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ミジャグジ様の謎③ 『ニギハヤヒは太陽神?それとも星の神?』 

ミシャグジ様の謎② 太陽と月が結婚すると星の神になる? よりつづきます~
トップページはこちらです→ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 


①ニギハヤヒは太陽神?それとも星の神?

前回私は、次のように述べた。

物部氏は製鉄・鋳造の技術に長けており、そのため物部氏の神は星の神だとする説がある。
また雲陽誌という書物には次のような内容が記されている。
島根県松江市の松崎神社では延宝7年に石が 掘り出され、古語『星隕って石となる』から神・ニギハヤヒの石として宝物にした。
ニギハヤヒは星の神。」


これに対して、こんな反論があるかもしれない。

ニギハヤヒは先代旧事本記では天照国照彦火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)と表記されている。

一方、天照大神は男神とする説がある。
天照大神は女神であるアメノウズメのストリップダンスに興味を持って天岩戸からでてきた。
女神のストリップに興味を持つのは男だ。よって天照大神は男だとする説がある。
そして天照国照彦火明櫛玉饒速日命が本当の天照大神ではないかともいわれている。

するとニギハヤヒは太陽神だ。星の神ではない。


岩戸山ご神体 天照大神

祇園祭 岩戸山 ご神体の天照大神は男神だった。

いったいニギハヤヒは太陽神なのか、星の神なのか。

私はニギハヤヒは太陽神、アメノウズメは月神、ニギハヤヒとアメノウズメの男女双体の神が星の神だと私は考えている。

②伏義は太陽神、女媧は月の神?

中国伏義と女媧という兄妹で夫婦でもある神がいる。

五盔墓4号墳の壁画は、伏義が持ち上げている円の中に八咫烏が、女媧が持ち上げている円の中にはヒキガエルが描かれている。
八咫烏は太陽の中に、ヒキガエルまたはウサギは月に住むと考えられてた。

五盔墓4号墳の壁画を見ると、伏義は太陽の神、女媧は月の神のように思われる。

ファイル:Anonymous-Fuxi and Nüwa3.jpg

伏義と女媧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg
よりお借りしました。


伏義は地の神、女媧は天の神?

ところがウィキペディアの伏義と女媧の図には太陽を表す八咫烏や月をあらわすヒキガエルは描かれていない。
その代わり絵の上部に菊のようなものが、下部にクロワッサンのようなものが描かれている。
菊のようなものは太陽、クロワッサンのようなものは月だと思う。

そして伏義と女媧は蛇身の下半身を絡ませている。
五盔墓4号墳の壁画にあるように伏義=太陽神、女媧=月神であり、上の図は太陽神・伏義と月神・女媧の和合(結婚)を表しているのではないだろうか。

月が太陽の上に重なれば日食である。(蛇足/太陽が月の上に重なるということはない。月のほうが地球に近いからだ。月食は月に地球の影が映る現象で月と太陽の和合ではない。)

上の伏義と女媧の図は日食を表していると思う。
というのは二神の周囲に星が描かれているからだ。

皆既日食がおこると皆既日食では日没後20分から30分くらいたった程度に暗くなり、明るい星であれば観測されるそうである。

太陽神と月神が重なると星の神になるのだ。




④女神が男神の足を踏みつける大聖歓喜天

大聖歓喜天という仏教の神がある。
大聖歓喜天はもともとはヒンズー教の神であったのが、のちの仏教にとりいれられて仏法守護の神とされた。
大聖歓喜天のお姿は道祖神や伏羲&女媧と同じく男女の神が抱きあう姿で表され、次のような伝説がある。

鬼王ビナヤキャの祟りで国中に不幸な出来事がおこった。
そこで十一面観音はビナヤキャの女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われた。
ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、『自分のものになれ』と命令した。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓った。
 

双身歓喜天像の相手の足を踏みつけているほうが、十一面観音菩薩の化身ビナヤキャ女紳とされる。

Icon of Shoten

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AIcon_of_Shoten.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Icon_of_Shoten.jpg よりお借りしました。
作者 不明 (平安時代の図像集『別尊雑記』(心覚 撰)巻 42より) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で




伏義&女媧と大聖歓喜天はよく似ている。
伏義&女媧の腕がつながっている点に注意してほしい。
大聖歓喜天は女神が男神の脚を踏みつけることで、女神と男神の脚はつながっているとみることもできる。
大聖歓喜天は脚がつながっているが、伏義&女媧は腕がつながっているというわけである。

伏義&女媧の影響を受けて大聖歓喜天が創作されたか、大聖歓喜天の影響を受けて伏義&女媧が創作されたのではないかと思う。

⑤道祖神

さらに日本の道祖神も伏義&女媧に似ている。
道祖神はもともとは中国の道教の神なのだが、日本では猿田彦神と天鈿女の男女双体の神として信仰されている。

下の道祖神の写真を見てほしい。
道祖神はこの写真のように男女の神像が手をつなぎあう姿で表される。

それは手のつながった伏義と女媧を思わせるお姿である。


多気山不動尊 道祖神

多気山不動尊 道祖神

④道祖神は猿田彦がアメノウズメのセックスにおぼれ死んでいるの図

道祖神は日本では猿田彦神と天鈿女の男女双体の神だとされているということはすでに述べたとおりだが、猿田彦神と天鈿女は記紀神話の天孫降臨のシーンに登場する。

天孫ニニギの葦原中国降臨の際、天上の道が八衢に分かれている場所に立ち、高天原から葦原中国までを照らす神があった。
天照大神と高木神は天鈿女に命じて、神の名前を尋ねさせた。
天鈿女は神の前にたち、胸をあらわにし、腰ひもをずらし、神に名を訪ねた。
すると『私は国津神で猿田彦神と申します。ニニギを葦原中国まで道案内しようと思い参りました』と答えた。
ニニギは猿田彦神に道案内されて葦原中国の日向の宮へと天下った。
その後、ニニギは天鈿女に『猿田彦神をもともと彼が住んでいた伊勢へと送り届け、猿田彦神の名前を伝えて仕え祭れ』と命じた。
ここから天鈿女は猿女君と呼ばれるようになった。
のちに猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死んだ。(古事記)


ニニギは天鈿女に『猿田彦神をもともと彼が住んでいた伊勢へと送り届け、猿田彦神の名前を伝えて仕え祭れ』と命じている。

「仕える」というのは「性的に仕える」という意味で、
「猿田彦神の名前を伝えて仕え祭れ」というのは、天鈿女に猿田彦神と結婚せよ、と命じたということではないだろうか。

天鈿女は天の岩戸の前でストリップダンスをした神、性の神なのである。

「サルタヒコは比良夫貝に手を挟まれて溺れ死んだ」とあるが、貝は女陰の比喩だと思う。
つまり猿田彦神は天鈿女のセックスにおぼれて死んだということだと思う。

そこでもう一度道祖神の写真を見てほしい。
男女の神像が手をつなぎ合っているように見えるが、これは手をつないでいるのではなく、大聖歓喜天のビナヤキャ女神が鬼王ビナヤキャの足を踏みつけているのと同じで、和合を表すサインなのだと思う。

道祖神の中にはストレートに和合したお姿のものもあるそうだが、我々の先祖はストレートな表現を好まず、わかる人にはわかる的なサインを用いたのだろう。

つまり、道祖神とは猿田彦神が比良夫貝に手を挟まれて溺れ死んでいるの図(猿田彦神が天鈿女のセックスに溺れしんでいるの図)だといえるのではないかと思う。

河治温泉 道祖神

川治温泉 道祖神

⑤道祖神は星の神


道祖神について、ウィキペディアは次のように記している。

道祖神(どうそじん、どうそしん)は、路傍の神である。集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E7%A5%96%E7%A5%9Eより引用

ウィキペディアは、道祖神が旅や交通安全の神として信仰されるようになったのは近世としている。

これについては詳しく調べてみる必要があるが、道祖神はもとから道案内の神、旅の神として信仰されていたのではないかと私は思う。

そういえば、道祖神は猿田彦神と天鈿女の男女双体の神とされるが、猿田彦はニニギを道案内しているではないか。

③⑤でみたように、道祖神と伏義&女媧はよく似ている。
道祖神と伏義&女媧は習合されているといってもいいだろう。

伏義は太陽の神、女媧は月の神。太陽と月が和合することは日食である。
日食がおきると夜のように暗くなって星がみえる。なので伏義&女媧は星の神だと考えられる。

すると道祖神も星の神だと考えられるが、星は方角を知るのにかかせないものだった。
太陽や月は毎日位置をずらしていくので、これらから方角を正確に知ることはむつかしい。
しかし星は地平線から出入りする時刻はずれるが、地平線から出入りする方角は常に一定である。
特に天の中心にあって動かない北極星や真東からでて真西に沈むオリオン座の三つ星などは航海の指標とされていた。

飛鳥坐神社 むすひの神石

飛鳥坐神社 むすびの神石

飛鳥坐神社には上の写真のような陰陽石がたくさん置かれている。
「むすびの神石」と呼ばれているが、これは道祖神と言ってもいいだろう。
関西にはどういうわけか男女の神像で表した道祖神はあまり見かけない。


⑥猿田彦神とニギハヤヒは同一神?

④に記した古事記の伝説をもう一度読んでみてほしい。
「猿田彦神は高天原から葦原中国までを照らす神」と記述されている。
これにぴったりな神名を持つ神がいる。

天照国照彦火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)である。

高天原を天、葦原中国を国とすれば、「高天原から葦原中国までを照らす神」とは「天照国照彦」となる。

天照国照彦火明櫛玉饒速日命とは①で記した星の神・ニギハヤヒのことである。

さらに④の伝説によると猿田彦神の故郷は伊勢だとある。
伊勢には天照大神を祀る伊勢神宮がある。
猿田彦神は天照大神と同一神なのではないか。
さらに猿田彦神とニギハヤヒ(天照国照彦火明櫛玉饒速日命)は同一神なので、ニギハヤヒが天照大神だということになる。

もともとニギハヤヒは太陽神・天照大神だった。
そしてニギハヤヒ=猿田彦神が天鈿女と和合した結果、星の神になったということではないか。

そういえば、ニギハヤヒを祀る磐船神社(大阪府交野市)のそばを流れる川は天の川といい、川をはさんで星田妙見宮の織女石と天田神社、中山観音寺跡の牽牛石と機物神社が対面している。
星田妙見宮の織女石や機物神社はベガ(織女星)に、天田神社や中山観音寺跡の牽牛石はアルタイル(牽牛星)になぞらえられ、
このあたりは天の川伝説発祥の地ともいわれている。

牽牛はニギハヤヒ=猿田彦神、織女は天鈿女であり、ニギハヤヒ=猿田彦神と天鈿女を和合させる呪術として、これらの神社や石は置かれているのかもしれない。

磐船神社 天の磐船

磐船神社(大阪府交野市) 
写真は御神体の天の磐船。
ニギハヤヒはこの天の磐船を操ってここに天下ったと伝わる。




ミシャグジ様の謎④ 『何度作っても神殿が焼けてしまう神社』 につづきます~



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[2019/08/20 10:15] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

私流 トンデモ百人一首 13番 筑波嶺の・・・ 『龍田川だったらよかったのに・・・・』 


八坂神社 かるた始め3

八坂神社 かるた始め


小倉百人一首 13番
筑波嶺(つくばね)の 峰より落つる 男女川(みなのがは)恋ぞつもりて 淵となりぬる/ 陽成院
(筑波山の峰から流れ落ちてくる男女川(みなのがわ)が、どんどん水嵩を増して淵になるように、恋心が募って深い淵となってしまった。)



①歌垣の聖地・筑波山


古代の日本には歌垣と呼ばれるフリーセックスの習慣があり、高橋虫麻呂と言う人がそのようすを歌に詠んでいる。

筑波嶺に登りて嬥歌会(かがい)をする日に作る歌一首 并せて短歌
(筑波の山に登って嬥歌会する日に作った歌一首、あわせて短歌)


鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 娘子壮士(をとめをとこ)の行き集ひ
かがふ嬥歌(かがひ)に 人妻に 我も交はらむ 我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より いさめぬわざぞ
今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな
(鷲が住む 筑波の山の 裳羽服津の津のほとりに、誘い合って 若い男女が集まる 嬥歌で 人妻とエッチしよう。私の妻と誰でもエッチしていいぞ。この山を支配する神が、昔から 許していることだ。今日だけは見苦しいなどとみるな。なにがあっても咎めるな)

反歌

男神に 雲立ちのぼり 時雨ふり 濡れ通るとも 我帰らめや
(男神に雲立ち上り 時雨が振り 濡れ通っても 私は帰らないぞ。)


②歌垣は荒魂(男神)に和魂(女神)を和合させて御霊にする神事?

なにやらすごい歌だが(笑)、現代フリーセックスを行う者との違いは、これが神が許した行事、神事であったということだ。

仏教の神・歓喜天は男女が和合したおすがたをしておられ、次のような伝説がある。

鬼王ビナヤキャは祟りをもたらす神であった。
そこへ十一面観音の化身であるビナヤキャ女神があらわれ、鬼王ビナヤキャに「仏法守護を誓うならあなたのものになろう」と言った。
鬼王ビナヤキャは仏法守護を誓い、ビナヤキャ女神を抱いた。




動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

↑ 相手の足を踏みつけている方がビナヤキャ女神である。

この物語は、御霊・荒魂・和魂という概念をうまく表していると思う。

神はその現れ方で、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるといわれる。
そして荒魂は男神を、和魂は女神を表すとする説があるのだ。
すると神の本質である御霊とは男女双体ということになると思う。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・男神
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・女神

歌垣の習慣は、荒魂(男神)に和魂(女神)を和合させることで、御霊に転じさせる呪術であったのではないだろうか。

③筑波山はなぜ紫峰と呼ばれているのか?

