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翁の謎⑨  『鹿は謀反人を表している?』

翁の謎⑧ 春日大社 舞楽始め式 『天智天皇は藤原氏の祖神だった?』 よりつづきます~

●飛火野

飛火野 鹿

春日大社の西に飛火野と呼ばれる草原があり、鹿が群れぶ姿が見られた。
鹿はすっかり冬毛にかわり、角も切られていた。
10月初めごろ、鹿の角切と呼ばれる行事が行われ、鹿の角が切られるのだ。
しかし、放っておいても春先に自然にとれ、また新たに生えてくるそうである。

雄鹿と雌鹿が仲良く草を食んでおり、私は近づいて鹿の頭をなでたが逃げない。
奈良では鹿は神の使いとされており、保護されてきたため大変人に慣れているのだ。

●飛火野に春日烽はあったか?

飛火野という地名の由来は、奈良時代ここで烽(とぶひ)を上げていたことに由来するといわれる。
烽とは烽火(のろし)のことである。

710年の平城遷都に伴い、高見烽および春日烽が置かれた。
高見烽は生駒山、春日烽は飛火野に設けられたと考えられている。
40里ごとに設けられ、昼は煙を、夜は火を燃やした。

煙は緑色の山をバックにするとよく見えるが、灰色に曇った空ではよく見えないので
烽は山頂近くに設けられることはなかったのではないかと思う。
また夜、火を燃やす場合にはあまり低い土地では遠くから炎が見えない。

飛火野は低い位置にあり、また現在は野の前に木が茂っているため、ここから生駒山を望むことができない。
火の見櫓のような高い建物を作れば、生駒山を望むことはできるだろうし、そこで火を燃やせば平城京からも見えただろう。
しかし、飛火野のすぐ東には御蓋山や春日山、高円山があるのに、わざわざ飛火野に櫓を作るだろうか。

そういうわけで、烽は飛火野ではなく、付近にある山の中腹に設けられたのではないかと私は考える。

●飛火野は人魂が飛ぶ野?

烽が置かれていなかったのであれば、飛火野という地名はどこからくるのだろうか。

『野』とは葬送の地を意味しているのではないかとする説がある。
そういわれてみれば京都の葬送の地は鳥辺野、蓮台野、化野などのように『野』の字が用いられている。
高野山が、野原ではないにもかかわらず『高野』と呼ばれるのは、葬送の地であったからだともいう。
そういえば高野山の奥の院にはおびただしい数の墓がある。

飛火野にはちょっとわかりにくいが、15基もの古墳があり、春日野古墓と呼ばれている。
飛火野は葬送の地だったのだ。
飛火野とは火が飛ぶ野、人魂が飛ぶ野という意味なのではないかと思ったりする。

●トガノの鹿

飛火野の鹿を見て、私は日本書紀・仁徳天皇紀にある『トガノの鹿』の物語を思い出した。

仁徳天皇が皇后と涼をとっているとトガノの方から鹿の鳴き声が聞こえてきた。
天皇はその鹿の鳴き声をしみじみと聞いていたが、あるとき急に鳴き声がしなくなった。
翌日、佐伯部が天皇に鹿を献上したが、その鹿は天皇が夜な夜な鳴き声を聴くのを楽しみにしていた鹿だった。
気分を悪くした天皇は佐伯部を安芸の渟田に左遷した


この話のすぐあとに、次のような話が記されている。

雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。
雌鹿は夢占いをして、
『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』
と答えた。
翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。

奈良の鹿 親子 
鹿の夏毛には白い斑点があるが、その斑点を塩に見立てて「トガノの鹿」の物語は作られたのだろう。
(写真1枚目は冬毛、2枚目が夏毛)

●鹿は謀反人の象徴だった?


昔、謀反の罪で殺された人は塩が振られることがあり、鹿は謀反人を比喩したものだとする説がある。

さきほど、鹿は神の使いとされているという話をしたが、かつて怨霊と神とは同義語であったといわれる。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天災は怨霊の祟りでひきおこされると考えられていた。
つまり、鹿とは謀反人=怨霊=神の象徴であるのだ。

それをふまえて改めて飛火野の鹿を見てみると、謀反の罪で殺されて怨霊になった者たちの怨霊が群れているように見えてきて
背筋がぞっとするような感覚を覚えた。




翁の謎⑩ 百毫寺 萩 『志貴皇子暗殺説』へつづく~
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翁の謎⑧ 春日大社 舞楽始め式 『天智天皇は藤原氏の祖神だった?』

翁の謎⑦ 奈良大文字 送り火 『死者が住む高円山』 より続きます~

●天智天皇は藤原氏の祖神だった?

春日大社 舞楽始 お祓い 
春日大社 舞楽始2

1月13日、春日大社の林檎の庭で舞楽始めが行われた。
林檎の庭の向うには御廊と中門が見える。
中門の奥には御本殿があり、武甕槌命(たけみかづち)、経津主命 (ふつぬし)、天児屋根命 (あめのこやね)、比売神(ひめがみ)をお祭りしている。
武甕槌命(たけみかづち)と経津主命は 藤原氏の守護神、天児屋根命は藤原氏の祖神、比売神は天児屋根命の妻とされる。
春日大社は藤原氏の氏神なのだ。

御存じのように藤原氏は大化の改新で中大兄皇子をサポートした中臣鎌足を祖とする氏族である。。
鎌足は臨終の間際、天智天皇(中大兄皇子)より藤原姓を賜ったとされる。

春日大社 舞楽始 振鉾

私は春日大社の御祭神・天児屋根命とは天智天皇のことではないかと考えている。
天児屋根命の『児』とは小さいという意味で、『小さな屋根の下にいる神』という意味となる。
そして天智天皇は
秋の田の かりほの庵の とまをあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の仮庵の屋根があらくて雨漏りがするので、私の衣の袖は露に濡れどおしだよ。)

と歌を詠んでいる。
仮庵の雨漏りのする屋根はそれは小さいことだろう。

この歌は万葉集にある詠み人知らずの歌「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられている。

春日大社 舞楽始

なぜこの歌は天智天皇の心を表す歌であると考えられたのだろうか。
一般には、天智天皇は天皇という尊い身分でありながら農民の気持ちによりそうことのできる優しい方であったからだと言われている。
しかし私はそうは思わない。

672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。
そのため、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられている。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年後の699年である。

28年間遺体が放置されていたということは、天智天皇の遺体は風葬と同じような状態におかれていたということではないだろうか。

沖縄では近年まで風葬が残っていたが、自然の洞窟に遺体をおさめたり、小さな小屋のようなものをつくって遺体をおさめたりしていたようである。
つまり、この歌は天智天皇の霊が、きちんとした墓を作ってもらえず、秋の田の仮庵のような場所に遺体がおかれていることを嘆く歌であると私は思う。

春日大社 舞楽始3

●藤原不比等は天智天皇の落胤だった?

