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菜畑遺跡は7000年前の遺跡ではない 



【ねずさんの主張】

ねずさんの主張
㈠稲作は弥生時代に始まったと学校で習った。
㈡弥生時代は紀元前1000年~200年300年あたり。
㈢菜畑遺跡を復元したジオラマ。日本最古の水田。高床式住宅。7000年前。
㈣弥生時代に渡来人が稲作をもたらしたというのは嘘。
㈤日本はもともと亜熱帯だったので、ナウマン象や鰐がいた。
㈥稲は熱帯の植物である。雨季と乾季がある。それを人工的に再現したものが水田。(稲は日本に自生していた。)
㈦日本が温帯に変わる過程で自然と水田が発明された。
㈧6000年前の岡山県の朝寝鼻貝塚より稲作をやっていたという証拠がでてきた。
㈨土器のかけらの中にお米の結晶があった。
㈩弥生時代に稲作が渡来したというのは明らかに間違いである。


①縄文土器の縄はシダで作られた?

この動画のコメントにこういうのがある。
「縄文土器に縄目模様があるのは、当時すでに稲作をしていて稲藁で縄をつくったから」
「縄文の縄は稲でしか編めない。麦だと縄のような柔軟性のあるもを編もうとしても折れてしまう。」

縄は稲藁からしか作ることが出来ないということはなく
麻、カラムシ、アカソ、イラクサ、またヒノキなどの樹皮などで作られた可能性も考えらえている。

以前の記事、鳥浜貝塚から出てきたのは縄だが、縄は布の衣服があったことに結びつくか?  にも記したように
日本最古の縄は鳥浜貝塚から出土したもので約1万年前のものと考えられている。

調べたところ大麻製とあったので、記事にも大麻製と書いた。

しかし、http://aomori-jomon.jp/essay/?p=10027
↑ こちらの記事によれば、リョウメンシダの葉柄・中軸、ツヅラフジのツル、ヤマブドウの樹皮などでできていると書いてあった。

鳥浜貝塚から出土した縄文時代前期の三つ組みの縄 の写真も掲載されている。

そういうわけで、「縄があった」事と「稲藁で作った」事を安易に結びつけるのはまちがいなのだ。

枚岡神社 注連縄掛神事

平岡神社 注連縄作り 注連縄は稲藁でつくるが、稲藁以外のものでも縄は編める。

②菜畑遺跡は7000年前の遺跡ではない


㈢菜畑遺跡を復元したジオラマ。日本最古の水田。高床式住宅。7000年前。

とねずさんはおっしゃっているが、動画コメントで多くの人が7000年前は間違いであると指摘している。

https://www.city.karatsu.lg.jp/manabee/kyoiku/kyoiku/inkai/bunkazai/bunkazaihogo/nabatakeiseki.html
上記塔津市のサイトによると、「今から約2500~2600年前の縄文時代晩期中頃のもの」とある。

※縄文時代、弥生時代の区分については議論があるが、ウィキペディアは縄文時代を14000年頃 – 前10世紀、弥生時代を前4世紀ー後3世紀中ごろとしている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3

千早赤阪村 棚田

千早赤坂村 棚田


③稲作は半島経由の水田耕作と、中国経由の雑駁農耕があった?朝寝鼻貝塚のものは後者では?

㈧6000年前の岡山県の朝寝鼻貝塚より稲作をやっていたという証拠がでてきた。


朝寝鼻貝塚では約4000年前の貝塚基底部より貝殻類や土器片が出土。
さらにその下層部から縄文前期の掻器・ 石鍬・獣骨・炭などが出土しており、約6000年前の遺跡と推定されている。

そして、この土壌から約6000年前の栽培種の稲の細胞化石が検出された。

なので「6000年前の岡山県の朝寝鼻貝塚より栽培種の稲の細胞化石がでてきた」のは正しいのだが
「栽培種の稲の細胞化石がでてきた」ことと「6000年前稲作をやっていた」ことを容易に結びつけるのが科学的な態度であるとは思えない。

これについてはいろいろと議論があるようだ。

たとえば、https://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_all.html
上のサイトで、静岡大学農学部助教授の佐藤 洋一郎 氏が稲作について次のような趣旨を話されている。

●日本の稲作はインドのアッサムや中国の雲南が起源だというのが通説だった。(建物の煉瓦に含まれているモミの長さなどを元に推測)
●中国の長江下流の河姆渡(かぼと)で7000年前の遺跡が発見され、栽培稲、栽培稲の先祖に当る野生稲の痕跡が発見された。
さらに野生稲から栽培稲へと変わっていった痕跡も発見されている。
●稲はインディカとジャポニカの2種類ある。
さらにジャポニカは温帯ジャポニカ(水田栽培向き)と、熱帯ジャポニカ(陸稲。畑作向き)の2種類に分れる。
●河姆渡のものはジャポニカで、地面にモミを播いて栽培(雑駁農耕)したのではないか。
●その理由は、長江流域は湿地帯でモミを播くだけで稲が育つためである。
●アジアで水田で稲作をしているのは半分くらい、あとの半分は今でも雑駁農耕。
●日本の稲作は水田栽培が中心で、縄文時代晩期に渡来人達によって持ち込まれたとされるが、水田栽培以外の稲作も行われていたのではないか。
●縄文時代の地層から、稲のプラントオパールが検出されている。
プラントオパールとは、植物の細胞にたまる0.05−o程のガラス状のケイ酸の塊が地中に残ったもののこと。
プラントオパールにより過去の植生や栽培植物の種を判別することができる。

日本で最も古いプラントオパールは岡山の朝寝鼻貝塚のもので、6000年前のもの。
●1990年代、縄文時代にも稲作があったと考えられるようになった。
●青森の縄文遺跡・三内丸山遺跡はおよそ5000年前のものと考えられているが、クリを大量に栽培していた可能性がある。
●野生植物の集団はDNAの並びはバラバラだが、三内丸山遺跡のクリはDNAパターンが揃っていた。
これは意図的に選抜して植林したためではないか。
●ヒョウタンやマメ、ゴボウなどの栽培植物も発見されている。

●水田は、通説通り、縄文時代晩期に持ち込まれた可能性が高い。
しかしジャポニカの起源だと考えられる長江流域は日本から近く、別のルートで日本に伝来していた可能性もある。
(つまり朝寝鼻貝塚の6000年前の稲のプラントオパールは水田耕作ではなく雑駁農耕されていた可能性がある。)

●曲金北(まがりがねきた)遺跡で、約5万−uもの広さを持つ古墳時代の水田跡が発見された。
3−4畳半程の小区画が連続しており、休耕田が含まれていた。
100の小区画のうち、水田は22区画。
DNA分析をしてみると、近在栽培されていた稲は、2割が水稲、4割が陸稲だった。
見掛けは水田だが、焼畑などの雑駁農耕をしていた。これは全国の弥生遺跡に共通する特徴。
(菜畑遺跡の水田あとも同様であった可能性がある。)
●縄文晩期から作られたごく初期の水田は、縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで見た水田を見よう見真似で作ったのではないか?
●大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっている。
稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠である。
●柳田國男氏は「稲作は熱帯の島々から琉球列島を経て九州に達する」と説かれたが、南西諸島に稲作跡がない。

●日本の各所に点在する稲のRM1-b遺伝子。
中国では90品種を調べた結果、61品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、朝鮮半島では、55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。なお現在の日本に存在する稲の遺伝子は、RM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類


わかりやすく、しかも面白い記事なので、一読をオススメしたい。

佐藤氏の主張が絶対正しいとは言わない。
朝寝鼻貝塚のプラントオパールの品種、遺伝子について述べられていない点も気にはなる。
しかし、こういう記事を読むと、6000年前のプラントオパールの発見を、水田耕作に結び付けるのがいかに安易であるかがわかるかと思う。

稲は水田耕作しかしないなんてことはないのだ。

なお、 岡山県灘崎町にある彦崎貝塚でも約6000年前のイネのプラントオパールが見つかっている。
朝寝鼻貝塚(岡山市)でプラントオパールは微量であったため、上層から混入したとか、風で飛ばされて飛来した可能性も説かれていたが、彦崎貝塚のものは大量に発見されており、稲作を行っていた可能性が指摘されている。
しかし、このプラントオパールは中国南部原産の可能性があるという。
ということは、水田耕作ではなく雑駁農耕であった可能性も考えなければいけない。

白米千枚田

白米千枚田

④朝寝鼻貝塚より発見されたのは6000年前の栽培種の稲の細胞化石で、野生種の細胞化石ではない。


㈥稲は熱帯の植物である。雨季と乾季がある。それを人工的に再現したものが水田。(稲は日本に自生していた。)
㈦日本が温帯に変わる過程で自然と水田が発明された。

これについては、③でご紹介した記事を読む限り、次のような理由で否定されているのではないかと思う。

中国・河姆渡(かぼと)で7000年前の栽培稲・栽培稲の先祖に当る野生稲の痕跡が発見されている。
朝寝鼻貝塚より発見されたのは6000年前の栽培種の稲の細胞化石なので、これだけでは稲が日本に自生していたとはいえない。

調べてみて、はっきりした理由がわかれば追記をいれる。

穂谷 稲穂

枚方市穂谷

⑤ねずさんの考え方

数度にわたり、ねずさんの説について見てみたが、どうやら彼には次のような考え方の特徴があるように思える。

⑴根拠を説明しない。
・古墳は墓ではなく田圃を作るために削った土をもりあげたものである。
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-entry-383.html

⑵説明した根拠が曖昧でわかりにくい。
・李氏朝鮮の庶民が箸を使っていなかった根拠としてあげた写真が不鮮明で小さすぎ、箸をつかっているかどうか確認ができない。
「李氏朝鮮の庶民は箸を使っていなかった」というけど証拠の写真が不鮮明すぎる。 

⑶結論の導き方が短絡的。
・鳥浜貝塚(12,000〜5,000年前)の集落遺跡から繊維製品(具体的には縄)が出土したことを、衣服があったことに結びつける。
・6000年前の稲のプラントオパールが発見されたことを水田があったことと結びつける。(実際には、水田耕作ではなく雑駁農耕であった可能性もある。)など。

⑷明らかな間違いがある。
・菜畑遺跡は3000年前の遺跡なのに7000年前だと発言する。

⑸具体的に言わない。
●鳥浜貝塚(12,000〜5,000年前)の集落遺跡からでてきたのは縄だが、繊維製品と表現する。

⑹学者や学会の頭が固いと悪口をいう。

福本遺跡 竪穴式

福本遺跡(弥生時代の竪穴式住居を再現したもの)







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[2020/01/22 14:39] トンデモ説? | TB(0) | CM(0)

他人に「汚い」と悪口を言われたら、あなたは「汚い」のか? 




