人形の涙⑪ 加茂船屋 ひなまつり 『お雛様とお内裏さまは双子だった?』 よりつづく~

●三人官女=宗像三女神、五人囃子=勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命 ・活津日子根命・熊野久須毘?
市比賣神社の創建は795年で、多紀理比賣命(たぎりひめ) 市寸嶋比賣命(いちきしまひめ) 多岐都比賣命(たぎつひめ)神大市比賣命(かみおおいちひめ)下光比賣命(したてるひめ)を祭っている。
私は三人官女とは多紀理比賣命・ 市寸嶋比賣命・多岐都比賣命(宗像三女神)、そして五人囃子は勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(あめのおしほみみ)・天之菩卑能命(あめのほひ)・天津日子根命(あまつひこね) ・活津日子根命(いくつひこね)・熊野久須毘(くまのくすび)ではないかと考えている。
この八柱の神々は天照大神とスサノオのうけいの子産みで生まれた神々である。
●古代流・濡れ場シーンの描写
記紀には次のように記されている。
天照大神はスサノオの刀を噛み砕き、ふっと息を吹き、ここから多紀理比賣命・市寸嶋比賣命・多岐都比賣命の三柱の女神が生まれた。 次にスサノオは天照大神の『みすまるの珠』を噛み砕き、ふっと息を吹き、ここからの五柱の男神、勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘が生まれた。 三柱の女神はスサノオの刀から生まれたのでスサノオの子、五柱の男神は天照大神の『みすまるの珠』から生まれたので天照大神の子とされた。
私はこの記述は古代流の濡れ場シーンの描写ではないか、と考えている。 刀は男性、珠は女性をあらわしているのではないだろうか。
市比賣神社のホームページにある系譜にもはっきりと、天照大神とスサノオは夫婦であると示されている。 http://ichihime.net/yuisho.html

●お雛様=天照大神、お内裏様=スサノオ?
三人官女が宗像三女神、五人囃子が勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命 ・活津日子根命・熊野久須毘で 彼らが天照大神とスサノオのうけいの子産みで生まれた神々であるとすれば、お雛様は母神の天照大神、お内裏様は父神のスサノオなのではないか。
●宗像三女神=みたらし星、五柱の男神はすばる?
飛鳥昭夫さんも同じ指摘をされており、宗像三女神(多紀理比賣命・ 市寸嶋比賣命・多岐都比賣命)はみたらし星(オリオン座の三つ星)を神格化した神、勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命 ・活津日子根命・熊野久須毘はすばるを神格化した神ではないかとおしゃっている。
宗像三女神がみたらし星を神格化したものだとする説は昔からある。 宗像大社は宗像市にある辺津宮、大島の中津宮、沖ノ島の神津宮の三社から成るのだが、この配置がみたらし星の配置に似ているというのがその理由である。
すばるはプレアデス星団の和名である。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/2/2c/Map_of_the_Pleiades.jpg 上記ウィキペディアの図を見ると、プレアデス星団はたくさんの星々から形成されるが、特に大きな星が5つある。
●スサノオは星の神?
オリオン座の三ツ星とすばるが天照大神とスサノオの子供だとすると、天照大神とスサノオも星の神なのではないか。
船場俊昭さんは「スサノオ(素戔嗚尊)とは輝ける(素)ものを失い(戔う/そこなう)て嘆き悲しむ(鳴/ああ)神(尊)」という意味で、はもとは星の神であったとしておられる。
イザナギが禊をし、左目を洗ったところ天照大神が、右目を洗ったところ月読命が、鼻を洗ったところスサノオがうまれたと記紀には記述がある。
私はこの記述は陰陽思想の宇宙観に基づくものだと思う。 陰陽道の宇宙観では東(左)が太陽の定位置、西(右)が月の定位置、中央が星とするそうである。 (※地図では右が東で左が西だとおっしゃられるかもしれないが、正しくは向かって右が東、向かって左が西であり、地図の側に立てば左が東で右が西となる。)
イザナギの顔は宇宙に喩えられているのである。 するとイザナギの顔の真ん中にある鼻から生まれたスサノオは星の神となる。
●スサノオはアルタイル、天照大神はベガ?
天照大神は太陽の神のはずだが、うけいの子産みではスサノオと天照大神は天の安川を挟んで対峙している。 天の安川とは天の川ではないのか。
ということはスサノオは牽牛星(アルタイル)、天照大神は織女星(ベガ)ということになる。

●記紀は改竄されている?
なぜ太陽神である天照大神がベガという星の神なのか。
おそらく記紀は改竄されている。 そのため、このようにつじつまのあわないところがあるのだろう。 月の神である月読命が記紀の物語にほとんど登場しないのも改竄されているからだと思う。
陰陽思想で天体をみると太陽が陽、月が陰である。 性別では男性が陽、女性が陰なので、スサノオが太陽の神で天照大神が月の神であればつじつまがあう。 そして、太陽と月が結婚する(重なる)と日食で、日食になると昼なのに夜のように暗くなって星が見える。 太陽と月が結婚すると星の神になると考えられたのではないかと思う。 それで太陽神であるスサノオも、月神である天照大神もうけいの子産みをして(結婚をして)星の神(アルタイルとベガ)になったということではないだろうか。

●神大市比賣命は大市に葬られた姫?