天児屋根命は藤原氏の祖神とされている。
天児屋根命が天智天皇のことだとすると、藤原氏は天智天皇の子孫だということになっておかしいじゃないか、と思われるかもしれない。

しかし『興福寺縁起』には次のような内容が記されている。
藤原鎌足は天智天皇の后だった鏡王女を妻としてもらいうけた。
その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっていた。
これが藤原不比等であると。

つまり、藤原不比等は天智天皇の落胤であり、天智天皇が藤原氏の祖神というのは辻褄があうということになる。

春日大社 舞楽始 

さきほど「672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。」と書いた。
壬申の乱とは皆さんご存知のように、大友皇子(天智天皇の皇子)vs大海人皇子(天智天皇の弟)が皇位を廻って争った戦いのことである。
結果、大海人皇子が勝利して即位し、天武天皇となった。
その後、持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳(孝謙天皇が重祚)と天武系天皇が続いた。
称徳天皇は女帝で独身だったため、天武系の血筋が絶えてしまい、称徳天皇崩御後、天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位して天智系に変わっている。

春日大社 舞楽始め

その後、光仁天皇の皇子である桓武天皇が平安京に遷都した。
遷都の理由については南都の仏教勢力から逃れるためであるとか、長屋王などの怨霊から逃れるためだとも言われている。

そういった理由もあっただろう。
しかし遷都の理由は他にもあったのではないかと私は考えている。
平城京は天武系天皇の都だった。
天智系の桓武天皇は天智系天皇のための新しい都をつくりたかったのではないだろうか。

京都市東山区の泉涌寺では天智天皇から昭和天皇まで、歴代天皇の位牌を安置しているが、天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳の位牌がないそうである。

泉涌寺の創建は856年と伝えられ、平安京に遷都したのち創建されたお寺である。
泉涌寺には天皇家や天皇家の外戚として権力を掌握していた藤原氏の意思が大きく働いていると考えられる。。
桓武以降の天皇や、天智天皇を祖と信じる藤原氏にとって、天武系天皇は排斥したい存在であっただろう。
それで天武系天皇の位牌を安置していないのではないだろうか。

 春日大社 舞楽始 


春日大社・・・奈良県奈良市春日野町160

翁の謎⑨ 東大寺 大仏殿 『鹿は謀反人を表している?』へつづく~
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翁の謎⑦ 奈良大文字 送り火 『死者が住む高円山』

翁の謎⑥ 奈良豆比古神社 『ハンセン病を患った春日王と非人にされた弓削浄人』より続きます~

●お盆とペルセウス座流星群

奈良大文字送り火

8月15日午後8時、高円山に大文字の送り火が点火された。
ときおり静かに揺れる火は、ふるえる人の魂のようにも感じられる。

8月はお盆の季節である。
お盆にはご先祖様があの世からこの世へ戻ってくると考えられた。
そこで8月13日にはご先祖さまが迷わず家に戻ってこれるように門戸でおがらを燃やして迎え火を焚き、8月15日か16日にはご先祖さまが迷わずあの世へ戻れるように門戸で送り火を焚く習慣があった。

なぜ8月にご先祖様があの世からこの世へ戻ってくると考えられたのだろうか。

ふと空を見上げると流れ星が天空を流れていった。
ひとつ流れて消えたかと思うと、またひとつ星が流れた。

ベルセウス座流星群だ。
ベルセウス座γ星付近を放射点とし、(http://www.astron.pref.gunma.jp/news/100813perseids1exp.jpg
毎年7月20日ごろから8月20日ごろに見られ、ピークは8月13日である。

流星とは宇宙空間にあるチリ(直径1ミリメートルから数センチメートル程度)が地球の大気とぶつかり、摩擦をおこして高温となり、光って見える現象のことである。

このようなチリはおもに彗星が放出したもので、チリは彗星の軌道上に密集している。
そのため彗星の軌道と地球の軌道が交差している地点ではたくさんのチリが地球の大気にぶつかって流星群となる。
地球が彗星の軌道を横切る日時は毎年ほぼ同じなので、特定の時期に特定の流星群が出現するのである。



すばらしい動画を見つけたのでお借りしました。動画主さん、ありがとうございます!


こちらはしし座流星群を描いた絵である。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Leonidas_sigloXIX.

奈良では街灯りに打ち消されて流星はまばらにしか見えないが、山奥などではもっとたくさんの流星が流れていくのを見ることができるだろう。

現在ではお盆は新暦8月15日を中心とした行事であるが、旧暦では7月15日を中心としていた。
旧暦は新暦とは約1か月遅れになるので、新暦の8月15日と旧暦の7月15日はほぼ同時期とみていい。
ということは、お盆の時期は昔からベルセウス座流星群が観測できる時期でもあったのだ。

日本では星はまがまがしいものだと考えられていたふしがある。

ギリシャ神話には多くの星の神々が登場するが、記紀神話には天津甕星(別名カカセオ)たった一柱しか登場しない。
その天津甕星は天照大神の葦原中国平定に最後まで抵抗した荒々しい神だと記されている。

また日本書紀・舒明天皇の条の9年(637年)には次のように記されている。

大きな星が東から西に流れた。
すぐに雷のような音がして、人々は流れ星の音だと言い、また雷だと言った。
僧旻法師は「これは流れ星ではなく、天狗(あまつきつね)というもので、雷鳴のような声で鳴く」と言った。 (日本書紀)

流星が流れるときに音が聞こえることが実際にあるそうだ。
隕石になるような巨大な流星の場合にはその衝撃波で音がたつ。
またオーストラリア・ニューカッスル大学のコリン・ケイさんは次のように説いている。
ある程度の高度以下まで突入した大火球によって、プラズマの乱流がおきる。
乱流プラズマは、地球磁気圏の磁力線にからみつき、ひきずる。
直ちにプラズマが冷えるとともに、乱された状態の磁力線ももとにもどる。
この際、極めて低い周波数の電磁波が発生し、光の速さで地上に達し、観測者の近くの物体がその電磁波に揺さぶられれば、同じ周波数の音が出るのだと。

話をもとにもどそう。
現代人は星に希望のようなものを感じ取っているが、古代人はその真逆で星はまがまがしいものという認識を持っていたようである。
流星群はたくさんの死霊が飛び出して、この世に戻ってくる姿のように感じていたのではないか。
そしてそこから、ベルセウス座流星群が観測される時期に、先祖の霊がこの世へ戻ってくるなどと考えられ、お盆という習慣が生じたのではないだろうか。

●死者の住む高円山

大文字送り火はそんな送り火の習慣を大規模にしたものなのだろう。
なぜ大の字なのかというと、人を象ったものだとか、星を象ったものではないか、といわれてる。

大文字送り火は京都の五山送り火が有名で、その起源は、平安時代にまで遡るともいわれるが、史料に登場するのは江戸時代になってからである。
江戸時代前期から中期ごろには、大文字、妙法、舟形を点灯するほか、各地の山や野原でも点灯していたらしい。

