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「中国ではなく、支那と呼ぶべき」について、調べてみた。 


「中国ではなく支那とよぶべきだ」という意見がネット上などに一定数ある。
これについて、調べたことをまとめて書いてみる。

①中華民国は外交文書に「支那共和国」と記されることに反発した。


上記、ウィキ「中華思想」-中華民国 にこんな内容が書かれていた。

・章炳麟、孫文、梁啓超ら清朝を倒し、1912年に中華民国を建国し、「中華」を正式な国名とした。
・日本の駐清大使伊集院彦吉は、立憲君主制国家の成立を目指していたため共和政体に不満があった。
そのため本国内において「中華民国」の国号を用いず、欧米の「China」の用法にしたがって「支那共和国」と呼称するように具申した。
・これは閣議決定によって承認され、日本側は外交文書に「支那共和国」の国号を用い、中華民国政府側はこれに反発した。

支那という言葉は差別用語ではなく、それまで中国では自分達を支那と呼んででいたのかもしれないが(調査不足すいません)、
1912年以降、「自分達は支那ではなく中華民国である」という意識がめばえた。
にも拘わらず、「日本は外交文書に「支那共和国」と書いている、けしからん。」となったのだと思う。

⓶漢字を用いてきた国は「シナ」ではなく「中国」からくる国名を用いている。

英語「チャイナ」ドイツ語「ヒーナ」オランダ語「シーナ」もシナが変化したものだ。
なぜ日本が「シナ」といってはいけないのか、という意見がある。

たしかにほとんどの国がシナに基づく呼び方をしている。、

しかし朝鮮語の「チュングク」とベトナム語の「トゥルンコック」は「中国」からくる呼称である。
これについて、朝鮮やベトナムは中国の属国だから、という意見があるようである。
日本は聖徳太子の時代から、中国と対等にわたりあってきた国なので、中国と呼んではいけないというのだ。

しかし私は朝鮮やベトナムが中国に基づいた呼称を用いているのは、属国だからではなく、
漢字を使っていた国だからではないかと思う。

漢字文化圏は中国大陸、台湾、ベトナム、朝鮮半島、日本列島である。

韓国では1970年に漢字が廃止されてハングルを使うようになった。
ベトナムでは17世紀にフランスのカトリック宣教師、アレクサンドル・ドゥ・ロードがベトナム語のローマ字転写法を考案し、
これが19世紀後半のフランス植民地化以降「クオック・グー(国語)」と呼ばれるようになって普及して次第に漢字は使われなくなった。
1945年のベトナム民主共和国成立後、北部では漢字教育が行われなくなったが
南ベトナムでは1975年まで中等教育に「漢文科」があった。

韓国・・・1970年まで漢字を用いていた。
ベトナム・・・1975年まで中等教育に「漢文科」があった。
       
つまり、中華民国ができた1912年、韓国・ベトナムにおいても漢字が用いられていたのである。

モンゴルはモンゴル文字、ペルシャはペルシャ文字を使っている。

漢字を使わない国は、それまでの呼称であるチャイナなどで構わないが、漢字を使う国なのに
外交文書に「中華民国」ではなく「支那共和国」と記されて、気分を害する気持ちは分かるように思う。

③中国が外交文書に日本ではない言葉を用いても構わない?


上記記事によると、中国では日本(Rìběn)と呼び、日本国(Rì běn guó)からジパングという言葉ができたとある。

また、11区(11區/Shíyī qū)、泥轰(泥轟/Ní hōng)、霓虹(Ní hóng)岛国(島國)などの語もあると記されているが、これは呼称だろう。
外交文書には「日本」が用いられていると思う。(未確認)

※「泥轟」の「泥爆弾」、「霓虹」の「にじ」に、特に蔑視の意味はなく、「ニホン」という音写から来た表現、だと説明があるが、泥轟(泥爆弾)という漢字表記には若干嫌みがあるかもしれないw

「シナと呼ぶべき」とする人々は「差別語や侮蔑しているわけではない。相手をどう呼ぶかは呼ぶ側が決めること。」
と主張しているようである。

この理屈でいえば、外交文書に日本ではないちがう名前、たとえばジャパンに漢字の音を当てたものなどを書かれても
日本は文句を言ってはいけないということになる。
しかし、そんなことをされると大勢の日本人が不快感をもつだろう。