市比賣神社の御祭神は多紀理比賣命・市寸嶋比賣命・多岐都比賣命・神大市比賣命・下光比賣命で、市比賣神社という神社名は神大市比賣命からくるものと考えられる。
古事記によれば、神大市比賣命は素戔嗚尊の妻であると記されており、市比賣神社の系譜でもそうなっている。 この神大市比賣命の『大市』という言葉には聞き覚えがある。
日本書紀に次のように記されている。
倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻となったが、大物主神は昼は姿を見せず、夜になるとやって来た。 倭迹迹日百襲姫命は次のように言った。 『あなたは夜にしかいらっしゃらないので、お顔を見ることができません。今日はもうちょっと留まってお顔を見せて下さい。』 大物主神は『明日の朝はあなたの櫛函に入っていよう。しかし私の形を見て驚かないように。』といった。 朝になって、倭迹迹日百襲姫命は函を開けた。そこには麗しい小蛇がいた。 倭迹迹日百襲姫命は驚いて叫んだ。 大物主神は、『驚くなと言ったのに、私に恥をかかせたな。今度はお前に恥をかかしてやる。』と言って、大物主神は空を舞い三輪山を登っていった。 倭迹迹日百襲姫命は大物主神が去る姿を仰ぎ見て悔い、座り込んだ拍子に、箸で陰部をついて死んでしまった。 こうして倭迹迹日百襲姫命は大市に葬られ、墓は箸墓と呼ばれている。
倭迹迹日百襲姫命は大市に葬られている。 神大市比賣命とは大市に葬らた神という意味ではないだろうか。 とすれば神大市比賣命とは倭迹迹日百襲姫命のことだということになる。
また、籠神社で発見された系図に、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)の9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、脇に、『またの名を倭迹迹日百襲姫命』、『またの名を神大市姫命』、『日神ともいう』と記されていた。 籠神社の系図も神大市比賣命=倭迹迹日百襲姫命となって整合性がとれる。
そして籠神社の系図に記されている、日女命・日神とは天照大神のことだと思われる。
神大市比賣命=倭迹迹日百襲姫命=日女命=天照大神
●初代神武以前、畿内には物部王朝があった?
倭迹迹日百襲姫命は大物主命の妻であるが、大物主神は昼は姿を見せず、夜になるとやって来る神だった。 ということは大物主神は星の神なのだろう。
一方、船場俊昭氏は「スサノオ(素戔嗚尊)とは輝ける(素)ものを失い(戔う/そこなう)て嘆き悲しむ(鳴/ああ)神(尊)」という意味で、はもとは星の神であったとしておられる。 スサノオとは大物主神のことなのではないだろうか。
大物主神の正式名称は倭大物主櫛甕魂命という。 物部氏の祖神はニギハヤヒというが、この神名は『古事記』『日本書紀』によるもので、『先代旧事本書紀』天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまの ほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)となっている。 櫛と魂(玉)が共通するところから、二神は同一神だとする説もがある。 天照國照彦天火明櫛饒速日尊=ニギハヤヒこそが本当の天照大神であるともいう。
初代神武は東征して畿内入りするにあたり「東にはニギハヤヒが既に天下っている。」と発言している。 ニギハヤヒとナガスネヒコの妹の間に生まれたウマシマジノミコトが物部氏の祖神だとされている。 ここから初代神武以前に物部王朝があったとする説がある。 神武が畿内入りしたのち、ニギハヤヒは神武に服している。

スサノオ=大物主神=ニギハヤヒ(物部氏の祖神) なのでスサノオとは物部氏の神だと考えられるが、天照大神もまた物部氏の神であると私は考えている。
●天照大神は天皇家ではなく物部氏の神だった?
籠神社の系図にある始祖の彦火明命は『先代旧事本紀』では、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊と同一神であるとしている。 彦火明命≒天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊=ニギハヤヒ(物部氏の祖神)
とすれば、彦火明命(=天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊=ニギハヤヒ)の9代目の孫にあたる日女命(=天照大神=倭迹迹日百襲姫命=神大市比賣命)は物部氏の神だといえる。
第11 代垂仁天皇の第4皇女である倭姫命は天照大神を祀るのにふさわしい土地を求めて各地を転々としたが、伊勢についたとき天照大神が『この神風の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)の帰(よ)する国なり、かた国の【うまし国】なり、この国に居(お)らむとおもう』と託宣している。
【うまし国】という表現は、物部氏の祖神である『ウマシマジノミコト』を思わせる。
※便宜上、スサノオ=大物主神=ニギハヤヒ(物部氏の祖神)と記したが、スサノオは日女命の弟なので、正しくはニギハヤヒの子孫で大物主神と同一神だということになる。

●神武の物部王朝乗っ取り計画と女性の太陽神
天皇家の祖神・天照大神は女神だが、太陽神が女神というのは珍しい。
しかし日本でも本来の太陽神は男神の天照國照彦天火明櫛饒速日尊=ニギハヤヒで男神だったのだろう。 そして代々ニギハヤヒの子孫が天照大神として皇位につく習わしだったのだと思う。
そこへ、日向から初代天皇の神武がやってきたが、皇位につくことができるのは天照大神=ニギハヤヒの血を引くものだけだというルールがあったのではないだろうか。
神武はひらめいたのだろう。「女性を天照大神にすればいいのだ。そして私が天照大神と結婚し、今後は私のy遺伝子をひきつぐ男子のみに皇位継承させればいい。こうして私は物部王朝を乗っ取ることができるのだ!」
●私たちは天照大神を呪わされていた?
もともと雛祭りとは息を吹きかけて穢れを移し、人形を川や海に流すものだった。 その身代りとしての役割を担うのに、物部王朝の姉弟はぴったりではないか。
私たちは夏越の祓や雛流しにおいて、みながそうするのにならって、人形に息を吹きかけて川や海に流す。 しかし、その人形とは実は物部王朝の姉弟である天照大神とスサノオなのではないか。
私たちは人形流しをすることで、スサノオだけでなく天照大神を呪わされていたのではないだろうか?