五山送り火 左大文字

五山送り火(左大文字)


五山送り火 舟形

五山送り火 (舟形)

奈良の大文字送り火は昭和35年8月15日に戦没者慰霊と世界平和を祈って始められた。

送り火を点火する高円山には碑があって、次のように記されている。

「高円山はかつて聖武天皇が離宮を営んだ地であり、弘法大師の師匠で大安寺の僧であった勤操が岩渕寺を創建した霊山である。
また護国神社のご神体の裏に位置するこういったことから、高円山に大文字送り火を点火することにした。」

岩渕寺は奈良時代に大安寺の僧、勤操(ごんぞう)によって創建された寺で、空海は岩渕寺で勤操に弟子入りしたとされる。
ところがいつのことか、岩渕寺は廃寺となった。
 新薬師寺の十二神将はもとは岩渕寺にあったものだとか、白毫寺は岩渕寺の一院ではないかともいわれてる。

新薬師寺 お松明

新薬師寺 修二会

白毫寺は志貴皇子の邸宅跡だとされ、高円山には志貴皇子の墓もある。

白毫寺 五色椿

百毫寺 五色椿


志貴皇子は平城津彦神、春日王(志貴皇子の子)とともに奈良豆比古神社の御祭神とされていた方である。
翁の謎⑥ 奈良豆比古神社 『ハンセン病を患った春日王と非人にされた弓削浄人』

護国神社は明治維新から第二次世界大戦までの国難に殉じた奈良県出身者29,110柱の英霊を祀る神社で、昭和17年に創祀された。
第二次大戦後のGHQ占領時代には『高円神社』といった。

護国神社は高円山の西にあるが、これはたまたまそうなったということではなく、あえて高円山の西に護国神社を建てたということなのではないだろうか。

翁の謎① 八坂神社 初能奉納 「翁」 『序』 の記事の中で、鴨川は三途の川に、鴨川を超えた東側はあの世に喩えられていたという話をした。
これは平安京が鴨川の西に造られており、古には都の中をこの世、都の外をあの世に喩えられていたためである。
つまり、護国神社(高円神社)は高円山の西の地を選び、西方浄土を模して戦没者を慰霊するための神社としたのではないかと思うのだ。

それはつまり、高円山は死者が住む山だという認識が昭和17年(護国神社が創祀された年)当事の人々にはあったのではないかということである。
死者とはもちろん高円山に墓がある志貴皇子のことである。

万葉歌人の笠金村という人が志貴皇子の晩歌を詠んでいる。

亀元年歳次乙卯の秋九月、志貴親王の薨ぜし時に作る歌 并せて短歌

梓弓 手に取り持ちて 大夫(ますらを)の 得物矢(さつや)手挟み立ち向ふ 高円山(たかまどやま)に 春野焼く
野火と見るまで 燃ゆる火を 何(い)かと問へば 玉鉾の道来る人の 泣く涙 こさめに降れば 白栲の 衣ひづちて 立ち留まり 吾に語らく
なにしかも もとな唁(と)ふ 聞けば 泣(ね)のみし哭(な)かゆ 語(かたら)へば 心ぞ痛き天皇(すまらぎ)の 神の御子の 御駕(いでまし)の 手火(たび)の光りぞここだ照りたる

(梓弓を手に持ち、勇士たちが狩の矢を指に挟み持ち、立ち向かい狩をする高円山。
その高円山に、春野を焼く野火のように火が燃えている。
「この火は何か、」と問うと、小雨が降ったかのように涙で真っ白な喪服を濡らしながら道を歩いて来る人が立ち止まって答えた。
「どうしてそんなことをお尋ねになるのですか。聞けば、ただ泣けるばかり。語れば、心が痛みます。天皇の尊い皇子様の、御葬列の送り火の光が、これほど赤々と照っているのです。」)

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。) 


この歌をふまえて大文字送り火を見ると、まるで送り火が志貴皇子の葬列の送り火のように見えてくる。

昭和35年、大文字送り火点火する行事をしようという計画が持ち上がったとき、それではどの山に送り火を点火したらいいかと議論されたことだろう。
そのとき、だれかの頭の中に笠金村が詠んだ志貴皇子への挽歌が思い浮かんだのではないだろうか。
そのため、送り火を点火するにふさわしい山は高円山以外にはないということになったのかもしれない。
鷺池…奈良市春日野町
大文字送り火・・・8月15日 20時より(確認をお願いします。)


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翁の謎⑥ 奈良豆比古神社 『ハンセン病を患った春日王と非人にされた弓削浄人』

翁の謎⑤ 般若寺 『ハンセン病患者と文殊菩薩』 よりつづきます~

奈良豆比古神社 鳥居


●志貴皇子と春日王

般若寺の参拝をすませたあと、般若寺の向かいにある植村牧場さんソフトクリームを買い(ミルクの味が濃くてとても美味しいです。)ソフトクリームを食べながら、さらに奈良坂を登っていった。

ソフトクリームを食べ終わったころ、私は奈良豆比古神社に到着した。

境内の奥には丹塗りの玉垣と鳥居があり、鳥居の下から中をのぞき込むと3つの社が建てられていた。


奈良豆比古神社 社殿  

参拝を済ませた私に「こんにちは」と声をかけてくださる方があった。
振り向いてみると年配の男性が立っていた。
話を伺ったところ近所に住んでおられるということだった。
男性は次のようなことを教えてくださった。

「3つ社がありますやろ、真ん中の社に祀られている神さんは平城津彦(ならづひこ)神ゆうて、産土の神・・・この土地の守護神ですわ。
向かって右は志貴皇子です。有名な歌がありますやろ、
いわばしる 垂水のうえの さわらびの 萌えいづる春に なりにけるかも
この歌を詠みはった人です。
田原天皇・春日宮天皇ともいいますね。」

「ああ、志貴皇子の子の白壁王が即位して光仁天皇となられ、父親の志貴皇子を春日宮御宇天皇と追尊されたんでしたっけ。」

「そう、実際には志貴皇子は天皇ではなかったんですが、息子の光仁天皇が天皇の位をおくられたわけですわ。
志貴皇子の陵は高円山にあるんですけど、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれています。
それから向かって左には志貴皇子の子の春日王をお祭りしています。
春日王は田原太子とも呼ばれていますが」

「えっ、父親が田原天皇で息子が田原太子ですか?」

「そうです、志貴皇子は天智天皇の第七皇子やったんですが、672年に壬申の乱がおきましてね・・・・」

「天智天皇の皇子の大友皇子と、天智天皇の弟の大海人皇子が皇位をめぐって争った戦いですね。」

「はい、その壬申の乱で志貴皇子は異母兄弟である大友皇子側につかれました。
御存じのように大友皇子は敗れて大海人皇子が天皇になられました。
そういうわけで乱後の志貴皇子は不遇でした。

その後、志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養されました。
春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があって、この兄弟が熱心に春日王の看病をされました。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意だったので、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈りはった。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かったそうです。

浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてておられました。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだそうです。
親孝行な兄弟の評判が桓武天皇にの耳にもはいりまして、桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とされたそうです。」

「弓削・・・・・・?」

「木や竹を削っ弓を作ってはったんで弓削という名前を与えはったんと違いますかな。
・・・・・そうそう、10月にはここで翁舞の奉納がありますんで、よかったら見に来てください。」

「えっ、翁舞?能の翁と何か関係があるんですか?」

私は正月に八坂神社で翁という能を見たことを思い出した。
翁の謎① 八坂神社 初能奉納 「翁」 『序』

「奈良豆比古神社は古くから芸能の神として信仰されてましてね、明治維新頃までは能や歌舞伎の役者は奈良豆比古神社を参拝して興行許可を得とったそうです。
能の翁のルーツはここの翁舞やと私は思います。
セリフとかもよう似てますし。
ここの翁舞は三人翁いうて、翁が3人出てきますけどね。」


●春日王はハンセン病をもたらす怨霊だった?

