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建築の神が住む町⑦ 東向観音寺 『菅原道真が刻んだ観音』 


建築の神が住む町⑥ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』 
よりつづく~






①事始め

北野天満宮で大福梅を求めたあと、私は楼門を出てもときた参道を引き返した。
参道を大鳥居の方に向かって歩いていくと右手(西)に東向観音寺というお寺がある。


東向観音寺 舞妓 

東向観音寺

北野天満宮は大勢の参拝者で賑わっていたががいたが、東向観音寺の境内には舞妓さんがひとりいるだけでひっそりしていた。

この日、12月13日は正月準備を始める「正月事始め」の日とされている。
京都の正月に欠かせない大福梅の授与もこの日から始まるし、六波羅蜜寺の隠れ念仏もこの日から大晦日まで行われる。

ちなみに六波羅蜜寺の隠れ念仏が行われている期間、御本尊の十一面観音に御茶が献じられる。
そして正月3が日にこのお茶に梅干しと結び昆布を入れた皇服茶を参拝者に授与する。
つまり隠れ念仏を行うことは正月にかかせない皇服茶の準備であると考えられる。
それで、正月準備を行う事始めの日から隠れ念仏は行われているのだろう。

それはさておき、京都の花街ではこの日に一足早く「おめでとうさんどす」と踊りの師匠さんなどに挨拶回りする習慣があり、この習慣を「事始め」と言う。

祇園 事始め2

祇園の事始め

東向観音寺で手を合わせていた舞妓さんは、事始めの挨拶回りを終えて、ここに参拝にやってきたのだろう。

②本地垂迹説

東向観音寺の門前には「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と刻まれた石碑が建てられていた。
この「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とはどういう意味なのだろうか。

日本では古来より神仏は習合して信仰されてきたが、その神仏習合のベースになったのが本地垂迹説という考え方である。

本地垂迹説とは「日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を現したものである」とする考え方のことである。

そして日本の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏、仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿をあらわした存在である日本の神々のことを権現、化身などといった。

例えば天照大神の本地仏は大日如来であるとか、市杵島姫は弁才天の権現であるなどとして同一視された。

天満宮とは北野天満宮の御祭神・菅原道真のことである。
つまり「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「天満宮=菅原道真の本地仏である十一面観音をお祭りしています。」というような意味である。
菅原道真は十一面観音の化身であると信じられていたのだ。

④北野天満宮の神宮寺

東向観音寺は806年、桓武天皇の詔を受けて藤原小黒麿と賢璟法師が創建した寺で、もともとは朝日寺という寺名だった。

901年、左大臣藤原時平の讒言を受けて右大臣菅原道真は大宰府に流罪となり、903年、菅原道真は大宰府で死亡した。
菅原道真の遺骨は大宰府に葬られた。

947年、朝日寺の僧・最鎮(最珍)らが北野天満宮を建立し、大宰府より道真の霊を遷し祀ったといわれる。

朝日寺には西向と東向の二つのお堂があったが、西向堂はなくなって現在は東向堂のみが残っている。
東向観音寺という寺名はここからくるのだろう。

③でお話しした本地垂迹説を受け、かつて日本の神社には神宮寺が、寺には鎮守の社があった。
明治の神仏分離令・廃仏毀釈で、多くの神宮寺は神社と切り離され、また神社に転向したり、廃寺になったりした。

東向神宮寺の前身・朝日寺は前述したように北野天満宮と関係の深い寺であり、北野天満宮の神宮寺であった。

⑤伴氏廟

東向観音寺の本堂の横手には土蜘蛛の塚があり、オカルトファン必見の名所となっている。

東向観音寺 土蜘蛛の塚 
東向観音寺 土蜘蛛の塚
 
土蜘蛛の塚については、こちらの記事を読んでいただけると嬉しい。→土蜘蛛の謎⑥ 燈籠の火袋が『土蜘蛛の塚』と呼ばれている理由 

土蜘蛛の塚の右手には、高さ4.5メートルの巨大な五輪塔があった。

東向観音寺 伴氏廟 

伴氏廟

伴氏廟である。

室町時代、父母の死後49日の服喪を終えたあと50日目にこの塔に詣る風習があり、そのため北野の忌明塔と呼ばれていたという。
もともとは北野天満宮の楼門の手前にある伴氏(ともうじ)社にあり、菅原道真の母の廟塔だと言われている。
道真の母親は伴氏だったのである。

北野天満宮 伴氏社 
伴氏社

伴氏はもともとは大伴氏と名乗っていたのだが、淳和天皇の諱が同じ大伴だったので、憚って伴氏と改姓した。
その後866年に応天門が炎上するという事件があり、大納言・伴善男が左大臣・源信の犯行であると告発した。
しかし太政大臣藤原良房の進言で源信は無罪となり、逆に伴善男父子に嫌疑がかけられて流刑となった。
これは藤原氏の他氏排斥事件のひとつだと考えられている。

これによって伴氏は没落したかに思われたが、そうではなかった。
その後、伴氏を母にもつ菅原道真が右大臣にまで上り詰めたのである。

④で述べたように、その後901年に菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に左遷となり、903年太宰府で亡くなってしまうのだが。