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[2018/06/04 21:35]
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人形の涙⑩ 貴船神社 夏越の祓 『夏越の祓とユダヤの過越祭』 よりつづく~ 雛祭りに男女の市松人形を飾ることがある。  加茂船屋の雛祭でも、男女ペアの市松人形が何組か飾られていたが、男の子も女の子も同じ顔をしていた。 ネットを検索しても男女が同じ顔をした人形のペアの写真がたくさんでてくる。 https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E5%B8%82%E6%9D%BE%E4%BA%BA%E5%BD%A2+2%E4%BD%93+%E5%90%8C%E3%81%98%E9%A1%94 ↑ こちらは大和郡山市の和菓子店・菊屋さんに置かれてあった市松人形である。 なぜ男女ペアの人形は同じ顔をしているのだろう? 男女ペアの人形は双子なのだろうか? 男女の双子は二卵性双生児で、一卵性双生児は同性のみだと思っていたが ごくごくまれに、男女の一卵性双生児が生まれるそうである。 もともとはともにXY染色体をもつ男性だったのが、片方がY染色体を欠損し、その結果XOとなって女性となってしまうのだという。 染色体がXOというのはターナー症候群(ターナー女性)ではないかと思う。 ターナー症候群はまれに男女の一卵性双生児として生まれるケースがあるという。 ターナー症候群は身長が低かったり、第二次性徴がみられなかったり遅れたりすることがあるということだが、みなさん、ふつうに社会生活をおくっておられるそうである。 または性染色体がXXYで、XまたはY染色体がそれぞれ別に落とされて、性別が異なる一卵性多胎児が生まれるというケースも考えられるという。 しかし二卵性双生児でも兄妹または姉弟なので、よく似ているということはありそうだ。 私の知人のお嬢さんと息子さんの姉弟は年は5歳ほど離れているが、一卵性双生児かと思うくらい顔がよくにている。 なぜ雛祭りに同じ顔をした男女ペアの市松人形を飾るのだろうか。 市松人形の男性はお内裏様、女性はお雛様ということではないかと思う。 すると、お内裏様とお雛様は双子の兄妹または姉弟でなおかつ、夫婦なのか?  古には血の純潔を守るため同じ父親・同じ母親を持つ兄妹または姉弟の結婚はふつうにあったともいわれている。 細川智栄子さんの漫画「王家の紋章」に登場する古代エジプトの王女アイシスも同母弟のメンフィスを異性として愛しているという設定になっている。 メンフィスは21世紀からタイムスリップしてやってきたキャロルを愛しているので、アイシスの片思いなのだが。 古代エジプトだけでなく、古代の日本でも兄妹または姉弟の近親婚はふつうにあったのではないかと思う。 記紀を読むと兄妹または姉弟の夫婦が何組か登場するからである。 例えば、イザナギ&イザナミ、アシナヅチ&テナヅチなどが兄妹の夫婦である。 そして私たちがよく知っている、あの神々も姉弟でかつ夫婦である。 天照大神とスサノオである。 黄泉の国から戻ったイザナギが禊をし、左目を洗ったところ天照大神が、右目を洗ったところ月読命が、鼻を洗ったところスサノオが生まれたという。 天照大神・月読命・スサノオは三つ子として生まれたのだ。 その後、なぜか月読命は記紀にはほとんど登場しなくなってしまうのだが。 そして天照大神とスサノオが天の安川をはさんでうけいの子産みをするという話がある。 子産みをしたということは、天照大神とスサノオは夫婦だということである。 引眉をして殿上眉を描き、お歯黒をした三人官女。
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[2018/05/29 10:15]
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人形の涙⑨ 吉田神社 追やらい神事 『弓で射られる方相氏』 よりつづく~ 水無月の晦日(6月30日)、各地の神社で名越神事が行われる。 ここ京都の貴船神社でも夏越神事が行われており、神事に参加するために大勢の参拝者が神社にやってくる。 貴船神社の本殿前には大きな茅の輪が置かれており、神職さんの後に続いて一般の参拝者たちも歌を唱和しながら茅の輪を潜った。 水無月の 夏越の祓ひ する人は、千歳の命 延ぶといふなり (1回目/左回り) 思ふこと みなつきねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓ひつるかな(2回目/右回り) 蘇民将来 蘇民将来(3回目/左回り)  茅輪潜りをするのは次の故事に基づくものである。 神代の昔、蘇民将来と巨旦将来という二人の兄弟があった。 蘇民将来は貧乏で巨旦将来は金持ちだった。 しかし貧乏ではあったが蘇民将来は武塔神(素戔嗚尊)に宿をかし、巨旦将来はこれを断った。 後に疫病が流行ったとき、武塔神は蘇民将来の子孫には茅の輪をつけて疫病から守ったが、茅の輪をつけない者はすべて死んだ。(備後国風土記) 私の友人はこんなことを言っていた。 「苗字が将来で、名前が蘇民と巨旦ということは、彼らは日本人ではないのではないか。 朝鮮や中国も苗字のあとに名前がくる。 名前のあとに苗字がくるのは西洋人である。 彼らは西洋人なのではないか。」 と。 ↑ 布を裂く神事。布を裂く音で悪霊を退散させるとかなんとか言ってたような?(曖昧ですいません)確かに友人の言うことには一理あるかもしれない。 日本はシルクロードの東の到達点だった。遣隋使、遣唐使が大陸に送られ、また大陸から渡来人も多くやってきた。 東大寺の大仏の開眼導師を務めたのはインド出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな)だったというし、古代の日本は国際色が豊かであったと思われる。 実は夏越神事のルーツははるか西方にあるのではないか、とする説がある。 琉球地方には『シマクサラシ(疫祓いの意)』という風習がある。 牛を屠り、その血にススキの穂や桑の葉を浸し、家の門口や四隅に塗っておく。 こうしておくと、悪霊が入ってこないと言い伝えられ、旧暦の2月に行われることが多い。 同じような話が旧約聖書の『出エジプト記』の『過ぎ越しの物語』にある。 モーゼはすべての長老を呼び次のように言った。 『羊を過越の犠牲として屠りなさい。そしてその血にヒソプ(ハッカ科の植物)を浸し、鴨居と入り口の二本の柱に血を塗りなさい。