古においては神と怨霊は同義語であったとされる。
怨霊とは政治的陰謀により不幸な死を迎えた人のことで、天災や疫病の流行は怨霊の仕業で引き起こされると考えらえていた。
おそらく陰陽道の考えによるものなのだろうが、このような怨霊は神として祀り上げることで、守護神に転じるという信仰があった。
つまり、穢れ多い怨霊と、神聖なる神は表裏一体の存在だったのである。

ハンセン病患者は文殊菩薩の化身であると考えられていた。
先ほどお参りしてきた般若寺はハンセン病を患ったといわれる春日王を慰霊するための寺だと私は考える。
もしかすると春日王がハンセン病を患ったというのは事実ではないかもしれない。

翁の謎③ 法華寺 『光明皇后と行基の前に現れた疫神』
↑ こちらの記事に私は次のように書いた。

「貧乏神はいかにも貧乏そうな姿で表されることが多い。
ということは疫病をもたらす疫病神は疫病を患った姿をしていると考えられたのではないだろうか。
光明皇后と行基の前に現れた天然痘を患った病人とは天然痘をもたらした長屋王の怨霊なのではないだろうか。」と。

これと同様、ハンセン病をもたらす神はハンセン病を患った姿をしていると考えられたのかもしれない。
すなわち、春日王は政治的陰謀によって不幸な死を迎え、死後怨霊になったと考えられた。
そしてハンセン病は春日王の怨霊の仕業でひきおこされると考えられていたのではないかということである。

●どんな人が非人になったのか

翁の謎④ 北山十八間戸 『非人とハンセン病患者』でお話したように、かつてここは非人の町だった。
一方、翁は能というよりは神事であるといい、、『別火を喰う』と言って、舞台に立つ7日前から家族と寝食を分かち、食事を調理する火も共用することが許されないという。
それほど神聖で穢れを嫌う神事を、非人が行っていたということに疑問を感じる人がいるかもしれない。
非人とは穢れた存在として差別された人々のことではなかったのか、と。

『別火』についてだが、昭和の時代の部落出身の人が『別火といって煙草の火を貸してもらえなかった』という意味の文章を書いておられたことを思いだす。
昭和という時代には『別火を喰う』ことは、神聖視というよりも蔑視の意味合いを持っていたようだ。

非人とは「人に非ず」という意味だが、人に非ずとは鬼であり、また神でもあるという両面の意味を持っていたのではないかと私は思う。
というのは先ほども述べたように、古において怨霊(鬼)と神は同義語であったとされるからだ。

それではどのような人たちが非人となったのだろうか。

日本には先祖の霊はその子孫が祭祀(供養)すべきという考え方があった。
その例は記紀にも記述がある。
崇神天皇代に大物主神の怨霊の祟りで疫病が流行ったが、大物主神の子の大田田根子を大神神社(大物主神を御祭神としている)の神官にしたところ疫病がおさまったというのである。
この話は、子孫が祭祀することで怨霊の祟りを鎮めることができるという信仰があったことを物語っている。

春日王が怨霊であったとすれば、春日王は謀反人として不幸な死を迎えた人であったと考えることができる。
春日王の怨霊の祟りを鎮めることができるのは春日王の子である浄人王と安貴王、また彼らの子孫だということになる。

さきほどの男性の話では、兄弟は夙冠者黒人と呼ばれていたということだったが、夙とは中世から近年にかけて近畿地方に多く住んでいた賎民のことである。
奈良坂に住む賎民は北山夙と呼ばれていた。
夙と非人は同様のものだと考えてもいいだろう。
春日王の子の浄人王と安貴王は非人だったのである。

また平安時代に承和の変をおこしたとして橘逸勢が姓を非人と改められて流罪になっている
非人とは謀反人もしくはその子孫のことではなかっただろうか。

桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えたということだったが、これを言葉通りにとってはいけない。
橘逸勢のケースと同様で、桓武天皇は浄人王と安貴王の官位をはく奪し『弓削』という名前を与えて非人にした、ということだろう。

浄人王は皇族であったが、父の春日王が謀反人とされたため非人とされ弓削浄人という名前になったのだろう。

弓削浄人という名前には聞き覚えがある。
奈良時代の女帝・称徳天皇が寵愛し、次期天皇にしたいとまで考えていた僧の名前を道鏡という。
道鏡は弓削氏の出身のため弓削道鏡とも呼ばれている。
その道鏡の弟の名前が弓削浄人なのだ。
弓削氏は王族ではないが・・・・。

護王神社絵巻に描かれた道鏡 
護王神社絵巻に描かれた道鏡




奈良豆比古神社・・・奈良市奈良阪町2489

翁の謎⑦ 奈良大文字 送り火 『死者が住む高円山』へつづく~
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翁の謎⑤ 般若寺 『ハンセン病患者と文殊菩薩』

翁の謎④ 北山十八間戸 『非人とハンセン病患者』 よりつづきます~

●山吹の咲く寺

般若寺 山吹 

北山十八間戸からさらに北へ向かって坂を登っていくと、ほどなく古い楼門が現れた。
般若寺である。

般若寺の境内には山吹の花がこぼれんばかりに咲いていた。
般若寺はコスモス寺として有名だが、コスモスが日本に入ってきたのは明治20年ごろのことである。
なので般若寺がコスモス寺と呼ばれるようになったのは明治20年以降のことだということになる。
もともとは般若寺はコスモス寺ではなく、山吹寺であったのかもしれない。

●山吹には実がならない。


山吹で有名な松尾大社のHPに次のような伝説が書いてあった。

室町時代の武将・太田道灌は、鷹狩りに出たが雨に降られ、近くの小屋に入って蓑みのを貸してほしい、と申し入れた。
しかし小屋から出てきた女性は蓑ではなく山吹の花を一枝差し出した。
道灌は『貸してほしいのは花ではなくて蓑みのだ』と怒って帰った。
後日、ある人が道灌に女性が山吹をさしだした理由を教えた。
八重山吹の花には実がならないことを、貧しいがゆえ蓑が一つも無いことにかけ、古歌・『七重八重 花は咲けども山吹の 【み】のひとつだに なきぞかなしき(兼明親王)』の心を伝えた。


