に姿をあらわしたものであるとする考え方のことを本地垂迹説といい、日本の神仏習合のもととなった。
そして日本古来の神々のことを垂迹(権現ともいう)、日本古来の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏といった。

平たく言うと、春日大社の御祭神のタケミカヅチは不空羂索観音の生まれ変わりであると考えられていたということである。

それにしても不思議なのは、三月堂は東大寺のお堂で、東大寺は天皇家の寺であるのに、なぜ藤原氏の氏神である春日大社のタケミカヅチと習合されているのかということである。

三月堂の隣には東大寺の鎮守・手向山八幡宮があって、応神天皇・姫大神・仲哀天皇・神宮皇后・仁徳天皇を御祭神としている。
習合するのであれば、春日大社の神よりも、手向山八幡の神のほうがふさわしいように思えるのだが。

春日大社の御祭神は藤原氏の守護神であるタケミカヅチとフツヌシ、祖神であるアメノコヤネノミコトとヒメ神である。

アメノコヤネノミコトは天児屋根命と書くが、私は天児屋根命とは天智天皇のことではないかと考えている。
天児屋根命の『児』とは小さいという意味で、『小さな屋根の下にいる神』という意味になる。
そして天智天皇は
秋の田の かりほの庵の とまをあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の仮庵の屋根があらくて雨漏りがするので、私の衣の袖は露に濡れどおしだよ。)

と歌を詠んでいる。
仮庵の雨漏りのする屋根はそれは小さいことだろう。

天児屋根命は藤原氏の祖神なので、藤原氏は天智天皇の子孫ということになるが、『興福寺縁起』によれば藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけており、その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であるとしている。

とすれば、天智天皇が藤原氏の祖神というのは辻褄があう。

春日若宮様は1003年旧暦3月3日、第四殿(比売神)に神秘な御姿で御出現になったとされる。
当初は母神の御殿内に、その後は暫らく第二殿と第三殿の間の獅子の間に祀られ、水徳の神として信仰されていた。

私は春日若宮様とは春日宮天皇とも呼ばれた志貴皇子のことだと思う。
天皇の皇子であるし、春日という名前も一致している。

つまり、東大寺の三月堂と春日若宮は同じ神、志貴皇子を祀っているのである。
春日神社の神は他にタケミカヅチ・比売神がいるが、春日明神とひとくくりにされることが多い。
それで、三月堂の不空羂索観音は春日大社のタケミカヅチの本地仏であるなどと言われているのではないだろうか。

東大寺・・・奈良市雑司町

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[2014/08/19 20:00] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)

目のない白蛇 (龍泉寺) 

りゅうせんじ みずごり 
●目のない白蛇

洞川温泉に龍泉寺というお寺があり、次のような伝説がある。

昔、龍泉寺で働く男が村に住んでいた。
そこへ若い女が「一晩泊めてください」と言ってやってきた。
女はそのまま男の家に住みつき、ふたりは夫婦となり、子供が生まれた。
女は「子供にお乳を飲ませたり、添い寝する姿を見られるのが恥ずかしいので、家に帰ったときは必ず声をかけてください。」と男に告げた。
しかしあるとき、男は声をかけずに家の中に入った。
すると大きな白蛇が赤ん坊に添い寝していた。
「私は龍泉寺の池に住む蛇です。正体を知られたからにはもう夫婦ではいられません。
子供が泣いたらこれをなめさせてください。」
蛇はそういって自分の目玉をくりぬいて男に渡した。
子供は目玉をなめて育ったが、とうとうなめ尽くしてしまった。
すると龍泉寺の龍の口から白い蛇が現れ、もう片方の目玉を子供に与えた。
「私は、両目ともなくなってしまって二人の姿を見ることができないので、朝と夕にお寺の鐘を鳴らしてください。
その音を聞いて、二人のことを思い出します」
白蛇はこう言い残して消えた。


龍泉寺の近くには面不動鍾乳洞や五代松鍾乳洞がある。
鍾乳洞などの洞窟には洞穴生物(洞窟生物)が住んでいるケースがある。
洞穴生物は白っぽい色をしており、目がないものが多い。
龍泉寺の目のない白蛇伝説はこの洞穴生物をモチーフとして創作されたものなのではないだろうか。
洞川温泉という名前も、洞窟からくるのかもしれない。

●黄泉比良坂

そして龍泉寺の白蛇伝説から、私は記紀神話のイザナギといザナミの物語を思い出す。

イザナギは死んでしまった妻・イザナミを迎えに黄泉の国へいき、「愛する妻よ、国つくりはまだ終わっていない。一緒にもとの世界へ戻ってきてはくれないか」と頼んだ。
これに感激したイザナミは「黄泉の大王に相談するので、少し待ってください。その間決して振り返って私の姿をみないでくださいね」と言った。
しかしイザナギは我慢できなくなって振り返り、イザナミの姿を見てしまう。
イザナミの身体は腐り、蛆がわいていた。
それを見たイザナギは怖くなり、一目散に逃げ出した。


女が「姿を見ないでほしい」といったのに、男は約束を破ってその姿を見てしまうという点で、ふたつの物語は共通している。

イザナギとイザナミの神話は次のように続く。

イザナミは怒って黄泉の国の醜女にイザナギを追わせた。
イザナギが頭に付けていた黒い木のつるで作った輪を投げつけると、山葡萄が生えた。
醜女がやまぶどうを食べているうちにイザナギは逃げたが、醜女はまた追いかけてきた。
そこでイザナギは櫛の歯を折って投げつけた。
するとタケノコが生えた。
イザナギは醜女がタケノコを食べているすきに逃げた。
イザナミは黄泉の国の千五百もの化け物たちの軍隊を動員して後を追わせた。
イザナギは黄泉比良坂(黄泉の国の入り口へと降りる坂)までやってきて、そこに生えていた桃の木から身をもぎとって投げつけると化け物たちはみな逃げて行った。


山葡萄や筍が生えたというのが興味深い。
私はこの記述は鍾乳洞のようすを描いたものなのではないかと思う。

鍾乳洞には「ケイブパール」といって、丸い鍾乳石が見られる。
天井からしたたり落ちる水滴が水中の中の石を動かし、石と石がこすれることによって丸い形になる。
これが山葡萄の正体ではないか。