④中国において「中国」という言葉は紀元前より用いられていた。

「シナと呼ぶべき」という人々は、日本の地方名である中国の歴史は古く1000年前から使っている。
一方日本でシナを中国と呼ぶようになったのは戦後だと主張している。
古には「もろこし」「から」と呼んでいた、というのだ。(未確認)

上記記事によれば、中国において「中国」という言葉は紀元前(西周時代)すでに史書に現れていたとあり
次のような用例が示されている。

皇天既付中國民越厥疆土于先王(皇天既に中國民と厥疆の土地を先の王に付す)
民亦勞止 汔可小康 惠此中國 以綏四方 (この中国に恵あれ、四方安らかに)

また、次の様にも記されている。
しだいに中国という言葉は中華思想に基づく「文化的優越性を持った世界の中心」という意味をもつようになると。

秦始皇は中国を防衛のため長城に建てた。
いにしえより中国には何百もの山と原があり。など。

そして、唐王朝に入ると「現在中国本土と呼ばれる領域が「中国」と認識されるようになったとある。

⑤「中国4000年の歴史」はマスコミによる歴史の捏造ではない。

最近できたばかりの国なのに、「中国4000年の歴史」といってマスコミが歴史を捏造している、という意見もあったが
中国はもともと国名ではなく地域をさす名前であり、黄河文明の始まりは(文明といえるかどうか微妙だが)
紀元前7000年にさかのぼり、殷の成立は紀元前17世紀ごろとされるので「中国4000年の歴史」というのは捏造とはいえない。

⑤中華という言葉は「華夏文化の優越性」というニュアンスを含む。


上記によれば
中華(ちゅうか)あるいは華夏(かか)という用語は、「優れた文化を持つ者」を意味し、漢民族の間で「中国」と同様の自称とある。

また、この言葉は、「中心の国に住む優れた文化の担い手」という意味で、「華夏文化の優越性」というニュアンスを含んでいたと説明がある。

中華思想に基づき、古代日本を倭、卑弥呼などのよくない意味の漢字を当てて呼んでいたこともある。

つまり、支那は差別語ではないが、
中華民国・中国などの国名は、「他国に勝る国」というニュアンスを含み、
周辺国を蔑視する言葉で、差別語といえるかもしれない。

なので、中華民国という国名によい印象を持たない日本人が多いということは理解できる。


上記にも次のように記されている。

・伊集院彦吉が「支那共和国」と呼称するように具申した意図は、
「中華民国と呼べば世界の中心の国として認めることとなり、日本をその付属国としてしまう」
というものであったと分析されている。

・1930年ごろ、日本国内において中華民国という国号を呼ぶ動きには反対が多く見られた。

・しかし幣原喜重郎外相は中国国民の感情などにも配慮し、外交文書上での正式国号は中華民国と呼ぶ方針を決定し、
軟弱外交として批判された。

⑥なぜ民国ではなく中国としたのか?


上記記事によれば、昭和21年(1946年)、外務省は、東京都内の主要マスコミに対して次のような通達を出したとある。

中華民國の國名として支那といふ文字を使ふことは過去に於ては普通行はれて居たのであるが
其の後之を改められ中國等の語が使はれてゐる處
支那といふ文字は中華民國として極度に嫌ふものであり,現に終戰後同國代表者が公式非公式に此の字の使用をやめて貰ひ度いとの要求があつたので、
今後は理屈を拔きにして先方の嫌がる文字を使はぬ樣にしたいと考え念のため貴意を得る次第です。
要するに支那の文字を使はなければよいのですから用辭例としては
中華民國、中國、民國。
中華民國人、中國人、民國人、華人。
日華、米華、中蘇、英華
などのいづれを用ひるも差支なく
唯歴史的地理的又は學術的の敍述などの場合は必しも右に據り得ない
例へば東支那海とか日支事變とか云ふことはやむを得ぬと考へます

中華民国のことを中国でも民国でもよいとしているが、なぜ中国という表現を用いるようになっただろうか。
そのあたりのこともわかれば、追記を入れる。


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[2021/07/10 13:26] 未分類 | TB(0) | CM(0)

しばらくの間、gooブログで記事を書きます。 

現在不具合が生じてfc2ブログに書き込みにくい状態となっていますので
しばらく下記のgooブログに記事を書きます。
よろしくお願いします。

旅 free style


追記/2019年2月20日に不具合が解消しましたので、ひきつづきfc2ブログで記事を書く予定です。

gooブログの記事はfc2ブログに転記しました。お騒がせしてすいません!