【み】のひとつだに』の【み】は、実と身をかけてある。
さらに『【み】のひとつだに』の『【み】の』には『蓑』がかかる。

『七重八重 花は咲けども山吹の 【み】のひとつだに なきぞかなしき(兼明親王)』

この歌は『七重八重に花は咲きますが、山吹は実がひとつもならないように、蓑がひとつもありません。なんと悲しいことだろうか。』というような意味である。

●子孫が繁栄しなかった聖徳太子


斑鳩にある中宮寺にもたくさんの山吹が植えられていた。

中宮寺 山吹  
中宮寺は法隆寺の隣にある尼寺で、聖徳太子が母親の穴穂部間人皇后の宮殿を寺としたと伝わる。

聖徳太子は日本人の中で最も尊敬されている人物だといえるだろうが、現在の日本人の中には聖徳太子の血は一滴も流れていない。
蘇我入鹿に攻められて、聖徳太子の子孫は全員、斑鳩寺(法隆寺)で首を吊って自害したのである。

中宮寺に山吹が植えられているのは、実がならない山吹のように、聖徳太子の子孫は繁栄せず血が絶えたということを表現するためなのかもしれない。

●ハンセン病患者は文殊菩薩の化身

本堂には小さな厨子が置いてあって、小さくて可愛らしい文殊菩薩像が置かれてあった。

般若寺は629年高句麗の僧・慧灌(えかん)によって創建された。
735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したといわれる。文殊菩薩の巨像を御本尊としていたが1490年に焼失した。
現在の文殊菩薩像は1324年に慶派仏師・康俊が刻んだもので、もともとは経像の本尊で秘仏だった。
本堂の御本尊が焼けてしまったのでかわりに本尊にしたという。

文殊菩薩は『智慧の菩薩』と言われている。
仏教の修行の結果として得られたさとりの智慧のことを般若という。
般若寺という寺名は文殊菩薩を祀っているところからくるのだろう。

能に用いる般若の面は『嫉妬や恨みの篭る女の顔』を表したもので、角が生えた恐ろしい形相をしている。
なので、鬼のことを般若というのだと思っていたが、間違いだったのである。

般若坊という僧侶が面を作ったので般若面と呼ばれるのだとか、『源氏物語』の葵の上が六条御息所の生霊にとりつかれた時、般若経を読んで怨霊を退治したところからそう呼ばれるようになったなどと言われている。

前回、私は北山十八間戸について次のように述べた。
①北山十八間戸は鎌倉時代のハンセン病患者を救済するための福祉施設だった。
②奈良坂には非人(寺社に隷属する民のこと)が住む夙があった。
③非人たちは清掃・警護・死体の処理などのほか、ハンセン病患者の看護なども行っていた。
奈良坂に北山十八間戸がつくられたのは、奈良坂が非人たちがすむ夙があったためだと考えられる。

そして前々回、光明皇后や行基の前にあしゅく如来や薬師如来の化身の天然痘患者があらわれたという伝説を紹介したが、ハンセン病患者は文殊菩薩の化身であると考えられていた。

宿の町・奈良坂にある般若寺の御本尊が文殊菩薩なのはこのためだろう。
般若寺はハンセン病患者の霊を弔うための寺なのだろうか。
いや、無名のハンセン病患者の霊を弔う寺だとは考えられない。
735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てたということは、それなりの身分で、ハンセン病を患った人がおり、その人物を弔うための寺であったのではないだろうか。

聖武天皇と同時代で、それなりの身分でハンセン病を患った人物がいる。
春日王だ。
般若寺・・・奈良市般若寺町221


翁の謎⑥ 奈良豆比古神社 『ハンセン病を患った春日王と非人にされた弓削浄人』へつづく~
トップページはこちら→翁の謎① 八坂神社 初能奉納 「翁」 『序』

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01-07(Sat)18:31|翁の謎 |コメント(-) |トラックバック(-)

翁の謎④ 北山十八間戸 『非人とハンセン病患者』


翁の謎③ 法華寺 『光明皇后と行基の前に現れた疫神』 より続きます~

北山十八間戸

※写真は北山十八間戸に霊山寺(奈良市中町3879)境内の文殊菩薩像を合成したものです。


●非人とハンセン病患者

なだらかな登り坂のつづく奈良坂を歩いていた。
呼吸の乱れを整えるために立ち止まり、振り返って見ると坂の下に興福寺の五重塔が見えていた。
大きく深呼吸をしてから再び歩き始める。
しばらくすると柵で囲われた細長い長屋が見えてきた。
長屋の裏に回ってみると18個の裏戸があり、そのひとつひとつに「北山十八間戸」と文字が刻まれていた。
柵の中に入って見学したいと思ったが、出入口には鍵がかけられていた。

見学することはできないのだろうか?

思い切って長屋の隣にあるお好み焼き屋さんに尋ねてみた。
するとおかみさんが店から出てきて出入口の鍵をあけて下さった。
どうやらこのお好み焼き屋さんが北山十八間戸を管理されているようである。
そして次のように説明していただいた。

「ここは鎌倉時代、ハンセン病患者を救済するための福祉施設だったところです。
奈良時代に光明皇后が建てたとも、鎌倉時代に僧の忍性さんによって建てられましたともいわれています。
ここからもうちょっと北に行ったところに般若寺さんがあるんですが、もともとはその般若寺さんの北東にあったそうです。
1567年に戦災で焼けまして、1660年から1670年ごろにここに移りました。
2畳くらいの部屋が17つ、4畳くらいの部屋がひとつで、合計18つの部屋があります。
4畳くらいの部屋は仏間です。
1万8千人のハンセン病患者が利用したと言われています。」

北山十八間戸がいつ誰によって建てられたものなのかについては、おかみさんが説明してくださったように2つの説があってはっきりしない。
しかし、なぜ奈良坂にハンセン病患者のための療養施設が作られたのかについてははっきりしている。
それは奈良坂が非人が住む町であったためである。

非人というと江戸時代に制定された身分制度を思い出すが、関西では中世より非人と呼ばれる人々がおり、多くは坂の町に住んでいた。
非人たちは寺社に隷属し、寺社の清掃、祭りの警備、死体の処理、神事などに携わっていた。

ここ奈良坂の非人たちは興福寺に隷属する民だった。

非人たちは非人宿(夙)に住み、病人の看護にも携わっていた。
奈良坂に北山十八間戸が作られたのは、ここに非人宿があったからだろう。
または北山十八間戸が先にあって、病人を看護するために非人宿が作られたのかもしれない。
いずれにせよ、北山十八間戸と非人に密接な関係があったことは事実である。