ここに伴氏廟があったり、北野天満宮の楼門前に伴氏社があるのは、菅原道真の母親が伴氏で菅原道真と伴氏の関係が深いためだろう。

⑥怨霊菅原道真が神として祭られた理由

北野天満宮 梅3

北野天満宮

北野天満宮は菅原道真を祀る神社として、947年に朝日寺の僧・最鎮(最珍)らによって創建されたのだが、なぜ菅原道真は神として祭られたのだろうか。

道真の死後、天変地異や疫病の流行が相次ぎ、道真左遷にかかわった人々が次々に死亡した。

また、道真を左遷した醍醐天皇は第二皇子の保明親王を皇太子としていたのだが、923年に21歳の若さでで亡くなってしまった。
そのため、保明親王の子の慶頼王を皇太子としたが、925年、わずか5歳で亡くなってしまう。
皇太子の相次ぐ死を醍醐天皇は道真の怨霊の仕業ではないかとおびえたことだろう。
その後、930年に清涼殿に落雷が落ちるという事件がおき、道真の怨霊に対する人々の畏れはピークに達する。
清涼殿落雷事件の3か月後に醍醐天皇は崩御しているが、これは醍醐天皇が道真の怨霊を怖れるあまりノイローゼになってしまったためだといわれている。

また、940年には東国で平将門の乱が、941年には南海で藤原純友の乱が起り、これらも菅原道真の怨霊の仕業と考えられた。

菅原道真は文武両道に長けた優秀な人物であったとされる。
しかし、道真が神として祀られたのは、彼が優秀な人物であったためではない。

現在ではある能力に長けた人物のことを尊敬の意を込めて「神」と呼ぶことがある。
例えばマイケル・シェンカーは「ギターの神様」、B・B・キングは「ブルースの神様」などと言われる。
しかし古における神とは能力に長けた人物のことではなかった。

陰陽道では荒ぶる神(怨霊)は十分にお祭りすればご利益を与えてくださる神に転じると考えるという。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天変地異は怨霊のしわざで引き起こされると考えられていた。

菅原道真は藤原時平の讒言で大宰府に流罪となり、数年後に死亡した。
その後、疫病の流行や天変地異があり、それらは菅原道真の怨霊の仕業だと考えられた。
そのため、道真を神として祭り、道真の怨霊を和霊に転じさせようと考えられたのだろう。

現在では菅原道真は学問の神として全国の受験生から厚い信仰を集めている。

立派な人物であるということで神として祀られるようになるのは、時代が下がった戦国時代や江戸時代だと考えられる。
たとえば、豊臣秀吉や徳川家康は自らが神として祀られることを望み、彼らを祀る神社が作られた。
豊臣秀吉を祀る神社は豊国神社、徳川家康を祀る神社は東照宮である。

⑦怨霊を神として祭る御霊神社

怨霊を神として祭る神社は数多くある。
御霊神社もそうした神社のひとつである。

下御霊神社 
下御霊神社(女性は葵祭に登場された方です。/合成)

京都の下御霊神社では八所御霊と称して吉備聖霊(吉備真備?)崇道天皇(早良親王)・伊予親王・藤原大婦人(藤原吉子)・藤原広嗣・橘逸勢・文屋宮田麻呂・火雷神・を祀っている。

火雷神は六座の(下御領神社では吉備聖霊は六座の心霊の和魂としているため)荒魂とされているが、他の六柱はいずれも実在した人物で不幸な死を迎え、死後怨霊になったと信じられた人物ばかりである。

吉備真備は称徳天皇崩御後、後継の天皇候補として文室浄三および文室大市を推したが敗れ、辞職している。

早良親王は桓武天皇の弟で皇太子にたてられていたが、藤原種継暗殺事件に関与したとして廃太子となった。
無実を訴えてハンガーストライキを行い、淡路島へ流される途中、船の中で憤死したと伝わる。

藤原吉子は桓武天皇の婦人で伊予親王を生んだが、謀反の疑いで伊予親王とともに川原寺に幽閉され、伊予親王を道連れにして自殺した。

藤原広嗣は大宰府に左遷となり、反乱をおこしたが、捕えられて処刑された。

橘逸勢は承和の変に関与したとして伊豆へ流罪となる途中の船上で死亡した。

文屋宮田麿も謀反を企てたとして伊豆へ流罪となったが、のちに無実であるとして慰霊されている。

しかし八所御霊は神として祀りあげられた結果、現在では人々にご利益を与えて下さる神として信仰されている。
菅原道真のケースと全く同じである。

⑦菅原道真が自ら刻んだ十一面観音


「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と石碑に記された十一面観音とは、東向観音寺の御本尊の十一面観音のことだろう。
この十一面観音は961年に菅原道真が刻んだものだと伝わっている。
なんと、菅原道真は文武両道に秀で、優秀な政治家であったのみならず、仏像を刻んだというのである。

菅原道真が刻んだと伝わる十一面観音は大阪府葛井寺市の道明寺にもある。

ElevenFaced Kannon Domyoji

十一面観音像 〈道明寺)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/eb/ElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpg よりお借りしました。
作者 OGAWA SEIYOU(1894-1960) a famous photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


上の写真は菅原道真が刻んだという道明寺の十一面観音である。
政治家が片手間に刻んだものとはとても思えない素晴らしいもので、国宝となっている。

道明寺 梅 

道明寺

私は東向観音寺の十一面観音を拝観したいと思った。
道明寺の十一面観音と作風を比較してみたかったのだ。
しかし東向観音の十一面観音は秘仏とされていて、この日は拝観することはできなかった。

