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陰陽 黒と白⑮ 奈良豆比古神社 翁舞 


陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると?  よりつづきます~

北山十八間戸

※北山十八間戸に霊山寺(奈良市中町3879)境内の文殊菩薩像を合成。


陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると? よりつづきます~


①非人とハンセン病患者

なだらかな登り坂が続く奈良坂。
呼吸の乱れを整えるために立ち止まり、振り返ると坂の下に興福寺の五重塔が見えていた。
大きく深呼吸をしてから再び歩き始める。
しばらくすると柵で囲われた細長い長屋が見えてきた。
長屋の裏に回ってみると18個の裏戸があり、そのひとつひとつに「北山十八間戸」と文字が刻まれていた。
柵の中に入って見学したいと思ったが、出入口には鍵がかけられていた。

見学することはできないのだろうか?

思い切って長屋の隣にあるお好み焼き屋さんに尋ねてみた。
「あのう、北山十八間戸を見学したいんですが、どうしたらいいんでしょうか?」

するとおかみさんが
「はいはい、今鍵をあけますね。ちょっと待っててくださいね」
と言い、ぽんと好み焼きをひっくり返した。
どうやらこのお好み焼き屋さんが北山十八間戸を管理されているようである。

おかみさんはすぐに出てきて柵の鍵をあけてくださった。
そして次のように説明していただいた。

「ここは鎌倉時代、ハンセン病患者を救済するための福祉施設だったところです。
奈良時代に光明皇后が建てたとも、鎌倉時代に僧の忍性さんによって建てられましたともいわれています。
ここからもうちょっと北に行ったところに般若寺さんがあるんですが、もともとはその般若寺さんの北東にあったそうです。
1567年に戦災で焼けまして、1660年から1670年ごろにここに移りました。
2畳くらいの部屋が17つ、4畳くらいの部屋がひとつで、合計18つの部屋があります。
4畳くらいの部屋は仏間です。
1万8千人のハンセン病患者が利用したと言われてるんですよ。」

北山十八間戸がいつ誰によって建てられたものなのかについては、おかみさんが説明してくださったように2つの説があってはっきりしない。
しかし、なぜ奈良坂にハンセン病患者のための療養施設が作られたのかについてははっきりしている。
それは奈良坂が非人が住む町であったためである。

非人というと江戸時代に制定された身分制度を思い出すが、関西では中世より非人と呼ばれる人々がおり、多くは坂の町に住んでいた。
非人たちは寺社に隷属し、寺社の清掃、祭りの警備、死体の処理、神事などに携わっていた。

ここ奈良坂の非人たちは興福寺に隷属する民だった。

非人たちは非人宿(夙)に住み、病人の看護にも携わっていた。
奈良坂に北山十八間戸が作られたのは、ここに非人宿があったからだろう。
または北山十八間戸が先にあって、病人を看護するために非人宿が作られたのかもしれない。
いずれにせよ、北山十八間戸と非人に密接な関係があったことは事実である。

興福寺 夕景

荒池より興福寺を望む


②ハンセン病患者は文殊菩薩の化身

北山十八間戸からさらに奈良坂を上っていくと般若寺がある。
境内にはコスモスが咲き乱れ、その中にうずもれるようにして本堂があった。
本堂の厨子の中には、少年のような表情をした獅子にのる文殊菩薩像が安置されていた。

般若寺は629年高句麗の僧・慧灌(えかん)によって創建された。
735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したといわれる。文殊菩薩の巨像を御本尊としていたが1490年に焼失した。
現在の文殊菩薩像は1324年に慶派仏師・康俊が刻んだもので、もともとは経像の本尊で秘仏だった。
本堂の御本尊が焼けてしまったのでかわりに本尊にしたという。

文殊菩薩は『智慧の菩薩』と言われている。
仏教の修行の結果として得られたさとりの智慧のことを般若という。
般若寺という寺名は文殊菩薩を祀っているところからくるのだろう。

