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小野小町は男だった⑦ 妙性寺縁起 『語呂合わせで神格が変わる神』 

小野小町は男だった⑥ 小野小町は衣通姫の流なり 『小野小町は和魂だった?』  より続く

①ひょっとこは火男?


京都のお盆の風物詩・六斎念仏の演目に『祇園囃子』がある。
『祇園囃子』は祇園祭で奏される御囃子で、祇園祭ではゆっくりとしたテンポで奏されるが、六斎念仏の『祇園囃子』はテンポがはやい。
繰り返される激しいリズムはどこかヘビーメタルに似ていて、なぜか気分が高揚してくる。

京都には数多くの六斎会があり、たいていの六斎会で『祇園囃子』を行っているが、内容は六斎会によって違っている。
梅津六斎の『祇園囃子』にはひょっとことおかめが登場する。

まずひょっとこが登場して手に持った巻物を広げると『火の用心』と書いてある。

梅津六斎 祇園囃子 ひょっとこ

岩手県奥州氏の江刺地方の民話に『ヒョウトク』というヘソから金を生む奇妙な顔をした子供の話が伝わっている。

強欲な婆さんがヒョウトクのへそを火箸でぐりぐりといじったためにヒョウトクは死んでしまった。
ヒョウトクをかわいがっていた爺さんはヒョウトクの死をそれは悲しんだ。
そんな爺さんの夢枕にヒョウトクが立ち、『自分の顔の面を竈の前の柱にかけておけば裕福になるだろう』と告げた。
そのとおりにしたところ、爺さんは大金持ちになった。


ひょっとこは口が徳利のようであることから『非徳利』が転じてひょっとこになったという説もあるが
上の伝説に登場するこのヒョウトクが訛ったものだとか、竈(かまど)の火を竹筒で吹く『火男』が訛ったとする説もある。

ヒョウトクのお面は竃の前の柱にかけられるので竃の神、火の神だと考えられる。
ヒョウトクとは火男と言ってもよく、ヒョウトクという名前は火男が訛ったのかもしれない。

②ヒョウトクはなぜへそから金を産むのか。

昔、竃で火を焚くとき、火力を強くするためには火吹竹で息を吹いて空気を送り込んでいた。
ひょっとこのとがらせた口は火吹竹を吹いているような形に見える。

川などで採取した砂金は高温で熱して液体にしたのち、型に流し込んで冷やし固めていたようである。
高温で熱するには強い火力が必要なので、ふいごなどで風が送り込まれた。

ひょっとこには火と風のイメージがある。
そういったところから、ひょっとこと金の鋳造は結び付けられ、そこから「ヘソから金を生む」などという話が作られたのではないだろうか。

梅津六斎 祇園囃子 ひょっとこ

③柿本人麻呂、語呂合わせで防火の神・安産の神となる。

ひょっとこが退場したあとも祇園囃子の激しいリズムが続く。
そして、舞台上にはおかめが登場した。

おかめはお腹が大きく膨らんだ妊婦さんの姿をしている。

梅津六斎 祇園囃子 おかめ


これを見て私は和歌三神の一柱、柿本人麻呂を思い出した。
前回、和歌三神の一柱であると説明した歌人である。(残る二柱は住吉明神と衣通姫または玉津島姫)

人麻呂は人丸(ひとまる)とも呼ばれたが、「火止まる」の語呂合わせで防火の神、「人産まる」の語呂合わせで安産の神へと神格を広げたというのだ。

すると梅津六斎の『祇園囃子』に登場した『火の用心』の巻物を持ったひょっとこは防火の神、妊婦の姿をしたおかめは安産の神ということなのだろう。
④スサノオと柿本人麻呂は習合されている?

祇園祭 花笠巡行 久世六斎

祇園祭 花笠巡行 久世六斎 後ろに見えているのは八坂神社の楼門


祇園囃子は祇園祭で奏されるお囃子である。
祇園祭は京都八坂神社の祭礼で、八坂神社の御祭神はスサノオである。

貴船神社 貴船祭 出雲神楽

貴船神社 貴船祭 出雲神楽 スサノオと八岐大蛇 後方にクシナダヒメの姿が見える。


祇園祭はスサノオを慰霊する祭礼だといえる。
それなのに、なぜ六斎念仏の『祇園囃子』に防火の神と安産の神が登場するのだろうか。
これではまるで祇園祭は柿本人麻呂を慰霊する祭のようではないか。

スサノオはクシナダヒメと新婚生活を送る場所を求め、根之堅洲国の須賀へやってきて
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を
と詠んだ。

この和歌は日本初の和歌だとされ、スサノオは和歌の神とされており、和歌の神としても信仰されている。
スサノオを祀る八坂神社で正月に「かるた始め」の行事が行われているのは、スサノオが和歌の神でもあるためだという。

八坂神社 かるた始め 

八坂神社 かるた始め

スサノオと柿本人麻呂は習合されており、そのため祇園囃子という演目に防火の神(ひとまる=火止まる)や安産の神(ひとまる=人産まる)が登場するのではないだろうか。

祇園祭 山鉾巡行

祇園祭 函谷鉾、四条傘鉾、月鉾

祇園祭 山鉾巡行 船鉾

祇園祭 船鉾

⑤妙性寺縁起の語呂合わせ


妙性寺縁起には小野小町の伝説が伝えられているが、語呂合わせで神格を広げた柿本人麻呂の話に似ている。

晩年、小町は天橋立へ行く途中、三重の里・五十日(いかが・大宮町五十河)に住む上田甚兵衛宅に滞在し、「五十日」「日」の字を「火」に通じることから「河」と改めさせた。
すると、村に火事が亡くなり、女性は安産になった。
再び天橋立に向かおうとした小町は、長尾坂で腹痛を起こし、上田甚兵衛に背負われて村まで帰るが、辞世の歌を残して亡くなった。

九重の 花の都に住まわせで はかなや我は 三重にかくるる
(九重の宮中にある花の都にかつて住んだ私であるが、はかなくも三重の里で死ぬのですね。)
後に深草の少将が小町を慕ってやってきたが、やはり、この地で亡くなった。
(妙性寺縁起)


五十日→五十火→火事になる→五十河→河の水で火が消える→火止まる→ひとまる→人産まれる

このような語呂合わせのマジックで村の火事はなくなり、女性は安産になったというわけである。

⑥日の神とは火の神と同一神


前回、私は次のようなことを述べた。

神はその表れ方によって御霊(神の本質)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂(神の荒々しい側面)の3つに分けられ、和魂は女神で荒魂は男神とする説がある。
とすれば御霊は男女双体である。

住吉明神とは底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命の総称である。
その名前から考えて底筒男命、中筒男命、表筒男命は男神である。
そして息長足姫命とは神宮皇后のことで女神である。
つまり、住吉明神とは三柱の男神と一柱の女神からなる神である。
女神が一柱であるのに対し、男神が三柱あるのは一柱の男神をさらに御霊・荒魂・和魂とわけたのだろうか、と。

御霊・・・神の本質・・・・・・・・・・男女双体・・・住吉明神(底筒男命、中筒男命、表筒男命+息長足姫命)
和魂・・・神の和やかな側面・・・・・・女神・・・・・衣通姫
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・・・・男神・・・・・柿本人麻呂


さらに、御霊とは和霊と荒霊の男女双体と考えられるので、衣通姫と息長足姫命は同一神、柿本人麻呂と底筒男命、中筒男命、表筒男命は同一神ということになる。

衣通姫=息長足姫命
柿本人麻呂=底筒男命、中筒男命、表筒男命

下呂温泉 飛騨街道 道祖神?

下呂温泉 道祖神

また道祖神はサルタヒコとアメノウズメの男女双体の神だが、ニニギはアメノウズメに「サルタヒコを伊勢まで送るように」と命じている。
伊勢には伊勢神宮があって天照大神を祀っている。
つまり、サルタヒコと天照大神は同一神だと考えられる。

そして和魂である河の神はイチキシマヒメや弁財天など女神と相場が決まっている。
すると、荒魂である火の神は男神だと考え、したがって、次のような関係になると考えた。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体・・・・・住吉明神(底筒男命、中筒男命、表筒男命+息長足姫命)・・・星の神
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・・・衣通姫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・月の神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・・・柿本人麻呂・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日の神

太陽と月が重なるのは日食である。
日食になると夜のように暗くなり、明るい星であれば見る事もできるそうである。

日の神と月の神が重なると、星の神が登場するというわけである。
日の神と月の神が結婚すると星の神になると言ってもいいだろう。

小町は「五十日」「日」の字を「火」に通じることから「河」と改めさせている。
つまり日の神は火の神と同一神、月の神は河の神と同一神だと考えられる。

陰陽思想で見ても、火は男や太陽と同じ陽、水(河)は女や月と同じ陰である。

御霊・・神の本質・・・・・・男女双体・・住吉明神(底筒男命、中筒男命、表筒男命+息長足姫命)・・・星の神
和魂・・神の和やかな側面・・女神・・・・衣通姫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・月の神=河の神
荒魂・・神の荒々しい側面・・男神・・・・柿本人麻呂・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日の神=火の神

御霊・・神の本質・・・・・・男女双体・・住吉明神・・・スサノオ+クシナダヒメ・・おかめ+ひょっとこ・・星の神
和魂・・神の和やかな側面・・女神・・・・衣通姫・・・・クシナダヒメ・・・・・・・おかめ・・・・・・・・月の神=河の神
荒魂・・神の荒々しい側面・・男神・・・・柿本人麻呂・・スサノオ・・・・・・・・・ひょっとこ・・・・・・日の神=火の神



⑦スサノオは星の神だった?