正直に言おう。
私は菅原道真が道明寺の素晴らしい十一面観音を刻んだとはとても思えないのだ。
菅原氏は学者の家柄で、政治家になれるような高い家柄ではなかった。
菅原道真の右大臣という地位は、菅原氏としては破格の大出世だといえる。
それは菅原道真が頭脳明晰、武芸にも優れ、政治家として抜きんでた才能を持っていたということだろう。
その上、仏師としての腕も一流で、国宝に指定されるほどの作品を残したとはとても信じられない。

東向観音寺の十一面観音も実際に菅原道真が刻んだものではないだろう。

「菅原道真が自ら仏像を刻んだ」というのは「怨霊であった菅原道真が成仏して十一面観音になった」ということを比喩的に表現したのではないだろうか。

現在でも人が死んだことを「成仏した」とか、死んだ人のことを「仏さん」と言うではないか。

日本で神仏が習合されて信仰されていたのは、神=怨霊を、人々にご利益を与えてくださる和魂=仏教の神に転じさせるという信仰があったためではないだろうか。

成仏するということは煩悩を捨てることだ。

怨霊が煩悩を捨てれば祟らなくなる。
そして道真の怨霊が確かに成仏した、ということを目に見える形にしたのが道明寺や東向観音寺の十一面観音像なのだと私は思う。

仏教用語辞典によれば
『諸仏菩薩には法身と生身の二身が有り、生身(しょうしん)、法身(ほっしん)所証の理体を法身といい、衆生を済度する為に、父母に胎を託して生じる肉身を生身という。』とある。
つまり、生身とは人間のことであり、菅原道真とは生身の菩薩だということになると思う。



建築の神が住む町⑧ 北野天満宮 雪 朮詣 『天神さんは黄泉の神で1年の変わり目の神だった』  につづく~
建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』  ← トップページはこちら

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[2017/09/16 22:44] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町⑥ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』 


建築の神が住む町⑤ 『大報恩寺の大根焚と男女双体の神』  よりつづく~

①大福梅授与はなぜ12月13日より始まるのか

京都では正月に大福茶(梅干しをいれたお茶。皇服茶とも。)を飲む習慣がある。
北野天満宮では12月13日より大福茶に用いる大福梅の授与が始まる。

大福梅は北野天満宮梅園で収穫した梅の実を梅干しとして漬け込み、夏土用干ししてカラカラに乾かしたものである。

北野天満宮 大福梅 

北野天満宮で求めた大福梅

この大福梅の授与が12月13日に始まるのは、この日が正月事始めの日だからだろう。
最近はこういうことにこだわらなくなったが、昔は12月13日から正月準備を始めるのは12月13日から、と決められていたのだ。

北野天満宮 梅

北野天満宮 梅

②お屠蘇は蘇という鬼を屠るという意味


正月に大福茶を飲むのはなぜなのだろうか。

そんなことを考えながら、私は北野天満宮の授与所で大福梅を一袋求めた。
清楚な印象の巫女さんが「どうぞ」と袋を差し出してくれたのを受け取り、
ふと見ると、大福梅の袋と並んで『お屠蘇』と記した袋も並べられていた。

「あっ、お屠蘇もあるんですね。」

「お屠蘇は、蘇という鬼を屠るという意味でお正月に飲むんだそうですよ。
北野天満宮のお屠蘇はティーバッグになっておりますので、お酒につけるだけで召し上がっていただけますよ。」

巫女さんはそういって勧めてくださったが、私は一滴もお酒が飲めないので、大福梅だけいただいて北野天満宮をあとにした。

③追儺式は大晦日に行われるものだった。

現在では節分に追儺式を行う寺社が多いが、延暦寺では大晦日に追儺式を行っている。

延暦寺 追儺式

延暦寺 追儺式

延暦寺のお坊様の説明によると、もともと追儺式は大晦日に行うものであったとのことである。

かつての日本では旧暦と二十四節気の二つの暦を併用していた。

太陽太陰暦(旧暦)は月の周期をベースにした暦である。
月の周期は29.5日なので、1年=29.5日×12か月=354日となり、太陽の動きをベースにした太陽暦(新暦)とは1年で11日ずれる。
3年では約一か月もずれてしまう。
そのため、3年に1度閏月を設けてずれを調整していた。

太陽太陰暦は月がカレンダーがわりになって便利なのだが、太陽の動きによって生じる実際の季節とはずれが生じ、農作業等に支障が生じる。
そのため、1太陽年を24に分割した二十四節気という暦を併用していたのである。

節分とは二十四節気の立春の前日のことである。
立春は暦法・二十四節気の正月であり、その前日の節分は二十四節気の大晦日である。

旧暦の大晦日も節分もどちらも大晦日であるということで、もともと旧暦の大晦日に行っていた追儺式を、節分に行うようになったのだろう。

③追儺式の鬼はなぜ牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいているのか。

石清水八幡宮 鬼やらい神事-豆まき

石清水八幡宮 鬼やらい神事

節分の鬼は牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいている。
これは干支の丑寅をあらわすものであると言われる。

12月は干支では丑月、1月は干支では寅月である。
また二十四節気では小寒(1月6日ごろ)~立春(2月4日ごろ)までが丑月、立春(2月4日ごろ)から啓蟄(3月8日ごろ)までが寅月となる。

つまり、鬼の牛の角は丑月を、虎皮のパンツは寅月で、年の変わり目を表しているというのだ。
そして、鬼=年の変わり目をおっぱらうことで、新しい年がやってくるというわけだ。
目には見えない1年の移り変わりを視覚化したのが、追儺式だといえるだろう。