そして夜があけるまで外に出ず、家の中に籠もっておくように。』と。 神ヤーベはエジプト人の家で生まれた初子を全て殺した。 その際、戸口に羊の血が塗られたユダヤ人の家には立ち寄らなかった。それにちなんでユダヤでは毎年、太陽暦の3月末から4月初めころ、過越祭が行われている。  それにしてもヤーベとは何とも身びいきで残酷な神だなあ、と思う。 琉球の『シマクサラシ』とユダヤの『過越祭』は日本の蘇民将来伝説に似ている。 血と茅は音が同じであるところから、日本では血のかわりに茅を使うのだろうか、などと思ったりする。 スサノオを祭る神社では『蘇民将来子孫也』と書いた護符を授与しており、人々はそれを求めて玄関に貼って魔よけにする。 同じ様にユダヤ人はメズサという神の言葉を書いた護符を家の門口につける。 蘇民将来は『将来蘇る民』と読める。 聖書には『終末にメシヤが到来し、死者は墓から蘇る』とある。 身びいきのメシヤが蘇させるのはユダヤ人であって、エジプト人ではないだろう。 蘇民将来はユダヤ人、巨旦将来はエジプト人のイメージと重なる。 蘇民将来がもてなした武塔神とはスサノオのことである。 スサノオは日本では牛頭天王と習合されている。 牛頭天王に対する信仰が日本に伝わってスサノオになったという説もある。 牛頭天王像は牛を頭に載せた姿のものもあるが、角の生えた姿で作られているものもある。 画像はこちら ↓ https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E7%89%9B%E9%A0%AD%E5%A4%A9%E7%8E%8B&ei=UTF-8&rkf=1&oq=%E7%89%9B%E9%A0%AD%E5%A4%A9%E7%9A%87ミケランジェロが刻んだモーゼにもまた角がある。 ヘブライ語で光のことをkornと記す。 角もまたkornであり、ミケランジェロは光と角を間違えたのだろうとされている。 スサノオはモーゼをモデルとして作られた日本の神様なのかもしれない。 貴船の神は『丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻』に貴船山に降臨したとされているのも気にかかる。 丑は牛で貴船の神はスサノオと同一神なのではないだろうか。 佐伯好郎氏によれば、中国ではローマを『大秦』、景教(ネストリウス派キリスト教)の寺院のことを『大秦寺』と言った。 渡来人であった秦氏は京都市右京区の太秦を本拠地としていたが『太秦』と『大秦』は点ひとつの違いである。 そして広隆寺は別名『太秦寺』とも呼ばれていた。 さらに広隆寺の弥勒菩薩半迦思惟像の手の印は、壁画に描かれた景教徒の手の印と全く同じだと言っておられる。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Maitreya_Koryuji.JPG https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/62/Maitreya_Koryuji.JPG よりお借りしました。 作者 日本語: 小川晴暘 上野直昭English: OGAWA SEIYOU and UENO NAOAKI [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由でこちら ↓ に正教のイコンの画像があるが、これも広隆寺弥勒菩薩の手の印によく似ている。 https://twitter.com/zam_zeed/status/602444256192532481秦氏は『秦の始皇帝の子孫である』と称しており、日本書紀は秦氏は百済より渡来したと記している。 しかし、秦氏が住んでいた地域から発掘される瓦のほとんどは新羅系であり、また新羅地方で広隆寺の弥勒菩薩像とそっくりな像が見つかっており、新羅系であるという説が有力である。 また朝鮮半島の南に伽耶という国があり、国力が弱く新羅や百済の影響を受けやすかった。 この伽耶が秦氏の故郷だとする説もある。 日本書紀には応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ/秦氏の先祖とされる。新撰姓氏録では融通王となっている。)が民を率いて日本にやってきたと記されている。 ここから佐伯好郎氏は秦氏のルーツを中央アジアのバルバシ湖の南にあった『弓月王国』というキリスト教国であるとされた。  本殿前で茅輪くぐりをした後、参拝者に人形(ひとがた)が配られ、めいめい人形に息を吹きかけた。 人形に息を吹きかけて穢れを移すというおまじないである。 人形は仏像や神像と同じく神様である。 私は神様を自分のみがわりにするのは嫌なので、やらなかった。 神職さんたちは参拝者が息を吹きかけた人形を回収して木箱に納め、それから貴船川の下流にある禊ぎ場まで練り歩いていった。 そして神職さんたちは川べりに並んで貴船川に人形を流した。 無数の人形が花びらのように宙を舞い、清流を流れていった。 その人形の形はどこか十字架に磔になったキリストに似ているような気がした。 人形の涙⑪ 加茂船屋 ひなまつり 『お雛様とお内裏さまは双子だった?』 へつづく~ トップページはこちらです→ 人形の涙① 高取土佐町 町屋の雛めぐり 『雛人形の首はなぜ抜けるのか』 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ご意見・ご感想は遠慮なくメールフォームにてお送りください。
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人形の涙⑧ 手向山八幡宮 お田植祭 『御田植祭は追儺式を陽に転じた神事だった?』 よりつづく~ 東一条通の北側は京都大学メインキャンパス、南側は吉田南キャンパスであり、東一条通は京都大学を分断する形で東西に伸びているが、それはそのまま吉田神社への参道となっている。 参道には露天商がずらりと並び、節分詣の参拝者で賑わっていた。 中には節分の縁起物である鰯を焼く店もあり、生臭い煙がたちこめていた。 京大志望の受験生は吉田神社に合格祈願に行くと必ず落ちる、という都市伝説がある。 一般には、吉田の神様は隣にある京大の学生の日ごろの行いをいつも見ていて、京大生にいい印象を持っていないからだなどと言われている。 しかし私はこのような都市伝説が生じたのは、吉田神社が藤原氏の神社であるからではないかと思う。 吉田神社は859年に藤原山蔭が藤原氏の氏神である奈良の春日大社の神を勧請して創祀した。 一方、学問の神とされるのは菅原道真である。 