①古代中国が、汚い民族だったから朝鮮を濊族と呼んでいたというのは、何か文献に書いてあることなのか。

上の動画の前半ででねずさんがこんなことを言っている。

a..古代中国は朝鮮を濊族と呼んでいた。
b..濊は汚穢(糞尿)の穢で「のぎ偏」だがあえて「さんずい偏」にしているが、どれほど汚い民族だったのか。


これを言い換えるとこうなる。

「古代中国が朝鮮を濊族と呼んでいたのは、朝鮮の人々が汚い民族だったからである。」

古代中国が、朝鮮の人々が汚い民族だったから朝鮮を濊族と呼んでいたというのは、何か文献に書いてあることなのか。
いつものように、ねずさんはここれについての根拠を示していない。

単に濊という漢字に「穢れる(けがれる)」という意味があるので、濊と呼ばれた朝鮮人は「汚い民族だったにちがいない」とい短絡的な考えを事実であるかのように話しているにすぎないのではないだろうか?


②「濊」は「網をぱっと打つ音」、「穢」「」は「雑草が生い茂って荒れる」の意

汚穢(糞尿)の穢はのぎへんだが、民族の濊は、中国の史書『三国志』や『後漢書』の記載によるもので、
『漢書』武帝記では、『漢書』食貨志ではと表記されている。

濊・薉・穢、それぞれの漢字の意味を調べてみた。

①水が多いさま 
②けがれる。けがれ。穢と同じ。
③あみをぱっと打つ音
①雑草が生い茂って荒れる。
②穢れ
①雑草が生い茂って荒れる ②田畑が荒れる。 ③穢れ ④悪者

薉・穢は「穢れ」という意味のほかに、「雑草が生い茂って荒れる」という意味もある。
また濊は「穢れ」という意味のほかに「水が多い」「網を打つ音」などの意味もある。

孔子(紀元前552年または紀元前551年‐紀元前479年)が編集した『詩経』に「河水洋洋,北流活活。施罛濊濊,鱣鮪發發」とある。
これは「河水は洋洋、北に流れて活活。罛(あみ)を施せば濊濊(かつかつ)、鱣(こい)鮪(しび)は發發(さかん)」という意味で、
濊は「③あみをぱっと打つ音」の意味で用いられている。

濊はもともと「あみをぱっと打つ音、」薉や穢は「雑草が生い茂ってあれる」「田畑が荒れる」という意味であり、そのような意味で民族名を濊、薉、穢とつけた可能性もある。

そういう可能性を無視して、「汚穢(糞尿)の穢からくる」と決めつけるのが科学的学問的な態度でないことは説明するまでもないだろう。

文献名成立年代
詩経孔子が編集した。(紀元前552年または紀元前551年‐紀元前479年)
濊(穢)・・・紀元前75年ごろにはいた。
漢書薉 後漢の章帝(在位/75年‐88年)の時に班固・班昭らが編纂した。
三国志撰者は西晋の陳寿(233年- 297年)
後漢書編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)


③穢は衛生的な穢れではなく、精神的な穢れであった可能性も。


穢の意味は「③穢れ」のほか、「④悪者」とあるところから察するに、衛生的な穢れというよりも精神的な穢れの意味であった可能性もあると思う。

中世の日本にも「穢れ思想」があったが、それは衛生的な穢れではなく、精神的な穢れであった。

旧暦6月と12月には大祓をする習慣があったが、それらは精神的な穢れを祓う行事で
息をふきかけて穢れを人形(ひとがた)に移し、それを川や海に流したりしていた。
そんなことをしても、体についた汚れを落とせるはずがなく、大祓は精神的な穢れを祓う行事であることがわかる。


貴船神社 夏越祓

貴船神社 夏越神事 

市比売神社 天児人形2

市比売神社 ひいなまつり 天児(あまがつ)と呼ばれる人形に息をふきかけて自らの穢れを人形に移している。

大祓だけでなく、日本の伝統行事には祓いを目的としたものが大変多い。

842年に橘逸勢が謀反を企てたとして、姓・官位を剥奪の上、「非人」の姓を賜っている。
しかし、死後、無罪であったとして御霊として京都の上御霊神社・下御霊神社に祀られている。
橘逸勢のように政治的に不幸な死を迎えたものは死後、怨霊になると考えられ、天災や疫病の流行は怨霊の仕業だと考えられた。
そこで、怨霊が祟らないように慰霊し、神として祀ったものが御霊である。

下御霊神社

下御霊神社

近畿には中世より非人と呼ばれる人々がいたが、彼らは謀反人の子孫か、謀反人を支持していた人々ではないかと思う。
非人たちは寺社に隷属し、清掃・死体の処理・警備などを請け負い、蔑視される存在であった。

しかし中世の非人たちにどんな罪があるだろう?
ただ、御霊として祀られた人々の血をひいているとか、関係があったというだけである。

それであるのに、穢れた存在であるとされ、非人という身分におとしめられていたのである。

古代、濊・薉・穢と呼ばれた人々も同様の存在であったかもしれない。

④濊族=李朝であることが説明されていない。

上の動画のコメント欄に次のような書き込みがある。

「濊族は現在の金剛山付近に住んだ山岳民族で、領地は日本の北関東より狭く、中国にとっていち郡扱いだったわけだが、濊族がその後李朝になった史実はどこを見ればいいのかな」

https://www.youtube.com/watch?v=KbBCgFTRfME&feature=emb_logoより引用。

全くそのとおりである。ねずさんはまず、濊族=李朝であることを説明しなければならないだろう。

⑤他人に「汚い」と悪口を言われたら、あなたは「汚い」のか?

古代の中国人が、糞尿の意味で濊族と名付けたのが事実としても、濊族という名前がつけられたから汚い民族だったというのもおかしな理論である。

事実でない悪口を言う人なんていくらでもいる。

たとえば「くそったれ」などと現在でもよく言うが、「くそったれ」と言われた人が、本当にどこにでも糞をたれる人であることはほとんどない。
きちんとトイレにいって用を足していることだろう。

また本当は綺麗なのだが、嫉妬心などから「汚い」と言ったりすることも普通にある。
当たり前だが、他人に「汚いといわれた」こととは、「実際に汚い」ことではないのである。

ねずさんの話は全くバカバカしいトンデモ説だと思うが、こういう話に賛同する人がびっくりするほど多い。
日本人のモラル低下、思考能力の低下が心配になってくる。





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[2020/01/19 15:55] トンデモ説? | TB(0) | CM(0)

3万年前の磨製石器の技術は法隆寺建立につながったか? 

 

http://nezu3344.com/blog-entry-1411.html

上記の記事をまとめる。

「日本人と縄文体質 
世界最古の磨製石器が出土した日本は、世界最古の木造加工技術を開発した技術国家でもあった。 」
  
A 群馬県みどり市笠懸町にある岩宿遺跡(いわじゅくいせき)で出土した「槍先形尖頭器(局部磨製石器)」は約3万年前、旧石器時代のもの。
B これは「人の手による加工技術の産物」として「世界最古の道具」である。
Ⅽ 同様の石器はオーストリアのヴォレンドルフ遺跡出土のものが約2万5000年前。
Ⅾ 日本の加工技術は3万年の歴史がある。
E 青森県の三内丸山遺跡は5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡で、栗やクルミ、トチなどの木の栽培跡が確認されている。
また六本柱建物跡なども発見されている。
F 六本柱建物を作る際、木を伐採するのに石器を用いた。
G木の根もとで火を起こして、伐りたいところを焦がし、焦がしたところを小さくて先の尖った石斧で、すこしづつ大木を削った。
H このときに先の尖った小型の石器が用いられた。
Ⅰ  加工をともなわない石器は日本では12万年前のものが発掘されている。
J 日本に人が住み始めたのはいまから3万年前。その3万年前の世界最古の磨製石器が日本で出土した。
   さらに日本で12万年前の石器が出土した
K 磨製石器は3万年前のもの、法隆寺の五重塔は1300年ほど前の建造物で、時代は違うが、ほとんど「槍(やり)カンナ」と呼ばれる先の尖ったノミのような道具一本でつくられている。
Ⅼ 槍鉋(やりかんな)は鉄製だが冒頭の磨製石器が鉄になった形状。
Ⅿ 日本古来の、先の尖った道具一本で、木材に様々な加工を施してしまうという技術は、日本で3万年前から使われていた磨製石器よりつづく技術ではないだろうか。


①岩宿遺跡で出土した「槍先形尖頭器」は局部磨製石斧で約3万年前、旧石器時代のもの。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%99%A8
上記記事によると、石器は次のように分類されるという。
石器時代石器の作り方作成者発見場所
打製石器人類の最も古い道具の一つアウストラロピテクス?
オルドワン型石器群ヒト化人類の最古の石器群礫の一部を打撃して造るホモハビリス?頑丈型猿人?ケニア、タンザニアなど
磨製石器中石器時代(紀元前9000年)磨いた石器ヨーロッパ、西アジアなど
局部磨製石斧3~4万年前石器の一部を磨く日本、オーストラリアなど

岩宿遺跡(いわじゅくいせき)で出土した「槍先形尖頭器」は上表の局部磨製石器に相当する。
局部磨製石斧はオーストラリアやオーストリアでも発見さされている。

また、石器時代は次のように区分される。
旧石器時代前期旧石器時代約200万年前~約10万年前ホモ・ハビリス ホモ・エレクトス 
25~20万年前、ホモサピエンスが登場※1
中期旧石器時代約9~7.5万年前~約3.5万年前ヨーロッパ・中近東・中央アジアではネアンデルタール人(約9~7.5万年前から約3.5万年前)
約7万年前にはホモ・エレクトスが絶滅。
後期旧石器時代約3.5万年前~紀元前約1万年約3万年前から2万4000年前にはネアンデルタール人が絶滅。
ヒト属は現生人類のみとなる。
中石器時代紀元前1万年~紀元前8・6000年
新石器時代紀元前8000年~


② 岩宿遺跡の局部磨製石斧は「世界最古の道具」といえるか?