興福寺 夕景

荒池より興福寺を望む


●八の縁起担ぎ

さきほど、北山十八間戸は1万8千人の病患者が利用したと説明を受けたが、この数字は正確に数えたものではなく、北山十八間戸の「十八」の縁起を担いだものだろう。

八は字形が末広がりになっているので、中国では縁起のいい数字だと考えられているそうだ。
北京オリンピックの開会式も縁起を担いで8月8日午後8時開始にしたのだという。

一般に八は数の多さを示すと言われる。
八咫烏は大きいカラス、八咫鏡は大きい鏡という意味だというのだ。

しかし数の多さを表す数字としては、九十九(つくも)・九重などのように九も用いられている。
なので、八は単に数の多さをあらわすだけの数字であるとは私には思えない。

梅原猛さんは八は復活を意味する数字であるとしておられる。
八角墳は死者の復活を願って作られたお墓、法隆寺の夢殿に代表される八角堂は死者の復活を願って作られたお堂ではないかというのだ。

法隆寺 夢殿

法隆寺 夢殿

たしかに「八は復活を意味する数字」と考えたほうがしっくりくる言葉が多い。

八咫鏡はたしかに大きな鏡であっただろうが、それよりももっと重要なことは、それが天岩戸に籠った天照大神を岩戸の外へ引っ張り出した鏡だということである。
天岩戸には石室のイメージがある。天照大神は死んで石室に葬られていたのではないだろうか。
そして八咫鏡が死んだ天照大神を復活させたということではないかと思う。

八咫烏とは初代神武天皇を熊野から畿内へと道案内した烏のことである。
八咫烏は中国や朝鮮では太陽の中に描かれることが多い。

昔の人は死んだ人の魂は鳥になると考えていたのではないかと私は思う。
ササキという鳥がいるが、これに御をつけるとミササギとなる。
また巨大な前方後円墳は地上からではその形を認識することはできない。
前方後円墳は鳥の目線にあわせて作られているのだと思う。
記紀には死んだヤマトタケルが白鳥となって飛び立ったとか、アメノワカヒコの葬儀を鳥たちが行うという話もある。

八咫烏とはいったん死んだのち復活した(生き返った)太陽神なのではないだろうか。

七転八起は「『七回転んで、八回起き上がる。』という意味だとされているが、七回転んだら起きるのも七回である。
私は七とは死を意味する数字ではないかと思う。
人が死んだときの法要は初七日、二七日、三七日・・・・七七日と七日ごとに行う。
つまり七転八起とは七で死んで、八で復活するという意味なのではないだろうか。
北山十八間戸・・・奈良市川上町454

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12-12(Mon)18:23|翁の謎 |コメント(-) |トラックバック(-)

翁の謎③ 法華寺 『光明皇后と行基の前に現れた疫神』

翁の謎② 北野天満宮 東向観音寺 『神と怨霊は同義語だった。』

より続きます~


法華寺 桜


●光明皇后と行基には同様の伝説が伝えられていた。

平城宮跡の東500メートルほどのところに法華寺がある。
南大門をくぐると境内はしだれ桜や沈丁花が咲き乱れ、たいそう華やいだ雰囲気に包まれていた。
正面にある本堂の引き戸をあけると、中には尼さんがおられて「ようお参りです。」と声をかけてくださった。

法華寺は奈良時代に光明皇后が開いた寺院で、総国分尼寺であった。
開扉された厨子の中にはご本尊の十一面観音菩薩が安置されていた。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/77/Hokkeiji_Nunnery_Eleven-Headed_Kwannon_I_%28303%29.jpg
よい香り、異様に長い腕、そして赤い唇が印象的だった。

この十一面観音は光明皇后の姿を映したものだと言い伝えられ、会津八一が「藤原の 大き后をうつしみに あひみるごとく あかきくちびる」と歌を詠んでいる。
(※藤原の大き妃とは藤原光明子=光明皇后のことである。)

境内の奥まったところには浴室(からぶろ)がある。

法華寺 山茱萸


この浴室は光明皇后の次のような伝説にちなむものである

光明皇后は千人の垢を長そうと発願された。
最後の一人は皮膚病の老人だった。
老人は光明皇后に背中の膿を口で吸いだしてくれ、と頼んだ。
光明皇后はためらうことなく、老人の背中の膿を口で吸いだした。
すると老人はたちまち阿閦如来となった。


これと同様の伝説が行基にもある。

行基は旅の途中で出会った病人を有馬温泉に連れていった。
病人は「温泉では私の皮膚病は治らないので、舐めてくれないか」と行基に頼んだ。
行基はためらうことなく、膿んで異臭のする病人の肌を舐めた。
すると病人の肌は金色に輝いて薬師如来になった。


●疫神となった長屋王の怨霊

光明皇后や行基の伝説に登場する病人が患っている皮膚病とは天然痘のことだろう。

なぜ光明皇后と行基には同じような伝説が伝わっているのだろうか。

奈良時代、光明皇后の父・藤原不比等が絶大な権力を掌握していたが、720年に死去した。
不比等には藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂と言われる子があったが、不比等が死去したとき、まだ四兄弟は若すぎ、父の後継をつとめるまでには至らなかった。
不比等に代わって政界のトップとなったのが長屋王だった。
724年に聖武天皇が即位すると、長屋王は左大臣となった。

しかし長屋王政権は長くは続かなかった。
729年、漆部造君足(ぬりべのみやつこきみたり)と中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあずまひと)が『長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。』と朝廷に密告したのである。
これを受けて藤原宇合の軍が長屋王の邸宅を包囲し、舎人親王と新田部親王によって糾問が行われた。
厳しい取調べに耐え切れず長屋王は自殺に追い込まれた。
妃吉備内親王と子の膳夫王も共に死んだ。
これを「長屋王の変」という。

長屋王が国家を傾けようとしたというのは事実ではなく、藤原氏の陰謀であったと考えられている。
長屋王の子・膳夫王が皇位継承の最有力者とされていたのを、藤原氏が廃そうと企てたというのである。

というのは、長屋王の変にかかわった中臣宮処東人という人物が大伴子虫と囲碁をしていたとき、うっかり口をすべらせて事件の真相について話したのである。
長屋王派の人物だった大伴子虫はこの話に激怒して、中臣宮処東人を斬殺してしまったが罪に問われることはなかった。

長屋王の没後、藤原四兄弟は妹の光明子を聖武天皇の皇后に立て、藤原四子政権を樹立した。
ところが、737年、四兄弟は天然痘にかかって相次いで死亡した。
そして四兄弟の死は長屋王の怨霊の祟りであると噂された。

光明皇后と光明皇后の夫の聖武天皇は長屋王の怨霊をそれは恐れたことだろう。
745年、聖武天皇は東大寺の大仏造立を発願したが、その背景には長屋王の怨霊に対する恐れがあったと言われている。
つまり長屋王の怨霊の祟りに対する恐怖を大仏に救ってもらおうと聖武天皇は考えたということである。