菅原道真は左大臣・藤原時平の讒言を受けて大宰府に左遷となり、失意のうちに死亡している。 道真は藤原氏を憎んでいるにちがいない。 それで藤原氏の神を祀る吉田神社を参拝する受験生は,道真公のご利益が受けられないと考えられたのではないだろうか。  冬の短い日が沈み、吉田神社の境内が闇に包まれると鬼やらい神事が始まった。 隣にいた少年が「鬼が来た!」と叫んだ。 赤い顔、金色に輝く四つの目、頭頂にはえた一本の角。赤い袍に高下駄を履き、右手には三叉に分かれた鉾を、左手には大きな楯を持っている。 しかしやってきたのは鬼ではない。 これは方相氏と呼ばれるものである。鬼に似ているが、方相氏は鬼を祓う正義の味方である。 そのあとに10人の童子(シン子と呼ばれる。シンの字は人偏に辰。)が続く。    次に赤鬼・青鬼・黄鬼が現れ、参拝者たちをおどす。 そして方相氏vs鬼の戦いとなる。 3匹の鬼はこん棒を持って方相似氏に向かっていくが、方相氏が鉾を振り下ろすと腰砕け状態となり、あたふたと山へと逃げ帰って行った。  方相氏は中国の天神、蚩蚘(シュウ)ではないかという説がある。 蚩蚘は炎帝神農氏の子孫であり、兵器を発明し、霧をあやつる力を持つ神である。 『帰蔵』という書物にには、『蚩蚘は八肱(八つの膝)、八趾(八つの足)、疏首(別れた首)を持つ』とある。 『疏首』というのは、首が二つあるということだろう。 私は蚩蚘とは二頭の獣が合体した神なのだと思う。 そう考えると蚩蚘が『八肱(八つの膝)、八趾(八つの足)』をもっていることの説明もつく。 獣は四趾(四つ足)である。四趾×2頭=八趾。 一本の脚に一肱(ひとつの膝)がある。獣は四足(四趾)なので四肱(四つの膝)がある。四肱(四つの膝)×2頭=八肱となる。 また『述異記』には『銅の頭に鉄の額、鉄石を食し、人の身体、牛の蹄、四つの目、六つの手を持つ』とある。 『四つの目』とあるのも二頭が合体しているからだろう。 二頭を合わせると足は8本だが、人の身体をしているとあるので、8本の足のうち2本が脚で、残りの6本が手(腕)ということだろう。  枕草子や源氏物語などに追儺式に登場する方相氏の記述がある。 それらの記述から平安時代の追儺式は次のようなものだったと考えられている。 追儺式は戌の刻(午後八時頃)に始まる。 天皇は紫辰殿に出御し、陰陽師が祭文を読みあげる。 次に方相氏が二十人ほどのシン子を従えて登場する。 方相氏は四つ目の黄金の面を着け、真っ赤な衣装(或いは上が黒、下が赤とも)を纏う。 方相氏は大舎人の中から体格のいいものが選ばれた。 方相氏は矛と盾を持ち、矛を地面に打ち鳴らして『鬼やらい、鬼やらい』と唱えて宮中を歩き回る。 その後に殿上人たちが桃の弓と葦の矢を持って続いた。桃の弓と葦の矢を持つのは、桃や葦に邪気を祓う力があるとされていたためである。 平安時代の追儺式と、吉田神社の追儺式には大きな違いがある。 もう一度、平安時代の追儺式についての記述を読んでほしい。 そう、平安時代の追儺式には方相氏は登場するが、鬼は登場しないのだ。 平安時代には鬼は目に見えないものとして追儺式が行われていたのだろう。 吉田神社のように、追儺式に鬼が登場するようになるのは、もう少し後の時代のことだと考えられる。  平安時代後期の人物、大江匡房の『江家次第』には『殿上人長橋の内に於いて方相を射る』とある。 なんと鬼を祓う正義のヒーロー、方相氏を射るというのである。 さらには室町時代の『公事根源』には、『鬼といふは方相氏の事なり。四目ありておそろしげなる面をきて、手に盾・鉾を持つ。』とある。 方相氏は怖そうな顔をしているので鬼と間違えられたのだろうか。 そういえばさきほど方相氏をみて「鬼が来た」と言った少年がいたではないか。 しかし私は、『江家次第』や『公事根源』が方相氏と鬼を混同したのではないと思う。 前回の記事の中で私は次のように書いた。 平安時代の延喜式には 『大寒の日に宮中の12の門にそれぞれ土牛を引くの童子を象った人形を立てる。これを立春の日の前夜(節分の夜)に撤去する』 とあると。 牛は丑、童子は八卦では艮(丑寅)を表す。 干支で12か月を表現すれば、丑は12月、寅は1月である。 牛は丑で12月を、童子は丑寅で12月と1月のあいだ、つまり1年の変わり目を表すものだと考えられる。 その像をなぜ大寒の日に門にたて、節分の夜に撤去するのだろうか。 それは『土牛を引く童子の像』が『身代わり人形』で、その像の中に冬の気を吸い込むことで、冬の気が宮中に入るのを阻止すると考えられたためではないだろうか。 ここから発展したのが方相氏による追儺式なのではないだろうか。 動かない人形よりも動く方相氏によって、もっと積極的かつ徹底的に冬の気を吸い込ませようというのだろう。 そして方相氏が冬の気を体内いっぱいに吸ったところで弓を射て、冬の気を一気に退治するという意図があったのではないだろうか。 息を吹きかけて穢れを移され、川や海に流されて葬られる人形と、方相氏は同じ役割を担わされているのだ。  下鴨神社 雛流し 貴船神社 名越の祓方相氏の正体は2頭の牛が合体したものだと考えられる。 そしてシン子は『童子』である。 つまり、シン子を引き連れた方相氏とは『牛を引く童子の像』と同じ意味を持つものだと考えられる。 方相氏は牛なので、干支の丑、12月をあらわしている。 シン子は童子で、童子は八卦では艮(丑寅)をあらわしている。 丑は12月で寅は1月なので、童子=シン子は1年の変わり目をあらわすもの、ということになる。 つまり、方相氏とシン子は目に見えない冬の気を視覚化したものだとも考えられる。 大寒の日、諸門にたてられた牛と童子の像は節分の日に撤去される。 撤去されたのち、どうされたのかは記述にないのでわからないが、流し雛のように川や海に流されたのかもしれない。 あるいは炮烙(ほうらく)のように割られるか。 壬生寺や千本閻魔堂では節分の日に炮烙を奉納し壬生寺は4月に、千本閻魔堂では5月の狂言の舞台で割る。 千本閻魔堂 炮烙割り方相氏とシン子も土牛や童子の像と同じ性質のもの、身代り人形だったと考えられる。 すなわち、その体内に冬の気を吸い込んだのち、弓で射られて殺される必要があったのではないだろうか。 それで、『江家次第』に『方相を射る』と記されているのだと思う。 『江家次第』を表した大江匡房は鬼と方相氏を混同したわけではないと思う。 『公事根源』に、『鬼といふは方相氏の事なり。』とあるのも、間違いだとは言い切れないと私は思う。 すでに見たとおり、方相氏は二頭の牛が合体した神だと思われる。 なぜ二頭の牛が合体しているのか。 密教の神・大聖歓喜天にこんな話がある。 