また「石筍」といって、下から柱のようにそそり立つ鍾乳石も見られる。
石筍はその字のとおり、筍のような形をしている。
これが筍の正体ではないだろうか。
昔の人は鍾乳洞をこの世とあの世を結ぶ道であると考えたのだと思う。

洞川温泉のあたりは、この世とあの世を結ぶ土地だと考えられ、龍泉寺の白蛇伝説は上記のイザナギとイザナミの物語をベースに作られたものだと私は思う。

●大峰山は黄泉の国

龍泉寺を出ると、東の方向に大峰山(山上ヶ岳)の姿が見えていた。
大峯山は修験道の修行の地であり、そのふもとにある洞川温泉のあたりは古くより宿場町として栄えていた。(温泉は近年ボーリングで掘り当てたものであるが)
鍾乳洞で有名な洞川温泉が黄泉の国への入り口であれば、大峯山は黄泉の国そのものという認識が古の人にはあったことだろう。

記紀神話に次のような物語がある。

大国主が根の国(黄泉の国)へ行き、根の国の大王・スサノオから様々な試練を与えられるが、最後にはスサノオから娘のスセリヒメと、刀と知恵を授かってこの世に戻る。

京都の法輪寺では4月13日に十三詣が行われている。
十三詣は13歳になった子供が法輪寺にお参りする行事だが、別名「知恵もらい」と呼ばれている。
法輪寺のご本尊・虚空蔵菩薩は知恵を授けてくださる神様として信仰されており、十三詣をすると虚空蔵菩薩より知恵を授かるといわれているのだ。
法輪寺の前には桂川が流れ、渡月橋がかけられている。
十三詣をした子供は渡月橋を渡りきるまで決して後ろを振り返ってはいけないという言い伝えがある。
後ろを振り返るとせっかく授かった知恵が台無しになってしまうのだと。

どうやら桂川は三途の川、その向こう側にある法輪寺はあの世に喩えられているらしい。

大峯山もまた法輪寺と同様、あの世に喩えられているのではないかと思う。
そして洞川温泉は黄泉の国への入り口だ。
明治まで神仏は習合されて信仰されていた。
スサノオと虚空蔵菩薩は習合されていたのだろう。
あの世である大峯山から戻ってくれば多大な知恵を授かる。
黄泉の国へいった大国主が黄泉の大王・スサノオよりスセリヒメと刀と知恵を授かってこの世に戻ってきたように。
大峯山修行はそういった信仰から生じたのではないだろうか。
洞川温泉・・・奈良県吉野郡天川村洞川
龍泉寺・・・奈良県吉野郡天川村洞川494

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[2014/08/05 20:00] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)

三つ鳥居の謎 (大神神社) 

おおみわじんじゃ ちのわ


●謎の三つ鳥居

大神神社の拝殿前に置かれた茅の輪が大雨でぐっしょりと濡れていた。
水無月晦日(6月30日)に茅の輪くぐり習慣があるが、茅の輪はひとつのみ、拝殿前に設置されるのが一般的である。
しかし大神神社の茅の輪は他とは違い、3つの輪が設けられていた。

大神神社には神殿はなく、拝殿より直接ご神体である三輪山を拝するという古い祭祀スタイルである。
残念ながら拝殿に遮られて見ることができないが、拝殿の向こう側には神殿のかわりに三ツ鳥居が置いてあるそうである。
写真→ (地図の三つ鳥居のところをクリックすると写真がでます。)
3つの輪が設けられた茅の輪は、この三つ鳥居のデザインを取り入れたものなのだろう。

ひばらじんじゃ みつとりい


上の写真は大神神社の摂社・檜原神社の三つ鳥居である。
大神神社本社の三つ鳥居もそうだが、これらの鳥居には扉がもうけられている。
一般的な鳥居には扉はなく、参拝者はその下をくぐって神域に入ることができる。
しかし扉が設けられた三つ鳥居の下を参拝者はくぐることはできない。
まるで参拝者の立ち入りを拒んでいるかのようでもある。

梅原猛氏は法隆寺は聖徳太子の怨霊封じ込めの寺で、法隆寺の中門の中央に柱があるのは聖徳太子の霊が表に出ないようにするための呪術的な仕掛けであると説かれた。
大神神社の三つ鳥居もまた、怨霊が外に出るのを防ぐ呪術的な仕掛けなのかもしれない。

●御魂・和魂・荒魂と幸魂・奇魂

大神神社の主祭神は大物主神だが、大己貴神おおなむちのかみ)とと少彦名神(すくなひこなのかみ)が配神されている。

大己貴神は出雲大社に祀られている大国主神の別名である。
記紀神話に次のような話がある。

「大国主の前に光り輝く神があらわれ、「私を祀るように」といった。
大国主が神に名を問うと「私はあなたの幸魂、奇魂」と答えた。
こうして祀られたのが、大神神社である。」


つまり、大神神社の主祭神・大物主神は、大国主命の幸魂、奇魂というわけである。

ウィキペディアの「荒魂・和魂」の説明によれば、
「和魂はさらに幸魂(さきたま、さちみたま、さきみたま)と奇魂(くしたま、くしみたま)に分けられる(しかしこの四つは並列の存在であるといわれる)。」とある。

しかし私は幸魂、奇魂という概念は古く、日本最古の神社であるとも言われる大神神社のみで用いられる言葉なのではないかと思う。
そしてその後、神をあらわす言葉としては御魂・和魂・荒魂という言葉が用いられるようになったのではないだろうか。
御魂は神の本質、和魂は神の和やかな側面、荒魂は神の荒々しい側面のことをいう。

そして女神は和魂を、男神は荒魂を表しているとする説がある。
とすれば御魂とは男女双体ということになるだろう。、



●大己貴神は女神だった?