また方角を干支であらわすと、東北の方角が丑寅となる。
丑寅の方角は鬼が出入りする方角、鬼門として忌まれた。

石清水八幡宮  鬼門封じ 

石清水八幡宮 本殿 鬼門封じ


石清水八幡宮 鬼門封じ 

④蘇という鬼を屠る

お屠蘇は「蘇という鬼を屠る」という意味であるという。

そして、「飲む」という言葉には「水などの液体を体内に摂取する」という意味のほかに、「相手を圧倒する」という意味もある。

広島カープファンの友人に聞いた話だが、対ヤクルト戦では広島カープ側の応援席に「飲め、飲め」と言ってヤクルトが配られていたそうである。
これは飲料のヤクルトを飲むことで、球団のヤクルトを圧倒しようというまじないであると言えるだろう。

これと同様で、お屠蘇は鬼=年の変わり目をあらわすものであり、これを飲むことで鬼=年の変わり目を屠るというまじないであると考えられる。

お屠蘇を飲むことは追儺式同様、目には見えない1年の移りかわりを視覚化したものだと言ってもいい。

六波羅蜜寺 皇服茶 

六波羅蜜寺では正月3が日に結び昆布と梅干を入れたお茶・皇服茶を授与している。
皇服茶という名前は村上天皇が召し上がって(服して)病が回復したの「皇帝も服したお茶」からくると言われる。
一方、王福茶も村上天皇が召し上がって(服して)病が回復したので「王服茶」と呼ばれていたのが「大福茶」に転じたとされる。


⑤なぜ梅を入れたお茶・王福茶を飲むのか。

こう考えると、梅を入れたお茶・王福茶を飲む意味も解ける。
建築の神が住む町③ 北野天満宮 梅 『梅は1月1日と2月3日の誕生花』 で見たように、梅は1月1日と2月3日の誕生花である。
1月1日は正月、2月3日は節分(二十四節気の大晦日)で、梅もまた年の変わり目と、鬼を表している。

正月に大福梅の入った大福茶を飲むのは、お屠蘇を飲むのと同じで、梅は鬼=1年の変わり目をあらわしており、これもまた目には見えない1年の移り変わりを視覚化したものだと言えるだろう。

霊山寺 初福茶 

霊山寺(奈良)では正月に初福茶(抹茶)を授与している。



建築の神が住む町⑦ 北野天満宮 雪 朮詣 『天神さんは黄泉の神で1年の変わり目の神だった』  へつづく~

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[2017/09/15 09:08] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町⑤ 『大報恩寺の大根焚と男女双体の神』 

 建築の神が住む町④ 北野天満宮 紅葉 『筋違いの本殿』  よりつづく~

①大報恩寺の大根焚



北野白梅町駅で下車し、交差点の東北の角・京都信用銀行前の「北野廃寺跡」と記された石碑の前を通って東に歩いていく。

北野廃寺跡石碑 

北野廃寺跡

北野天満宮 東門 
北野天満宮 東門

北野天満宮を超えてさらに東へ向かったところに大報恩寺(千本釈迦堂)がある。

大報恩寺の境内は大根を焚く甘い香りがたちこめ、大勢の人でにぎわっていた。
この日は12月8日、大報恩寺では年末の風物詩である大根焚が行われていたのだ。

千本釈迦堂 大根焚 
大報恩寺 大根焚

私も一杯いただき、ベンチに腰掛けてふうふう言いながら食べた。
寒さでかじかんだ体がじんわりと温まっていくようだった。

12月8日は釈尊が悟りを開いた日とされ、千本釈迦堂の大根焚はこれにちなむ行事だとされる。
またこの日、成道会法要も行われる。

千本釈迦堂 大根 
大報恩寺 大根焚

②大根焚は聖天さんにちなむ行事だった? 
 
私は東京の待乳山聖天で1月7日に行われている大根まつりを思い出していた。
待乳山聖天と同じく、聖天さんを祀る京都の嵯峨聖天でも毎年小雪(11月22日ごろ)を含む2日間に大根供養を行っている。
大根焚きはもともとは聖天さんにちなむ行事だったのではないだろうか。

待乳山聖天-引換券

待乳山聖天 大根まつり


待乳山聖天 ふろふき大根

待乳山聖天 大根まつり

待父山聖天の境内のいたるところに巾着袋と違い大根のシンボルがあふれていた。

待乳山聖天 巾着

待乳山聖天

待乳山聖天 二股大根

待乳山聖天

聖天さんを祀る寺はぜnどこの聖天さんでも、多少のデザインの違いはあってもたいてい巾着袋と違い大根のシンボルを用いている。
巾着袋と違い大根は聖天さんのシンボルなのだ。

双林院 提灯 

京都・双林院の紋。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!

聖天さんは大聖歓喜天とも呼ばれ、象頭の男女の神が抱きあう姿をされている。
男神は鬼王ビナヤキャ、女神は十一面観音の化身のビナヤキャ女神である。

聖天さんの紋が違い大根なのは、鬼王ビナヤキャの好物が大根とされているからだろう。

待乳山聖天 巾着&二股大根

待乳山聖天

③大根は男女双体をあらわす?

鬼王・ビナヤキャはなぜ大根が好物なのか。
好物に理由なんてあるか、好きなものは好きなのだ。
そう言われるかもしれないが、「鬼王・ビナヤキャの好物が大根とされている」ことには理由があると私は思う。

大根は直根の先端にある生長点が石ころなどにあたると、側根が肥大して二股になってしまうことがよくあるそうである。
そうした二股大根の形が男女双体の神を思わせるところから、大根が聖天さんの好物であるとされているのではないだろうか。

待乳山聖天 二股大根

待乳山聖天


④巾着の中には何が入っている?