インドのマラケラレツ王は大根と牛肉が大好物であった。 牛を食べつくすと死人の肉を食べるようになり、死人の肉を食べつくすと生きた人間を食べるようになった。 群臣や人民は王に反旗を翻した。 すると王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまった。 その後国中に不幸なできごとが蔓延し、それらはビナヤキャの祟りであるとされた。 そこで十一面観音はビナヤキャの女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われた。 ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、『自分のものになれ』と命令した。 女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓った。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AIcon_of_Shoten.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Icon_of_Shoten.jpg よりお借りしました。 作者 不明 (平安時代の図像集『別尊雑記』(心覚 撰)巻 42より) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
神はその表れ方によって御霊(神の本質)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂〈神の荒々しい側面)の3つに分けられ、女神は和魂、男神は荒魂だとする説がある。 とすれば、御霊とは男女双体ということになると思う。 大聖歓喜天の話は、この御霊・和魂・荒魂という概念にぴたりとあてはまる。 御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体・・・大聖歓喜天・・・・・方相氏(二頭の牛が合体している。) 和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・ビナヤキャ女神・・・雌牛 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・ビナヤキャ・・・・・雄牛 大聖歓喜天の話から、男女を和合させるというのは、荒ぶる神を仏法守護の神に転じさせる呪術であったと考えられる。 牛の男神は1柱では鬼であるが、牛女神をあわせて男女双体にすれば、仏法守護の神に転じる。 それが方相氏の正体だと私は思う。 人形の涙⑩ 貴船神社 夏越の祓 『夏越の祓とユダヤの過越祭』 へつづく~ トップページはこちらです→ 人形の涙① 高取土佐町 町屋の雛めぐり 『雛人形の首はなぜ抜けるのか』 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ご意見・ご感想は遠慮なくメールフォームにてお送りください。
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[2018/05/11 09:23]
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人形の涙⑥ 當麻寺 二十五菩薩練り供養 『死者に穢れを持っていってもらう行事』 よりつづく~ 高取土佐町 雛巡り 御殿飾り ※昔の雛人形は首がとれるように作られていた。私たちは高取土佐町の雛巡り、龍野の人形浄瑠璃、上賀茂神社の夏越神事、下鴨神社の雛流し、淡嶋神社の雛流し、當麻寺・即成院の練り供養と旅を続けてきた。 旅の出発点は雛人形や人形浄瑠璃の首はなぜとれるのか、ということだったが、これまでの旅の中でその答えが浮かびあがってきたように思う。 龍野 人形浄瑠璃 ※人形浄瑠璃の人形は綿の入った衣装に頭や手足をさしこんで操る。芝居が終わると衣装から頭(かしら)を抜く。
上賀茂神社の夏越神事で見たものは、息を吹きかけて人形に穢れを移し、川に流すという神事だった。 上賀茂神社 夏越神事下鴨神社や淡島神社の雛流しの中で、もともと雛人形は紙でできており、川や海に流す行事であったことを知った。 下鴨神社 雛流し
下鴨神社 雛流し 淡島神社 雛流しそして當麻寺・即成院の練り供養は、死者にあの世に穢れを持っていってもらう行事であることを学んだ。 當麻寺 練り供養 即成院 練り供養人形とは自分の穢れを移して川や海に流す身代わり人形だった。 雛人形ももともとは紙でつくられていて川や海に流していた。 しだいに雛人形は豪華な人形へと変化し、簡単に川や海に流せるものではなくなった。 しかし人形の本質は身代わり人形なので、命をたつ必要がある。 人形の首を抜いて和紙でくるみ押入れの奥にしまいこむというのは、人形の命を絶つ儀式なのではないだろうか。 それを確認するために、今回は人麿神社のすすつけ祭へとやってきた。(現在は行われていません) 人麿神社の御祭神は柿本人麻呂だが、その神像の中には雛人形や人形浄瑠璃と同じく、首の抜けるものがあるのだ。 人麿神社 すすつけ祭橿原市地黄町の人麿神社のすすつけ祭は「のぐっつぁん」(野神祭)と呼ばれる風習のひとつである。 「のぐっつぁん」とは5月ごろ、ワラで作ったジャ(蛇)を子供たちが野神塚まで担いで行き、塚に住むといわれる巳さんに参拝し雨乞い・豊作を祈る風習のことである。 すすつけ祭では5月4日の午後、子供たちがは村を回って竃の煤を集め、水と油を加えて墨をつくる。 綿をくるんだりすみつけ棒も作る。 その後、年長の子供が煤つけ役となり、裸になった小さな子供たちを追いかけまわして墨をつける。 子供たちが真っ黒になるほど豊作になるといわれている。 人麿神社 すすつけ祭
参加した子供たちはは全員当屋(氏神:人麿神社の年当番)の家に泊り、翌5日の早朝4時に野神まいりにでかける。 戻るときには「ノーガミさん送った、ジージもバーバも早よ起きよ!」と大声ではやすそうだ。 子供たちは当屋でお昼を御馳走になり、お小遣いをもらって祭は終了する。 人麿神社の氏子さんたちにとって、野神さんとは人麿神社の御祭神・柿本人麻呂そのものだろう。 子供たちが煤をつけあうのは、柿本人麻呂が万葉時代を代表する歌人なので、人麻呂が筆をとって色紙に歌を書いているところをイメージしたのだろうか。 それもあるかもしれないが、私はこの祭は柿本人麻呂に穢れを移す祭ではないかと思う。 墨をつけられる小さな子供たちは柿本人麻呂役なのではないか。 人麿神社 すすつけ祭