[2019/02/19 18:16] 未分類 | TB(0) | CM(0)

仁徳天皇陵発掘。竹田恒泰さんの意見に反論させていただきます。 ② 



①「うちの墓掘るな!」竹田恒泰さんの主張のまとめ

竹田恒泰さんの発言をまとめます。

a.仁徳天皇陵の堤三か所にトレンチ(切り込み)を掘って調査する計画がある。
b.考古学の中でも左派(左翼)は陵を掘らせろといっている。
c.宮内庁は部外者による立入・調査を皇室の祖先の墓であり、静安と尊厳が必要として制限してきた。(新聞記事より引用)
d.宮内庁は現王朝の墓なので、発掘調査を認めたことがない。
e.滅びた墓は祭祀が行われていないので発掘調査してもいいが、天皇陵は現王朝の墓で祭祀が行われている。
f.うちの墓掘るな。
g.発掘調査の結果、被葬者が特定されたのは全国で数件しかない。誰の墓かなんてどうでもいい。
h.仁徳天皇の時代には文字がないのでわからない。


このうち、 は間違いの可能性があるとして、前回の記事に書きました。
仁徳天皇陵発掘。竹田恒泰さんの意見に反論させていただきます。 

e.滅びた墓は祭祀が行われていないので発掘調査してもいいが、天皇陵は現王朝の墓で祭祀が行われている。
はまちがいとはいえないですが、かなり納得のいかない点があるので、追加で書かせていただきます。

NintokuTomb

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ANintokuTomb.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3f/NintokuTomb.jpg よりお借りしました。
Copyright © 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省 [Attribution], ウィキメディア・コモンズ経由で

②古代の天皇陵の管理が差別意識を生んだ?

飛鳥時代後期より平安時代の桓武天皇代ごろまでの日本では律令制をとっていました。
その律令制では陵墓は国家の管理と定められていました。

天皇・皇族の陵墓の守衛を陵戸(りょうこ)といい、世襲で陵墓の管理をしていました。
大宝令制(701年)では陵戸はは賤民でなかったとされますが、養老令制(757年)では戸令で5種の賤民の一つとされました。

賤民とは「身分の低い民」のことです。
陵戸は良民と同額の口分田(唐の制度をまねたもので民衆に一律に支給された農地)を支給され、課役を免除されていましたが
良民との結婚などは認められていなかったとされます。

日本では「死は穢れたもの」とする考え方があったため、陵の管理をする陵戸は賤民とされたのでしょう。
この陵戸が形成した部落が明治まで存続していたケースもあったということです。

日本の階級制が外国の階級制と比較してどうだったかについては、勉強不足ゆえ、私にはわかりません。
ですが、5種の賤民、陵戸などの身分制度があったことは確かであり、差別意識を生む原因のひとつであったとは考えられるのではないでしょうか。

こういうことをいうと、短絡的に「反日」と決めつける人がいますが、歴史という学問に反日かどうかは関係ありません。
反日などの思想を捨てて史実を見るのが科学的態度だと思います。

また階級制は、ある程度文明が進んだ段階において必然的に生まれるものであるように思えます。
世界的に見ても、階級制のない社会のほうが珍しいと思います。
ですから日本に階級制があったからといって、日本はよくない国だというようなことにはならないはずです。