祇園祭は八坂神社の祭礼だが、八坂神社の御祭神のスサノオは記紀ではスサノオはイザナギに「大海原をおさめよ」と命じられていたり、黄泉の王として登場したりいまひとつ神格がはっきりしない神である。

船場俊昭氏は「スサノオ(素戔嗚尊)とは輝ける(素)ものを失い(戔う/そこなう)て嘆き悲しむ(鳴/ああ)神(尊)」という意味で、はもとは星の神であったとしておられる。

また、イザナギの左目から天照大神が、右目から月読命が、鼻からスサノオが生まれたとされるが、陰陽道の宇宙観では、東(左)を太陽の定位置、西(右)を月の定位置、中央を星としている。

地図では東が右で西が左だが、正しくは東は向かって右、西は向かって左である。
地図の側にたてば東が左で西が右になる。

イザナギの顔は宇宙に喩えられているのだ。
すなわち、イザナギの顔の中央にある鼻から生まれたスサノオは星の神だと考えられる。

しかし、正確には⑥であげた図に従うべきだと思う。

御霊・・神の本質・・・・・・男女双体・・住吉明神・・・スサノオ+クシナダヒメ・・おかめ+ひょっとこ・・星の神
和魂・・神の和やかな側面・・女神・・・・衣通姫・・・・クシナダヒメ・・・・・・・おかめ・・・・・・・・月の神=河の神
荒魂・・神の荒々しい側面・・男神・・・・柿本人麻呂・・スサノオ・・・・・・・・・ひょっとこ・・・・・・日の神=火の神


上の図に従えば、正確にはスサノオとクシナダヒメの男女双体が星の神だったというべきだろう。


貴船神社 貴船祭 出雲神楽 
貴船神社 貴船祭 出雲神楽 スサノオと八岐大蛇 後方にクシナダヒメの姿が見える。



小野小町は男だった⑧ 雨乞い小町 『小野小町は弁財天・イチキシマヒメ・善女竜王と習合されている。』 へつづく~
トップページはこちら → 小野小町は男だった① 小野小町はなぜ後ろを向いているのか 

 
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[2017/05/20 18:45] 小野小町は男だった | TB(0) | CM(0)

小野小町は男だった⑥ 小野小町は衣通姫の流なり 『小野小町は和魂だった?』※書き直しました。 

小野小町の謎⑤ 小野小町は絶世の美女だった。よりつづく。

※考えに誤りがあったことに気が付いたので、記事を大幅に書き直しました。すいませーん。

①手をつなぎあう男女双体の神

道祖神は手を繋ぎ合う男女双体の神像として作られたり、また陰陽石で表されることもあった。
陰陽石とは男女のシンボルを象った石のことである。

多気山不動尊 道祖神

多気山不動尊 道祖神

飛鳥坐神社 むすひの神石

飛鳥坐神社 むすびの神石

飛鳥坐神社には上の写真のような陰陽石がたくさんある。
「むすびの神石」と呼ばれているが、これは道祖神と言ってもいいだろう。
関西にはどういうわけか男女の神像をした道祖神はあまり見かけない。

川治温泉 おなで石 

川治温泉 おなで石(おなで石は祠の中の石ではなく、祠の手前にある四角い石)

川治温泉(栃木県日光市)にはおなで石と呼ばれる女性のシンボルを象った石があり、その周囲には男性のシンボルを象った石もいくつか並べられていた。
また温泉街のあちこちに神像タイプの道祖神も置かれていた。

道祖神とはもともとは中国の神であったのが日本に伝わり、日本では猿田彦と天鈿女の男女双体の神として信仰された。

中国には伏羲&女媧という男女双体の神もいる。
伏羲&女媧は兄妹または夫婦とされ、伏羲の右手と女媧の左手はつながっている。

File:Anonymous-Fuxi and Nüwa3.jpg

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AAnonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg よりお借りしました。
作者 匿名 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


手のつながった伏羲&女媧の姿は、男女の神が手をつなぎあう姿をした道祖神を思わせる。
おそらく伏羲&女媧と道祖神は習合されているのだろう。



川治温泉 如意輪観音(向かって右)と道祖神(向かって左)

②女神が男神の足を踏みつける神

大聖歓喜天という仏教の神がある。
大聖歓喜天はもともとはヒンズー教の神であったのが、のちの仏教にとりいれられて仏法守護の神とされた。
大聖歓喜天のお姿は道祖神や伏羲&女媧と同じく男女の神が抱きあう姿で表され、次のような伝説がある。

鬼王ビナヤキャの祟りで国中に不幸な出来事がおこった。
そこで十一面観音はビナヤキャの女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われた。
ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、『自分のものになれ』と命令した。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓った。
 

双身歓喜天像の相手の足を踏みつけているほうが、十一面観音菩薩の化身ビナヤキャ女紳とされる。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

③猿田彦神は天照大神だった?

道祖神は日本では猿田彦神と天鈿女の男女双体の神だとされているということはすでに述べたとおりだが、猿田彦神と天鈿女は記紀神話の天孫降臨のシーンに登場する。

天孫ニニギの葦原中国降臨の際、天上の道が八衢に分かれている場所に立ち、高天原から葦原中国までを照らす神があった。
天照大神と高木神は天鈿女に命じて、神の名前を尋ねさせた。
天鈿女は神の前にたち、胸をあらわにし、腰ひもをずらし、神に名を訪ねた。
すると『私は国津神で猿田彦神と申します。ニニギを葦原中国まで道案内しようと思い参りました』と答えた。
ニニギは猿田彦神に道案内されて葦原中国の日向の宮へと天下った。
その後、ニニギは天鈿女に『猿田彦神をもともと彼が住んでいた伊勢へと送り届け、猿田彦神の名前を伝えて仕え祭れ』と命じた。
ここから天鈿女は猿女君と呼ばれるようになった。
のちに猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死んだ。(古事記)


猿田彦神は「高天原から葦原中国までを照らす神」だと記述があるが、これにぴったりな神名を持つ神様がいる。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)である。

高天原は天、葦原中国は国といってもよく、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊はまさしく「高天原から葦原中国までを照らす神」という神名ではないか。

天火明櫛玉饒速日尊という神名は先代旧事本紀による記述で、記紀では単にニギハヤヒとなっている。
猿田彦神とニギハヤヒは同一神だと考えられる。

記紀には天照大神は女神であると明記されているが、天照大神は男神であるという伝承は各地に伝わってる。
天照大神は天岩戸に隠れるが、天鈿女のストリップに興味を持って外に出てきた。
女性のストリップを喜ぶのは男だ、よって本当の天照大神は男神の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=ニギハヤヒではないかとする説もある。

ニギハヤヒは初代神武天皇よりも早く畿内に天下っていた神である。
のちに日向から神武が東征してきて畿内入りしたとき、神武はナガスネヒコという地元の豪族と争った。
ナガスネヒコはニギハヤヒを神として奉じており、ニギハヤヒとナガスネヒコの妹の間にはウマシマジノミコトという御子もあった。
ニギハヤヒやウマシマジノミコトは物部氏の祖神とされる。
ところがニギハヤヒは神武に服し、自分を神として崇めていたナガスネヒコを殺したと記紀には記述がある。
こうして神武天皇は初代天皇として大和で即位する。

この記述から、畿内には神武以前に物部王朝があったとする説がある。

磐船神社 天の磐船

磐船神社(大阪府交野市) 
写真は御神体の天の磐船。
ニギハヤヒはこの天の磐船を操ってここに天下ったと伝わる。


⑧神武は物部王朝の入り婿になった?

初代神武天皇と10代崇神天皇はどちらも和風諡号を「ハツクニシラス」という。
「ハツクニシラス」が二人いるのはおかしい。
そのため、神武と崇神は同一人物ではないかとする説がある。

そして崇神天皇には「ミマキイリビコイニエ」という和風諡号もある。
11代垂仁天皇は和風諡号を「イクメイリビコイサチ」といい、諡号に「イリ」とあるため「イリ王朝」と呼ばれることもある。
この「イリ」とは「入り婿」の「イリ」だとする説がある。

記紀神話には葦原中国に天下ったニニギがオオヤマツミの娘・コノハナサクヤヒメと結婚したり
ホオリが竜宮に行って海神の娘・トヨタマヒメと結婚するなど、入り婿になる話が多いのは、史実を反映したものなのかもしれない。

つまり、崇神=神武は物部王朝に婿入りし、物部氏から政権を奪ったのではないかということである。

天照大神は物部氏の祖神・天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)=ニギハヤヒであり、代々、ニギハヤヒの血を引く者が天照大神(天皇)となって大和の国を統治するというルールがあったのではないだろうか。

そこで、神武=崇神は自分の妻である物部氏の女性を天照大神としたのだと思う。
そうすれば、神武=崇神の子孫が天照大神の子孫を名乗っても嘘とはいえない。(天皇家の祖神は天照大神とされる。)

しかし神武=崇神は自分の血をひく者しか天皇になれないように、皇位継承は男系に限っている。

④道祖神はなぜ手をつなぎあっているのか。

ニニギは猿田彦神に道案内されて葦原中国へ天下ったのち、天鈿女に『猿田彦神をもともと彼が住んでいた伊勢へと送り、彼の名前を伝えて仕え祭れ』と命じている。

ニニギは天鈿女に『猿田彦神に仕え祭れ』と命じているが、『仕える』というのは『性的に奉仕する』ということだと思う。
天鈿女は天照大神が天岩戸に隠れたときにはストリップをして神々を笑わせている。
また猿田彦神に出会ったときにも胸を開き、腰ひもをずらして誘惑している。
天鈿女は性の女神なのである。

日本では政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人は死後怨霊となって疫病や天災をもたらすと考えられていた。
政権を奪われ、太陽神という神格も奪われたニギハヤヒは怨霊になったことだろう。
『猿田彦神に仕え祭れ』の『祭れ』とは、『祟り神である猿田彦神を神として祀り上げることで守護神に転じよ』ということだと思う。

猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市))の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死んだ。
貝は女性器の比喩だろう。
つまり、猿田彦は天鈿女の女性器に手を挟まれて抜けなくなり、愛欲に溺れて死んだという意味だと思う。

既に述べたように道祖神は猿田彦神と天鈿女の男女双体の神像とされる。
道祖神は男神と女神が手を繋ぎあっているが、実は手を繋ぎ合っているのではなく、天鈿女の女性器に猿田彦神の手が挟まれて死んだ状態を表しているのではないだろうか。
歓喜天は女神が男神の足を踏みつけているが、中国の伏羲&女媧や道祖神は足のかわりに手を押さえつけた姿で表されているのだ。

猿田彦神は伊勢が故郷であるが、伊勢には天照大神を祀る伊勢神宮がある。
天照大神を祀る伊勢神宮が猿田彦神の故郷ということなのだろう。

河治温泉 道祖神 
河治温泉 道祖神

⑤御霊・和霊・荒霊と男神・女神

神はその表れ方によって御霊・和霊・荒霊の3つに分けられるという。
御霊とは神の本質、和霊とは神の和やかな側面、荒霊とは神の荒々しい側面のことである。

御霊・・・・・神の本質
和霊・・・・・神の和やかな側面
荒霊・・・・・神の荒々しい側面


そして神には性別があるが、男神は荒霊を、女神は和霊を表すとする説がある。
とすれば、神の本質である御霊は男女双体になると思う。

御霊・・・・・神の本質・・・・・・・・・男女双体
和魂・・・・・神の和やかな側面・・・・・女神
荒魂・・・・・神の荒々しい側面・・・・・男神


大聖歓喜天や猿田彦&天鈿女の説話は、和霊=女神、荒霊=男神とする観念をうまく表している。

御霊・・・・・神の本質・・・・・・・・・男女双体・・・・・大聖歓喜天・・・・・・道祖神
和魂・・・・・神の和やかな側面・・・・・女神・・・・・・・ビナヤキャ女神・・・・天鈿女
荒魂・・・・・神の荒々しい側面・・・・・男神・・・・・・・鬼王・ビナヤキャ・・・猿田彦神


御霊・和霊・荒霊という日本神道の観念は、大聖歓喜天の信仰の影響を受けたものではないだろうか。

下呂温泉 飛騨街道 道祖神?

下呂温泉 道祖神

⑥太陽(猿田彦)と月(天鈿女)が結婚すると星の神になる。

陰陽思想では男は陽で女は陰、太陽(日)は陽で月は陰とする。
天体性別
太陽(日)

記紀神話では天照大神は女神だとしているが、世界的に見ても太陽神が女神というのは珍しい。
やはり、太陽の神・天照大神とは照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)=ニギハヤヒ=猿田彦だろう。
そして猿田彦の手を押さえつけている天鈿女は月の神だと考えられる。

太陽と月が重なり合う(結婚する)ということは日食を意味する。
詳しくはこちらの記事をお読み下さい。→ 「太陽と月が結婚すると星が生まれる?」 

日食になると闇になって昼間は見えないはずの星が見える。
もしかすると昔の人々は日と月が重なり合った結果、光がくだけちって星になると考えたのかもしれない。

御霊・・・・・神の本質・・・・・・・・・男女双体・・・・・大聖歓喜天・・・・・・道祖神・・・・星の神
和魂・・・・・神の和やかな側面・・・・・女神・・・・・・・ビナヤキャ女神・・・・天鈿女・・・・月の神
荒魂・・・・・神の荒々しい側面・・・・・男神・・・・・・・鬼王・ビナヤキャ・・・猿田彦神・・・日の神



このように考えると、太陽神・天照大神の子孫なのに、天皇という称号を名乗っていることの理由もとける。
天皇とは道教で北極星を司る神のことである。

太陽神・天照大神の子孫である天皇家の男子は、即位する際、月の神と契って男女双体の御霊となると考えらえたのでははないだろうか。
月の神と契った太陽の神は星の神になる。
それで天皇という称号を用いているのではないかと思う。

⑦衣通姫は和霊だった。

長々と説明してきたが、ようやくここで本題に戻ることができる。
古今和歌集仮名書には「小野小町は古の衣通姫の流なり」と記されているが、この衣通姫は住吉明神・柿本人麻呂らとともに和歌三神の一柱とされている。

柿本人麻呂は男神、衣通姫は女神である。
そして住吉明神とは底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命の総称である。
その名前から考えて底筒男命、中筒男命、表筒男命は男神である。
そして息長足姫命とは神宮皇后のことで女神である。
つまり、住吉明神とは三柱の男神と一柱の女神からなる神なのである。
女神が一柱であるのに対し、男神が三柱あるのは一柱の男神をさらに御霊・荒霊・和霊とわけたのだろうか。
ともあれ、住吉明神は男女双体の神だといえる。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体・・・・・住吉明神(底筒男命、中筒男命、表筒男命+息長足姫命)
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・・・衣通姫
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・・・柿本人麻呂

住吉大社 レイアウト

↑ 住吉大社の神殿の並びは上の図のようになっている。
これはオリオン座の三つ星の並びとよく似ており、住吉明神はオリオン座の三つ星(みたらし星)を表した神だと考えられる。

現在、住吉明神に星の神という神格はなく海の神として信仰されている。
オリオン座の三ツ星は航海の指標とされており、住吉明神を海の神とするのは星の神の二次的な神格だといえるだろう。
住吉明神は星の神という神格を奪われ、二次的な神格である海の神へと神格を変えられたのだろう。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体・・・・・住吉明神(底筒男命、中筒男命、表筒男命+息長足姫命)・・・星の神
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・・・衣通姫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・月の神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・・・柿本人麻呂・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日の神



「小野小町は衣通姫の流なり」とあるのは、小野小町も衣通姫のような和霊であり、月の神という意味だと私は思う。

髄心院 小野小町像 

髄心院に展示されていた小野小町像


小野小町は男だった⑦ 妙性寺縁起 『語呂合わせで神格が変わる神』 へつづく~
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[2017/05/16 00:46] 小野小町は男だった | TB(0) | CM(0)

小野小町は男だった⑤ 小野小町は絶世の美女だった。『【衣通姫の流なり】を勘違い?』 

小野小町は男だった④ 小町、疱瘡を患う 『小野小町は疫神だった?』  よりつづく


髄心院 小野小町像 

髄心院に展示されていた小野小町像

①小野小町は衣通姫の流れなり

戦国武将や歴代天皇の名前を知らない人でも小野小町の名前は知っている。
小野小町の名前が多くの人に知られているのは、小野小町が世界三大美女のひとりだとされていることによるものだろう。

世界三大美女とはエジプトのクレオパトラ、中国唐代の楊貴妃、そして日本の小野小町のことであるとされる。
(世界三大美女のひとりに小野小町を入れるのは日本だけである。
世界的には、クレオパトラ、楊貴妃、ヘレネが世界三大美女とされている。
ヘレネとはギリシャ神話に登場する美女で、スパルタのメネラオス王子とトロイアのパリス王子がヘレネを巡って争いトロイア戦争がおこったとされる。)

小野小町が絶世の美女だといわれているのは、古今和歌集仮名序の次の文章によるものだと考えられている。

小野小町は いにしへの衣通姫の流なり
あはれなるやうにて強からず
いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし


衣通姫とは記紀(古事記・日本書紀のこと)に登場する女性で、肌の美しさが衣を透して輝くという意味で衣通姫と呼ばれていた。
「小野小町はいにしへの衣通姫の流なり」とは大変抽象的でわかりにくい文章だが、衣通姫が美人なので、衣通姫の流である小野小町も美人であると、そう解釈されたようである。

髄心院 小野小町

ライトペインティングのジミー西村さんと織物会社が共同制作した小野小町のタペストリー(髄心院)


②ウィキペディアの解説は意訳しすぎ


ウィキペディアでは「衣通姫の流なり」は和歌の歌風について述べたものだとし、次のように解説している。

『古今和歌集』序文において紀貫之は彼女の作風を、『万葉集』の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせているとして絶賛した。


私はウィキペディアのこの解説には問題があると思う。
意訳しずぎなのだ。
意訳にはどうしても主観が入ってしまいがちなので、古典はできる限り直訳したほうがいいと思う。

『古今和歌集』序文とは紀貫之が書いた『古今和歌集仮名序』のことだろうが、古今和歌集仮名序の小野小町について記された文章は上に示したとおりである。
直訳すると次のようになると思う。

小野小町は古の衣通姫の流れである
しみじみとした趣があるようで、強くない。
いわば、いい女には悩んでいるところがあるものだが、それに似ている。
強くないのは女の歌だからだろう。


『古今和歌集仮名序』の中で、小野小町に触れられているのはこの部分だけである。

『万葉集の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせている。』というのは、『小野小町は いにしへの衣通姫の流なり・・・』の部分を意訳したのだろう。

衣通姫の歌は万葉集に採られている
それで『小野小町は いにしへの衣通姫の流なり』を『万葉集の頃の清純さを保ちながら』としたのだろうが、『いにしへの衣通姫の流なり』を『万葉集のころの歌風である』とするのは、あまりに意訳しすぎである。

さらに『清純』などと言う言葉は原文にはない。
 
また小町の歌「花のいろは 移りにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに」を鑑賞してみると、掛詞や縁語などを多用した技巧的な歌であり、とても万葉集のころの歌風であるとは私には思えない。
 (「いろ」は「色」と「容色」、「ながめ」は「眺め」と「長雨」にかかる。「ふる」と「ながめ(長雨)」は縁語など)

『あはれなるやうにて強からず』を『なよやかな』とするのはわからなくもないが、『王朝浪漫性』という言葉はいったいどこから来るのか。
そして、『絶賛した』とあるが、むしろ『古今和歌集仮名序は小町の歌をほめていない、紀貫之は「歌とは強くあるべきだ」と言っているのではないか』とする研究者もいる。

髄心院 歌碑 八重桜
 
小野小町歌碑 隨心院  髄心院は小野小町の邸宅跡と伝わる。


③古今和歌集仮名序は歌人の人生について述べたもの?