筑波山は茨城県つくば市にある標高877mの山で、М字型をしている。
西を男体山(標高871m)、東の女体山(標高877m)といい、筑波山神社の境内地ということである。
一度訪れてみたいが、関西在住の私はまだ行ったことがない。

雅称を紫峰(しほう)というそうだが、これには思い当たるところがある。

Mt.Tsukuba

西側から望んだ筑波山
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMt.Tsukuba.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/87/Mt.Tsukuba.jpgよりお借りしました。
作者 RESPITE (photo by RESPITE) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


関西で歌垣があった場所といえば、奈良県桜井市の海石榴市(つばいち)であるが、そこに歌碑が建てられていて、次のような歌が刻まれている。

紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰/万葉集 詠み人知らず
(海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。)


紫色に布を染めるためには、椿の灰を媒染剤とした。
紫とは道で出会った女、灰汁は男のことで、男と目があったとたん、女がぱっと美しく瞳を輝かせた、というような意味だろうか。

こんな歌もある。

紫草(むらさき)の にほへる妹を 憎くあらば  人妻ゆゑに 我恋ひめやも. /大海人皇子
( 紫草の紫色のように美しいあなたのことを憎いと思っているとしたら、どうして私はあなたのことがこんなに恋しいのでしょうか。あなたは人妻だというのに)


この2首を鑑賞すると、恋する女が美しく瞳を輝かせるようすを『紫』といっているように思える。

筑波山は男体山と女体山からなる。
このような山の形を、古の人々は男女双体であると考えたのだろう。
女体山は男体山に恋をして瞳を輝かせている。そこから紫峰と呼ばれたのではないだろうか。

④つりどのの皇女は光孝天皇の第3皇女

この歌には「つりどのの皇女につかはしける」と詞書がついている。
「つりどのの皇女」とは「綏子内親王(?-925)」のことである。
綏子内親王は光孝天皇(830-887)の第3皇女である。

⑤退位させられた天皇

和歌は歴史と重ね合わせて鑑賞するべきというのが私流。
簡単にこのころの歴史についてみてみることにしよう。

陽成天皇(869-949)は生まれたばかりで皇太子となり、876年、9歳で清和天皇の譲位を受けて即位した。
幼い陽成天皇の摂政には高子の兄・藤原基経がついた。

883年、陽成天皇の乳兄弟の源益が殴り殺されるという事件がおき、記録にはないものの陽成天皇が犯人ではないかと考えられている。(犯人ではないとする説もある。)
884年、陽成天皇は藤原基経にせまられて退位した。基経は55歳の光孝天皇を擁立する。
光孝天皇は自身の皇位を一代限りのものとして、すべての皇子・皇女を臣籍降下させた。
このとき、光孝天皇の皇女・綏子内親王(つりどのの皇女)も臣籍降下した。

887年、光孝は病を患い、基経と光孝は次期天皇とするため、光孝の子・源定省を皇籍に復帰・立太子させた。
光孝天皇はその日のうちに崩御され、定省親王(宇多天皇)が即位した。
宇多天皇は、光孝天皇が寵愛していた内侍・藤原淑子の猶子であったので、皇太子に選ばれたのではないかといわれている。
このとき、光孝天皇の皇女・綏子内親王(つりどのの皇女)も皇族に復帰した。

宇多天皇は897年に皇子の醍醐天皇に譲位する。
こうして、皇統は光孝―宇多―醍醐とひきつがれていき、文徳―清和―陽成の系統に戻ることはなかった。

大鏡には陽成院が宇多のことを「今の天皇はかつて私の臣下ではないか」と言ったとある。

 
(54)仁明天皇
 
(55)文徳天皇
 
(56)清和天皇
 
(57)陽成天皇
 
(源)清蔭陽成源氏へ〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
惟喬親王
 
 
貞純親王
 
(源)経基清和源氏へ〕
 
 
 
 
 
(58)光孝天皇
 
(59)宇多天皇
 
(60)醍醐天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
人康親王
 
藤原基経
 
 
真寂法親王
(斉世親王)
 
 
 
 
 
敦実親王
 
(源)雅信宇多源氏へ〕
 
 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%88%90%E5%A4%A9%E7%9A%87より引用

⑦陽成天皇の父親は在原業平だった?

陽成天皇は清和天皇の皇子で母親は藤原高子である。
藤原高子は清和天皇の女御となる以前、在原業平と駆け落ちしたとの説話が伊勢物語などにみえ、このため陽成天皇の父親は清和天皇ではなく在原業平であるとする説もある。
これについては前回の私流 トンデモ百人一首 ⑰ちはやぶる・・・ 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』  でもお話しした。

陽成天皇は殴殺事件をおこして退位させられているが、通常ならば叔父の藤原基経は殴殺事件など握りつぶしたのではないかと思う。
甥が皇位についているというのは、基経にとって有利だと思うからだ。
それなのに退位させ、、文徳―清和―陽成の皇統を断ったのは、陽成天皇が業平の子だったからではないかと思ったりする。
基経は業平と駆け落ちをした藤原高子とも大変仲が悪かった。
これも高子が清和天皇の皇子と偽って業平の子供を生んだためではないかと思われる。

さらに陽成天皇の乳母は紀全子、宮人にも紀氏の女性がおり、陽成天皇は紀氏と関係が深かった。

私は陽成天皇の父親は在原業平ではないかと考えているが、業平は紀名虎の娘を妻にしており、紀静子を母親に持つ惟喬親王の寵臣であった。
陽成天皇と紀氏のつながりの深さは、陽成天皇と在原業平が親子だからではないだろうか。

百人一首かるた

⑧「みなの川」「こひぞつもりて」「淵となりける」

「みなの川」「こひぞつもりて」「淵となりける」について、『千人万首』は次のように記している。

◇みなの川 『宗祇抄』によれば、「桜川へおつる」川。桜川は霞ヶ浦に注ぐ川。後世、男女二峰を有する山に因んで「男女の川」とも書かれる。「みな」は「蜷」(泥中に棲むタニシなど小巻貝の類)と同音なので、そこから次句の「こひぢ」(泥濘)と同音を持つ「こひ」を導く序となる。

◇こひぞつもりて 恋心が積もって。「こひ」は「泥(こひぢ)」を連想させるため、「泥濘が積み重なって」の意を兼ねる。

◇淵となりける 「淵」は水が淀んで深くなっているところ。「瀬」(流れが早くて浅いところ)の対意語。「泥水が積もり積もって深い淀みとなった」「恋が積もり積もって、淵のように深く淀む思いになった」の両義

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/youzei.html より引用

泥水が積もれば深い淵ではなく、浅瀬になるのではないか、と思ってしまうが、
泥水が積もって土手になれば水が流れず淵になると言うことを言っているのかもしれない。

⑨龍田川の歌を詠めばよかったのに・・・・

龍田河 もみぢみだれて 流るめり 渡らば錦 なかや絶えなむ(平城上皇・・・在原業平の祖父)

この歌を詠んだ平城天皇は薬子の乱をおこしたが嵯峨天皇に負け、そのせいで業平の父の阿保親王は流罪となった。
そして帰京後、自分の子供(在原行平・在原業平ら)の臣籍降下を願い出て許された。(こうすることによって反逆の意思がないことを示そうとしたのだろう。)

上の歌は、龍田川を皇統に喩え、「私が「薬子の変」をおこしたため、私の子孫は皇位継承することができないだろう」という意味で詠んだものではないかと思う。


ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

「貞明親王(のちの陽成天皇)は実は清和天皇の子ではなく、私(在原業平)と藤原高子の子なのだ。
祖父・平城上皇が薬子の変を起こしてちぎれてしまった皇位継承の血筋が、貞明親王(のちの陽成天皇)が皇太子になったことによって括られた。こんなことは神代にもなかったことだ」

陽成院の歌は上の2首を受けたものだと思う。


筑波嶺の峰よりおつる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりける(陽成院)

筑波山の男体山は陽成天皇、女体山は綏子内親王(つりどのの皇女)に喩えたのだろう。
筑波山は古来より歌垣で有名なところである。
陽成天皇はこの歌を綏子内親王(つりどのの内親王)に送ったというのだから、
ストレートにいえば陽成天皇が綏子内親王に「ねえ、君。エッチしようよ~」という意味ではないだろうか。
ただ、陽成天皇が単に綏子内親王とエッチしたかったというだけの歌ではないと思う。
陽成天皇は綏子内親王の子供がほしかったのだ。
陽成天皇は子供が好きだったの?なんて考えてはいけない。
綏子内親王のような身分の高い女性との間にできた子なら、皇太子になれる可能性がある。
陽成天皇は自分の子どもを天皇とし、自分の血を皇統に残したかったのだ。

在原業平が自分の子供を天皇として、自分の血を皇統に残そうとしたように。
恋が積もってできた淵は、自分の子供を守ってくれる淵というわけだろう。

しかし、残念!
平城上皇、在原業平が皇位継承の血筋に喩えたのは龍田川だった。筑波山からながれるみなの川ではない。
そして皇位継承の血筋は流れなくてはいけなかった。淵だと水がながれない。

陽成院と綏子内親王(つりどのの内親王)の間に子供が生まれることはなく、先に述べたように皇統が戻ることはなかった。

龍田川 紅葉

龍田川



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陰陽 黒と白⑪大友家持、白い神から黒い神に転じる? 



陰陽 黒と白⑩ 大友黒主の正体は大伴家持だった? よりつづきます~。


祇園祭 黒主山 御神体

祇園祭 黒主山 ご神体(大友黒主)


①大友黒主の正体は大伴家持だった?

前回の記事、陰陽 黒と白⑩ 大友黒主の正体は大伴家持だった? で、大友黒主とは大伴家持のことではないかと書いた。

その理由を簡単にまとめておこう。

a.古今和歌集真名書に『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』とあるが、百人一首で猿丸太夫は5番で、その次の6番は大伴家持である。(百人一首のそれぞれの歌には1~100までの番号がふられている。)

b.大友黒主と大伴家持はよく似た歌を詠んでいる。

白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)

白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。)


c.大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座したとして、死後、墓から死体が掘り出されて子孫とともに流罪となっている。
大伴家持の死体は腐敗し、蛆がたかったような状態であったのではないだろうか。

真名序に『(大友黒主は)頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。』とあるが、逸興とは「死体が掘り出されたこと」、『鄙し』は『死体が腐って卑しい」という意味ではないか。

d.http://www.sogi.co.jp/sub/kenkyu/itai.htm
上記サイトによれば、死体は次のように変化するという。

腹部が淡青藍色に変色(青鬼)
   ↓
腐敗ガスによって膨らみ巨人化。暗赤褐色に変色。(赤鬼)
   ↓
.乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)
   ↓
骨が露出

鬼という漢字は死者の魂をあらわすものだとされる。
大伴黒主という名前は、家持の死体が黒鬼のような状態になっていたところからつけられたのではないか。

e.小野小町と大伴黒主が宮中で歌合をすることになった。
歌合せの前日、大伴黒主は小町の邸に忍び込み、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きした。

蒔かなくに 何を種とて 浮き草の 波のうねうね 生ひ茂るらん
(種を蒔いたわけでもないのに何を種にして浮草が波のようにうねうねと生い茂るのでしょうか。)

当日、紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らが列席して歌合が始まった。
小町の歌は天皇から絶賛されるが、黒主が小町の歌は『万葉集』にある古歌である、と訴えて、万葉集の草紙を見せた。
ところが小町が草紙に水をかけると、その歌は水に流れて消えてしまった。
黒主は昨日盗み聞いた小町の歌を万葉集の草紙に書き込んでいたのだった。
策略がばれた黒主は自害を謀るが、小町がそれをとりなして和解を祝う舞を舞う。(草紙洗い)


大伴家持は優れた歌人であり、万葉集を編纂した人物でもあった。
そして謡曲・草紙洗に登場する家持以外の歌人、小野小町・紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らは古今和歌集の歌人である。
『草紙洗い』において、大友黒主=大伴家持は万葉集の中に小町の歌を書き入れているが、
『書き入れる』というのは『編纂する』という意味で、誰にでもできることではない。
万葉集を編纂した大伴家持(大友黒主)だからこそ小町の歌を万葉集に書き入れることができたというのが『草紙洗い』のテーマではないか。
小野小町は「私は『古今和歌集』の時代の歌人なので、私の歌を『万葉集』に書き入れることはできませんよ」と大伴家持を諭したということ話なのではないか。

f.今上天皇に仕える臣下が桜を見ようと江州志賀の山桜を見ようと山道を急いでいたところ、薪に花を添え花の陰に休む老人と男に出会った。
この老人が大友黒主で、和歌の徳を語って消え去るが、臣下の夢の中に現れて舞を舞う。(志賀) 


黒主は和歌の徳を説いているが、これなども万葉集を編纂した大伴家持にふさわしい行為だといえるのではないか。

一言主神社 一陽来復祭

一言主神社 一陽来復祭に登場した赤鬼・青鬼・黒鬼

②かささぎの 渡せる橋に 置く霜の

猿丸太夫(5番)の次に大伴家持(6番)の歌をもってきた藤原定家は、古今集真名書の『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』の意味をわかっていたのだろう。

その藤原定家は百人一首に大伴家持の次の歌を採用している。

かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける/大伴家持
(年に一度、天の川に鵲が橋をかけ、その橋を渡って牽牛と織姫が逢瀬を楽しむという。その橋のようにみえる宮中の階段に白い霜がおりているところを見ると、もうすっかり夜がふけてしまった。)


「宮中の階段に霜がおりているのを天の川にかかる橋に見立てた」ととるのは、
『大和物語』百二十五段の壬生忠岑の歌で御殿の御階(みはし)()を「かささぎのわたせるはし」によって喩えていることによるもので、賀茂真淵が唱えた。

「霜の白き」は天上に輝く星が白いのを霜に喩えたとする説もある。

観音山公園 牽牛 七夕飾り

中山観音寺跡 牽牛と七夕飾

③男女双体は荒魂を御霊に転じさせる呪術

まずポイントとして押さえておきたいのは、この歌が天の川伝説、すなわち牽牛と織姫が年に一度の逢瀬を楽しむとされる七夕に関する歌だということである。

牽牛と織姫が逢瀬を楽しむというのは、男女が和合するということだ。

仏教の神・歓喜天は男女が和合したおすがたをしておられ、次のような伝説がある。

鬼王ビナヤキャは祟りをもたらす神であった。
そこへ十一面観音の化身であるビナヤキャ女神があらわれ、鬼王ビナヤキャに「仏法守護を誓うならあなたのものになろう」と言った。
鬼王ビナヤキャは仏法守護を誓い、ビナヤキャ女神を抱いた。




動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

↑ 相手の足を踏みつけている方がビナヤキャ女神である。

この物語は、御霊・荒魂・和魂という概念をうまく表していると思う。

神はその現れ方で、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるといわれる。
そして荒魂は男神を、和魂は女神を表すとする説があるのだ。
すると神の本質である御霊とは男女双体と言うことになると思う。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・男神
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・女神

男女和合は荒魂を御霊に転じさせる呪術だったのではないだろうか。

そして鬼王ビナヤキャを牽牛、ビナヤキャ女神を織姫に置き換えてもいいだろう。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・牽牛・・・男神
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・織姫・・・女神


つまり、牽牛と織姫の逢瀬は、荒魂を御霊に転じさせる呪術であったのではないか、ということである。

④白黒コントラストの鳥・鵲

次に注意したいのは、鵲という鳥についてである。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

上の動画を見ればわかるとおり、鵲はくっきりした白黒のコントラストを持つ鳥であり、太極図を思わせる。

File:Yin and Yang.svg

太極図

ウィキペディア(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yin_and_Yang.svg?uselang=ja) よりお借りしました。
ありがとうございます。

太極図とは「陰が極まれば陽となり、陽が極まれば陰となる」という道鏡の考え方をあらわすもので
白は陽、黒は陰とされる。

男は陽、女は陰とされるので、男が白=荒魂で、女が黒=和魂だろう。
そう考えると、太極図は歓喜天を図案化したものだと言っていいかもしれない。

さきほど、男神は荒魂で女神は和魂とする説があるといったが、荒霊を白、和魂を黒であらわすこともあったのではないだろうか。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・牽牛・・・男神・・・・陽?・・・白?
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・織姫・・・女神・・・・陰?・・・黒?