ねずさんは「B これ(岩宿遺跡の局部磨製石斧)は「人の手による加工技術の産物」として「世界最古の道具」であるとおっしゃっている。

ねずさんはどのように「ヒト」の定義を定めているのか。
ヒト属のことだとすると、ホモ・ルドルフェンシス、ホモ・ハビリス、ホモ・エルガステル、ホモ・エレクトス、ホモ・アンデセッサー、ホモ・ハイデルベゲンシス、ホモ・ネアンデルターレンシス、ホモ・フローレシエンシス、ホモ・サピエンスなどの種類がある。

たぶん、ホモ・サピエンスのことを言っているのだろう。

しかし、旧石器時代の石器を作った人類はホモ・エレクトスやネアンデルタール人ではなく、ホモサピエンスである可能性もある。

ねずさんは下の記事で、現生人類が登場したのは4万年前、と書いておられる。
http://nezu3344.com/blog-entry-4276.html
これはあやまりで、4万年前は現生人類が日本へやってきたとされる年代である。
上記石器時代の区分した表にも書いたとおり、現生人類が登場したのは25万~20万年前とされる。

つまり、現生人類は前期旧石器時代からいたということになる。

また、現生人類が打製石器をとばしていきなり磨製石器を作り始めたとも考えにくい。
岩宿遺跡の局部磨製石斧はホモサピエンスの最古の道具とは言えないと思う。

③日本の加工技術は3万年の歴史がある?

ねずさんは「Ⅾ 日本の加工技術は3万年の歴史がある。」とおっしゃっている。

オーストラリアと日本では、旧石器時代に刃部磨製石斧(局部磨製石斧)が作られた。最古の例はオーストラリアで、4万7千年前にさかのぼるという。日本では3万8千年前から3万5千年前に出現し、打製石斧と併用したが、3万年前には見られなくなった。
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%A8%E8%A3%BD%E7%9F%B3%E5%99%A8より引用

局部磨製石斧は大変古いもので、すすんだ技術力でつくられたことはたしかだ。
しかし、どういうわけか、3万年前には見られなくなってしまうという。
つまり、技術が途切れてしまったということだ。

④日本で出土した12万年前の石器はデニソワ人などの旧人によるもの

「Ⅰ  加工をともなわない石器は日本では12万年前のものが発掘されている。」とねずさんはおっしゃっている。

しかし、これはデニソワ人などの旧人が作ったものと考えられる。
デニソワ人などの旧人は我々ホモサピエンスとは異なる種類の人類であり、すでに滅んでしまっている。
つまり、日本人の先祖が作ったものではない。

現生人類(ホモ・サピエンス)は7〜6万年前に出アフリカを果たし、それ以前にはアフリカ外には分布していなかった。
従って、日本列島最古の石器(砂原遺跡
の12万年前)を遺したのはデニソワ人などの旧人である。
日本列島に現生人類が現れるのは4〜3.5万年前と考えられており、これは日本固有のはプログループⅮプ1a2(Y染色体)
の起源年代とおおむね一致する。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%97%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3 より引用。

⑤日本古来の、先の尖った道具一本で、木材に様々な加工を施してしまうという技術は、磨製石器よりつづく技術か?

城南宮 釿始式 槍鉋 
城南宮 釿始式(ちょうなはじめしき)槍鉋




ねずさんは「Ⅿ 日本古来の、先の尖った道具一本で、木材に様々な加工を施してしまうという技術は、日本で3万年前から使われていた磨製石器よりつづく技術ではないだろうか。」とおっしゃっている。

しかし、法隆寺などの飛鳥時代に建立された寺院は朝鮮半島から招いた渡来人より技術提供を受けて建立した可能性がたかい。

日本最古の官寺は四天王寺といわれている。
聖徳太子が物部守屋との闘いに勝利したのは四天王のご加護があったからとして創建した。

聖徳太子は四天王寺を創建するため、朝鮮半島の百済から3人の宮大工・金剛、早水、永路を招いた。
この3人の一人、金剛重光が創業したのが金剛組という建設会社である。
金剛組の創建は578年で現在も大阪市の四天王寺の近くにある。世界最古の企業だといわれている。

つまり、世界最古の企業は日本にあるが、その創業者は百済からやってきた渡来人であったということである。
四天王寺の創建は593年である。

四天王寺-五重塔

四天王寺

また『日本書紀』の崇峻元年(588)のところに、「百済国が仏舎利や僧などとともに、寺工(てらたくみ)2名、鑢盤(ろばん/仏塔の相輪の部分)博士1名、瓦博士4名、画工1名をおくってきた」という記述がある。
彼らは蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)造営にかかわっている。
法興寺は596年に完成した。

飛鳥寺 ライトアップ

飛鳥寺

法隆寺が創建されたのは607年とされ、四天王寺や法興寺創建よりもあとのことになる。

法隆寺 スーパームーン

法隆寺

聖徳太子はなぜ百済から宮大工を招いたのか。
ただの労働者としてわざわざ百済か羅宮大工を招くとは思えない。
それはやはり、百済にある建設技術をとりいれるためと考えるのが自然ではないだろうか。
そして、法隆寺建設にも百済の建設技術が用いられたのではないかと思える。

槍鉋は鉄製で、日本で鉄がいつごろから作られているかについては諸説ある。
弥生時代の確実な製鉄遺跡がみつかっていないため、輸入していたのではないかとする説が定説だが
広島県三原市の小丸遺跡(弥生時代)が製鉄遺跡ではないかなどともいわれている。

弥生時代の遺跡から槍鉋が出土しており、日本で作られた可能性もあるが、朝鮮半島や大陸から輸入した可能性もある。

弥生時代すでに日本には製鉄技術があり、槍鉋を作っていたかもしれないが
四天王寺・法興寺・法隆寺などの建築技術の多くは、渡来人が伝えたものだと考えられると思う。

⑥海外の先進技術を取り入れようとする態度は日本人の長所だと思う。


飛鳥時代の日本人は百済から宮大工などの技術者を招いて建築技術を取り入れたと考えられる。
また古代の日本人は遣隋使や遣唐使を中国に派遣して先進技術をとりいれようともした。

もしかしたらこれを残念に思う人がいるかもしれないが、私はそうは思わない。
近代の日本も進んだ外国の技術を積極的に取り入れることで、先進国へと成長してきた。
これは日本という国の長所だと私は思う。

ならるりえ 遣唐使船 
なら瑠璃絵で展示されていた遣唐使船




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[2020/01/14 19:05] トンデモ説? | TB(0) | CM(0)

「古墳時代という嘘」は嘘 




上の動画でねずさんがこんなことを言っている。

A 農地を開墾するさい、土地を平にするため土を削る必用があり、削った土を積み上げた。これが古墳である。
B 仁徳天皇陵は大きいので、災害で土砂が崩れたとき災害がおきないように堀(壕)をつくった。
 (堀を掘った土を用いて古墳を作ったのではない。)
Ⅽ 古墳は平地にしかないのがその証拠である。
Ⅾ 古墳は避難所であった。
E 仁徳天皇は土木工事に力をそそぎ、その結果生産高があがって民衆の生活が潤った。
  それを民衆は感謝して仁徳というありがたい名前をおくった。
F 古墳がなくなったのは水路をつくり船で残土を運べるようになったため。
  埋め立て工事に残土が使えるようになった。
G 古墳が崩れてこないように囲いを作った。囲いは四角がつくりやすい。
  もうすこしおしゃれにした円形のものをつなげたのは自然なこと。土が固まったところで囲いをとった。

さすがにこの説については多くの批判コメントがついている。
視聴者はバカではなく、きちんと考えられる人も多いということがわかり、少しほっとした気分になった。

私がねずさんを批判しているのは、彼が憎いからとか、嫉妬しているからではない。

彼は根拠や証拠を示さずに断定的に話す。
コメントにはまっとうな反論を述べたものが多数あるが、そういった反論は無視して、一切答えていない。

また、何かというと安易な陰謀説をもちだしてNHKや歴史学者・考古学者を批判しているが、陰謀があることを証明できるのか。
陰謀というならば、ウオーターゲート事件を調査したウッドワードとバーンスタイン記者のように、徹底的な証拠をつかんでのべてほしいが
そこまでできなくとも、怪しいと思う理由くらいは列挙するべきだと思う。

それにもかかわらず彼には人気があって支持者が大勢いることも私が彼を批判する理由のひとつである。

彼が人気ブロガーでなければ、彼の個人的意見としてほおっておく。
しかし彼を支持する人が大勢いる以上、彼の説のどこが間違っているかを指摘しておく必要があると思うのだ。

ただし、私が批判しているのは彼の説についてであり、彼の人格まで批判しているわけではないことはご理解いただきたいと思う。


① 「古墳は平地にしかない」というのは間違い。古墳は山の上にもある。

ねずさんは「古墳は平地にしかない」と言っておられるが、山の上にある古墳も多数ある。
コメントでも奈良市若草山の上にある鶯塚古墳などの名前があがっている。

②多くの古墳は尾根を利用して作られている。

また多くの古墳は尾根を利用して作られたと考えられている。(尾根を利用せず、土を盛り上げて作った古墳もある。)
尾根を利用して作る場合、盛り土をする必要はほとんどなかっただろう。
古墳は土地を平にするために削った土地を盛ったもの、とするねずさんの説では、尾根を利用して作られた古墳はどう説明するのか。

③河川下流域平野での稲作が広まったのは近世以降?