それではもうひとつの聖天さんのシンボルが巾着袋なのはなぜなのだろうか。

聖天さんは象頭であるが、これはビナヤキャ&ビナヤキャ女神のほかに、ガネーシャという神様が聖天さんに関係しているからだと言われる。

ガネーシャには次のような伝説がある。

ガネーシャは母親のパールヴァティーに命じられて、彼女の入浴の見張りをしていた。
そこへシヴァが戻ってきたが、ガネーシャはシヴァが自分の父だと知らず、入室を拒んだ。
シヴァは怒ってガネーシャの首を切り落として遠くへ投げ捨てた。
その後、シヴァはガネーシャが自分の子供だと知り、ガネーシャの頭を探させたが見つからなかった。
そこで象の首を斬り落として持ち帰り、ガネーシャの体につけて生き返らせた。


象にも深い意味があると思うが、今のところ私にはよくわからない。
ただ、この伝説からガネーシャがドクロをつけて生き返った神であることがわかる。

真言立川流では髑髏に漆や和合水を塗り重ねて髑髏(どくろ)本尊を作り、これを袋に入れて7年間抱いて寝るとドクロが語りだすとしている。

これは死んでいたドクロが生き返ったということである。

どうやら昔の人はドクロは復活にかかせない呪具であると考えていたようである。
聖天さんの巾着袋の中には復活にかかせない呪具・ドクロが入っているのではないだろうか。

待乳山聖天 奉納された大根

待乳山聖天

⑤了徳寺の大根焚

了徳寺 大根焚 
了徳寺 大根焚

京都の了徳寺では報恩講の大根焚をが12月9日~10日に行っている。
報恩講とは親鸞の命日の法要であるが、親鸞といえば僧侶の身分でありながら妻帯したことで有名である。

なんでも、京都の六角堂に籠ったとき、聖徳太子が夢枕に現れて「私が女に生まれ変わってあなたの妻になろう」と言ったというのだ。

六角堂 しだれ桜

六角堂

今の時代、こんなことを言う人が現れても、「頭がおかしいのでは」と思われるだけだが、当時はこのはったりがきいたのだろう。
親鸞の死後、親鸞の子孫たちが本願寺を世襲し、また浄土真宗の信者も増えていった。

このように見てみると、なぜ了徳寺で大根焚が行われているのか、わかるような気がする。

妻帯した親鸞は、男女双体の神・聖天さんとイメージが重ねられ、その結果聖天さんの行事である大根供養を真似て了徳寺の大根焚は行われるようになったのではないだろうか。

⑥大報恩寺に伝わる大工の棟梁と阿亀の伝説

境内には手に升を持つお亀の像が建てられていた。
ここ大報恩寺には大工の棟梁とその妻・阿亀の伝説が伝えられており、それにちなんでお亀の像は建てられたのだろう。

千本釈迦堂 阿亀像

千本釈迦堂の本堂を建てるとき棟梁が謝って柱を短く切ってしまった。
妻の阿亀が柱の長さが足りない分を枡組を作って補ったらどうかとアドバイスし、本堂は完成した。
阿亀は女の助言を受け入れたことが知られたら夫の恥になると思い、本堂が完成する前に自害した。


千本釈迦堂 升 
大報恩寺本堂

大報恩寺本堂を見上げてみると、なるほど、柱に枡組がついている。

●∧は男性、∨は女性

ベストセラー小説『ダ・ヴィンチ・コード』に∧は男性、∨は女性を表すと書いてあったと記憶している。
これと同様、枡とは凹で女性を、柱とは凸で男性を表しているのではないだろうか。
すると枡(凹)と柱(凸)が合体している千本釈迦堂の柱は男女和合の象徴であるということになる。

そういったところから、千本釈迦堂は聖天さんのイメージと重ねられ、大根焚きの行事を行うようになったのではないかと思う。

千本釈迦堂 大根焚2 

大報恩寺 大根焚

よく見ると、大報恩寺の境内の片隅に布袋像が置かれていた。
布袋は袋を持っている。

千本釈迦堂 布袋像 

大報恩寺 布袋像

大根炊、布袋の袋で、聖天さんのシンボルが大報恩寺には揃っているということになるが。


建築の神が住む町⑥ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』  につづく~
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[2017/09/05 16:09] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町④ 北野天満宮 紅葉 『筋違いの本殿』  




建築の神が住む町③ 北野天満宮 瑞饋祭 『ずいき神輿には秀吉が、牛車には菅原道真が乗っている?』 よりつづく~

①筋違いの本殿


北野廃寺跡石碑 

北野廃寺跡から東へ400mほど歩くと北野天満宮の参道が見えてくる。
松並木が続く参道を北へ、まっすぐ歩いていくと楼門だ。

北野天満宮 参道

北野天満宮参道

北野天満宮 楼門 紅葉

北野天満宮 楼門




上の地図を見ていだくと、楼門と三光門、本殿(三光門の真上の北野天満宮の文字があるところ)が一直線に並んでおらず、楼門から三光門、本殿がやや東にずれていることがわかる。