大神神社の配神・大己貴神は大国主命の別名とされるが、大穴持命と記されることもある。
名は体を表すというが、大穴持命とは「大きな穴を持った神」ということで、大きな穴を持った神とは女神のことだと思う。

大己貴神(大穴持命)は大国主命の別名で、大国主命は男神だ。
大国主命はたくさんの女神を妻としているではないか。
そう思われるかもしれないが、日本の神は性別がルーズで、聖徳太子が親鸞に「女に生まれ変わってあなたの妻になりましょう。」と言ったという話もある。

おそらく荒魂=男神、和魂=女神とする概念から、同じ神でも荒魂として現れるときには男神、和魂として現れるときには女神ということなのだろう。

そして大己貴神と同様、大神神社に配神されている少彦名神はその名前から男神だろう。

記紀神話によれば大己貴神と少名彦名神はきょうだいの契りをかわしてともに国つくりをしたというが、他にもきょうだいで国造りをした神がいる。
イザナギとイザナミである。
イザナギとイザナミは兄妹で夫婦となって国産み、神産みをした。
その後、死んだイザナミを黄泉の国まで迎えにいったイザナギは次のように発言している。
「愛しい妻よ、帰ってきておくれ。国造りはまだ終わっていない。」

イザナギは少彦名神と同一神、イザナミは大己貴神(大穴持命)と同一神ではないだろうか。
とすれば、やはり大己貴神(大穴持命)は女神だということになる。

大国主命の幸魂が女神の大己貴神(大穴持命)、奇魂が男神の少彦名神で、大己貴神(大穴持命)と少彦名神の男女双体の神が大神神社の主祭神・大物主命なのではないかと思う。

● 神殿はおろか拝殿さえも作ることを拒んだ神

大神神社の御祭神・大物主神は出雲大社の大国主命の幸魂・奇魂とされていることはすでに述べたが、出雲大社の大国主命のほうは、天照大神が派遣したタケミカヅチに「国を譲れ」と迫られて、大きな神殿を作ることとひきかえに国を譲ることを許諾している。
さらに、大国主命は「神殿を作ってくれれば自分は黄泉の国からでない」とも言っている。

しかし「国を譲れ」といわれて「はい、どうぞ」と国を差し出す国王がいるだろうか。
実際には大国主命とタケミカヅチは壮絶な国撮り合戦を繰り広げたのではないだろうか。

そして「大神神社の大物主神は神殿はおろか、拝殿すらも作ることを拒んだ。」ということを聞いた記憶がある。

大物主神と大国主命の発言は対照的である。
大国主命・・・神殿を作ってくれれば国を譲り、黄泉の国から出ない。
大物主神・・・神殿はおろか、拝殿もいらない。


大物主神が「神殿はおろか拝殿もいらない」と言ったということは、「私は死んで黄泉の国へ好くのはまっぴらだ。国は譲らない。」という意味なのではないだろうか。

神武が東征して畿内入りするより以前、畿内にはニギハヤヒという神が天の磐船を操って天下っていたと記紀には記されている。
ニギハヤヒとは物部氏の祖神でここから神武以前、畿内には物部王朝があったとする説がある。

ニギハヤヒは別名を天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまの ほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)という。
そして大神神社の御祭神・大物主は別名を倭大物主櫛甕魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)という。
櫛と玉(魂)が一致するので、二神は同一神ではないかとする説がある。

大物主神の「物」とは「物部氏」を意味しているのではないだろうか。

そして大神神社の三つ鳥居は、御魂(大物主神)・幸魂(大己貴神)・奇魂(少彦名神)の三柱の神々の怨霊を封じ込める神殿のかわりとして置かれているのではないかと私は思う。

次回につづきます。
大神神社・・・奈良県桜井市三輪1422
出雲大社・・・島根県出雲市大社町杵築東195

 
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[2014/07/14 21:00] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)

蛙と髑髏 (金峯山寺 蛙跳神事) 


舞妓らが浴衣姿で芸向上祈る
上記記事によれば、祇園の芸妓さん、舞妓さんたちが7月7日、八坂神社を詣でて芸の向上と無病息災を祈る「お千度」という行事が行われたそうである。
芸妓さん、舞妓さんたちは柳とカエルを描いたそろいの浴衣を着ていた、という点に興味をひかれた。
七夕と蛙は関係が深いのである。

七夕の日、金峯山寺蔵王堂において蛙跳神事が行われた。
大きな蛙の面を被った人が四つん這いになってぴょんぴょんと跳ぶのを見て、私は思わずつぶやいた。
「空飛ぶ髑髏だ!」

かめいし


飛鳥の亀石は亀ではなく蛙であるとも言われている。

ぬらりひょん


上の写真は妖怪ストリート(京都一条 大将軍商店街)の店先に置いてあった妖怪「ぬらりひょん」の人形である。
ぬらりひょんの異様に大きな細長い頭部は亀石にそっくりである。
眉間に半月形の皺があるところまで同じである。

世界中に頭部を細長く頭蓋変形する習慣があり、現在でも頭蓋変形を行っている民族もいる。
ウィキペディアの「頭蓋変形」のページに頭蓋変形を受けたインカの頭蓋骨の写真がある。
亀石はこの頭蓋変形を受けた頭蓋骨にもそっくりである。

また、平将門の首塚には蝦蟇(蛙)の置物がたくさん奉納されているが、平将門の首は京で晒されたのち東に向かって飛んだという伝説がある。

蝦蟇の置物が奉納されているのは「無事帰る」の語呂合わせだと言われているが、私は蝦蟇(蛙)の形が頭蓋骨に似ているからではないかと考えている。

蛙跳び神事が終わり、付近を散策していたところ「脳天大神→」と記された看板を見つけた。
脳天大神というネーミングにひかれ、→の方向に向かって谷をおりていくと谷底に脳天大神があった。
そこに狛犬のかわりに置かれてあったのは、なんと狛蛙だった。




脳天大神は金峯山寺の塔頭で正しくは龍王院といい、蔵王権現の化身である頭を割られた蛇を祀ったのだという。
そして首から上の守護神として信仰されている。

その脳天大神に狛蛙が置かれているのはなぜなのだろうか。
それはやはり蛙=蝦蟇は頭蓋骨を比喩したものだからなのではないだろうか。

かつてお盆は7月15日を中心とした行事で7月7日の七夕はもともとはお盆の行事だった。
お盆にはあの世から先祖の霊が戻ってくると考えられていた。
言い換えれば、お盆とは先祖の霊が復活する季節だということである。

江戸時代に弾圧を受けて消滅したとされる真言宗の一派に立川流があった。
立川流では髑髏に漆や和合水を塗り重ねて髑髏本尊を作り、これを袋に入れて7年間抱いて寝ると8年目に髑髏本尊が命を持って語りだすと信仰されていた。
「髑髏本尊が命を持って語りだす」ということは「髑髏が復活する」ということであり、復活に髑髏はかかせない呪具だと考えらえていたのではないだろうか。