行基はこの大仏造立の責任者であった。
行基は大仏を造立するにあたり、長屋王の鎮魂を祈願したにちがいない。

貧乏神はいかにも貧乏そうな姿で表されることが多い。
疫病をもたらす疫病神は疫病を患った姿をしていると考えられたのではないだろうか。
光明皇后と行基の前に現れた天然痘を患った病人とは天然痘をもたらした長屋王の怨霊なのではないだろうか。

かつて怨霊と神は同義語であったと言われる。
怨霊が祟らないように祀ったのが神だというのである。
また祟り神を祀り上げると守護神に転じるといった信仰もあった。
怨霊として恐れられた菅原道真が、現在では学問の神として信仰されているのは、そういうわけである。

さらに日本では古来より神仏は習合して信仰していた。
神仏習合のベースになった考え方は、日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿を現したものであるとする『本地垂迹説』である。
日本の神々のもともとの姿である仏教の神々のことを本地仏、仏教の神々が仮に姿を現した日本の神々のことを権現、化身などという。

例えば菅原道真を祀る北野天満宮の神護寺だった東向観音寺の門前には「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と記された石碑が建てられている。
これは『日本古来の神である菅原道真の本地仏である十一面観音をお祭りしています。』というような意味で
この石碑は菅原道真が十一面観音の化身であると信仰されていたことを物語るものである。

これを長屋王のケースにあてはめてみると次のようになるのではないだろうか。

阿閦如来または薬師如来の化身・・・天然痘を患った病人=疫病神=長屋王
天然痘を患った病人=疫病神=長屋王の本地仏・・・阿閦如来または薬師如来

∴天然痘を患った病人=疫病神=長屋王=阿閦如来または薬師如来

光明皇后や行基が病人の体を洗ったというのは、光明皇后や行基が長屋王の怨霊に禊をさせたということなのだろう。
禊とは身を浄めることで、今でも祭の前に禊と称して入浴する習慣のある地方もある。
それゆえ伝説に浴室や温泉が登場するのだと思う。

そして禊(入浴)をさせた結果、長屋王は人々に祟るのをやめ、成仏して阿閦如来や薬師如来になったというのが、この話のテーマなのだと思う。

法華寺 沈丁花 
法華寺・・・奈良市法華寺町882

翁の謎④ 北山十八間戸 『非人とハンセン病患者』へつづく~
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12-04(Sun)20:36|翁の謎 |コメント(-) |トラックバック(-)

翁の謎② 北野天満宮 東向観音寺 『神と怨霊は同義語だった。』

翁の謎① 八坂神社 初能奉納 「翁」 『序』 より続きます~

北野天満宮 梅 

●怨霊と神は同義語だった。

梅の花が咲き誇る北野天満宮。
境内にはひっきりなしに参拝者が訪れ、神殿の前には長い列ができていた。
参拝者の多くは合格祈願に訪れた受験生だろう。
北野天満宮では菅原道真を祀っており、学問の神として信仰を集めているのだ。

北野天満宮 梅2 
皆さんご存知のように菅原道真は平安時代の政治家である。
政治家のなぜ菅原道真がなぜ学問の神として信仰されるようになったのか。
それは彼が頭脳明晰で優秀な人物であったためではない。

現在ではある能力に長けた人物のことを尊敬の意を込めて「神」と呼ぶことがある。
例えばマイケル・シェンカーは「ギターの神」、B・B・キングは「ブルースの神」などと言われる。
しかし古における神とは能力に長けた人物のことではなかった。

もっとも、時代が下った戦国時代や江戸時代には優秀であるとか、立派な人物であるということで神として祀ることがあったようである。
豊臣秀吉や徳川家康は自らが神として祀られることを望み、彼らを祀る神社が作られた。
豊臣秀吉を祀る神社は豊国神社、徳川家康を祀る神社は東照宮である。

北野天満宮 梅3 
しかし、もっと古の時代には、優秀であるとか立派であるという理由だけで神として祀られることはなかったようである。
奈良時代や平安時代に神として祀られた人に共通点がある。
それは政治的陰謀によって不幸な死を迎えていることである。
このような人々は死後怨霊となり、疫病の流行や天災は怨霊のしわざでひきおこされると考えられていた。

菅原道真が神として祀られるようになったのも、彼が不幸な死をとげ、死後、怨霊になったと信じられたためであった。

道真は宇多天皇の信頼を得て右大臣にまで上り詰め、醍醐天皇代にも優秀な政治家として活躍していた。
これに左大臣・藤原時平が嫉妬した。
そして時平は醍醐天皇に「道真は謀反を企てている」と讒言したのである。
これをうけて醍醐天皇は道真を大宰府に左遷した。901年のことである。

903年、道真は失意のうちに大宰府で没した。
道真の死後、都では疫病が流行り、また天変地異が相次いだ。
930年、さらに追い打ちをかけるように清涼殿に落雷があり炎上するという事件がおき、多くの死傷者を出した。
その中には道真左遷にかかわった人々が含まれていたため、これらの一連の事件は道真の怨霊のしわざによるものだと考えらえた。
醍醐天皇は清涼殿落雷事件の3か月後に崩御されたが、これは醍醐天皇が道真の怨霊を恐れるあまりノイローゼとなったことが原因だともいう。

919年太宰府天満宮が、947年には北野天満宮が創建され、御祭神として菅原道真が祀られた。

古には神と怨霊は同義語であったと言われる。
怨霊が祟らないように祀ったものが神だというのである。

またこれはおそらく「陰が極まれば陽に転じる」とする陰陽道の考え方に基づくものだと思われるが、祟り神は神として祀り上げると守護神に転じるという考え方もあった。
菅原道真は怨霊として恐れられ、彼の怨霊を鎮めるため神として祀られたのである。
そして道真という怨霊を神として祀り上げた結果、怨霊は守護神に転じ、学問の神として信仰されるようになったというわけである。


下御霊神社 
下御霊神社(女性は葵祭に登場された方です。/合成)

京都の下御霊神社では八所御霊と称して吉備聖霊(吉備真備?)崇道天皇(早良親王)・伊予親王・藤原大婦人(藤原吉子)・藤原広嗣・橘逸勢・文屋宮田麻呂・火雷神・を祀っている。

火雷神は六座の(下御領神社では吉備聖霊は六座の心霊の和魂としているため)荒魂とされているが、他の六柱はいずれも実在した人物で不幸な死を迎え、死後怨霊になったと信じられた人物ばかりである。

吉備真備は称徳天皇崩御後、後継の天皇候補として文室浄三および文室大市を推したが敗れ、辞職している。

早良親王は桓武天皇の弟で皇太子にたてられていたが、藤原種継暗殺事件に関与したとして廃太子となった。
無実を訴えてハンガーストライキを行い、淡路島へ流される途中、船の中で憤死したと伝わる。