これは北野天満宮の七不思議のひとつで、「筋違いの本殿」と呼ばれている。

北野天満宮 菊

北野天満宮 本殿

神社の本殿は参道の正面にあるのが一般的なのだが、北野天満宮の楼門参道の正面には地主神社がある。

ここにはもともと地主神社があり、その後菅原道真公を祀る神社が建てられたのだが、その際、もともとここに鎮座していた地主神社の正面を避けて道真公を祀る神社を建てたためであるという。

北野天満宮 地主神社 紅葉 

地主神社

菅原道真、天神になる。

菅原道真は才能のある人物で、低い家柄の出であるにもかかわらず右大臣の地位にまで上り詰めた人物だった。
それを左大臣の藤原時平が嫉妬し、醍醐天皇に「道真は謀反を企てている」と讒言した。
藤原時平の言葉を真に受けた醍醐天皇は、道真を大宰府に左遷した。
道真は数年後失意のうちに太宰府で亡くなった。

その後、都では相次いで天災がおこり、疫病が流行した。
醍醐天皇は保明親王を皇太子としていたが、21歳の若さで薨御してしまった。
そこで醍醐天皇は保明親王の子の慶頼王を皇太子としたが、またしても薨御。わずか5歳だった。

そんなところへ、清涼殿に落雷が落ち、道真左遷にかかわった人々が相次いで亡くなった。
これらは菅原道真の怨霊の仕業であると考えられた。
醍醐天皇は清涼殿落雷事件の3か月後にノイローゼになって崩御されたといわれている。

北野天神縁起には清涼殿で暴れる鬼(雷神/天神)が描かれているが、この鬼は道真の怨霊なのだろう。

File:Kitano Tenjin Engi Emaki - Jokyo - Thunder God2.jpg

『北野天神縁起』(承久本)巻六より。宮中清涼殿に雷を落とす雷神と逃げまどう公家たち

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AKitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/Kitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
よりお借りしました。
作者 不明 [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


③本来の天神は菅原道真ではなかった。

こんなことを聞いたことがある。
「もともと天神さんとは菅原道真のことではなかった。しかし、清涼殿の落雷が菅原道真の怨霊によるものだとされたことで、天神さんとは菅原道真のこととされるようになった。」

おそらく地主神社の神は雷神であったのだろう。
ところが清涼殿落雷事件などが道真の怨霊の仕業であると考えられたため、道真こそが雷神であると考えられ、もともと雷神が鎮座していた土地に道真は祀られることになったのではないだろうか。

とすれば、もともとここに祀られていた地主神社の御祭神とはどんな神だったのだろうか?

御土居より北野天満宮を望む  
御土居より北野天満宮を望む

④北野廃寺と地主神社の関係は?

私は北野白梅町駅の東北の角にある小さな石碑を思い出していた。
その石碑には「北野廃寺跡」と刻まれており、かつて石碑前の交差点を中心として225m四方に及ぶ寺域を持つ寺があったと考えられている。

ここ北野天満宮の地主神社はその石碑から600mほど東北に位置する。
北野天満宮の境内にある地主神社は北野廃寺から近い場所にあったのだ。

そして江戸時代までの日本では神仏は習合して信仰されていた。

神仏習合のベースとなったのは本地垂迹説という考え方である。

本地垂迹説とは日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿を表したものとする考え方で
日本古来の神々のもともとの姿である仏教の神々のことを本地仏、仏教の神々は仮にこの世に姿を現した日本古来の神々のことを権現といった。

例えば天照大神は大日如来の権現であるとか、スサノオの本地仏は牛頭天皇であるなどと考えられていたのである。

もしかして北野天満宮境内にある地主神社に祀られている神は、北野廃寺の本尊を本地仏とする権現なのではないだろうか?
とすれば、北野天満宮の本尊と地主神社の神は習合されており、同一の存在であると考えられていたことになるのだが。

 北野天満宮 宝物殿 かぼちゃ 
北野天満宮 宝物殿


 
建築の神が住む町⑤ 『大報恩寺の大根焚と男女双体の神』  へつづく~
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[2017/09/04 10:32] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町③ 北野天満宮 瑞饋祭 『ずいき神輿には秀吉が、牛車には菅原道真が乗っている?』 

 北野天満宮 ずいき祭 ずいき神輿 瑞饋祭 ずいき神輿

建築の神が住む町② 北野天満宮 梅 『梅は1月1日と2月3日の誕生花』 より続く~。

①ずいきで屋根を葺いた神輿

10月、北野天満宮を参拝したあと、ぶらぶらと上七軒の町へ行ってみた。
上七軒は北野天満宮の東にあり、お茶屋さん、置屋さんが並ぶ花街である。

上七軒には大変な人だかりができていた。
何事かと思って見てみると、神輿の行列が通り過ぎていくところだった。

見物をしていたかわいらしい舞妓さんが、こんな風に教えてくれた。

「今日は北野天満宮の瑞饋祭の日どす。あれはずいき神輿ゆうて乾物で飾り付けた御神輿どすえ。屋根はずいきで葺いてあるゆうてましたなあ。
『瑞饋』は『最高の喜びを込めた贈り物』ゆう意味どす。平安時代、村上天皇の御代より始まったといわれてますなあ。」

なかなか物知りの舞妓さんである。

北野天満宮 瑞饋祭 獅子と舞妓さん

瑞饋祭の行列を見物する舞妓さんたち

②上七軒の地名の由来

舞妓さんはこんな事も教えてくれた。

「1444年、北野天満宮の社殿が燃えましてん。
ほんで十代足利義植が所司代 細川勝元に命じて社殿を造営をさせたんどす。
そのとき残った木材で七軒の茶店が建てられて、七軒茶屋と呼ばれたと言われてます。」