機物神社 七夕飾り

機物神社 七夕祭

⑤霜は死体に振られた塩をあらわす?

さらに「置く霜の」という語にも注意したい。
日本書紀に「トガノの鹿」という物語がある。

仁徳天皇が皇后と涼をとっているとトガノの方から鹿の鳴き声が聞こえてきた。
天皇はその鹿の鳴き声をしみじみと聞いていたが、あるとき急に鳴き声がしなくなった。
翌日、佐伯部が天皇に鹿を献上したが、その鹿は天皇が夜な夜な鳴き声を聴くのを楽しみにしていた鹿だった。
気分を悪くした天皇は佐伯部を安芸の渟田に左遷した。

雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。
雌鹿は夢占いをして、
『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』
と答えた。
翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。

鹿の夏毛には白い斑点がある。この斑点を霜や塩に喩えたのだろう。

そして、謀反の罪で死んだ人には塩が振られることがあり、鹿は謀反人を比喩したものではないかとする説がある。
藤原種次暗殺事件の首謀者として死体が掘り出され、流罪となった大伴家持はまさしく謀反人である。

大仏殿 鹿

東大寺大仏殿 鹿

⑤白い神だったはずなのに黒い神になってしまった大伴家持

家持の歌を私流に現代語訳してみよう。

かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける/大伴家持

まるで太極図のように見える鵲。
また鵲は白い神(荒霊)と黒い神(和霊)が和合しているかのようにも見える。
その鵲が天の川に橋をかけ、年に一度牽牛と織姫が逢瀬を楽しむ。

鬼王ビナヤキャは祟るのをやめて仏法守護を誓いビナヤキャ女神を抱いた。
歓喜天は鬼王ビナヤキャとビナヤキャ女神の男女双体の神で、歓喜天は鬼王ビナヤキャがビナヤキャ女神の性的魅力によって骨抜きにされ、祟る力を失ってしまったの図なのだ。
この歓喜天と同じく、牽牛は織姫の性的魅力によって骨抜きにされ、祟る力を失ってしまう。
それが七夕なのだ。
(牽牛は牛をひく童子である。牛=丑、また童子は八卦で艮/丑寅の符である。丑寅は方角では鬼がやってくる方角、鬼門である。よって牽牛は祟りをもたらす鬼と考えられる。)

その天の川に鵲がかける橋のように見える宮中の階段に霜が白く輝いている。

霜は日本書紀のトガノの鹿を思わせる。
鹿は全身に霜が振る夢を見るが、霜だと思ったのは実は塩で、鹿は殺されて塩漬けにされているのだった。
謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあった。
鹿は謀反人の喩えである。
藤原種継暗殺事件の首謀者だと疑われている私(大伴家持)もまた謀反人である。

宮中に降りた霜がこんなにも白く見えているということは、私はすでに死んで夜の世界にいるということなのだろう。
そして私は鵲に似た太極図があらわすように、陽が極まって陰となり、白い神(荒魂)から黒い神(和魂)へと変わっていくのだ。


わずか31文字の中に、太極図、天の川伝説、トガノの鹿の伝説なども想像させ、実に味わい深い歌である。

白峯神宮 小町踊2

白峯神宮 小町踊(七夕に小町踊を踊る風習があった。)

⑥著作権がなかった古の和歌


秋の田の  仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。)


天智天皇が詠んだこの歌はもともとは万葉集の詠み人知らずの歌であるが、天智天皇が詠むにふさわしい歌だということで
天智天皇御作とされている。

同様に、「かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」も、家持が詠んだ歌ではないが家持が詠むにふさわしい歌ということで家持が詠んだ歌とされたのかもしれない。

この歌が家持自身が詠んだものでまちがいなければ、家持の発する言葉にはとんでもない言霊があって、言葉が実現してしまったということになるかもしれない。

穂谷 稲穂

枚方市穂谷

⑦大友黒主はなぜ黒い神なのか?

⑤に記した現代語訳で、「白い神」とは大伴家持、「黒い神」とは大伴黒主のことである。

大伴家持はすでに死んで埋葬されていたにもかかわらず、藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、死体が掘り出され、その死体は流罪となった。

http://www.sogi.co.jp/sub/kenkyu/itai.htm
上記サイトによれば、死体は次のように変化するという。

腹部が淡青藍色に変色(青鬼)
   ↓
腐敗ガスによって膨らみ巨人化。暗赤褐色に変色。(赤鬼)
   ↓
.乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)
   ↓
骨が露出

掘り出された家持の死体は黒鬼となっていたため、家持は大友黒主とよばれたのではないかと私は推理しているのだ。

しかし、つじつまの合わない点がある。
性別天体光度天気生死
女(和魂?)
男(荒魂?)太陽

大伴家持は男なので陽、白い神といってもいいが、同一人物だと考えられる大友黒主は、黒い神である。
黒は陰をあらわし、性別では女性を表す。

これはいったいどういうわけだろうか?

法輪寺 針供養

虚空蔵法輪寺 針供養 織姫

陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神 へつづく~
トップページはこちらです→
陰陽 黒と白① 獏は白黒モノトーン  


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[2018/09/26 20:18] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)

人形の涙⑨ 吉田神社 追やらい神事 『弓で射られる方相氏』 

人形の涙⑧ 手向山八幡宮 お田植祭 『御田植祭は追儺式を陽に転じた神事だった?』 よりつづく~

東一条通の北側は京都大学メインキャンパス、南側は吉田南キャンパスであり、東一条通は京都大学を分断する形で東西に伸びているが、それはそのまま吉田神社への参道となっている。

参道には露天商がずらりと並び、節分詣の参拝者で賑わっていた。
中には節分の縁起物である鰯を焼く店もあり、生臭い煙がたちこめていた。

京大志望の受験生は吉田神社に合格祈願に行くと必ず落ちる、という都市伝説がある。
一般には、吉田の神様は隣にある京大の学生の日ごろの行いをいつも見ていて、京大生にいい印象を持っていないからだなどと言われている。

しかし私はこのような都市伝説が生じたのは、吉田神社が藤原氏の神社であるからではないかと思う。
吉田神社は859年に藤原山蔭が藤原氏の氏神である奈良の春日大社の神を勧請して創祀した。
一方、学問の神とされるのは菅原道真である。
菅原道真は左大臣・藤原時平の讒言を受けて大宰府に左遷となり、失意のうちに死亡している。
道真は藤原氏を憎んでいるにちがいない。
それで藤原氏の神を祀る吉田神社を参拝する受験生は,道真公のご利益が受けられないと考えられたのではないだろうか。

吉田神社 方相氏 と しん子

冬の短い日が沈み、吉田神社の境内が闇に包まれると鬼やらい神事が始まった。
隣にいた少年が「鬼が来た!」と叫んだ。

赤い顔、金色に輝く四つの目、頭頂にはえた一本の角。赤い袍に高下駄を履き、右手には三叉に分かれた鉾を、左手には大きな楯を持っている。

しかしやってきたのは鬼ではない。
これは方相氏と呼ばれるものである。鬼に似ているが、方相氏は鬼を祓う正義の味方である。
そのあとに10人の童子(シン子と呼ばれる。シンの字は人偏に辰。)が続く。

吉田神社 節分祭 赤鬼

吉田神社 節分祭 青鬼

吉田神社 節分祭 黄鬼

次に赤鬼・青鬼・黄鬼が現れ、参拝者たちをおどす。
そして方相氏vs鬼の戦いとなる。
3匹の鬼はこん棒を持って方相似氏に向かっていくが、方相氏が鉾を振り下ろすと腰砕け状態となり、あたふたと山へと逃げ帰って行った。

吉田神社 節分祭 鬼と方相氏

方相氏は中国の天神、蚩蚘(シュウ)ではないかという説がある。
蚩蚘は炎帝神農氏の子孫であり、兵器を発明し、霧をあやつる力を持つ神である。

『帰蔵』という書物にには、『蚩蚘は八肱(八つの膝)、八趾(八つの足)、疏首(別れた首)を持つ』とある。
『疏首』というのは、首が二つあるということだろう。
私は蚩蚘とは二頭の獣が合体した神なのだと思う。
そう考えると蚩蚘が『八肱(八つの膝)、八趾(八つの足)』をもっていることの説明もつく。
獣は四趾(四つ足)である。四趾×2頭=八趾。
一本の脚に一肱(ひとつの膝)がある。獣は四足(四趾)なので四肱(四つの膝)がある。四肱(四つの膝)×2頭=八肱となる。

また『述異記』には『銅の頭に鉄の額、鉄石を食し、人の身体、牛の蹄、四つの目、六つの手を持つ』とある。
『四つの目』とあるのも二頭が合体しているからだろう。
二頭を合わせると足は8本だが、人の身体をしているとあるので、8本の足のうち2本が脚で、残りの6本が手(腕)ということだろう。

吉田神社 方相氏 と しん子

枕草子や源氏物語などに追儺式に登場する方相氏の記述がある。
それらの記述から平安時代の追儺式は次のようなものだったと考えられている。

追儺式は戌の刻(午後八時頃)に始まる。
天皇は紫辰殿に出御し、陰陽師が祭文を読みあげる。
次に方相氏が二十人ほどのシン子を従えて登場する。
方相氏は四つ目の黄金の面を着け、真っ赤な衣装(或いは上が黒、下が赤とも)を纏う。
方相氏は大舎人の中から体格のいいものが選ばれた。
方相氏は矛と盾を持ち、矛を地面に打ち鳴らして『鬼やらい、鬼やらい』と唱えて宮中を歩き回る。
その後に殿上人たちが桃の弓と葦の矢を持って続いた。


桃の弓と葦の矢を持つのは、桃や葦に邪気を祓う力があるとされていたためである。

平安時代の追儺式と、吉田神社の追儺式には大きな違いがある。
もう一度、平安時代の追儺式についての記述を読んでほしい。
そう、平安時代の追儺式には方相氏は登場するが、鬼は登場しないのだ。
平安時代には鬼は目に見えないものとして追儺式が行われていたのだろう。
吉田神社のように、追儺式に鬼が登場するようになるのは、もう少し後の時代のことだと考えられる。

吉田神社 節分祭 赤鬼

平安時代後期の人物、大江匡房の『江家次第』には『殿上人長橋の内に於いて方相を射る』とある。
なんと鬼を祓う正義のヒーロー、方相氏を射るというのである。

さらには室町時代の『公事根源』には、『鬼といふは方相氏の事なり。四目ありておそろしげなる面をきて、手に盾・鉾を持つ。』とある。

方相氏は怖そうな顔をしているので鬼と間違えられたのだろうか。
そういえばさきほど方相氏をみて「鬼が来た」と言った少年がいたではないか。
しかし私は、『江家次第』や『公事根源』が方相氏と鬼を混同したのではないと思う。

前回の記事の中で私は次のように書いた。
平安時代の延喜式には
『大寒の日に宮中の12の門にそれぞれ土牛を引くの童子を象った人形を立てる。これを立春の日の前夜(節分の夜)に撤去する』
とあると。

牛は丑、童子は八卦では艮(丑寅)を表す。
干支で12か月を表現すれば、丑は12月、寅は1月である。
牛は丑で12月を、童子は丑寅で12月と1月のあいだ、つまり1年の変わり目を表すものだと考えられる。
その像をなぜ大寒の日に門にたて、節分の夜に撤去するのだろうか。
それは『土牛を引く童子の像』が『身代わり人形』で、その像の中に冬の気を吸い込むことで、冬の気が宮中に入るのを阻止すると考えられたためではないだろうか。

ここから発展したのが方相氏による追儺式なのではないだろうか。
動かない人形よりも動く方相氏によって、もっと積極的かつ徹底的に冬の気を吸い込ませようというのだろう。
そして方相氏が冬の気を体内いっぱいに吸ったところで弓を射て、冬の気を一気に退治するという意図があったのではないだろうか。

息を吹きかけて穢れを移され、川や海に流されて葬られる人形と、方相氏は同じ役割を担わされているのだ。

下鴨神社 流し雛

下鴨神社 雛流し


貴船神社 夏越祓

貴船神社 名越の祓

方相氏の正体は2頭の牛が合体したものだと考えられる。
そしてシン子は『童子』である。
つまり、シン子を引き連れた方相氏とは『牛を引く童子の像』と同じ意味を持つものだと考えられる。
方相氏は牛なので、干支の丑、12月をあらわしている。
シン子は童子で、童子は八卦では艮(丑寅)をあらわしている。
丑は12月で寅は1月なので、童子=シン子は1年の変わり目をあらわすもの、ということになる。
つまり、方相氏とシン子は目に見えない冬の気を視覚化したものだとも考えられる。

大寒の日、諸門にたてられた牛と童子の像は節分の日に撤去される。
撤去されたのち、どうされたのかは記述にないのでわからないが、流し雛のように川や海に流されたのかもしれない。
あるいは炮烙(ほうらく)のように割られるか。

壬生寺や千本閻魔堂では節分の日に炮烙を奉納し壬生寺は4月に、千本閻魔堂では5月の狂言の舞台で割る。

千本閻魔堂 炮烙割り 
千本閻魔堂 炮烙割り

方相氏とシン子も土牛や童子の像と同じ性質のもの、身代り人形だったと考えられる。
すなわち、その体内に冬の気を吸い込んだのち、弓で射られて殺される必要があったのではないだろうか。
それで、『江家次第』に『方相を射る』と記されているのだと思う。
『江家次第』を表した大江匡房は鬼と方相氏を混同したわけではないと思う。

『公事根源』に、『鬼といふは方相氏の事なり。』とあるのも、間違いだとは言い切れないと私は思う。

すでに見たとおり、方相氏は二頭の牛が合体した神だと思われる。
なぜ二頭の牛が合体しているのか。

密教の神・大聖歓喜天にこんな話がある。

インドのマラケラレツ王は大根と牛肉が大好物であった。
牛を食べつくすと死人の肉を食べるようになり、死人の肉を食べつくすと生きた人間を食べるようになった。 
群臣や人民は王に反旗を翻した。
すると王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまった。 
その後国中に不幸なできごとが蔓延し、それらはビナヤキャの祟りであるとされた。
そこで十一面観音はビナヤキャの女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われた。
ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、『自分のものになれ』と命令した。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓った。 


Icon of Shoten

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AIcon_of_Shoten.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Icon_of_Shoten.jpg よりお借りしました。
作者 不明 (平安時代の図像集『別尊雑記』(心覚 撰)巻 42より) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

神はその表れ方によって御霊(神の本質)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂〈神の荒々しい側面)の3つに分けられ、女神は和魂、男神は荒魂だとする説がある。
とすれば、御霊とは男女双体ということになると思う。

大聖歓喜天の話は、この御霊・和魂・荒魂という概念にぴたりとあてはまる。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体・・・大聖歓喜天・・・・・方相氏(二頭の牛が合体している。)
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・ビナヤキャ女神・・・雌牛
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・ビナヤキャ・・・・・雄牛

大聖歓喜天の話から、男女を和合させるというのは、荒ぶる神を仏法守護の神に転じさせる呪術であったと考えられる。

牛の男神は1柱では鬼であるが、牛女神をあわせて男女双体にすれば、仏法守護の神に転じる。
それが方相氏の正体だと私は思う。



人形の涙⑩ 貴船神社 夏越の祓 『夏越の祓とユダヤの過越祭』 へつづく~
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[2018/05/11 09:23] 人形の涙 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町⑭ 西陣の聖徳太子信仰 その2 

建築の神が住む町⑬ 西陣の聖徳太子信仰 その1  より続く~


①大報恩寺の伝説に登場する大工の棟梁とは聖徳太子だった?