土地を平らにしないで段差があったほうが、古の水田には便利であったのではないか、とのコメントもある。

そこで調べてみたところ、ウィキペディア「棚田」の項目には次のような内容が記されていた。
「傾斜があまりにも少ない河川下流域の沖積平野は、江戸時代以前は稲作をするのに不適当だった。」と。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%9A%E7%94%B0

猪名川町 棚田

しかし、大和川の付け替え(https://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/about/yamato300/tukekae/tukekae.html#t1)には次のような記述がある。

「大和川が流れていた河内平野は、川が運ぶ肥沃な土砂のおがけで、古代から田畑が開かれ、人々が生活を営んでいたのですが・・・」

仁徳天皇陵がある百舌鳥古墳群あたりは河内平野に含まれると思う。
このあたりで稲作はいつごろから行われていたのだろうか?
これについては、古い記録など調べてみなければならず、現時点では私にはわからない。




④古墳を避難所として使用した証拠はあるのか。

ねずさんは古墳は避難所であったというが、古墳が避難所として用いられた証拠のようなものはあるのだろうか。
例えば、「古墳を避難所として用いた記録」「古墳の上に大勢の人が避難できるような建物物跡」のようなものがあるのかということである。
ねずさんはこういった証拠について一切話していない。
ということは証拠はないのだろう。

⑤堀(壕)、葺石、古墳周囲にめぐらせた埴輪は非難の妨げになりそう。


前方後円墳は仁徳天皇陵だけでなく、堀があるケースが多いが、堀の存在は災害時の非難を妨げるのではないだろうか。

崇神天皇陵 

崇神天皇陵(行灯山古墳)より二上山を望む

崇神天皇陵の周囲にも堀がめぐらされている。




また、多くの古墳で古墳表面の葺石が確認されている。

ナガレ山古墳

ナガレ山古墳

葺石はすべりやすくはないだろうか。避難者がここを上るのは大変なように思えるのだが。
また周囲にめぐらされた円筒形埴輪も避難者の侵入を妨ているようにみえる。

⑥古墳がなくなったのは薄葬令が出されたから。

ねずさんは古墳がなくなったのは、水路ができ船で残土を運べるようになったためとしておられる。

しかし、そうではなく646年に薄葬令が出されたことが原因と考えられている。

薄葬令とは身分に応じて墳墓の規模を制限するもので、これによって巨大古墳は姿を消したとされる。
薄葬令ののちも巨大古墳が作られたケースもあり、薄葬令は日本書記が記された奈良時代の後付けとする説もある。
しかし、その場合でも次のように考えられると思う。
「巨大古墳をつくってはいけない」ということは、「巨大古墳は墓である」という認識があったことを前提としたものであると。

⑦仁徳という諡号は奈良時代に淡海三船がつけた。

ねずさんは「仁徳天皇は土木工事に力をそそぎ、その結果生産高があがって民衆の生活が潤った。それを民衆は感謝して仁徳というありがたい名前をおくった。」と言っている。

しかし民衆が仁徳という名前をおくったという事実はない。
神武、応神、仁徳などは漢風諡号といって奈良時代に淡海三船がつけたものなのだ。

仁徳天皇の時代、漢風諡号はなく、和風諡号のみだった。
ちなみに神武の和風諡号は「かむやまといわれびこのすめらみこと」、応神天皇の和風諡号は「ほむたのすめらみこ」
仁徳天皇の和風諡号は「おほさざきのすめらみこと」である。
当時の人々は仁徳天皇ではなく「おほさざきのすめらみこと」と呼んでいたと思われる。

百舌鳥八幡宮 模型   

堺市役所21階展望ロビーにあった模型(見やすくするため一部加工しました。)



ねずさんは、冒頭にあげたA~Gのようなことを、あたかも事実であるかのように語っているが
それらを裏付ける証拠がないばかりか、上に説明したように明らかな間違いもあり、多くの矛盾が生じている。

繰り返しになるが、ねずさんがおっしゃっていることは、証拠を示しておらず、反論に答えるということもされていないので、到底事実であるとは考えられない。

ねずさんの妄想であるといわれても仕方がないと思う。






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[2020/01/13 21:38] トンデモ説? | TB(0) | CM(0)

鳥浜貝塚から出てきたのは縄だが、縄は布の衣服があったことに結びつくか? 

前回に続き、ねずさんの記事をとりあげる。

「縄文人と弥生人は同じ人」http://nezu3344.com/blog-entry-2250.html

このブログ記事は、長い文章で、多くの内容についてふれている。
中でも「えっ?」と思うのは「nhkが弥生人の頭蓋骨を偽造した」説であるが、これは長浜浩明氏の説だそうで
ねずさんは長浜氏の著書「日本人ルーツの謎を解く」を勧めておられる。
図書館の蔵書検索をしたらこの本があったので予約をした。
まずはこの本を読んでから、私の意見をまとめたいと思う。

今日はこの記事の中の考古学の発見・縄文人は布製の衣類を着ていた説について見てみることにする。

私は考古学の知識に乏しいので、今回ネットで調べてわかったこと、記されていたことなどをまとめる。


①「9500年前の上野原遺跡や、5500年前の三内丸山遺跡などの縄文時代の遺跡など、いまや多数の縄文時代の遺跡から、当時、すでにきわめて高い文明文化が日本に存在していたことが、確認されている。」について。


調べてみたところ、上野原遺跡は縄文時代早期から近世にかけての複合遺跡とある。
縄文時代の始まりは、16,000±100年前とされているので、9500年前、というのは妥当な数字に思える。
三内丸山遺跡は縄文時代中期から中期末葉の大規模集落跡である。やはり5500年前というのは妥当なところだと思う。

②「鳥浜貝塚から、間違いなく布製の衣類を着ていたことが、確認されている。」について。

鳥浜貝塚は、福井県三方上中郡若狭町にある、縄文時代創期から前期にかけて(今から約12,000〜5,000年前)の集落遺跡である。

鳥浜貝塚から投棄物として発見されているのは、貝殻、動物骨、木や種子、葉、土器、石器、骨角器、木製品、漆製品、繊維製品などである。
この繊維線品とは6種類の大麻製の縄で、現存する日本最古の繊維製品である。約1万年前のものだそうである。
このあたり、ねずさんは「間違いなく布製の衣類を着ていたことが確認されている」と言っているが、衣類や布片がでてきたわけではないのである。

【追記】
http://aomori-jomon.jp/essay/?p=10027
↑ こちらの記事によれば、リョウメンシダの葉柄・中軸、ツヅラフジのツル、ヤマブドウの樹皮などでできていると書いてあった。

鳥浜貝塚から出土した縄文時代前期の三つ組みの縄 の写真も掲載されている。


日本最古の衣類の出土物としては、弥生時代の登呂遺跡などから発見された麻制の布片がある。
布があったのであれば、これを加工して、衣服を作ったであろうことは十分に想像できる。

ねずさんは「縄を編むという技術があるので布を作っていたことはまちがいがない。」と言っている。
しかし、縄を編むのと布を織るのは、かなり異なる。



上は縄のつくり方を動画にしたものである。


縄をあむためには、道具は必要なく、手でより合わせるだけで作ることができる。

上の動画は稲わらを用いた縄の作り方で、鳥浜貝塚のものは大麻製の縄ということだが、作り方としては似たようなものであったのではないかと想像する。
麻の茎をさくと長い繊維が採れるので、これを適当な太さにさき、乾燥させて手でより合わせて縄を作ったのではないだろうか。




ちなみに、上の動画は芋麻から糸をつむぐ方法を説明したものである。。
鳥谷遺跡から出土したのは糸ではなく縄ということなので、稲わらでつくった縄のようなざっくりとしたものだったのではないだろうか。
出土物が確認できれば、追記をいれる。


手芸の編み物にはかぎ針編み、棒針編みがあり、いずれも簡単な道具を用いる。
指編みという手法もあるが、かなりざっくりした仕上がりになる。

繊維を布にするには、縦糸と横糸を交錯させる。



これも上記のように簡単な道具を用いる。

編み物や織物の為の道具が簡単な構造のものだからといって、衣類があったとまで結論づけられるだろうか?
簡単とはいえ、何もないところから、かぎ針・棒針・織機のようなものを発明するのは大変な想像力が必要だと思われる。
手で縄を編むのと、編み物や機織で布を作るのはかなりちがうように私には思われる。

現在でも稲わらを用いて藁草履を編んだりすることがある。
藁草履を編むのには道具は必要ないようである。



これを応用して衣服をつくることはできなくるだろうか。
できなくはなさそうである。
そういえば、私も麻ひもを編んで、籠を作ったことがある。
麻ひもを束ねて放射状に広げたときに紐が奇数本になるほうにする。
そして、別の麻ひもで山谷山谷と渦巻き状に編んでいくのである。

しかし、衣服に用いるのであれば、縄よりも細い紐が適していそうだし、やはり簡単な道具があったほうが編みやすそうに覆える。

布片のようなものは腐りやすく後に残りにくいかもしれないが、道具ならばでてくる可能性はあると思う。
もしかしたら、今後発掘調査によってそういったものがでてこないとは限らないが、現時点では、編み物や織物の衣類を身にまとっていた証拠はないというしかないように思える。

ねずさんは「ケガをするのでパンツかふんどしは身に着けていたはずである。毛皮のパンツなどはいていたらキンキンタムシになる」とおっしゃっているが、
それらは編み物や織物による衣類があったことの説明にはなっていない。
ケガをしようと、インキンタムシになろうと、そういう技術がなければ仕方がないし、昔の人は大事なところをしょっちゅうケガしたり、インキンタムシになったりしていたかもしれない。





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[2020/01/10 17:36] トンデモ説? | TB(0) | CM(0)

