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翁の謎⑲ 東大寺 三月堂 『志貴皇子・春日王・開成皇子はなぜハンセン病の神とされたのか。』(最終回) 

翁の謎⑱ 立山黒部アルペンルート 『らいの鳥』よりつづきます~

三月堂 百日紅

三月堂と百日紅


●不空羂索観音と土蜘蛛

728年、聖武天皇と光明皇后が幼生した基皇子の菩提を弔うために若草山麓に金鍾寺創建した。
8世紀半ば、金鐘寺には羂索堂や千手堂が存在していた。
この羂索堂が現在の東大寺三月堂だと考えられている。
その後、741年に聖武天皇は国分寺建立の詔を発し、742年に金鐘寺は大和国の国分寺となり金光明寺と改められた。
747年ごろより、東大寺と呼ばれるようになる。

三月堂 鹿 
三月堂と鹿

三月堂はもとは寄棟造正堂と礼堂の二つの建物からなっていた。
鎌倉時代に礼堂を入母屋造りに改築して2棟をつないだため、不思議な形をしている。
正堂は天平初期、礼堂は鎌倉時代の建築となる。
三月堂は現存する東大寺最古の建物である。

堂内には美しい天平仏たちが安置されている。
中央に安置されているのが三月堂御本尊の不空羂索観音である。
像高3.6メートルもある巨大な像で、宝冠には約2万粒の宝石がつけられている。 

File:Todaiji Monaster Fukukensaku Kwannon of Hokkedo (232).jpg

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Todaiji_Monaster_Fukukensaku_Kwannon_of_Hokkedo_(232).jpg?uselang=ja よりお借りしました。

不空羂索観音の四本ある左手のうち、下から二番目の手に羂索を持っておられる。

羂索とは狩猟の道具で、5色の糸をより合わせた縄の片端に環、もう一方の端に独鈷杵の半形をつけたものである。
不空羂索観音はその羂索であらゆる衆生をもれなく救済する観音であるといわれる。
同じく不空羂索観音をご本尊としている不空院(奈良市高畑町1365)を参拝したとき、「羂索とは網である」と説明を受けた。
私は不空羂索観音が羂索を投げる姿を想像してみた。
羂索の網はぱあっと広がって、まるで狂言や六斎念仏で演じられる土蜘蛛のようではないか。 

清水寺 土蜘蛛 
清水寺 中堂寺六斎 土蜘蛛


そう思って改めて見てみると、不空羂索観音の光背は蜘蛛の巣に似ている。
不空羂索観音の腕は8本だが、蜘蛛の脚も8本である。
不空羂索観音とは土蜘蛛をあらわしたもので、その光背は蜘蛛の巣をイメージしたものなのではないだろうか。

土蜘蛛とは奈良時代の記紀や風土記に登場するまつろわぬ民のことである。
まつろわぬ民とは、謀反人のことであるといってもいいだろう。

●春日王・志貴皇子・開成皇子には、なぜハンセン病を患ったという伝説が残されているのか。


不空羂索観音の肩にかけてあるケープのようなものは鹿の皮であるが、鹿もまた土蜘蛛同様、謀反人を比喩したものだとする説がある。 

三月堂の外に出ると、何頭もの鹿が一人の観光客を取り囲んでいた。
観光客は手にお菓子を持っており、鹿たちはそれを狙っているようだった。(笑)

その鹿の夏毛を見て、私は気がついた。
なぜ春日王または志貴皇子がハンセン病を患ったという伝説が残されているのか。

日本書紀の仁徳天皇紀に『トガノの鹿』という物語が記されている。

雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。
雌鹿は夢占いをして、
『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』
と答えた。
翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。


大仏殿 鹿のカップル

かつて謀反の罪で殺された人は塩を振ることがあったそうで、トガノの鹿に登場する雄鹿は謀反人の比喩ではないかとする説がある。

おそらく鹿の夏毛の斑点を、塩や霜にたとえたのだろう。

しかし、鹿の夏毛の斑点は、ハンセン病患者の皮膚にも似ている。

日本書紀に次のような話がある。

612年、百済から渡来したものの中に体に白斑を持つ者がおり、海中の島に置き去りにしようとした。
白斑の男はこう言って抵抗した。
「白斑が悪いというのなら、私と同じように白斑のある牛馬は飼えないではないか。
私は築山を作るのが得意で、この国のお役にたつことができます。私を海中の島に捨てるのは日本のためになりません。」
そこでこの男に須弥山の形と呉風の橋を御所の庭に築かせた。


ここに登場する白斑を持つものは、「私と同じように白斑のある牛馬は飼えない」と言っているではないか。

帰宅後、私はパソコンを開いてハンセン病の症状について調べてみた。

http://www.geocities.jp/libell8/8byoukeibunrui.html
上のページに症状が写真で説明されている。

MB型では鹿の夏毛のような形の紅斑ができている。
また日本書紀にあるように白い斑点が現れるといった症状もあったのだろう。

鹿の斑点は謀反人で殺された人に降る塩に見立てられると同時に、ハンセン病患者の皮膚の斑点にも見立てられたのだろう。

志貴皇子や春日王や開成皇子(海上皇子)がハンセン病を患ったという伝説があるが
実際に、志貴皇子や春日王や開成皇子(海上皇子)がハンセン病を患ったということではないだろう。

志貴皇子や春日王や開成皇子(海上皇子)は謀反の罪で殺されて塩を振られていた。
その状態が鹿の夏毛や、ハンセン病患者の皮膚の状態に似ているということで彼らがハンセン病を患ったという伝説が創作されたのだと私は思う。

八坂神社 翁 黒式尉

end.

トップページはこちら→翁の謎① 八坂神社 初能奉納 「翁」 『序』
東大寺・・・奈良市雑司町  

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[2017/01/24 00:50] 翁の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)

翁の謎⑱ 立山黒部アルペンルート 『らいの鳥』 

翁の謎⑰ 勝尾寺  『勝尾寺は鰹寺だった?』 より続きます~

●ライチョウに会いに、立山へ。

扇沢駅前の無料駐車場に車をとめ、コートを着込む。
5月になるが、雪が厚く積もっており、風も冷たい。

扇沢駅から黒部ダム駅まで電気で関電トンネルトロリーバスでトンネル内を走り黒部ダム駅へ。

関電トンネルは黒部ダム建設用資材運搬用トンネルとして、1958年に開通した。
トンネル開通工事は大変な難工事で工事中、171人もの死者を出したという。
今このような事件がおこると大問題となるが、当時はそんなことはなかったのだろうか?

黒部ダム 
黒部ダム

黒部湖 
黒部湖

関電トンネル トロリーバス 

関電トンネルトロリーバス

さらに黒部ケーブルカー、立山ロープウェイ、立山トンネルトロリーバスと乗り継いでで室堂駅に到着した。

雪の大谷 
雪の大谷

雪を切り開いて作った雪の大谷は観光客でごった返し、まるで繁華街のよう。
しかし、雪の大谷とは逆方向のみくりが池に向かう人はごくわずかだった。

みくりが池では雷鳥のつがいが私を迎えてくれた。

雷鳥-雄 

ニホンライチョウのオス

雷鳥 雌 

ニホンライチョウのメス

雷鳥は冬はほとんど飛ばないそうだ。。
私が訪れたのはゴールデンウィーク期間中だったが、雷鳥はほとんど飛ばなかった。
また雷鳥としては珍しくニホンライチョウは人を怖がらないそうで、写真を撮っても逃げない。

●らいの鳥

ライチョウは約2万年前の氷河期に日本にやってきたと考えられている。
氷河期が終わると多くのライチョウは北の地へ戻ったが、一部は高山の寒冷地り、進化してニホンライチョウとなったとされる。
現在の日本にはわずか2000羽が棲息するのみであるという。

平安時代にはライチョウは「らいの鳥」と呼ばれていた。
江戸時代には『鶆(らい)』と記された文献があるそうだ。

「らいの鳥」とは「癩(らい)病の鳥」という意味ではないだろうか。
ライ病は差別的な言葉であるとして現在ではハンセン病と言われているが。

http://www3.famille.ne.jp/~ochi/rai6.html
↑ こちらのサイトにライチョウの換羽(衣がえ)の写真がある。

ライチョウは季節によって姿を変える。
上記サイトを見ると月ごろのライチョウには斑点があるが、1月2月ごろのライチョウは白い。
説明文を読むと、春ごろより斑点模様がでてくるようである。

ハンセン病には様々な症状があるが、顔面や手足に潰瘍ができるというケースもある。

斑点模様が、ハンセン病患者を思わせることから、「ライチョウ」という名前がついたのではないかと思ったりする。

奈良豆比古神社では、志貴皇子がハンセン病を患ったが、あるとき翁の面に病が移りもとの美しい顔になっていた、と伝えている。
奈良豆比古神社 翁舞 『道鏡の父親は志貴皇子だった?』  

斑点のある姿から真っ白な美しい姿に変化するライチョウは、まるで志貴皇子のようではないか。

 立山黒部アルペンルート・・・富山県中新川郡立山町 長野県大町市

 