北野天満宮から約450mほどいったところに大報恩寺があり、次のような伝説が伝えられている。

千本釈迦堂の本堂を建てるとき、長井飛騨守高次(ながいひだのかみたかつぐ)という大工の棟梁が謝って柱を短く切ってしまった。
棟梁はどうしたものかと困り果てていたが、妻の阿亀(おかめ)が、全ての柱を短く切って升型の受けを作ってはどうかと助言した。
棟梁はおかめの助言に従って無事本堂を完成させることができた。
妻のおかめは夫の失敗が人に知れないようにと、本堂の完成を待たずに自殺した。

大報恩寺 おかめ像


大工の棟梁、長井飛騨守高次という人物が実在したとは思われない。
というのは、飛騨守という役職についている役人が兼業で大工の棟梁をやっているとは思えないからだ。

長井高次とは「長い高継ぎ」という意味ではないかと思う。
「高接ぎ」とは果樹などを接ぎ木する際に、台木(接ぎ木をするとき上部にする植物体を穂木、下部にする植物体を台木という)の高い位置に接ぐ方法のことである。

本堂の柱を植物の木に喩えたのではないだろうか。
升受けは柱の高い位置についており、まるで接ぎ木の高接ぎのようではないか。
さらに柱はとても長い。
それで、大工の神の名前を「長い高接ぎ」から「長井高次」としたのではないだろうか。

大報恩寺 柱の升組
  
大報恩寺本堂 矢印が示す場所に升受けがある。

そして阿亀(おかめ)とペアになっている神といえばひょっとこだが、ひょっとこの語源にはいくつかの説がある。

a.竈(かまど)の火を竹筒で吹く『火男』が訛った。
b.口が徳利のようであることから『非徳利』からくる。
c.岩手県奥州氏の江刺地方の民話に登場するヘソから金を生む奇妙な顔をした子供の名前『ヒョウトク』が訛った。

cの民話とは次のような物語である。

強欲な婆さんがヒョウトクのへそを火箸でぐりぐりといじったためにヒョウトクは死んでしまった。
ヒョウトクをかわいがっていた爺さんはヒョウトクの死をそれは悲しんだ。
そんな爺さんの夢枕にヒョウトクが立ち、『自分の顔の面を竈の前の柱にかけておけば裕福になるだろう』と告げた。
そのとおりにしたところ、爺さんは大金持ちになった。


ヒョウトクという名前は聖徳(ショウトク)に似ている。
もしかして、ヒョウトクとは聖徳太子のことではないか?

聖徳太子は建築の神として信仰されており、世界最古の企業・金剛組ではの朝礼の際、厨子をあけ聖徳太子像を拝んでいる。
また太子の忌日である2月22日には木匠の間で講が営まれている。

大報恩寺の伝説に伝わる大工の棟梁とはひょっとこ=ひょうとく=聖徳太子のことなのではないだろうか。

そういえば大報恩寺の境内の隅に布袋像があるが、布袋は弥勒菩薩の化身とされる。

千本釈迦堂 布袋像

大報恩寺 布袋像

そして秦氏の氏寺・広隆寺は聖徳太子から授かった仏像を祀るため、秦河勝が建立したと伝わる。
広隆寺には美しい弥勒菩薩半跏思惟像があるが、秦河勝が聖徳太子から授かった仏像とはこの仏像のことではないだろうか。


File:Maitreya Koryuji.JPG

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMaitreya_Koryuji.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/62/Maitreya_Koryuji.JPG よりお借りしました。

作者 日本語: 小川晴暘 上野直昭 English: OGAWA SEIYOU and UENO NAOAKI [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


私は「秦河勝が聖徳太子から仏像を授かった」とは「秦河勝が聖徳太子の霊が宿る仏像を授かった」と言う意味ではないかと思う。

そして、布袋は弥勒菩薩の化身とされている。
大報恩寺の布袋の石像は、大報恩寺に聖徳太子信仰があったことを表しているのではないだろうか。


②大報恩寺の太子堂と北野経王堂

大報恩寺の門を入ったところに小さなお堂があった。
お堂の上部には、なんと、太子堂と記した額がかけられているではないか。
『ひょっとこ=ひょうとく=聖徳太子』という推理はそうトンデモ説ではないかもしれない。

お堂の額には太子堂とあるが、説明板は「北野経王堂 願成就寺」となっており、次のような内容が記されていた。

1392年、足利義満は明徳の乱の戦没者を悼んで北野社の社頭に北野経王堂 願成就寺という大寺を建てた。
北野経王寺 願成就寺では、毎年10月、10日間に渡って万部経会を行って戦没者を供養していた。
江戸時代に荒廃し、1671年に解体縮小されて小堂となったのがこのお堂である。

説明板には、このお堂になぜ太子堂という額がかけられているのかの説明はないが、太子堂の太子とは聖徳太子のことだろう。

そして太子堂にはおかめ御幣がたくさん置かれてあった。

大報恩寺 太子堂 おかめ御幣




北野経王堂 願成就寺

おかめ御幣は関西では上棟式などに用いられるものであり、北野経王堂願成就寺(太子堂)には、明徳の乱の戦没者のほか、建築の神を祀っていることを物語っているかのようである。

建築の神といえば聖徳太子である。

 さらに、「北野経王堂 願成就寺」は北野社 社頭にあったという。
北野社とは北野天満宮のことだ。

建築の神が住む町⑬ 西陣の聖徳太子信仰 その1  で私は次のように述べた。

a.北野天満宮の新春奉納狂言で毎年演じられる「福の神」では、出雲の神が松尾の神にお酒を捧げてから飲み干す。
北野天満宮では秦氏の神を崇敬しているかのようである。

b.北野天満宮の北野追儺狂言は北野天満宮の摂社・福部社の神が鬼を追いはらうが、服部と書いてフクベと読むこともある。
服部氏は秦氏の一派であり、福部社は秦氏の神を祀っているように思える。

c.北野天満宮の摂社の地主神社は、菅原道真がここに祀られる以前から鎮座していた神である。

d.北野天満宮から400mほど離れたところに北野廃寺跡があるが、秦氏の氏寺・広隆寺の前身の蜂岡寺とする説がある。

e.広隆寺の本尊は聖徳太子である。地主神社は蜂岡寺の鎮守で、聖徳太子を御祭神としているのではないか。

とすると、その北野天満宮の社頭にかつて建てられていた「北野経王堂 願成就寺」も聖徳太子信仰の厚い寺であった可能性はある。
それで、「北野経王堂 願成就寺」の廃材を用いて建てられた小堂に「太子堂」の額が掲げられているのではないだろうか。

③待乳山聖天の大根供養と丁徳寺・大報恩寺の大根焚

東京の待乳山聖天では1月7日に大根供養を行っている。
聖天さんの好物は大根とされているので、大根供養を行っているのだろう。

待乳山聖天 ふろふき大根

聖天さん(歓喜天)とは鬼王ビナヤキャと十一面観音の化身であるビナヤキャ女神が抱きあう男女双体のみほとけである。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!


大根は直根の先端にある生長点が石ころなどにあたると、側根が肥大して二股になってしまうことがよくあるそうである。
そうした二股大根の形が男女双体の神を思わせるところから、大根が聖天さんの好物であるとされているのではないかと思う。

待乳山聖天 二股大根

待乳山聖天

そして、京都に浄土真宗大谷派の了徳寺という寺がある。
了徳寺では毎年12月9日、10日に報恩講が行われ、この日には大根炊の授与もある。

了徳寺 大根焚

了徳寺 大根焚


1252年、親鸞が了徳寺付近を訪れたとき、人々が塩味の大根でもてなしたという言い伝えがあり、大根焚はそれに基づく行事とされる。
私は大根焚は、聖天さんの大根供養からくる行事ではないかと思う。

というのは、親鸞には次のような伝説があるからである。

親鸞が六角堂に籠ったとき夢の中に聖徳太子があらわれ、「私が女に生まれ変わってあなたの妻になろう」と言った。


またしても聖徳太子の登場である。

親鸞は僧侶でありながら、妻帯した。
それで男女双体の聖天さんとイメージが重ねられたのではないだろうか。

大報恩寺でも11月7日、8日に大根焚が行われている。

そして大報恩寺には大工の棟梁・長井飛騨守高次と阿亀の伝説が伝えられている。
私は大報恩寺の大根焚は了徳寺の大根焚の影響を受けたものではないかと思う。
なぜかというと、大報恩寺の境内に太子堂(北野経王堂 願成就寺)があることから大報恩寺には聖徳太子信仰蛾あると考えられ、

親鸞が六角堂に籠ったとき夢の中に聖徳太子があらわれ、「私が女に生まれ変わってあなたの妻になろう」と言った。という伝説の影響を受けているように思えるからだ。

千本釈迦堂 大根焚 
大報恩寺 大根焚

大報恩寺は浄土真宗ではなく、真言宗智山派である。
しかし日本の仏教にはルーズなところがあって、寺が宗派を変えることはよくある。
多宗派の影響を受けることもあったのではないだろうか。

④御霊・荒魂・和魂

わたしは、①大報恩寺の伝説に登場する大工の棟梁とは聖徳太子だった?で「おかめとペアになっているひょっとこは聖徳太子のショウトクからくるのではないか」と述べた。
しかし、大報恩寺が浄土真宗の影響を受けているとするならば、この考え方を改めなければならない。

大工の棟梁とは親鸞であり、阿亀とは女に生まれ変わって親鸞の妻となった聖徳太子だ。

もっと正確にいうと、おかめが女神に生まれ変わった聖徳太子で、ひょっとこは女に生まれ変わる以前の男神の聖徳太子だと思う。

聖天さん(歓喜天)は鬼王ビナヤキャと十一面観音の化身であるビナヤキャ女神の男女双体の神だが、上の動画を見ていただくとわかるように、鬼王ビナヤキャとビナヤキャ女神は双子のようにそっくりで、また名前も同じである。

神はその表れ方によって御霊(神の本質)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂(神の荒々しい側面)の3つに分けられ、和魂は女神で荒魂は男神とする説がある。
とすれば御霊は男女双体である。

すると聖徳太子も御霊・和魂・荒魂の3つに分けられるだろう。
聖徳太子は建築の神なので、太子堂の中におかれているおかめ御幣(上棟式に用いられる)のおかめは聖徳太子の和魂である。
おかめとペアになっているひょっとこは(ショウトク→ヒョウトク→ヒョットコ)と訛ったものであり、聖徳太子の荒魂である。
そして親鸞は聖徳太子の荒魂とイメージが重ねられ、女に生まれ変わった聖徳太子の和魂と結合し、男女双体の神となって信仰された。
これと同じく長井飛騨守高次は聖徳太子の荒魂であり、聖徳太子の和魂である阿亀と結合し、男女双体の神として信仰された。
おかめ節分に登場するおかめは阿亀であり、聖徳太子の和魂でもある。
おかめ節分に登場する鬼は長井飛騨守高次であり、聖徳太子の荒魂である。

千本釈迦堂 おかめ節分会 おかめと鬼

大報恩寺 おかめ節分

言葉にすると少しややこしく感じられるかもしれないので、表にまとめた。

御霊神の本質男女双体聖天(鬼王ビナヤキャ+ビナヤキャ女神聖徳太子の御霊聖徳太子の御霊聖徳太子の御霊
和魂神の和やかな側面女神ビナヤキャ女神聖徳太子の和魂聖徳太子の和魂阿亀
荒魂神の荒々しい側面男神鬼王ビナヤキャ聖徳太子の荒魂親鸞長井飛騨守高次(ひょっとこ・鬼)

 
④大報恩寺と報恩講

私はこの寺の名前が「大報恩寺」というのが気にかかっていた。

「報恩講」という浄土真宗の法要がある。
浄土真宗の宗祖・親鸞の命日ごろ、親鸞の報恩謝徳のために行われる法要である。
報恩謝徳とは、「恩に報い徳に謝す」「恩に感謝し報いる」という意味で、特に浄土真宗のみで用いられる言葉ではない。

しかし、報恩と聞くと浄土真宗の「報恩講」を思い出すことも事実である。

了徳寺の大根焚はこの報恩講の行事である。

大報恩寺には大工の棟梁と阿亀の伝説が伝えられていたが、大工の棟梁は長井飛騨守高次という名前だった。
①で述べたように、飛騨守という役人が大工を兼業でやっているとは考えられず、長井飛騨守高次という人物は実在の人物ではないと考えられる。

飛騨は大工業が盛んだったので、飛騨という地名を持ちだしてきたのだろう。
そして、飛騨高山は、真宗・浄土真宗の信仰厚い地域で、真宗王国と呼ばれているそうである。

パズルがかちっと合わさる音が聴こえたように思うのは、私の空耳だろうか?