能に用いる般若の面は『嫉妬や恨みの篭る女の顔』を表したもので、角が生えた恐ろしい形相をしている。
なので、鬼のことを般若というのだとずっと思っていたが、それは間違いだったのである。

般若坊という僧侶が面を作ったので般若面と呼ばれるのだとか、
『源氏物語』の葵の上が六条御息所の生霊にとりつかれた時、般若経を読んで怨霊を退治したところからそう呼ばれるようになったなどと言われている。

さきほど見学してきた北山十八間戸は、ハンセン病患者を救済するための福祉施設であったが、ハンセン病患者は文殊菩薩の化身であると考えられていた。

宿の町・奈良坂にある般若寺の御本尊が文殊菩薩なのはこのためだろう。
般若寺はハンセン病患者の霊を弔うための寺なのだろうか。
いや、無名のハンセン病患者の霊を弔う寺だとは考えられない。
735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てたということは、それなりの身分で、ハンセン病を患った人がおり、その人物を弔うための寺であったのではないだろうか。

聖武天皇と同時代で、それなりの身分でハンセン病を患った人物がいる。
春日王だ。

般若寺 十三重石塔 コスモス


③能・翁

般若寺前の植村牧場さんでソフトクリームを買う。
植村牧場さんのソフトクリームはミルクの味が濃くてとてもおいしいので、般若寺にくるたび食べるのを楽しみにしている。
私はソフトクリームを食べながらさらに坂を上って奈良豆比古神社へとむかった。
この日は10月8日、奈良豆比古神社で伝統行事の翁舞の奉納がある日だった。

日が暮れると舞殿前の篝火に火が入れられ、翁舞が始まった。

奈良豆比古神社は古来芸能の神として信仰が厚く、歴代の能楽師も数多く参拝したという。
一説によれば、奈良豆比古神社の翁舞は能・翁のルーツでもあるという。

私は舞殿に燃やされた篝火を見つめながら、八坂神社の能・翁を見にいったことを思い出していた。
陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると? 

私は能・翁を見て、次のように考えたのだった。

a.陰陽道の陽は白、陰は黒で表される。白式尉は陽(白)の神・黒式尉は陰(黒)の神である。

b.六歌仙(遍照・在原業平・小野小町・文屋康秀・大友黒主・喜撰法師)の小野小町は白い神(陽)、大伴黒主は黒い神(陰)である。

c.小野小町が白い神である理由。
小野小町は在原業平に「九十九髪」と歌を詠まれている。→百引く一は白 ∴九十九髪=白髪
小野小町=小野宮=惟喬親王ではないかと思う。
惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授けられたという伝説があるが、即身仏になるべく入定する際に漆を飲んだ。
惟喬親王は漆を飲んで即身仏となったため、このような伝説ができたのではないか。
また古の人は腐らない体を生きていると考えたのではないか。生は陰陽道では陽(白)である。

d.大友黒主が黒い神である理由。名前に黒の文字がある。
大友黒主=大伴家持ではないかと思う。なぜかというとほとんど同じといってよい歌を詠んでいるからだ。
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして、すでに死んでいたのだが死体が掘り出されて流罪となった。
その体は腐っていたことだろう。古の人は腐った死体を生きていない(死)と考えたのではないか。死は陰陽道では陰(黒)である。

e.黒という字を分解すると、田+土+、、、、である。、、、、は種まきのように見えなくもない。それで翁の黒式尉は種まきの所作をするのではないか。
また祇園祭黒主山の黒は下の写真のような字が用いられている。

黒主山 宵山

これを分解すると田+夫「」となるが、古今集真名は大友黒主(=大伴家持)にたいして、「田夫の 花の前に息めるがごとし」といっている。

奈良豆比古神社 翁舞 千歳
④奈良豆比古神社 翁舞

篝火がたかれる中、小鼓の音と「いーやー、あいやー、おんはー」という掛け声が続く。
少年が扮する千歳が舞を舞ったのち、三人の大夫が舞台上で翁の面をつけた。
なんと、奈良豆比古神社の翁舞の白式尉は一人ではなく三人なのである。