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[2017/01/22 00:00] 翁の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)

翁の謎⑰ 勝尾寺  『勝尾寺は鰹寺だった?』 


翁の謎⑯ 祇園祭 黒主山 『白い神から黒い神に転じた大伴家持』 よりつづきます~

勝尾寺 仁王門 紅葉

●開成皇子と開成皇子

今、前田速男さんの「白山信仰の謎と被差別部落」という本を読んでいるのだが、その中に興味深いことが書いてあった。

静岡県磐田市の白山神社には次のような伝説が残されているそうだ。

①桓武天皇の第四皇子の海上皇子(戒成皇子)は従者とともにこの地にやってきて、地元の人々の食べ物を乞うようになった。
その原因は、飼っていた雀が戸から飛び出し南殿の白砂にとまったのを追って、裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、癩者のになったためである。


勝尾寺の創建説話に光仁天皇の皇子・開成皇子が登場する。
勝尾寺は727年に双子の兄弟、善仲と善算(藤原致房の子)がここに草庵を築いたのを始まりとし
765年に開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りたというのである。

前田速男さんはこの勝尾寺の創建説話に登場する開成皇子と、磐田市・白山神社の伝説に登場する海上皇子には関係があるのではないかと指摘されている。

というのは、愛知県新城市の白山神社には後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子についての、次のような文書が残されているというのである。

②御殿において白雀を飼はせらる
まさに餌をやらんとすれば飛び放る
再び捕へんとして穢れし大地を踏まる
悪病にかかりて殿を出で
漂泊 旅して東原に至る


①は桓武天皇の第四皇子の海上皇子(戒成皇子)、②は後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子となっているが、内容は全く同じだ。

ここから、海上皇子(戒成皇子)と開成皇子には関係があると考えられる。

勝尾寺の伝説に登場する開成皇子と海上皇子は同一人物ではないだろうか。
勝尾寺の伝説に登場する開成皇子は光仁天皇の皇子、静岡県磐田市・白山神社の伝説に登場する海上皇子は桓武天皇の皇子となっている。

桓武天皇は光仁天皇の子なので、勝尾寺の開成皇子は光仁天皇の兄弟、開成皇子と海上皇子は伯父・甥の関係ということになる。
しかし私たちはすでに、志貴皇子とその子とされる春日王がどうやら同一人物であるらしいことを見てきた。
(参照/翁の旅⑪ 奈良豆比古神社 翁舞 『志貴皇子と春日王は同一人物だった?』

奈良の奈良豆比古神社には志貴皇子の子の春日王がハンセン病を患ったという伝説がある。
ところが地元ではハンセン病を患ったのは志貴皇子であるという語りが伝承されているのだ。
また、春日王は田原皇子、志貴皇子は春日宮天皇または田原天皇とも呼ばれており、ふたりは同じ名前で呼ばれていたということになります。
皇室において父子が同じ名前で呼ばれていたというケースはないと思う。
そこから私は春日王と志貴皇子は同一人物ではないかと考えたのだ。

これと同様、海上皇子は桓武天皇の第四皇子、開成皇子は光仁天皇の皇子、となっているが、実は同一人物なのではないか。

●志貴皇子の子に海上女王または海上王の名前が。

光仁天皇は志貴皇子の皇子である。
志貴皇子ー光仁天皇ー桓武天皇と血筋がつながっているのだ。
そして志貴皇子の子には光仁天皇・春日王のほか、海上女王または海上王の名前がある。
つまり、志貴皇子・光仁天皇・桓武天皇の3代にわたり、それぞれ海上または開成という名の子があったということになる。
しかも血のつながりのある志貴皇子・春日王・海上(開成)皇子がいずれもハンセン病をっ患ったという伝説が残されているのだ。

勝尾寺 多宝塔 二階堂 紅葉

●勝尾寺には白山信仰があった?

勝尾寺の三宝荒神社には、1677年、旗本菅沼隠越中守の娘がこの荒神さまに祈願したところ、白髪が黒髪になったという伝説がある。
(参照/勝尾寺 雨 紫陽花 『白い神と黒い神』 

白髪の娘は白山の神をイメージして創作されたものではないだろうか。

また、白髪だったのは菅沼隠越中守の娘とされているが、越中とは現在の富山県だ。
富山県五箇村には菅沼集落があり、菅沼隠越中守はこの菅沼集落と関係の深い人物のように思えるが、五箇村は古より白山信仰が根付いていた地域だった。

 五箇山 菅沼集落 
五箇村菅沼集落

東国の被差別部落の多くが白山神を祀っている そうだ。

関八州のエタ頭浅草の弾左衛門の一子が天然痘(疱瘡)を患ったとき、加賀の白山に祈願したところ快癒した。
そこで弾左衛門は白山神に感謝して、自邸に勧請した。
各地の被差別部落もそれにならって白山神を勧請したと言われている。

しかし、弾左衛門の支配下以外の、信州・東海・近畿・四国・九州などでも白神を鎮守にする被差別部落は数多くあるのだという。

勝尾寺は勝王寺という寺名を賜ったが「王に勝つ」では畏れ多いとして「勝尾寺」としたとしているが、
鰹寺を転じて勝尾寺としたのではないかと思ったりもする。
山中で海からは遠いのに鰹寺というのは変なようにも思えるが、開成皇子の別名が海上皇子だとすれば、鰹寺というネーミングはぐっと近づいてくる。

弾左衛門の一子が患ったのは天然痘ということだが、白山信仰は静岡県磐田市の白山神社や愛知県新城市の白山神社では海上皇子(開成皇子)がハンセン病を患ったという伝説がつたわっており、
白山神社は天然痘よりもハンセン病と関係が深いのではないかと思う。

そしてハンセン病と被差別部落は関係が深い。
かつてハンセン病患者は夙に捨てられることが多かったのだ。

ハンセン病は古にはらい病、ナリンボ、ドス、カタヰ(カタイ)などとも言ったそうである。
魚偏に堅いと書けば鰹となる。

勝尾寺とはもともとは鰹寺であり、勝尾寺の創建説話に登場する開成皇子とは春日王や志貴皇子と同じくハンセン病の神として信仰されていたのではないだろうか。

●ハンセン病はなぜ海と結び付けられたのか

日本書紀に次のような話がある。

612年、百済から渡来したものの中に体に白斑を持つ者がおり、海中の島に置き去りにしようとした。
白斑の男はこう言って抵抗した。
「白斑が悪いというのなら、私と同じように白斑のある牛馬は飼えないではないか。
私は築山を作るのが得意で、この国のお役にたつことができます。私を海中の島に捨てるのは日本のためになりません。」
そこでこの男に須弥山の形と呉風の橋を御所の庭に築かせた。


ハンセン病には様々な症状があるが、その中に体の一部または数か所の皮膚が斑紋状に白くなるというのがあり、白癩(びゃくらい)と呼ばれていた。
白斑のある男はこの白癩の症状であったのかもしれない。

なるほど、ハンセン病を患った皇子の名前が海上皇子という理由がわかった。
この612年の日本書紀の記事で、白斑を持つ男を海中の小島に置き去りにしようとしたという故事から、ハンセン病の皇子のことを海上皇子と呼んだのだろう。

勝尾寺・・・大阪府箕面市粟生間谷2914-1

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[2017/01/21 00:00] 翁の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)

翁の謎⑯ 祇園祭 黒主山 『白い神から黒い神に転じた大伴家持』 

翁の謎⑮ 勝尾寺 三宝荒神社 『白は荒魂 黒は和魂?』よりつづきます~

祇園祭 山鉾巡行 黒主山  
祇園祭 山鉾巡行 黒主山

●「志賀」と「草子洗い」

祇園祭の山鉾のひとつ・黒主山は、謡曲・志賀を題材とした山である。

今上天皇に仕える臣下が桜を見ようと江州志賀の山桜を見ようと山道を急いでいたところ、薪に花を添え花の陰に休む老人に出会った。
この老人が大友黒主で、和歌の徳を語って消え去るが、臣下の夢の中に現れて舞を舞う。(謡曲・志賀)


大友黒主とは六歌仙(僧正遍照・在原業平・喜撰法師・文屋康秀・小野小町・大友黒主)の一人で、古今和歌集仮名序(古今和歌集の仮名で記された序文)に『大友黒主はそのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし 。』と記されている。
謡曲・志賀出大友黒主が花の陰に休む老人として登場するのは、この古今和歌集仮名序の文章を受けたものなのだろう。

また能に『草紙洗い』という演目があり、やはり大友黒主が登場する。
『草子洗い』は次のような筋である。

小野小町と大伴黒主が宮中で歌合をすることになった。
歌合せの前日、大伴黒主は小町の邸に忍び込み、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きした。

蒔かなくに 何を種とて 浮き草の 波のうねうね 生ひ茂るらん
(種を蒔いたわけでもないのに何を種にして浮草が波のようにうねうねと生い茂るのでしょうか。)

当日、紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らが列席して歌合が始まった。
小町の歌は天皇から絶賛されるが、黒主が小町之歌は『万葉集』にある古歌である、と訴えて、万葉集の草紙を見せた。
ところが小町が草紙に水をかけると、その歌は水に流れて消えてしまった。
黒主は昨日盗み聞いた小町の歌を万葉集の草紙に書き込んでいたのだった。
策略がばれた黒主は自害を謀るが、小町がそれをとりなして和解を祝う舞を舞う。(能・草紙洗い)


『志賀』では黒主は『和歌の徳を語る老人』であるが、『草子洗い』では『小町の歌を盗み聞くずる賢い人物』として描かれている。
いったい、大友黒主とはどのような人物だったのだろうか?