「李氏朝鮮の庶民は箸を使っていなかった」というけど証拠の写真が不鮮明すぎる。 



http://nezu3344.com/blog-entry-4149.html



ねずさんが上の記事でこんなことを書いている。


①. キムチは日韓併合後に今の形になった歴史の浅い食品。

②キムチに用いる唐辛子は南米のチリ産。

③コロンブスが唐辛子をスペインに持ち帰り、戦国時代にスペインから日本に伝わった。

④秀吉の朝鮮出兵の際に唐辛子は塗り薬として朝鮮に伝わった。

⑤.1670年の朝鮮の「飲食知味方」に「漬け物としてのキムチ」が記されているが、唐辛子は用いられていない。

⑥1809年の「閨閤叢書」には漬物に千切りにした唐辛子を少量入れると書いてある。日本の漬物にも少量の唐辛子を入れることがある。

⑦.1827 年の「林園十六志」に現在のような辛いキムチの記述がある。

⑧1625年、江戸で七味唐辛子が発明され、日本中に広まった。

⑨1811年、半島通信使600名ほどが日本にやってこようとした。しかし彼らは道で脱糞するので徳川家斉は対馬藩で足とめとした。
 半島通信使らはこのとき七味唐辛子を持ち帰り、半島で唐辛子が流行るようになる。

⑩当時朝鮮半島の庶民は箸もスプーンも使わず手づかみで食べていた。

⑪朝鮮半島で、一般の庶民が食事の際に、箸やスプーンを使うようになったのは、明治43(1910)年以降。

⑫.日本が半島を統治した時代、総督府は何度も「路上脱糞禁止令」を出している。

⑬それまでの半島には、トイレがなく、路上脱糞があたりまえだった。

⑭.「路上脱糞禁止令」が出たので、路上で用を足せなくなり、室内に穴をほってするようになった。

⑮その地下に漬物の甕をおいておいたので、雨が降るとkの汚水が甕に入って回虫がわく。

⑯回虫の成虫を殺すため唐辛子をどっさり入れるようになった。

⑰名古屋の野崎徳四郎が大正時代の初め頃に白菜栽培に成功。これが朝鮮に伝わってキムチに用いられるようになった。


「⑩.当時朝鮮半島の庶民は箸もスプーンも使わず手づかみで食べていた。」とあり、
その証拠として「日韓併合前の半島庶民の食事(平壌)」という写真を掲載されている。

http://nezu3344.com/blog-entry-4149.html


「どうみても箸もスプーンもありません。」と書いておられるが、写真が小さく不鮮明なので、私には箸やスプーンがないかどうか判断のしようがない。

これでは証拠にはならない。

ねずさんが貼っている写真の出どころを探したところ、下のサイトが見つかった。上から4枚目。
https://hinode.8718.jp/photo_korea_life.html

若干写真のサイズは大きいがやはり不鮮明で箸やスプーンの有無はわからない。
やはりこの写真を証拠として使うのはムリがあると思う。

そしてこの写真の一つ下の写真(上から5枚目)の写真を見ると、箸を使って食事をする人が写っている。

ある人に意見を聞いたら、箸を使って食事をしている人は両班ではないか、という。

1910년대 조선 기생

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1910%EB%85%84%EB%8C%80_%EC%A1%B0%EC%84%A0_%EA%B8%B0%EC%83%9D.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ea/1910%EB%85%84%EB%8C%80_%EC%A1%B0%EC%84%A0_%EA%B8%B0%EC%83%9D.jpg よりお借りしました。
不明 [Public domain]

上はウィキペディアからお借りした両班の写真である。
両班とは貴族階級の人のことである。

リンク先の、箸を使って食事をしている人の写真は両班だろうか?
あまりきちんとした身なりをしていないように見えるが、着物の特徴などを比べてみても私にはわからない。

朝鮮で生活した経験のある本間九介さんの朝鮮雑記には「彼らは不潔で箸なども洗ったことがないだろう」という意味のことが書かれていた。
箸を洗わない、ということは箸はあるということである。

また庶民に箸をつかう習慣がなかったのであれば、日本人からみて奇異にみえるので、本間さんはそれについて記したのではないだろうか。
書いていないということは、箸を使っていたのではないか。

これについては、「本間九介さんは朝鮮の貴族としか接していないのではないか」といわれた。
まあ、そういう可能性はある。

しかし、李氏朝鮮の庶民が箸をつかっていなかったことの証拠はない。
小さくて不鮮明な写真を貼りつけて、箸を使っていない証拠、といわれても納得できないことは確かだ。

また、トイレがなかったとか、排便の汚水が甕にはいって回虫がわくので唐辛子をいれた、ということのソースの提示がない。

この手の話は、韓国嫌いの人が多い右寄り保守の人に歓迎されがちである。
しかし客観的に考えてソースの提示が必要だと思うし、ソースの提示のないものを簡単に信じないようにしてほしい。
ねずさんにはぜひソースの提示をお願いしたい。

ところで、唐辛子入りのキムチの成立がいつになるかについては、ねずさんは実に細かく調べている。


⑤.1670年の朝鮮の「飲食知味方」に「漬け物としてのキムチ」が記されているが、唐辛子は用いられていない。

⑥1809年の「閨閤叢書」には漬物に千切りにした唐辛子を少量入れると書いてある。日本の漬物にも少量の唐辛子を入れることがある。

⑦.1827 年の「林園十六志」に現在のような辛いキムチの記述がある。

⑧1625年、江戸で七味唐辛子が発明され、日本中に広まった。

⑨1811年、半島通信使600名ほどが日本にやってこようとした。しかし彼らは道で脱糞するので徳川家斉は対馬藩で足とめとした。
 半島通信使らはこのとき七味唐辛子を持ち帰り、半島で唐辛子が流行るようになる。


このうち、⑤⑥⑦については、きちんと文献を示して語っている。

そうであるのに、箸を使っていなかったことの証拠や、トイレがなかったことの証拠、回虫を殺すために漬物に唐辛子を入れたことの証拠などをなぜ示さないのだろう?

やはりこれらについてもきちっと証拠なリソースなりを示すべきだし、読む側はソースのないものは信じないという姿勢が大切だと思う。

韓国が嫌いだからと言って、韓国批判の者は何でも受け入れるというようではあまりに程度が低い。





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[2020/01/09 18:00] トンデモ説? | TB(0) | CM(0)

福島原発で癌は10倍になっていない。(データの誤用に注意!) 




 
①福島で相次いだ病院閉鎖の影響で患者が増えたのでは?

上の動画に、福島県のある市民病院の患者数の表が示されている。

福島原発事故の前の2010年、成人白血病・成人甲状腺がんなどの病気になった人の総数が1310人、
原発事故後の2017年、成人白血病・成人甲状腺がんなどの病気になった人の総数が4599人。

さらにその表の下に市の人口を示している。
原発事故前の2010年度の人口は70878人、原発事故後の2017年度の人口は55404人。
原発事故の影響で市外へ避難したり移転する人が大勢いて、2010年には70878人だった人口が、2017年には55404人に減っているのだ。

それなのに、2010年には1310人だった患者数が、2017年には4599人に増えている。
福島原発事故の影響で癌などの病気が増えている!

そう武田先生は主張している。

しかし、この計算にはトリックがある。難しいトリックではない。中学生でもわかるレベルの単純なトリックだ。

「市民数と市民病院の患者数は比例しない」ということである。

原発事故後、福島の病院閉鎖のニュースが頻繁に報じられていた。
たとえば市に4つあった病院のうち2つが閉鎖したとしたら?
残った2つ病院の患者数は増える可能性が高くなることはいうまでもない。

また病院のベッド数を増やすと受け入れられる患者数が増えるので、そういうことも関係していそうだ。

②人口減少+病院減少で1病院の患者数が増えることはありえる。

これに対して、次のような反論があった。

病院が減っているというが、人口も減っている。それなのに原発事故の影響がなく患者数が増えるなんてことがありえるのか、と。

結論から言うと、これはありえる。数字を単純化して考えてみれば理解しやすい。
①で述べたように、「市民数と市民病院の患者数は比例しない」のだが、比例すると仮定して計算をしてみる。


a.人口1000人で、患者数が400人のとき、
人口に対する患者数の割合=(400÷1000)×100=40%  
b.人口700人に減少したとき、患者数400人を人口補正すると 700人×40%=280人 

a.人口1000人、患者数400人、病院数が2件で、どの病院にも均等に患者があったと仮定する。
すると、
病院一件あたりの患者数は 400÷2=200人 となる。

b.人口700人、患者数280人で、病院数が1件とすると1病院の患者数は280人。

人口1000人、病院数3件のとき病院1件あたりの患者数200人。
人口700人、病院数1件のとき、病院1件あたりの患者数280人。

人口が減っているが、1病院の患者数は増える計算になる。


③人口補正倍率をかけるのは無意味

成人白血病患者数は事故前の2010年には5人だったが、事故後の2017年には53人に増えている。
53人÷5人=10.6で、事故前に比べ事故後10.6倍に患者数が増えたことになる。
(もちろん事故の影響だけでなく、病院閉鎖の影響もあると考えられる。)

しかし成人白血病患者が5人だったとき、市の人口は70878人だった。
これが2017年ではら55404人に減っている。

減少率は55404人÷70878人=0.781881198≓0.8 

上表右下の0.8はこうして計算したものだろう。

2017年、2010年と同じ人口であった場合、患者数は何人増えるかを考えなければ正しい倍率にならない。

2017年の患者数/2010年の患者数÷2017年の人口/2010年の人口=人口補正倍率

赤字で示した2017年の人口/2010年の人口は「55404人÷70878人=0.781881198≓0.8 」だが、四捨五入した0.8で計算すると誤差が大きくなる。
そのため、武田先生は0.781881198で計算を行っている。

成人白血病・・・53/5÷55404/70878=10.6÷0.781881198=13.5570468≓13.6
成人甲状腺がん・・・29/1÷55404/70878=29÷0.781881198=37.09003372≓37.1

このように計算したのだと思う。、「市民数と市民病院の患者数が比例する」のであれば、この計算は間違いではない。

しかし、①に書いたように、「市民数と市民病院の患者数は比例しない」ので、武田先生が表の右端に記しておられる人口補正倍率の計算は無意味である。

倍率をさらに大きく見せるための仕掛けのように思えなくもないw。

④データ元発見!