「それが上七軒の地名の由来なんですか?」

「へえ、そうどす。
その後、豊臣秀吉が1587年に北野大茶会を開きました。
そのとき秀吉は七軒茶屋のみたらし団子をえらい気に入らはって、みたらし団子を商う権利を与えはったそうどす。
それでこのあたりでは五つ団子の紋を使うんやそうどす。」

ずいき祭 舞妓さん

瑞饋祭の行列を見物する舞妓さんたち


③北野大茶会と肥後国一揆

舞妓さんが言っていた「北野大茶会」についてもう少し詳しく見てみよう。

秀吉は1587年に北野天満宮で北野大茶会を行ったが、10日間の予定がたった一日で茶会は中止された。
茶会が中止になった理由にについては諸説あるが、初日の夕方に肥後国一揆がおこったためという説が有力である。

秀吉は肥後を朝鮮や明国への出兵の基地にしようと考え、佐々成政を肥後の領主に任命して『太閤検地』を実施させていた。
その佐々成政に対して肥後北東部の国衆(土地を所有し、民政・軍政を担当していた戦国領主)が一揆をおこしたのだ。
秀吉は肥後国に約二万人の軍勢を送り込み、ほとんどの国衆たちは殺された。

その後秀吉は1592年に朝鮮出兵を行ったが、失敗に終わっている。
1598年、秀吉死亡。

1607年、秀吉の後継者の秀頼が秀吉の遺志をついで北野天満宮の本殿をたてた。
この年、初めてずいき神輿は作られている。

北野天満宮 ずいき祭 八乙女

瑞饋祭 八乙女

肥後一揆を鎮圧した軍勢は秀吉に肥後ずいきを持ち帰らなかったか。

秀吉は肥後国一揆を鎮圧するために肥後に軍勢を送っているが、肥後の国には『肥後ずいき』という性具がある。
ハスイモの茎を干したものでサポニンという成分が性的快感を高めるという。

「ずいき」という名称は、夢窓疎石(1275-1351 禅僧)の次の歌からくるといわれている。
いもの葉に 置く白露の たまらぬは これや随喜の 涙なるらん

この歌にある白露とは精液の比喩であるといのだ。

江戸時代の大奥でも使われていたというから、秀吉の時代にもあったのではないだろうか。
「女好きの秀吉さまはきっとお喜びになるだろう」と、誰かが肥後すいきをおみやげに持ち帰ったりはしなかっただろうか?

ずいき祭 御鉾

瑞饋祭 

⑤ずいき神輿は秀吉の乗り物?

神輿とは神様の乗り物だが、ずいき神輿に乗っているのは豊国大明神(豊臣秀吉の霊)ではないだろうか。
私がこのように考えるのは、秀吉の後継者の秀頼が北野天満宮の本殿を建てたのと、初めてずいき神輿が作られたのがほぼ同じタイミングだからだ。

秀頼は秀吉の遺志をついで北野天満宮の本殿を建てている。
また、秀吉が開催した北野大茶会の思い出も重なって、北野天満宮には秀吉のイメージが強くある。

そこでこの年、瑞饋祭を行うにあたり、北野天満宮の御祭神・菅原道真の霊だけでなく、秀吉の霊をも鎮魂することとし、ずいき神輿を作ってそこに秀吉の霊を乗せようと計画されたのではないかと思ったりする。

⑥菅原道真の霊は牛車に乗っている?

瑞饋神輿に秀吉の霊が乗っているとすれば、北野天満宮の御祭神・菅原道真の霊はどうなってしまったのか?

瑞饋祭の行列には牛車も登場する。
道真の霊はこの牛車に乗っていると私は考える。

ずいきまつり おはぐるま 

北野天満宮の御祭神・菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に左遷となり、数年後に死亡した。

道真の亡きがらは牛車に乗せられて運ばれたが、途中牛が動かなくなった。
その場所に道真は葬られ、その上に社をたてたのが大宰府天満宮だという。
 
行列の牛車は道真の亡きがらが運ばれていくシーンを再現したものではないだろうか。

ずいき祭 花笠


北野天満宮 瑞饋祭 鳳輦

 
ずいきまつり 御神輿 
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[2017/09/03 18:02] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町② 北野天満宮 梅 『梅は1月1日と2月3日の誕生花』 

北野天満宮 梅

北野天満宮 梅


建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』 より続く~


①飛梅


前回の記事で北野廃寺跡と記された石碑をご紹介したが、そこから東へ400mほど歩くと北野天満宮である。
季節は早春の3月、まだ寒くてコートが手放せないが、境内には梅のいい香りが立ち込め、春の訪れを告げているかのようだった。

全国に天満宮は数多くあるが、たいてい境内には梅が植えられている。

これはもちろん、天満宮の御祭神である菅原道真の飛梅伝説に基づくものだろう。


左大臣・藤原時平は「右大臣の菅原道真は謀反を企てている」と醍醐天皇に讒言した。
醍醐天皇は時平の言葉を信じて道真を大宰府に左遷することにした。
都から大宰府に向かうとき、道真は「東風吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と歌を詠んだという。

こんな伝説がある。

道真が都でかわいがっていた庭の梅と松は、道真を慕って大宰府へ飛び立った。
松は途中で力尽きて落下し、飛松岡(神戸市須磨区板宿町)に落ちたが、梅は大宰府まで飛んで根をおろした。