大報恩寺は真言宗智山派の寺である。
しかし、日本の仏教は宗派にルーズで多宗派の影響を受けることがあったように思われる。

大報恩寺は真宗・浄土真宗の影響を受けており、真宗・浄土真宗の「報恩講」にちなみ、寺名を大報恩寺と言うのではないだろうか。

大工の棟梁・長井飛騨守高次とは親鸞のイメージで創作された真宗王国・飛騨高山の大工だろう。
そして大工の妻・阿亀は女に生まれ変わった聖徳太子なのではないか。

このように考えると、太子堂の額がかけられた「北野経王堂 願成就寺」に、たくさんのおかめ御幣が置かれていることの説明もつく。

⑤推理のまとめ

ここまでの私の推理をまとめておこう。

北野廃寺跡は秦氏の氏寺、広隆寺の前身・蜂岡寺であった。
広隆寺では聖徳太子を御本尊としているが、広隆寺が蜂岡寺であった時代から聖徳太子を信仰していたのだろう。
北野天満宮の新春奉納狂言「福の神」では、出雲の神が秦氏の氏神・松尾の神に酒を捧げる。
また北野追儺狂言は北野天満宮の摂社・福部社の神が鬼を追いはらうのだが、福部とは秦氏の一派の服部である可能性が高い。
このように北野天満宮には秦氏の気配がつよく、菅原道真を祀る以前よりここに鎮座していたという地主神社は、蜂岡寺の鎮守であり、聖徳太子を祀っていたのではないかと思われる。
また北野天満宮の前にあった「北野経王堂 願成就寺」の廃材を用いてつくられたお堂に「太子堂」の額がかけられているのも、このあたりに聖徳太子信仰があったことを物語っている。

浄土宗の開祖・親鸞には聖徳太子より「私が女に生まれ変わってあなたの妻になろう」という伝説があり、男女双体の神・聖天さんとイメージが重ねられ、聖天さんの好物が大根とされるところから、報恩講に大根焚を行う習慣が生じた。
大報恩寺は真言宗のお寺だが、聖徳太子信仰があったため、浄土真宗の報恩講の影響をうけ、大根焚の行事を行うようになった。
おかめ伝説はこのあと、応仁の乱で焼け残ったところから創作されたのではないかと思うが、もっと古くからあったかもしれない。

千本釈迦堂 おかめ節分 鬼

千本釈迦堂 おかめ節分 

建築の神が住む町⑮ 西陣の聖徳太子信仰 その3  につづく~
建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』  ← トップページはこちら






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[2017/10/20 19:31] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町⑤ 『大報恩寺の大根焚と男女双体の神』 

 建築の神が住む町④ 北野天満宮 紅葉 『筋違いの本殿』  よりつづく~

①大報恩寺の大根焚



北野白梅町駅で下車し、交差点の東北の角・京都信用銀行前の「北野廃寺跡」と記された石碑の前を通って東に歩いていく。

北野廃寺跡石碑 

北野廃寺跡

北野天満宮 東門 
北野天満宮 東門

北野天満宮を超えてさらに東へ向かったところに大報恩寺(千本釈迦堂)がある。

大報恩寺の境内は大根を焚く甘い香りがたちこめ、大勢の人でにぎわっていた。
この日は12月8日、大報恩寺では年末の風物詩である大根焚が行われていたのだ。

千本釈迦堂 大根焚 
大報恩寺 大根焚

私も一杯いただき、ベンチに腰掛けてふうふう言いながら食べた。
寒さでかじかんだ体がじんわりと温まっていくようだった。

12月8日は釈尊が悟りを開いた日とされ、千本釈迦堂の大根焚はこれにちなむ行事だとされる。
またこの日、成道会法要も行われる。

千本釈迦堂 大根 
大報恩寺 大根焚

②大根焚は聖天さんにちなむ行事だった? 
 
私は東京の待乳山聖天で1月7日に行われている大根まつりを思い出していた。
待乳山聖天と同じく、聖天さんを祀る京都の嵯峨聖天でも毎年小雪(11月22日ごろ)を含む2日間に大根供養を行っている。
大根焚きはもともとは聖天さんにちなむ行事だったのではないだろうか。

待乳山聖天-引換券

待乳山聖天 大根まつり


待乳山聖天 ふろふき大根

待乳山聖天 大根まつり

待父山聖天の境内のいたるところに巾着袋と違い大根のシンボルがあふれていた。

待乳山聖天 巾着

待乳山聖天

待乳山聖天 二股大根

待乳山聖天

聖天さんを祀る寺はぜnどこの聖天さんでも、多少のデザインの違いはあってもたいてい巾着袋と違い大根のシンボルを用いている。
巾着袋と違い大根は聖天さんのシンボルなのだ。

双林院 提灯 

京都・双林院の紋。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!

聖天さんは大聖歓喜天とも呼ばれ、象頭の男女の神が抱きあう姿をされている。
男神は鬼王ビナヤキャ、女神は十一面観音の化身のビナヤキャ女神である。

聖天さんの紋が違い大根なのは、鬼王ビナヤキャの好物が大根とされているからだろう。

待乳山聖天 巾着&二股大根

待乳山聖天

③大根は男女双体をあらわす?

鬼王・ビナヤキャはなぜ大根が好物なのか。
好物に理由なんてあるか、好きなものは好きなのだ。
そう言われるかもしれないが、「鬼王・ビナヤキャの好物が大根とされている」ことには理由があると私は思う。

大根は直根の先端にある生長点が石ころなどにあたると、側根が肥大して二股になってしまうことがよくあるそうである。
そうした二股大根の形が男女双体の神を思わせるところから、大根が聖天さんの好物であるとされているのではないだろうか。

待乳山聖天 二股大根

待乳山聖天


④巾着の中には何が入っている?

それではもうひとつの聖天さんのシンボルが巾着袋なのはなぜなのだろうか。

聖天さんは象頭であるが、これはビナヤキャ&ビナヤキャ女神のほかに、ガネーシャという神様が聖天さんに関係しているからだと言われる。

ガネーシャには次のような伝説がある。

ガネーシャは母親のパールヴァティーに命じられて、彼女の入浴の見張りをしていた。
そこへシヴァが戻ってきたが、ガネーシャはシヴァが自分の父だと知らず、入室を拒んだ。
シヴァは怒ってガネーシャの首を切り落として遠くへ投げ捨てた。
その後、シヴァはガネーシャが自分の子供だと知り、ガネーシャの頭を探させたが見つからなかった。
そこで象の首を斬り落として持ち帰り、ガネーシャの体につけて生き返らせた。


象にも深い意味があると思うが、今のところ私にはよくわからない。
ただ、この伝説からガネーシャがドクロをつけて生き返った神であることがわかる。

真言立川流では髑髏に漆や和合水を塗り重ねて髑髏(どくろ)本尊を作り、これを袋に入れて7年間抱いて寝るとドクロが語りだすとしている。

これは死んでいたドクロが生き返ったということである。

どうやら昔の人はドクロは復活にかかせない呪具であると考えていたようである。
聖天さんの巾着袋の中には復活にかかせない呪具・ドクロが入っているのではないだろうか。

待乳山聖天 奉納された大根

待乳山聖天

⑤了徳寺の大根焚

了徳寺 大根焚 
了徳寺 大根焚

京都の了徳寺では報恩講の大根焚をが12月9日~10日に行っている。
報恩講とは親鸞の命日の法要であるが、親鸞といえば僧侶の身分でありながら妻帯したことで有名である。

なんでも、京都の六角堂に籠ったとき、聖徳太子が夢枕に現れて「私が女に生まれ変わってあなたの妻になろう」と言ったというのだ。

六角堂 しだれ桜

六角堂

今の時代、こんなことを言う人が現れても、「頭がおかしいのでは」と思われるだけだが、当時はこのはったりがきいたのだろう。
親鸞の死後、親鸞の子孫たちが本願寺を世襲し、また浄土真宗の信者も増えていった。

このように見てみると、なぜ了徳寺で大根焚が行われているのか、わかるような気がする。

妻帯した親鸞は、男女双体の神・聖天さんとイメージが重ねられ、その結果聖天さんの行事である大根供養を真似て了徳寺の大根焚は行われるようになったのではないだろうか。

⑥大報恩寺に伝わる大工の棟梁と阿亀の伝説

境内には手に升を持つお亀の像が建てられていた。
ここ大報恩寺には大工の棟梁とその妻・阿亀の伝説が伝えられており、それにちなんでお亀の像は建てられたのだろう。

千本釈迦堂 阿亀像

千本釈迦堂の本堂を建てるとき棟梁が謝って柱を短く切ってしまった。
妻の阿亀が柱の長さが足りない分を枡組を作って補ったらどうかとアドバイスし、本堂は完成した。
阿亀は女の助言を受け入れたことが知られたら夫の恥になると思い、本堂が完成する前に自害した。


千本釈迦堂 升 
大報恩寺本堂

大報恩寺本堂を見上げてみると、なるほど、柱に枡組がついている。

●∧は男性、∨は女性

ベストセラー小説『ダ・ヴィンチ・コード』に∧は男性、∨は女性を表すと書いてあったと記憶している。
これと同様、枡とは凹で女性を、柱とは凸で男性を表しているのではないだろうか。
すると枡(凹)と柱(凸)が合体している千本釈迦堂の柱は男女和合の象徴であるということになる。

そういったところから、千本釈迦堂は聖天さんのイメージと重ねられ、大根焚きの行事を行うようになったのではないかと思う。

千本釈迦堂 大根焚2 

大報恩寺 大根焚

よく見ると、大報恩寺の境内の片隅に布袋像が置かれていた。
布袋は袋を持っている。

千本釈迦堂 布袋像 

大報恩寺 布袋像

大根炊、布袋の袋で、聖天さんのシンボルが大報恩寺には揃っているということになるが。


建築の神が住む町⑥ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』  につづく~
建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』  ← トップページはこちら


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[2017/09/05 16:09] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 

小野小町は男だった⑫ あなめ小町『小野小町は髑髏本尊だった?』 よりつづく~


京都御所 1
京都御所

①残った4つの小町伝説

残る小町伝説は次の4つである。

①京都八瀬の里で修行する僧に薪や木の実を届ける女がいた。
女は「小野とは言はじ、薄生いたる、市原野辺に住む」と言って消える。
僧が市原野へ出かけて小町を弔っていると、四位少将の霊が現れ、小町の成仏を妨げる。
少将は百夜通いの後、成仏出来無いで苦しんでいた。
僧が、「懺悔に罪を滅ぼし給え」と勧めると、小町と共に成仏する。(通小町)


② 百歳の老女となった小野小町が近江の国関寺のあたりをさすらっているという話を聞いた陽成院が、小町に次のような歌を贈った。
雲の上は ありし昔に 変はらねど 見し玉簾の うちやゆかしき
(宮中は、かつての昔と変わっていないがあなたは、昔見慣れた玉簾(内裏)がなつかしくありませんか。)
 
小町は鸚鵡返しといって、院に歌を返した。
雲の上は ありし昔に 変はらねど 見し玉簾の うちぞゆかしき
(私は、昔見慣れた玉簾(内裏)がなつかしいです。)

相手の歌の「や」を「ぞ」に替えるだけで返歌した、鸚鵡返しの歌として知られる。(鸚鵡小町)

③絶世の美女であったにもかかわらず、男を寄せ付けなかった小町は実は男を受け入れられない体であった。
穴のない「まち針」は「小町針」がなまったものである。(小町針)

④昔、色気づいた女が三人の子に「思いやりのある男にお会いしたい」と話した。
三男は「よい男が現れるでしょう」と夢判断をし、在五中将(在原業平)に頼み込んだ。
在五中将は女をかわいそうに思ってやってきて寝た。
しかしその後、在五中将は女のもとへやってこなくなり、女は男の家に行って中を伺った。
男は女をちらっとみて歌を詠んだ。

ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)

その後、男がでかけようとしたので、女は家に戻って横になった。
在五中将が女の家の前で中を伺うと、女は次のように歌を詠んだ。

さむしろに 衣かたしき こよひもや こひしき人に あはでのみねむ
(狭いむしろに衣を一枚だけ敷き、今宵も恋しい人に会えずに寝るのだろうか。)

在五中将は女がかわいそうになり、その夜は女と寝た。
※伊勢物語には単に「色気づいた女」とあるが、伊勢物語の注釈書・『知顕集)』には次のように記されている。
「このをんなは、をののこまちなり。小野小町とふ、こまちには子ありともきかぬに、三人ありといへり。いかなる人の子をうみけるぞや、おぼつかなし。」
(この女は小野小町である。小野小町に子供があったとは聞いたことがないが、三人の子がいるとしている。どんな人の子を産んだのか、はっきりしない)(伊勢物語)

補陀落寺(小町寺) 紅葉 
補陀落寺(小町寺)

②小野小町は小野という名前ではなかった?

⑩の『通い小町』では小町と思われる女性が「小野とは言はじ、薄生いたる、市原野辺に住む」と言っている。
京都市左京区静市市原町に小町寺(補陀落寺)という寺がある。
市原は小野氏の所領地で、市原にある小町寺は小野小町終焉の地とされている。
小野小町の謎⑫ あなめ小町 で『あなめ小町』についてお話したが、小町寺の境内には小町の髑髏があったという場所が存在している。
「小野とは言わじ」という台詞が気になる。
「私の名前は小野ではない」ということだろうか?

補陀落寺(小町寺) 小野小町供養塔

補陀落寺(小町寺) 小野小町供養塔

③一字違いで大違いのもの、なあに?

⑪の鸚鵡小町では小町は相手の歌の「や」を「ぞ」に替えるだけで返歌している。
これは謎々ではないだろうか。
「一字違いで大違いのものはなあに?」という。

小町寺 小野皇太后供養塔

補陀落寺(小町寺) 小野皇太后供養塔

④穴のない体=男?


⑫小町針では小町は穴のない体であったとしている。
小町は先天性膣欠損症だったのか?

以前、紹介した古今和歌集仮名序の、小町について述べられた箇所をもう一度見てみよう。

小野小町は いにしへの衣通姫の流なり
あはれなるやうにて強からず
いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし


うーん?やけに女であることを強調しすぎてはいないだろうか。

古今和歌集仮名序は紀貫之が書いたと言われている。
紀貫之が著した土佐日記の出だしは「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」だった。
紀貫之は男であるが、女であると偽って日記を書くような一筋縄ではいかない人物だった。

そして古今和歌集には、男が女の身になって詠んだ歌が数多く存在している。
もしかして小野小町とは男?

そういえば、補陀落寺に小野老衰像があったが、骨格がしっかりしていて男性のように見えた。
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=1000200

惟喬親王像

惟喬親王像 (惟喬親王陵/滋賀県東近江市筒井峠)
 

⑤小野小町は小野宮だった?

通い小町では小町は「小野とはいわじ」と言っている。
惟喬親王は小野宮という邸宅に住んでいたため自身も小野宮と呼ばれていたのだが小野氏ではない。

そして鸚鵡小町は「一字違いで大違いのもの、なあに」という謎々だと私は思うが、惟喬親王と惟仁親王(清和天皇)は一字違いである。
惟喬親王は文徳天皇の長子で天皇にも立太子が望まれていた。
しかし当時の権力者・藤原良房の娘・藤原明子を母親に持つ惟仁親王が生まれたばかりで立太子し、紀静子を母親にもつ惟喬親王は世継ぎ争いで敗れたのだった。

さらに小野小町は穴がない体であったというが、それは男であったということではないのか。
とすれば、小野小町は小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないのか?