上賀茂神社の夏越神事を思い出してほしい。 それは人形に息をふきかけることで、自らの穢れを人形に移して川に流すというものだった。 これと同じように、地黄町の人々は人麻呂役を演じる子供たちに煤をつけることで、自らの穢れを移しているのではないか。 そして5日の早朝、子供たちは「ノーガミさん送った」と囃すが、野神さん(=柿本人麻呂)をどこに送ったのだろうか。 人々の穢れを背負わされた野神さん(=柿本人麻呂)はあの世に送られたのではないか。 「これで穢れはなくなった。ジージもバーバも早く起きろ、もう安心だ」ということではないだろうか。 煤つけ祭で子供たちが真っ黒になるほど豊作になるといわれるのは、それだけたくさんの穢れを柿本人麻呂があの世に持ち去ってくれると考えられたからだろう。 また子供たちにお小遣いが支払われるのは、穢れ役(人麻呂役)を担ったことに対する報酬だと考えられる。 先ほど柿本人麻呂像の中には首が抜けるものがあることを御紹介したが、柿本人麻呂とは人々の身代わりとなって人々の穢れを自らに負い、あの世にもっていってくれる神であると信仰されていたのではないだろうか。 そして煤つけ祭のような行事を行ったあと、首を抜いて魂をぬくため、首が外れる構造の人麻呂像が作られたのではないだろうか。 人形の涙⑧ 手向山八幡宮 お田植祭 『御田植祭は追儺式を陽に転じた神事だった?』 へつづく~ トップページはこちらです→ 人形の涙① 高取土佐町 町屋の雛めぐり 『雛人形の首はなぜ抜けるのか』 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ご意見・ご感想は遠慮なくメールフォームにてお送りください。
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[2018/04/17 11:06]
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人形の涙⑤ 淡島神社 雛流し 『雛流しと補陀落渡海』 よりつづく~ ●死者に穢れを持っていってもらう行事
當麻寺来迎橋の上を二十五菩薩がゆっくりと渡ってくる。 二十五菩薩練供養は當麻寺に伝わる中将姫伝説を再現したものとされる。 中将姫伝説とは次のようなものである。 藤原豊成と妻・紫の前(品沢親王の娘)には長い間子供ができなかったが、長谷寺の観音に祈願して、中将姫を授かった。 紫の前は中将姫が5歳のときになくなり、豊成は橘諸房の娘の照夜の前を後妻とした。 中将姫は美しく成長し、またさまざまな才能にも秀でていたが、継母の照夜の前は中将姫を嫌いいじめていた。 には折檻されるるなど、いじめられていた。 父の豊成が諸国巡視の旅に出かけると、照夜の前は従者に中将姫の殺害を命じた。 しかし従者は中将姫を殺すにしのびず、雲雀山に置き去りにした。 中将姫は雲雀山に草庵を結び念仏三昧の生活をおくっていたが、1年後、遊猟にやってきた父・豊成と再会して都へ戻った。 29歳のとき、阿弥陀如来をはじめとする二十五菩薩が来迎して中将姫は生きながらにして西方浄土に向かった。 當麻寺上の写真の先頭は観音菩薩で、手には中将姫の像を持っている。 このあと行列は二上山のふもとにある當麻寺本堂に入堂していく。 二上山は奈良の西にあり、日の没する山だった。 そのふもとにある當麻寺本堂は西方浄土の入り口というわけだろう。 練供養会式は平安時代の僧、恵心僧都源信が比叡山で行ったのがの始まりとされ、同様の行事は奈良の久米寺、大阪の大念仏寺、京都の即成院などでも行われている。 即成院上の写真は京都即成院の練供養会式だが『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』に、即成院の二十五菩薩練供養についての記事があり、次のような内容が記されていた。 ①『迎講』は死者をあの世に届ける儀式であると同時に、この世の人が再生する儀式でもあった。 ②お練りに参加した人はこの日生まれ清まるという信仰があった。 なぜ死者をあの世に届けるとこの世の人が再生するのだろうか。 それは死者がこの世の穢れをあの世に持ち去ってくれると考えられていたからではないだろうか。 久米寺當麻寺の練供養では観音菩薩が手にした中将姫の像に、自分の穢れを持っていってもらうということになる。 二十五菩薩が渡っていくのを手を合わせて拝んでおられる方がいた。 それは、中将姫に死んでもらい、自分の穢れを押し付け、中将姫があの世へ向かう様子に「ありがたや、ありがたや」と手を合わせて拝んでいるの図ではないのか。 もちろん、拝む人にそんな気持ちはないと思う。 しかし形式はそうなってはいないだろうか。 大念仏寺人形の涙⑦ 人麿神社 『首が抜ける人麻呂像』 へつづく~ トップページはこちらです→ 人形の涙① 高取土佐町 町屋の雛めぐり 『雛人形の首はなぜ抜けるのか』 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ご意見・ご感想は遠慮なくメールフォームにてお送りください。
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[2018/04/10 20:36]
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人形の涙④ 『人形を人間の身代わりにして殺す』 よりつづく~  3月3日、雛祭りの日、和歌山市加太にある淡嶋神社を訪ねた。  淡島神社の拝殿には全国から奉納された雛人形が所せましと並べられていた。  巫女さんたちによって雛人形は小舟に乗せられ、船は浜へ運ばれた。  多くの参拝者が見守る中、雛人形を乗せた小舟は沖へと向かっていった。  私たちは上賀茂神社の夏越神事において、息を吹きかけられて穢れを移され、さらに川に流される人形を見た。 人形の涙③ 上賀茂神社 夏越神事『穢れを移され、川に流される人形』 上賀茂神社 名越神事このような夏越神事は各地で行われているが、海に近い場所では川ではなく、海に流されることもあったようである。 また3月3日のひな祭りの人形はもともとは紙でできた簡素なものであり、ひな祭が終わると川や海に流されていた。 江戸時代に豪華なひな人形が作られるようになると、高価な雛人形を流すわけにいかなくなり、雛流しの習慣は廃れたといわれている。  下鴨神社 雛流しhttp://www.geocities.jp/seijiishizawa/NewFiles/hina-okuri.html上記の下のほうに昭和初期の淡嶋大社の御守雛の写真が掲載されている。 