古今和歌集仮名序の文章は、和歌について述べたものだとする研究者もいる。
しかし私は小野小町の謎③ 草子洗い で古今和歌集仮名書の大伴黒主について記された文章について述べた。

大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。

大友黒主と大伴家持はほとんど同じといっていい歌を詠んでおり、同一人物だと思われる。

大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与していたとして、すでに死亡して埋葬されていたのだが、死体が掘り出されて流罪となっている。
仮名序の「そのさまいやし」とは、掘り出された死体が腐り、黒く変色している様を言っているのではないだろうか。

とすれば、それは黒主の和歌について述べられたものというよりは、黒主という人物の人生について述べられたものであるように思われる。

祇園祭 黒主山 御神体 

祇園祭 黒主山 御神体

文屋康秀も同様である。

文屋は分室と記されることがあり、文屋康秀は文室宮田麻らの親族ではないかと考えられるが
宮田麻呂は、840年から842年にかけて筑前守を務め、この任期中に新羅の承認・張宝高(ちょうほうこう)にあしぎぬを贈り、唐の物産を輸入しようとしたことが「続日本後紀」に記されている。
謀反の罪により伊豆国へ配流となってたが、のちに無実であることがわかり、神泉苑の御霊会で慰霊された。

仮名序は「文屋康秀は詞たくみにてそのさま身におはず。いはば商人のよき衣着たらむが如し 」と記すが、これは文屋康秀の親族と考えられる分室宮田麻呂が無実の罪で配流となり、そのとばっちりを受けて文屋康秀の人生が貶められたと言っているように私には思える。

古今和歌集仮名書で小野小町について記された部分も、小野小町の和歌についての批評ではなく、小野小町がどのような女性なのかについて述べたものだと思う。

④衣通姫は和歌三神 の一

さらに「衣通姫の流なり」は「絶世の美女である」という意味でもないと思う。

住吉明神・柿本人麻呂・玉津島明神の三柱の神々のことを和歌三神という。

住吉明神とは大阪の住吉大社に鎮座する四柱の神、底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと))・神宮皇后の総称である。
住吉明神は「住吉大社神代記」や「伊勢物語」に登場し、和歌で託宣をたれている。

住吉大社 住吉祭

住吉大社 住吉祭

柿本人麻呂は飛鳥時代の官僚で持統・文武両天皇に仕えた人物である。
万葉集に多くの歌がとられており、そのいずれもが名歌と絶賛されている。。
柿本神社、人麻呂神社、人麿神社という名前の神社が各地にあり、御祭神として祀られている。

人麿神社 すすつけ祭 

人麿神社(奈良県橿原市)すすつけ祭

梅原猛さんは柿本人麻呂は怨霊であると言っておられる。
人麻呂の晩年の歌には水底や死のイメージがあるものが多く、彼は流罪となって水死させられたのではないかというのである。

また柿本神社などにある柿本人麻呂像は首がすっぽり抜けるように作ってあり、それは人麻呂が怨霊として蘇らないようにするための呪術であるとも梅原さんはおっしゃっている。

玉津島明神とは和歌山県和歌浦にある玉津島神社に祀られている稚日女命(わかひめのみこと)・神宮皇后・明光裏の霊・衣通姫の四神の神の総称である。
玉津島明神のかわりに衣通姫を加え、住吉明神・柿本人麻呂・衣通姫の三神を和歌三神とすることもある。

衣通姫とは和歌三神の一柱だったのである。

●「小野小町は衣通姫の流なり」の意味

平安時代末、住吉大社の神主であった津守国基が次のように歌を詠んでいる。

住吉の堂の壇の石取りに紀の国にまかりたりしに、和歌の浦の玉津島に神の社おはす。たづねきけば、「衣通姫のこのところをおもしろがりて、神になりておはすなり」と、かのわたりの人言ひ侍りしかば、よみて奉りし

年ふれど 老いもせずして 和歌の浦に いく代になりぬ 玉津島姫(国基集)

かくよみて奉りたりし夜の夢に、唐髪あげて裳唐衣きたる女房十人ばかり出できたりて「嬉しき喜びに言ふなり」とて、取るべき石どもを教へらる。教へのままに求むれば、夢の告げのままに石あり。石造りして割らすれば、一度に十二にこそ割れて侍りしかば、壇の葛石(かづらいし)にかなひ侍りにき

(住吉大社のお堂の土壇の縁石をとりに紀の国へ行ったところ、和歌の浦に玉津島神社があった。
訪ね聞いたところ、「衣通姫がこの場所を気に入って神となられた。」と近所の人が言ったので、歌を詠んで玉津島明神に奉った。

和歌の浦は若の浦なのでしょうか、若の浦という名前と同様に、年を経たが老いもしないで和歌の浦に鎮座して幾代になられるのですか。玉津島姫よ。

こう詠んで奉った夜の夢に、唐髪あげて裳唐衣をきた女房が十人ほど出てきて「たいへん嬉しく喜んでいます。そのお礼に教えてさしあげましょう。」と言って、壇の石にちょうどいい石を教えてくれた。
教えられたとおりにすると、夢のお告げのとおりに石があった。
石造に割らせると、一度に十二片に割れ、壇の葛石にちょうどよかった。)


津守国基は歌の中で玉津島姫と言っているが、これは玉津島明神のことを言っているのだろう。
そして、さきほども述べたように玉津島明神と衣通姫とは同一視されている

年ふれど 老いもせずして 和歌の浦に いく代になりぬ 玉津島姫(国基集)

ここに、「いく代になりぬ」とある。
「いく代」は「幾代」だろう。
そして詞書によれば、近所の人が「衣通姫がこの場所を気に入って神となられた。」と言ったとある。

国基は衣通姫に「あなたは何代目の玉津島姫になったのか」と訊ねているのではないだろうか。

そして国基の夢の中に十人ほどの女房がでてきたとある。
玉津島姫という神名は襲名されて、いろんな神にひきつがれていくのではないだろうか。
つまり10人ほどの女房はすべて玉津島明神で、衣通姫はその中のひとりだということではないかと思うのだ。

またさきほども述べたように玉津島明神のかわりに衣通姫を加え、住吉明神・柿本人麻呂・衣通姫の三神を和歌三神とすることもある。
つまり、玉津島姫と衣通姫は同一神と考えてもいい。
とすれば、「小野小町は古の衣通姫の流なり」とは小野小町が衣通姫のような美人だという意味ではなくて「小野小町は玉津島明神や衣通姫と同一神である」というような意味なのではないだろうか。

玉津島明神や衣通姫は和歌三神の一柱で和歌の神であるが、小野小町は六歌仙の一柱であり、やはり和歌の神であるといえ、玉津島明神・衣通姫・小野小町には共通点がある。

また、帯解寺境内に小野小町を祀る小町之宮もある。
これは小町が住吉明神(住吉大社)、柿本人麻呂(人麿神社)、玉津島姫(=衣通姫/玉津島神社)ら和歌三神と同様、神であることを示すものだといえる。

帯解寺 小町之宮

小野小町を祀る小町之宮 (帯解寺)

小野小町は男だった⑥ 小野小町は衣通姫の流なり 『小野小町は和魂だった?』 へつづく~
トップページはこちら → 小野小町は男だった① 小野小町はなぜ後ろを向いているのか 

 
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[2017/05/09 16:59] 小野小町は男だった | TB(0) | CM(0)

小野小町は男だった④ 小町、疱瘡を患う 『小野小町は疫神だった?』 

小野小町は男だった③ 草子洗い『大友黒主と大伴家持は同一人物?』  より続く

①みとほけに変化する病人伝説

小野小町に次のような伝説がある。

京都・福知山市の温泉町に疱瘡(天然痘)を患った小町がやってきた。
小町は薬師如来に祈って温泉につかった。
すると小町の疱瘡はたちまち治った。


これと同じような伝説が光明皇后と行基にもある。

【光明皇后の伝説】
光明皇后は法華寺に浴室を建立し、千人の民の汚れを洗い流そうと願を立てた。
千人目は膿のある病人で、病人は皇后に『膿を口で吸い出してほしい』と頼んだ。
皇后が病人の膿に唇を近づけたとたん、病人は阿閦如来になった。


法華寺 山茱萸 

光明皇后の千人風呂伝説が伝わる奈良・法華寺の浴室(からぶろ)


【行基の伝説】
行基が旅の途中、病人に出会った。
行基は病人に食べ物を食べさせ、有馬温泉に連れていった。。
病人は「温泉では私の皮膚病は治らない。舐めてくれないか」と行基に頼んだ。
行基はためらうことなく、膿んで異臭のする病人の肌を舐めた。
すると病人は薬師如来となった。


日本の伝説には同じような話が多い。
光明皇后や行基の伝説が伝えようとしているものが何なのかについて解ければ、小野小町が疱瘡を患ったという伝説が伝えようとしているものについても解けるのではないだろうか。

②光明皇后を恐れさせた長屋王の怨霊

まず、光明皇后の伝説から見てみることにしよう。

光明皇后は法華寺に浴室を建立し、千人の民の汚れを洗い流そうと願を立てた。
千人目は膿のある病人で、病人は皇后に『膿を口で吸い出してほしい』と頼んだ。
皇后が病人の膿に唇を近づけたとたん、病人は阿閦如来になった。