反正天皇陵 
堺市役所21階展望ロビーより反正天皇陵をのぞむ。

③寺院への天皇陵管理委託で多くの陵の所在が不明に。

醍醐天皇(885-930)陵の管理が醍醐寺に委任されて以降、いくつかの陵墓管理は国家管理から寺院管理へと移っていきました。




寺院が廃れたり、消滅したりすることで、不明になった陵も多いということです。

法住寺に委託された後白河天皇陵、如意輪寺に委託された後醍醐天皇陵などは近世まで管理されてきましたが、このような例は珍しいそうです。

如意輪寺 桜

如意輪寺 境内に後醍醐天皇陵がある。

後白河天皇陵 桜紅葉 
後白河天皇陵

中世以後、天皇家の力が衰えると多くの陵墓は荒れ、周濠がため池として用いられたり、伝安閑陵古墳は戦国大名の城に改造されています。

Takayaj3

高屋城 本丸跡(高屋築山古墳を流用)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Takayaj3.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7f/Takayaj3.jpg より引用
作者 投稿者が撮影 (ブレイズマン (talk) 08:56, 24 June 2008 (UTC)) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


④元禄の修陵・文久の修陵

江戸幕府が1697年~1699年に修陵を行っており、これを「元禄の修陵」といいます。
このころ、天皇陵の大半はその所在地がわからなくなっていました。
そのため、史料は参考にはしたものの、結構適当に治定したようです。。
また陵墓や周濠が私有地化・耕作地となっていたため、土地を強制的に買いあげたりもしています。

その後、江戸幕府は1862年~「文久の修陵」で、109か所の陵が修陵され、1867年には「文久山陵図」が完成して朝廷と幕府に献上されています。

現在、われわれが天皇陵と呼んでいるのは、主に江戸時代に探索・治定されたものであり
 現在の歴史学的・考古学的知見に基づき同意できるものは、奈良時代以前のものでは、天智天皇陵、天武・持統天皇合同陵程度しかないと言われています。

前回も言ったように、竹田恒泰さんは「うちの墓掘るな」といいますが、そもそも「うちの墓」かどうかわからないんですね。

⑤荒れた天皇陵で祭祀が行われていたのか?

注意したいのは、江戸時代、多くの天皇陵(特に古代の天皇陵)はその所在が不明となり、耕作地となったり、他人が所有する土地となっていたり、ひどいケースではその上に城がたてられていたりしていたという事実です。

現在の法律では、土地の長期放置は「みなし放棄」として、所有権が認められません。
江戸幕府が天皇陵比定地を買い取ったのも、当時においてもそれが天皇家の所有地であると認められなかったためでしょう。

こういった荒れた天皇陵や、民間人の所有地となっていた天皇陵で祭祀が行われていたとは思えません。

各天皇陵において現在祭祀が行われているとしても、それは「元禄の修陵」「文久の修陵」以降のことであり、祭祀が行われていなかった期間が長かったのではないか、とおもえるのです。

ナガレ山古墳

造営当時の姿に復元されたナガレ山古墳。
造営当時の古墳の多くはこのナガレ山古墳のように、葺石で覆われていたものと考えられている。
現在、多くの古墳は草木が生い茂って岡のようになっているが、それは長年管理せず、放置してきたということではないのだろうか?


長年放置しておいて、最近になってようやく管理しはじめ、「現在も祭祀している」といわれても、騙されている感が強いです。
「あなたの先祖の土地じゃないかもしれないから調査させてくれ」といわれたので、あわてて祭祀をはじめたようにも見えなくないです。

「現在も祭祀している」は正しいかもしれないが、それは「長年にわたって祭祀を続けていた」ということではないのです。
「最近になって祭祀するようになった」というのが正しいのではないかと思います。

⑥天皇以前に物部王朝が存在していた?