金龍寺 八重桜2

金龍寺(惟喬親王が住んだ高松御所跡)

⑥九十九は奇数で陽の数字

小野小町が小野宮=惟喬親王であったならば、伊勢物語の九十九髪の内容も納得がいく。
九十九髪とは百引く一は白で白髪のことを言うのだが、それだけの意味ではない。

俗謡で「おまえ百までわしゃ九 十九まで、共に白髪の生えるまで」というのがある。
これは謡曲高砂の尉・姥からくるものだとされている。

尉が熊手をもち、姥が箒をもって掃いているのは、熊手=九十九まで、掃く(まで)=百(まで)という洒落であるという。
尉が九十九で、姥が百であるのは九十九が奇数で陽の数字、百が偶数で陰の数字、また男は陽で女は陰とされていることによる。
すると九十九髪と詠われた小町は九十九は奇数なので男だということになる。

つまり小野小町=小野宮=惟喬親王と在原業平はBLの関係にあったということである。

小野小町は男だった⑩ 百夜通い 『深草少将・小野小町・惟喬親王に共通する九十九のイメージ』
↑ こちらの記事にも書いたのだが、惟喬親王には菊のイメージがある。

滋賀県東近江市の大皇器地祖神社(おおきみちそじんじゃ)では惟喬親王を木地師の祖として祀っており、大皇器地祖神社のある小椋の里の木地師は十六弁の菊の紋章の使用を許されている。

大皇器地祖神社

大皇器地祖神社


また惟喬親王は京都の法輪寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説があるのだが、この法輪寺では9月9日に重陽神事を行っている。
法輪寺の重陽神事ではたくさんの菊が飾られ、菊のしずくを飲んで800年の長寿を得たという菊滋童の舞が行われ、菊滋童と惟喬親王のイメージが重なる。

菊滋童の長寿の秘密は菊のしずくを飲むことだけでなく、多くの男女と契ることによって得たものであるという話を聞いたことがある。
菊の契りといえばBLのことだが、惟喬親王に菊のイメージがあるのは彼がゲイであったためではないだろうか。

法輪寺 重陽神事2

法輪寺 重陽神事

⑧小町は惟喬親王の和霊だった

まてまて。小野小町の謎⑪ 深草少将は紀氏だ ← この記事の中で、深草少将は惟喬親王だと言っていたじゃないか。
小町も深草少将も惟喬親王だなんておかしいじゃないか。
そうおっしゃる方がいらっしゃるかもしれない。
これについて説明しておこう。

神はその現れ方で御霊(神の本質)、和霊(神の和やかな側面)、荒霊(神の荒々しい側面)の3つに分けられるという。
そして和霊は女神で荒霊は男神とする説がある。
すると御霊は男女双体ということになると思う。
これにぴったり当てはまるのが大聖歓喜天である。
歓喜天は象頭の男女双体の神で、男神が鬼王ビナヤキャで、女神が十一面観音の化身のビナヤキャ女神である。

御霊・・・神の本質・・・男女双体・・・大聖歓喜天
和霊・・・神の和やかな側面・・・女神・・・ビナヤキャ女神
荒霊・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・鬼王・ビナヤキャ


鬼王ビナヤキャとビナヤキャ女神は同じ名前で姿形もそっくりである。→ 
惟喬親王の場合は、惟喬親王が御霊で、惟喬親王の荒霊と惟喬親王の和霊に別れ、小野小町は惟喬親王の和霊であると、そういうことなのではないだろうか。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体・・・大聖歓喜天・・・・・・・・惟喬親王
和霊・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・ビナヤキャ女神・・・・・・小野小町
荒霊・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・鬼王・ビナヤキャ・・・・・小野宮(惟喬親王)

菊野大明神

菊野大明神 深草少将腰掛け石を御神体とする。

⑨深草少将が99日目にたてた代理人とは

随心院に伝わる百夜通い伝説は次のようなものだった。

99日目に小町は「1日足りないが、まあお入り」と扉を開ける。
するとそこに立っていたのは深草少将ではなく別人だった。
深草少将は毎日熱心に小町のもとへ通っていたのだが、その日に限って代理人をたてていたのだった。


一般的な百夜通い伝説は深草少将は今日で100日目という日に死んでしまうのだが、随心院では99日目に深草少将は代理人をたてたとする。
代理人をたてるという発想はどこからくるのだろうか。
それは文徳天皇が惟喬親王を皇太子にしたいと望んでいたにもかかわらず、惟仁親王が皇太子になったところからくるものではないだろうか。
随心院 はねずおどり

髄心院 はねず踊 深草少将百夜通い伝説を題材にした踊り

⑩町は紀氏を表す?

『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。

三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。

三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
そして紀静子は惟喬親王の母親だった。

そう考えると、惟喬親王を小町と呼ぶ理由がわかる。
惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
そういうことで小町なのではないだろうか。

金龍寺 八重桜

金龍寺(惟喬親王が住んだ高松御所跡)


次回へつづく~
トップページはこちら → 小野小町は男だった① 小野小町はなぜ後ろを向いているのか 

 

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[2017/06/30 00:16] 小野小町は男だった | TB(0) | CM(0)

小野小町は男だった⑨ 関寺小町『小野小町は織姫と習合されている?』 

 
白峯神宮 小町踊2

白峯神宮 小町踊


小野小町は男だった⑧ 雨乞い小町 『小野小町は弁財天・イチキシマヒメ・善女竜王と習合されている。』 よりつづく

●七夕と小町踊り

七夕の夕暮れ、星を祭る関寺の境内で小野小町は自分の若き日の思い出を歌いながら舞った。
小町は百歳を越えた老女となっており、人々は絶世の美女の変わり果てた姿を憐れに思う。
(謡曲『関寺小町』)


関寺小町では七夕の日に小町が舞を舞うという話になっているが、七夕と小町は関係が深い。
前回の記事 においても小町が
千早振る 神も見まさば 立ちさわぎ 天のと川の 樋口あけたべ
と歌を詠んでいることを紹介した。
天のと川とは「天の川」のことであり、七夕には牽牛と織姫が1年に1度の逢瀬を楽しむとされている。

かつて七夕の日には童女たちが歌を歌いながら路地で小町踊を踊る習慣が各地にあった。
現在では路地で小町踊を踊る風景は見られなくなったが、京都の白峯神宮では七夕の日に小町踊の奉納がある。
童女たちは頭には紫色のターバンを巻き、着物の片袖を脱いで、太鼓や鉦をたたきつつ輪になって踊る。
化粧をほどこした童女たちの表情はときどき大人っぽく見え、妙に色っぽかったのを思い出す。

白峯神宮 小町踊3


白峯神宮 小町踊

太鼓や鉦をたたきつつ輪になって踊るというのは念仏踊りである。
小町踊は念仏踊の一種なのである。

念仏踊とは南無阿弥陀仏と唱えつつ太鼓や鉦をたたいて踊るというもので、平安時代の僧・空也が始めたとされる。
空也は南無阿弥陀仏と唱えさえすれば誰でも極楽浄土へ行けると説いた。
つまり念仏踊とは死者を極楽浄土へ送り届けるための踊りであり、念仏踊の一種と思われる小町踊もまた死者を極楽浄土へ送る踊りだといえるだろう。

空也堂 歓喜踊躍念仏

空也堂 空也踊躍念仏

●七夕は荒霊と和霊を和合させる神事である。

七夕伝説は中国から伝わったものである。

天の川の西は天人の世界であり、天帝には働き者の娘・織姫がいた。
織姫は化粧もせずに機織ばかりしているので、天帝は嫁に行けないのではないかと心配になった。
そこで、天の川の対岸(東)で牛の世話をしていた働き者の牽牛と結婚させた。
ところが織姫と牽牛は新婚生活が楽しくて仕事をしなくなってしまった。 
見かねた天帝はふたりを天の川の西と東に引き離した。
しかし、年に一度、7月7日だけは、かささぎの群れが天の川に橋をかけてくれて、ふたりは逢瀬を楽しむ。


織姫星とは「こと座」の一等星・ベガ、牽牛星は天の川を挟んでベガの対岸にある「わし座」の一等星・アルタイルのことである。

旧暦ではお盆は7月15日を中心とした行事であり、7月7日はお盆の入りの行事であった。
お盆にはは地獄の釜の蓋が開き、お精霊さん(先祖の霊)があの世からこの世へ戻ってくると考えられた。
そんなお盆の入りの行事がなぜ七夕なのだろうか。
七夕は織女と牽牛が1年に1度逢瀬を楽しむというが、ふつうに考えると、何も先祖の霊が戻ってくるお盆の時期に逢引しなくてもよさそうなものだ。

神はその現れ方によって御霊(神の本質)、荒霊(神の荒々しい側面)、和霊(神の和やかな側面)に分けられるという。
そして荒霊は男神、和霊は女神とする説がある。
とすれば、御霊とは男女双体である。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体
荒霊・・・神の荒々しい側面・・・男神
和霊・・・神の和やかな側面・・・女神


日本では古くから神仏は習合して信仰されていたが、仏教の神(みほとけ)・大聖歓喜天の説話はこの概念を表したものだと思う。

鬼王ビナヤキャの祟りで国中に不幸な出来事がおこった。
そこで十一面観音はビナヤキャの女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われた。
ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、『自分のものになれ』と命令した。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓った。 


双身歓喜天像の相手の足を踏みつけているほうが、十一面観音菩薩の化身ビナヤキャ女紳とされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%93%E5%96%9C%E5%A4%A9#mediaviewer/File:Icon_of_Shoten.jpg



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

(詳しくはこちらをお読みください。→ 小野小町は男だった⑥ 小野小町は衣通姫の流なり 『小野小町は和魂だった?』※書き直しました。 

男神は荒霊、女神は和霊であり、男女和合は荒霊を御霊に転じさせる呪術であったと私は思う。

お盆には死んだ人の霊が戻ってくると考えられたが、その中には恨みを抱いて死んでいった人の霊もある。
恨みを抱いて死んだ人の霊は、死後、怨霊となって祟ると考えられていた。
怨霊は荒霊と言ってもいいだろう。

そこでそのような荒霊がこの世に戻ってきて、祟らないように、女神と和合させる必要があると考えられたのではないだろうか。

お盆にこの世に戻ってくる荒霊の代表が牽牛、荒霊と和合する和霊が織姫というわけである。

河治温泉 道祖神 
河治温泉 道祖神 (道祖神は歓喜天と習合されているのではないだろうか。)

●牽牛とは艮(丑寅)=鬼である。

牽牛という名前は大変興味深い。
牽牛とは「牛を牽く人」という意味だが、牽牛はまだ年の若い青年のようなので童子と言ってもいいかもしれない。
すると牽牛は「牛を牽く童子」という意味になるが、「牛を牽く童子」とは干支の艮(丑寅)を表すものである。
牛は丑、童子は八卦では艮(丑寅)をあらわしている。

葵祭 斎王代列 牛車

葵祭 牛を牽く童子

かつて宮中では大寒の日に牛を牽く童子の像を諸門に置き、節分の日に撤去するということが行われていた。

牛は干支の丑で12か月では12月を表す。
童子は干支の艮(丑寅)で丑は12月、寅は1月なので1年の変わり目を表す。
そしてかつては旧暦と二十四節気という二つの暦を併用していたのだが、節分とは二十四節気の立春の前日のことであった。
二十四節気では立春が正月となり、また旧暦の正月ともだいたい同時期であった。
大寒の日に牛を牽く童子の像を諸門に置き、節分の日に撤去するというのは、目には見えない1年の移り変わりを視覚化したものであったのである。

飛鳥坐神社 おんだ祭 田おこし

飛鳥坐神社 おんだ祭 
丑を牽いて田を耕す天狗は牽牛でもあると思う。
そのあとおかめが登場して夫婦和合のしぐさが演じられる。おかめは織姫だろう。


飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言 天狗とおかめ

飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言

そして丑寅は方角では東北で東北は鬼の出入りする方角、鬼門として忌まれた。
また吉備津彦が退治した温羅という鬼は「丑寅御前」とも呼ばれており、丑寅は鬼そのものを表す言葉でもあった。

石清水八幡宮 鬼やらい神事-豆まき

石清水八幡宮 鬼やらい神事
鬼の角は牛(丑)を、パンツは虎(寅)をあらわすといわれる。


ということは、牽牛=牛(丑)をひく童子(丑寅)=鬼となる。
牽牛とは鬼であったのだ。
鬼とは荒霊であるといってもいいだろう。

白峯神宮 織物の道具

白峯神宮にて

織姫は織物を得意としているが、織物とは経糸と横糸を絡み合わせることによってつくられる。
「ダビンチ・コード」には、男は記号Λ、女は記号∨であらわされると記されてあったが、これと同様に経糸は男、横糸は女性で織物とは男女和合を表すのではないだろうか。
そして織姫とは荒霊である男神と和合することで荒霊を御霊に転じさせる女神という意味ではないかと私は考えている。

●小野小町の男性遍歴

小野小町の謎⑥ 小野小町は衣通姫の流なり において私は猿田彦と天鈿女は大聖歓喜天と習合されており、天鈿女は性の女神であると言った。
天鈿女は猿田彦神に会ったときには、胸を開き、腰紐をずらしている。
天鈿女はビナヤキャ女神のように性的に猿田彦神を誘惑しようとしたのだ。
また天照大神が天岩戸に籠ったときにはストリップダンスをして神々を笑わせている。

小野小町は天鈿女同様、性の女神である。
小野小町は性的に不能であったという伝説もあるので、矛盾するが、なぜ伝説に矛盾が生じているのかについての考察はあとですることにして、今回は小町が性の女神であるということの証拠をあげておきたい。

六歌仙の一に僧正遍照があるが、小野小町は遍照と次のように歌のやりとりをしている。

岩のうへに 旅寝をすれば いとさむし 苔の衣を 我にかさなむ/小野小町
(石上神社の岩の上で旅寝をするととても寒いのです。あなたの苔の衣を貸していただけませんか。)

世をそむく 苔の衣はただ一重 かさねばうとし いざふたり寝む/遍照
(世の中と縁を切るための法衣はたった一重です。しかし貸さないというのも気がひけます。さあ、二人で寝ましょう。)


小町はもうひとりの六歌仙の一、文屋康秀も誘惑している。

文屋康秀が三河国に左遷となったとき、小町に「一緒に田舎見物に行きませんか。」と誘ったとき、小町は次のような歌を詠んでいるのだ。

わびぬれば 身をうき草の 根をたえて さそふ水あらば いなむとぞ思ふ
(侘び暮らしをしていたので、我が身を憂しと思っていました。浮草の根が切れて水に流れ去るように、私も誘ってくれる人があるなら、一緒に参ります。)


誘ったのは文屋康秀であるが、小町は「一緒に行く」と答えている。
女にこんな返事をされたならば、大抵の男は「女は自分に気がある」と考えて嬉しくなってしまうのではないだろうか。

