いま、「シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。』シリーズのまとめ作業をやっております。 少し時間がかかるかもしれません。 宜しくお願いします。
「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」のスクリーンで上映されていた動画を練習用に編集してみました。(撮影可)
スクリーンに縦横の線が入っているので、位置合わせに時間がかかったわりに
線が微妙に動いたり、ぶれたりしています😅。
自動で位置合わせできたらいいのになーっと思います。 失敗作ですが、はりつけておきます。
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「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」における全浩天の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
肝心の高句麗壁画古墳の画像が使えるものがほとんどなく、わかりづらい点はおわびします。
㉑薬水里壁画古墳/白虎の縞模様が高松塚・キトラにそっくり。
・4世紀末から5世紀初
・墓室は丘陵を削った半地下にある。
羨道、前室、前室東西に龕(仏教の信仰の厚い人だったのだろう。) ※龕とは仏像や経典を治める場所
・前室から玄室に入る通路、玄室 天井は穹窿三角持ち送り式 前室床に祭壇 別の場所の床には棺台 羨道入口、前室から玄室に渡る通路入口には門
・前室の西壁と南壁に狩猟図 鹿・猪・寅を追う狩人、短弓
・前室の東壁と南壁に被葬者を中心にした行列図。
・玄室西壁に月像と白虎
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」141ページに描かれている白虎を見て驚いた。 全浩天氏は何故か指摘されていないが、これは高松塚、キトラ古墳の白虎に似ている、と私は思った。
残念ながらネットに薬水里古墳の白虎の画像が見つからなかったので、稚拙ではあるが本を見て自分で模写してみた。 模写とはいうが、全く実物には似ていない出来になってしまっている(汗)点に注意して、薬水里、高松塚、キトラの白虎を比較してみてほしい。
ブログ主による薬水里古墳・白虎の模写
高松塚古墳 白虎
キトラ古墳 白虎
高松塚・キトラの白虎の様な三本指と爪、後方になびく顎髭、などは薬水里古墳の白虎にはない。 そうではあるが、首の曲がり方、前方に向けた前脚、そして何よりトラ模様の描き方がとてもよく似ている。
・玄室南側通路入口の上に昴と朱雀 高句麗壁画に描かれる朱雀の発展過程に示される一つの形姿
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」144ページにその写真があるが、これも全浩天氏は指摘されていないが、「キトラ古墳の朱雀に似ている」と私は思った。
小さく手分かりにくいかもしれないが、リンク先8ページ 2薬水里古墳に写真がある。
キトラ古墳 朱雀
薬水里の朱雀は、キトラ古墳野物とは向きが逆になっているほか、頭の上のとさかのようなものが6本伸びているなどキトラの朱雀とは違う。 絵のタッチもキトラの物の方が洗練されている。 しかし、羽根より尾の方が長い姿、横に広い構図などよく似ている。
もっとも三室塚古墳の朱雀の方が、よりキトラの朱雀に似ているかもしれないが。 「キトラ古墳の朱雀 高句麗時代の三室塚に酷似 (東京新聞 4月5日) 」のところに写真あり。
・他の高句麗古墳も同じだが、前室に被葬者が生前心に残った情景が描かれた。
・羨道入口東側部分の南壁・・・門衛武士 東側・・・台所、精米所 西南壁・・・狩猟図、その下に牛舎、馬、馬子 ※旧暦3月3日、平壌楽浪の丘陵で国家的な狩猟競技が行われていた。 柱と枓栱 その上部に四神図と人物 上部北壁・・・被葬者夫婦の室内生活と玄武 東壁・・・青龍と太陽 西壁・・・白虎と月 南壁・・・朱雀 北壁・・・北斗七星
この玄武は翼が生えているようにもみえ、蛇が亀の首に巻き着いている。 高松塚、キトラの玄武には翼は生えていないし、蛇は亀の首に巻き付いてはいない。
また薬水里の玄武は亀の頭が前向きで、その亀の顔に対面するように蛇の頭が描かれているが、 高松塚、キトラの玄武は亀が後ろを振り返り、その亀の顔に対面するように蛇の頭が描かれている。
薬水里の白虎は高松塚・キトラに、薬水里の朱雀はキトラに(高松塚には朱雀は描かれていないので)似ているが 薬水里の玄武は高松塚・キトラの玄武とは似ていない。
高松塚 玄武
キトラ 玄武
・壁画を描かず龕を持つ古墳→龕を持つ壁画古墳→人物風俗四神を描く古墳 と高句麗壁画古墳は変遷している。
㉒水山里壁画古墳/男子像の髪型は「みずら」?
・5世紀後半の単室墓
・墳丘は方台形
・壁画は平和な暮らしを描き、徳興里古墳のような狩猟シーンは描かれない。
※徳徳興里古墳についてはこちら↓の記事の⑮⑰に記した。
2:26 玄室入口(門)門衛 2:49 北壁 墓主、墓主夫人 3:30 北壁 女子群像 3:38 北壁 男子群像 3:49 屋根を支える力士(西域の人か) 4:52 東壁 向かい合う2人の人 鼓吹楽隊 5:52 南壁 日傘をさす男たち 6:27 西壁 夫妻が曲芸見物しながら行列する 7:39 西壁 曲芸師
・西壁 婦人像
※全浩天氏は南壁に夫人像が描かれていると書いておられるが、上の動画では南壁に描かれているのは傘をさす男子像である。 その後、西壁ともあるので、おそらく最初に出てくる南壁とは西壁のまちがいと思われる。
腰に布・玄室上段に描かれた王妃は高松塚壁画古墳の夫人像の原型と言われる。
これは『世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天』の表紙にも用いられている。↓
高松塚古墳 女子群像
・竹馬の乗る曲芸師の髪型はみずら
上の動画7:39当たりに曲芸師の絵が登場する。 その内の向かって右が竹馬に乗っているが、そういわれてみれば、みずらのようにもみえる。
左右の少年の髪型が「みずら」
㉓双楹塚/双楹塚とキトラ古墳の朱雀は似ている。
・5世紀末
・ニ室墓 羨道、前室、玄室からなる。 前室から玄室に入る通路の左右に八角柱(双楹塚の楹は柱という意味)
・前室と玄室の壁には柱、桁、梁が描かれる。
・天井は平行三角持ち送り式。 三本足の烏(太陽を表す)、ヒキガエル(月を表す)、鳳凰、雲文、蓮花文、提灯文
・朱雀は駆け終えながら飛ぼうとしている。
『世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天』161ページに朱雀の写真があるが、これもキトラ古墳の朱雀によく似ている。
・前室 入口の左右の壁には力士 東壁に青龍、西壁に白虎、南壁には人物
上記記事、15ページ図7 後室北壁 16ページ写真5 前室天井持ち送り
㉔龍崗大墓/壁穴孔がある壁画古墳
・5世紀中ごろ
・高句麗壁画古墳の中でも構造が独特で規模が大きい。
・羨道・前室・玄室・通路の両脇に壁穴孔がある石室封土墳
・漆喰の上に壁画を描く
・漆喰は剥落していて内容がよくわからない。人物、城郭、雲文、日炎文、柱,、枓栱などが確認できる。
・前室後方の壁、通路の両側の壁穴が龕(仏像や経典を治める場所)になっている。
※残念ながらネットに画像は見つからなかった。
㉕安岳1号墳/安岳1号墳の天馬は法隆寺金堂天蓋の鳳凰に似ている?
・4世紀末
・墳丘は方台形 羨道と玄室 天井は平行持ち送り式で3.4m
・天井には太陽、月、星、雲文、炎門、蓮花文 鋸歯文、奇妙な動物や獣
リンク先35ページに図あり。
・玄室西側 鳳凰 法隆寺金堂・天蓋は3個で、それらの天蓋の側面の板には鳥型の彫刻(鳳凰)が14個とりつけられていた痕跡が残されている。(現在は14個ないということだろう。)
松本清張氏の主張 「イラン・アケメネス朝(前700~前330)の応急あとのペルセポリスの柱頭飾りにある双頭の鷲は神聖化されたグリフィン(空想的霊獣、霊鳥)が日本に来て法隆寺金堂天蓋の鳳凰になった。」 「クチバシの形が似ている。」 「翼の先が巻き上がっているところはペルセポリスのクセルクセス神殿入口にある有翼人頭牡牛の翼の形」 しかし全体像は似ておらず、部分的にわずかに似ている。 安岳1号墳西壁の獣の方が、法隆寺金堂天蓋の鳳凰に似ている。
安岳1号墳の聖獣は鳳凰の形をした天馬である。
リンク先35ページ、安岳1号墳の西壁には鳳凰とも天馬ともいえるような聖獣が描かれており、前脚の形は法隆寺の鳳凰と似ているように思われる。 また法隆寺の鳳凰は翼の下に脚のようにも見える棒状のものがあり、これが安岳1号墳の天馬の脚に似ているようでもある。 翼の形なども、安岳1号墳のものは翼の先が法隆寺鳳凰ほど巻き上がっていないが、似ている。
・北壁・・・殿閣図
西壁・・・女子群像、狩猟図 東壁、南壁・・・行列図
漆喰の上宮廷の楼閣を描く。柱、枓栱、桁
リンク先35ページの「安岳1号墳天井壁画展開図」をみてみよう。 この図は上が北、下が南、向かって右が東、向かって左が西になっている。 星宿のようなものが描かれているが、天球図は上が北、下が南、向かって右が西、向かって左が東である。 地図は地面を上から見下ろし、天球図は地面から天球を見上げるので東西が逆になるのだ。
ということは、35ページの図は上から古墳を見下ろした図ということになる。
天井部分、北に描かれているのは北斗七星だろうか。こぐま座のようにも見える。
通常こぐま座は下の図のように線で結ばれるが
↓ このように結べば、35ページの北側天井部分の星宿と同じような形になる。
北斗七星は35ページの星宿とは柄杓の向きが逆である。
↑ こちらのページの「図7 二十八宿の天上表現(HP4)」に二十八宿の図がある。 こぐま座の柄杓の柄の先は現在の北極星である。 ということは「図7 二十八宿の天上表現(HP4)」の北極、四輔に該当するかもしれないが、星の数があわない。 二十八宿とは異なる星宿があったのだろうか。
東壁に描かれている星宿は『心』だろうか。西壁の星宿はわからない。
「安岳1号墳天井壁画展開図」をみると、日・月・四神は描かれておらず、鳳凰、天馬、魚が描かれている。 このうちの鳳凰は横長の構図、長い尾などキトラ古墳の朱雀に似ていると思う。
㉖安岳2号墳
・5世紀末から6世紀初
・羨道は玄室の南の東によった片袖式
・玄室の入り口に二重の石扉が設けられていた痕跡
・持ち送り式天井の石の段に蓮華文、火炎文、法輪文
・玄室と玄室東壁に設置された龕(原文まま) 被葬者は経験な仏教徒だろう。 372年、高句麗に仏教が伝来。 375年、肖門寺建立 393年、平壌に9つの寺が建立された。
・東壁上部に大きく描かれた梁の下に2人の飛天、チマ(朝鮮式ロングスカート)を着用した夫人像
・羨道両側の壁には門衛、入り口上に飛天、東壁には蓮花をまく人物と飛天、西壁には女人と子供の群像、北壁には墓主の室内生活
※残念ながらネットに画像などは見つからなかった。
㉗安岳3号墳
2:30 羨道 騎乗隊 2:44 前室 傘 旗を持つ人 2:59 前室 角笛 太鼓 3:08 前室 斧を持つ人 3:22 前室 天井 4:07 前室 墨書 4:31 西脇室 墓主 5:01 西脇室 夫人 5:24 西脇室 門衛 5:36 西脇室 天井 5:54 東脇室入口 手縛(相撲) 5:56 東脇室入口 斧を持つ人 6:39 東脇室 精米所 穀物をふるう人 6:49 東脇室 井戸 6:58 東脇室 台所 7:25 東脇室 肉庫 車庫 7:46 東脇室 牛舎 8:00 東脇室 厩 8:30 玄室 楽隊 踊る人(西域の人) 8:40 玄室 天井 8:56 回廊 建物 9:01 回廊 行列図(250人)
・4:07 前室 墨書 『冬寿は「使持節」「平東将軍」「護撫夷校尉」などの官位を経て、永和13年(357年)10月26日に69歳で死んだ』 とある。 『資治通鑑』(1084年)によれば、冬寿は五胡十六国の一つ、前燕を建国した鮮卑族の慕容皝(ぼようこう)の部下。 高句麗にとって前燕は宿敵。 342年、慕容皝、前燕王となり、高句麗都城である丸都城を攻撃。故国原王の母を拉致、父王・美川王の墳墓を暴いて屍を奪った。 慕容皝の弟・慕容仁が兄の皝と戦ったとき、冬寿は仁について皝と戦うが、仁が敗れ、冬寿は高句麗に亡命した。 その後冬寿は高句麗王に信頼されたのだろう。 これを墓誌だという人もいるが、墓誌ではないのではないか。 その下に冬寿像は侍従と同じように描かれている。 西脇室に描かれているのは王だろう。 『旧唐書』「高麗伝」では、高句麗の王だけが五色の衣装を用い、白羅冠を用いると記している。
つまり、全浩天氏は、3:56あたりに描かれている男性が冬寿であり、西脇室に描かれている墓主は高句麗王と考えておられるのだ。
上の動画では、次の様にナレーションがはいっている。 「4:30 正座した姿の主人公は黒い外冠(?)の上に白い外冠(?)を被っているが、これはきめの細かいに意識の一種である羅を用いて作った冠です。墓の主人公が赤色の華麗な2色をまとい・・・」
墓主の着物は五色ではないが、白羅冠を被っている。
・王妃(5:04)は高髪雲環と呼ばれる髪型。
・手縛(5:49)は相撲ではなく空手かもしれない。 日本の相撲の始祖は出雲の国の野見宿祢と当麻蹴速 「野見宿祢が大麻蹴速の肋骨を蹴って折り、その腰を踏みくじいて殺す」(日本書記) これは手縛ではないか。 イラク・テル・アグラブ遺跡出土の「闘技像脚付双壺」に描かれた格闘技は、日本と高句麗の様に裸で髷を結った姿ではない。 日本書紀、皇極天皇1年(642)史実と考えられる日本最初の相撲の記事がある。 相撲は朝鮮から伝わったのだろう。 埴輪にも力士と思われる人を象ったものがある。 (福島県西白河郡泉崎村、原山1号墳では裸にふんどしの『力士像が発見されている。 和歌山県岩瀬線塚古墳群 井辺八幡山古墳 6体の埴輪力士像(6世紀) 埼玉県 酒巻古墳群 酒巻14号墳 衣服を着て耳飾り首飾りをつけた力士埴輪
手縛の下の6人の斧鉞手は皇帝や王の威光を示すシンボル。儀礼に用いられる。
前室と玄室の間には3基の八角石柱 石柱上部に鬼面
回廊入口には四角柱、天井は回廊の身へ移行持ち送り式
次回へつづく~
シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。㊳キトラ天文図はどこからもたらされたか? より続きます~ トップページはこちらです。→ ①天智・天武・額田王は三角関係?
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」のメモと感想を記す。
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」における全浩天の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
肝心の高句麗壁画古墳の画像が使えるものがほとんどなく、わかりづらい点はおわびします。
⑯八清里壁画古墳/被葬者が車駕にのって曲芸を見ながら進む
・4世紀~5世紀
・前室と玄室の二室墓
・前室から玄室に入る短い間道中心に四角柱石が天井を支える。 天井はなくなり、内部も破損している。
・玄室 柱と斗栱、 北壁・・・被葬者の室内生活 東壁・・・楼閣、殿閣、人物,青龍 西壁・・・台所、人物 南壁・・・描かれない。
・前室 西壁・・・被葬者夫婦 東壁、南壁・・・行列図 被葬者が車駕にのって曲芸を見ながら進む 曲芸者の木の竹馬、手品、刀使い、ラッパを吹く二人の午に乗った騎手、太鼓を打つ鼓手
9ページに図あり
⑮徳興里壁画古墳1/墓誌、天の川、織姫、牽牛
上記動画8:04あたりに徳興里古墳がでてくる。
・408年に築かれた。石室封土墳。 (高句麗独自の形式。地表、半地下に長方形の角石、板石で墓室を作り、その上に土をかぶせて叩き絞めて封土にした墳墓。)
・石室内壁に石灰の漆喰を塗り、絵を描く。
・高句麗墳墓の中で被葬者と築造年代が分かっている唯一の墳墓。
・羨道東・・・蓮花と舌を出す獣
・前室北壁・・・墓誌 「広開土王の臣下で、功を立てて大臣になった。名前は鎮。建威将軍。国小大兄を経て、左将軍、遼東太守、使持節などを歴任。幽州刺史を経て77歳で死亡、広開土王の永楽18年《408年)12月25日(409年1月26日)この地で葬られた」 と記される。
前室南側天井・・・天の川、織姫(髻を結び、鬢を長く垂らす。緑や白のチマ(スカート)をはき、淡黄色のチョゴリ(上衣をきる。)牽牛(白色の冠、長く黄色いドゥルマギ)
・信都縣(しんとけん)の出身
・人物、風俗図。
日本古代の男子の髪型(みずら)、流鏑馬
上の記事によるとみずらの人物は女性としている。
⑯キトラ古墳天文図に織女星や天の川の一部が描かれている?