私が宮内庁管轄地である天皇陵などの古墳発掘するべき、と考えるのは、記紀などを読むと、どうも天皇家は万世一系ではないように思えるからです。

記紀によれば、神武天皇が東征して畿内入りするより早く、ニギハヤヒという神が天の磐船に乗って天下っっていたとあります。
ニギハヤヒが天下ったとされる場所には現在、磐船神社(大阪府交野市)があります。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 拝殿より直接御神体の天の磐船を拝します。 

そしてニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武以前、畿内には物部王朝があったとする説があるのです。

そして籠神社で発見された系図によれば、
始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)の9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、脇に、『またの名を倭迹迹日百襲姫命』、『またの名を神大市姫命』、『日神ともいう』と記されています。
この『日女命』に漢字をあてたのが邪馬台国の女王・卑弥呼ではないかとする説があります。

ひめのみこと→ひみこ

これは確かにありえそうです。

籠神社

籠神社

そして倭迹迹日百襲姫命は第7代孝霊天皇の皇女とされており、桜井市にある箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命(日女命)の墓に比定されています。
魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓とも大きさが合致するので卑弥呼の墓ではないかともいわれています。
ですが宮内庁管轄地ですので、発掘調査ができません。

そして『先代旧事本紀』では倭迹迹日百襲姫命(日女命)の先祖・彦火明命はニギハヤヒと同一神だと記されているのです。
この系図が出て来た籠神社の社家・海部氏も物部氏です。

これらの史料を読む限り、倭迹迹日百襲姫命やその父親の第7代孝霊天皇は物部王朝の王のように思えます。

すると天皇家が万世一系というのは、長い間日本人が勘違いしていたということになります。
このあたりの真実を、私はどうしても知りたいと思います。

日本人の中には天皇家が万世一系であることをもって日本は最古の王朝だといい、それを重んじる人がいます。
しかし、日本の価値は勤勉な国民性、島国ならではのユニークな文化、各種産業、四季のある美しい自然の中で育まれた感受性などであって、万世一系など大して自慢にもならないと私は思います。
仮に万世一系でなかったとして、対外的にも、大きな影響はないと思います。

それよりも、そういう疑いがあるのであれば、積極的に調査をして事実を解明するべきだと思います。

箸墓古墳 桜 
箸墓古墳


⑦後漢書・梁書・日本書紀にも登場する邪馬台国

竹田恒泰さんは著書「日本人はなせ日本のことを知らないのか」の中で、次のように記しておられます。

あ. 倭人伝の記述はまちがいが多い。
い.中国側の史料にも倭人伝にしか記載がない。
う.日本側の史料には一切確認ができない。
え.中国側の史料に邪馬台国の記述があることを確認しておく程度でよい。

「あ.  倭人伝の記述はまちがいが多い。」について。
邪馬台国はまだ研究段階なので、まちがいが多いとはいいきれません。
ただ、魏志倭人伝の南宋の本に邪馬壹国とあるのは邪馬台国のまちがいだとは思います。(魏志倭人伝の原本は存在していません。)

「い.中国側の史料にも倭人伝(魏志倭人伝)にしか記載がない。」について。
3世紀に記された『三国志(魏志倭人伝)』のほか、5世紀に記された後漢書倭伝、7世紀に記された梁書倭伝、7世紀の髄書、唐代の北史四夷伝にも記載があります。
「3世紀に記された書物の中に記述がない」という意味かもしれませんが、それならそう記述するべきでしょう。

「う.日本側の史料には一切確認ができない。」について。

日本書紀の「神功皇后紀」39年条と40年条、43年条には魏志倭人伝から引用された箇所があります。

39年条「魏志によると、明帝の景初3年(239年)6月に倭の女王が大夫の難斗米などを派遣して、郡(朝鮮半島の帯方郡)に行き、天子に会いたいと朝献(朝廷に詣でる)した。太守の鄧夏は吏を派遣して、京都(洛陽)に詣でた」
40年条「魏志によると、正始元年(240年)に建忠校尉(文官)の梯携たちを派遣して詔書印綬を奉じ、倭国にもたらした」
43年条「魏志によると、正始4年(243年)に倭王はまた使者の大夫の伊聲者掖耶約たち8人を派遣して献上した」

http://fushigi-chikara.jp/sonota/6883/ より引用(ありがとうございます!)