データ元は公開されていなかった。先生はデータ元をほとんど公開しない。これは先生の悪い癖である。
しかし最近になってデータ元がわかった。
ある人に医師・澤野豊明さんが書いた記事を教えてもらったのだが、その中に表があったのだ。


 。
https://webronza.asahi.com/national/articles/2019090400003.html?page=1 より引用

武田先生の表とは方向が逆で、年が縦、病名が横になっている。
これを武田先生の表と同じ方向、年を横、病名を縦に直した表を作成した。
また白血病などはリンパ性・骨髄性・他の3項目に分かれているので、足して表に書き入れた。

あと、武田先生の表には脳卒中の項目があるが、澤野豊明さんが公開しておられるデータには脳卒中の項目はない。
(下表)
20102011201220132014201520162017
H22H23H24H25H26H27H28H29
成人白血病56122029365053
成人甲状腺がん1481215192129
胃がん147164204231269300342333
肺がん646879106134189227269
大腸がん131154188222258314385392
肝臓がん1215192531354247
小児がん11111124
心筋梗塞39425065109109147155
肺炎245287338419512713911974
脳卒中


武田先生の表は2011年から2016年のデータがないが、2010年と2017年のデータは澤野豊明さんが公開しておられるデータと数字が全く同じだ。
武田先生がこのデータを参考にしたのはまちがいない。

⑤他病院からの紹介、専門医師の赴任も患者数増加の原因に。

澤野豊明さんが書かれた記事を読んで、近隣の病院閉鎖以外にも患者数増加の原因があることがわかった。

記事をまとめておく。

①南相馬市議である大山弘一氏が「南相馬市では原発事故前に比べ、成人甲状腺がんが29倍、白血病10.8倍、肺がん4.2倍に増えた」という内容のチラシを市民に配布した。

②これは南相馬市立総合病院の医事会計システムのデータを誤った解釈をして作られたものである。

③大山議員の弁護士・井戸謙一氏はこのデータをFacebookで公開した。

④井戸氏は一部発信した内容の誤りを認め、のちに謝罪した。

⑤大山議員が参考にしたデータは医事会計システム(医療費を計算するためのもの)のものである。

⑥医事会計システムでは、患者さんが初めて来院して「大腸がん」などのように診察されると1カウントがつく。
治癒・転院・死亡などで来院しない状態になるとカウントから外される。
通院していると毎年カウントされる。

⑦平成29年度の成人甲状腺がんは29人で、平成28年度の21人から8人増えている。
実際は平成29年度9人の患者が甲状腺がんと診察されていた。
そのうち5人が当院で初診をうけた患者、4人が他の病院から紹介があって受診した患者。

⑧震災前の平成22年度には、市内で精神科を除いて入院ができる病院は6つあったが、平成29年度には入院が可能な病院は4つに減少している。

⑨呼吸器内科・血液内科では震災後に専門医が南相馬市立総合病院に赴任したため、肺がんの患者がより集まった。

⑩外科も手術できる医師が赴任したため、患者が増えた。

大山議員の弁護士・井戸謙一氏は一部発信した内容の誤りを認めて謝罪したそうだが、武田先生はいまだ謝罪もしないし、動画を取り下げることもしていない。
科学者の態度としていかがなものか、と思う。

※私は原発事故の影響で癌などの病気が増えていないといっているのではない。計算はまちがいであると言っているにすぎない。
正しく計算されたものでなければ人々を納得させることができないのは当然のことである。






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[2020/01/06 21:50] トンデモ説? | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎⑱ 『ミシャグジ様は聖徳太子?それとも物部守屋?』 


ミシャグジ様の謎⑰ イザナギ&イザナミは物部氏の神?  よりつづきます~
トップページはこちらです→
ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 


①ミシャグジ様は聖徳太子?それとも物部守屋?

磐船神社 天の磐船

磐船神社 天の磐船


星田妙見宮 織女石  

星田妙見宮 織女石

ここまでの考察によって、ミシャグジ様のの正体についての輪郭はかなり浮かび上がってきたと思う。

ここまでの考察を簡単にまとめておこう。.
a名古屋市の石神社ではミシャグジ様に杓子を奉納する習慣がある。ミシャグジ様とは御石神様のことではないか。
御石神→ミシャクジン様→ミシャグジ様と転じた?
b物部氏の祭祀する神社は本殿をもたず拝殿より直接磐座を拝する神社が多い。
磐船神社・星田妙見宮など。大神神社も物部氏の神である可能性が高い。
神殿を持たず磐座をご神体とする物部氏の祭祀する神ではないか。
c横浜市の社宮司社は「咳の神」「おしゃもじさま」と呼ばれている。石と咳はどちらも「セキ」とよむ。
d大阪市四天王寺に石神堂・咳の地蔵尊がある。
また物部守屋を祀る守屋祠がある。
聖徳太子が創建した四天王寺は物部守屋を鎮魂する寺ではないか。
(聖徳太子は物部守屋との闘いに勝利して四天王寺を建立した。)
e諏訪大社の御祭神はミシャグジ様(御石神様)。
長野県諏訪地方では洩矢神が厚く信仰され、ミシャグジ神と同一視されている。
洩矢と守屋は発音が同じである。
洩矢神=ミシャグジ様は物部守屋ではないか。
fミシャクジ様は疳の虫を切る神として鋏の絵を描いた紙を お供えする習慣があった。杓子をひっくり返すと酒の燗の形になる処から、ミシャグジ様は疳の虫の神としても信仰されたのではないか。
g四天王寺に関係の深い一心寺の本多忠朝の墓は酒絶ちの神として信仰され杓子が奉納されている。杓子の杓が酌に通じる。また杓子をひっくり返すと燗の形になるところから、酌または燗を絶つ神として信仰されたのではないか。
h聖徳太子を祀る祇園祭太子山の民家に疳の虫の薬「奇応丸」の看板があげられている。聖徳太子は疳の虫の神として信仰されたのか。
i聖徳太子を祀る橘寺に杓子が奉納されていた。聖徳太子はミシャグジ様として信仰されたのか。
J多賀大社には杓子を奉納する習慣がある。多賀大社はミシャグジ様か。
k多賀大社の別院・胡宮神社の「胡」は「首」「異民族」などの意味がある。胡宮神社・多賀大社は首の神、異民族の神か。
杓子は人間の首を思わせる形をしている。

ミシャグジ様の正体は御石神様であり、石の神から咳の神に転じた。
また御石神様はミシャクジン様からミシャグジ様と訛り、その結果杓子を奉納する習慣が生じた。
杓子をひっくり返すと酒の燗(かん)の形ににている。そこからミシャグジさまは疳の虫封じの神へと神格を広げた。またミシャクジンのシャクは「酒を酌する」の「酌」に通じるので、杓子をひっくり返して「酌をたつ神」「酒絶ちの神」にもなった。
杓子は人間の首を思わせる形をしているので、ミシャクジさまはドクロの神にもなった。

五箇山 上梨 村上家 鬼門除け

五箇村 村上家住宅 鬼門除け(猿のドクロではないかと思う。)


いや、もしかすると石神とはもともとドクロの神であるので首をおもわせる杓子を奉納する習慣が生じ、ミシャグジさまとして信仰されるようになったのかもしれない。

橘寺は山号を仏頭山というが、たくさんの仏頭が現れたことから仏頭山と名付けられたという。
橘寺は聖徳太子を祀っているが、聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員斑鳩寺で首をくくって死んだ。
現れたたくさんの仏頭とは首をくくって自害した聖徳太子の子孫の霊ではないかと思える。

橘寺 観音堂 ライトアップ

橘寺

しかし、石神を祀るのは物部氏の祭祀スタイルではないかと思われるし、
洩矢神=物部守屋とも考えられる。
大阪の四天王寺は聖徳太子がたてたとされるが、境内には守屋祠があって物部守屋を祀っている。

ミシャグジ様のイメージに聖徳太子と物部守屋の二人が同時に浮かび上がってくるのはどういうことなのだろうか?

587年、廃仏派・物部守屋vs崇仏派・蘇我馬子の戦いがあった。
蘇我馬子が勝利して、物部守屋は戦死した。
この戦いで、聖徳太子は蘇我馬子側について参戦している。

物部守屋と聖徳太子は対立するライバルだったのだが?

守屋祠


四天王寺 守屋祠

②菅原道真は十一面観音の生まれ変わり

北野天満宮の神宮寺だった東向観音寺のご本尊は道真御作と伝えられてるが
東向観音寺の門前には「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と記された石碑が建てられている。

天満宮とは北野天満宮の御祭神・菅原道真のことだろう。
本地仏は本地垂迹説からくる言葉である。
本地垂迹説とは日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を現したものであるとする考え方のことで
仏教の神が仮にこの世に姿をあらわした日本古来の神々のことを「権現」、
日本古来の神々のもともとの姿である仏教の神々のことを「本地仏」といった。
つまり、「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「菅原道真は十一面観音の生まれ変わりである」というような意味になると思う。

東向観音寺 

東向観音寺

すると、「道真御作」というのは本当に道真が十一面観音を刻んだという意味ではなく、「怨霊として(道真の死後、疫病や天災があいつぎ、これらは道真の怨霊の仕業と考えられました。)人々に畏れられた道真が成仏して十一面観音になった」という意味ではないかと思える。

③重なる聖徳太子と物部守屋のイメージ

大神神社の神宮寺だった平等寺では聖徳太子御作の十一面観音をご本尊としている。
平等寺の十一面観音が聖徳太子御作だというのも、怨霊として畏れられた聖徳太子が成仏して十一面観音になった」という意味ではないかと思える。

しかし、神殿をもたず、拝殿より直接ご神体の三輪山を拝する大神神社は物部氏の神社ではないかとも思える。

三輪山 日の出 
大神神社 ご神体の三輪山

なぜこんなにも聖徳太子と物部守屋のイメージが重なるのか?
もしかして聖徳太子と物部守屋は同一人物ではないかと思えるほどだ。

平等寺 

平等寺

⑪陰陽に描き分けられた守屋と聖徳太子

下図に示したように守屋と聖徳太子は陰陽に描き分けられている。

聖徳太子物部守屋
少年大人
崇仏派廃仏派
弓で射られたが椋の木に隠れて難を逃れた。榎木の木の上にいるところを弓で射られて死んだ。

聖徳太子と物部守屋が同一人物だというのはあまりにもトンデモで、物部守屋は陰、聖徳太子は陽の存在とされているため、
イメージが重なって見えるのかもしれない。


謎は残るが、これからの新しい旅の中で、謎を解けるヒントが見つかるかもしれない。
新しい旅が楽しみだ。

end.