・橋本敬造氏によれば、キトラ古墳の星図には織女星や天の川の一部が描かれ天清(白鳥座)がえがかれているという。
橋本敬造氏の論文はここにあった。 内容をまとめる。
・キトラ古墳の東壁と西壁の上部にあたる星図面の外側の東と西には、線状の雲とともに太陽と月とが描かれている。 六世紀の高句麗・舞踊塚古墳の日・月の描写や、唐初の李賢墓后室にみえる天象図の雲の描写の影響をうけているか。
キトラ古墳 日像
キトラ月像
・キトラ古墳・月像のなかには蜻蛤(ヒキガエル)のような図様跡が見える(図版E )。
図版Eは5ページに掲載されているが、どこにヒキガエルが描かれているのかわからない。
明日香村の記事には次のようにしるされていた。
”日像
金箔を貼った太陽の中に、わずかに黒い羽根様のものが見られる。おそらく太陽の中に描かれた三本足のカラスの一部とみられる。日像の金箔の下方には水平な線を幾筋も描き、その中に雲か山並みを描いている。
月像
銀箔を貼った痕跡はみられたものの、中に描かれたものは残っていない。本来であれば、月桂樹やヒキガエルが描かれていたのであろう。下方の水平な線や山並みは日像と同様である。”
・ヘラ状のもので引いた下書きがみられた。特に十二支寅像で顕著に確認できる。 おそらく原図を壁面にあて、ヘラ状のものでなぞった後に、描かれたのであろう。
これは下の写真を見ていただくとおわかりいただけるように、橋本氏のおっしゃるとおりである。
・「織女」星や天の川の一部、あるいは「天津」(白鳥座)も描かれている。
記事24p、図9 キトラ星図・概念図 に織女、天の川の位置が示されている。 掲載されている図は南が上になっている。そこで図をコピーして180度回転させて南を上にして、下の図と並べてみた。 (実際にやってみてください。) すると、全く図が一致しない。
橋本敬造氏の記事の日付は「1999-03-31」となっている。
キトラ古墳が発見されたのは、1983年11月7日。このとき玄武が発見されている。
その後、1998年の探査で青龍、白虎、天文図が確認された。
2001年には朱雀と十二支像が確認された。
2013年に石室の考古学的調査は終了している。
つまり橋本敬造氏が論文を書いた時点では、キトラ古墳の天文図についてははっきりわかっていなかったということだろう。 橋本氏が「キトラ星図・概念図」と書いたのは、よくわかっていなかったためということになる。 全浩天氏が「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅」を著したのは2005年で、この時点でもキトラ古墳の考古学的調査は終了していなかったので、確認する術がなく、橋本敬造氏の論文をそのまま採用したのだろう。
そうではあるが、上のキトラ古墳天文図を見ると、中央部にある赤い円の外側、北北東あたりに、織女と記されている。 飛鳥資料館の記事を見るとさらにわかりやすいかもしれない。 さて、キトラ天文図に天の川の一部と、天清(白鳥座)は描かれているか。
(正確な図ではないことに注意)
この図を回転させて、キトラ天文図と同じくらいの位置に織女星、彦星を持ってきて比較してみよう。
上の記事に中国星座名と現代星座名が記されているが、天津(てんしん)=白鳥座となっている。
白鳥座は天清とも天津ともいうのだろうか。
天の川の一部は描かれていないようである。
おそらく全浩天氏は「キトラ古墳には天の川、織女星、彦星が描かれているのは、高句麗の徳興里壁画古墳との共通点であるとおっしゃりたいのだろう。 しかし、キトラ古墳の織女、彦星、天津(白鳥座)などは天文図として描かれており、徳興里壁画の擬人化した織姫・彦星は描かれていない。 キトラ古墳は天の川伝説とは直接関係が無さそうに思える。
⑰徳興里壁画古墳2/みずら、流鏑馬などに高句麗の影響?
・4世紀末の高句麗天文学者は白鳥座を認識できる高い水準をもっていたのではないか。 朝鮮の史書『三国史記」高句麗本紀には、高句麗には「日者」という観測専門家集団がいたと記される。
・遣唐使が天の川伝説を伝えた(粟田真人や山上オクラが帰国したのは704年)というが、それより以前に伝わっていたのではないか。 その根拠は柿本人麻呂の702年の歌 「天の海に 雲の波たち 月の船 星の林に 漕ぎ隠れる見ゆ」
・前室天井には牽牛と織女とともに、日・月・星・蓮花
天井下部には狩猟の図。虎・猪・鹿・雉を追う狩人は馬に乗り、短弓をもつ。
上の動画8:52あたりで馬射戯の絵が登場する。
パルティアン・ショット(射法の一つ)虎やイノシシの首には鏃が月朝サリ、鹿の首から鮮血
・前室の南壁・東壁・北壁・西壁の上部 東・・・三本足の烏(太陽を表す) 西・・・ヒキガエル(月をあらわす)せんじょ 天女・神仙・天馬・火の鳥・飛魚・説明文
・前室北壁西側・・・護衛武士たち、召使いをひきつれた鎮が青羅冠(高句麗の大臣が被る)を被って帳房内に座る。 被葬者・珍の下方左右にはチョゴリ(上衣)とバジ(ズボン)を着用した人物二人が筆で記録している。従者が3人。 屏風の広報にも3人の男子の二人の女子の従者。笛、笙を吹く。西側女子は弦鼓を奏する。
前室西壁・・・十三郡太守図。上下二段。 上段6人、下段7人の太守。(郡の長官)説明文あり。
東壁と南東壁、北東壁・・・幽州刺史・珍の行列図 珍は牛輿車に乗る。
上の動画9:13、9:26あたりに「牛轎車図」とでてくる。 かごを車に乗せた形のものを轎車というそうなので、この「牛轎車図」が「珍が乗る牛輿車」だろうか。 しかし色使いが異なっているように見える。 9:13は駕籠の屋根部分が赤く、9:26は駕籠の屋根部分が黄色く見える。退化の影響があるかもしれない。
・前室から玄室に渡る通路
東壁・・・女子の被葬者が出入りする場面 西壁・・・男子被葬者が出入りする場面
・法隆寺 百済の阿佐が描いたと伝わる御持聖徳太子画像 聖徳太子と二王子 みずらは高句麗壁画にしばしば登場する。水山里壁画古墳、曲芸の若者
・玄室・・・自宅で生活する場面 四隅と天井には柱、斗棋が描かれ、室内のようになっている。 北壁・・・被葬者の張房生活 東壁・・・蓮池・仏教の七宝行事 西壁・・・被葬者の張房生活と倉庫、流鏑馬 南壁・・・厩舎と加治屋 天井・・・火炎模様、蓮花模様
・日本の流鏑馬は起源がはっきりしない。平安中ごろにははじまったか。高句麗の馬射戯と共通する。 日本最初の流鏑馬記事は、吾妻鏡野1187年 藤原秀郷(9世紀の人物)
・4世紀後半の高句麗の馬射戯と9世紀よりはじまった日本の流鏑馬の起原は同じだろう。 ふりかえりざまに弓を引き絞っているシーン 記録係、審判員 準備練習するシーン
上の動画8:42あたりに記録係のような人が登場している。
⑱江西三墓/二十八宿を作ったのは高句麗人?
・江西三墓 三角形に配置される。
・高句麗壁画古墳の終焉期(668年、高句麗は唐・新羅の連合軍によって滅ぼされた。)
・大墓と中墓には東西南北の壁に四神が大きく描かれる。 白虎は胸を突き出し、「首に蛇腹の様な包帯、荒々しい脚、3本の爪。(高句麗白虎の特徴)
・「他方、高句麗の人々は夜空の星や天空の運行によって人間の運命、人生における吉と凶、幸福と不幸、災いが定められるという信仰や思想があった。このため人々は夜空にきらめく星の中に二八個の星座を探り想定し、それを東・西・南・北の四つの星座群にわけた。」(原文まま)
「このため人々は夜空にきらめく星の中に・・・」とあるが、ここにある「人々」とは「高句麗の人々」という意味だろう。
「二八個の星座」とは二十八宿の事だと思われる。 二十八宿について、ウィキペディアは次のように記している。
”二十八宿は二十七宿よりも歴史が古いという説があり、二十八宿は中国にて誕生し、使用されていたが、インドへ伝わった後にヒンドゥー教の牛を神聖な存在とする宗教上理由から牛宿が除外され[1]、バビロニア占星術などが関連した上で二十七宿となって中国に戻ってきたという[1][2][3]。” この記事の4ページ表二には、「准南子天文訓・漢書律暦志・後漢書・敦煌〇本、開元占〇に基づいて決定された宿度と星名」というタイトルが付けられている。
『淮南子』は前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年 - 紀元前122年)が学者に編纂させた思想書で、 巻三 が天文訓になっている。
一方高句麗の成立は紀元前1世紀頃 である。 紀元前1世紀とは、紀元前100年から紀元前1年までの100年間のことであるが、 『淮南子』はそれより早い淮南王劉安(紀元前179年 - 紀元前122年)に記されているので、やはりウィキペディアも書いているように、二十八宿は高句麗ではなく、中国で作られたものではないかと思う。
・高句麗の支配者層はなぜ四神思想に陰陽思想を結び付けたのか。
5,6世紀、高句麗は支配層内部での争い、対立、葛藤が激しくなったことが原因。
・初期、四神は天井に小さく描かれた。 時代が進むにつれ、四神は壁面に移り、人物とともに描かれた。 5,6世紀になると人物は描かれなくなり、四神のみ壁面に大きく描かれた。
⑲江西中墓/大きく描かれた四神
・6世紀末から7世紀初め
・墳丘は円形に見えるが、石灰と土を交互にたたきしめた方台形
・単室墓 羨道と玄室からなる。花崗岩の板石を用いてつくられている。 羨道は南壁中央に持つ両袖式。 玄室入口は二重作。玄室天井は高句麗石室封土墳によくみられる平行持ち送り式。
・壁画は石壁の上に直接描かれる。 画法、彩色は江西大墓と共通する。 内壁に壁面いっぱいの四神。天井に人頭唐草文、蓮花文、雲文、鳳凰、日像、月像。
 ↑ 写真向かって右が江西中墓の朱雀(キトラ古墳 壁画体験館 四神の館にて撮影)
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」に掲載された写真をみると、江西中墓の朱雀は、ほぼ同様の姿をした(保存状態が異なるせいかもしれないが、細かい部分が若干違っているようにも見える)が向かいあっている。 下の記事に朱雀の写真があった。
⑳江西大墓/黄龍のルーツは高句麗ではなく中国だと思う。
・江西大墓が築かれた7世紀初めと同じ610年に、高句麗の曇徴と法定が紙・墨・水車などの技術を伝えた。(日本書記) 法隆寺の壁画も彼らが描いたという伝説がある。
・方台形。花崗岩の板石。 羨道と玄室からなる。羨道は玄室南壁中央に設置された両袖式 玄室入口に二重の門を立てた門枠の後 玄室長方形、天井は平行三角持ち送り式
・玄室壁面は四隅に五角形の隅石を挟み込み隅を防ぐ。
・天井には蓮花文、忍冬唐草紋、雲文、鳳凰、麒麟、飛魚、飛天、神仙、天人
・壁画は直接石壁に描かれる。
・中央には天文図ではなく黄龍 「この黄龍とは高句麗の始祖・東明聖王と呼ばれた朱蒙が他界した時、黄龍に乗って天上に昇ったというその黄龍のことである。」(原文まま)
この全浩天氏の書き方では、黄龍は高句麗が創作した聖獣(全氏はそうはいっていないが)のように勘違いする人がいるかもしれない。
黄龍とは、中国の伝承五行思想に現れる龍である。 四神も中国発祥である。 四神の玄武は北、青龍は東、朱雀は南、白虎は西の守護神であり、中央が黄龍である。
五行思想とは万物は木火土金水の5つの要素からなるという考え方のことである。
五行思想においては、四神&黄龍は次の様に結びつくものと考えられる。
木・・・緑・・・春・・・東・・・青龍
火・・・赤・・・夏・・・南・・・朱雀 金・・・白・・・秋・・・西・・・白虎 水・・・黒・・・冬・・・北・・・玄武 土・・・黄・・・土用・・・中央・・・黄龍・麒麟 ※土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割りふられた。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にある。
㉑江西中墓、江西大墓の四神/キトラ古墳は江西中墓、江西大墓の影響を受けているか?
白虎・・・胸を突き出し、前の両足を大きく開いている。三本の足爪。首には蛇腹のような包帯をまく。(青龍も同様に包帯を巻く。高句麗だけの特徴)
上の動画の5:05あたりからも江西中墓が紹介されている。 (5:09江西中墓の朱雀、5:51玄武、6:02白虎、6:19青龍 3:09江西大墓の玄武、3:32青龍、3:49天井、4:02蟠龍(黄龍のことか?)4:12飛天、4:26唐草模様、4:37白虎、4:52朱雀)
江西中墓の白虎・青龍について 6:02/白虎を見ると確かに首に包帯の様なものを巻いているように見える。 6:19/の青龍の首に包帯がまいてあるかどうかは確認しづらい。
江西大墓の白虎・青龍について 3:32/青龍 包帯状のものが確認できる。 4:37/白虎 包帯状のものは確認が難しい。
江西大墓の壁画を復元した動画の方でも確認してみよう。
0:38あたりに首のアップが登場するが、包帯状のものを巻いているのが確認できる。 さらに1:21あたりに青龍が登場するが、首に包帯状のものを巻いている。 0:38と1:21の映像を比較すると同じであるように見える。どちらも青龍だろう。 0:36と4:38に白虎が登場しているが、どちらも確認が難しい。4:38にはうっすら包帯状のものがあるようにも見えるが、はっきりとはわからない。
(0:31白虎、0:39青龍の首、 0:49玄武、1:22青龍、2:11青龍、2:14天井、4:30玄武、4:38白虎、5:00朱雀)
・高松塚、キトラ古墳の白虎は首に蛇腹状の包帯を巻き、三本指と爪を持っている。
高松塚古墳 白虎
キトラ古墳 白虎
上は高松塚古墳、キトラ古墳の白虎であるが、全浩天氏がおっしゃるような包帯状のものは確認できない。
だが、高松塚古墳の青龍の首には☒マークがある。
キトラ古墳の青龍の首は、泥をかぶっていて確認ができない。
高松塚古墳 青龍
キトラ古墳 青龍
もしかすると高松塚の青龍の☒マークは、江西大墓の影響を受けた物なのかもしれない。 ただし、色は高松塚の☒マークは赤、・江西大墓の蛇腹状のもの(包帯?)は白である。 赤い包帯はありえるか。 江西中墓の白虎、江西大墓の青龍、高松塚古墳の青龍の首にあるのは包帯ではなく、首飾りなのかもしれない。
・キトラ古墳の青龍の原図が見いだされる。
と全浩天氏はおっしゃるが、私にはさほど似ているように思えない。 三本指で爪を持っている点は同じではあるが、ポーズや尾の長さなどがかなり違う。
・二羽の朱雀は「今まさに飛びたたん」とする動と静の瞬間を描く。 朱雀の下には山々が描かれている。朱雀は空高く舞っている。一部の人は両足をそろえて静止していると主張するがそうではない。
上の動画『「高句麗古墳壁画江西大墓」復元.mp4』5:00あたりを見ると、江西大墓の朱雀の下には山々が見えている。
しかし、鳥はこのような姿では飛ばないのではないか。
上記記事を読むと、「サギなどでは後ろに伸ばして飛び、小鳥は前に縮める」と書いてある。 下の動画は鳥が飛ぶ時の足の状態が大変わかりやすい。 下の動画には、真下に足をのばして飛ぶ鳥はでてこない。
江西大墓の朱雀は羽根を高く上げて垂直に天に昇って言っているようにも見える。 また「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」に記された江西中墓の朱雀の写真を見ると、朱雀の下に山々は描かれていないようである。
・キトラの朱雀は羽根を広げて駆けている。
キトラ古墳の朱雀は大浩天氏がおっしゃるように、飛ぶというよりは走っている。飛翔する直前の朱雀を描いたのかもしれない。
キトラ古墳 朱雀
・朱雀変遷 4世紀末 安岳1号墳・・・天井持ち送り部分に描かれる 4世紀末~5世紀 薬水里壁画古墳・・・・南壁入口桁の上で駆ける 5世紀末 双楹塚・・・2羽の朱雀が天上下の桁に描かれる駆けている。 6世紀 真坡里4号墳・・・飛ぼうとして駆ける。 真坡里1号墳・・・駆けながら飛び立とうとしている。 江西中墓 飛び立つ瞬間 江西大墓 大空を飛び舞う。
次回へつづく~
①天文図は北を上にした場合、向かって右が西、向かって左が東
キトラ天文図と実際の夜空とを比較するために、私は某所に置かれてあった説明板の写真を使わせてもらおうと思っていた。 写真は後でお見せする。 この図のせいで(いや、私がうっかりしているのかな?笑)私は4日も悩まされることになった。
まずキトラ天文図を見てみよう。

キトラ天文図
地図は北が上、南が下、向かって右が東、向かって左が西になっている。 天文図は北を上にした場合、南が下、向かって右が西、向かって左が東になる。 キトラ天文図もそうなっている。 地図と天文図は東西の左右が逆になるのだ。
なぜそうなるのか。 地図は地面を見下ろす形で見る。一方、空は見上げる形で見る。 北向きに立って、地面(地図)を見た場合、上が北になる。 一方、北向きに立って空を見た場合、上が南になる。 しかし北向きに立って見下ろしても、見上げても、向かって右が東・向かって左が西で在ることは変わらない。
図1
下の図の上部のだ円は、上の図左上に描いた天球外側ではなく、天球内側(天球図]であることに注意してみてほしい。 天球図の円の輪郭は地平線である。
②東西が逆になった天球図?