藤原吉子は桓武天皇の婦人で伊予親王を生んだが、謀反の疑いで伊予親王とともに川原寺に幽閉され、伊予親王を道連れにして自殺した。

藤原広嗣は大宰府に左遷となり、反乱をおこしたが、捕えられて処刑された。

橘逸勢は承和の変に関与したとして伊豆へ流罪となる途中の船上で死亡した。

文屋宮田麿も謀反を企てたとして伊豆へ流罪となったが、のちに無実であるとして慰霊されている。

しかし八所御霊は神として祀りあげられた結果、現在では人々にご利益を与えて下さる神として信仰されている。
菅原道真のケースと全く同じである。

●菅原道真は十一面観音の化身だった。

東向観音寺

北野天満宮の楼門を出て参道を大鳥居のほうへ向かって歩いていくと、途中、右手に東向観音寺という寺がある。
明治に神仏分離令が出されるまで、神仏は習合されて信仰されており、寺には鎮守の社が、神社には神宮寺(神護寺とも)があった。
東向観音寺はかつて北野天満宮の神宮寺だった寺で、門前には「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と記された石碑が建てられている。

「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とはどういう意味なのか。

日本では古来より神仏は習合して信仰されてきたが、その神仏習合のベースになったのが本地垂迹説である。

本地垂迹説とは「日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を現したものである」とする考え方のことである。
日本の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏、仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿をあらわした存在である日本の神々のことを権現、化身などといった。
例えば天照大神の本地仏は大日如来であるとか、市杵島姫は弁才天の権現であるなどとして同一視された。

天満宮とは菅原道真のことである。
つまり「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「天満宮=菅原道真の本地仏である十一面観音をお祭りしています。」というような意味である。
菅原道真は十一面観音の化身であると信じられていたといってもいい。

怨霊と神が同義語であったということ。
そして本地垂迹説。

これが分からなければ昔の日本の信仰が理解できないので、ぜひ覚えておいてほしい。


北野天満宮・・・京都市上京区御前通今出川上る馬喰町
東向観音寺・・・京都市上京区今小路通御前通西入上る観音寺門前町 863
翁の謎③ 法華寺 『光明皇后と行基の前に現れた疫神』へ続く~
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11-18(Fri)19:38|翁の謎 |コメント(-) |トラックバック(-)

翁の謎① 八坂神社 初能奉納 「翁」 『序』

写真がよくないので、全記事少しづつ書き直すことにしました。
写真はレタッチをやり直し、増やすつもりです。文章も手直ししようと思います。
また、新たに思いついたことなどもあるので、記事も追加したいと思います。
よろしくお願いします。


●鴨川は三途の川に喩えられていた?


阪急河原町駅で下車し、四条通を東に向かって歩いていく。
しばらくすると鴨川があり、四条大橋の上を大勢の人が行き交っている。
中には晴れ着を着た人や、破魔矢を手に持つ人の姿がある。
今日は1月3日、八坂神社や六波羅光寺の初詣に行った帰りなのだろう。

橋を半分ほど渡ったところに般若心経を唱える托鉢の僧がいた。
僧の姿を見ると、今からあの世に行くのだ、という思いがこみ上げてきた。

『あの世に行く』とはどういうことか。

北に丘陵、南に湖沼、東に流水、西に大道がある土地のことを四神相応の地という。
丘陵には玄武、湖沼には朱雀、流水には青龍、大道には白虎という想像上の聖獣が棲むと考えられ、風水ではこのような場所を大変縁起のいい場所だとしている。

平安京は四神相応の地を選んで作られた。
すなわち、平安京は北の船岡山、南の小椋池(現存せず)、西の山陰道、東の鴨川に囲まれた土地を選んで建都されたのである。

四条大橋を超えて東山に向かうことは、平安京の外に向かうということである。
(厳密にいえば平安京の東の端は寺町通あたりなので、阪急四条河原町駅についたあたりで平安京を出たことになる。)

昔の人は平安京の中をこの世、平安京の外をあの世と考えたということを聞いた記憶がある。
すると四条大橋を渡ることはこの世(平安京)からあの世(平安京の外)へ行くことになる。
昔、鴨川はこの世とあの世の境を流れる三途の川に喩えられたのではないだろうか。

951年、京の町では疫病が流行し、鴨川のほとりは死体で溢れかえるほどの惨状となったと伝えられる。
当時の人々にとって鴨川はまさしく三途の川そのもののように映ったことだろう。

今でも鴨川の西は商店街や銀行、デパート、オフィスビルなどが立ち並んで人が生活する町という雰囲気であるのに対し、
鴨川の東は神社仏閣が多く、鳥辺野の風葬地の名残を残すという東大谷墓地などもあって、あの世という雰囲気が漂っている。

●まったく意味がわからなかった能・翁

四条大橋を超え、まっすぐに歩いていくと突き当りに赤い楼門が見えてくる。
八坂神社である。

大晦日から元旦にかけての深夜、八坂神社は大勢の初詣客で賑わう。
神前で手を合わせるために3時間も並んだなどという話も聞く。
この日は1月3日なので、そこまでのことはなかったが、それでも神前には参拝客の長い行列ができていた。
私は行列の後ろのほうで手を合わせてお参りをし、八坂神社境内にある能舞台へと向かった。
能舞台の前のベンチはすでに人で埋め尽くされていた。
この日、八坂神社では初能奉納があるのだった。
能の演目は「翁」である。

まもなく舞台の上に囃し方が登場し、つづいてシテ(役者)が登場した。

シテは舞台の上でお面をつけた。
舞台上でお面をつけるのは能の中でも翁だけである。

八坂神社 翁 面をつける白式尉 

『翁」は『能にして能にあらず』『能というよりも神事である』などといわれている。
シテは舞台に立つ7日前から家族と寝食を別にし、食事を調理する火も共用することが許されない。
これを『別火を喰う』と言う。

「とうとうたらりたりらら」
翁(白式尉/はくしきじょう)のよく通る声が、冬の澄んだ青空にこだました。

八坂神社 翁 白式尉


「とうとうたらりたりらら」とはどういう意味なのか、よくわかっていないらしい。
おそらく古い言葉で、長い年月を経るうちにわからなくなってしまったのだろう。
和歌の枕詞などももともとは意味があったのだろうが、意味が分からなくなってしまったものが多い。

しばらくするとさきほどの翁とは別の翁がやはり舞台上で面をつけ、鈴を振って足拍子を踏み鳴らした。
私はその翁を見てとても驚いた。

八坂神社 翁 黒式尉 


翁の面が真っ黒だったからである。
黒い面の翁(黒式尉)は黒人なのか?
しかし顔立は日本人のようである。

私にとって初体験だった能「翁」。
正直言って、さっぱりわからなかった。
『とうとうたらりたりらら』とは何のことなのか。
なぜ黒式尉は真っ黒な顔をしているのか。


八坂神社 舞殿 
八坂神社 舞殿


八坂神社 楼門

八坂神社 西楼門

 翁の謎② 北野天満宮 東向観音寺 『古の日本の信仰とは』 へ続く


八坂神社・・・京都市東山区祇園町北側625
初能奉納・・・1月 3日 9時より



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