法華寺 沈丁花 

光明皇后の千人風呂伝説が伝わる奈良・法華寺

この伝説に登場する病人はおそらく天然痘を患っていたのだろう。

種痘が開発されたおかげで日本では1955年以降天然痘患者は確認されていない。
しかし種痘がなかった平安時代、天然痘は人の命を奪う恐ろしい病だった。
そして古には天然痘などの疫病は怨霊の祟りによってもたらされると信じられていた。

光明皇后は天然痘をもたらす怨霊を特別怖れた人であったと私は思う。
というのは、光明皇后は天然痘をもたらす怨霊に祟られる理由があったからである。

法華寺 桜 

光明皇后の千人風呂伝説が伝わる奈良・法華寺

光明皇后は藤原不比等の娘で、武智麻呂、房前、宇合、麻呂という四人の兄弟がいた。
父親の不比等は右大臣で当時政界のトップの人物だった。
720年、藤原不比等が死去すると長屋王が政界のトップとなり、724年、長屋王は左大臣となった。
しかし長屋王政権は長くは続かなかった。
729年、長屋王が左道(邪道)によって国家を傾けようとしていると、朝廷に密告する者があった。
藤原四兄弟の一人である藤原宇合の軍が長屋王の邸宅を包囲し、舎人親王と新田部親王が長屋王の取り調べを行った。
厳しい取調べに耐え切れず長屋王は自殺に追い込まれ、妃の吉備内親王と子の膳夫王も供に死んだ。
これを長屋王の変という。 

長屋王邸 模型


長屋王の邸宅はイトウヨーカ堂奈良店あたりにあったとされ、イトウヨーカ堂の建物の裏手に長屋王邸の小さな模型がある。


聖武天皇と光明皇后の間には727年に基王が生まれていたが、基王は生後まもなく夭逝していた。
聖武天皇には他に安積親王があったが安積親王の母親は県犬養広刀自で光明皇后の子ではなかった。
このため、長屋王の子・膳夫王が皇位継承の最有力者とされていたようで、長屋王の変は藤原四兄弟が長屋王の権力を潰そうと陰謀を企てたものと考えられている。

長屋王の没後、藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)は妹の光明子を聖武天皇の皇后に立て、政界の中心人物となった。

ところが737年、藤原四兄弟は天然痘になって次々に死んだ。
そして、藤原四兄弟が死んだのは長屋王の怨霊の祟りだと噂された。

光明皇后は長屋王を貶めた藤原四兄弟の妹である。
光明皇后は「次は自分が長屋王の怨霊に祟られる番だ。」と怯える日々を送ったことだろう。

光明皇后は熱心な仏教徒であり、夫の聖武天皇が東大寺や国分寺を設立したのは、光明皇后の進言によるものであるという。
また、悲田院や施薬院をつくるなど慈善活動に熱心であったとも伝わる。
光明皇后はみほとけにすがることで長屋王の怨霊の祟りから逃れようと考えたのだろう。



長屋王邸跡 

上の写真は長屋王低の柱跡を示したもので、イトウヨーカ堂の建物の裏側の従業員出入り口付近にある。


③行基が供養した長屋王の霊

次に行基の伝説を見てみよう。

行基が旅の途中、病人に出会った。
行基は病人に食べ物を食べさせ、有馬温泉に連れていった。。
病人は「温泉では私の皮膚病は治らない。舐めてくれないか」と行基に頼んだ。
行基はためらうことなく、膿んで異臭のする病人の肌を舐めた。
すると病人は薬師如来となった。


ここに登場する皮膚病を患った病人も、天然痘患者だろう。

関西には行基を開基とする寺が数多くある。
大阪府豊中市にある東光院も行基を開基とする寺で、創建は735年である。

東光院 萩 山門

東光院

その東光院には次のような伝説が伝わっている。

行基は豊崎村(現在の大阪市北区中津)にで民衆に火葬の方法をはじめて教え、淀川のほとりに群生していた萩の花を供花として霊前に捧げた。

東光院は1914年に豊中の現在地に移転したのだが、もともとは豊崎村にあったとされる。

行基が東光寺が創建した735年を調べてみると舎人親王と新田部親王(天武天皇の皇子)が薨去している。
私たちは舎人親王と新田部親王という名前に聞き覚えがある。
もう1度 ②光明皇后を恐れさせた長屋王の怨霊 を読んでみてほしい。
そう、舎人親王と新田部親王は長屋王の変において、長屋王を糾問した人物であった。

新田部親王と舎人親王が死んだのは藤原四兄弟が死亡する2年前の735年のことだった。
『続日本紀』に二人の死因は記載されていないが、天然痘が流行ったのは735年から737年だったので、天然痘が原因で二人は死亡したのではないだろうか。

そして735年から737年にかけて流行った天然痘は長屋王の怨霊の祟りだと考えられた。
とすれば、新田部親王と舎人親王の死も長屋王の怨霊の仕業だと畏れられたことだろう。

735年に行基が東光院を創建したのは、このとき天然痘が流行って新田部親王や舎人親王がなくなり、長屋王の怨霊の仕業だと噂されたので、長屋王の霊を供養するためだったのではないだろうか。

行基は長屋王の怨霊を供養することに情熱を傾けた人であったのかもしれない。
すると有馬温泉の、薬師如来に変化した病人もまた長屋王の怨霊ではないだろうか。

光明皇后の伝説と行基の伝説に登場する天然痘患者とはどちらも長屋王の怨霊だと考えられる。
おそらく、天然痘をもたらす神は天然痘を患った姿をしていると考えられていたのだろう。

光明皇后も行基も、どちらも天然痘患者を入浴させている。
これは長屋王の怨霊に禊をさせたということの比喩ではないだろうか。

東光院 萩

東光院

④天然痘患者がみほとけに姿を転じたことの意味

光明皇后の伝説では天然痘患者は阿閦如来に、行基の伝説では天然痘患者は薬師如来に姿を変えている。

つまり天然痘患者=天然痘をもたらす怨霊=長屋王の怨霊は、入浴する=禊をすることによって、みほとけに姿を転じた、ということである。

この物語はa.御霊信仰 b.神仏習合のふたつがベースになっていると思う。

政治的陰謀によって不幸な死を迎えた長屋王のような人物のことを怨霊といい、疫病の流行や天災は怨霊の仕業によってひきおこされると考えられていた。
御霊とはこのような怨霊を慰霊したもののことで、怨霊は慰霊し、神として祀りあげることで、守護神に転じさせることができると考えられていた。
これがa.御霊信仰である。

さらに古の日本人はb.神仏習合という信仰スタイルをもっていた。
神仏習合のベースになったのは本地垂迹説という考え方である。
本地垂迹説とは、日本古来の神は仏教の神が仮に姿を現したものであるとする考え方のことである。
日本古来の神のことを権現・化身、もともとの正体である仏教の神のことを本地仏といった。

この本地垂迹説にあてはめて考えると、長屋王は光明皇后の伝説では阿閦如来の化身、行基の伝説では薬師如来の化身、ということになる。

怨霊であった長屋王が阿閦如来や薬師如来に姿を変えたというのは、長屋王の怨霊を恐れた人々の、長屋王に怒りをおさめてほしい、という心のあらわれだといえるだろう。


帯解寺 小町之宮

小野小町を祀る小町之宮 (帯解寺)

●小野小町は天然痘をもたらす疫神だった?

光明皇后と行基の伝説の意味がわかったところで、小町の伝説について見てみることにしよう。

京都のとある温泉町(今の福知山市)に疱瘡を患った小町がやってきた。
小町は薬師如来に祈って温泉につかった。
すると小町の疱瘡はたちまち治った。


この小町にまつわる伝説は、光明皇后や行基の伝説に似ているが、病人が小町自身であるという点が異なっている。
光明皇后や行基は疫神を鎮魂しているが、小町は疫神そのものであったのである。

奈良の帯解寺に小野小町を祀る小町之宮がある。
小野小町は神として祀られているということだが、④に書いたように、怨霊は慰霊し、神として祀りあげることで、守護神に転じさせることができると考えられていた。

小町之宮は小町が怨霊(疫神)であったことを示すものだといえるだろう。


帯解寺 門 桜

小町之宮がある帯解寺




 
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[2017/04/29 12:24] 小野小町は男だった | TB(0) | CM(0)

小野小町は男だった③ 草子洗い『大友黒主と大伴家持は同一人物?』 

祇園祭 山鉾巡幸 黒主山2 
祇園祭 黒主山

小野小町は男だった② 六歌仙は怨霊だった。 より続く。

①草紙洗い

7月17日、祇園祭山鉾巡幸。
祇園囃子の音色とともに山鉾が、大路をがゆっくりと進んでいく。
豪華な装飾品で飾り立てられた山鉾のようすから、山鉾巡幸は『動く美術館』とも称される。
そんな山鉾の中に、桜を見上げるひとりの老人をご神体とする山がある。
黒主山である。

祇園祭 黒主山 御神体

黒主山 御神体

謡曲に志賀という演目がある。黒主山はその謡曲・志賀をモチーフとした山である。

今上天皇に仕える臣下が桜を見ようと江州志賀の山桜を見ようと山道を急いでいたところ、薪に花を添え花の陰に休む老人と男に出会った。
この老人が大友黒主で、和歌の徳を語って消え去るが、臣下の夢の中に現れて舞を舞う。(志賀)


桜を見上げる老人は六歌仙の一人、大伴黒主だったのである。

大友黒主が登場する謡曲には『志賀』の他にも『草紙洗い』という演目がある。

小野小町と大伴黒主が宮中で歌合をすることになった。
歌合せの前日、大伴黒主は小町の邸に忍び込み、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きした。
蒔かなくに 何を種とて 浮き草の 波のうねうね 生ひ茂るらん
(種を蒔いたわけでもないのに何を種にして浮草が波のようにうねうねと生い茂るのでしょうか。)