下は私が悩まされた、某所にある説明板に描かれた天球図である。
図3
この説明板の図をパッと見ると、下の図(図4)のような天球図の北側半分を切り取ったものだと思うのではないだろうか。
図4
しかし、上の図のように、説明板の下に南側半分があると考えると、天文図としては東西が逆になってしまう。 地図として見た場合には東西はこれで正しいのだが。 ③某所説明板の東西南北は地面の東西南北を表している?
ということは、ここに記されたW(西)、N(北)、E(東)は地面(地図)の方角を表しているのかもしれない。 とすれば、半円は天球を表すのではなく、ただのモニュメントの形であって、北を望むとアルタイル・ベガ・デネブがこんな風に見えるということを示しただけなのかもしれない、と思った。
つまり天球図にすると下の図のようになっていることを示したものだろうか?と思ったのである。↓
図5
上の図を180度回転させて北を上にすると次の図のようになる。 (星の位置と「名前を記した文字」が小さくて読みにくいので赤で付け加えた。)
④「2021年8月4日21時頃 東京の星空」と「某所 説明板の天球図」を比較してみた。 図6
某所 説明板の「夏の北の夜空」
(正確な図ではないことに注意)
図7 2021年8月4日21時頃 東京の星空
上の図7と図6と比較してみよう。 『某所 説明板の「夏の北の夜空」』ではアルタイルが向かって右、ベガが向かって左、デネブが下にあるのに対し 『2021年8月4日21時頃 東京の星空』ではアルタイルが向かって左、ベガが向かって右、デネブが上にある。
星空は天の北極を中心に1日で反時計回りに1回転する。
つまり、時刻によって星の見える方向は変わる。
そこで、『某所 説明板の「夏の北の夜空」』を180度回転させて、アルタイルが向かって左、ベガが向かって右、デネブが上に来るよう動かしてみたのが次の図である。
図8
アルタイル、ベガ、デネブの位置関係は「2021年8月4日21時頃 東京の星空」とほぼ同じになる。
⑤某所 説明板は午前9時頃の空?
ここで、あることに気がつく。
図7は「2021年8月4日21時頃 東京の星空」である。 図6の撮影場所は大阪府だが、東京とそんなに星空の見え方がかわるわけではない。
大阪においても、2021年8月4日時頃の星空は、若干のずれはあるだろうが「2021年8月4日21時頃 東京の星空」とほぼ同じように見えるだろう。
先ほども述べたように、星は天の北極を中心にして反時計回りに回る。
1回転(360度回転)するのに要する時間は(約1日=24時間)である。
ということは、180度回転するのに要する時間は12時間である。
図6は「夏の北の夜空」というタイトルだが、図7「2021年8月4日21時頃 東京の星空」に一致させるためには 図を180度回転させる必要があった。 ということは、21時から12時間後、または12時間前の午前9時ごろの空ということになってしまう。 午前9時の空は夜空とはいえない。 既に太陽が昇り、星は見えなくなっているころだ。 これはありえない。
ということは、某所の天球図は、夜21時ぐらいの空(「2021年8月4日21時頃 東京の星空」と同様の空)を描いたものであり、 天球図は図4の北側半分を切り取ったもので、図9、図10のようにE(東)とW(西)を誤まって左右逆に描いてしまったのではないだろうか。
図9
図10
 図10は図7とほぼ同じである。
図7
某所の説明板は南向き(見る人は北を向いて説明板を見る)で、実際の東西に合わせて設置されていた。 しかし、そうではなく、この説明板は方角を訂正した上で、北向き(見る人は南を向いて説明板を見る)にして、 実際の東西に合わせて設置するべきだったのではないだろうか。
E・W・Sの文字は「地図の方角を記しただけ」なのかもしれないが、そうであるとしても紛らわしい。
南から夏の北の夜空を見た場合、夏の大三角(アルタイル、ベガ、デネブを結んでできる三角形)は説明板のような形にはならず、説明板を180度回転させたような形で見えるのではないだろうか。
図10
↓ 南から北の夜空を見たとき ↓北から南の夜空を見たとき
自信がありません(汗)。何か勘違いしていたら、ご指摘お願いします。
次回へつづく~
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」のメモと感想を記す。
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」における全浩天の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
肝心の高句麗壁画古墳の画像が使えるものがほとんどなく、わかりづらい点はおわびします。
⑮高句麗石刻天文図/キトラ古墳天文図は現存する最古の天文図だが、日本で観測して作成されたものではない。
・高句麗石刻天文図
高句麗最古の天文図 5,6世紀の平壌の夜空の星を写している。正確に描かれていると指摘されているが現存しない。 668年に唐軍が平壌城を攻撃したとき、大同江に落とされ、失われた。 しかし拓本が残っており、1395年に復元して「天象列次文野之図」が作られた。
こちらの記事には、次のような内容が記されている。
・中国・朝鮮・日本など中緯度から見える天域全体を描いた星図として現存最古のものは、中国・蘇州の孔子廟内の碑刻博物館にある「天文図」。(これについては「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」の中でも触れられている。)
・中国・蘇州の孔子廟内の碑刻博物館にある「天文図」は、南宋の淳祐年間(1241年 - 1252年)に刻まれたことから、淳祐[石刻]天文図とか蘇州[石刻]天文図などと呼ばれている。
・ 蘇州天文図(淳祐天文図)は北宋(960年 - 1127年)時代の観測に基づくと推定され、北宋時代に書かれた『新儀象法要』にも星図がいくつか収載されている。
・ 朝鮮半島には「天象列次分野之図」と題する石刻天文図が現存するが、石刻天文図としては中国・蘇州の天文図に次ぐ古いもの。
・「天象列次分野之図」銘文には次のようにある。 「高句麗の都・平壌に石刻天文図があったが、唐・新羅連合軍に滅ぼされた時(AD668)、大同江に沈んだ。歳月の経過とともにその拓本も漸次失われたが、朝鮮の太祖(在位1392~98)のとき、拓本を献上するものがあり、太祖はこの石刻天文図の復元を命じた。しかし書雲観では年月を経て度数(すなわち座標)が変わっている(歳差を指す)として、新たに夜明けと日暮れに南中する星を観測し、それらについては新測に基づき、星象は旧図に基づいて天象列次分野之図を作った。洪武二十八年十二月」
・朝鮮では明の年号を用いていた。明の洪武28年は朝鮮の太祖3年。この年12月は西暦では大統暦との年初のずれの関係で、1396年となる(11月19日までが1395年)。
・ジョゼフ・ニーダムは「天象列次文野之図」が高句麗石刻天文図を基にしていることを証明している。 どのように証明されたのかについての説明がほしい。
・高松塚古墳、キトラ古墳はキトラ古墳の方が少し古いとされる。 これについては聞いたことがないし、古いとされる根拠について全浩天氏は触れておられない。
・キトラ古墳天文図について 68の星座、350の星が確認される。 内規・・・内側の円(地平線に沈まない星の範囲) 外規・・・外側の円(星が見えなく成る境界) 黄道・・・地球から見て、太陽が地球を中心にして運行するように見える天空上の大きな円 春分、秋分の位置が明確に示される。 キトラ古墳が作られた天武朝は天文学と占星術が大いに奨励された。
日本書紀天武天皇即位前紀『(天武天皇は)天文・遁甲に能し」とある。 675年正月 陰陽寮設立
・キトラ天文図に匹敵する天文図は中国蘇州孔子廟の礎石(淳祐天文図)淳祐7年(1247年)と天象列次文野之図(1395年)※この時代は李氏朝鮮(1392年8月から1897年10月)
キトラ古墳の築造時期は7世紀から8世紀とされている。 つまりキトラ古墳の天文図は、現存する東アジアのる星図としては最古のものだといえる。
しかし、キトラ天文図について、来村多加史氏は次のようにおっしゃっていて、私は「なるほど」と思う。
・中国では望遠レンズは開発されず、窺管(わくかん)という長い筒が用いられた。
窺管は上下左右に自在に動く。
観測したい星を睨めば星の緯度と経度が同時によめる。
窺管がいつから存在していたかわからないが、晋・陸雲〔陸典に与ふる書、十首、五〕に次のように記されているようである。 「東州の幽昧を光(かがや)かし、榮勳を野に(し)かんこと、謂(いはゆる)管を窺ひて以て天を瞻(み)、木に(よ)りて魚を求むるなり。」 晋は中国に、265年から 420年まで存在した王朝である。 下に記す漢書、張衡が水運渾象を製作したということから考えても、この晋の時代には窺管は存在していたと考えられると思う。
・漢書(後漢の時代に成立した。後漢は25年 - 220年)は118官、783星とした。のちに283、1464星とした。(官は明るい恒星)
張衡(78年 - 139年)は改良を加えた渾天儀で星の数を444官、2500星、微星を含めた星の総数 1万1520とした。
また張衡は水運渾象(すいうんこんしょう)を製作した。
天球儀で、漏刻(水と刑)によって制御されながら、実際ん天球と同じ速度で自動回転する。
のち、北宋時代に蘇頌が水運儀象台をつくっている。
・日本ではじめて渾天儀が持ちられたのは寛政年間(1789年から1801年)なので、当時の日本で星宿図や天文図を描くのはムリ。
・橋本敬造氏「キトラ古墳の星図には天象列次文野之図の星座に似ているものが多い。」
内規の中にある「八穀」星座、赤道と同心円の外規の間にある「弧矢(こし)」「天(稷/しょく)」「天社」「器府(きふ)」などの星座群が似ている。老人星の位置が似ている。
高句麗石刻天文図から製作された拓本が二枚あって、一枚は天象列次文野之図となり、同じ星図がキトラ星図の原図となったと推定される。
・宮島一彦氏、「キトラの星座の形地は必ずしも天象列次文野之図と一致しないので、高句麗石刻天文図はキトラの元図ではないだろう」 「星座の形は石刻天文図と異なるが、特定の星を大きく表すのは共通の別の星座があって、それがキトラの原図ではないか」と推定 「キトラの内規は緯度37度半」中国の長安、洛陽、飛鳥は該当しない。平壌は該当するとしている。
これについては、過去に以下の記事を書いた。
自分自身の復習の意味をこめて(笑)内容をまとめておく。
・内側の小さな円・・・内規・・・1年を通じ、1日を通じて地平線に沈まない星座の範囲
・外側の大きな円・・・外規・・・観測地点からの可視領域 この外にある星はみえない。
観測地点の緯度が計算できるほど精度は高くない。
・中間の円・・・・・・赤道 天の北極から90度下におろした線(意味がわからない?)
天の北極は地球の回転軸(地軸)が天球と交わる点なので、
地球の赤道を天球に投影した円と考えてもよい。 地球の北極もその線上にある。
・ずれた円・・・・・・黄道 1年を通じた太陽の軌道
(来村多加史氏の説明による)
・1998年、宮島一彦氏(同志社大学)は超小型カメラで撮影したキトラ天文図画像から、大まかな解析を行った。
その結果、キトラ天文図の内規と天の赤道の半径の比から、キトラ天文図は北緯38.4度の空を描いたもので
平壌の緯度(39.0度)に近いが、日本の飛鳥(34.5度)や中国の長安(34.2度)・洛陽(34.6度)は該当しないとした。
宮島氏はまた、1998年撮影の画像から天文図の星の位置を解析し、2つの異なる方法を用いて観測年代を紀元前65年と紀元後400年代後半と求めた。
2004年、宮島氏は緯度の推定値を37~38度に修正した。
ただし、画像は不鮮明なので、宮島氏が用いた星の同定や位置に誤りがありえるとした。
2004年高精細デジタルカメラで撮影されたキトラ天文図をもとに、相馬充氏が解析を行った。
①黄道の位置が大きく異なる。
②昴宿(プレヤデス星団),畢宿(ヒアデス星団),觜宿(オリオン座の頭の3星 λ,φ1,φ2 Ori)などがかなり拡大されている ③天津(はくちょう座 Cyg の翼)の向きが大きく異なる
④軫宿(からす座 Crv)の四角形の位置と形や向きが異なる
⑤翼宿(距星は α Crt)と張宿(距星は υ1 Hya)の東西位置が逆転している。
⑥張宿の距星の南北位置の誤差も大きい ⓻北極という星座は 5星のはずだが,6星あり,曲がり方も逆。北極という星座でない可能性がある.
天球上の星の位置は赤経・赤緯で表す。
赤経・・・春分点から東向きに測る。
赤緯・・・天の赤道を基準に南北に測る。北向きを正とする。
地球の自転軸は約26,000年を周期に首振り運動をしている。(歳差運動)
そのため、各星の赤経・赤緯、天の北極や天の赤道近くの星も変化する。
各星座の星と天の赤道の位置関係、太陽の通り道である黄道などが正確であれば年代の推定が可能だが、キトラ天文図は正確でないので年代の推定ができない。
天の赤道や内規などが書かれていることから、いくつかの星はそれらの線を頼りにして描き、残りの星は目分量で書いたのではないかと思い、キトラ天文図に描かれた二十八宿の距星(星宿の中で代表的な星)を測定し、理論値との比較を試みた。
地球は歳差運動をしているため、年代によって北極星(天の北極に位置する星)も変わるし、星々の赤経・赤緯も変化する。
西暦400年ごろの理論値と、キトラ天文図を比較すると、赤道近くの9星のうち、おとめ座α、オリオン座δ、ペガスス座α、ペガスス座γ、うみへび座αの5星の誤差が2º以内になる。
9星のうちの5星もの星の誤差がこれほど小さくなるというのは偶然とは考えにくい。
天の赤道に近い距星の中でもこれらの明るい5星を、天の赤道に対して正確に描こうとしたと考えられる。
そこで、これらの5星の位置の誤差が最も小さくなる年代が観測年代だとして、最小二乗法により観測年代を求めた。
その結果は西暦384年±139年となった。
内規・・・1年中地平線下に没しない北天の星 (周極星) の範囲を示す線
外規・・・南天の観測限界の範囲を示す線。
内規と外規の位置は観測地緯度によって決まる。
内規の赤緯は〔90度-緯度〕、外規の赤緯は〔緯度-90度〕。
内規や外規の赤緯が求められれば観測地緯度が得られる。
大気中で光が屈折することから、星の位置は真の位置より浮き上がって見える。(大気差)
地平線上の星の大気差は角度の約35分。
キトラ古墳天文図では内規に接するように描かれている星が6星ある。
文昌の2星と八穀の4星(図2参照)で、東から、おおぐま座θ、おおぐま座15、やまねこ座15、やまねこ座UZ、きりん座TU、やまねこ座β。
北緯34°とした場合で,星と内規の位置関係がキトラ古墳天文図のものとよく一致する。
6星の位置を計算して観測地緯度を最小二乗法で求めると33.7±0.7度となった.