金峯山寺蔵王堂・龍王院/奈良県吉野郡吉野町吉野山
蛙跳神事/7月7日

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[2014/07/07 21:00] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)

矢田の神と春日明神(矢田寺) 

やたでら じゅうさんじゅうのとう

雨の中、私は傘をさして矢田寺の参道を歩いていた。
満開の紫陽花の花の中に埋もれるようにしてお堂が立ち並んでいる。
本堂の中央には地蔵菩薩、向かって左には吉祥天、向かって右には十一面観音が祀られていた。

地蔵菩薩は一般的には、右手に杖、左手に如意宝珠を持った姿で表されるが、矢田寺の地蔵菩薩のほとんどが右手の親指と人差し指を結んだ独特のスタイルで、『矢田型地蔵』と呼ばれている。
右手の親指と人差し指を結ぶ印は阿弥陀仏によく見られるもので、矢田型地蔵は阿弥陀仏の徳を併せ持った地蔵菩薩として厚く信仰されている。

『矢田寺地蔵縁起』には次のような説話が記されている。

「嵯峨天皇の御世、小野篁(802~852)という役人がいた。
小野篁は、身は現世のものだが、魂は閻魔(えんま)大王に仕えていた。
ある時、閻魔大王が篁に言った。
『自分には三熱の苦しみがある。この苦しみから離れるために菩薩戒を受けたいので、適任者を探してほしい。』と。
篁は適任者は矢田寺の満慶上人以外ないと考え、満慶上人を閻魔庁に案内した。
閻魔大王は満慶上人から菩薩戒を受け、そのお礼にと満慶上人を地獄に案内した。
満慶上人は、地獄の燃えさかる炎の中で、生身の地蔵菩薩に会った。
地蔵菩薩は『苦果を恐れるものは我に縁を結ぶべし。わが姿を一度拝し、わが名を一度唱える者は必ず救われる。』とおっしゃって亡者の身代わりとなって地獄の責め苦を受けておられた。
矢田寺へ戻った満慶上人は仏師に地蔵菩薩の姿を刻ませたが、思うように彫ることができなかった。
ある日、4人の翁があらわれ、大きな桐の木を用いて3日3晩のうちに地蔵菩薩を彫り上げた。
それは満慶上人が地獄で出会った地蔵菩薩そのままのお姿だった。
4人の翁は『我らは仏法守護の神である。』と告げて、五色の雲に乗って奈良の春日山へと飛び去った。
そのため、矢田寺の地蔵菩薩は、春日四社明神(春日大社の神)化身の作と伝えられている。
また満慶上人は、閻魔大王より手箱と印文を授けられた。
この手箱には米が入っており、使っても使っても常に米が箱いっぱいに満ちていた。
ここから人々は満慶を満米上人と言うようになった。」

『矢田寺地蔵縁起』に登場する小野篁は「昼間は宮中に、夜は閻魔庁に仕えた」という伝説があり、京都の六道珍皇寺には篁が閻魔庁へ通うのに用いたという井戸が残されている。
小野篁にはなぜこのような伝説があるのだろうか。

小野篁は平安時代の官僚で遣唐副使に任命されたが、仮病を使って出航しなかった。
というのは、篁の船と遣唐大使・藤原常嗣の船を交換するよう命じられたのだが藤原常嗣の船は壊れていたからだった。
さらに遣唐使事業や朝廷を批判する漢詩を詠んだため、嵯峨天皇の怒りを買って隠岐へ流罪となった。
しかし篁は2年ほどで許されて帰京している。

古の人々は都をこの世、都の外をあの世に喩える風潮があったという。
当時の人々にとって、都から離れた孤島である隠岐はまさしくあの世だという認識があったことだろう。
そして篁はあの世である隠岐からこの世である都へ戻ってきた。
このようなところから生じた伝説であるのかもしれない。

さて、『矢田寺地蔵縁起』によれば矢田寺のご本尊の地蔵菩薩は春日四社明神が刻んだものであるとしているが、春日四社明神とは藤原氏の守護神・タケミカヅチとフツヌシ、藤原氏の祖神・アメノコヤネノミコトとヒメ神である。

私はアメノコヤネノミコト(天児屋根命)とは天智天皇のことだと考えている。


天児屋根命の『児』とは小さいという意味で、『小さな屋根の下にいる神』という意味になる。

そして天智天皇は
秋の田の かりほの庵の とまをあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の仮庵の屋根があらくて雨漏りがするので、私の衣の袖は露に濡れどおしだよ。)
と歌を詠んでいる。
仮庵の雨漏りのする屋根はそれは小さいことだろう。

天児屋根命は藤原氏の祖神だとされている。
ということは藤原氏は天智天皇の子孫だということになるが、大変流布した噂話に『藤原不比等は天智天皇の後胤である』というものがあり、辻褄はあう。
それによれば藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいるが、その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったというのである。


矢田寺は天武天皇が矢田の神に壬申の乱の勝利祈願をし、それが叶えられたお礼とし創建した寺と伝わっている。

壬申の乱とは672年におきた内乱で、天智天皇が崩御したのち、天智天皇の弟・大海人皇子と天智天皇の皇子・大友皇子が皇位継承をめぐって争った。
叔父と甥が戦争をしたわけである。
結果、大海人皇子が勝利して即位し(天武天皇)、大友皇子は自害して果てた。

矢田寺の地蔵菩薩は、春日四社明神(春日大社の神)化身の作だと伝えられているが、春日四社明神のうち、一柱は天児屋根命=天智天皇だ。

その天智天皇を含む春日明神が、天武天皇が創建した矢田寺の地蔵菩薩を刻んだとはどういうことだろうか。

私は矢田寺は天智天皇の怨霊を慰霊するための寺ではないかと考えている。
天武天皇は天智天皇の怨霊を畏れたことだろう。
「自分は兄・天智の子である大友皇子を自殺に追い込んで、皇位についた。
兄(天智)は自分の子(大友皇子)を皇位につけたいと考えていた。
死んだ天智の霊は怒り、自分に祟りをもたらすのではないか」と。
そこで天智の怨霊を慰霊する必要性を天武は感じたのだろう。
そして祟り神は神として祀り上げると守護神に転じると考えられていた。
平安時代に春日四社明神が矢田寺にあらわれたというのは、祟り神であった天智が守護神に転じた姿なのだろう。