当日、紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らが列席して歌合が始まった。
小町の歌は天皇から絶賛されるが、黒主が小町の歌は『万葉集』にある古歌である、と訴えて、万葉集の草紙を見せた。
ところが小町が草紙に水をかけると、その歌は水に流れて消えてしまった。
黒主は昨日盗み聞いた小町の歌を万葉集の草紙に書き込んでいたのだった。
策略がばれた黒主は自害を謀るが、小町がそれをとりなして和解を祝う舞を舞う。(草紙洗い)


志賀では和歌の徳を説く神として登場し、草紙洗いでは小野小町の邸に忍び込む卑怯な男として登場する大伴黒主。
いったい、彼はどのような人物だったのか。

髄心院 歌碑 八重桜
 
小野小町歌碑 隨心院  髄心院は小野小町の邸宅跡と伝わる。
 
②大友黒主は古の猿丸大夫の次なり

大伴黒主は遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町らとともに六歌仙の一である。
六歌仙とは「古今和歌集仮名書」において、名前をあげられた6人の歌人のことをいう。
古今和歌集仮名書とは仮名で記された古今和歌集の序文で、紀貫之が記したと考えられている。
ただし、仮名序やには六歌仙という言葉は使われていない。
後の世になって真名序及び 仮名序に名前をあげられた六人の歌人のことを六歌仙というようになったと考えられている。

古今集仮名書は大友黒主について次のように記している。

大友黒主は そのさまいやし
いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし

(大友黒主はその様子が賎しい。
薪を背負う山人が花の影に休んでいるかのようだ。)


『滋賀』では大友黒主は花(桜)の影に休む老人として登場するが、それはこの古今和歌集仮名書の文章を受けたものだと考えられる。

大友黒主は大伴黒主とも記され、小説家の井沢元彦氏は政治的に不幸だった大伴一族の霊のことではないかと言っておられる。

大伴家持は藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、すでに死亡していたのだが、死体が掘り返されて流罪となった。
子の永主や大伴継人も隠岐へ流罪となった。
その後、応天門の変によって伴善男らが失脚するなどして、大伴氏は歴史の表舞台から姿をけした。
(※淳和天皇の名前が大伴親王だったので、これに憚って大伴氏は伴と氏を改めていた。)

古今集には仮名書のほかにもうひとつの序文「真名序」とよばれる漢文で記された序文がある。
仮名序は紀貫之が、真名序は紀淑望(きのよしもち)が書いたとされている。
仮名序と真名序の内容はほとんど同じだが、微妙に表現が違っている箇所もある。

たとえば、仮名書では
大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。

となっているが、真名序は次のようになっている
大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。(読み下し文)

真名序に『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』 とある。
これはどういう意味だろうか。

仮名序を書いた紀貫之は古今伝授の創始者であるという。
古今伝授とは紀貫之より代々伝えられた和歌の極意のことで、伝授する人物は和歌の第一人者に限られ、伝授の方法は主に口頭で行われた。
和歌の極意を文章に記さず口頭で伝えるのは、情報が漏洩しないようにするためだろう。

鎌倉時代には藤原定家が父親であり師匠であった藤原俊家から古今伝授を受けている。
百人一首のそれぞれの歌には1から100までの番号が振られている。
もしかしたら定家は『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』という仮名序の文章を受けて、百人一首において大友黒主の正体を明らかにしているのではないか、と思ったのだ。
つまり、猿丸大夫の次の歌人が、大友黒主ではないかと。

私は百人一首を調べてみた。
百人一首では猿丸大夫は5番だった。
その次・・・6番は大伴家持だった!

また大友黒主と大伴家持はよく似た、というよりもほとんど同じ歌を詠んでいるのだ。

白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)

白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。)


古歌の語句・発想・趣向などを取り入れて新しく作歌する手法のことを『本歌取り』という。
本歌取りで大切なのは、古い歌をベースにしながら、あくまでもオリジナリティのある歌を詠むことである。
大伴黒主の歌は大伴家持の歌とほとんど同じ意味なので、本歌取りではない。

ほとんど同じと思われるふたつの歌の、一方は大伴黒主、一方は大伴家持の歌であるという。
このことからも、ふたりは同一人物ではないかと思われる。

大伴氏は武力で天皇家に仕える家柄だった。
仮名序にある『薪負へる山びと』とは、矢を負う姿を喩えたものではないだろうか。

また大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座したとして、死後、墓から死体が掘り出されて子孫とともに流罪となっている。
大伴家持の死体は腐敗し、蛆がたかったような状態であったのではないだろうか。
仮名序の 『大友黒主は そのさまいやし』というのは墓から掘り出された死体の様子を言っているのではないだろうか。

真名序に『頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。』とあるが、逸興とは死体が掘り出されたことを言っているのだろう。
『鄙し』の『鄙』は①田舎 ② いなかっぽい。ひなびている。つまらなく卑しい、などの意味がある。
『体甚だ鄙し』とは掘り出された死体がひなびている(田舎っぽい)、または卑しいということか。 

 祇園祭 山鉾巡幸 黒主山

祇園祭 黒主山


③青鬼・赤鬼・黒鬼


死体が掘り返された大伴家持の遺体はどのような状態だったのだろうか。

http://www.sogi.co.jp/sub/kenkyu/itai.htm
上記サイトによれば、死体は次のように変化するという。

a.腹部が淡青藍色に変色(青鬼)
   ↓
b.腐敗ガスによって膨らみ巨人化。暗赤褐色に変色。(赤鬼)
   ↓
c.乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)
   ↓
d.骨が露出


そしてこの死体の変化が青鬼・赤鬼・黒鬼の正体ではないかというのだ。

鬼という漢字は死者の魂をあらわすものだとされるので、この説はなるほどもっともだと思わせる。

一言主神社 一陽来復祭

一言主神社 一陽来復祭に登場した鬼たち

大伴黒主という名前は、家持の死体がcの段階まで進み、黒鬼のような状態になっていたところからつけられたのではないだろうか。

●万葉集を編纂した大伴家持 

大伴家持は優れた歌人であり、万葉集を編纂した人物でもあった。
そして草紙洗に登場する家持以外の歌人、小野小町・紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らは古今和歌集の歌人である。

『草紙洗い』において、大友黒主=大伴家持は万葉集の中に小町の歌を書き入れているが、
『書き入れる』というのは『編纂する』という意味で、誰にでもできることではない。
万葉集を編纂した大伴家持(大友黒主)だからこそ小町の歌を万葉集に書き入れることができたというのが『草紙洗い』のテーマなのだと私は思う。

そして小野小町は「私は『古今和歌集』の時代の歌人なので、私の歌を『万葉集』に書き入れることはできませんよ」と大伴家持を諭したということだろう。

つまり、大伴家持はタイムスリップして後世に現れたという設定なのである。

また『志賀』において、黒主は和歌の徳を説いているが、これなども万葉集を編纂した大伴家持にふさわしい行為だといえるのではないだろうか。

祇園祭 黒主山 提灯

祇園祭 黒主山





小野小町の謎④ 小町、疱瘡を患う 『小野小町は疫神だった?』  へつづく~
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[2017/04/27 11:14] 小野小町は男だった | TB(0) | CM(2)

小野小町は男だった② 六歌仙は怨霊だった。 

 
八坂神社 かるた始め 

八坂神社 かるた始め
小野小町の謎① 小野小町はなぜ後ろを向いているのか  より続く

①六歌仙

1月3日、京都八坂神社で『かるた始め』が行われた。
平安装束を身にまとった女性が百人一首かるたをするのだが、百人一首かるたが成立したのは江戸時代である。
織田正吉氏はこの『かるた始め』のようすを平安時代の姫が江戸時代に表れた『SF的な風景』だと言っておられた。

百人一首とは鎌倉時代の歌人・藤原定家が撰んだ百歌人、百首の歌のことで、遍照、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、そして我らがヒロイン・小野小町の歌もある。
この五歌人に大伴黒主をくわえた六歌人を六歌仙という。

六歌仙とは紀貫之が書いたとされる「古今和歌集仮名書」の中で、名前をあげられた6人の歌人のことをいう。
ただし、仮名序には六歌仙という言葉は使われていない。
後の世になって古今和歌集 仮名序に名前をあげられた六人の歌人のことを六歌仙というようになったと考えられている。

八坂神社 かるた始め3

八坂神社 かるた始め

②古今和歌集仮名序

古今集仮名書の中の、六歌仙について述べられた部分を下記に書き出してみた。

かの御時よりこの方 年は百年あまり 世は十継になむなりにける
いにしへのことをも歌をも知れる人よむ人多からず
今このことを言ふに つかさ位高き人をば たやすきやうなれば入れず
そのほかに 近き世に その名きこえたる人は

すなはち僧正遍照は 歌の様は得たれども まこと少し
たとへば絵にかける女を見て いたづらに心を動かすがごとし

在原業平は その心余りて言葉たらず
しぼめる花の色なくて にほひ残れるがごとし

文屋康秀は 言葉はたくみにて そのさま身におはず
いはば商人のよき衣着たらむがごとし

宇治山の僧喜撰は 言葉かすかにして 初め終はり確かならず
いはば秋の月を見るに暁の雲にあへるがごとし
よめる歌多く聞こえねば かれこれを通はして よく知らず

小野小町は いにしへの衣通姫の流なり
あはれなるやうにて強からず
いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし

大友黒主は そのさまいやし
いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし

八坂神社 かるた始め2

八坂神社 かるた始め


③抽象的でわかりにくい古今和歌集仮名序

古今和歌集仮名書はたいへん抽象的でどのように現代語訳すればいいのか悩む。
私が国語の教師なら、「貫之くん、もうちょっと具体的に書きなさい」と指導するかもしれない(笑)。