天の赤道と内規の近くの星を総合した解析 上の2節で赤緯が正確に描かれたと考えられる星が天の赤道近くで5星、内規近くで6星の計11星あることが判明した。
内規の近くの星も使って解析をやり直したところ、観測年:300年±90年、観測地緯度:33.9±0.7度 となった。
この緯度に当たる地点としては中国の長安や洛陽。日本の飛鳥もこの緯度に当たるが、日本ではまだ天文観測が行われていなかった。
細かい計算が正しいかどうかはわからないが、どのようにして計算をしたのかは何となく(笑)わかる。
つまり210年~390年ごろの長安、洛陽あたりで観測した天文図である可能性が高いということだ。
これに該当する中国の王朝は次のとおり。
後漢(東漢) AD23〜AD220
魏(曹魏) 220〜265
呉(孫呉、東呉) 222〜280
蜀(漢、蜀漢) 221〜26
西晋 265〜316
東晋 317〜420
桓楚 403〜404
一方、日本では邪馬台国の卑弥呼が死亡したのが247年。
その後の日本の状況については不明で空白の4世紀と呼ばれる。
来村氏は著書の中で「602年、百済僧・観勒が、日本に初めて天文学を伝えた。」と書いておられた。
来村氏は「キトラ天文図は正確ではない」とおっしゃっているが、有坂氏は「高松塚の星宿は正確。」とされた。
天文図と星宿は別のものである。
キトラ天文図は正確でなくても、高松塚星宿は正確ではないとは言い切れないかもしれない。
(そもそも、何をもって正確というのかという問題もあるが)
しかし、高松塚の星宿図は一見して、夜空を忠実に写し取ったものというよりは、四角で囲んだ周辺部に星宿を並べたものである。
キトラ天文図
高松塚古墳 星宿図
高松塚古墳と同様の星宿図はトルファン・アスターナ古墳でも発見されている。
アスターナ古墳群は中国新疆ウイグル自治区・トルファン市高昌区にある。
麹氏高昌・唐代618~907年の貴族の墓地とのこと。
高松塚と同時期に築造されたと考えられるキトラの天文図は、相馬氏の研究から、210年~390年ごろの長安、洛陽あたりで観測した天文図である可能性が高い。
すると星宿図や天文図は中国で作成され、それがトルファンや日本に伝わったか、もしくは中国で作成されたものが高句麗経由で日本に伝わったと考えるのが妥当ではないかと思う。
高松塚古墳の星宿図が発見されたばかりのころは、類似した天文図が知られておらず、日本で独自に天文学が発展したとする説を多くの人が唱えていたそうである。
⑯キトラ古墳はどこから伝わったか?
・「専門の天文学者たちに差異があったとしても、明らかなのは高句麗文化の結晶である星図の一つが平壌から「飛鳥への道」をたどり、他の一つは「ソウルへの道」にもたらされたのであった。」 『世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天』85ページより引用(原文まま)
「専門の天文学者たちに差異がある」というのは、すでにのべたように以下のことをさす。
橋本敬造氏・・・ キトラ古墳の星図には天象列次文野之図の星座に似ているものが多い 高句麗石刻天文図から製作された拓本が二枚あって、一枚は天象列次文野之図となり、同じ星図がキトラ星図の原図となったと推定される。
宮島一彦氏・・・ キトラの星座の形地は必ずしも天象列次文野之図と一致しないので、高句麗石刻天文図はキトラの元図ではないだろう。 星座の形は石刻天文図と異なるが、特定の星を大きく表すのは共通の別の星座があって、それがキトラの原図ではないか。
そして「飛鳥への道」とは「高句麗石刻天文図(5~6世紀)または類似のものが飛鳥に伝わってキトラ古墳の天文図が作成された」こと
「ソウルへの道」とは、「李氏朝鮮(1392年8月から1897年10月)の首都・漢城府(現在のソウル)において、1395年に高句麗石刻天文図をもとにして天象列次文野之図を作られたということ」を言っているものと思われる。
しかし、高句麗から伝わったのではなく、唐から伝わったとも考えられるのではないか? 遣唐使630年よりはじまり、多くの唐の文化がもたらされたとされる。 その一方で、当事多くの渡来人が日本にやってきたとされる。 四天王寺を作った宮大工の金剛重光は百済人である。 このブログで、高松塚・キトラ古墳の壁画を描いたのではないか、とたびたび名前がでてきた黄文本実は高句麗系だと松本清張氏はおっしゃっている。 黄文本実は669年の第七次遣唐使に参加したともあり、松本清張氏のおっしゃっることが正しければ 黄文本実は高句麗系渡来人として日本に住み、遣唐使にも参加したということになり、高句麗と唐、どちらの文化にも関係しているといえる。
ウィキペディア「渡来人」には次のような内容が記されている。 ・た飛鳥時代には百済より貴族が日本を頼って渡来した。 ・最後の百済王義慈王の王子の禅広は、持統天皇より百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜った。 ・大和朝廷では優遇され、官人として登用された者も少なくない。 ・「新撰姓氏録(815)」に記載される1182氏のうち、326が渡来系氏族で全体の3割を占める。 ・諸蕃の出身地は漢が163、百済が104、高麗(高句麗)が41、新羅が9、任那が9。
ここに「漢」とあるのは、漢民族という意味だと思う。 ちなみに中国の王朝である前漢は紀元前206年 - 8年、後漢は25年 - 220年であり、飛鳥時代のはるか昔である。
このように考えると、やはりキトラ古墳の天文図が高句麗からもたらされたものとは断言できず、唐からもたらされたものである可能性もあると思う。
これについては宿題ということにして、次に進むことにする。
次回へつづきます~
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」のメモと感想を記す。
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」における全浩天の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
肝心の高句麗壁画古墳の画像が使えるものがほとんどなく、わかりづらい点はおわびします。
⑥大城山城と安鶴宮
・427年、高句麗の都は集安から平壌に移った。その国都の中心は安鶴宮跡。
大城山の山上に築かれた山城も王城。石壁がだ円形に築かれる。 東西約2300m、南北1700m 渓谷にも城壁が築かれた。 宮殿の建物は現存しない。
・安鶴宮跡の下層から2~3世紀の石室封土墳10基が発見された。
⓻湖南里四神塚/北を振り返りながら南へ走る青龍と白虎
ネット上に湖南里四神塚の壁画の写真はみつからなかった。(探したりないのかもしれないが)
・安鶴宮跡の南東に湖南里四神塚はある。
・5世紀から6世紀に築かれた単室墓の壁画古墳。
・花崗岩の壁面に直接、四神のみが描かれる。
・青龍は走りながら北を振り返る。 白虎は毛をむしり取られたような姿で、南に走りながらやはり北を振り返っている。 南には二柱の朱雀。羽根はシンプルで貧弱。玄武は定型どおり。 ネットに「北朝・隋唐と高句麗壁画」という記事があり、次のように記されている。
”湖南里四神塚[関野1941] 両袖式石室。四壁に柱・斗棋を描く。南壁に朱雀,その西側に「奇古なる蓮花の如き」ものがある。北壁の玄武,西壁の白虎などは不明である。天井部にS字形の連続渦文が全面に描かれる。”
ここに「北壁の玄武,西壁の白虎などは不明である。」とあるが、「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅」には四神の写真が掲載されている。
「北朝・隋唐と高句麗壁画」という記事は1999年3月に記されたものであり、「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅」の出版年は2005年である。 1993年3月以降に発掘調査などが行われて全容がわかったのだろう。 全浩天氏は「墓室に入る。ひんやりした空気である。」と書いておられるので、古墳石室内に入って見学することもできるようだ。(特別な許可が必要なのかもしれないが)
「北朝・隋唐と高句麗壁画」には a 四壁に柱・斗棋。 b 南壁に朱雀,その西側に「奇古なる蓮花の如き」もの。 c 天井部全面にS字形の連続渦文 とあるが、全浩天氏は「花崗岩の壁面に直接、四神のみが描かれる。」と記し、柱・斗棋・蓮花・S字形の連続渦文については何もしるしておられない。
『b 南壁に朱雀,その西側に「奇古なる蓮花の如き」もの。』とあるのは、南壁に記された東西二柱の朱雀のうち、西に描かれた朱雀を「蓮花の如きもの」と言っているのだと思う。
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅」には湖南里四神塚南壁入口左側に描かれた朱雀の写真が掲載されている。 南壁中央に古墳入口があり、そのため朱雀を入り口の左右に描いたのだろう。 南壁入口左側とはむかって左側ということだろうか。すると、東の朱雀ということになるが、西の朱雀は東の朱雀と向かいあうように、同様の姿で描かれたのではないかと思う。 そしてその朱雀の写真は蓮花のように見えなくもない。
柱・斗棋・S字形の連続渦文については、あるのかないのかわからない。
⑧高山洞古墳群
これもネットに画像が見つからなかった。本にも画像はない。
・湖南里四神塚がある三石区域の隣の大城区域には多くの古墳群がある。 廬山洞古墳群、内里古墳群、土浦里古墳群、寺洞古墳群、高山洞古墳群、安鶴洞古墳群 壁画古墳もある。
・高山洞1号墳 5世紀末~6世紀初 玄室には人物画と四神図 高山洞7号墳 4世紀末 左右に側室、玄室がある。墓室には人物、風俗、四神図 高山洞10号墳 4世紀末 壁画は人物のみ 高山洞15号墳 壁画の剥落がひどく内容がわからない。 高山洞20号墳 三世紀の築造、前室に人物画が確認される。他は不明。 安鶴洞9号墳 3世紀の築造、玄室には四神図 嵋山洞壁画古墳 5世紀 人物と四神図
⑨鎧馬塚/馬に乗ろうとする被葬者を描く。
9ページに画像がある。
・長方形の玄室のみをもつ。
・壁画風化している。
・壁面には四神が描かれていたが朝鮮戦争(1948年、大韓民国vs朝鮮民主主義人民共和国)で破壊された。 天井部分のみ残る。
・玄室天井持ち送り部に鎧馬に乗る在りし日の被葬者が描かれている。
・絵の上には「塚主着鎧馬之像」(墓の主人が鎧馬に乗る姿)と記されている。(確かに確認できる。)
全浩天氏は「在りし日の被葬者」としているが、 『北朝・隋唐と高句麗壁画 - 四神図像と畏獣図像を中心として』という記事には次のようにある。
”鎧馬塚 玄室左壁の第1段持送り天井側面に,冠飾をつけた墓主像・従者と,御者・飾馬の像があるが,そのあいだに「家主着鎧馬之像」という榜題がある。「家」を「原」と釈読する見解[関野貞1941]もあるが,「塚」であろう。その主墓主)は,鎧馬に乗っていないが,その鎧馬の導かれて昇仙するさまが描かれているのであろう[東1992]。”
そこでもう一度画像を確認してみると確かに墓主は鎧馬に乗っていない。 また、天井部に描かれているということは、「在りし日の被葬者」ではなく、「鎧馬に導かれて昇仙する被葬者」と考えた方がよいのではないかと思った。
・日像には三本足の烏、月像にはヒキガエルと薬草をつく兎
↑ リンク先「11ページ・図10・6」に鎧馬塚の三本足の烏、ヒキガエルと薬草をつく兎の絵がある。
⓾内里1号墳/月の中に松の下にたたずむ兎
・6世紀末から7世紀初
・以前の発掘調査資料から青龍、白虎、朱雀、玄武が描かれていたことがわかっている。
・月像には松の木の幹と葉の下にたたずむ兎が描かれる。
(ネットに写真は見つからなかった。)
⑪高山洞7号墳
・4世紀末から5世紀初めにかけて作られた多室墓
・建物、水車、人物、樹木、馬を牽く人 (ネットに写真みつからなかった。)
⑫徳花里1号墳
・墓室は半地下。
・八角天井に亀甲文を描き、太陽を意味する三本足の烏、月像、星、雲、蓮花、北斗七星を描く。
・柱の角には柱と斗栱
・北側天井には大きく北斗七星
・玄室床面には北斗七星を仰ぎ観るかのように棺台が東西に並べて置かれている。
・四神と人物
・単室墓
(ネットに画像はみつからなかった。)
⑬徳花里2号墳/大きく描かれた北斗七星と南斗六星
・玄室床面には北斗七星を仰ぎ観るかのように棺台が東西に並べて置かれている。
・四神と人物
・天井には19の星座が確認されている。「井星」「辟星」「胃星」「柳星」の文字が記される。 28の星座が星座名とともに記されていたのだろう。 1395年に作成された「天象列次文野之図」の星座位置とほとんど同じと指摘されている。
・1号墳に東に近接し、壁画も似ている。
・単室墓
・柱の四隅に柱と斗栱
図1に徳花里2号墳の星辰図がある。 北斗七星と南斗六星(南の空にある柄杓の形地をした星。いて座の一部)が大きく描かれている。
南斗六星
⑬星宿図を描いた高句麗壁画古墳
・21基ある。
・伏獅里壁画古墳 角抵塚 特興里壁画古墳 大安里1号墳 星塚 双楹塚 狩猟塚 牛山里2号墳 通溝四神塚 集安5号墳 安岳1号墳 舞踏塚 薬水里壁画古墳 天皇地神塚 長川1号墳 三室塚 牛山里1号墳 真坡里4号墳 集安4号墳 徳花里1号墳 徳花里2号墳
⑭長川1号墳/北斗七星には男神と女神がある。
長川1号墳については「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅」69pに模写図が掲載されている。 それをもとに、へたくそな図を書いてみた。↓ かなりいい加減な図である点に注意してほしい(汗)。
この図を書いた後で、友人が長川1号墳の模写が掲載されている中国語の記事を教えてくれた。
そうではあるが、この中国語の記事が削除される可能性はあるので、私のへたくそな図も念のため掲載することにした。
上の記事を中国語に自動翻訳したものをまとめてみよう。(意味が分からない所もあるので、間違いがあるかもしれない。)
・堯水里古墳 平安南道南浦市麗水里にある 4世紀後半から5世紀初頭。 回廊、前室、後室で構成される。 奥の部屋(後室のことか)の上半分には、太陽、月、四神、星などの天体像が描かれている。 北壁上部には北斗七星が描かれ、その下に被葬者と被葬者の妻がカーテンがかかったソファに座る絵が描かれている。 墓主を天に昇らせ、北斗を使って墓を守る。
・高句麗の壁画墓では、北斗七星と蓮が天国の中心的なイメージとして初期に使用された。 蓮華、北斗七星、南斗七星、太陽、月など複数の天体モチーフが天を表現 a 北斗が天国の中心であり、太陽と月がそれを補う. b 蓮の模様中央に北斗と南斗があり、左右対称になっている。
・長川1号墳 吉林省集安市長川市にある 回廊、前室、後室からなる。後室にも棺台が2台設置されている。 後室は前室よりわずかに大きいが、高さは低くなる。 前室の東側と西側の壁・・・被葬者の生涯を描いた絵 棺の下側には四神として緑龍と白虎、上側には菩薩と神像が描かれる。 前室北壁・・・仏陀を礼拝する人々 後室・・・四方の壁とケーソンには、整然と配置された蓮の文様。 ケーソンの中心の南北に北斗七星、東側と西側に太陽と月。中央に「北斗七青」の四文字が赤字で記される。 北斗七星の星座は、星を表す円と、その円を結ぶ線で構成される。円の中に点。北側の北斗は実線で結ばれ、南側の北斗は点線で結ばれる。
・トルファン・アスタ 「荘園の生活図」・・・北斗は墓主のテントに移動させる方法 「墓主の生涯図」・・・長谷1号墳と同様、二人の北斗を同時に描く。 北斗七星は実線で結ばれており、円も点で埋められる。
・なぜ 2 つの北斗を同時に描かなければならないのか。 『淮南子』巻3「天文修練」によれば、「北斗七星の神は男神と女神がいる。11月に子に建立された。月は最初の刻から始まる。男は左に行き、女は右に行く」 " _
・長川一号墓とトルファン・アスタの『墓主生涯図』に見られる二人の北斗は、北斗神の男性、女性、陽、陰の表現。 実線で結ばれたものは陽、南側の点線でつながったものは陰?
2 つの北斗の柄杓はそれぞれ東と西を向き、反対方向を向く。→左と右の移動を表す。 長川市一号墓の前室には仏像が描かれているが、天中部は基本的に墓像の伝統に従って構築されている。
・中世初期の北斗信仰 銭宝の『宋神記』(東晋時代)の第 3 巻 燕君の父親は、延命してくれるように頼んだ。関羽燕君は言った。 「それはあなたを大いに助けるだろう。私も長生きできて幸せだ。あなたが北に座っていれば、それは北斗七星だ。南に座れば南島。南島は生のためのもので、北島は死のためのもの。すべての概念は南島から北島へ移る。すべての祈りは北島に向けられる。」 ナンドゥと北斗はともに擬人化された神。「ナンドゥは生を担当し、北斗は死を担当する。」 ・中世の墓には北斗の擬人化された像がない。
・道教の発展とともに北斗七星は七人格の神に変化し、北斗七星と呼ばれるようになった。 (明代・山西省保寧寺「北斗七元左補・右碧忠」では7人の僧侶の姿であらわされている。)
三本足の烏の絵を描いた〇は太陽、薬草をつく兎とヒキガエルの絵を描いた〇は月だろう。
陰陽道では太陽の定位置は東、月の定位置は西なので、太陽のある側(向かって左)が東、月の有る側(向かって右)が西だと思う。
従って、上が南、下が北である。
南北に大きく描かれているのはどちらも北斗七星と考察されているが、北に描かれた北斗七星にはおかしな点がある。 北斗七星は実は八星で持ち手の端から2番目の星のそばにもうひとつ星(アルコル)がある。
しかし図では持ち手の端から3番目の星の側に星がえがかれている。
北斗七星の形は上の写真の通り。 長川1号墳の北に描かれた北斗七星が地球上から見た北斗七星の形であり、南に描かれた北斗七星は柄杓の向きが逆である。 私は空間認識能力が低いので、長川1号墳北側に描かれた北斗七星の図を透明なビニール袋に書いて裏から見ててみた。 そしてそれを右回りに180度回転させると南の北斗七星の形になる。
下図のように、天球上に星座がはりついているものとし、天球の上から神様が星座を見下ろすと、実線でつながれた北斗七星の形に見えるだろう。
北斗七星には男神と女神がいて、男神は左まわり、女神は右回りと『淮南子』に記されているという。
地球上にいる我々からみると、点線でつながれた北の北斗七星の形に見える。 そして地球から見ると、北斗七星は左回りである。 ということは、地球上から見る北斗七星の姿が男神で、実線でつながれた天球上から見る北斗七星の姿が女神ということか?