祇園祭 宵山 黒主山 御神体 

黒主山 御神体

●大友黒主は古の猿丸大夫の次なり。

古今集には仮名書のほかに「真名序」とよばれる漢文で記された序文がある。
内容は仮名書とほとんど同じだが、微妙に表現が違っている。
たとえば、仮名書では
大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。 
となっているが、真名序は次のようになっている。(読み下し文)
大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。 

真名序には『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』 とある。
これはどういう意味だろうか。

真名序を書いたのは紀淑、仮名序を書いたのは紀貫之だと言われているが、紀貫之は古今伝授の創始者である。
古今伝授とは紀貫之より代々伝えられた和歌の極意のことで、伝授する人物は和歌の第一人者に限られた。

鎌倉時代には藤原定家が父親であり師匠でもあった藤原俊家から古今伝授を受けている。
『古の猿丸大夫の次なり』の意味を定家ならば知っているかもしれない。
そう思って定家が撰んだ百人一首を調べてみた。

百人一首のそれぞれの歌には1から100までの番号が振られている。
もしかしたら定家は『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』という仮名序の文章を受けて、百人一首において大友黒主の正体を明らかにしているのではないか、と思ったのだ。
つまり、猿丸大夫の次の歌人が、大友黒主ではないかという推理だ。

百人一首では猿丸大夫は5番だった。
その次・・・6番は大伴家持だった!

大友黒主は大伴黒主と記されることもある。

また大友黒主と大伴家持はよく似た、というよりもほとんど同じ歌を詠んでいるのだ。

白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)



白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。)


古歌の語句・発想・趣向などを取り入れて新しく作歌する手法のことを『本歌取り』という。
本歌取りで大切なのは、古い歌をベースにしながら、あくまでもオリジナリティのある歌を詠むことである。
大伴黒主の歌は大伴家持の歌とほとんど同じで、本歌取りではない。

ほとんど同じと思われるふたつの歌の、一方は大伴黒主、一方は大伴家持の歌であるという。
このことからも、ふたりは同一人物ではないかと思われる。

祇園祭 宵山 黒主山 

祇園祭 宵山 黒主山


●そのさまいやし


大伴氏は武力で天皇家に仕える家柄だった。
仮名序にある『薪負へる山びと』とは、矢を負う姿を喩えたものではないだろうか。

また大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座したとして、死後、墓から死体が掘り出されて子孫とともに流罪となっている。
仮名序の 『大友黒主は そのさまいやし』というのは墓から掘り出された死体の様子を言っているのではないだろうか。
大伴家持の死体は腐敗し、蛆がわいたような状態であったであろうと想像される。

真名序に『頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。』とあるが、逸興とは死体が掘り出されたことを言っているのだろう。
『鄙し』とは『いやしい』という意味である。

●万葉集を編纂した大伴家持 

大伴家持は優れた歌人であり、万葉集を編纂した人物でもあった。
そして草紙洗に登場する大友黒主以外の歌人、小野小町・紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らは古今和歌集の歌人である。

『草紙洗い』において、大友黒主=大伴家持は万葉集の中に小町の歌を書き入れているが、 『書き入れる』というのは『編纂する』という意味だろう。
万葉集を編纂した大伴家持(大友黒主)だからこそ小町の歌を万葉集に書き入れることができたのである。

小野小町はこれは『古今和歌集』の歌なので、『万葉集』に書き入れることはできませんよ、と大伴家持を諭したというのが、『草子洗い』のテーマだと思う。

つまり、『草子洗い』は大伴家持がタイムスリップして後世に現れたという物語だと思う。

また『志賀』において、黒主は和歌の徳を説いているが、これなども万葉集を編纂した大伴家持にふさわしい行為だといえるのではないだろうか。

●男女双体は荒魂を御霊に転じさせる呪術


藤原定家は百人一首に大伴家持の次の歌を採用している。

かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける/大伴家持
(年に一度、天の川に鵲が橋をかけ、その橋を渡って牽牛と織姫が逢瀬を楽しむという。その橋のようにみえる宮中の階段に白い霜がおりているところを見ると、もうすっかり夜がふけてしまった。)


「霜の白き」は天上に輝く星が白いのを霜に喩えたとする説もあるが
私は「宮中の階段に霜がおりているのを天の川にかかる橋に見立てた」とする説のほうをとりたいと思う。

「宮中の階段に霜がおりているのを天の川にかかる橋に見立てた」とする説は、『大和物語』百二十五段の壬生忠岑の歌では御殿の御階(みはし)()を「かささぎのわたせるはし」によって喩えていることによるもので、賀茂真淵が唱えた。

まずポイントとして押さえておきたいのは、これが天の川伝説、すなわち牽牛と織姫が年に一度の逢瀬を楽しむとされる七夕に関する歌だということである。

牽牛と織姫が逢瀬を楽しむというのは、男女が和合するということだ。

仏教の神・歓喜天は男女が和合したおすがたをしておられ、次のような伝説がある。

鬼王ビナヤキャは祟りをもたらす神であった。
そこへ十一面観音の化身であるビナヤキャ女神があらわれ、鬼王ビナヤキャに「仏法守護を誓うならあなたのものになろう」と言った。
鬼王ビナヤキャは仏法守護を誓い、ビナヤキャ女神を抱いた。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

↑ 相手の足を踏みつけている方がビナヤキャ女神である。

この物語は、御霊・荒魂・和魂という概念をうまく表していると思う。

神はその現れ方で、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるといわれる。
そして荒魂は男神を、和魂は女神を表すとする説があるのだ。
すると神の本質である御霊とは男女双体と言うことになると思う。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・男神
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・女神


男女和合は荒魂を御霊に転じさせる呪術だったのではないだろうか。

そして鬼王ビナヤキャを牽牛、ビナヤキャ女神を織姫に置き換えてもいいだろう。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・牽牛・・・男神
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・織姫・・・女神


つまり、牽牛と織姫の逢瀬は、荒魂を御霊に転じさせる呪術であったのではないか、ということである。

●白黒コントラストの鳥・鵲と白式尉・黒式尉

次に注意したいのは、鵲という鳥についてである。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

上の動画を見ればわかるとおり、鵲はくっきりした白黒のコントラストを持つ鳥であり、太極図を思わせる。

File:Yin and Yang.svg

太極図

ウィキペディア(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yin_and_Yang.svg?uselang=ja) よりお借りしました。
ありがとうございます。

太極図とは「陰が極まれば陽となり、陽が極まれば陰となる」という道鏡の考え方をあらわすもので
白は陽、黒は陰とされる。

男は陽、女は陰とされるので、男が白=荒魂で、女が黒=和魂だろう。
そう考えると、太極図は先ほどお話しした歓喜天を図案化したものだと言っていいかもしれない。

鵲の白黒のコントラストはこの太極図のほか、奈良豆比古神社の翁舞の白式尉・黒式尉を、また勝尾寺に伝わる白髪が黒髪になった女性の話を思わせる。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉


奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

奈良豆比古神社では白式尉は志貴皇子で、天皇に近い人であったと伝わっている。左は左大臣、右は右大臣である。

黒式尉は鈴をふり、田植や種まきの所作をする。

さきほど、男神は荒魂で女神は和魂とする説があるといったが、荒霊を白、和魂を黒であらわすこともあったのではないだろうか。

白は百-一=白となるので、九十九をあらわす。
九十九はつくもとも読み、付喪神(つくもがみ/器物につく妖怪)である。

黒は分解すると「田」「土」「、、、、」なので白が黒に変化すると、付喪神は田起こしの神、種まき(、、、、は種のように見えるので)の神になるということなのかもしれない。

●白い神だったはずなのに黒い神になってしまった大伴家持

家持の歌を私流に現代語訳していよう。

かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける/大伴家持

まるで太極図のように見える鵲。
また鵲は白い神(荒霊)と黒い神(和霊)が和合しているかのようにも見える。
その鵲が天の川に橋をかけ、年に一度牽牛と織姫が逢瀬を楽しむ。

鬼王ビナヤキャは祟るのをやめて仏法守護を誓いビナヤキャ女神を抱いた。
歓喜天はその鬼王ビナヤキャとビナヤキャ女神の男女双体の神で、歓喜天は鬼王ビナヤキャがビナヤキャ女神の性的魅力によって骨抜きにされ、祟る力を失ってしまったの図なのだ。
この歓喜天と同じく、牽牛は織姫の性的魅力によって骨抜きにされ、祟る力を失ってしまう。
それが七夕なのだ。