そう考えると、満慶上人のもとに春日四社明神があらわれた理由が理解できる。
矢田寺でお祀りされていたのは天智天皇=春日四社明神だったのである。
矢田寺・・・奈良県大和郡山市矢田3506




この記事を読んで2017年6月13日にメールをくださった方、ありがとうございました。
返事をおくろうと思いましたが、メールを送ることができませんでした。

天児屋根命=天智天皇であることの説明をしてほしいとのことですが、本文ピンク色の部分に理由を書いております。

再度、お読みいただけると嬉しいです。

よろしくお願いします。




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[2014/06/20 21:00] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)

皇位継承の糸を括る女神(岩船寺) 

がんせんじ じゅうさんじゅうのとう
岩船寺 十三重石塔

岩船寺は729年、聖武天皇の勅願により行基が創建したと伝わっているが、この年『長屋王の変』が起こっている。
その後、岩船寺には次々と堂塔が建立されているが、それぞれ天皇の誕生年、もしくは即位年と重なっている。

①806年、空海の甥・智泉大徳が伝法灌頂(密教の儀式)の道場として報恩院を建立・・・806年、平城天皇が即位。

②813年、嵯峨天皇が堂塔伽藍を整備・・・810年 嵯峨天皇の第二皇子・仁明天皇が誕生。
※813年の堂塔伽藍の整備は、嵯峨天皇が仁明天皇の誕生を感謝して行ったものだと寺伝にはっきりと明記されている。

③承和年間(834~847) 仁明天皇が智泉大徳を偲んで三重の塔を建立・・・833年 仁明天皇即位。

④946年 阿弥陀如来像が作られる・・・946年、村上天皇が即位。

私は前回の記事「天邪鬼の叫び(岩船寺」)において、岩船寺は長屋王の怨霊を鎮めるために創建された寺ではないかと述べた。
岩船寺は729年、聖武天皇の勅願により行基が創建したと伝わっているが、この年『長屋王の変』が起こっているからだ。

『長屋王の王の変』は藤原氏の陰謀によるものと考えられている。
その後737年に藤原四兄弟は天然痘にかかって相次いで死亡し、長屋王の怨霊の祟りであると噂された。
長屋王は怨霊として畏れられていたのである。

長屋王の邸宅は現在のイトーヨーカ堂奈良店のあたりにあった。
イトーヨーカ堂になるまえはそごう奈良店だったのだが、そごうは倒産したため、イトウヨーカ堂が出店したのだ。
そごうが倒産して閉店となったとき、「そごうが倒産したのは長屋王の祟りである。」という噂が流れた。
死後、1000年以上たっても祟るとは、長屋王の怨霊、恐るべし。

荒ぶる怨霊は神として祭り上げればご利益を与えてくださる和霊に転じるという、なんとも身勝手な信仰がかつての日本にはあった。

平城天皇、仁明天皇、村上天皇らは長屋王に皇位継承祈願をし、それがかなえられたとして岩船寺に堂塔を建てたのではないだろうか。

さてそごうデパートを建設するにあたり、建設予定地で奈良文化財研究所による発掘調査が行われた。
ここから大量の木簡群(長屋王家木簡)が発見されたのだが、その木簡の中に「長屋王」ではなく「長屋親王」と記されたものがある。
ここから、長屋王は実際には長屋親王であり、皇位継承権があったとする説がある。
皇位継承祈願には皇位継承に敗れた人物に祈願するのが最も効果があると考えられていたのかもしれない。

本堂を出て、私はもう一度白山神社を参拝することにした。
私は「乱れた糸を括る女神(白山神社)」において、次のように述べた。

①白山神社は729年に創建されたもので、岩船寺の鎮守として柿ノ本二丸が社殿を造り、行基がイザナミを勧請した。
②白山神社の御祭神はイザナミだが、全国のほかの白山神社はククリヒメを御祭神としている。
③イザナミとククリヒメは同一視されたものと考えられる。
④ククリヒメは乱れた糸をくくり整え、仲を取り持ち和す神であると信仰されている。

白山神社が創建された729年は岩船寺の創建年と同じで、この年、長屋王が自殺している。

そして、女神は和霊を、男神は荒霊を表すとする説がある。
とすればイザナミ=ククリヒメは長屋王の和霊である。
ククリヒメは乱れた糸をくくり整えるというが、その糸とは皇位継承の糸なのだろう。

がんせんじ ふどうみょうおう あじさい
岩船寺 石室(不動明王立像)
岩船寺・・・京都府木津川市加茂町岩船上ノ門43


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[2014/06/14 21:00] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)

妖怪がこぜ(元興寺)  

元興寺 ハルシャギク
元興寺 ハルシャギク

元興寺の境内にはオレンジ色のハルシャギクが咲き乱れており、花の間からたくさんの石仏が見え隠れしていた。
ハルシャギクは中心が紅色、周囲がオレンジ色の蛇目模様になっているので別名を蛇目草という。

蛇目というのは蛇の目のことである。
蛇といえば、『日本霊異記(822年ごろに成立)』に記された元興寺の伝説を思い出す。
その伝説の中に『頭に蛇を巻いた童子』が登場するのである。

敏達天皇(在位572-585)の頃、尾張国阿育知郡片輪里(現・愛知県名古屋市中区古渡町付近)の農家に、落雷と共に雷神が落ちてきた。
農夫が殺そうとしたが、雷神は『命を助けてくれるならば雷神のように力強い子供を授けよう。』と言った。
そこで農夫は雷神を殺さずに、空へ返した。
やがて農夫の妻が子供を産んだが、その子供は頭には蛇が巻きついた異様な姿であった。
成長した子供は元興寺の童子になった。
そのころ元興寺では連日童子たちが鬼に殺されるという事件がおきていた。
ある夜、童子が鐘楼で待ちぶせていると鬼が現れたので、鬼の髪の毛を掴んで引きずり回した。
髪をむしりとられた鬼は逃げ去り、童子はその後を追ったが、鐘楼の北東に当たる辻子の辺りで鬼を見失った。
童子は鬼が急に姿を消したことを不審に思った。
ここからこの辻子は『不審ヶ辻子』と呼ばれるようになった。
今も元興寺の北東に不審ヶ辻子町という町名が残っている。
血痕を辿って行くと、不審ヶ辻子の北東の鬼棲山の墓にたどりついた。
それは昔元興寺で働いていた下男の墓であった。
鬼棲山は現在の奈良ホテルのあたりとされる。
この鬼は『がこぜ(元興寺という漢字があてられる)』『がごじ』『ぐわごぜ」などと呼ばれる妖怪である。
その後、元興寺の田に水を引こうとしたとき、王族によって妨害されるという事件がおきた。
このときもこの童子の活躍によって無事水をひくことができた。
そのため童子は出家・得度することを許されて、道場法師と呼ばれた。
道場法師は尾張の国に元興寺(願興寺)を創建し、奈良の元興寺の支院とした。