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[2020/01/05 17:21] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎⑰ イザナギ&イザナミは物部氏の神? 

あけましておめでごうございます。みんなでよい年にしていきましょう!


ミシャグジ様の謎 ⑯ 『糸切餅は何をデザインしたもの?』  よりつづきます~
トップページはこちらです→
ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

胡宮神社 鳥居 桜

胡宮神社

①胡という漢字を調べてみるといろんなことがわかった。

多賀大社の別宮・胡宮神社の胡という漢字を漢和辞典で調べてみると、次のように書いてあった。

①獣のあご。垂れ下がった顎の肉。
②くび
③なんぞ。なに。いずくんぞ。
④いのちがながい。としより。おきな。
⑤とおい。はるか。
⑥えびす。北方の異民族の名。
⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。
⑧祭器。
⑨でたらめのこと。
⑩ほこの首。ほこの先に曲がってわきに出たもの。
角川漢和中辞典(昭和51年 161版)より。


胡宮神社は多賀大社の別宮なので、神社の性格としては胡宮神社と多賀大社は共通するものを持っていると考えていいだろう。
そこで、多賀大社について次のように推測することが出来ると思う。

④いのちがながい。としより。おきな。多賀大社は延命にご利益があると信仰されている。
⑥えびす。北方の異民族の名。えびすは戎・夷のほか胡とも記される。
大和朝廷にまつろわぬ民のことを、蝦夷、戎などといっていた。
戎に胡の字があてられることもあったのではないだろうか。
多賀大社は蝦夷の神を祀っているのではないかと思う。
つまり多賀大社の御祭神・イザナギ&イザナミは蝦夷の神ではないかということである。
⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。1274年と1281年の2度にわたり、蒙古(モンゴル帝国)が日本にせめて来た。
しかし神風が吹いて、蒙古は撤退した。
その後、人々は蒙古が撤退したのは神のご加護があったからだと考えて、多賀大社にお供え物をした。
その中に糸切餅があったという伝承がある。

日本にとって蒙古は外国からやってきた異民族である。
多賀大社=胡宮神社=胡の神を祀る神社=異民族の神をまつる神社なので、蒙古=多賀大社と考えられたのではないだろうか。

日本では古来より怨霊を神として祀る習慣があった。
たとえばスサノオはもともとは恐ろしい流行り病をもたらす疫神なのだが、厄病除けの神としても信仰されている。
つまり、疫神であるスサノオに「私を疫病にかからないようにしてください」と拝むわけだ。

これと同じように、異民族である蒙古がせめてきたとき、異民族の神・多賀大社の神様に「異民族である蒙古より我々を守ってください」と人々は祈ったのではないか。
②くび多賀大社には杓子(しゃもじ)をお供えする習慣がある。
なぜ多賀大社に杓子をお供えする習慣があるのだろうか?
多賀大社=胡宮神社=胡の神を祀る神社=首(ドクロ)の神を祀る神社
という発想から杓子が奉納されたのではないだろうか。

杓子は人間の頭部と首を連想させる形をしているではないか。


②神武以前、畿内には物部王朝があった?

今回は⑥の中でのべた「イザナギ・イザナミは蝦夷の神ではないか」についてもう少し詳しく説明しておきたい。

⑥えびす。北方の異民族の名。

えびすは戎・夷のほか胡とも記される。
大和朝廷にまつろわぬ民のことを、蝦夷、戎などといっていた。
戎に胡の字があてられることもあったのではないだろうか。
多賀大社は蝦夷の神を祀っているのではないかと思う。
つまり多賀大社の御祭神・イザナギ&イザナミは蝦夷の神ではないかということである。


記紀によれば、初代神武天皇が日向より東征して畿内入りするより早く天の磐船を操ってニギハヤヒが天下っていたと明記されている。
ニギハヤヒは物部氏の祖神とされている。
ここから初代神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説がある。

③神殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイル?

ニギハヤヒが天下ったとされる大阪府交野市の磐船神社のご神体は天の磐船といわれる巨大な磐座で神殿はない。
拝殿より直接ご神体である天の磐船を拝むという祭祀スタイルである。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 ご神体 天の磐船

大阪府交野市枚方市付近はかつて肩野物部氏の本拠地であった場所だが、この付近には神殿がなく直接ご神体である岩や沼を拝む神社が多い。

星田妙見宮 織女石  

星田妙見宮 織女石

瘡(くさがみ)神社 

瘡(くさがみ)神社 拝殿より後方の沼を拝する。鳥居の左右の脚の長さがちがっていたw 2018年の台風で折れたのかも?


また奈良県天理市の石上神宮も物部氏が祭祀する神社で、現在は神殿はあるが、もともとは神殿はなく
宝剣を埋めた庭をご神体としていたという。

石上神社 紅葉 
石上神宮

④大神神社は物部氏が祭祀する神社?

さらに奈良県桜井市の大神神社も神殿がなく、拝殿より直接ご神体である三輪山を拝する。
大神神社の御祭神は大物主神だが、大物主神とニギハヤヒは同一神だとする説がある。

物部氏の祖神はニギハヤヒだが、先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)と表記している。

そして大物主神は正式名称を倭大物主命という。
櫛・玉(魂)が共通するので、二神は同一神ではないかというのだ。

大神神社は物部氏が祭祀する神社である可能性が高い。

大神神社 茅の輪

大神神社 拝殿

三輪山 日の出

大神神社 ご神体の三輪山

本殿を作らないのは、天皇家に従わないという意思表示だった?

そして、星田妙見宮と大神神社にはほとんど同じ伝説が残されている。

何度本殿(宮殿)をつくっても潰れてしまうので、人々は神は本殿(宮殿)を欲していないと考えた。

この伝説について「大物主神は宮殿を作ってもらえなかった。」という人がいるが、私は違うと思う。

大物主神と大国主神は同一神と考えられている。
とういうのは、こんな伝説があるからだ。

大国主神は少名彦名神とともに国作りを行っていたが、国作りの途中で少名彦名神は常世の国へいってしまった。
大国主神はこれからどうやって国作りをすればいいのかと途方にくれていたが、そこへ海の向こうから光り輝く神があらわれた。
大国主が神に名前を問うと、「私はあなたの幸魂、奇魂。私を祀れば国造りは完成するだろう」と言った。
そこで大国主が祀ったのが大神神社である。


大国主といえば国譲りの神話で知られる。

天照大神に派遣されたタケミカヅチが大国主神に「国を譲れ」とせまった。
大国主は「二人の息子に聞いてくれ」と言った。
そこでタケミカヅチが大国主神の息子の事代主神に「国を譲れ」と迫ったところ、事代主神は「承知した」と答えて
逆手を打ち、海を青芝垣に変え、船を踏み傾けて姿を消した。(入水したのだろう。)

次にタケミカヅチは大国主神のもうひとりの息子タケミナカタと相撲をとった。
タケミナカタはタケミカヅチに手をつぶされて諏訪湖まで逃げたが逃げ切れず「国は天孫にさしあげる」と約束した。

大国主神は「二人の息子がそういうならば国は天孫にさしあげる。そのかわり天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を作ってほしい。そうすれば私はその宮殿に籠って外に出ることはないだろう。」

この大国主の言葉に従って作られたのが出雲大社で、出雲大社の社殿が大きいのは大国主の願いを聞き入れた、ということだろう。

一方、大物主神を祀る大神神社には本殿がない。

日本書紀に次のような記述がある。

ニギハヤヒを神と奉じていたナガスネヒコは、日向より東征して畿内入りした神武と対峙し、次のように発言した。

「昔ニギハヤヒという天孫が天下り、私は妹のトミヤスヒメをニギハヤヒと結婚させた。
二人の間にはウマシマジノミコトという御子も生まれた。
あなたは天孫だというが、天孫がふたりもいるのか。
あなたは天孫だと偽って土地を奪おうとしているのではないか。」

神武は天つ神の子である証拠の天の羽羽矢と歩靱(かちゆき)を見せた。
それでもナガスネヒコは考えを改めなかったので、神武に服したニギハヤヒによってナガスネヒコは殺された。
(日本書紀)


ナガスネヒコは神と奉じていたニギハヤヒに殺されたとあるが、これは信用できない。
日本書紀は舎人親王らが編纂し元正天皇に奉納したものであり、天皇家に都合よく改竄されている可能性が高いからだ。

④に書いたように、大物主神=倭大物主命は物部氏の祖神・ニギハヤヒ=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と同一神であったのだろう。

実際のニギハヤヒ=大物主神は誇り高い人物であり、簡単に国を明け渡すような人物ではなかったのではないだろうか。

「私は宮殿などいらない。私は宮殿にこもったりはしない。もちろん国を天孫に譲ったりもしない!」
大物主はそんな風に考えているににちがいない、と人々は考え、大神神社に関しては出雲大社のように本殿をつくるということをしなかったのではないか。

私はそう考える。

⑥多賀大社は石神を祀っているので杓子を奉納する習慣が生じた?