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉2

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

三人翁が退出したのち、三番叟が登場した。
三番叟は舞を舞ったのち、舞台上で黒い翁の面をつけ、鈴を持ってさらに舞った。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉2

千歳・三人翁の舞はゆったりしたスローテンポの舞だが、三番叟の舞は激しい。
田植えをする所作のようにも見えた。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

⑤二つの伝説

奈良豆比古神社でもらったパンフレットには次のような内容が記されていた。

天智天皇の孫、志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。
春日王の二人の子・浄人王と安貴王という二人の子供があって、この兄弟が熱心に春日王の看病した。
兄の浄人王は春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。


後日、図書館で『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』という雑誌を借りて読んだ。
その中に奈良豆比古神社の翁舞についての記事があり、地元の語り部・松岡嘉平さんが次のような語りを伝承していると書いてあった。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。

奈良豆比古神社でもらったパンフレットにはハンセン病になったのは春日王だと書いてあったが、ハンセン病になったのは志貴皇子だとする伝承も伝わっているのだ。

⑥志貴皇子=春日王?

志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。

そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになるが、皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。

志貴皇子と春日王は同一人物なのではないか。

神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
とすれば、志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるとも考えられる。
春日王が志貴皇子のことであるとすれば、春日王の子の浄人王・安貴王は志貴皇子の子だということになる。

奈良大文字送り火

高円山

⑥弓削浄人は道鏡の弟

桓武天皇は浄人王と安貴王に弓削という姓を与えたが、弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴という名前ではなかっただろうか。

さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしているのだ。

道鏡は称徳女帝が次期天皇にしたいと考えていた人物である。
そして、道鏡の父親は志貴皇子の子であるとする史料もある。
称徳天皇は独身で即位した女帝だったため結婚が許されなかったものと考えられる。
(独身で即位した女性天皇が結婚した例はない)
そのため、称徳天皇は志貴皇子の子である道鏡を次期天皇にしたいと考えたのではないだろうか。
ところが和気清麻呂が宇佐八幡宮での信託として「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」と称徳天皇に奏上した。
これは「道鏡を皇位につけてはいけない」という意味で、これに称徳天皇はかんかんになって怒り、和気清麻呂を別部穢麻呂と改名させて流罪にした。
道鏡が志貴皇子の子であったとすれば、称徳天皇がかんかんになって怒った理由が理解できる。
「道鏡は志貴皇子の子で、皇緒である。和気清麻呂の嘘つき!なにが清麻呂だ、おまえなんか穢麻呂で十分だ!大和から出ていけ!二度と顔を見せるな!」
ところが、称徳女帝は急死。(暗殺説あり)道鏡は失脚して下野に左遷となり、数年後に死亡して庶人として葬られた。

道鏡に子孫はいなかったはずである。
道鏡は僧侶であり、当時は鑑真が日本にやってきて戒律を伝えたばかりだったからである。
(戒律では僧の性交は禁止されていた。)
しかし道鏡の兄・弓削浄人には子孫がいただろう。
奈良坂の夙に住む非人たちは弓削浄人の子孫なのかもしれない。


護王神社絵巻に描かれた道鏡 
護王神社絵巻に描かれた道鏡


⑦3対1で構成される神々

それはともかく、なぜ奈良豆比古神社の翁舞は三人翁なのか?
私は以前、次のような表を作成した。陰陽 黒と白⑨ 白鳥は生霊、黒鳥(八咫烏)は死霊? 

生国魂神社住吉大社住吉大社陰陽

島大神
 第四本宮神功皇后(仲哀天皇皇后)・・・長帯比売命/気長姫尊(おきながたらしひめのみこと)?
               と同音
生霊白鳥
島大神 第一本宮/底筒男命
     第二本宮/中筒男命
     第三本宮/表筒男命
12代景行天皇・・・・・・・・・大彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)?
13代成務天皇・・・・・・・・・稚彦尊(わかたらひこのみこと)?
14代仲哀天皇・・・・・・・・・仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)?
死霊黒鳥
(八咫烏)