その天の川に鵲がかける橋のように見える宮中の階段に霜が白く輝いている。
霜は日本書紀のトガノの鹿を思わせる。
鹿は全身に霜が振る夢を見るが、霜だと思ったのは実は塩で、鹿は殺されて塩漬けにされているのだった。
謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあった。
鹿は謀反人の喩えである。
藤原種継暗殺事件の首謀者だと考えられている私もまた謀反人である。

宮中に降りた霜がこんなにも白く見えているということは、私はすでに死んで夜の世界にいるということなのだろう。
そして私は鵲に似た太極図があらわすように、陽が極まって陰となり、白い神(荒魂)から黒い神(和魂)へと変わっていくのだ。


わずか31文字の中に、太極図、天の川伝説、トガノの鹿の伝説なども想像させ、実に味わい深い歌である。

秋の田の 仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。)


天智天皇が詠んだこの歌はもともとは万葉集の詠み人知らずの歌であるが、天智天皇が詠むにふさわしい歌だということで
天智天皇御作とされている。

同様に、かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」も、家持が詠んだ歌ではないが家持が詠むにふさわしい歌ということで家持が詠んだ歌とさえたのかもしれない。

この歌が家持自身が詠んだものでまちがいなければ、家持の発する言葉にはとんでもない言霊があって、言葉が実現してしまったということになるかもしれない。
祇園祭・・・阪急烏丸駅付近             
詳しくはこちらをご覧ください・・・ http://kyoto-design.jp/special/gionmatsuri/schedule


[2017/01/20 13:14] 翁の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)

翁の謎⑮ 勝尾寺 三宝荒神社 『白は荒魂 黒は和魂?』 

翁の謎⑭ 采女祭 『志貴皇子の母親は采女だった。』 より続きます~

勝尾寺 新緑

●白髪が黒髪になった娘

勝尾寺の山門をくぐると橋があり、橋のしたには池がある。
池からはもくもくと霧が湧き出ているが、これは人工的に霧を発生させる装置を仕掛けてあるのだ。
人工的に作った霧ではあるが、なかなか雰囲気がいい。

勝尾寺には次のような伝説が伝えられている。
勝尾寺は727年に藤原致房の子の善仲、善算兄弟が草庵を開き、765年に光仁天皇の皇子の開成(かいじょう)皇子が善仲、善算兄弟に弟子入りした。
開成皇子は777年に大般若経600巻の書写を成し遂げ、弥勒寺を創建した。これが勝尾寺の前身である。
のち780年に妙観が十一面千手観音立像を刻んで本尊にした。
880年、清和天皇の病気平癒の祈祷を行って『勝王寺』の寺号を賜ったが、「王に勝つ」のは畏れ多いとして勝尾寺とした。

ここに「880年、清和天皇の病気平癒の祈祷を行って『勝王寺』の寺号を賜った」とあるが、清和天皇は881年に崩御されている。
ということはつまり、清和天皇の病気平癒の祈祷は効力がなかったということではないのか。

そんなことを考えながら、本堂へ向かう階段を歩いていくと、途中に三宝荒神社がある。

勝尾寺 紫陽花 三宝荒神社

1677年、旗本菅沼隠越中守の娘がこの荒神さまに祈願したところ、白髪が黒髪になったという伝説がある。

旗本とは江戸時代の武士の身分のひとつで、越中とは現在の富山県、守とは国司のことである。
すると、菅沼隠というのが人名なのだろうか?

富山県五箇村に世界遺産に登録されている菅沼集落があるのだが、旗本菅沼隠越中守はこの菅沼集落と関係はないのだろうか?

五箇山 菅沼集落 
五箇村菅沼集落

それはさておき、勝尾寺の荒神さまが娘の白髪を黒髪にしたという伝説について。
私はこの白と黒には何か意味があるのではないかと考えている。
例えば、記紀神話には白鳥とカラスの物語がある。

白鳥の物語は死んだヤマトタケルが白鳥となって飛び立ったというもの。
カラスの物語は三本脚の八咫烏が初代神武天皇を道案内するというものである。

古の人は、死んだ人の霊は鳥になって天に向かう、と考えていたのではないだろうか。
巨大な前方後円墳は、地上から見たのではその形を認識することができないが、高い空を飛ぶ鳥の視線であればその形を容易に認識できる。
ナスカの地上絵も同様だ。

馬見丘陵 模型

馬見丘陵 模


●死に装束は白


死んだヤマトタケルが白鳥になったという物語についてだが、古より死に装束は白だった。
下の写真は京都・千本閻魔堂で行われた千本閻魔堂狂言だが、幽霊は白い死に装束を身に着けている。

千本閻魔堂狂言 閻魔庁 鬼と亡者
 
千本閻魔堂狂言 

●八咫烏は復活した太陽神?

八咫烏は中国や朝鮮では太陽の中に描かれる。

梅原猛さんは「8」という数字は復活を意味する数字であり、八角堂や八角墳は死者の復活を願って作られたのではないかとおっしゃっている。

そういえば、天の岩戸に籠った天照大神が外に出てくる際に用いられた鏡も八咫鏡といって、八の字が用いられている。
天岩戸に籠るとは、死んで石室に葬られているイメージがある。
天照大神は死んで石室に葬られており、その天照大神を生き返らせた(復活させた)鏡なので八咫鏡というのではないだろうか。

とすれば、八咫烏とは一旦死んで復活した太陽神のことだと考えられる。

●白は死者の霊、黒は神として生き返った霊?

死んだヤマトタケルの霊が白鳥、死んで生き返った太陽神の霊が烏(黒鳥)。
ということは、白は死者の霊、黒は神として生き返った霊、ということではないだろうか。

●能・翁の白式尉・黒式尉


とここまで考えて、私は奈良豆比古神社の翁舞を思い出した。
翁舞にはは白式尉・黒式尉が登場するのだ。

そして地元の語り部さんが次のような語りを伝承しているということだった。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁 
奈良豆比古神社の翁舞には白式尉の面を被った三人の翁が登場するが、このうち、中央が志貴皇子・左(向かって右)が左大臣・右(向かって左)が右大臣ということなのだろう。

三人翁の舞が終わると、黒式尉の面を被った人が登場する。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉 

奈良豆比古神社の翁舞は能「翁」のルーツではないかと私は考えているのだが、能の「翁」では、黒式尉は地固めの足拍子をしたり、種まきのような所作をする。
奈良豆比古神社の翁舞においても黒式尉(三番叟)の舞があるが、足拍子はあったが、種まきの所作についてはわからなかった。
見落としたのかもしれない。
ともあれ、黒式尉の舞は豊作祈願の舞であり、白式尉が疫病神であるのに対し、黒式尉は農業神だといえるだろう。

●白式尉は荒魂、黒式尉は和魂?

神はその現れ方で御霊(みたま)・荒魂(あらたま)・和魂(にぎたま)の3つに分けられるという。

御霊・・・神の本質
荒魂・・・神の荒々しい側面
和魂・・・神の和やかな側面

荒魂は男神、和魂は女神とする説があり、私はその説を支持しているが、例外もあるのではないか。

翁舞においては、白式尉は荒魂、黒式尉は和魂ではないかと思えるからだ。

●旗本菅沼隠越中守の娘は荒霊から和霊になった?

旗本菅沼隠越中守の娘がこの荒神さまに祈願したところ、白髪が黒髪になったという伝説に戻ろう。

旗本菅沼隠越中守の娘はこのときすでに死んでいて、荒魂(怨霊)だったのを白髪と表現しているのではないだろうか。
ところが勝尾寺の荒神さんの力によって、娘は和魂となり、それを黒髪と表現しているのではないだろうか。

勝尾寺 紫陽花 本堂

勝尾寺・・・大阪府箕面市粟生間谷2914-1

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[2017/01/19 00:00] 翁の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)

翁の謎⑭ 采女祭 『志貴皇子の母親は采女だった。』 

 翁の謎⑬ 春日若宮おん祭 『春日若宮様は志貴皇子だった?』 より続きます~

●采女祭

采女祭2

月の輝る夜の猿沢池を、采女と楽人を乗せた管弦船がゆっくりと巡る。
楽人たちが奏でる管弦の音は澄んでいるがどことなく物悲しい。
そう聞こえるのは、この池に悲しい伝説が伝わっているせいかもしれない。

采女神社2

猿沢池のほとりにある采女神社は鳥居に背を向け、後ろ向きに建つ珍しい神社である。
鳥居は猿沢池に面して建てられているので、采女神社の社殿は猿沢池に背を向けていることになる。

この采女神社について、平安時代に成立した『大和物語』は次のように記している。

奈良時代、帝の寵愛が衰えたのを嘆いて入水した采女を慰霊するために社を建てた。
入水した池を見るにしのびないと社は一夜のうちに後ろ向きになった。


猿沢池の向う側には藤原氏の氏寺・興福寺の五重塔が見えている。
猿沢池は興福寺の放生池として749年に造られた人工池である。
興福寺の東にある春日大社は藤原氏の氏神で、明治に神仏分離令が出るまで興福寺と春日大社は一体化していた。
采女神社はこの春日大社の末社である。