我々の先祖は魏志倭人伝を読んでおり、魏志倭人伝に登場する卑弥呼とは神功皇后のことであると考えていたのです。
ですから、日本側の史料には一切確認ができない、とも言いきれないと思います。

また、邪馬台国、卑弥呼などの言葉は日本語の発音に漢字をあてたものと考えられるので、邪馬台国・卑弥呼という言葉が日本側の史料に出てこないのは当然だと考えられます。
第10代崇神天皇の叔母・倭迹迹日百襲姫命=日女命が卑弥呼、崇神天皇の皇女の豊鍬入姫命が卑弥呼の宗女の台与だとする説が有力です。
崇神天皇陵 夕日 『卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命、男弟は大物主、狗奴国の男王は崇神天皇?』 

崇神天皇陵

崇神天皇陵

もちろん、私の考えが妄想である可能性もあります。
なので妄想であれば妄想であると確信できる事実がほしいと思います。
それは天皇陵発掘調査しかありません。

天皇陵発掘調査は墓を暴くこととは異なります。
被葬者も、後世の人々に事実を正しく知ってほしいと考えているかもしれません。
また、被葬者に対して十分な敬意をはらって発掘調査を行っていると思うので、不敬にもあたらないかと思います。
発掘調査=不敬、というのはあまりに短絡的な考え方のように思えます。

竹田恒泰さんは、古代史や考古学にあまり興味がないのでしょうね。
古代史の事実よりも、天皇家の権威を守るほうが大切である、とお考えになっておられるように思えます。

石舞台古墳 小焼け

蘇我馬子の墓といわれる石舞台古墳。盛り土が失われて石室がむき出しになっています。
蘇我馬子の孫の入鹿は中大兄皇子によって滅ぼされています。
梅原猛さんは、石舞台古墳は謀反人・蘇我入鹿の先祖の墓なので、暴かれたのではないか、とおしゃっていました。
石舞台古墳が暴かれた墓だとすれば、それは誰によって暴かれたのでしょうか。
発掘調査は被葬者に敬意を払って行っていると思います。墓を暴くこととは全く異なります。




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[2018/10/29 11:24] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

仁徳天皇陵発掘。竹田恒泰さんの意見に反論させていただきます。 



①「うちの墓掘るな!」竹田恒泰さんの主張のまとめ

竹田恒泰さんの発言をまとめます。

a.仁徳天皇陵の堤三か所にトレンチ(切り込み)を掘って調査する計画がある。
b.考古学の中でも左派(左翼)は陵を掘らせろといっている。
c.宮内庁は部外者による立入・調査を皇室の祖先の墓であり、静安と尊厳が必要として制限してきた。(新聞記事より引用)
d.宮内庁は現王朝の墓なので、発掘調査を認めたことがない。
e.滅びた墓は祭祀が行われていないので発掘調査してもいいが、天皇陵は現王朝の墓で祭祀が行われている。
f.うちの墓掘るな。
g.発掘調査の結果、被葬者が特定されたのは全国で数件しかない。誰の墓かなんてどうでもいい。
h.仁徳天皇の時代には文字がないのでわからない。


このうち、 は間違いの可能性があると思います。


NintokuTomb

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ANintokuTomb.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3f/NintokuTomb.jpg よりお借りしました。
Copyright © 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省 [Attribution], ウィキメディア・コモンズ経由で


②仁徳天皇代、郷土の産物を記録させている=文字があった?

順番が前後しますが、まず「h.仁徳天皇の時代には文字がないのでわからない。」について。

日本は中国の漢字を文字として用いてきました。
竹田さんが「文字がない」とおっしゃっているのは、「まだ漢字が日本に伝わっていなかった」という意味だと思います。
(15代応神天皇以前、神代文字があったとする説もありますが、偽作だとする説が強い。)
漢字が日本に伝わったのは、いつぐらいのことなのでしょうか。

仁徳天皇陵 
堺市役所21回展望ロビーより仁徳天皇陵をのぞむ。ここからではほとんど形がわかりません。

http://kanjibunka.com/kanji-faq/old-faq/q0004/
↑ こちらのサイトに次のように記されています。

「紀元3世紀ごろ,.邪馬台国(やまたいこく)の時代、日本と中国との間に使節の往来があった。
外交文書を扱うことができなければ、使節として体を成さない。
おそらく邪馬台国やそれに先立つ国々には、漢字を理解し、文書を扱うことのできる人々がいたと考えられている。」