北斗七青が何かについてはよくわからなかったが、これも友人が教えてくれたところによると「大正新脩大藏經を検索すると、『7つの知恵や七つの真言の象徴』という意味で『七青』と用いられている」とのことで仏教的な意味があるのではないか、とのこと。
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」のメモと感想を記す。 「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」における全浩天の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。 肝心の高句麗壁画古墳の画像が使えるものがほとんどなく、わかりづらい点はおわびします。
①東明王陵/図案化された蓮花紋のみ
・1974年に発掘調査され、高句麗時代の壁画古墳であることがわかった。文献に登場しない定陵寺という寺院跡も発見された。 ・東明王は高句麗建国の始祖王・朱蒙のこと。40歳で紀元前19年に逝去(三国史) ・高句麗が強盛を誇ったのは、広開土王と子の長寿王(ちょうじゅさん)の時代
427年、長寿王は集安から平壌に遷都〈3回目)このとき東明王の陵を現在地に移葬した。 ・楼閣には朱蒙の姿がある。(上の動画6:11あたりに出てくる絵のことだろうか。) 分官、武官の石人と石馬が並ぶ。 ・王陵の高さ、8.15ⅿ 玄室の高さ3.9ⅿ、一辺4.20㎡の方墳 ・四方の平面には図案化された蓮花紋のみ ・王冠には100余個の金銀の歩揺(金板や玉などをつらねて垂下した飾り)
残念ながら東名王陵の壁画の画像はネット上にみつからなかった。
②定陵寺/陵の隣に寺があるのは高句麗の影響? ・出土した瓦に「定陵」「陵寺」と刻まれていた。 ・始祖王だけでなく真坡里古墳群に眠る高句麗王家の忠臣・功臣を供養する菩提寺でもあったのだろう。 ・八角多層唐を中心に三金堂が配置される。高句麗独自の様式だが、飛鳥寺も一つの塔を中心に三金堂をもっていた。 飛鳥寺の最初の住職は高句麗出身の恵慈(慧慈)だった。
『書紀』596年)11月条「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」 馬子の子の善徳が寺司となり、恵慈(高句麗僧)と恵聡(百済僧)の2名の僧が住み始めたと記す。
創建時の飛鳥寺伽藍の模型
・恵慈は聖徳太子の師 ・恵慈は定陵寺の高僧だったのではないか。 ・聖徳太子廟は叡福寺の境内にある。陵墓の隣に寺があるのは高句麗の影響だろう。
全浩天氏が「恵慈は定陵寺の高僧だったのではないか」とおっしゃっている理由は次のようにまとめられるだろう。 ・東明王陵の隣には定陵寺があり、聖徳太子廟の隣に叡福寺があるのは、これに似ている。 ・聖徳太子の師・恵慈は高句麗の定陵寺の僧侶であったので、陵の隣に寺を作るアイデアは恵慈が伝えたものであるかもしれない。 「もしかしたら、~かもしれない。」程度の仮説ということだ。 しかし、このような推察から深い考察につながることもあるので、意味のないことではない。
聖徳太子廟
室町時代の叡福寺境内図 絵の中央上に黒っぽい屋根が向かって右上に伸びているあたりが聖徳太子廟
陵の隣に寺をつくるのは、高句麗の影響なのか。これについては中国の寺や陵の例を探すことができず、わからなかった。
③真坡里1号墳/青龍も白虎も北向き。太陽には八咫烏、月には兎。
ネットに真坡里1号墳の画像がないかと探してみたがみつからなかった(涙)。
・真坡里古墳群は20基ある。 ・高句麗古墳壁画は地表上または半地下に土を盛った石室封土墳に壁画が描かれている。 ・1号墳は6世紀の中頃 ・四壁には壁面いっぱいに四神が描かれがる。 ・北壁 花吹雪、流れる雲、忍冬唐草のパルメット。玄武。松。
〘名〙 (palmette) 椰子(やし)の一種をかたどった装飾。棕櫚(しゅろ)の葉を放射状に配置したような植物文様。メソポタミア起源といわれるが、エジプトやギリシアの装飾にも見られる。
・北壁に描かれた世界は恵慈が聖徳太子に教えてた極楽(天寿国)。高句麗の理想世界の北の楽土。 聖徳太子の妃・橘大郎女は天寿国曼荼羅という繍張を侍女たちに作らせて、そこに聖徳太子が往生することを願ったのだろう。
本に北壁の写真があるが、小さくて花吹雪や玄武は確認することができない。松の木のみ確認できる。
全浩天氏が天寿国曼荼羅と書いておられるのは、中宮寺に伝わる天寿国繍張のことだろう。
天寿国繍張
紫羅、紫綾、白平絹の三種裂を下地裂として刺繡した断片を集め額装とする。
上中下の三段に分かれ、各段を左右に二分しているが、下地裂を混用し、図様も連続しない。
紫羅地には窄袖の異衣に褌の男子と裾広の褶の男子、衣裳の上に於須比をつけた女子、鳳凰、月兎、「部間人公」の文字のある亀形を表し、紫綾地には菩薩形、屋形、「干時多至」「利令者椋」の文字のある亀形二個、白平絹地には鴟尾をのせた入母屋造りの鐘楼と鐘を撞く僧、仏殿楼閣と男女、読経僧、仏像四躯を表す。
全浩天氏によれば、真坡里1号墳の北壁には、 花吹雪、流れる雲、忍冬唐草のパルメット、玄武、松が描かれているという。月と兎は天井に描かれている。 天寿国繍張には、月と兎、雲、パルメットは描かれているが、花吹雪、玄武(亀は描かれているが、玄武とは亀に蛇が巻き付く姿をしている。)松は確認できない。(欠落している部分があるので、もともとは描かれていた可能性はないとはいえない) そして全浩天氏の説明によれば真坡里1号墳には描かれていないであろう、仏像、菩薩、屋形、鐘楼、僧侶、女子、男子、鳳凰などが描かれていて、真坡里1号墳とはかなり異なっているのではないかと思える。(真坡里1号墳は小さい写真鹿鳴く確認できないが)
「北壁に描かれた世界は恵慈が聖徳太子に教えてた極楽(天寿国)。高句麗の理想世界の北の楽土。」というのは全浩天氏の主観であり、客観的な根拠がない。
・白虎は北向きに疾走する。 白虎は南向きに描かれるのが一般的。キトラ古墳も真坡里1号墳と同じく北向きに描かれている。 キトラ古墳の北向き白虎は日本独自のものといわれることがあるが、それはまちがい。
・東壁に描かれた青龍も北向き。(通常は南向き)
↑ 高松塚古墳の白虎は南向き。
↑ 高松塚古墳 白虎 高松塚古墳の白虎は南に向かっている。
↑ キトラ古墳の白虎 キトラ古墳の白虎は北に向かっている。
↑ 高松塚古墳の青龍は南向き
キトラ古墳の青龍も南向き
・キトラ古墳と真坡里1号墳は関係が深いと思う。
たしかにキトラ古墳も真坡里1号墳も、通常は白虎は南向きで描かれるところ、北向きに描かれている。 しかし、青龍については、キトラは南向き、真坡里1号墳は北向きで異なっている。 白虎が同じ北向きであるからといって、影響を受けているといえるかどうか。
その後の文章で、真坡里1号墳は壁面いっぱいに四神が描かれていると全浩天氏は記しておられる。 『世界遺産 高句麗壁画古墳の旅』には真坡里1号墳東壁に描かれた青龍の写真が掲載されているが、確かに壁面いっぱいに描かれている。 これに対してキトラ古墳の四神は、下の動画1:52を見ればわかるように、そんなに大きく描かれているわけではない。
また、キトラ古墳の大きな特徴として、四神の下に十二支が描かれている点があげられるが、 全浩天氏の真坡里1号墳の説明に十二支は出てこない。
下はキトラ古墳壁画体験館四神の館の説明板を撮影したものである。(撮影可) 説明板の下のほうに、「韓国金庚信墓十二支像(拓本)」と記されている。 真坡里1号墳よりも、金庚信墓の影響のほうが強いといえるのではないだろうか。
ただし、金庚信(新羅の将軍/595年-673年)墓の十二支は壁画ではなく、円墳の周囲にめぐらされた護石である。 ※金庾信の墓でないとする説もある。
西湖地区(長江中流域の湖北・湖南両省) 583年前後に出現していた可能性がある。 隋・大業年間(605-616)・・・供手した首の短い座像。腹部に縦帯が垂下するなどの共通点がある。
7世紀中庸・・・笏を持ち、方形台座にする。正座する。(桂子山墓、或嘉湖墓など。)
8世紀初・・・立像 頭部に比較して身部が長い。広袖の長袍 笏をもたない。(揚廟墓、司徒廟鎮墓、高郵車逞墓)
北地区(北京、遼西) 薜府君墓(則天武后期か)・・・窄袖の長袍 束帯をしめる。確実な立像として最古 鋁箔廠墓(734)・・・ 中国における最古の獣頭人身像壁画
両京地区(隋・唐代に都城のおかれた長安、洛陽) 開元年間(713~741)
獣頭人身像は、立像俑、線刻座像ともに、いずれも広袖の長袖、長杉を着て供手する。揚州様式のものと共通する。あるいは、それをもとに形成されたのかもしれない。 線刻座像は、両湖型のモチーフと一致した持笏し、方形台座上に盤座するものに転換する。
獣頭人身像の出現は隋・開皇(581年 - 600年)年間にさかのぽる。 この時期、十二支の動物像をもつ鏡や墓誌が流行した。 獣頭人身像による十二支表現もこの流行を背景にあらわれたものだろう。
獣頭人身像自体の出現は、仏教の盛隆と関係するか。 (十二支と十二神将の融合など) 南北朝期から初唐にかけては、十二神将が説かれる経が漢訳され、盛行した。
キトラ古墳は年代が7世紀末~8世紀初頭。立像。 獣頭人身像が出現していなかった両京地区や座像を基本とする両湖地区を除く地域、特に、長江流域以北の地域である可能性が高い。
十二支の護石がある金庚信(595年-673年)墓は、金庾信の墓でないとする説もあるが、673年ごろに作られた墓ということになるだろうか。 そして獣頭人身像の出現は隋・開皇(581年 - 600年)年間にさかのぽるということは、獣頭人身像のルーツは中国ということになりそうだ。 ただし、四神の館の説明板にあるように、中国の獣頭人身像は武器を持っていないが、新羅の金庚信墓の護石に刻まれた十二支は武器を持っており、キトラ古墳の十二支も武器を持っている。
キトラ古墳 寅像
そして、中国における最古の獣頭人身像壁画は鋁箔廠墓(734)であり、年代はキトラ古墳よりも新しくなるかもしれない。 ウィキペディアには高松塚古墳の築造時期は藤原京期(694年 - 710年)、キトラ古墳の築造時期は7世紀から8世紀と記されている。 そうではあるが、キトラ古墳と高松塚古墳の四神図は大変よく似ており、同時期に築造されたものと考えられるのではないだろうか。
するとキトラ古墳は、中国における最古の獣頭人身像壁画鋁箔廠墓(734)よりも時期が早いということになる。 そうではあるが、藤原京時代の情勢を考えると、獣頭人身像が日本から中国に伝わったとは考えにくい。 中国にはまだ発掘されていない獣頭人身像壁画があるか、破壊されるなどして消滅してしまったということも考えられるのではないか、と思う。
白虎の向きに意味があるとすれば、「キトラ古墳の北向き白虎は、高松塚の南向き白虎との関係を考えたほうがいいのではないか」と個人的にはそう思う。
・天井は平行三角持ち送り式
・高句麗壁画古墳では東に太陽(三本足の烏が描かれる)、西に月(ヒキガエルが描かれる)、 中国では紀元前2世紀の漢のころ、すでに日像に三本足の烏、月像にはヒキガエルが住んでいると信じられていた。
・『淮南子』という書物に、「日中に烏ありて、月中に蟾蜍あり」と記されている。
・陳寿は『三国志、魏書 高句麗伝』には「高句麗の人々は歌舞を好む、どの村も夜になれば男女が集まり、群がり相ともに歌い踊る・・・・人々は清潔で、多くはそれぞれが自分で酒を醸造し、家に置く。」とある。
・真坡里1号墳の日像には三本足の烏、月像には薬草を搗く兎。 本に掲載された写真、イラストを見ると太陽と月は離さず、並べて描かれている。
・6世紀になると高句麗では月の中に兎が描かれるが、ヒキガエルとセットになっていることもあるし、ヒキガエルのみ描かれることもある。
・真坡里1号墳の四神図は恵慈が聖徳太子に教えた天寿国。聖徳太子の妃,橘大郎女が聖徳太子の死に際して作らせた「天寿国曼荼羅」の世界とは、真坡里1号墳と同様のものではないか。
④長川1号墳/相撲、楽器、草花を楽しむ風流は高句麗から始まったとは考えられない。
・集安の長川1号墳を描いた高句麗の画師は、楽器を奏でる人、相撲を取る人、草花を楽しむ人々を描く。 このような風流は高句麗から始まった。
集安は中華人民共和国吉林省通化市にある都市であるが、古の高句麗はこの付近から、北朝鮮にまたがって存在していた。 集安には高句麗壁画古墳が複数残されている。
・アメリカ大陸、アフリカ大陸でも月と兎についての話が多い。
・「楽器を奏でる人、相撲を取る人、草花を楽しむ」などの風流は高句麗から始まった。
全浩天氏は「楽器を奏でる人、相撲を取る人、草花を楽しむ」などの風流は高句麗から始まった、と書いておられるが、その根拠を示しておられない。
・『礼記・月令』には、「初冬、周(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)の天子は軍隊に対し、射御、角力を習うことを命じた」とある・ 「角力」は、「手搏(素手による戦闘)」能力を競うことをいう。 ・『漢書・刑法志』・・・戦国時代(前770年ー前221年)、秦は斉、楚、韓、趙、魏の六国を併合するため、角力を強化し、「手搏」を「角抵」と改めた。(前漢/紀元前206年 - 8年、後漢/25年 - 220年) ・しだいに、軍事から娯楽観戦のためのものとなっていった。 『漢書・武帝紀』には角抵の行事が2度記録されている。(紀元前108年、紀元前102年) ・唐代には『角力記』が記される。 ・『太平御覧』巻七百十五の『江表伝』によると、「三国時代(184年ー280年)、呉の国主・孫皓が相撲をとらせた」とある。 ・『夢梁録』では、「角抵なるものは、相撲の異名なり。(角抵とは相撲の別名である。)」と述べている。 ※『夢梁録』は南宋((11271279)の地理風俗を記したもの。 ・現在の中国では相撲競技は残っていない。
この記事は劉心明という方が書いたものである。劉という名字から中国の方なのだろうか。 そのため中国びいきなのかもしれないが、史料名を提示してその内容を書いておられる点に信憑性が感じられる。 (もし、記載内容が間違っていれば教えてくださいね。) 「高句麗古墳群」は、4世紀から7世紀の築造とされるが、中国では紀元前108年、紀元前102年に相撲観戦の記事があるので相撲の記録は中国の方が古いといえるだろう。
④真坡里4号墳/高松塚には北斗七星はなく、真坡里4号墳には大きな北斗七星がある。
・古墳群の中で最大の規模(一辺約23m、高さ約6m) ・墳丘の形態は方形
・墓室 長い羨道を持つ。長方形。長さ3.1m、幅2.5m
・壁面に四神や神仙(仙人)が描かれる。
・羨道には風景画 松、絶壁のある山に囲まれた蓮池と蓮花
・天井持ち送りには金箔で二十八宿(高松塚の二十八宿と対比され、議論された。)

高松塚古墳 星宿図
リンク先4ページのアスターナ古墳の星宿図の方が、高松塚古墳の星宿図に似ている。
高松塚古墳壁画には北斗七星は描かれておらず、梅原猛さんはその事をもって、高松塚古墳の星宿図は特別な星宿図であるというような意味のことをおっしゃっておられた。 真坡里4号墳の星宿図に大きく北斗七星が描かれているところを見ると、高松塚の星宿図は梅原氏がおっしゃるように特別な星宿図といえるだろうか。 アスターナ古墳の星宿図にも北斗七星のように見える星宿がある。 しかし、アスターナ古墳の北斗七星のように見える星座星の数が7つではなく8つあるように見える。 実は目のいい人であれば北斗七星は8つの星に見えるそうである。 持ち手の方から数えて2番目の星ミザール(腰布)の横にアルコル(微かなもの)という星があるのだ。 アスターナ古墳の星宿図は、このアルコルを加えて8つの星として北斗七星を描いたのかもしれない。 高松塚古墳やキトラ古墳の星宿と比較して、その位置から推定できるかと思って見比べてみたが、星座の形がまったくことなっていてそれはできなかった。