采女祭

●春日大社の御祭神・アメノコヤネとは天智天皇のことだった。

春日大社の主祭神はアメノコヤネ・タケミカヅチ・フツヌシ・ヒメガミの四柱の神々である。
このうち、アメノコヤネは藤原氏の祖神とされている。

翁の旅⑬ 春日若宮おん祭 『春日若宮様は志貴皇子だった?』に書いたように、アメノコヤネ(天児屋根命)とは天智天皇のことではないかと私は考えている。
というのは天智天皇の作として、は次のような歌が伝えられているからだ。

秋の田の 仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。)


この歌は万葉集にはなく、958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されている。。

万葉集には「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」という読人知らずの歌が掲載されており
その内容から農民が詠んだ歌だと考えられている。

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられている。

なぜ「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は、天智天皇の心を表す歌であると考えられたのだろうか。

一般には、農民の気持ちを思いやる優しさが、天智天皇にふさわしいと考えられたためだといわれている。
しかし、私はそうではないと思う。

672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。
天智天皇の皇子・大友皇子と天智天皇の弟・大海人皇子が皇位をめぐって争ったのである。
勝利したのは大海人皇子で、大海人皇子は即位して天武天皇となった。

壬申の乱がおこったため、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられている。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年である。

石清水八幡宮 青山祭

石清水八幡宮 青山祭 ※風葬のようすをあらわしたものだとされます。

古事記には「大国主神が八十青柴垣(ヤソクマデ)に隠れた」という記述がある。
これは柴を沢山立てた中に死体が葬られていたということだが、大国主神はニニギに国譲りをして死んでいて、ニニギにとっては敵である。
そのため、高貴な身分の人であれば立派な陵をつくるところ、そうはせずに、庶民と同じように風葬にしたということではないかと思う。
天智天皇の歌にある、苫の荒い仮庵戸は大国主神が葬られたような八十青柴垣を意味しているのではないだろうか。
また、近年まで沖縄地方などで風葬が行われていたが、小さい小屋の中に死体を収めて風葬にするという地方もあった。

「秋の田の~」の歌は、死んだ天智天皇の霊が、きちんと埋葬されないわが身を嘆いた歌だと解釈され、天智天皇が詠むにふさわしい歌とされたのではないだろうか。

そして『児』には『小さい』という意味があり、天児屋命とは『小さい屋根の下におわす神』という意味になる。
仮庵のとまの粗い小屋の屋根はそれは小さいことだろう。

するとアメノコヤネは藤原氏の祖神なので、藤原氏は天智天皇の子孫だということになるが、藤原不比等は天智天皇の後胤であるという説がある。
藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけているが、この時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったと、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』には記されている。
とすれば天智天皇が藤原氏の祖神だというのは辻褄があう。

●春日若宮様とは志貴皇子のことだった。

アメノコヤネとヒメガミは夫婦神であり、春日若宮様はこの二神から生まれた御子神とされている。

12月にこの春日若宮様のお祭り、おん祭が行われている。
12月16日深夜に若宮神社の前で新楽乱声(しんがくらんじょう)が奏される。
雅楽における楽譜のことを唱歌(しょうが)というが、その唱歌は『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』と記される。

春日大社の北の奈良坂に奈良豆比古神社があり、毎年10月に『翁舞』の奉納がある。
奈良豆比古神社は古来芸能の神として信仰されており、能の役者は奈良豆比古神社を参拝して興業許可を得ていたという。
能『翁」』は奈良豆比古神社の『翁舞』がルーツではないだろうか。

そして、奈良豆比古神社には次のような伝説が伝えられている。
天智天皇の孫で志貴皇子の子である春日王がハンセン病にかかり、春日王の子・浄人王が春日王の病平癒を祈って春日大社で舞を舞ったところ春日王の病が回復したと。
奈良豆比古神社の『翁舞』のルーツは、この浄人王の舞だと考えられる。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁


ところが地元にはもうひとつ裏の伝説が口承されている。
ハンセン病になったのは春日王ではなく、志貴皇子であり、翁とは志貴皇子のことだというのだ。

翁は『とうとうたらりたらりろ』と謎の呪文を唱える。
能の翁では『とうとうたらりたらりら』となっている。

おん祭の新楽乱声の唱歌を思い出してほしい。
それは『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』だった。
翁の『とうとうたらりたらりろ』と言うセリフは、おん祭で奏される新楽乱声の唱歌を唱えているのではないだろうか。
それは春日若宮様のテーマソングである。
そして春日若宮様はアメノコヤネとヒメガミの皇子とされているが、すでに述べたようにアメノコヤネとは天智天皇のことだと私は考えている。
春日若宮様とは天智天皇の皇子・志貴皇子のことであり、翁とは志貴皇子だという裏の伝説がある。
翁は『とうとうたらりたらりろ』と自分自身のテーマソングを歌っているのではないだろうか。

●ヒメガミは志貴皇子の母親?

すると、ヒメガミとは志貴皇子の母親の越道君伊羅都売(こしのみちのきみいらつめ)だということになるが、越道君伊羅都売は采女(天皇の身の回りのお世話をする女官)だった。

猿沢池に身を投げた采女とはこの越道君伊羅都売のことではないだろうか。

大和物語では采女が猿沢池に身を投げたのは奈良時代となっているが、天智天皇は飛鳥時代の人物なので時代があわない。

しかし奈良時代の780年11月21日に、春日大社のヒメガミが奈良豆比古神社に勧請されている。 
これを昔の人々は「帝(アメノコヤネ)の采女(ヒメガミ)に対する寵愛が衰えた」と比喩的に表現したのではないだろうか。

翁の正体、「とうとうたらりたらりろ』という呪文の謎については解けたと思う。
しかし白色尉、黒色尉とは何なのかなど、まだ謎は残っている。


 采女祭3


翁の謎⑮ 勝尾寺 三宝荒神社 『白は荒魂 黒は和魂?』 へつづく~
トップページはこちら→翁の謎① 八坂神社 初能奉納 「翁」 『序』




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[2017/01/18 00:00] 翁の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)

翁の謎⑬ 春日若宮おん祭 『春日若宮様は志貴皇子だった?』 

翁の謎⑫ 護王神社 亥子祭 『宇佐八幡宮神託事件の真実』 よりつづきます~


●春日若宮おん祭


春日大社 おん祭2 
春日若宮おん祭 田楽座宵宮詣

春日大社は広大な敷地面積を有する神社で、一の鳥居から二の鳥居まで1km以上もある。
石燈籠が立ち並ぶ長い長い参道のつきあたり左手(北)に回廊をめぐらせた一画がある。
南門をくぐり、受付を経て神域に入ると、奥のほうにさらに回廊がめぐらされている。
その回廊で囲まれた中に春日大社の主祭神である四柱の神々がが祀られている。

武甕槌命(たけみかづちのみこと)・・・藤原氏守護神
経津主命(ふつぬしのみこと)・・・・・藤原氏守護神
天児屋根命(あめのこやねのみこと)・・藤原氏祖神
比売神(ひめがみ)・・・・・・・・・・天児屋根命の妻

南門を出て、100メートルほど南にいったところに若宮社がある。
12月に行われる春日若宮おん祭はこの若宮社のお祭りである。

若宮様は本社の第三殿・天児屋根命と第四殿・比売神の御子神で、神名を天押雲根命という。
『長保五年(1003年)旧暦3月3日、第四殿に神秘な御姿で御出現になった』と春日大社のhpには記されている。
『神秘な御姿で御出現になった』というのは具体的にはどんなお姿だったのだろうか。
もしかしたら若宮様の幽霊が出たということなのかもしれない。

若宮様は出現後、母神の御殿内に、その後は第二殿と第三殿の間の獅子の間に祀られていた。
その後、長承年間の大雨によって、洪水・飢饉・疫病の流行などで人々は苦しんだ。
そこで藤原忠通公が保延元年(1135年)にここに若宮社を造営したという。
おそらく長承年間の洪水・飢饉・疫病は若宮様の怨霊の祟りだと考えられ、慰霊する必要があるとして社殿を建てたのではないだろうか。
さらにその翌年の1136年より祭礼を行うようになった。
これが今も行われている春日若宮おん祭りの始まりである。

春日若宮おん祭は12月17日のお渡り式が有名である。
私も3度ほど見にいったことがあるのだが、3度とも雨や雪でお渡り中止になった。
おん祭のころ、奈良ではよく雨や雪が降るのかもしれない。
そういうわけで、お渡り式はいまだ見学したことがないのだが、16日の大和士宵宮詣(やまとさむらいよいみやもうで)・田楽座宵宮詣は見学させていただいた。
春日大社 おん祭

春日若宮おん祭 大和士宵宮詣

●天児屋根命=天智天皇?