頭に蛇を巻いた童子とあるが、興福寺の八部衆のひとつ、沙羯羅像(さからぞう)は頭に蛇を巻いた姿をしている。(写真→ 

この物語には大きな矛盾がある。

元興寺は飛鳥にあった法興寺を前身とするが、法興寺が建立されたのは587年の丁未の乱(蘇我馬子vs物部守屋の戦い)以降のことである。
718年、法興寺は平城遷都に伴って奈良に移転し、元興寺と称するようになった。
伝説では敏達天皇の頃の話だとしているが、敏達天皇の在位は572年-585年である。
敏達天皇の御世、法興寺も元興寺もなかったのである。

あえて寺の創建年と時代の合わない天皇の御世の話だとしたのは、妖怪・元興寺の正体が、敏達天皇代の人物の怨霊であることを示唆しているのではないだろうか。

敏達天皇に仕えた人物で、元興寺に関係する人物に蘇我馬子がいる。
蘇我馬子が元興寺の前身である法興寺を飛鳥に建てたのは廃仏派の物部守屋との戦いに勝利したためだった。

このとき、馬子とともに戦った厩戸皇子(のちの聖徳太子)は『守屋との戦いに勝利したのは、四天王のご加護のおかげである。』として摂津国難波(大阪市天王寺区)に四天王寺を建立した。

四天王寺 ライトアップ-月 
四天王寺 五重塔

その四天王寺の境内、絵堂の横には、聖徳太子や蘇我馬子と戦って戦死した物部守屋を祀る社があり、守屋祠・願成就宮と呼ばれている。

四天王寺は聖徳太子が物部氏の土地を没収し、物部氏の部民を使役して建てられた。
そして四天王寺が完成したのは、これを守屋の霊が許し、また助けたためであるとされ、願いが成就できたとして、守屋を祀ったのだという。
守屋祠が願成就宮と呼ばれているのはそのためである。

守屋祠の存在は、人々が物部守屋の怨霊を大変怖れていたということを示すものでもある。
人々が守屋を神として祀ったのは、人々が守屋の怨霊の祟りを畏れたためだとも考えられるからである。

そして四天王寺と法興寺はどちらも物部守屋との闘いに勝利したことをみほとけに感謝して建てられている。

現在の飛鳥寺(法興寺)には守屋を祀る神社は見当たらないが、近所に飛鳥坐神社があって、ここに守屋の霊が祀られているのではないか、と私は考えている。

飛鳥坐神社の御祭神の一に大物主神があるからだ。
大物主神は正式名称を倭大物主櫛甕魂命という。
そして物部氏の祖神であるニギハヤヒは先代旧事本紀によれば天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと) となっており、倭大物主櫛甕魂命と天火明櫛玉饒速日天照国照彦尊は『櫛』『魂(玉)』が同じなので、同一神ではないか、という説がある。
とすれば、大物主神とは物部氏の神だということになる。

そして大物主神は蛇神だとされており、大物主を祀る奈良県桜井市の大神神社には蛇の好物の玉子が供えられている。
物語に登場する頭に蛇を巻いた童子は物部氏の神(霊)、物部守屋の霊なのではないだろうか。

陰陽道では荒ぶる怨霊(荒霊)は神として祀り上げるとご利益を与えてくださる和霊に転じると考えるのだという。

また神はその現れ方によって御霊・和霊・荒霊の三つに分類される。
神の和やかな側面を和霊、神の荒々しい側面を荒霊、神の本質を御霊という。
頭に蛇を巻いた童子が和霊で、がこぜは荒霊であるが、その本性である御霊は物部守屋なのではないだろうか。

御霊・・・神の本質・・・・・・・物部守屋
和霊・・・神の和やかな側面・・・道場法師(頭に蛇を巻いた童子)
荒霊・・・神の荒々しい側面・・・がこぜ

つまり守屋は自分で自分を退治したのである。

記紀に次のような話があって、大国主神と大物主神も同一神だと考えられる。
大国主の前に海の向こうから光り輝く神があらわれて『私を祀るように』と言った。
大国主が神に名前を問うと『私はあなたの幸霊・奇霊』と答えた。
こうして祀られたのが大神神社である。

従って、大国主神=大物主神となる。

大国主が大物主を祭ったというのは、『自分で自分を祀った』ということである。
『自分で自分を祀る』とは、『自分で自分を殺して神として祀る』『自分で自分を退治した』という意味なのではないだろうか。

もちろん、『自分で自分を殺して神として祀る』なんてことは普通はできない。
物部守屋は自ら死を選んだのではなく、蘇我馬子や聖徳太子によって殺されたのだ。(実際に守屋を矢で射たのは迹見赤檮)
『守屋は自ら死を選んだ』などというのは怨霊を畏れる人の自分勝手な考え方に他ならないと私は思う。

元興寺では節分には、『福は内、鬼も内』と言って豆を撒く。
福とは道場法師のことだろうが、鬼である『がこぜ』もまた道場法師のことなのだろう。

それで、元興寺では『鬼は外、福は内』でもなく、『福は内、鬼も内』といって豆撒きをするのではないだろうか。


元興寺・・・奈良県奈良市中院町11

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[2014/06/07 21:00] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)

男女双体の神 (海石榴市観音堂) 

海柘榴観音付近
海石榴市観音付近

古代、海柘榴市観音堂のあたりは多くの道が交わる交通の要所で、『海石榴市(つばいち)』と呼ばれる市がたっていた。
たいそう賑やかな場所だったのだろう。
しかし今は民家と田んぼと畑があるばかりで、境内には小さなコンクリート造りのお堂が建っているだけである。