⑤真坡里7号墳/玉虫の羽根を用いた日像透彫金銅製装飾
・壁画はない。
・日像透彫金銅製装飾(5世紀)
上から4番目の写真 帯状 王冠に付けたものとする説、木枕の側面に着装する飾り金具説 三本足の烏が掘られている。 日像の外側には雲文、鳥。
・北欧の神話では烏は神の使い。道案内の鳥。 熊野三山(熊野坐神社、熊野速玉大社、熊野那智大社)のシンボルは三本足の烏(八咫烏)
・日像透彫金銅製装飾は、玉虫の羽根を用いている。玉虫の厨子はこれの影響をうけたか。
玉虫の厨子(法隆寺)
「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編」の中に収録されている「古代の人物像の服飾―高松塚古墳人物像の理解のために 原田淑人」のメモと感想を記す。
「古代の人物像の服飾―高松塚古墳人物像の理解のために 原田淑人」における原田淑人氏の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
①中国の俑
・中国の明器(死者に備える副葬品)の中で、人形を俑という。殉死の代用。周末には四肢を動かす装置をもつものも。 儒家が殉死の流行をおそれ、孔子の言として「俑を作る者、それの地なからんか」と警告。
・唐代「近頃王公百官競って厚葬をなし、偶人像馬彫刻生けるがごとく、」(太極元年 官人唐紹の上奏文)
・漢・唐の宮中、貴族符号の家には次女を多く雇用したため、俑は婦人像が多い。 唐代の女子俑は豊満なもの、やせ形のものなど様々ある。
②倭の五王
ここで「倭の五王」について勉強しておこう。
「倭の五王」は『宋書』倭国伝・『梁書』倭国伝などに登場する。 倭の五王「讃」「珍」「済」「興」「武」(中国風の名前)は中国南朝に使者を派遣した。 その目的は「冊封」。 冊封とは「中国の皇帝が各地の王の地位を是認する」こと、冊封を得るために死者を派遣することを「朝貢」という。
「讃」(在位413?~)
候補者(『記紀』):応神天皇・仁徳天皇・履中天皇
高麗より南東の海上に「倭国」という島国があり、代々その王が中国に朝貢してくる。髙祖永初二年(421年)、皇帝は「倭王・讃は万里もの遠く離れた土地から朝貢してくる。その誠意に応じて官職を授けよう」と命じた。
「珍」(在位438?~)
候補者(『記紀』):仁徳天皇・履中天皇・反正天皇
「珍」は「讃」のあとを継いだ倭王で、「讃」の弟。 在位期間や「讃」の弟であるとの続柄から『記紀』の仁徳天皇・履中天皇・反正天皇のいずれかに対応するとみられているが定説はない。
讃が死んで弟の珍が倭王となった。 珍は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六國諸軍事安東大将軍倭國王」を名乗り、皇帝に対してその官職への任命を要求したが、文帝は要求をのまず、珍を「安東将軍・倭国王」に任じた。 珍はまた隋ら13人に「平西・征虜・冠軍・輔國」のそれぞれの将軍職を授けるよう文帝に求め、文帝はこれらを全て認めた。
「済」(在位443?~)
候補者(『記紀』):允恭天皇
「済」は珍のあとを継いだ倭王だが、『宋書』倭国伝には珍との続柄が記されていない。 (『梁書』倭伝には珍の子との記載あり)。 在位期間や次代・次々代の興・武との続柄から、允恭天皇に比定される。
元嘉20年(443年)、倭王・済が使者を派遣して朝貢した。安東将軍・倭国王に任命した。 元嘉28年(451年)には、安東将軍に加えて、使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事の称号を与えた。 先代の珍は「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六國諸軍事・安東大将軍倭國王」を求めていたが、済に与えられた称号からは「百済」が除かれている。 また、同時に上表された23人を将軍・郡長官に任命した。
「興」(在位462?~)
候補者(『記紀』):安康天皇
「興」は済のあとを継いだ倭王で、済の子。また、『記紀』に残る安康天皇との説が有力。
孝武帝の大明6年(462年)、帝は「倭王・済の世継ぎ・興は中国の外縁の海を守る役割を果たし、丁寧に朝貢してきた。よって、興にも先代同様の安東将軍・倭国王の地位を授けるべきである」と命令された。
称号から「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六國諸軍事」が消えている。 『記紀』によれば興=安康天皇は即位後短期間のうちに殺害されてしまったとされる。
『宋書』倭国伝における次代の倭王・武にかんする記述のなかにも、『記紀』に記された安康天皇の殺害をほのめかす表現がある。
「武」(在位462?or 477~)
候補者(『記紀』):雄略天皇
「武」は興のあとを継いだ倭王で、興の弟。
順帝の昇明2年(478年)、倭王・武は使者を派遣して上表文を送った。
「代々冊封を受けているわが国は遠い地にあり、中国外縁の海を守る役割を果たしている。 私の祖先は昔から自ら甲冑を着て山や川を越え、一か所にとどまることがなかった。東国においては毛人の55国を征し、西国においては衆夷の66国を服属させ、海を渡った北方の国では95国を平らげた。皇帝の威光は広くわが国に溶け込んでおり、わが国の国土は広大である。
わが国は先祖代々朝貢してきました。 私は愚か者ながら、祖先の偉業を継承し、人々を統率して天極である宋に従っている。 宋へ向かうにあたっては、百済を経由する航路を使っている。 ところが、非情な高句麗はその百済を征服しようとして両国の境界に住む人々に対する略奪や殺害を行っている。 そのため、わが国が朝貢するルートが遮断されることもある。
宋の臣下であるわが父・済は高句麗が朝貢ルートを遮ることに憤っており、100万の兵を率いて高句麗遠征を試みた。 しかし、相次いで父と兄が亡くなったため、成功しなかった。 (『記紀』によれば、興=安康天皇の跡を継いだ武=雄略天皇は、兄の殺害に関与した豪族を押さえつけたとされる。) 私は喪に服しているために兵を出せず、高句麗との戦には勝てなかった。
今こそ兵士を鍛え、父と兄の遺志を継ぐときである。 わが国の義士・勇士・文官・武官もともに力を発揮して敵と刃を交えようとも、命は惜しくない。 もし皇帝がわが国を支援していただけるならば、高句麗という強敵を倒し、朝鮮半島の乱れを収束させ、祖先の業績に並びたい。
勝手ではございますが、私はひそかに開府儀同三司を名乗り、その他の諸将も仮の職位を名乗って宋に忠義を尽くしている。」
以上の上表文を受けて、順帝は武を「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」に任命した。
その後、倭国と中国皇帝との対外交渉は厩戸王・推古天皇の時代まで150年ほど途絶える。
倭の五王の系譜は断絶、6世紀のはじめごろに即位した継体天皇から始まる王統は、倭の五王とはほとんどつながらない。
継体天皇は15代応神天皇の子・稚野毛二派皇子の5世孫。
③倭の五王(5世紀)ごろの埴輪の衣装は中国の衣装に似ていないと思う。
・倭の五王 (最後の倭の武王は雄略天皇と考えられている。雄略天皇の稚武尊と一致、日本書記には天皇が身狭村主青を宋に派遣したなど)
そのころの埴輪はズボンをすそのあたりで縛る男子像や、スカートを広げる女子像には中国の影響がある。
・中国の服装は男女ともに上衣下裳
人物像は朝服令服等盛装が多い。 男子も裳をつけている。
本にはこの埴輪の写真が掲載されているが、これは中国の衣装に似ているだろうか?
上の動画1:55あたりで唐代の永泰公主墓の女子群像がある。 「中国の服装は男女ともに上衣下裳」と原田氏はおっしゃっているが、たしかに女子群像は上衣下裳のように見える。 2:12辺り、中央の女性の衣装が分かりやすいかもしれない。
しかし、埴輪の女子像の裳はプリーツスカートのように見え、衣の打ち合わせなどを見ても、高句麗壁画古墳に描かれた女子像のほうがより似ているように思う。(ただし打ち合わせが逆)↓
男子はさまざまな服装をしている。 下の動画8:56あたりの人物は膝のあたりを紐でしばっているようにもみえるが、よくわからない。
唐の男性の服装は以下の動画13:56あたりにでてくるが、埴輪の男子の服装とは異なっている。
・中国古代人の服装
男子 頭に幞頭(絹織物の冠り物)前後に二脚の垂飾 前脚は左右の耳下に垂れ、アゴ下で結ぶ。後脚は後ろに垂らす。
女子 冠り者の制はない。高髻、垂かん(漢字が変換できませんでした。すいません。)など。 高松塚の女子像は垂かんの一例
・古来中国人は種々の装飾に日・月・星辰・霊鳥の図像を採用し、辟邪求服の祈願をこめた。 これが墳墓にもおよび、周囲の異民族にも影響を与えた。(高句麗、四神塚など)
④永泰公主墓
・永泰公主墓 女子・・・様々な髪型。上衣の上に帔(ストール)、下には長裙(令服のときは裳といい、平常は裙という)で靴をのぞかせている。 上の動画14:52辺り、スカートのすそから上向きに尖った靴のようなものがみえている。
男子・・・頭に幞頭をかぶり、衣袴の服装、上に長袍、履をはく。
袍
おそらく被葬者供養の行列だろう。 人物は杯盤、燭台、団扇,払子(はたきの様なもの。寺院の僧侶などが用いる)、如意などを持っている。
如意を手にした稚児文珠像
日・月・星辰・建築・樹木が描かれる。石槨にも男女人物の立像が線刻されている。
④高松塚古墳壁画
男子 頭に幞頭をかぶり、中国隋唐以降の上衣下袴の上に長袍 笠を上げ、供物をもつ。繖蓋(きぬがさ)牀机(折り畳みの椅子)をもつ。
リンク先にある唐の幞頭には垂飾があるが、日本の漆紗冠にも垂飾があるようにもみえる。 (下の写真、向かって左から2人目の人物)
原田氏は牀机(折り畳みの椅子)とおっしゃっているが、床几ともいうようである。
女子
冠を被らないで垂かんの髪型。明らかに中国風の上衣下裳
靴を蔽い隠している。
団扇、如意を持つ。
永泰公主墓のほか、蘇思勗墓の壁画に一婦人の後ろに如意を取って起立する一侍男が描かれている。
供養の行列を描いたものか。中国に起源をもつ風俗だろう。
・冠位十二階は隋のものとはずいぶん違っており、推古朝の官位十三階は唐制を踏襲していた。 朝鮮の影響かとおもったことがあった。
・海獣葡萄鏡は唐のもの。7世紀ごろ。高松塚もそのころ。 漢の植民地があった朝鮮半島の楽浪郡では漢代の漢式鏡が多数出土している。三国時代には少ない。
高松塚被葬者の国籍を察する尺度となる。被葬者は日本人。
高松塚古墳出土 海獣葡萄鏡
朝鮮の三国時代とは、朝鮮半島および満州に高句麗(前1世紀頃 - 668年)、百済(4世紀前半? - 660年)、新羅(前57年 - 935年)があった時代のことである。
漢は中国にあった王朝の名前で、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)がある。 海獣葡萄鏡はかつて漢代の中国で製作されたものと考えられていたが、 1897年に三宅米吉が、寺社に伝わる海獣葡萄鏡は推古朝以降に唐との交流で伝来したものではないか、海獣葡萄経は唐代(618年 - 907年)の鏡ではないかと疑問を呈した。 三宅がそう考えたのは、社寺に伝来する海獣葡萄鏡は古墳などからの出土品とは考えられない、というものだった。
日本に現存する海獣葡萄鏡は以下のとおりで、唐代に創建された寺社が多い。()は創建年 東大寺正倉院(756年) 東大寺三月堂(733年) 香取神宮(?) 大山祇神社(594年) 法隆寺(607年) 春日大社(768年)
原田淑人氏は高松塚古墳から出土した海獣葡萄鏡は唐のものであるとし、 朝鮮半島では漢代に漢式鏡が出土しているが、三国時代には海獣葡萄鏡の出土例が少ないので、 高松塚は朝鮮半島よりの渡来人を葬ったものではなく、日本人を葬ったものだと考えておられるようである。
・高松塚は墳墓の規模が小さい。壁画人物も少数。生前栄華を誇った人物とは思われない。 ・唐代の中国文化に興味をもつが、政治的にはあまり頭角を現していない貴人ではないか。
これについては何度も述べたが、高松塚は石室の薄葬令《646年)以降の古墳と考えられるが、薄葬令以降の古墳の中では規模が小さいとはいえず、したがって生前栄華を誇った人物である可能性はある。 薄葬令以降で、高松塚古墳より大きい古墳(直径23m以上)は赤径11.5尋でしめす。
牽牛子塚古墳(斉明天皇/661・間人皇女/665) ・・対辺長22m・高さ4m
※石敷・砂利敷部分を含むと32m
越塚御門古墳(太田皇女/667)・・・・・・・・ 方10m 野口王墓(天武 /686・持統/702)・・・・ ・・東西58m・高さ9m 阿武山古墳(中臣鎌足/669)・・・・・・・・・封土はなく、浅い溝で直径82メートルの円形の墓域
御廟野古墳(大田皇女/672)・・・・・・・・・下方辺長70m※上円下方墳と見做す場合・高さ48m 中尾山古墳(文武天皇/707)・・・・・・・・・対辺長19.5m・高さ4m 高松塚古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径23m・高さ5m キトラ古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径13.8 m・高さ3.3m 薄葬令(王以上/646年制定) ・・・・・・・ ・・方18m・高さ10m
岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・・・・ ・・方19.3m
園城寺亀丘古墳(大友皇子/672)・・ ・・・・・径20m・高さ4.3m 束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・・ ・・・・対角長30m
鳥谷口古墳(大津皇子/686)・・・・・・・ ・・方7.6m ※大津皇子の墓は二上山墓に治定されているが、鳥谷口古墳が有力視されている。
久渡古墳群2号墳 (高市皇子/696)・・・・・径16m
・飛鳥の地にゆかりのある人物。服飾に飛鳥の古式を遺存したのではないか。
キトラ古墳 壁画体験館 四神の館にて撮影 (撮影可)
よりつづきます~
梅原猛氏は壁画を描くのは、「被葬者が怨霊であるためではないか」と述べておられた。 その理由は、「葦原中国を天孫に譲った」大国主を祀る出雲大社、「蘇我入鹿に責められて子孫が全員自殺した」聖徳太子を祀る法隆寺のいずれにも壁画があるということだった。
松本清張氏は梅原氏とは意見は違うが、 「法隆寺に壁画があるが、飛鳥寺にはない。塼仏は官の大寺ではやらない。古墳に飛鳥寺は法隆寺とは格がちがうからでは。壁画を描くのも異端である。」 というような旨のことをおっしゃっていた。
唐において、古墳に壁画を描くのはありふれたことだったのか。 壁画のない古墳もあるのか。あるとしたらどのくらいなのか。 ちょっと調べてみたがよくわからなかった。
そうではあるが 「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編」の中に収録されている「唐代の壁画墓ー最近の中国の調査と発掘をふまえて/長広敏雄」で、長広氏は唐の壁画墳の被葬者について記しておられた。
そこで、今回はどのような人が唐の壁画古墳に埋葬されたのかについて、みてみることにしたい。