翁の謎⑧ 春日大社 舞楽始め式 『天智天皇は藤原氏の祖神だった?』で述べたように、私は春日大社の御祭神・天児屋根命とは天智天皇のことではないかと考えている。

天児屋根命の『児』とは小さいという意味で、『小さな屋根の下にいる神』という意味である。

そして天智天皇は 次のような歌を詠んでいる。
秋の田の かりほの庵の とまをあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の仮庵の屋根があらくて雨漏りがするので、私の衣の袖は露に濡れどおしだよ。)


仮庵の雨漏りのする屋根はそれは小さいことだろう。

672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。
そのため、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられている。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年である。

28年間遺体が放置されていたということは、天智天皇の遺体は風葬されたような状態であったということではないだろうか。
沖縄では近年まで風葬が残っていたが、自然の洞窟に遺体をおさめたり、小さな小屋のようなものをつくって遺体をおさめたりしていたようである。

誰かがほとんど風葬といってもいいような状態にされていた天智天皇の身になって、「もっと立派な墓に葬ってほしい」という気持ちを詠んだのが、「秋の田の~」の歌だと思う。
または、天智天皇が農民の身になって「秋の田の~」の歌を詠んだため、言霊が作用して天智天皇の遺体は放置されたと考えられたのかもしれない。

藤原氏の祖神である天児屋根命が天智天皇だとすると、藤原氏は天智天皇の子孫だということになるが、『興福寺縁起』には次のように記されていて、辻褄はあう。
「藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけており、その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっていた。これが藤原不比等である。」

すると春日若宮様は天智天皇の子だということになる。
春日若宮様とは、天智天皇の落胤だといわれるる藤原不比等のことなのだろうか。
そうではないと私は思う。

天智天皇には多くの皇子があったが、その一人に志貴皇子がいる。

天武系の最後の女帝・称徳天皇が崩御したのち天智系の光仁天皇が即位したが、光仁天皇は父親である志貴皇子に『春日宮天皇』と追尊している。
この春日宮天皇=志貴皇子が春日若宮様なのではないだろうか。


●『とうとうたらりたらりら』は志貴皇子のテーマソングだった。

残念ながら見ることができなかったのだが、12月16日の22時30分、23時、23時30分の三度に渡り、南都楽所の楽人さんたちによって若宮神社の前で新楽乱声(しんがくらんじょう)が奏されるのだという。

南都楽所の楽人さんのhp(http://www.eonet.ne.jp/~believe-in-snow/onmaturi.htm)に『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥  』と記されている。

これは奈良豆比古神社で10月8日に行われている『翁舞』の冒頭の台詞『とうとうたらりたらりろ』によく似ている。

能の『翁』では『とうとうたらりたらりら』となっており、言葉の意味は不明だとされている。

南都楽所の楽人さんのhpに記されている『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』とは一体何なのか。

邦楽をやっている友人に聞いてみたところ、これは唱歌(しょうが)だと教えてくれた。
唱歌とは邦楽における音楽を口伝するための表現方とのこと。

『とうとうたらりたらりろ』や『とうとうたらりたらりら』は、若宮様がおでましになる、テーマソングのようなものだったのだ。

そして、翁の旅⑪ 奈良豆比古神社 翁舞 『志貴皇子と春日王は同一人物だった?』にも記したのだが、地元の語り部・松岡嘉平さんが伝承している語りは次のようなものだった。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。


翁とは志貴皇子のことであり、志貴皇子は舞台に登場する際に春日若宮さまのテーマソングを口ずさんでいたのだ。

これはどういうことなのか。

志貴皇子は光仁天皇に「春日宮天皇」と追尊されている。
春日若宮とは天智天皇の皇子・志貴皇子のことではないのか。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁 
奈良豆比古神社 翁舞


春日大社・・・奈良県奈良市春日野町160
春日若宮おん祭・・・12月15日~18日




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[2017/01/16 21:12] 翁の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)

翁の謎⑫ 護王神社 亥子祭 『宇佐八幡宮神託事件の真実』 

翁の謎⑪ 奈良豆比古神社 翁舞 『志貴皇子と春日王は同一人物だった?』よりつづきます~

●天皇家を護った和気清麻呂

護王神社 亥子祭2
 
平安時代、亥の日・亥の刻(10月の亥の日、午後10時ごろ)に亥子餅を食べると病気にならないという信仰があり、宮中において玄猪(げんちょ)の儀式が行われていた。
11月1日に護王神社で行われている『亥子祭』は、この平安時代の宮中行事を再現したものである。

護王神社 亥子祭

護王神社の舞殿に十二単姿の女房が四人、束帯姿の殿上男が四人登場し、聖上を取り囲むようにして着席する。
聖上は「神奈月 時雨のあめの あしごとに 我がおもふこと かなへつくつく」と唱えながら小さな臼と柳の杵で餅をつく。
殿上男たちは「いのちつくつかさ」女房たちは「いのちつくさいわい」 と唱和した。

護王神社 亥子祭 行列

その後、護王神社の西向いにある御所に亥子餅を届けるため、人々は行列を作って真っ暗な京都御苑を歩いていった。

この行事を見ると、護王神社は御所に住んでいた天皇家と関係の深い神社であるかのように思える。
御王神社という社名からして、天皇家を守護する神を祀っていそうである。

護王神社の御祭神は和気清麻呂とその妹の和気広虫である。
和気清麻呂は天皇になろうと企てた道鏡の野望を打ち砕いたj人物として知られている。
護王神社という社名はここからくるのだろう。

私の隣で行列を見ていた人がこんなことを言っていた。
「道鏡は天皇になろうとした悪い人で、平将門・足利尊氏らとともに日本三大悪人といわれているんですよ。」
さて本当に道鏡は悪い人なのだろうか。

護王神社 亥子祭 行列3

●護王神社絵巻が語らない称徳天皇の死

護王神社の外塀に「護王神社絵巻」というタイトルで複数枚の文章を添えた絵が展示されていた。
御王神社絵巻は主に宇佐八幡宮神託事件について記されていた。
ところがこれを読んでみると、ウィキペディアの内容とは少し違っていた。
ウィキペディアの記述は正史である日本続紀の記述にもとづいて記されたものだと思う。
つまり、「護王神社絵巻」は正史の記述と食い違っているということである。

おそらく「護王神社絵巻」は護王神社の社伝として伝わっていたものを絵巻物風のパネルにしたのだろう。
社伝として伝わっているものをパネルにしたのであれば、嘘だとはいえないし、正史の記述が改竄されたものである可能性もある。
しかし真実はどうであったのか。

護王神社絵巻の要点と、ウィキペディアの内容と異なる点について書き出してみる。

①弓削道鏡という僧侶がて政治に口出しをして勝手なことをしていた。
役人たちは恐れてご機嫌を取るだけだった。
ウィキペディアによれば、称徳天皇の寵愛を受けた道鏡は、政治にしばしば介入した、とある。

②宇佐八幡宮で「道鏡を天子さまにするように」と神託がおりた。
天子さまは和気清麻呂に「その宇佐八幡宮のお告げが本当かどうか正してまいれ。」と言いつけた。

ウィキペディアにも同様の記述がある。

③和気清麻呂が宇佐八幡宮に出立する際、道鏡が清麿に「わしの望みが叶ったらお前を思い役にしてやるからよろしく頼む」と言った。
ウィキペディアにはこのような記述はない。
ウィキペディアの記述は正史である日本続紀に基づくものだと考えられる。
正史は為政者に都合よく改竄されているともいわれ、必ずしも正しいとはいえない。

為政者とは天皇家・藤原氏のことである。
天皇家や藤原氏にとって天皇になろうとした道鏡は悪人であり、正史は道鏡のことをよくは書かないはずである。
その正史にこのようなことは記されていないのだから、道鏡がこのようなことを言ったというのは事実ではないのではないかと思う。

④路豊永は清麻呂公に「もし道鏡の望みをかなえるようなことがあれば、私は生きていません。」と言った。
路豊永は道鏡の師で、宇佐八幡宮に神託を受けに行く和気清麻呂に「自分は道鏡が皇位につくのは容認しない」と発言している。
少しオーバーな表現になっているが、絵巻はそのことを書いているのだろう。

⑤宇佐八幡宮で清麻呂は「家来を天子さまにすることはできない。」という神託を受け、これを天子さまに伝えた。
ウィキペディアには神託の内容は「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」となっており、護王神社絵巻と内容は同じである。

⑥道鏡は怒って清麻呂公を大隈国へ、広虫姫を備後国へ流罪とした。
ウィキペディアでは清麻呂の奏上に怒って流罪としたのは道鏡ではなく称徳天皇となっている。
③と同じ理由で、道鏡が怒って清麻呂を流罪にしたのではなく、称徳天皇が怒って清麻呂を流罪としたというのが正しいのではないだろうか。

⑦道鏡は清麻呂公を途中で殺そうと思い、家来に追いかけさせたが、大嵐になって家来たちは逃げてしまった。
⑧たくさんの猪が清麻呂公の前や後を護ってお供した。
ウィキペディアに記載なし。これらは伝説にありがちな非現実的な話である。

⑨清麻呂は大隈国で束の間もも天子さまのことを忘れなかった。藤原百川は清麻呂にお米を送って慰めた。
藤原百川がお米を送ったというのは『百川伝』にも記述がある。

⑩1年あまりたち、天子さまより使いがあり、清麻呂公と広虫姫は、都へ呼び戻された。
ウィキペディアにも同様の記述がある。

また、護王神社絵巻にはあえて説明を省いたと思われる点がある。

護王神社絵巻

護王神社絵巻より(②のシーン)