境内の入り口付近には万葉歌碑があり、2首の万葉歌が刻まれていた。

紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰
(媒染剤の灰をいれると布がぱっと紫色に染まりまるように、私を見て顔を赤らめた海柘榴市の辻で出会った貴女。貴女の名前を教えていただけませんか。)

たらちねの 母が呼ぶ名を 申さねど 道行き人を 誰と知りてか
(母が呼ぶ私の名をお教えしたいけれども、通りすがりの人が誰かは分からないのでお教えできません。)  


古代、海石榴市には歌垣という習慣があった。
歌垣とは歌をかけあいながら男女が交わるという、古代のフリーセックスの習慣のことである。

万葉歌には『八十のちまたに』とあるが、八衢神という神さまがいる。
八衢神は道祖神と習合されており、八衢神と道祖神は同一神だと考えてもいい。

昔から道の分岐点には道の守護神として道祖神が祀られる習慣があった。
道祖神は陰陽物を象ったり、手をつなぎあう男女双体の神像として作られた。
一般的に男の神様はサルタヒコ、女の神様はアメノウズメだと言われている。
道祖神は『別れ道』を司る神なので、男女の出会いや別れをも司る神だと考えられたのだろう。

なぜサルタヒコとアメノウズメが道祖神なのだろうか。
それは記紀神話の天孫降臨のシーンによるものだろう。

天孫ニニギの葦原中国降臨の際、天上の道が八衢に分かれている場所に立ち、高天原から葦原中国までを照らす神があった。
アメノウズメが名を尋ねると『私は国津神で猿田彦神と申します。ニニギを葦原中国まで道案内しようと思い参りました』と答えた。


サルタヒコは高天原から芦原中国までを照らす神とあるが、これにぴったりな神名を持つ神様がいる。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)、である。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊という神名は先代旧事本紀の記述で、記紀では単にニギハヤヒとなっている。

初代神武天皇はもともとは日向に住んでいたが、あまりに国の端なので東征の旅にでた。
その際、シオツチの翁が「東にはニギハヤヒがすでに天の磐船を操って天下っている。」と発言している。
ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武以前、畿内には物部王朝があったとする説がある。

記紀には天照大神は女神であると明記されているが、天照大神は男神であるという伝承は各地に伝わってる。
天岩戸に籠もったアマテラスはアメノウズメのストリップに興味を持って外に出てきているが、女性のストリップを喜ぶのは男だ、よってアマテラスは男神だという説もある。
そこで、本当の天照大神とは天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=ニギハヤヒではないかとも言われている。

話の続き。

こうしてニニギは猿田彦神に道案内されて葦原中国の日向の宮へと天下った。
その後、ニニギは天鈿女に『猿田彦神をもともと彼が住んでいた伊勢へと送り届け、猿田彦神の名前を伝えて仕え祭れ』と命じた。
ここから天鈿女は猿女君と呼ばれるようになった。
のちに猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市))の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死んだ。(古事記)


私はこのサルタヒコ&アメノウズメの話は、仏教の神・大聖歓喜天の伝説に似ていると思う。、

インドのマラケラレツ王は大根と牛肉が大好物であった。
牛を食べつくすと死人の肉を食べるようになり、死人の肉を食べつくすと生きた人間を食べるようになった。 
群臣や人民は王に反旗を翻した。
すると王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまった。 
その後国中に不幸なできごとが蔓延し、それらはビナヤキャの祟りであるとされた。
そこで十一面観音はビナヤキャの女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われた。
ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、『自分のものになれ』と命令した。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓った。 


相手の足を踏みつけているほうが、十一面観音の化身ビナヤキャ女紳である。(図→
また、中国には伏羲と女媧という男女双体の神様もいる。
人頭蛇体で、伏羲の右手と女媧の左手が繋がってる。(図→

私は道祖神と大聖歓喜天、伏羲&女媧は習合されているのではないかと思う。

ニニギは猿田彦神に道案内されて葦原中国へ天下ったのち、天鈿女に『猿田彦神をもともと彼が住んでいた伊勢へと送り、彼の名前を伝えて仕え祭れ』と命じている。
『彼の名前を伝えて仕え祭れ』というのは、ニニギは天鈿女に『猿田彦と結婚せよ』と命じたということだろう。

次にニニギは天鈿女に『猿田彦神に仕え祭れ』と命じているが『仕える』というのは『性的に奉仕する』ということだと思う。
天鈿女は天照大神が天岩戸に隠れたときにはストリップをして神々を笑わせている。
また猿田彦神に出会ったときにも胸を開き、帯をずらして誘惑している。
アメノウズメはセックスの女神なのである。

そして『祭る』というのは『神として崇める』ということだが、かつて怨霊と神は同義語であったといわれる。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、天災や疫病の流行は怨霊の仕業でひきおこされると考えられていた。
そこで怨霊が祟らないように神として祀ったのである。
怨霊を慰霊したものを御霊という。
ということは、ニギハヤヒ=猿田彦は怨霊だったということである。
神武以前に物部王朝があったのだとしたら、物部氏の祖神であるニギハヤヒは怨霊だといえるだろう。
物部王国は神武によって滅ぼされたと考えられるからだ。

サルタヒコは伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝に手を挟まれて溺れ死んでいる。
貝は女性器を比喩したものだろう。
つまり、サルタヒコはアメノウズメの女性器に手を挟まれて抜けなくなり、愛欲に溺れて死んだのだ。

サルタヒコとアメノウズメは手を繋ぎあっているのではなく、アメノウズメによってサルタヒコの手がおさえつけられ、身動きできなくなった状態を表しているのだと思う。

大聖歓喜天は女神が男神の足を踏みつけているが、中国の伏羲&女媧や、日本の道祖神は女神が男神の手を握って押さえつけているのだろう。
日本の道祖神の中には、大聖歓喜天のようにアメノウズメがサルタヒコの足を踏みつけているものや、和合した姿のものもある。
足を踏みつけるとか、手を押さえつけるというのが、男女和合を表すサインであるということは言うまでもない。