また日本書紀には「仁徳天皇代、紀角宿祢を百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した。」とあります。
記録するには文字が必要です。たぶん漢字を使ったのではないでしょうか。

また5世紀後半に築造されたと考えられている前方後円墳の稲荷山古墳(埼玉県)では、文字を刻んだ鉄拳が発見されています。
日本には墓誌の習慣はなかったとされますが、鉄剣のような副葬品に被葬者の名前が刻まれている可能性がないともいえないです。

反正天皇陵 
堺市役所21階展望ロビーより反正天皇陵をのぞむ。

③発掘調査は被葬者が誰か、を調べるためだけに行われるのではない。

g.発掘調査の結果、被葬者が特定されたのは全国で数件しかない。誰の墓かなんてどうでもいい。」について。

研究の手がかりになるのは文字だけではありません。
出土した埴輪・土器・葺石・副葬品などすべてのものが手がかりになります。
樹皮のついた木片がでてくれば年輪年代法で築造時期もある程度特定することができます。
人骨がでてくれば、性別・体格・死亡年齢などもわかります。

被葬者が誰か、ということだけに考古学的価値があるのではありません。

ナガレ山古墳 子供さんたち

ナガレ山古墳(奈良県北葛城郡)

④天皇陵は皇室の財産か?

憲法では、「すべて皇室財産は、国に属する」と定められ、皇室による不動産保有は禁じられています。
まあ、これについて「戦後GHQによって決められた憲法なので、無効だ」という意見もあるかもしれませんが、現在の憲法では天皇陵は皇族の財産ではなく、国の財産だということになると思います。

法律の事は詳しくはないんですが、他人が所有している土地に先祖の墓があるとして、土地の所有者がそれを発掘調査しても、文句のいいようがないのではないでしょうか?(間違っていたら教えてください!)

また、仁徳天皇陵といいますが、本当に仁徳天皇の陵なのかどうかについても確定していません。
もしかしたら天皇家とは関係のない豪族の墓かもしれません。
そうだとすると「うちの墓」とはいえません。「うちの墓」と胸をはって言うためにも、発掘調査が必要ではないでしょうか。

 ホケノ山古墳 
ホケノ山古墳(奈良県桜井市) 埋葬施設


⑤右左の問題ではなく、信仰か化学かの問題では?

b.考古学の中でも左派(左翼)は陵を掘らせろといっている。」について。

考古学とは、ごく簡単にいってしまうと、土の中に残された人々の生活の痕跡から生活・風習を復元し、人間とは何なのかを考える学問です。
http://kaf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/02/minikouza.pdf より引用

つまり、考古学とは発掘調査なしに成立しない学問ということですよね。
考古学者が発掘調査しないで、何を研究するんだろう、と疑問に思ってしまいます。

考古学者も思想的に右左はあるでしょう。
ですが、それとは関係なく、考古学者である以上、発掘調査はしたいと考えるのではないかと思うのですが。

竹田恒泰さんには、そのあたりの詳しい説明をお願いしたいです。
特に天皇陵発掘調査に反対意見の考古学者の名前などを教えていただきたい。
単に「左派(左翼)は陵を掘らせろといっている」だけでは納得ができませんので。

左派と右派というより、信仰をとるか、科学をとるかという問題のような気がします。

百舌鳥古墳群 模型

堺市役所21階展望ロビーにあった模型。(見やすくするため一部加工しました。) 


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[2018/10/24 18:59] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

6月13日にメールくださった方へ 

矢田の神と春日明神(矢田寺) 

↑ こちらの記事について、6月13日にメールをくださった方、ありがとうございました。
返事をおくろうと思いましたが、メールを送ることができません。
お手数ですが、メールを送ることのできるアドレスを明記したうえで、再度メールフォームを送っていただけないでしょうか。


宜しくお願いします。




















[2017/06/13 21:15] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

black and white9 八咫烏と白鳥  

この記事はブロとものみ閲覧できます

[2013/07/09 15:37] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

black and white7 なぜ干ばつには黒馬、長雨には白馬が奉納されたのか?  

この記事はブロとものみ閲覧できます

[2013/07/07 21:05] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)