②の、お天子さまが清麻呂に宇佐八幡宮へ行くようにと命ずる場面では、御簾の後ろに女物の着物の裾が見えている。
これは称徳天皇をあらわすものだと思われる。
称徳天皇は女帝なのである。

護王神社絵巻2

護王神社絵巻より(⑨のシーン)


ところが、⑨のシーンではお天子さまは男性として登場するのだ。

宇佐八幡宮神託事件の翌年(770年)、称徳天皇は急病を患って崩御され、藤原永手・百川らの推挙をうけて光仁天皇が即位した。
これによって道鏡は失脚する。
⑨のシーンに描かれたお天子さまは光仁天皇である。

称徳天皇が崩御して光仁天皇が即位したことを文章で記さずに、どちらも「お天子さま」という表現を用いているので、歴史を知らない人が読むと「お天子さま」はひとりだと勘違いするのではないだろうか。
もちろん、絵では称徳天皇と光仁天皇は描き分けられているが、説明不足の感は否めない。

●称徳天皇暗殺説

称徳女帝が急病を患ったとき、看病の為に近づけたのは宮人の吉備由利だけで、病気回復を願う祈祷が行われたという記録もない。
また徳の字のつく天皇は不幸な死を遂げたともいわれ、称徳天皇は暗殺されたという説がある。

称徳天皇崩御後、藤原永手・藤原百川の推挙によって天智の孫で志貴皇子の子である光仁天皇が即位し、道鏡は下野国に配流となった。
その後、藤原永手・藤原百川の推挙を受けて光仁天皇が即位しているが、光仁天皇は志貴皇子の子で天智天皇の孫にあたる。

672年、天智天皇の皇子の大友皇子と天智天皇の弟の大海人皇子が皇位を争って戦った。
大海人皇子が勝利して即位し、天武天皇となった。
それ以降、天武→持統→文武→元明→元正→聖武→孝謙→淳仁→称徳(孝謙が重祚した)とずっと天武系の天皇が続いた。
称徳天皇崩御後、天智系の光仁天皇が即位したというのは、まさしくウルトラⅭを決めるような出来事であったといえる。
光仁天皇がウルトラⅭを決めることができたのは、称徳天皇の遺詔に「次期天皇を光仁天皇とする」とあったためだが、この遺詔は藤原永手・藤原百川らが偽造したものであったとされる。
とすれば、称徳天皇を暗殺したのも藤原永手・藤原百川たちだろう。

藤原百川が大隅に流罪となった和気清麻呂にお米を贈ったということを思い出してほしい。
和気清麻呂は藤原永手・百川らとつるんでいたのである。

●道鏡は志貴皇子の子だった?

奈良豆比古神社を参拝した際、私は近所に住む男性から奈良豆比古神社に伝わる伝説を教えてもらった。
それは次のような伝説だった。

天智天皇の第七皇子・志貴皇子は壬申の乱において大友皇子側についていた。
ところが壬申の乱では天武方が勝利して大友皇子は自害して果てた。
そのため、志貴皇子は壬申の乱の後は政治的に不遇で、その亡骸は奈良山の春日離宮に葬られた。
志貴皇子の第二皇子である春日王(田原太子)はハンセン病を患い、奈良坂の庵で療養していた。
春日王の二人の息子、浄人王と安貴王(秋王)は春日王をよく看病していた。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)に長けており、ある日春日大社で神楽を舞い、父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、市場で売って生計をたてていた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。
のちに志貴皇子の皇子である光仁天皇が即位すると、志貴皇子は光仁天皇より『田原天皇』と追尊され
た。

しかし、地元にはハンセン病になったのは春日王ではなくて志貴皇子だという伝承が伝わっている。

志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。
そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになるが、皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。

神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるという意味ではないか。
すると春日王の子の浄人王・安貴王は志貴皇子の子だということになる。

桓武天はが浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えたという。
浄人王は弓削浄人という名前になったのではないだろうか。
弓削浄人とは、道鏡の弟の名前である。

春日王の息子とされる浄人王とは弓削浄人なのではないだろうか。
すると道鏡は弓削浄人の兄なので、俗名は弓削安貴だったと考えられる。

さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしている。

●桓武天皇、弓削浄人を非人とする。

道鏡が志貴皇子の子であったとして宇佐八幡宮事件を見直してみよう。

称徳天皇は次期天皇として道鏡を考えていた。

もしも道鏡が志貴皇子の子であったとすると、和気清麻呂が宇佐八幡宮よりもちかえった神託を聞いて怒ったのも無理はない。
清麻呂が持ち帰った神託とは次のようなものだった。
「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」

称徳天皇は「道鏡は志貴皇子の子であって皇緒である。正統な皇位継承権があるのだ。道鏡は無道の人ではない。」と激しく清麻呂に抗議したことだろう。

ところが翌770年称徳天皇は崩御してしまう。
称徳天皇の遺詔には「次期天皇は白壁王(のちの光仁天皇)とする」とあったがこれは藤原百川・永手らによって偽造されたものであった。
称徳天皇が暗殺されたのが真実であるならば、その犯人は藤原百川、藤原永手らだろう。
また光仁天皇即位後、和気清麻呂が従五位下に復位していること、藤原百川が流刑地の清麻呂にお米を送っていることなどから察すると、和気清麻呂もまた暗殺計画に加わっていたのかもしれない。

称徳天皇の寵愛を受けていた道鏡は失脚し下野国薬師寺に左遷され772年に死亡し庶民として葬られた。
道鏡の弟の浄人王は土佐に流された。

安貴王(道鏡)も光仁天皇(白壁王)も志貴皇子の子であり、これは異母兄弟による皇位継承争いであった。

百川・永手らの先祖の藤原不比等は天智天皇の落胤であるといわれている。
奈良時代は天武系の天皇が続いたが、天智系の天皇をたてることは藤原氏の悲願だったのではないかと思う。
藤原百川・永手らが次期天皇として安貴王(道鏡)ではなく白壁王を選んだ理由は、道鏡が天武系天皇・称徳天皇の寵愛を受けていたためだろう。

781年、光仁天皇の第一皇子の桓武天皇が即位する。
同年、浄人王は赦免され、生まれ故郷である河内国に戻っているが、これは桓武天皇即位に伴う恩赦だったと考えられる。

奈良豆比古神社の伝説によれば「桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。」とある。
一読すると、桓武天皇は浄人王に褒美を下されたかのように思える。
しかし実際はそうではないだろう。

浄人王は、皇族を廃され、臣籍降下させられ、弓削姓を与えられ、非人(夙とは非人のこと)として奈良豆比古神社がある奈良坂に住まわされた、ということではないだろうか。

その後、ハンセン病が流行し、志貴皇子の怨霊の祟りだと考えられたのではないか。
(志貴皇子は715年に元正天皇、舎人親王らによって暗殺されており、怨霊になる要素をもっていた。怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことである。)

記紀には大物主の祟りで疫病が流行った際、大物主の子孫のオオタタネコを大神神社の神主として大物主を祀らせたところ、疫病が収まったとある。
怨霊はその子孫が慰霊することで、人々に祟るのをやめると考えられていたようである。
そのため、朝廷は志貴皇子の血をひく弓削浄人、またはその子孫に志貴皇子の霊を祀らせたのではないだろうか。

これが事実かどうかはもっと検証が必要だろうが、少なくとも奈良豆比古神社の伝説はこういうことを伝えようとしているように思える。


護王神社 亥子祭 行列2


護王神社・・・京都府京都市上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町385
亥の子祭・・・11月1日 17時より(確認をお願いします。)


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[2017/01/15 00:00] 翁の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)

翁の謎⑪ 奈良豆比古神社 翁舞 『志貴皇子と春日王は同一人物だった?』 

翁の謎⑩ 百毫寺 萩 『志貴皇子暗殺説』よりつづきます~

●翁舞

長い阪を登って奈良豆比古神社へやってきた。
4月に参拝したので、今日で2度目の参拝になる。

10月8日に行われる翁舞の奉納神事を見るためにやってきたのだった。

日が暮れると舞殿前の篝火に火が入れられ、翁舞が始まった。
奈良豆比古神社 翁舞 千歳
篝火がたかれる中、小鼓の音と「いーやー、あいやー、おんはー」という掛け声が続く。
少年が扮する千歳が舞を舞ったのち、三人の大夫が舞台上で翁の面をつけた。
シテに神が憑依する瞬間である。

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉2

一人の大夫が舞ったのち、三人翁の舞となった。
京都の八坂神社で見た能の『翁』では翁は一人であったが。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

三人翁が退出したのち、三番叟が登場した。
三番叟は舞を舞ったのち、舞台上で黒い翁の面をつけ、鈴を持ってさらに舞った。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉2

千歳・三人翁の舞はゆったりしたスローテンポの舞だが、三番叟の舞は激しい。
田植えをする所作のようにも見える。
三番叟の舞が終わると割れるような拍手が響き渡った。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