小野小町が誘惑した男性には小野貞樹もいる。

今はとて わが身時雨に ふりぬれば 言の葉さへに うつろひにけり/小野小町
(今はもう、時雨が降って色が褪せた樹々のように、我が身も涙に濡れて色褪せてしまいました。あなたが昔約束して下さった言の葉さえも変わってしまいました。)

人を思ふ こころ木の葉に あらばこそ 風のまにまに 散りもみだれめ/小野貞樹
(人を思う心が木の葉のように変わってしまうのなら、風が吹くままに散り乱れるでしょう。
しかし私があなたを思う気持ちは散り乱れたりはしません。)


また伊勢物語に次のような話がある。

昔、色気づいた女が、思いやりのある男に逢うことができたらなあと思い、三人の子に話をした。
二人の子はまともに取り合わなかったが、三男は「よい男が現れるでしょう」と夢判断をした。
さらに三男は在五中将(在原業平)に頼み込んだので、在五中将は女をかわいそうに思ってやってきて寝た。
しかしその後、在五中将は女のもとへやってこなくなったので、女は男の家に行って中を伺った。
男は女をちらっとみて歌を詠んだ。


ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)


そして男はでかけようとしたので、女は家に戻って横になった。
在五中将は女の家の前で中を伺うと、女は次のように歌を詠んだ。


さむしろに 衣かたしき こよひもや こひしき人に あはでのみねむ
(狭いむしろに衣を一枚だけ敷き、今宵も恋しい人に会えずに寝るのだろうか。)


在五中将は女がかわいそうになり、その夜は女と寝た。

伊勢物語には単に「色気づいた女」とあるが、伊勢物語の注釈書・『知顕集)』には次のように記されている。

このをんなは、をののこまちなり。
小野小町とふ、こまちには子ありともきかぬに、三人ありといへり。
いかなる人の子をうみけるぞや、おぼつかなし。
(この女は小野小町である。小野小町に子供があったとは聞いたことがないが、三人の子がいるとしている。
どんな人の子を産んだのか、はっきりしない)


九十九髪というのは謎々である。
九十九は「つくも」と読むが、「つくも」とは「つぎもも(次百)」の意味である。
そして百から一を引くと白になるので、九十九髪とは白髪という意味である。

在原業平にセックスを迫ったとき、小町は高齢であったが、業平は小町を同情して関係をもったというのである。

髄心院 小野小町像 

髄心院に展示されていた小野小町像

●小野小町は荒霊(男神)と和合することで御霊に転じさせる女神

僧正遍照・文屋康秀・在原業平は六歌仙のメンバーであり、六歌仙は怨霊だと考えられる。

小野貞樹は石見王の子であると言われている。
石見王とは、長屋王の孫・磯部王と淳仁天皇の娘・安倍内親王の間に生まれた皇族である。
長屋王は長屋王の変で自殺した人物、淳仁天皇は藤原仲麻呂の乱に関与したとして称徳天皇に退位させられ淡路に流罪となった人物である。
経歴だけを聞いても、大変政治的に不幸な人物で、死後怨霊になるにふさわしい人物だといえるだろう。

そして小野小町は彼らと和合することで荒霊(男神)を御霊に転じさせる役割を担った和霊(女神)なのである。

つまり、実際に関係をもったというよりは、男たちが死後に怨霊となったと考えられたため、後世の人が小町という女神と和合させようとして物語を創作し、また怨霊となった男たちの身になって和歌を詠んだのではないかと私は思う。

髄心院 小野小町

ライトペインティングのジミー西村さんと織物会社が共同制作した小野小町のタペストリー(髄心院)



小野小町は男だった⑩ 百夜通い 『深草少将・小野小町・惟喬親王に共通する九十九のイメージ』 へつづく~
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[2017/05/28 09:34] 小野小町は男だった | TB(0) | CM(0)

小野小町は男だった⑥ 小野小町は衣通姫の流なり 『小野小町は和魂だった?』※書き直しました。 

小野小町の謎⑤ 小野小町は絶世の美女だった。よりつづく。

※考えに誤りがあったことに気が付いたので、記事を大幅に書き直しました。すいませーん。

①手をつなぎあう男女双体の神

道祖神は手を繋ぎ合う男女双体の神像として作られたり、また陰陽石で表されることもあった。
陰陽石とは男女のシンボルを象った石のことである。

多気山不動尊 道祖神

多気山不動尊 道祖神

飛鳥坐神社 むすひの神石

飛鳥坐神社 むすびの神石

飛鳥坐神社には上の写真のような陰陽石がたくさんある。
「むすびの神石」と呼ばれているが、これは道祖神と言ってもいいだろう。
関西にはどういうわけか男女の神像をした道祖神はあまり見かけない。

川治温泉 おなで石 

川治温泉 おなで石(おなで石は祠の中の石ではなく、祠の手前にある四角い石)

川治温泉(栃木県日光市)にはおなで石と呼ばれる女性のシンボルを象った石があり、その周囲には男性のシンボルを象った石もいくつか並べられていた。
また温泉街のあちこちに神像タイプの道祖神も置かれていた。

道祖神とはもともとは中国の神であったのが日本に伝わり、日本では猿田彦と天鈿女の男女双体の神として信仰された。

中国には伏羲&女媧という男女双体の神もいる。
伏羲&女媧は兄妹または夫婦とされ、伏羲の右手と女媧の左手はつながっている。

File:Anonymous-Fuxi and Nüwa3.jpg

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AAnonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg よりお借りしました。
作者 匿名 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


手のつながった伏羲&女媧の姿は、男女の神が手をつなぎあう姿をした道祖神を思わせる。
おそらく伏羲&女媧と道祖神は習合されているのだろう。



川治温泉 如意輪観音(向かって右)と道祖神(向かって左)

②女神が男神の足を踏みつける神

大聖歓喜天という仏教の神がある。
大聖歓喜天はもともとはヒンズー教の神であったのが、のちの仏教にとりいれられて仏法守護の神とされた。
大聖歓喜天のお姿は道祖神や伏羲&女媧と同じく男女の神が抱きあう姿で表され、次のような伝説がある。

鬼王ビナヤキャの祟りで国中に不幸な出来事がおこった。
そこで十一面観音はビナヤキャの女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われた。
ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、『自分のものになれ』と命令した。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓った。
 

双身歓喜天像の相手の足を踏みつけているほうが、十一面観音菩薩の化身ビナヤキャ女紳とされる。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

③猿田彦神は天照大神だった?

道祖神は日本では猿田彦神と天鈿女の男女双体の神だとされているということはすでに述べたとおりだが、猿田彦神と天鈿女は記紀神話の天孫降臨のシーンに登場する。

天孫ニニギの葦原中国降臨の際、天上の道が八衢に分かれている場所に立ち、高天原から葦原中国までを照らす神があった。
天照大神と高木神は天鈿女に命じて、神の名前を尋ねさせた。
天鈿女は神の前にたち、胸をあらわにし、腰ひもをずらし、神に名を訪ねた。
すると『私は国津神で猿田彦神と申します。ニニギを葦原中国まで道案内しようと思い参りました』と答えた。
ニニギは猿田彦神に道案内されて葦原中国の日向の宮へと天下った。
その後、ニニギは天鈿女に『猿田彦神をもともと彼が住んでいた伊勢へと送り届け、猿田彦神の名前を伝えて仕え祭れ』と命じた。
ここから天鈿女は猿女君と呼ばれるようになった。
のちに猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死んだ。(古事記)


猿田彦神は「高天原から葦原中国までを照らす神」だと記述があるが、これにぴったりな神名を持つ神様がいる。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)である。

高天原は天、葦原中国は国といってもよく、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊はまさしく「高天原から葦原中国までを照らす神」という神名ではないか。

天火明櫛玉饒速日尊という神名は先代旧事本紀による記述で、記紀では単にニギハヤヒとなっている。
猿田彦神とニギハヤヒは同一神だと考えられる。

記紀には天照大神は女神であると明記されているが、天照大神は男神であるという伝承は各地に伝わってる。
天照大神は天岩戸に隠れるが、天鈿女のストリップに興味を持って外に出てきた。
女性のストリップを喜ぶのは男だ、よって本当の天照大神は男神の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=ニギハヤヒではないかとする説もある。

ニギハヤヒは初代神武天皇よりも早く畿内に天下っていた神である。
のちに日向から神武が東征してきて畿内入りしたとき、神武はナガスネヒコという地元の豪族と争った。
ナガスネヒコはニギハヤヒを神として奉じており、ニギハヤヒとナガスネヒコの妹の間にはウマシマジノミコトという御子もあった。
ニギハヤヒやウマシマジノミコトは物部氏の祖神とされる。
ところがニギハヤヒは神武に服し、自分を神として崇めていたナガスネヒコを殺したと記紀には記述がある。
こうして神武天皇は初代天皇として大和で即位する。

この記述から、畿内には神武以前に物部王朝があったとする説がある。

磐船神社 天の磐船

磐船神社(大阪府交野市) 
写真は御神体の天の磐船。
ニギハヤヒはこの天の磐船を操ってここに天下ったと伝わる。


⑧神武は物部王朝の入り婿になった?

初代神武天皇と10代崇神天皇はどちらも和風諡号を「ハツクニシラス」という。
「ハツクニシラス」が二人いるのはおかしい。
そのため、神武と崇神は同一人物ではないかとする説がある。

そして崇神天皇には「ミマキイリビコイニエ」という和風諡号もある。
11代垂仁天皇は和風諡号を「イクメイリビコイサチ」といい、諡号に「イリ」とあるため「イリ王朝」と呼ばれることもある。
この「イリ」とは「入り婿」の「イリ」だとする説がある。

記紀神話には葦原中国に天下ったニニギがオオヤマツミの娘・コノハナサクヤヒメと結婚したり
ホオリが竜宮に行って海神の娘・トヨタマヒメと結婚するなど、入り婿になる話が多いのは、史実を反映したものなのかもしれない。

つまり、崇神=神武は物部王朝に婿入りし、物部氏から政権を奪ったのではないかということである。

天照大神は物部氏の祖神・天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)=ニギハヤヒであり、代々、ニギハヤヒの血を引く者が天照大神(天皇)となって大和の国を統治するというルールがあったのではないだろうか。

そこで、神武=崇神は自分の妻である物部氏の女性を天照大神としたのだと思う。
そうすれば、神武=崇神の子孫が天照大神の子孫を名乗っても嘘とはいえない。(天皇家の祖神は天照大神とされる。)

しかし神武=崇神は自分の血をひく者しか天皇になれないように、皇位継承は男系に限っている。

④道祖神はなぜ手をつなぎあっているのか。

ニニギは猿田彦神に道案内されて葦原中国へ天下ったのち、天鈿女に『猿田彦神をもともと彼が住んでいた伊勢へと送り、彼の名前を伝えて仕え祭れ』と命じている。

ニニギは天鈿女に『猿田彦神に仕え祭れ』と命じているが、『仕える』というのは『性的に奉仕する』ということだと思う。
天鈿女は天照大神が天岩戸に隠れたときにはストリップをして神々を笑わせている。
また猿田彦神に出会ったときにも胸を開き、腰ひもをずらして誘惑している。
天鈿女は性の女神なのである。

日本では政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人は死後怨霊となって疫病や天災をもたらすと考えられていた。
政権を奪われ、太陽神という神格も奪われたニギハヤヒは怨霊になったことだろう。
『猿田彦神に仕え祭れ』の『祭れ』とは、『祟り神である猿田彦神を神として祀り上げることで守護神に転じよ』ということだと思う。

猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市))の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死んだ。
貝は女性器の比喩だろう。
つまり、猿田彦は天鈿女の女性器に手を挟まれて抜けなくなり、愛欲に溺れて死んだという意味だと思う。

既に述べたように道祖神は猿田彦神と天鈿女の男女双体の神像とされる。
道祖神は男神と女神が手を繋ぎあっているが、実は手を繋ぎ合っているのではなく、天鈿女の女性器に猿田彦神の手が挟まれて死んだ状態を表しているのではないだろうか。
歓喜天は女神が男神の足を踏みつけているが、中国の伏羲&女媧や道祖神は足のかわりに手を押さえつけた姿で表されているのだ。

猿田彦神は伊勢が故郷であるが、伊勢には天照大神を祀る伊勢神宮がある。
天照大神を祀る伊勢神宮が猿田彦神の故郷ということなのだろう。

河治温泉 道祖神 
河治温泉 道祖神

⑤御霊・和霊・荒霊と男神・女神

神はその表れ方によって御霊・和霊・荒霊の3つに分けられるという。
御霊とは神の本質、和霊とは神の和やかな側面、荒霊とは神の荒々しい側面のことである。

御霊・・・・・神の本質
和霊・・・・・神の和やかな側面
荒霊・・・・・神の荒々しい側面


そして神には性別があるが、男神は荒霊を、女神は和霊を表すとする説がある。
とすれば、神の本質である御霊は男女双体になると思う。

御霊・・・・・神の本質・・・・・・・・・男女双体
和魂・・・・・神の和やかな側面・・・・・女神
荒魂・・・・・神の荒々しい側面・・・・・男神


大聖歓喜天や猿田彦&天鈿女の説話は、和霊=女神、荒霊=男神とする観念をうまく表している。

御霊・・・・・神の本質・・・・・・・・・男女双体・・・・・大聖歓喜天・・・・・・道祖神
和魂・・・・・神の和やかな側面・・・・・女神・・・・・・・ビナヤキャ女神・・・・天鈿女
荒魂・・・・・神の荒々しい側面・・・・・男神・・・・・・・鬼王・ビナヤキャ・・・猿田彦神


御霊・和霊・荒霊という日本神道の観念は、大聖歓喜天の信仰の影響を受けたものではないだろうか。

下呂温泉 飛騨街道 道祖神?