そしてサルタヒコは伊勢でなくなっているが、伊勢には天照大神を祀る伊勢神宮がある。
サルタヒコの故郷とは伊勢神宮であり、サルタヒコが本当の天照大神だということなのだろう。

いや、サルタヒコとアメノウズメの男女双体の神が天照大神だと言ったほうがいいだろうか。
それで天照大神は女神として登場したり、男神として登場したりするのではないだろうか。

天皇家は天照大神の子孫だとされているが、本当の天照大神は猿田彦=ニギハヤヒと天鈿女の男女双体の神なので、物部氏は天照大神の子孫だということになるだろう。

天皇家の始祖は物部王朝の入り婿になることで、政権を手中にしたのではないだろうか。
そうであれば天皇家が天照大神の子孫だと称しても嘘ではない。

記紀神話には入り婿になる話がやたら多い。
神武の先祖であるニニギも、山幸彦も入り婿になっている。

前回の記事「紀氏の祖神・ソサノオ」 で、スサノオの八俣の大蛇退治伝説について紹介した。

八俣の大蛇を退治したスサノオはクシナダヒメと結婚して根之堅洲国へ行くが、根之堅洲国とは死後の国のことである。
結婚した二人がなぜ死後の国へ行ったのか。
それは、男神=荒霊、女神=和霊で、男女が和合するということは、荒霊を鎮める呪術であったからだと私は述べたが、今日の記事でそのことがご理解いただけたことと思う。

コンクリート造りの海石榴市観音堂の格子扉から中を覗くと、聖観音と十一面観音の二体の石像がお祭りされていた。

海柘榴観音


聖観音はビナヤキャまたはサルタヒコ、十一面観音はビナヤキャ女神(ビナヤキャ女神は十一面観音の化身)またはアメノウズメを表しているのではないだろうか。

海石榴市観音堂・・・奈良県桜井市金屋

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[2014/06/06 21:00] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)

幻の八角七重塔 (西大寺) 

 
西大寺 皐月

西大寺 皐月


西大寺の四天王像は孝謙上皇が藤原仲麻呂の乱平定を祈願して発願したものであると伝わる。
そのご利益があったのか、藤原仲麻呂の乱は無事平定され、孝謙は重祚(再び皇位につくこと)した。(称徳天皇)
そして乱の翌年の765年、称徳天皇(=孝謙上皇)がその四天王像を安置するために創建したのが西大寺である。

西大寺の本堂前に東塔跡がある。

西大寺 東塔跡

四角い基壇がそれであるが、基壇の周囲は八角系の形に柵がめぐらされている。
東塔は当初は八角七重の塔を作る計画であり、八角の基壇が造られたが、途中で四角い基壇に造りなおされ、七重ではなく五重塔が建てられた。
八角形の柵は最初に造られた八角基壇跡である。

『続日本紀』770年2月の条に、次のような記述がある。

「東大寺の東北にある飯盛山から西大寺の塔をつくるための礎石を切り出し、西大寺まで運ぶため、数千人の人夫で引いたが1日に数歩しか動かなかった。
そこで人夫を増やし、9日かけてようやく西大寺まで運んだ。
ところが、その石を東塔の心礎として据えようとしたとき、かんなぎたちが石に祟りがあると言い出した。
そこで、芝を積んで焼き、酒をそそいで石を割り、道に捨てた。
ところが一ヶ月後、天皇が病になった。
占うと、石の祟りであると出た。
そこで捨てた石を拾い、浄地に置いた。」

奈良市高畑町に破石町というバス停がある。
現在は高畑町になっているが、江戸時代ごろには破石町という地名であったらしい。
地名の由来となった破石は『えびす屋』さんの裏庭にある。
この破石が西大寺の八角塔の礎石にする予定だった石であるともいう。

こうして称徳天皇(孝謙上皇)の八角塔を建てるという夢は実現せずに終わったのだが、称徳天皇はなぜ八角塔を建てたいと思ったのだろうか。

もともとインドで作られていた仏塔は円形だったが、中国に伝わると八角塔が多く作られるようになった。
中国の人々は八という数字は特別に縁起のいい数字だと考えていた。
一説には、八という漢字は末広がりになっているので縁起がいいのだともいう。
北京オリンピックの開催式も2008年8月8日だった。

梅原猛さんによれば、8は復活を意味する数字だという。
八角堂や八角墳は死んだ人の魂の復活を願って作られたものではないか、というのだ。

称徳天皇は自らの魂が死後復活することを願って八角塔を作ろうとしたのかもしれない。
また、称徳天皇は大変な唐かぶれであったという。
そのため唐風の八角形の塔を作りたかったのかもしれない。

日本霊異記に次のような話が記されている。
「左大臣・藤原永手が西大寺の塔を八角から四角に、七層から五層に変更したため地獄に堕ちた。」

どうやら、かんなぎたちが礎石に祟りがあると騒いだ裏には藤原永手の思惑があったようである。

西大寺が創建されたころ、称徳天皇は僧の道教を重用し、道教を次期天皇にしたいとまで考えていた。
というのは称徳天皇は女性で結婚が許されず、子供がなかったためである。
西大寺建立には当時の仏教界のトップに君臨していた道鏡の思惑が絡んでいるものと考えられている。

西大寺に当時の日本には一基もない八角七重塔が建つことが、永手には許せなかったのではないだろうか。
というのは、永手と称徳天皇、道鏡の関係が良好なものであったとは思えないからだ。

770年、称徳天皇は病に臥せるようになった。
このとき、称徳天皇の看病のために近づけたのは吉備由利(吉備真備の姉妹または娘)だけで、病気平癒のための祈祷も行われていない。
そして称徳天皇崩御後、次期天皇を誰にするかについての会議が行われた。
吉備真備は分室大市もしくは分室浄三を次期天皇に推した。
藤原永手は称徳天皇の遺詔を持っていたが、そこには「白壁王を次期天皇にすべし。」と記されていた。
しかし称徳天皇は道教を天皇にしたいと考えていたはずである。  
この遺詔は永手らによって書き換えられたものだろう。
そして称徳天皇崩御後、道教は失脚して下野国に左遷となり、772年に死亡して庶民として葬られた。

基壇のまわりにめぐらされた八角形は称徳天皇の夢の跡なのである。
西大寺・・・奈良県奈良市西大寺芝町1-1-5

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[2014/05/30 21:09] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)