●ハンセン病をもたらす神

翁舞を鑑賞しながら、私は以前、ここを訪れたときのことを思い出していた。
あのとき、この近所に住んでおられるという男性にあい、次のようなことを教えていただいた。

奈良豆比古神社にある3つの社のうち、中央は平城津彦(ならづひこ)神という産土の神を祀っている。

その向かって右には志貴皇子を祀っている。
『いわばしる 垂水のうえの さわらびの 萌えいづる春に なりにけるかも』
という有名な歌を詠まれた方である。
志貴皇子の子、白壁王が即位して光仁天皇となられた。
その際、光仁天皇は父親の志貴皇子を春日宮御宇天皇と追尊された。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。

向かって左には志貴皇子の子の春日王を祀っている。
春日王は田原太子とも呼ばれている。

志貴皇子は天智天皇の第七皇子であったが、672年の壬申の乱(大友皇子vs大海人皇子)では大友皇子側についた。
壬申の乱では大海人皇子が勝利し、大友皇子は自害して果てた。
そのため乱後の志貴皇子は政治的に不遇であった。

その後、志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養された。
春日王の二人の息子・浄人王と安貴王は熱心に春日王の看病をされた。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意だったので、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。

浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてていた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。


この話を聞いて私は次のように考えた。

①「貧乏神はいかにも貧乏そうな姿で表されることが多い。
疫病をもたらす疫病神は疫病を患った姿をしていると考えられたのではないだろうか。
春日王はハンセン病を患ったというが、本当にハンセン病を患ったという意味ではなく、ハンセン病をもたらす怨霊だったのではないか?

②日本には先祖の霊はその子孫が祭祀(供養)すべきという考え方があった。
春日王が怨霊であったとすれば、春日王は謀反人として不幸な死を迎えた人であったと考えることができる。
春日王の怨霊の祟りを鎮めることができるのは春日王の子である浄人王と安貴王、また彼らの子孫だということになる。

③浄人王と安貴王は夙冠者黒人と呼ばれていたが、夙とは中世から近年にかけて近畿地方に多く住んでいた賎民のことである。
春日王の子の浄人王と安貴王は非人だったのである。

④平安時代に承和の変をおこしたとして橘逸勢が姓を非人と改められて流罪になっている
非人とは謀反人もしくはその子孫のことではないか。

⑤桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えたというが、これは桓武天皇が浄人王と安貴王の官位をはく奪し『弓削』という名前を与えて非人にした、ということだろう。

⑥浄人王は皇族であったが、父の春日王が謀反人とされたため非人とされ弓削浄人という名前になったのだろう。
弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡は称徳女帝が次期天皇にしたいと考えていた人物である。

護王神社絵巻に描かれた道鏡 
護王神社絵巻に描かれた道鏡


●春日王は志貴皇子の荒霊?

先日、図書館で『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』という雑誌を借りて読んだ。
その中にここ奈良豆比古神社の翁舞についての記事があり、地元の語り部・松岡嘉平さんが次のような語りを伝承していると書いてあった。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。

室町時代、金春流の祖となる人が奈良坂に能を習いに通っていた。
京都御所でおこなわれる能舞台に立つために奈良豆比古神社に伝わる『肉つき面』を借りた。
しかし面はなかなか返却されず、ようやく戻ってきたのは『肉つき面』ではなかった。
村人たちは激怒して坂下で殺し、金春塚に葬った。


なんと、地元にはハンセン病になったのは春日王ではなくて志貴皇子だという伝承が伝わっているのだ。

志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。

そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになるが、皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。

志貴皇子と春日王は同一人物なのではないか。

神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
とすれば、志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるとも考えられる。
春日王が志貴皇子のことであるとすれば、春日王の子の浄人王・安貴王は志貴皇子の子だということになる。

桓武天皇は浄人王と安貴王に弓削という姓を与えたが、弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴という名前ではなかっただろうか。

さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしているのだ。
奈良豆比古神社・・・奈良市奈良阪町2489
翁舞・・・10月8日  午後8時ごろより

[2017/01/14 00:16] 翁の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)

翁の謎⑩ 百毫寺 萩 『志貴皇子暗殺説』 

翁の謎⑨ 東大寺 大仏殿 『鹿は謀反人を表している?』 よりつづきます~

●萩の白花と紫花

百毫寺 萩

自然石を積んだ長い石段が白毫寺の山門へと続く。
その石段に覆いかぶさるように、白と紫の萩の花が咲き乱れていた。
萩が風をうけてなびく様は、見ているだけでなぜか心が 切なくなってくる。
秋はなぜ人の心を感傷的にするのだろうか・・・。

萩は別名を鹿鳴草と言う。

前回の記事、翁の旅⑨ 東大寺 大仏殿 『鹿は謀反人を表している?』 の中で私は『トガノの鹿』の物語をご紹介した。

雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。
雌鹿は夢占いをして、
『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』
と答えた。
翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。


奈良の鹿 親子

鹿の夏毛には白い斑点があるが、その斑点を塩に見立てたのだと思う。
そして謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人のことではないか、とする説がある。

それでは萩はなぜ別名を「鹿鳴草」というのだろうか。

萩の花には白と紫があるが、白い花のほうはまるで塩を振ったかのように見える。
萩の白い花は殺された雄鹿を表しているのだろう。
紫の花のほうは雌鹿をあらわしているのではないだろうか。

というのは次のような万葉歌があるからだ。

紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰
(海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。)

紫 の 匂える妹を憎くあらば ひと妻ゆえに 我恋めやも/大海人皇太子
(紫のように美しい貴女を憎く思えたならばどんなによかったでしょう。人妻であるのに私はこんなに貴女に恋焦がれています。)


これらの歌を鑑賞すると、紫とは男に出会った女がぽっと顔を染める様子を表す言葉であるように思える。

百毫寺 万葉歌碑


●高円の野辺の秋萩

本堂の奥の萩の茂みの中には歌碑が建てられていた。

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)


この歌は笠金村が志貴皇子の死を悼んで詠んだ晩歌である。
百毫寺は志貴皇子の邸宅跡と伝わっている。
そのためここに歌碑をたてたのだろう。

また笠金村は 次のような歌も詠んでいる。

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)


日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとあるが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっている。

笠金村のはじめの挽歌から、志貴皇子が人知れず死んだことがイメージされる。
そして二番目の挽歌では『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思える。

志貴皇子の子である白壁王は、女帝の称徳天皇が急死したのち、即位して光仁天皇となっている。
これは志貴皇子には正統な皇位継承権があったということではないか。
そして志貴皇子は715年に暗殺されて、その死が1年近く隠されていたのではないか、とする説がある。

いわばしる 垂水のうえの さわらびの 萌えいづる春に なりにけるかも

●志貴皇子を暗殺した人物とは

志貴皇子を暗殺したのは、元正天皇と舎人親王ではないかと私は考えている。

元正天皇が即位したのは715年である。
志貴皇子の薨去年が万葉集の詞書にあるように715年だったとしたら、志貴皇子の死はあまりに元正天皇にとってタイミングが良すぎる。
志貴皇子の死の原因を、周囲の人々はいぶかしく思うかもしれない。
そのため志貴皇子の死を隠していたのではないだろうか。

百毫寺 萩4

元正上皇と舎人親王が贈答しあった歌が、万葉集にある。

あしひきの 山行きしかば 山人の 我に得しめし 山つとぞこれ/元正上皇
(山道を歩いていたところ、たまたま逢った山人が、私にくれた山の土産であるぞ、これは。)

あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰/舎人親王
(陛下は山へ行かれて山人に土産をもらったとおっしゃるのですか。「山人」とは誰のことなのでしょうか。山人とは陛下のことではありませんか。)


私はこの歌は志貴皇子の次の歌に対応しているのではないか、と思う。

むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山の猟師(さつを)に 逢ひにけるかも/志貴皇子
(むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。)


大伴坂上郎女という人が次のような歌を詠んでいる。

大夫(ますらを)の 高円山に 迫めたれば 里に下り来る 鼯鼠(むささび)ぞこれ/大伴坂上郎女
(勇士たちが高円山で狩りをして、里に下りてきたむささびがこれです。)


大伴坂上郎の歌の中に『 高円山』とでてくるが、高円山には志貴皇子の墓がある。
高円山に住むむささびとは志貴皇子を比喩したものなのではないだろうか。

奈良大文字送り火

高円山

そして元正上皇がいう『山人』もまた志貴皇子を比喩していったもので、『山人がくれたみやげ』とは『志貴皇子の死=元正天皇の即位』を意味しているのではないだろうか。

山人とは『山に住む人』『仙人』という意味であるが、『いきぼとけ』とよんで『心や容姿の美しい女性』のことをさす言葉でもあった。
それで舎人親王は、「山人=仙人=志貴皇子のことなどしらない。山人とは美しい女性という意味で、元正上皇のことではありませんか。」と答えたのだろう。

百毫寺 萩2

白毫寺・・・奈良県奈良市白毫寺町392

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