イザナギとイザナミを祀る多賀大社には本殿はあるが、寿命石と呼ばれる石もがある。
東大寺再建を命じられた重源が多賀大社に東大寺再建を果たすまでの延命祈願をし、東大寺再建後に座り込んでなくなった石だと言われている。

多賀大社 長命石
 

多賀大社 寿命石

寿命石は多賀大社の神の石だといえる。
多賀大社は石神であり、御石神→ミシャクジン→ミジャグジとなり、杓子が奉納されるようになったのではないだろうか。

⑦石神は物部氏の神?&物部王朝に婿入りした神武

神々の系譜は次のように続いている。

イザナギ&イザナミ(同複の兄妹)
  ↓
天照大神&スサノオ(同複の姉弟)
  ↓
ニニギ&コノハナノサクヤヒメ(葦原中国のオオヤマツミの娘)
  ↓
山幸彦&豊玉姫(海神の娘)
  ↓
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊&玉依姫(海神の娘、豊玉姫の妹)
  ↓
神武天皇&ヒメタタライスズヒメ(日本書紀では大物主の娘)

このうち同複の兄妹または同複の姉弟で結婚しているイザナギ&イザナミ、天照大神&スサノオは物部氏の神だと考えられるのではないだろうか。

ニニギは高天原から葦原中国に天下って葦原中国のオオヤマツミの娘・コノハナノサクヤヒメと結婚している。
山幸彦は竜宮にいき、海神の娘、豊玉姫と結婚している。
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊も竜宮にすむ海神の娘・玉依姫と結婚している。

ニニギ・山幸彦・彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊は婿入りしたということである。

神武天皇は日向から畿内にやってきて、畿内の大和にある大神神社の御祭神・大物主の娘・姫多々良五十鈴と結婚しているので、やはり婿入りしたということになる。

しかも、大物主神=ニギハヤヒと考えられるので、神武は物部王朝に婿入りすることによって天皇になったと考えられる。


ミシャグジ様の謎⑱ 『ミシャグジ様は聖徳太子?それとも物部守屋?』 につづきます~



  

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[2020/01/03 18:19] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎 ⑯ 『糸切餅は何をデザインしたもの?』 

ミシャグジ様の謎⑮ 胡宮神社の胡という漢字を調べたらいろんなことがわかった。  よりつづきます~
トップページはこちらです→
ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 


①お多賀杓子の由来は信じられるか。

満開の枝垂桜がゆれる春の多賀大社。

多賀大社 枝垂れ桜

多賀大社

おや、太鼓橋の向こうに大きな杓子が見える。

多賀大社 橋

多賀大社より門前町をのぞむ

過去の記事で橘寺・一心寺・本多忠朝の墓などに杓子を奉納する習慣があることをお話しした。
ミシャグジ様の謎⑩ 千の仏頭が現れた山  
ミシャグジ様の謎⑬ 「酌をたつ神?」 

しかし杓子を奉納する習慣があることにおいて関西で最も有名なのはここ、多賀大社だろう。

太鼓橋の向こうに見えているのは、土産物などを売っている多賀屋さんであるが
この多賀屋さんにも大きな杓子の看板がかけられている。

多賀屋 

多賀大社に奉納するしゃもじを象った看板 

 多賀大社前駅構内にお多賀杓子の説明を書いたものが展示されていた。
内容をまとめると次のようになる。

元正天皇(在位717~723)が病気になったとき、多賀大社の神官たちが病気平癒の祈祷をした。
強飯を焚き、神木でつくった杓子をそえて献上したところ、天皇の病は快癒したところから、無病長寿のシンボルとされるようになった。

おたまじゃくしはお多賀杓子がなまったものだといわれている。
お多賀杓子を作った残りのシデ((ケヤキ)の枝を地面に挿したところ大木となった。
これが尼子にある飯盛木(男木と女木)だといわれている。

しかし、この手の由緒はあとづけでこじつけたものが多いと思う。
テレビなどが視聴者の反応を憚ってあまりにえげつない真実を報道しないことがあるが、それに似たようなものだと思う。

お多賀杓子の真実はこの言い伝えとは別のところにあると思う。

②多賀大社はミシャグジ様を祀る神社だった?

多賀大社には、寿命石と呼ばれる石がある。
東大寺再建を命じられた重源が多賀大社に東大寺再建を果たすまでの延命祈願をし、東大寺再建後に座り込んでなくなった石だと言われている。

多賀大社 長命石 

多賀大社 寿命石

寿命石は多賀大社の神の石だといえる。
つまり多賀大社は石神であり、御石神→ミシャクジン→ミジャグジとなり、杓子が奉納されるようになったのではないだろうか。

多賀大社の御祭神はイザナギ・イザナミである。
つまりイザナギ・イザナミは石の神ではないか、ということである。

ミシャグジ様の信仰は横浜市の社宮司社など全国にあり、杓子を奉納する習慣のあるところが多いが
ミシャグジ様の正体は御石神様であり、御石神→ミシャクジン→ミジャグジと転じて杓子を奉納する習慣が生じたのではないかと思う。

弓の弦で切って作る糸切餅

多賀屋さんの巨大な杓子の看板の横には糸切餅の看板が掲げられていた。
糸切餅は多賀大社の名物で多賀屋さんのほか、数件の店で販売している。

多賀屋 糸切餅 看板 

多賀屋さん糸切餅の看板

青と赤のラインが美しい。誰がこんな洗練されたデザインを思いついたのか。

糸切餅は長く引き伸ばした米粉のお餅を三味線の弦で切って作る。
しかしもともとは三味線の弦ではなく、弓の弦で切っていたそうである。 
  
糸切餅の起源は約700年前の「蒙古襲来」にまで遡ると言われる。。

1274年と1281年の2度にわたり、蒙古(モンゴル帝国)が日本にせめて来た。
しかし神風が吹いて、蒙古は撤退した。
その後、人々は蒙古が撤退したのは神のご加護があったからだと考えて、多賀大社にお供え物をした。
その中に糸切餅があったというのである。
気になる赤と青の三本線のデザインは蒙古軍旗を模したものだという。

帰宅後、蒙古軍旗のデザインをネットで調べてみたが全くわからなかった。

それはともかく、「弓の弦で切っていた」と聞いて私は心臓バクバク状態に!

その理由とは?

弓でひいて音を出す楽器を胡というのはなぜ?

前回ご紹介した胡宮神社は多賀大社の別宮である。

胡宮神社 鳥居 桜

胡宮神社

胡宮神社の胡という漢字を漢和辞典で調べてみると、次のように書いてあった。

①獣のあご。垂れ下がった顎の肉。
②くび
③なんぞ。なに。いずくんぞ。
④いのちがながい。としより。おきな。
⑤とおい。はるか。
⑥えびす。北方の異民族の名。
⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。
⑧祭器。
⑨でたらめのこと。
⑩ほこの首。ほこの先に曲がってわきに出たもの。
角川漢和中辞典(昭和51年 161版)より。

多賀大社 しだれ桜3

多賀大社

④いのちがながい。としより。おきな。

とあるが、多賀大社は延命にご利益があると信仰されている。

⑥えびす。北方の異民族の名。

えびすは戎・夷のほか胡とも記される。
大和朝廷にまつろわぬ民のことを、蝦夷、戎などといっていた。
戎に胡の字があてられることもあったのではないだろうか。
多賀大社は蝦夷の神を祀っているのではないかと思う。
つまり多賀大社の御祭神・イザナギ&イザナミは蝦夷の神ではないかということである。
これについては次回、詳しく説明したいと思う。

⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。

日本にとって蒙古は外国からやってきた異民族である。
多賀大社=胡宮神社=胡の神を祀る神社=異民族の神をまつる神社なので、蒙古=多賀大社と考えられたのではないだろうか。

日本では古来より怨霊を神として祀る習慣があった。
たとえばスサノオはもともとは恐ろしい流行り病をもたらす疫神なのだが、厄病除けの神としても信仰されている。
つまり、疫神であるスサノオに「私を疫病にかからないようにしてください」と拝むわけだ。

これと同じように、異民族である蒙古がせめてきたとき、異民族の神・多賀大社の神様に「異民族である蒙古より我々を守ってください」と人々は祈ったのではないかと思うのである。

②くび

多賀大社には杓子(しゃもじ)をお供えする習慣がある。
なぜ多賀大社に杓子をお供えする習慣があるのだろうか?
多賀大社=胡宮神社=胡の神を祀る神社=首(ドクロ)の神を祀る神社
という発想から杓子が奉納されたのではないだろうか。

杓子は人間の頭部と首を連想させる形をしているではないか。

橘寺にも杓子を奉納する習慣があるが橘寺の山号は仏頭山である。
仏頭とは仏の頭のことで、聖徳太子が勝鬘経(しょうまんきょう)の講義を行うと、千の仏頭が現れ光り輝いたという伝説うから仏頭山という。

 橘寺 彼岸花

仏頭山 橘寺

③弓で弾く楽器を胡弓というのはなぜ?

胡弓という楽器がある。
三味線に似ているが、三味線と違って弓で弾く。



動画お借りしました。動画主さんありがとうございます!

四角い箱に柄がついたような形をしていて、杓子に似ている。
また胴体から切り離した頭部(首・ドクロ)にも似ている。
それで胡弓という名前がつけられたのではないだろうか。

琉球には胡弓(クーチョー)という楽器があるが、やはり弓で弾く。
琉球の胡弓は昔は椰子の実を割って胴にしていたというので、日本の胡弓よりさらに頭部(首・ドクロ)のイメージに近い。
中国の楽器・二胡も弓で弾き、「胡」の文字が使われている。

さらに、擦弦楽器を総称して胡弓と呼ぶこともあり、明治初期にはバイオリンのことも胡弓といっていた。

つまり弓でひくものが胡弓であり、似たような形をしていてもバチで弾いて音を出す三味線には胡という漢字は用いられない。
これはなぜだろうか?

それは弓でひくことに、首を刀などで切断しているイメージがあるからではないだろうか?

菱屋さん 

糸切餅を製造販売している菱屋さん

 ④糸切餅は胡弓の弓で切っていた?

糸切餅のデザインを思い出してほしい。
胡弓には弦が3本ある。
糸切餅の3本の線は、蒙古の旗だと言うが、本当は胡弓の3本の弦をイメージしたものではないだろうか。

糸切餅は現在は三味線の弦で切っている。しかしもともとは弓の弦で切っていたのだった。
弓というと、弓矢の弓を思いがちだが、弓は弓でも、胡弓の弓で糸切餅を切っていたのではないだろうか。

これが正しければ、糸切餅の起源は蒙古襲来よりも、うんと時代が下って江戸時代ではないかなと思ったりする。
胡弓が歴史上に登場するのは江戸時代だからだ。

糸切餅

菱屋さんの糸切餅

ミシャグジ様の謎⑰ イザナギ&イザナミは物部氏の神? につづきます~



  

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[2019/12/29 10:54] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)