現在の淡嶋神社では小袋に雛人形の刺繍を施したお守りを授与しているが、もともとは紙で作った人形をお守りとして授与していたのだ。 ちなみにこの人形、大きい方が女神(神功皇后)で、小さい方が男神(応神天皇)とされている。 淡嶋神社の雛流しの行事がいつから行われているのかわからないが、もともとは昭和初期の御守雛のような紙の人形を流す行事であったのかもしれない。 海へ流された人形は現在では不法投棄にならないよう、浜にあげお焚き上げしているが、昔はそのまま沖へ流していた。 沖に流された舟は高波にのまれて転覆し、人形たちは海の藻屑と消えたことだろう。 海は人形たちの墓場であったのである。 沖に流されていく人形を乗せた小舟を見ていると、かつて熊野で行われていた補陀落渡海を思い出す。 補陀落渡海とは出口のない船に行者が乗り込んで南方海上にある観音が住む補陀落浄土をめざすというものである。 もちろん南方海上には補陀落浄土などなく、行者たちは出口のない船に乗って死の世界をめざしたのだ。 行者たちはなぜ死の世界をめざしたのか。 また人形たちはなぜ死の世界である海へと流されていったのか。 人形の涙⑥ 當麻寺 二十五菩薩練り供養 『死者に穢れを持っていってもらう行事』 へつづく~ トップページはこちらです→ 人形の涙① 高取土佐町 町屋の雛めぐり 『雛人形の首はなぜ抜けるのか』 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ご意見・ご感想は遠慮なくメールフォームにてお送りください。
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[2018/03/29 19:25]
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人形の涙② 龍野ひなまつり 『首がとれる人形浄瑠璃の人形』 よりつづく~ ①夏越神事が終わるとお盆の季節がやってくる。日が暮れて闇に包まれる上賀茂神社境内。 篝火がたかれると、オレンジ色の炎に照らされてならの小川の流れが浮かびあがってくる。 その流れの中を、大量の白い人形(ひとがた)が流れていく。 人形は小川を流れたのち、鴨川へと流れ込み、さらに桂川、淀川を経て大阪湾へと向かうのだろうか。 鎌倉時代の歌人、藤原家隆が「風そよぐ ならの小川の夕暮れは みそぎそ 夏のしるしなりける」という歌を詠んでいるが、 この歌は上賀茂神社の夏越の祓を詠んだものである。 鎌倉時代に藤原家隆が見たのと同じ風景が、今私の目の前にあるのだ。 家隆の歌を私なりに現代語訳してみると次のようになる。 「風がそよそよと吹くならの小川の夕暮れ。禊(夏越神事のこと)が行われ、ならの小川をたくさんの人形が流れていく。この風景だけが夏のしるしで明日からは秋になるのだなあ。」 夏越神事は旧暦の6月晦日に各地で行われる行事だった。 6月晦日は1年の半分、折り返し地点であり、1年の後半を迎えるにあたって禊をする習慣があったのである。 ここで注意したいことがある。 新暦では春は3月4月5月、夏は6月7月8月、秋は9月10月11月、冬は12月1月2月であるが、旧暦では春は1月2月3月、夏は4月5月6月、秋は7月8月9月、冬は10月11月12月だったということである。 すなわち、6月晦日は夏の最後の日であり、翌日の7月1日よりは秋だったのだ。 旧暦は新暦から約1か月ほどずれる。 従って旧暦の7月は新暦換算すると8月くらいであり、一番暑いさなかに秋を迎えていたということである。 一般的な訳では「涼しい風が吹いてすっかり秋らしくなった。禊をする風景だけが夏の名残である。」という風に訳される。 確かに8月でも日が暮れると気温が下がって涼しくはなる。 現在ではヒートアイランド現象で夜になっても気温が下がらない地域があるが、8月(旧暦7月ごろ)に千早赤阪村を訪ねたとき、日中は暑くてたまらなかったのだが、日没後は驚くほど気温が下がってエアコンや扇風機はいらないほどだった。 しかしそれでは7月(旧暦6月ごろ)の夜は暑かったのかというと、そんなことはないと思う。 7月も8月と同様、昼は暑く、夜になると涼しくなったことだろう。 なので、「涼しい風が吹いてすっかり秋らしくなった」と訳すのは間違いだと私は思う。  『風そよぐ』の『そよぐ』は漢字では「『戦ぐ』と書く。 なにか以外な感じがしないだろうか。 オリビア・ニュートンジョンの『そよ風の誘惑』はロマンチックで優しいメロディーが耳に残る名曲であるように 現代人にとって『そよ風』とは『優しい風』というイメージだ。 しかし、古の人々は違うイメージを持っていたのではないだろうか。 漢和辞典で『戦』という漢字の意味を調べてみると、次のように書かれていた。 ① 戦う。戦をする。 ② いくさ ③ おののく ふるえる ④ そよぐ そよそよと揺れ動く ⑤ はばかる 『風戦ぐ』とは、吹かれて心地よく感じる風ではなく、ざわざわと不気味さを感じる風だったのではないか。 6月晦日の翌日は7月1日であるが、旧暦の7月1日は釜蓋朔日(かまぶたついたち)といわれていた。 釜蓋朔日とは、地獄の釜の蓋が開く日であのことであり、この日からお盆が始まるとされていた。 お盆とはご存じのように先祖の霊を祀る行事のことで、このころ、先祖の霊が家に戻ってくると考えられていた。 6月晦日は夏のおわりで、7月1日は秋の始まりであった。 お盆とは秋の始まりを告げる行事であったといえるだろう。 家隆はざわざわと吹く風に、お盆になって帰ってくる霊の存在を感じたのではないだろうか。 ②穢れを移され、川に流される人形さて、ここからが本題である。 ならの小川をたくさんの人形たちが流れていくが、この人形は全国から上賀茂神社に奉納されたものである。 人形を奉納する際、奉納者たちは人形に息をふきかける。 息を吹きかけるのは自らの穢れを人形に移すというまじないである。 人形は穢れを移されたのち、さらに川に流される。 川に流された人形は破れたり、川底に沈んだりするだろう。 海までたどり着いた人形があったとしても、荒波の中でいつしかその存在を消していくだろう。 それは人形の死を意味しているのではないだろうか。 大阪市天王寺区 藤原家隆墓人形の涙④ 『人形を人間の身代わりにして殺す』 へつづく~ トップページはこちらです→ 人形の涙① 高取土佐町 町屋の雛めぐり 『雛人形の首はなぜ抜けるのか』 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2018/03/09 13:54]
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