しかし、平安時代にはこの文章で十分人に伝わったのかもしれない。

今でも仲間内では会話が通じていても、外部の人間がはたで会話を聞いてもなんのことかさっぱりわからないということがある。
なぜ外部の人間が聞いてもわからないことが、仲間内では通じるかというと、仲間内では共通に認識していることがらがあり、そのことをあえて説明しなくとも、そういう前提で話しているということがわかるからである。

古今和歌集が完成した当時、六歌仙はみなすでに故人となっていたが、遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大伴黒主のことを知っている人がこれを読むと、ああ、なるほどと理解できたのかもしれない。

また、平安時代には現代のように発言の自由はなかっただろうから、この表現がギリギリのところだったのかもしれない。

近江神宮 かるた祭

近江神宮 かるた祭


④ほめているというよりも批判しているようにも思える古今和歌集仮名序

一応、私なりに現代語訳してみた。

平城天皇の御代から年は100年あまり、世は10代となった。
古のことや歌の奥義を知って歌を詠む人は多くはない。
今、このことを述べるにあたり、司位高い人のことを言うのははばかられるので省く。
そのほか、最近、歌の奥義を知る人として有名な人について述べよう。

僧正遍照は歌の形はいいが、真実がすくない。
絵に描けた女を見て、心を動かしているようなものだ。

在原業平は心のわりに言葉が足りない。
しぼんだ花が色あせて匂いだけが残っているようだ。

文屋康秀は 言葉は上手いがそのようすが身についていない。
商人がりっぱな着物を着ているかのようだ。

宇治山の僧・喜撰法師は言葉がわずかで初めと終わりがはっきりしない。
秋の月を見ていて、明け方の雲にかくれてしまったかのようだ。

小野小町は古の衣通姫の流れである。
物思うところがあって強くない。
いい女が悩んでいるのに似ている。
強くないのは女の歌だからだろう。

大友黒主はその様子が賎しい。
薪を背負う山人が花の影に休んでいるかのようだ。


一般的に六歌仙とは歌の上手い六人の歌人だと考えられている。
しかし、仮名序の文章は褒めているというよりは、批判する文章のように思える。
それなのになぜ、六人の歌人のことを「歌仙」というのだろうか。

近江神宮 かるた祭2

近江神宮 かるた祭

⑤六歌仙は怨霊である。

小説家の高田祟史さんは、「六歌仙は怨霊である」とおっしゃっている。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、天災や疫病の流行は怨霊の仕業でひきおこされると考えられていた。

そして陰陽道では怨霊=祟り神は祀り上げることで、強力な守護神に転じると考えた。

例えば菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に左遷となり、失意のうちに死亡した。
その後疫病が流行るなどし、それらは道真の怨霊の仕業であると考えられた。
そこで道真を慰霊するために天満宮が創建され、道真という祟り神は祀り上げられた。
今では菅原道真は学問の神として受験生たちから厚い信仰を集めているが、これはもともと怨霊であった道真が神として祀り上げられた結果、受験生たちの守護神に転じたということである。

これと同様、遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大伴黒主らはもともとは怨霊であったのが、神として祀り上げられた結果、歌の仙人=歌仙になったのではないかというのである。

さきほど怨霊とは政治的に不幸な死を迎えた人のことだと書いたが、六歌仙もまた、政治的に不幸だった。

近江神宮 かるた祭3

近江神宮 かるた祭

⑥喜撰法師は紀名虎または紀有恒

喜撰法師は紀名虎または名虎の息子の紀有恒のことではないかと言われている。

紀名虎には静子という娘があり、静子は文徳天皇の更衣となって惟喬親王をもうけていた。
一方、藤原良房には明子(あきらけいこ)という娘があり、明子は文徳天皇の女御となって惟仁親王をもうけていた。
文徳天皇は紀静子所生の惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたようで、『吏部王記』(醍醐天皇の第四皇子・重明親王の日記)に、『文徳天皇が惟喬親王を皇太子にしたいと源信に相談したが、源信は当時の権力者・藤原良房に憚ってこれをいさめた』という内容が記されている。
結局、惟喬親王を皇太子にしたいという文徳天皇の希望はかなえられず、生まれたばかりの惟仁親王が立太子し、8歳で即位した。
立太子したのも即位したのも前例にない異例の若さであった。

帯解寺 門 桜

帯解寺(奈良市) 藤原明子は帯解寺の地蔵菩薩に祈願して清和天皇を授かったと伝えられる。

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王はたびたび歌会を催した。
その歌会のメンバーの中に、在原業平・僧正遍照・紀有恒(紀名虎の息子)らの名前がある。

古今和歌集仮名序に「今このことを言ふに つかさ位高き人をば たやすきやうなれば入れず(今、このことを述べるにあたり、司位高い人のことを言うのははばかられるので省く。)とあるが、「つかさ位高き人」とは惟喬親王のことだと考えられる。

璉珹寺 門 茉莉花

紀有常尊像を安置している璉珹寺(奈良市)

⑦在原業平は紀氏側の人間だった。

在原業平の父は平城天皇の第一皇子・安保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王で、業平は大変高貴な生まれだった。
平城天皇は嵯峨天皇と対立してクーデターをおこした(平城天皇が寵愛していた藤原薬子と言う女性の名にちなみ「薬子の変」と呼ばれている。)が、これに失敗して出家した。
平城天皇の第一皇子・安保親王はクーデターに関与したとして大宰府に流罪となった。
のちに帰京が許されたが、安保親王は自分の子である行平・業平らの臣籍降下を願い出て、在原姓を賜った。
安保親王は自分に野心がないことを示すために行平・業平らの臣籍降下を願い出たのだろう。

また業平は紀有恒の妹を妻としており、紀名虎の外孫・惟喬親王の寵臣でもあった。
業平は紀氏側の人間であったのである。

業平は文徳天皇代の13年間はまったく昇進していないが、これは当時の権力者・藤原良房の思惑によるものだと考えられている。
 
不退寺 黄しょうぶ 

不退寺は薬子の変で敗れた平城上皇が住んだ場所と伝わり、不退寺の十一面観音は業平観音と呼ばれている。

⑧遍照は藤原良房に出家を勧められた。


遍照は俗名を良岑宗貞といい、桓武天皇の孫に当たる。
業平同様、高貴な生まれであったが、父の良岑安世が臣籍降下して、良岑姓を賜った。

遍照は仁明天皇の寵愛を受け、蔵人頭の要職についていたが、仁明天皇が崩御したのち、妻にも相談することなく、出家した。
遍照は出家した理由を誰にも語らなかったというが、藤原良房が出家を勧めたともいわれている。

惟喬親王の歌会に参加していた在原業平・僧正遍照・紀有常(=喜撰法師?)の三人とも六歌仙のメンバーである。

彼らは惟喬親王をまつりあげ、歌会と称してクーデターを企てていたのではないかという説もある。

渚の院 淡墨桜
 渚の院跡 ここで惟喬親王の歌会が開かれたようすが伊勢物語に記されている。

⑨文屋康秀の先祖は皇族だった?

文屋康秀という人物の出自についてはよくはわかっていない。
ただ、奈良時代末には文室大市・文室浄三という皇族がいた。
文室は文屋とも記されることがあり、文屋康秀は分室大市・文室浄三いずれかの子孫ではないだろうか。

奈良時代末、女帝の称徳天皇は道鏡を次期天皇につけたいと考えていた。
しかし称徳天皇は病気を患って急死し、これによって後ろ盾を失った道鏡は失脚した。
当時右大臣だった吉備真備は文室大市もしくは文室浄三を次期天皇にするという旨の称徳天皇のサイン入りの遺言書を作っていたが、左大臣藤原百川・永手・良継らが偽の遺言書を作ってすり替えたらしく、文室大市・文室浄三ではなく、白壁王が次期天皇となった。

また平安時代には文室綿麻呂、文室宮田麻呂という兄弟がいた。
文室綿麻呂は坂上田村麻呂とともに蝦夷征伐を行った人物である。
弟の宮田麻呂は、840年から842年にかけて筑前守を務めた。
この任期中に新羅の承認・張宝高(ちょうほうこう)にあしぎぬを贈り、唐の物産を輸入しようとしたことが「続日本後紀」に記されている。
謀反の罪により伊豆国へ配流となってたが、のちに無実であることがわかり、神泉苑の御霊会で慰霊されている。

「続日本後紀」の文屋宮田麻呂についての記事は、古今集仮名序にある文屋康秀の評を思い出させる。
文屋康秀は詞たくみにてそのさま身におはず。いはば商人のよき衣着たらむが如し

新羅の商人にあしぎぬを贈って唐の物産を得ようとしたのは文屋康秀の先祖と考えられる分室宮田麻呂であって、文屋康秀ではない。
個人が尊重される現在では家系はさほど重要視されなくなってきた。
しかし、「7代のちまで祟る」などといったり、罪を犯したものはその子孫まで罰せられたように、昔は家というものを大変重要視していた。
従って、文屋康秀を論じるにあたり、彼の先祖と思われる分室宮田麻呂のことを述べることはおかしなことではないだろう。

●応天門の変で失脚した大伴氏

大友黒主は大伴黒主とも記され、小説家の井沢元彦氏は政治的に不幸だった大伴一族の霊のことではないかと言っておられる。

大伴家持は藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、すでに死亡していたのだが、死体が掘り返されて除名された。
子の永主や大伴継人も隠岐へ流罪となった。
その後、応天門の変によって伴善男らが失脚するなどして、大伴氏は歴史の表舞台から姿をけした。
(※淳和天皇の名前が大伴親王だったので、これに憚って大伴氏は伴と氏を改めていた。)

大伴黒主について、私の考えは井沢氏の説とは違うが、それについては次回詳しく述べたいと思う。 )

六歌仙はいずれも政治的に不幸だった人物ばかりであり、怨霊となる要素を兼ね備えている。

小野小町は男だった③ 草子洗い  へつづく~
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[2017/04/25 17:40] 小野小町は男だった | TB(0) | CM(0)