「唐代の壁画墓ー最近の中国の調査と発掘をふまえて/長広敏雄」上光貞 編」における長広敏雄氏の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
1⃣唐の壁画墳の被葬者について
①執失奉節
658年埋葬。 父は突厥の酋長。唐高祖の皇女(九江公主)が降嫁している。
執失氏には、「執失奉節墓誌」と「執失善光墓誌」が存在する。
執失善光の曽祖父(思力から見ると祖父)は淹といい、祖父(同じく父)は武。
両者とも突厥のエルテベル(突厥支配下の首領の称号)で。世襲。
太原で李淵が起兵した際に数千騎を率いて長安制圧を援助している。
この功績によって、執失淹とその子の武は、高祖から金紫光禄太夫・上柱国の位を受けた。
『通典』巻一九七「辺防十三 突厥上」では、「思力は唐に敵対する使者として来朝したため、執失氏が長安制圧の際の縁を反故にしたことを引き合いに太宗は思力を叱責し、拘束した」とある。
墓誌の記述では「思力が太宗に策をもたらした」「太宗は突厥滅亡後に思力と血を啜って盟約を結んだ」と記されている。
723年に作られた「執失善光墓誌」には、「高宗即位直後に起こった房遺愛の変に関わったとして失脚した、思力の名誉回復の意味合いがあり、善光が思力に成り代わって太宗の陵墓、昭陵に陪葬された」とある。
②趙澄之 696年埋葬
③李爽 668年埋葬 銀青光䘵太夫・守司刑・太常伯・朝臣
李爽(592-668)西安市雁塔区、李爽の字は乾祐、京兆長安の人。
627年に殿中侍御史となり、長安令、治書御史などを歴任した。
中書令の駲遂良とは不仲で、李爽が崔擢を尚書に推薦したが拒否された。
その後崔擢が罪を犯すと李爽も責任をとらされて免官となった。
墓は西安市の南郊外の羊頭鎮にあり、鄭氏と合葬されている。
墓は全長24.5m。墓には25の壁画がある。
④永泰公主 706年埋葬 永泰公主と夫の武延は則天武后の治世中に女帝の怒りを買って死を賜ったため、父・中宗が復位したのちに公主に追封し特葬で乾陵に陪葬された。
700年、永泰郡主に封ぜられ、食邑千戸を受けた。 武承嗣(武則天の甥)の子の魏王武延基に降嫁した。 701年、兄の邵王李重潤や夫の武延基とともに武則天の寵臣・張易之・張昌宗兄弟を排除する謀議を行ったとして、武則天により自殺を命じられた。 『大唐故永泰公主誌銘』によると、兄と夫の刑死でショックのため流産し重体となり、翌日薨去したとある。 705年、中宗が即位すると、永泰公主に追封された。706年、乾陵に陪葬された。
⑤韋泂 708年埋葬 韋泂は中宗皇帝の皇后韋氏の弟。16歳で死去。死後14年経過して淮陽王に追封(死後に爵位を与えること)された。
韋泂の姉の韋皇后は、唐の中宗の皇后。韋玄貞の娘。 中宗が即位すると、皇后となったが、やがて中宗が廃位され、湖北に流されそれに随行。 705年、武則天より譲位されて中宗が復位すると、武三思らと結託し、従兄の韋温とともに朝政を掌握した。 710年、自らの即位を意図し、娘の安楽公主とともに中宗を毒殺し、温王李重茂(殤帝)を皇帝に擁立した。 間もなく李隆基(玄宗)が政変を起こし、その父である相王李旦(睿宗)が復位した。 韋后は殺害され、その身分も庶人に落とされた。
韋泂は708年に埋葬されているので、708年までに16歳で死亡したということになる。 708年に16歳で死亡したとすれば、生年は692年ごろである。
⑥薛氏 710年埋葬 ※中国では女性の場合、実家の氏を名乗る。 太平公主(則天武后の娘)の次女。万泉県主。
薛氏の母、太平公主について、ウィキは次のように述べる。
父は唐の高宗、母は武則天(則天武后)。 本名を李令月とする説もある。
高宗の末娘として生まれ、両親に寵愛される。 681年、薛紹(城陽公主の子で従兄弟にあたる)に嫁して二男二女を生む。 夫は皇族の李沖(越王李貞の子)の謀叛に連座して捕らえられ獄死。 690年、武照が伯父の武士譲の孫の武攸曁(武懐運(名は弘度)の子)の妻を処刑。 太平公主は武攸曁に再嫁して二男二女を生む。 病気がちな高宗に代わって母の武則天が垂簾政治を執ると、武則天政権の一翼を担う。 武則天が病に倒れると、その愛人・張易之、張昌宗兄弟が専横を極めた。 705年、張兄弟を倒し、兄の中宗を即位させる。 その後宰相の張柬之により武則天は退位し、天下は唐王朝に復する。 張兄弟と組んでいた従兄弟の武三思が張柬之を失脚させた。 710年、武三思は安楽公主(中宗と韋皇后の娘)と関係を持つ。 不倫の暴露を恐れた安楽公主は韋后と組んで中宗を毒殺した。 韋后、温王李重茂(殤帝)を擁立して傀儡とした。 太平公主は甥の李隆基(後の玄宗)と謀り、韋后・安楽公主とその一族をこ誅殺。 李隆基の父の相王李旦(睿宗)を即位させる。 太平公主、皇妹となり、万戸の封を与えられ、息子たちも王に封ぜられた。 宰相の姚崇・張説を左遷させるなど専権を極め、皇太子の李隆基(のちの玄宗)と対立を深める。 712年、睿宗が皇太子の李隆基(玄宗)に譲位。
公主は玄宗の廃立を謀るが、陰謀が露顕する。
「681年、薛紹(城陽公主の子で従兄弟にあたる)に嫁して二男二女を生む。」とある。 薛氏はこの二女のうちの次女ということだ。 「713年、皇帝自ら兵300余を率いて公主一派を倒し、公主に死を賜った。」とあるが、薛氏は710年に埋葬されているので、この時すでに母よりも早くなくなっていたということになる。
「690年、武照が伯父の武士譲の孫の武攸曁(武懐運(名は弘度)の子)の妻を処刑。
太平公主は武攸曁に再嫁して二男二女を生む。」 とあるので、薛氏の生年は681年から690年ということになる。 次女ということなので、682年から690年としてもいいだろうか。 そして薛氏の没年はもっとも遅くても埋葬年の710年になる。 ということは薛氏は20歳から28歳という若さでなくなったことになる。
⓻薛莫と妻史氏
728年合葬 右驍衛大将軍・雁門県開国公・上柱国・左万騎使
⑧馮潘州 729年埋葬。贈潘州刺史。宦官・高力士の父。
馮潘州の子・高力士についてウィキは次のように記す。
生没年 690年~762年
もとの姓は馮、諱は元一。 唐に降伏し、耿国公に封じられた隋末の群雄の馮盎の曾孫。祖父は潘州刺史の馮智玳。 父は馮君衡(馮潘州ともいうのだろうか)。母は麦鉄杖の曾孫娘。 少年時代に去勢し、「力士」と名付けられた上で、「金剛」という名の少年とともに、嶺南安撫討撃使の李千里(呉王李恪の長男)により武則天に献上された。 馮元儀は高姓を与えられ高力士と改名した。
(このあたりの事情は 684年、高元珪は潘州市の西部で生まれた。
697年、高元珪の父・馮俊恒は万国君によって反逆罪に問われ処刑された。
武皇后が地方の宦官高延甫に弟の馮元儀を養子にするよう頼んだ。 馮元儀は高姓を与えられ高力士と改名したとある。 このとき馮元貴(高元珪)も高姓に改名した。
697年、馮俊恒(馮潘州)は反逆罪に問われて処刑され、武皇后が宦官高延甫に弟の馮元儀を養子にするよう頼んだ。 つまり、高延甫の弟が馮元儀(高力士)であり、馮元貴(高元珪)は彼らの弟。 高延甫・高力士・高元珪は兄弟という事ではないかと思う。(まちがっていたら指摘お願いします。)
武則天の時代、小さな過失から宮廷から追放され、宦官の高延福の養子となった。 高延福が武三思の屋敷の出身であることから、武三思と交流を持つ。 1年ほどして、再び武則天に宮中に召された。 景龍年間に皇子時代の李隆基と交流する。 710年の韋后討伐の政変に協力し、朝散大夫・内給事に任じられた。 玄宗の即位後の713年、太平公主派の鎮圧に荷担し、その時の功績で銀青光禄大夫・行内侍省同正員に任じられた。 開元年間に入って右監門衛将軍・知内侍省事。 730年、政敵・王毛仲の排除を玄宗に進言。 731年、王毛仲は左遷され、自殺を命じられた。 738年、皇太子李瑛の廃嫡及び死後、新たな皇太子選出に迷う玄宗に対して、李瑁を推薦する宰相李林甫に反して、年長の李璵(後の粛宗)を勧め、李璵が皇太子となった。 冠軍大将軍・右監門衛大将軍・渤海郡公となる。 天下の事を李林甫に託して、導引の道に入ろうとする玄宗を諫めて怒りを買い自宅に戻る。 748年、驃騎大将軍。 752年、王鉷の弟の王銲と邢縡が乱を起こそうとした時は、禁軍400人を率い、邢縡を斬る。 安史の乱の際、玄宗について都の長安を脱出した。途中に禁軍が楊国忠を殺し、楊貴妃の死を求めたときに玄宗を説得し、楊貴妃を縊死させた。その後、蜀の地の成都まで同行して斉国公に封じられた。
粛宗(李亨、もとの名を李璵)が即位して玄宗は上皇として長安に帰還した。 760年、李輔国(粛宗期の実力者)が軍隊をもって玄宗を捕らえようとした時、李輔国を叱りとばしてその危機を救うが、巫州に流された。 762年、恩赦により帰還中、朗州にて玄宗の死を知り慟哭し血を吐いて死去した。
⑨蘇思勗
745年埋葬。銀青光録太夫・行内侍員外。
ウィキペディアに楊思勗(ようしきょく)という人物の頁がある。 ウィキペディアには「もとの姓は蘇」と記されているので、楊思勗と蘇思勗は同一人物と思われる。 楊思勗は740年に死亡しており、蘇思勗は745年に埋葬されているが、 永泰公主は701年に死亡し、706年、乾陵に陪葬されているし 馮潘州(馮俊恒)は697年に亡くなって、729年に埋葬されているようなので、死亡年と埋葬年外れるケースがある。 またウィキペディアには「楊思勗は銀青光禄大夫・内常侍に昇進している。」とか「内侍省に勤めた」などともあり、長広氏の記述と一致する。
もとの姓は蘇であったが、楊氏という宦官の養子となり、去勢を行い、内侍省に勤めた。 707年、中宗の太子である李重俊が、武三思・上官婉児の討伐を名目に挙兵し、中宗に迫った時、 宮闈令であった楊思勗が、李重俊軍の先鋒総官の野呼利を斬り殺した。 李重俊の挙兵は失敗に終わり、楊思勗は銀青光禄大夫・内常侍に昇進。
710年、李隆基(後の玄宗)に従い、韋皇后の討伐に加わって功績を立て、右監門衛将軍に任じられる。
722年、安南の首領である梅叔鸞(梅玄成)が反乱を起こし、32州を制し、衆40万を号して「黒帝」と称した。 梅叔鸞は、林邑国・真臘国と通謀して、安南府を陥落させた。 楊思勗が討伐を命じられ、梅叔鸞を捕らえて、党類も全て処刑された。 724年、覃行璋が反乱を起こした。楊思勗は覃行璋を捕らえ、その党類3万人を殺した。輔国大将軍に昇進。 玄宗の封禅の時に従い、驃騎大将軍になる。 726年、邕州の首領・梁大海が数州とともに反乱を起こした。楊思勗が討伐し2万人余を殺し、京観(敵兵をつみあげるなどして塚を作り、戦勝の記念碑とする風習)とした。 728年、瀧州の首領である陳行範・何遊魯・馮璘らが反乱を起こし、四十余城を落とした。 陳行範は帝を称し、何遊魯は定国大将軍を名乗り、馮璘は南越王を称し、嶺南地方を割拠した。 楊思勗は何遊魯と馮璘を殺し、6万人を殺し、莫大な財を奪う。 楊思勗は捕虜の顔や頭の皮を生きたまま剥ぎ、人に見せた。 739年、内給事の牛仙童が張守珪から賄賂を受け取っていたことが判明した。 玄宗に命じられ、楊思勗は彼を数日縛りつけた上で、その心臓を取り出し、手足を断ちきり、肉を切り裂いて食したと伝わる。 740年、80余歳で死去。
⓾雷府君婦人宋氏 745年埋葬。
⑪張去奢 747年埋葬。少府監。
張去奢について検索すると、中国版ウィキペディア「張去奢- 維基百科,自由的百科全書」がでてくる。 これを日本語に自動翻訳するとタイトルは「チャン・クシェ」となり、本文には「張去奢」ではなく「張曲社」「張秋社」とでてくる。 しかし中国語の記事では「張去奢」となっているので、「張曲社」は「張去奢」の事だと思われる。
張去奢(688年—747年),字士則,唐朝官員,郡望范陽(今北京市西南),祖籍南陽郡西鄂縣,定居京兆萬年縣。
張去奢曾祖父張立德,官至秦城都尉;祖父張崇,為延州刺史;父親張守讓閬州司法、贈涼州都督、兵部尚書,母親竇氏是唐玄宗的姨母。張去奢開始擔任右衛率府倉曹參軍。開元初年,歷任左衛率府長史、左金吾衛長史,太子司議郎、右贊善大夫、秘書丞、率更令、郢州沁州二州刺史、殿中少監。居宅在長安安業坊。哥哥張去惑、張去疑、弟弟張去逸、張去盈皆受殊榮。開元二十一年關中久雨害稼,京師缺糧,人多菜色,張去奢官拜京兆尹,[1]他和張去逸、張去盈同時三品,故號為三戟張家。加銀青光祿大夫,封范陽縣伯。開元二十八年轉任右金吾衛大將軍、少府監。天寳六年(747年)三月十二去世,年六十歲,十月初七日葬。諡號惠,妻子南安龐氏,有子張沔、張演、張泌。
1953年於渭城區發掘出張去奢墓,為斜坡道磚室墓。墓道、墓室內均發現壁畫,內容為青龍、白虎等。出土墓誌及陶器多件。張去奢墓誌銘為韋述撰,裴冕書、楊嵒刻字。正楷。志石方形,志文35行,邊長87.5厘米。現存西安碑林。新唐書誤記常芬公主的駙馬張去盈為張去奢。
ウィキペディアを自動翻訳し、まとめたのが以下。
張曲社(688 ~ 747) は、唐代の役人で、范陽県(現在の北京市の南西) の司令官。 張曲社の曾祖父、張立徳は秦城の船長、祖父、張崇は兗州の知事、父の張寿は朗州の裁判官、涼州の知事、省の大臣。 母親の竇は、唐の玄宗皇帝の叔母。
張曲社は右衛兵として働き始め、曹操を軍に導いた。 開元開元(開元、713年12月~741年12月/唐の玄宗皇帝李隆基の治世名)の初期、 彼は左魏公邸の石長官、左金武衛兵の石長官、思宜郎公、ヨウザンシャン博士、程書記、林庚陵、営州、欽州の知事を歴任した。 宮殿の少建。(少建が何を意味するのかわからない。役職名?宮殿を建てた、という意味?) 長安の安寧坊に住んだ。 兄の張曲虎、張曲儀、弟の張曲芸、張曲英は全員この栄誉を獲得した。(この栄誉を獲得したとはどういう意味か?) 開元 21 年(733年)、関中に長雨が降って農作物に被害があり、都は食糧不足で人も食糧も多かったので、都の官吏だった張曲社は趙允に敬意を表した(これも意味がわからない。) 張逡と張饕はともに三位だったため、三司張家とよばれた。 張曲社は殷清光魯医師、范陽県の伯の称号を与えられた。 開元28年(740年)、楊進武威将軍・少府監に転任。 天宝6年(747年)3月12日に60歳で亡くなり、10月7日埋葬された。 諡名は恵、妻は南安出身の龐、息子に張密、張燕、張碧がいる。
1953 年に渭城区で張秋社の墓が発掘された。これは坂道のレンガ室の墓だった。 壁画は墓の通路や墓の内部で発見され、緑の龍や白虎などが描かれていた。 多くの碑文や土器が出土した。 張曲社の碑文は魏叔が書き、培銘と楊燕が刻んだ。ブロック文字。 石は正方形で、文字が 35 行あり、一辺の長さは 87.5 cm 。西安に現存する石碑の森。 『新唐書』には、長芬公主の妃である張曲英が張曲社と誤って記録されている。
⑫高元珪 756年埋葬。宦官高力士の兄。明威将軍検校左威衛将軍。
冯元珪(684年—755年),即高元珪,唐朝将领,高力士的二哥,冯君衡的次子。
生平
684年,冯元珪出生于潘州城西。697年,冯君衡为万国俊诬陷谋反,被诛。因武后让内侍省宦官高延福收其弟冯元一为养子而获赐姓高,改名高力士[1][2],冯元珪也因此改姓高。高元珪讨海盗,加授柱国,授川果毅,转任鸿门折冲。唐玄宗开元十九年(731年),高元珪加勋柱国,迁领军郎将,任金吾中郎等职。开元二十八年(740年),高元珪任右司御率,左威卫将军,加紫绶。天宝十四年(755年)高元珪于长安去世,年七十二岁,翌年春葬东郊龙首原,赠陈留郡太守。高元珪长子高承龙任左卫兵曹参军,次子高承秀任左卫率府仓曹参军,求苏预为其父撰碑文。
以下はこれを自動翻訳してまとめたもの。
高元珪(684 ~ 755 年) は、高元貴としても知られ、唐時代の将軍で、高力士の次弟で、馮俊恒の次男。