下呂温泉 道祖神

⑥太陽(猿田彦)と月(天鈿女)が結婚すると星の神になる。

陰陽思想では男は陽で女は陰、太陽(日)は陽で月は陰とする。
天体性別
太陽(日)

記紀神話では天照大神は女神だとしているが、世界的に見ても太陽神が女神というのは珍しい。
やはり、太陽の神・天照大神とは照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)=ニギハヤヒ=猿田彦だろう。
そして猿田彦の手を押さえつけている天鈿女は月の神だと考えられる。

太陽と月が重なり合う(結婚する)ということは日食を意味する。
詳しくはこちらの記事をお読み下さい。→ 「太陽と月が結婚すると星が生まれる?」 

日食になると闇になって昼間は見えないはずの星が見える。
もしかすると昔の人々は日と月が重なり合った結果、光がくだけちって星になると考えたのかもしれない。

御霊・・・・・神の本質・・・・・・・・・男女双体・・・・・大聖歓喜天・・・・・・道祖神・・・・星の神
和魂・・・・・神の和やかな側面・・・・・女神・・・・・・・ビナヤキャ女神・・・・天鈿女・・・・月の神
荒魂・・・・・神の荒々しい側面・・・・・男神・・・・・・・鬼王・ビナヤキャ・・・猿田彦神・・・日の神



このように考えると、太陽神・天照大神の子孫なのに、天皇という称号を名乗っていることの理由もとける。
天皇とは道教で北極星を司る神のことである。

太陽神・天照大神の子孫である天皇家の男子は、即位する際、月の神と契って男女双体の御霊となると考えらえたのでははないだろうか。
月の神と契った太陽の神は星の神になる。
それで天皇という称号を用いているのではないかと思う。

⑦衣通姫は和霊だった。

長々と説明してきたが、ようやくここで本題に戻ることができる。
古今和歌集仮名書には「小野小町は古の衣通姫の流なり」と記されているが、この衣通姫は住吉明神・柿本人麻呂らとともに和歌三神の一柱とされている。

柿本人麻呂は男神、衣通姫は女神である。
そして住吉明神とは底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命の総称である。
その名前から考えて底筒男命、中筒男命、表筒男命は男神である。
そして息長足姫命とは神宮皇后のことで女神である。
つまり、住吉明神とは三柱の男神と一柱の女神からなる神なのである。
女神が一柱であるのに対し、男神が三柱あるのは一柱の男神をさらに御霊・荒霊・和霊とわけたのだろうか。
ともあれ、住吉明神は男女双体の神だといえる。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体・・・・・住吉明神(底筒男命、中筒男命、表筒男命+息長足姫命)
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・・・衣通姫
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・・・柿本人麻呂

住吉大社 レイアウト

↑ 住吉大社の神殿の並びは上の図のようになっている。
これはオリオン座の三つ星の並びとよく似ており、住吉明神はオリオン座の三つ星(みたらし星)を表した神だと考えられる。

現在、住吉明神に星の神という神格はなく海の神として信仰されている。
オリオン座の三ツ星は航海の指標とされており、住吉明神を海の神とするのは星の神の二次的な神格だといえるだろう。
住吉明神は星の神という神格を奪われ、二次的な神格である海の神へと神格を変えられたのだろう。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体・・・・・住吉明神(底筒男命、中筒男命、表筒男命+息長足姫命)・・・星の神
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・・・衣通姫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・月の神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・・・柿本人麻呂・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日の神



「小野小町は衣通姫の流なり」とあるのは、小野小町も衣通姫のような和霊であり、月の神という意味だと私は思う。

髄心院 小野小町像 

髄心院に展示されていた小野小町像


小野小町は男だった⑦ 妙性寺縁起 『語呂合わせで神格が変わる神』 へつづく~
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[2017/05/16 00:46] 小野小町は男だった | TB(0) | CM(0)

翁の謎⑯ 祇園祭 黒主山 『白い神から黒い神に転じた大伴家持』 

翁の謎⑮ 勝尾寺 三宝荒神社 『白は荒魂 黒は和魂?』よりつづきます~

祇園祭 山鉾巡行 黒主山  
祇園祭 山鉾巡行 黒主山

●「志賀」と「草子洗い」

祇園祭の山鉾のひとつ・黒主山は、謡曲・志賀を題材とした山である。

今上天皇に仕える臣下が桜を見ようと江州志賀の山桜を見ようと山道を急いでいたところ、薪に花を添え花の陰に休む老人に出会った。
この老人が大友黒主で、和歌の徳を語って消え去るが、臣下の夢の中に現れて舞を舞う。(謡曲・志賀)


大友黒主とは六歌仙(僧正遍照・在原業平・喜撰法師・文屋康秀・小野小町・大友黒主)の一人で、古今和歌集仮名序(古今和歌集の仮名で記された序文)に『大友黒主はそのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし 。』と記されている。
謡曲・志賀出大友黒主が花の陰に休む老人として登場するのは、この古今和歌集仮名序の文章を受けたものなのだろう。

また能に『草紙洗い』という演目があり、やはり大友黒主が登場する。
『草子洗い』は次のような筋である。

小野小町と大伴黒主が宮中で歌合をすることになった。
歌合せの前日、大伴黒主は小町の邸に忍び込み、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きした。

蒔かなくに 何を種とて 浮き草の 波のうねうね 生ひ茂るらん
(種を蒔いたわけでもないのに何を種にして浮草が波のようにうねうねと生い茂るのでしょうか。)

当日、紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らが列席して歌合が始まった。
小町の歌は天皇から絶賛されるが、黒主が小町之歌は『万葉集』にある古歌である、と訴えて、万葉集の草紙を見せた。
ところが小町が草紙に水をかけると、その歌は水に流れて消えてしまった。
黒主は昨日盗み聞いた小町の歌を万葉集の草紙に書き込んでいたのだった。
策略がばれた黒主は自害を謀るが、小町がそれをとりなして和解を祝う舞を舞う。(能・草紙洗い)


『志賀』では黒主は『和歌の徳を語る老人』であるが、『草子洗い』では『小町の歌を盗み聞くずる賢い人物』として描かれている。
いったい、大友黒主とはどのような人物だったのだろうか?

祇園祭 宵山 黒主山 御神体 

黒主山 御神体

●大友黒主は古の猿丸大夫の次なり。

古今集には仮名書のほかに「真名序」とよばれる漢文で記された序文がある。
内容は仮名書とほとんど同じだが、微妙に表現が違っている。
たとえば、仮名書では
大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。 
となっているが、真名序は次のようになっている。(読み下し文)
大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。 

真名序には『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』 とある。
これはどういう意味だろうか。

真名序を書いたのは紀淑、仮名序を書いたのは紀貫之だと言われているが、紀貫之は古今伝授の創始者である。
古今伝授とは紀貫之より代々伝えられた和歌の極意のことで、伝授する人物は和歌の第一人者に限られた。

鎌倉時代には藤原定家が父親であり師匠でもあった藤原俊家から古今伝授を受けている。
『古の猿丸大夫の次なり』の意味を定家ならば知っているかもしれない。
そう思って定家が撰んだ百人一首を調べてみた。

百人一首のそれぞれの歌には1から100までの番号が振られている。
もしかしたら定家は『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』という仮名序の文章を受けて、百人一首において大友黒主の正体を明らかにしているのではないか、と思ったのだ。
つまり、猿丸大夫の次の歌人が、大友黒主ではないかという推理だ。

百人一首では猿丸大夫は5番だった。
その次・・・6番は大伴家持だった!

大友黒主は大伴黒主と記されることもある。

また大友黒主と大伴家持はよく似た、というよりもほとんど同じ歌を詠んでいるのだ。

白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)



白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。)


古歌の語句・発想・趣向などを取り入れて新しく作歌する手法のことを『本歌取り』という。
本歌取りで大切なのは、古い歌をベースにしながら、あくまでもオリジナリティのある歌を詠むことである。
大伴黒主の歌は大伴家持の歌とほとんど同じで、本歌取りではない。

ほとんど同じと思われるふたつの歌の、一方は大伴黒主、一方は大伴家持の歌であるという。
このことからも、ふたりは同一人物ではないかと思われる。

祇園祭 宵山 黒主山 

祇園祭 宵山 黒主山


●そのさまいやし


大伴氏は武力で天皇家に仕える家柄だった。
仮名序にある『薪負へる山びと』とは、矢を負う姿を喩えたものではないだろうか。

また大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座したとして、死後、墓から死体が掘り出されて子孫とともに流罪となっている。
仮名序の 『大友黒主は そのさまいやし』というのは墓から掘り出された死体の様子を言っているのではないだろうか。
大伴家持の死体は腐敗し、蛆がわいたような状態であったであろうと想像される。

真名序に『頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。』とあるが、逸興とは死体が掘り出されたことを言っているのだろう。
『鄙し』とは『いやしい』という意味である。

●万葉集を編纂した大伴家持 

大伴家持は優れた歌人であり、万葉集を編纂した人物でもあった。
そして草紙洗に登場する大友黒主以外の歌人、小野小町・紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らは古今和歌集の歌人である。

『草紙洗い』において、大友黒主=大伴家持は万葉集の中に小町の歌を書き入れているが、 『書き入れる』というのは『編纂する』という意味だろう。
万葉集を編纂した大伴家持(大友黒主)だからこそ小町の歌を万葉集に書き入れることができたのである。

小野小町はこれは『古今和歌集』の歌なので、『万葉集』に書き入れることはできませんよ、と大伴家持を諭したというのが、『草子洗い』のテーマだと思う。

つまり、『草子洗い』は大伴家持がタイムスリップして後世に現れたという物語だと思う。

また『志賀』において、黒主は和歌の徳を説いているが、これなども万葉集を編纂した大伴家持にふさわしい行為だといえるのではないだろうか。

●男女双体は荒魂を御霊に転じさせる呪術


藤原定家は百人一首に大伴家持の次の歌を採用している。

かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける/大伴家持
(年に一度、天の川に鵲が橋をかけ、その橋を渡って牽牛と織姫が逢瀬を楽しむという。その橋のようにみえる宮中の階段に白い霜がおりているところを見ると、もうすっかり夜がふけてしまった。)


「霜の白き」は天上に輝く星が白いのを霜に喩えたとする説もあるが
私は「宮中の階段に霜がおりているのを天の川にかかる橋に見立てた」とする説のほうをとりたいと思う。

「宮中の階段に霜がおりているのを天の川にかかる橋に見立てた」とする説は、『大和物語』百二十五段の壬生忠岑の歌では御殿の御階(みはし)()を「かささぎのわたせるはし」によって喩えていることによるもので、賀茂真淵が唱えた。

まずポイントとして押さえておきたいのは、これが天の川伝説、すなわち牽牛と織姫が年に一度の逢瀬を楽しむとされる七夕に関する歌だということである。

牽牛と織姫が逢瀬を楽しむというのは、男女が和合するということだ。

仏教の神・歓喜天は男女が和合したおすがたをしておられ、次のような伝説がある。

鬼王ビナヤキャは祟りをもたらす神であった。
そこへ十一面観音の化身であるビナヤキャ女神があらわれ、鬼王ビナヤキャに「仏法守護を誓うならあなたのものになろう」と言った。
鬼王ビナヤキャは仏法守護を誓い、ビナヤキャ女神を抱いた。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

↑ 相手の足を踏みつけている方がビナヤキャ女神である。

この物語は、御霊・荒魂・和魂という概念をうまく表していると思う。

神はその現れ方で、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるといわれる。
そして荒魂は男神を、和魂は女神を表すとする説があるのだ。
すると神の本質である御霊とは男女双体と言うことになると思う。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・男神
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・女神


男女和合は荒魂を御霊に転じさせる呪術だったのではないだろうか。

そして鬼王ビナヤキャを牽牛、ビナヤキャ女神を織姫に置き換えてもいいだろう。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・牽牛・・・男神
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・織姫・・・女神


つまり、牽牛と織姫の逢瀬は、荒魂を御霊に転じさせる呪術であったのではないか、ということである。

●白黒コントラストの鳥・鵲と白式尉・黒式尉

次に注意したいのは、鵲という鳥についてである。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

上の動画を見ればわかるとおり、鵲はくっきりした白黒のコントラストを持つ鳥であり、太極図を思わせる。

File:Yin and Yang.svg

太極図

ウィキペディア(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yin_and_Yang.svg?uselang=ja) よりお借りしました。
ありがとうございます。

太極図とは「陰が極まれば陽となり、陽が極まれば陰となる」という道鏡の考え方をあらわすもので
白は陽、黒は陰とされる。

男は陽、女は陰とされるので、男が白=荒魂で、女が黒=和魂だろう。
そう考えると、太極図は先ほどお話しした歓喜天を図案化したものだと言っていいかもしれない。

鵲の白黒のコントラストはこの太極図のほか、奈良豆比古神社の翁舞の白式尉・黒式尉を、また勝尾寺に伝わる白髪が黒髪になった女性の話を思わせる。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉


奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

奈良豆比古神社では白式尉は志貴皇子で、天皇に近い人であったと伝わっている。左は左大臣、右は右大臣である。

黒式尉は鈴をふり、田植や種まきの所作をする。

さきほど、男神は荒魂で女神は和魂とする説があるといったが、荒霊を白、和魂を黒であらわすこともあったのではないだろうか。

白は百-一=白となるので、九十九をあらわす。
九十九はつくもとも読み、付喪神(つくもがみ/器物につく妖怪)である。

黒は分解すると「田」「土」「、、、、」なので白が黒に変化すると、付喪神は田起こしの神、種まき(、、、、は種のように見えるので)の神になるということなのかもしれない。

●白い神だったはずなのに黒い神になってしまった大伴家持

家持の歌を私流に現代語訳していよう。

かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける/大伴家持

まるで太極図のように見える鵲。
また鵲は白い神(荒霊)と黒い神(和霊)が和合しているかのようにも見える。
その鵲が天の川に橋をかけ、年に一度牽牛と織姫が逢瀬を楽しむ。

鬼王ビナヤキャは祟るのをやめて仏法守護を誓いビナヤキャ女神を抱いた。
歓喜天はその鬼王ビナヤキャとビナヤキャ女神の男女双体の神で、歓喜天は鬼王ビナヤキャがビナヤキャ女神の性的魅力によって骨抜きにされ、祟る力を失ってしまったの図なのだ。
この歓喜天と同じく、牽牛は織姫の性的魅力によって骨抜きにされ、祟る力を失ってしまう。
それが七夕なのだ。

その天の川に鵲がかける橋のように見える宮中の階段に霜が白く輝いている。
霜は日本書紀のトガノの鹿を思わせる。
鹿は全身に霜が振る夢を見るが、霜だと思ったのは実は塩で、鹿は殺されて塩漬けにされているのだった。
謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあった。
鹿は謀反人の喩えである。
藤原種継暗殺事件の首謀者だと考えられている私もまた謀反人である。

宮中に降りた霜がこんなにも白く見えているということは、私はすでに死んで夜の世界にいるということなのだろう。
そして私は鵲に似た太極図があらわすように、陽が極まって陰となり、白い神(荒魂)から黒い神(和魂)へと変わっていくのだ。


わずか31文字の中に、太極図、天の川伝説、トガノの鹿の伝説なども想像させ、実に味わい深い歌である。

秋の田の 仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。)


天智天皇が詠んだこの歌はもともとは万葉集の詠み人知らずの歌であるが、天智天皇が詠むにふさわしい歌だということで
天智天皇御作とされている。

同様に、かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」も、家持が詠んだ歌ではないが家持が詠むにふさわしい歌ということで家持が詠んだ歌とさえたのかもしれない。

この歌が家持自身が詠んだものでまちがいなければ、家持の発する言葉にはとんでもない言霊があって、言葉が実現してしまったということになるかもしれない。
祇園祭・・・阪急烏丸駅付近             
詳しくはこちらをご覧ください・・・ http://kyoto-design.jp/special/gionmatsuri/schedule


[2017/01/20 13:14] 翁の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)
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