この梅が大宰府天満宮の御神木の飛梅であるという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Tobiume02.jpg

また、菅原道真の邸宅跡と伝わる管大臣神社(京都市下京区菅大臣町)にも、大宰府まで飛んで行ったと伝わる飛梅の木がある。
この梅の一枝が大宰府まで飛んでいったということなのだろうか。

管大臣天満宮 飛梅2 

菅大臣神社 飛梅


なんと、大宰府天満宮の飛梅は白梅なのに、管大臣神社の飛梅は紅梅である。
北野天神絵巻を見ても道真が別れを告げている梅の木は紅梅だ。

どうやら、梅は都から大宰府に飛んでいく間に紅梅から白梅に変身してしまったらしい。
なぜ紅梅は白梅に変身してしまったのか。
それについて、確信の持てる説明は今はまだできない。
ただ、こういう矛盾に気が付いて『なぜか』と疑問を持つことが、真実を追求する上で大切だと私は考えている。

北野天満宮 梅3

北野天満宮 梅 

②梅は1月1日と2月3日の誕生花

ネットで梅について調べていたところ、「梅は1月1日、または2月3日の誕生花」と書いてあるサイトがあった。

ここでいう1月1日とは旧暦の1月1日だと思う。
新暦の1月1日ではまだ梅は咲かない。新暦2月初旬ごろに梅は先始め、2月下旬から3月ごろに満開を迎える。
旧暦の1月は新暦換算すると2月くらいになる。

一方、2月3日のほうは新暦の2月3日だと思う。
新暦2月3日は二十四節気の立春の前日で節分である。
立春は暦法・二十四節気における新年なので、立春の前日の節分は暦法・二十四節気の大晦日だということになる。

かつての日本では旧暦と二十四節気を併用していた。
二十四節気とは1太陽年を24等分したものである。

旧暦、すなわち太陽太陰暦は月をベースにした暦法で、月の周期は29.5日である。
29.5日×12か月=354日となり、太陽暦とは1年で11日、3年では一か月以上もずれてしまう。
そのずれを解消するため、旧暦(太陽太陰暦)では3年に1度閏月を設けていた。

太陽太陰暦は月がカレンダー替わりになって便利なのだが、実際の季節とはずれが生じるため、二十四節気を併用していた。
このため、新暦を採用する以前の日本には、旧暦の正月と二十四節気の正月(立春)と正月が2回あったのである。

繰り返しておこう。
旧暦の1月1日は新年、節分は二十四節気の立春の前日で二十四節気の大晦日である。

梅が1月1日と2月3日の誕生花ということは、梅は新年と大晦日の花、年の移り変わりを象徴する花だということになるだろうか。

北野天満宮 梅2
北野天満宮 梅

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[2017/09/02 21:59] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』 

①小さな石碑が示す大寺院の跡

北野白梅町駅の東北の角に京都信用金庫がある。
その京都信用銀行の南側、今出川通りに面したところに、小さな石碑があり「北野廃寺跡」と記されている。

北野廃寺跡

1936年、市電西大路線(市電西大路戦は1978年に廃業)敷設に伴い発掘調査が行われた結果、大規模な寺跡が発見された。。

塔、金堂、講堂、鐘楼、経蔵、歩廊、中門、西南別院が立ち並ぶ大伽藍で、寺域は石碑前の交差点を中心として225m四方に及んでいたとみられている。

北野廃寺跡は、飛鳥時代に創建された寺跡とされ、蜂岡寺の跡であるとする説、野寺の跡とする説がある。

②北野廃寺=蜂岡寺説

蜂岡寺とは現在太秦にある広隆寺の前身とされる寺である。

北野廃寺を蜂岡寺跡とする説の根拠は、ここから「鵤室(いかるがむろ)」と墨書された灰釉陶器が発見されたことによる。

字は異なるが、奈良には斑鳩(いかるが)という地名があり、世界最古の木造建造物とされる法隆寺がある。
法隆寺は聖徳太子が創建したと伝えられている。

そして広隆寺は飛鳥時代に秦河勝が聖徳太子より授かった仏像を安置するために建てたと伝わっている。
広隆寺は現在は太秦にあるが、もともとは別の場所にあり鉢岡寺という寺名だった。
「鵤室」と記された陶器があるのは、蜂岡寺が法隆寺と同じ聖徳太子ゆかりの寺であるためだというのだ。

広隆寺 
広隆寺

広隆寺には国宝第1号の有名な弥勒菩薩半跏思惟像がある。
秦河勝が聖徳太子から授かった仏像とはこの像のことなのかもしれない。

File:Maitreya Koryuji.JPG

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMaitreya_Koryuji.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/62/Maitreya_Koryuji.JPG よりお借りしました。

作者 日本語: 小川晴暘 上野直昭 English: OGAWA SEIYOU and UENO NAOAKI [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

③北野廃寺=野寺説

北野廃寺を野寺跡とする説の根拠は、「野寺」と墨書された平安時代前期の土師器が見つかったことによる。

野寺は別名を常住寺ともいい、日本後記に寺名が記載されている。
884年に焼失、復興されたが室町時代に廃寺となっている。

大勢の人が北野廃寺跡と記された石碑の前を通り過ぎていくが、誰一人その石碑を気に留めようとしない。
この誰も気に留めない小さな石碑が新たな旅のスタート地点だった。




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[2017/09/01 22:45] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)