684年、高元珪は潘州市の西部で生まれた。 697年、高元珪の父・馮俊恒は万国君によって反逆罪に問われ処刑された。 武皇后が地方の宦官高延甫に弟の馮元儀を養子にするよう頼んだ。 馮元儀は高姓を与えられ高力士と改名した。 このとき馮元貴も高姓に改名した。 高元珪は海賊と戦い、祝国、伝国儀を授与され、紅門哲忠に移送された。 731 年、高元貴は荀竹に加わり、軍を率い、金武忠郎などを務めた。 740 年、高元貴は楊氏の皇帝、左の衛微の将軍に任命され、紫綬章を授けられた。 755年、高元貴は長安で72歳で亡くなり、翌年の春に東郊外の龍寿園に埋葬され、陳柳県知事に献上された。 高元貴の長男、高成龍は左衛に任命され、曹操を入隊に導き、次男の高成秀は左衛に任命され、曹操を従軍に導いた。 父親のために碑文を書いた。
⑬高克従 847年埋葬 宦官高力氏の5世孫。義昌軍監軍使。
宦官なのに子孫がいるの?と思ってしまうが、宦官は養子をとることが一般的であったようだ。
”唐・宋においては、宦官は養子を取って家を継がせると共に宦官とし、宦官が世襲化しているのが特徴です。
代表的なものとして高力士の家があり、『唐代墓誌彙編続集』所収の「故義昌軍監軍使正議大夫行内侍省掖庭局令上柱國賜緋魚袋渤海高公墓誌銘」にはおよそこのように書かれています。
公の諱は克従、字は師倹、開元年間の開府儀同三司・内侍監・斉国公・知省事の力士が公の五代前の先祖である。公の曽祖父の閎は力士の曾孫である。祖父の秀琪は内給事で緋魚袋を賜り、父の忠政は内侍省内府局丞であった。
公は幼くして宮中に仕え、長じて帝に気に入られた。
大和の初め(827)に内養に任命され、まもなく枢機に異動となり、師官補佐の激務をよく勤めて高く評価された。
大和九年(835)春に緋魚袋を賜ったが、その年の秋に掖庭令に降格となった。
開成の初め(836)より、地方の軍は制御し難く吐蕃が国内を脅かしたので、善良で有能な人物を選んで節度使を監督することになった。
二年正月九日、公は適任者として選ばれ監軍となると、任地の城塞で衆望を集め、吐蕃の情勢を調査して明らかにした。党項とは三百年来互いに殺戮を繰り返して襲撃は止むことがなく国境警備の兵は疲弊していた。公は主将と共に党項を懐柔すると同時に、法を厳格にして威を示した。帝から交渉の全権を委ねられた公は「敵対関係を棄てて、牧草地は譲り、互いの行き来は妨げない」という条件で講和した。その成功により褒め称える詔書が出されてより一層頼りとされた。撫綏すること五年、人々の弊害を除き辺境を安定させた。
会昌元年(841)冬に都に上って参内し、二年正月には翰林副使を拝命した。
三年三月に染坊使になると命を奉じて宣諭するなど、その活躍は記しきれないほどである。
会昌四年(844)に上党で反乱が起こると近隣の軍に討伐を命じたが、これを纏める人物が必要となった。その年七月十日、公は義昌監軍に任命され、河隍に到着すると日夜休むこと無く主将と事態の収拾に努めた。数ヶ月経って主将が異動となると、公は臨時に軍務を行うよう命じられた。州の人はみなこう言いあった。
「義昌軍が創設されて以来、監軍が自ら軍権を握ったことは無い 。上手く行くだろうか。」
公は陣の出入り口に軍の指揮官を置き、親戚と付き合いを疎遠にし縁故者を地位に就けないようにして、これを規則として定めた。公は感嘆して言った。
「草が風に靡くように水が器に収まるように、軍律は行き届くものだ。理に背かなければ兵たちはよく従うであろう。」
それから公はこの地域に礼楽を導入して仁義をもって人々を慰撫したので、教化が行き渡り人々は穏やかになり、「殺伐としていた河北の地は、長江の民が住んでいるかのごとく穏やかだ。」と言われるようになった。
公は日夜善政を行うため思案を廻らし、他人の不安もわが事のように思案したため、心労が重なり心臓の病となった。薬石効なく、二年間病と闘い、閏三月八日になってようやく自宅に戻り、九日、万年県の翊善里の家で亡くなった。享年六十三。
夫人の戴氏は賢く徳があり、何年も家を空けていた公に代わって欠けること無くよく家を治めた。
公には二子がいる。長子は公球といい義昌軍押衙、次子は公璵で行内侍省雲騎尉上柱国である。
大中元年(847)十月五日に万年県滻川郷鄭村に埋葬し、この文を石に記す。”
2⃣まとめ
①執失奉節
奉節の父の思力は唐に敵対する使者として来朝したため、執失氏が長安制圧の際の縁を反故にしたことを引き合いに太宗は思力を叱責し、拘束した。
②趙澄之 ?
③李爽
崔擢が罪を犯すと李爽も責任をとらされて免官となった。
④永泰公主 701年、兄の邵王李重潤や夫の武延基とともに武則天の寵臣・張易之・張昌宗兄弟を排除する謀議を行ったとして、武則天により自殺を命じられた。
⑤韋泂 16歳で死去。
⑥薛氏 薛氏は20歳から28歳という若さでなくなったか?
⓻薛莫と妻史氏 ?
⑧馮潘州 馮俊恒(馮潘州)は反逆罪に問われて処刑された。
⑨蘇思勗
745年埋葬。銀青光録太夫・行内侍員外。
⓾雷府君婦人宋氏 ?
⑪張去奢 調べた限りでは特に不幸な出来事はない。
⑫高元珪 調べた限りでは特に不幸な出来事はない。
⑬高克従 大和九年(835)春に緋魚袋を賜ったが、その年の秋に掖庭令に降格となった。 心臓の病となった。薬石効なく、二年間病と闘い、閏三月八日になってようやく自宅に戻り、九日、万年県の翊善里の家で亡くなった。
梅原猛氏は壁画を描くのは、「被葬者が怨霊であるためではないか」と述べておられたが、 怨霊になる条件は、「政治的に不幸な死を迎えた」ことである。
この条件にはっきりあてはまるのは13人中5人(①執失奉節 ③李爽 ④永泰公主 ⑤韋泂 ⑧馮潘州)である。 もうすこし調べてみる必要はあるだろうが、この結果から、 「中国において、墓に壁画が描かれたのは、被葬者が怨霊であるケースである」とはいえない。
よりつづきます~
今回は「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編」の中に収録されている「唐代の壁画墓ー最近の中国の調査と発掘をふまえて/長広敏雄」上光貞 編」のメモと、感想を記したいと思う。
「唐代の壁画墓ー最近の中国の調査と発掘をふまえて/長広敏雄」上光貞 編」における長広敏雄氏の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
使える写真があまりなく、わかりにくいかもしれない点はお詫びします。
①唐の壁画墓
・壁画墓の被葬者は唐帝質の皇女、皇后の弟、その他の貴族、高官、その親族が多い。
・造営年代は658年~847年。7世紀から8世紀に多い。
・中国の帝陵は巨大だが発掘調査をおこなっていない。
”秦の始皇帝の墓の近くにある兵馬俑はたくさん出土していて、考古学者が発掘し、研究をされてきました。しかし、兵馬俑は発掘できても、始皇帝の墓は掘り起こせないと言われています。なぜなら、始皇帝の墓は約30Mの深さがあり、さらにそこに到達するまでには有毒な水銀の大海があると言われています。そのため、現在に至っても発掘を進めることができないと言われています。” https://chisapo-academy-blog.jp/2016/04/01/%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%82%E7%99%BA%E6%8E%98%E3%82%92%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84%E7%A7%A6%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D%E9%99%B5%E3%81%AE%E3%83%8A%E3%82%BE%E3%81%A8-2/ より引用
②唐代壁画墳
❶単室墓
山西省太原市南郊金勝邑5号墓
塼築(レンガ構造)の墓室。南面する。東西2.07m、南北2m、高さ2.1m。 方錐形天井(ピラミッド形)中国の伝統的な形 男女1対を合葬 海獣葡萄鏡(直径13cm)・開元通宝銭・サッサン・ペルシャ銀貨 三彩陶器はない。 築造は7世紀末 壁に3ミリの漆喰をぬって、1幅ごとに紅色の枠取りを描く。 壁画は墓室 馬夫、馬、駱駝(東)牛車(西)北にあり、樹下老人図(東、北、西にまたがる)全部で10幅。 人物は31~35cm 描法は稚拙 (と書いておられるが、本に掲載されている写真を見ると、稚拙にはみえない。高句麗壁画古墳のような荒いタッチではなく、高松塚古墳壁画のタッチに似ているように思う。)
山西省太原市南郊金勝邑4号墓
墓の構造、規模、壁画の構成、年代は5号墓と同様。 東、西壁の南端に侍女図が対照的に描かれている。 南壁墓紋に男侍像。 墓頂に四神図。
山西省太原市南郊金勝邑6号墓
頂点に紅蓮華紋、その下に四神、東西壁丈夫に日月星辰
李爽墓
規模が大きい。 長さ20.6mの墓道が傾斜して地下7.8mに達する。 甬道(石畳の小道)がある。 墓室は東西4.3m、南北3.9m、高さ6.5m 墓道・甬道・墓室に壁画 左右壁に侍衛官、朱色の楼門、腰をかがめ笏をささげた分官、侍女。 墓室の壁画・・・柱間の様に枠取りをして、4つの柱間を作る。柱間には一人の人物。 器物を捧げる婦人、笛や排管を奏する婦人 身長は1.3mから1.5m 墓道の人物蓮見筆の輪郭のみ。墓室の人物は彩色あり。 墓誌によれば埋葬年は668年。 初唐様式。
❷前後二室墓
韋泂墓 ※韋泂は中宗皇帝の皇后韋氏の弟。16歳で死去。死後14年経過して淮陽王に追封(死後に爵位を与えること)された。 708年築造 前室・後室がある。 墓道(15.3m)・甬道(4.6m)・前室(3.3m✖3.4m✖5.4m)・甬道(4.7mの斜面と7.3mの平面)・後室(主室/4.3m✖4.2m✖5.5m)に壁画が施される。
壁画は朱色で描いたあと、墨筆で輪郭を描く。
墓道は枓栱・朱柱を並べて描く。 柱間には東壁北側に青龍、南部に朱雀、西壁北側に白虎、南部に朱雀をえがく。
本には図がないが、たぶん下図のようなレイアウトになっているのかな、と思った。(斗栱・朱柱はどのようになっているのか、長広氏の説明だけではわからないので図には描いていない。)
唐の単室墓は墓室天井に四神図を描くことが多いが、規模の大きい韋泂墓では玄武をのぞく青龍・白虎・朱雀を墓道東西壁に配置している。永泰公主墓でも青龍白虎は墓道東西壁に描かれている。朱雀、玄武は報告にない。 まとまった四神図として配置することが重要視されていない。
上の動画7:10あたりで、墓道壁に大きく描かれた青龍白虎が登場する。
墓門上部に楼閣図。永泰公主墓や李爽墓にもある。
永泰公主墓の例は、上の動画7:30あたりの建物の図がそれだろうか。
甬道は男侍の群像。壁上部に長方形の格子(斗栱かもしれない)、その中に花鳥図、下部に樹木、草花。人物像は不明。
後室への甬道には天井部に雲文と鶴。
後室壁画は斗栱と柱を描く。柱間には人物像。 北壁は三幅で侍女、男侍、侍女 生え際の毛髪も細かく描かれている。
永泰公主墓
乾陵の陪陵のひとつ 陵は皇帝や国君(世襲により国家を統治する最高の地位にある人のためのものと定められている。 諸王や公主(皇帝の息女)を陵とは呼ばない。
永泰公主と夫の武延は則天武后の治世中に女帝の怒りを買って死を賜ったため、父・中宗が復位したのちに公主に追封し特葬で乾陵に陪葬された。
動画11:16あたりに永泰公主墓の全体図が示されている。 へたくそな図を描いてみた。
南面 全長(水平距離)・・・約87.5m。 最も深いところ ・・・約16m。
上の動画で何分あたりのところにでてくるかを()内に示してみたが、まちがっているかもしれない(汗)。
墓道・・・・・・・・約23.35m(6:48) 5つの過洞、6つの天井の間・・・水平距離は約33m。
本調査対象の壁画は,墓の入口から遺体を安置した部屋(後室)に通じる通路のうち,図1に矢印で示した第二過洞の東壁に描かれたものである。 とあり、この記事のp2に図が示されている。 この図を見ると、スロープになった部分のことを過洞というのかもしれない。
第一甬道・・・約12.5m 前室・・・・・ほぼ方形(東西4.9m、南北4.7m、高さ5.35m)天井は尖頂。
第二甬道・・・約6.5m、中門に石門あり/動画16:49)を通って後室へ。 後室(17:29)はほぼ方形。東西5.4m、南北5.3m、高さ5.5m。尖頂。
前甬道・前室・後室 塼築構造 床にも方塼
後室西・・・高さ20cmの基壇、その上に石槨(縦3.9m、横2.8m、高さ1.4m) 侍者(男女)・草花・花喰鳥などの線刻画(19:21)
※石槨の線刻画は韋泂墓、韋頊墓(718)にもある。 この石槨の中に棺をおさめる。
壁画 墓道・・・残存壁画は20mほど 東壁・・・武士(7:00) 7m以上ある青龍図(7:09) レンガ造りの門をもつ楼(7:29) 長い土塀・土塀越に山水、樹木(7:37) 5人づつ、5組の武士(7:34) 二人の馬夫(中央アジア人。目が大きく鼻が高い。)と馬、武器たて(8:03?)
西壁・・・剥落がひどい。白虎(7:09)
5つの過洞
第一、第二・・・宝相花(菱花文、複合バルメット花文)
第三・・・格子天井 十八の格間をつくり、各間に複合パルメット花文を描く。
第四、第五・・・雲鶴図、天井と側壁の接合部にパルメット花文
第五・・・・雲鶴図、天井と側壁の接合部にパルメット花文、荷を担ぐ人物
甬道 格天井 ・・・十八の格間をつくり、各間に複合パルメット花文を描く。(9:25)(10:59) 高松塚出土の透金具とほぼ同じデザイン どちらも八弁 8つのC字形モチーフがある。 中心部は永泰公主墓の者は八弁蓮華紋、高松塚は車輪石風
同じデザインと書いておられるが、永泰公主墓のパルメット花文は四角で、高松塚出土の透金具は円形である。
墓誌石(10:10)の蓋石にも複合パルメット花文がある。
パルメット花文は埋葬年時である706年に近い時点にデザインされたのかも。
このデザインの下限は715年を下回らない。 上限は704年、武周の石塔婆、順陵の大石座獅の台座
順陵 則天武后の母・楊氏《670年死亡)の墓 689年民義陵と呼ばれ、690年に順陵と改称された。製作年不明。690年頃か?
第二甬道 天井 雲鶴図、左右壁 人物図 花草 仮山(築山)
前室(12:57) 斗栱 梁 柱 天井 天体図(13:20)
南壁二幅・・・男侍 白袍,笏をもつ。
東南壁・・・・婦人8人と男侍1人 向かって左端(率領/女官長か。公主という説もある)持ち物はない。 その脇や背後に女官たち。玉盤(皿)・燭台・団扇・宝台・高脚杯・払子・如意・袋物などを持つ。 生え際を克明に描く、眉も細筆をかさねている。 日本の天平美人の太い眉と違う。 下書きの淡い筆線が残る。
東壁北・・・人物群像 婦人6人、男侍1人 先頭は何も持たない。(向かって右)後の6人(5人では?)は小箱・燭台・袋物・団扇をもつ。
北壁・・・二侍女 率領と侍女 侍女は高脚杯、方形の箱をもつ。
西壁・・・9人の群像 男侍1人 8人は婦人
天井…天体図(13:20)、東に山岳と金鳥、西に月、東北隅から西南隅に書けて銀河 周壁に山岳図
主室壁画 南壁東・・・男侍1名 白衣 笏をもつ 南壁西・・・男女2人づつ 何れも男装する 東壁南・・・7人の群像 東壁北・・・7人の群像 北壁東・・・楽隊?6人群像 北壁西・・・三人 西壁・・・石槨に接して壁画の調査はできていない。 天井・・・前室と同じ 月像は残月(有明の月)(18:09)
次回へつづく~
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