小野小町は男だった① 小野小町はなぜ後ろを向いているのか 


髄心院 歌碑 八重桜
 
小野小町歌碑 隨心院 (京都府京都市山科区小野御霊町35)

●小野小町はなぜ後ろを向いているのか

京都山科にある隨心院は小野小町の邸宅があった場所と伝わり、卒塔婆小町像や小町が化粧に使ったという井戸などが残されている。
また境内には小野小町が詠んだ歌を刻んだ歌碑がたてられている。

花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに(小野小町)

百人一首にも採られている有名な歌だ。
歌碑には十二単を纏った小町の姿も描かれているが、その姿は後ろ向きである。

小野小町は古くから後ろ向きで描かれることが多かった。
1919年に切り売りされたことで有名な佐竹本三十六歌仙絵巻の小野小町像も後ろ向きで描かれている。

小野小町はなぜ後ろ向きで描かれたのか。
それは作者が小野小町のあまりの美しさを憚ったためであるとも言われている。

小野小町がどのような女性であったのかは、史料にはほとんど記述がないため、よくわかっていない。

『古今和歌集目録』には「出羽国郡司女。或云、母衣通姫云々。号比右(古)姫云々」とあり、『尊卑分脈』には小野篁の孫で、出羽郡司良真の女子とある。
しかし、小野良真の名は『尊卑分脈』にしか記載がないため、実在が疑問視されている。

小町の存在が知られているのは、『古今和歌集』『後撰和歌集』『小野小町集』などに歌が残されているためである。
しかし、『小野小町集』は後世の他撰であり、他の歌人の歌が混入しているため、すべてが小町自作の歌とは断じがたい。

後ろ向きの小野小町像が象徴するように、彼女の実体は謎に包まれているのである。


髄心院 薬医門 桜

雨の髄心院 桜

●小野小町=更衣説(山村美佐氏)


山村美佐氏は小野小町について、次のような説をとなえておられる。

「古今和歌集」に登場する女性歌人のうち、三条町は文徳天皇の更衣・三国町は仁明天皇の更衣である。
町は更衣をさしているのではないか。
昔は姉妹で天皇に入内するということもあった。
小町は姉とともに入内したため小町と呼ばれているのではないか。
「続日本書紀」842年に小野吉子が正六位上に任じられている。
正六位上は更衣の位である。
小野小町とはこの小野吉子のことではないかと。

●小野小町=惟喬親王の乳母説(井沢元彦氏)

小説家の井沢元彦氏は、小野小町は惟喬親王の乳母ではないかとしておられる。
小野小町は生涯独身で子供はなかったという伝説がある。
しかし後撰集の歌人の中に「小町が孫」なる人物が登場するところから、小町が独身で子供がないという伝説は事実ではない、と井沢氏は指摘する。
そして小野小町が惟喬親王の乳母であったと考えると、惟喬親王が出家後小野に隠棲していること、『小野宮』と呼ばれる広大な邸に住んでいたことなどが説明できるのではないか、というのである。

山村氏と井沢氏のどちらの説も筋が通っていて「なるほど」と思わされるが、はたしてどうだなのだろうか。

髄心院 総門 桜

雨の髄心院 桜

●数多く残る小町伝説

小野小町は史料には全く登場しないが、彼女にまつわる伝説は山のようにある。

伝説は伝説であってもちろん史実ではないが、なぜこのような伝説ができたのかと考えてみることは有意義なことだと思う。

今回、私は伝説を紐解くことで小野小町の実体に迫りたいと考えている。
後ろ向きの小野小町がふりむくと、はたして小町はどのような顔をしているのだろうか。

髄心院 八重桜

髄心院 八重桜

【小町伝説について】

① 小野小町と大伴黒主が宮中で歌合をすることになった。
歌合せの前日、大伴黒主は小町の邸に忍び込み、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きした。
蒔かなくに 何を種とて 浮き草の 波のうねうね 生ひ茂るらん
(種を蒔いたわけでもないのに何を種にして浮草が波のようにうねうねと生い茂るのでしょうか。)

当日、紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らが列席して歌合が始まった。
小町の歌は天皇から絶賛されるが、黒主が小町之歌は『万葉集』にある古歌である、と訴えて、万葉集の草紙を見せた。
ところが小町が草紙に水をかけると、その歌は水に流れて消えてしまった。
黒主は昨日盗み聞いた小町の歌を万葉集の草紙に書き込んでいたのだった。
策略がばれた黒主は自害を謀るが、小町がそれをとりなして和解を祝う舞を舞う。(草紙洗い)

② 京都のとある温泉町(今の福知山市)に疱瘡を患った小町がやってきた。
小町は薬師如来に祈って温泉につかった。
すると小町の疱瘡はたちまち治った。

③小野小町は絶世の美女だった。そのためプライドが高く、一生独身だった。

④晩年、小町は天橋立へ行く途中、三重の里・五十日(いかが・大宮町五十河)に住む上田甚兵衛宅に滞在し、「五十日」「日」の字を「火」に通じることから「河」と改めさせた。
すると、村に火事が亡くなり、女性は安産になった。
再び天橋立に向かおうとした小町は、長尾坂で腹痛を起こし、上田甚兵衛に背負われて村まで帰るが、辞世の歌を残して亡くなった。
九重の 花の都に住まわせで はかなや我は 三重にかくるる
(九重の宮中にある花の都にかつて住んだ私であるが、はかなくも三重の里で死ぬのですね。)

後に深草の少将が小町を慕ってやってきたが、やはり、この地で亡くなった。(妙性寺縁起)

⑤ 京の都の神泉苑で小野小町が和歌を詠んで雨乞いをし、雨を降らせた。
ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとては 又天が下とは
(道理であるなあ、この国を日本と呼ぶならば、日が照りもするだろう、しかしそうは言っても、又、天(雨)の下とも言うではないか。だから、雨を降らせてください。)
また
千早振る 神も見まさば 立ちさわぎ 雨のと川の 樋口あけたべ 
(神様、この日照りを御覧になったなら、大急ぎで天の川の水門の口を開けて下さい。)
という歌を詠んだとも伝わる。(雨乞小町)

⑥七夕の夕暮れ、星を祭る関寺の境内で小野小町は自分の若き日の思い出を歌いながら舞った。
小町は百歳を越えた老女で、人々は絶世の美女の変わり果てた姿を憐れに思う。(関寺小町)

⑦小町を慕う深草少将に小町は「百日間私のもとに通いとおしたならば、あなたのものになりましょう」と約束をする。
深草少将は毎夜小町のもとに通い続けるが、今日で100日目という雪の夜に凍えて死んでしまう。(百夜通い)

⑧ススキ野原の中で「あなめあなめ」(ああ、目が痛い)と声がするので僧が立ち寄ってみると、どくろがあって、その目からススキが生えていた。
抜き取ってやるとそれは小町のどくろだった。(あなめ小町)

⑨京都八瀬の里で修行する僧に薪や木の実を届ける女がいた。
女は「小野とは言はじ、薄生いたる、市原野辺に住む」と言って消える。
僧が市原野へ出かけて小町を弔っていると、四位少将の霊が現れ、小町の成仏を妨げる。
少将は百夜通いの後、成仏出来無いで苦しんでいた。
僧が、「懺悔に罪を滅ぼし給え」と勧めると、小町と共に成仏する。(通小町)

⑩百歳の老女となった小野小町が近江の国関寺のあたりをさすらっているという話を聞いた陽成院が、小町に次のような歌を贈った。
雲の上は ありし昔に 変はらねど 見し玉簾の うちやゆかしき
(宮中は、かつての昔と変わっていないがあなたは、昔見慣れた玉簾(内裏)がなつかしくありませんか。) 
小町は鸚鵡返しといって、院に歌を返した。
雲の上は ありし昔に 変はらねど 見し玉簾の うちぞゆかしき
(私は、昔見慣れた玉簾(内裏)がなつかしいです。)

相手の歌の「や」を「ぞ」に替えるだけで返歌した、鸚鵡返しの歌として知られる。(鸚鵡小町)

⑪絶世の美女であったにもかかわらず、男を寄せ付けなかった小町は実は男を受け入れられない体であった。
穴のない「まち針」は「小町針」がなまったものである。(小町針)

⑫昔、色気づいた女が三人の子に「思いやりのある男にお会いしたい」と話した。
三男は「よい男が現れるでしょう」と夢判断をし、在五中将(在原業平)に頼み込んだ。
在五中将は女をかわいそうに思ってやってきて寝た。
しかしその後、在五中将は女のもとへやってこなくなり、女は男の家に行って中を伺った。
男は女をちらっとみて歌を詠んだ。
ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)
その後、男がでかけようとしたので、女は家に戻って横になった。
在五中将が女の家の前で中を伺うと、女は次のように歌を詠んだ。
さむしろに 衣かたしき こよひもや こひしき人に あはでのみねむ
(狭いむしろに衣を一枚だけ敷き、今宵も恋しい人に会えずに寝るのだろうか。)

在五中将は女がかわいそうになり、その夜は女と寝た。
※伊勢物語には単に「色気づいた女」とあるが、伊勢物語の注釈書・『知顕集)』には次のように記されている。
「このをんなは、をののこまちなり。小野小町とふ、こまちには子ありともきかぬに、三人ありといへり。いかなる人の子をうみけるぞや、おぼつかなし。」
(この女は小野小町である。小野小町に子供があったとは聞いたことがないが、三人の子がいるとしている。どんな人の子を産んだのか、はっきりしない)(伊勢物語)

髄心院 小野小町

ライトペインティングのジミー西村さんと織物会社が共同制作したタペストリー(髄心院)



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[2017/04/22 23:31] 小野小町は男だった | TB(0) | CM(0)