住吉大社の男神は、底筒男命・中筒男命・表筒男命の三柱であり、三柱の神々の象徴が八咫烏(黒鳥)であり、死霊であると考えられる。

そして住吉大社の女神は、神功皇后一柱であり、その象徴が白鳥であり、生霊であると考えられる。
翁舞の白式尉は生霊、黒式尉は死霊と考えられ、翁舞のケースでは生霊が三柱、死霊が一柱で、住吉大社とは神の数が逆になっているようである。
生国魂神社住吉大社奈良豆比古神社陰陽

島大神
 第四本宮白式尉(三人翁)
生霊白鳥
島大神 第一本宮/底筒男命
 第二本宮/中筒男命
 第三本宮/表筒男命
黒式尉死霊黒鳥
(八咫烏)


次回へつづく~
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陰陽 黒と白① 獏は白黒モノトーン  


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[2018/11/16 19:16] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)

陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると? 

 

陰陽 黒と白 ⑬『惟喬親王、入定して紀仙法師となる?』 よりつづきます~

①能「翁」の白式尉と黒式尉


阪急河原町駅で下車し、四条通を東に向かって歩いていく。
鴨川にかかる四条大橋を渡り、途中、托鉢の僧が手に持つ鉢の中に小銭を入れて手を合わせる。
「どうか、新しい発見のある楽しい旅になりますように!」
そんなふざけたな願い事を心の中で唱え、また橋を渡っていく。

四条大橋を渡ると右手に南座、そのまままっすぐ歩いていけば八坂神社に到着する。

八坂神社の本殿前には、1月3日にもかかわらず初詣する人たちの長い行列ができていた。
私は行列の後ろのほうで手を合わせてお参りをし、八坂神社境内にある能舞台へと向かった。
能舞台の前のベンチはすでに人で埋め尽くされていた。
この日、八坂神社では初能奉納があるのだった。
能の演目は「翁」である。

まもなく舞台の上に囃し方が登場し、つづいてシテ(役者)が登場した。

シテは舞台の上でお面をつけた。
舞台上でお面をつけるのは能の中でも翁だけである。

八坂神社 翁 面をつける白式尉 
『翁」は『能にして能にあらず』『能というよりも神事である』などといわれている。
シテは舞台に立つ7日前から家族と寝食を別にし、食事を調理する火も共用することが許されない。
これを『別火を喰う』と言う。

「とうとうたらりたりらら」
翁(白式尉/はくしきじょう)のよく通る声が、冬の澄んだ青空にこだました。

八坂神社 翁 白式尉 

「とうとうたらりたりらら」とはどういう意味なのか、よくわかっていないらしい。
おそらく古い言葉で、長い年月を経るうちにわからなくなってしまったのだろう。
和歌の枕詞などももともとは意味があったのだろうが、意味が分からなくなってしまった言葉がたくさんある。

しばらくするとさきほどの翁とは別の翁がやはり舞台上で面をつけ、鈴を振って足拍子を踏み鳴らした。
私はその翁を見てとても驚いた。

八坂神社 翁 黒式尉 

翁の面が真っ黒だったからである。
黒い面の翁(黒式尉)は黒人なのか?
しかし顔立は日本人のようである。

②能「翁」は、陰陽 黒と白

能「翁」はまさしく、「陰陽 黒と白」だった。

陰陽道では万物は陰陽両面を持つと考える。
生死を陰陽で表すと、生が陽、死が陰である。
性別天体光度天気生死
陰(黒)
陽(白)太陽

また陽は白、陰は黒で表される。

Yin yang

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AYin_yang.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg よりお借りしました。
作者 Gregory Maxwell [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

③小野小町は白い神、大伴家持は黒い神


陰陽 黒と白⑪大友家持、白い神から黒い神に転じる? 
陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神  

私は上の記事で、小野小町は白い神、大伴家持は黒い神ではないかと書いた。

小野小町は在原業平に次の様に詠まれている。

ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)


この歌に登場する九十九歳の白髪の女とは小野小町のことであるとされる。

つくも髪は九十九髪と書く。これは謎々である。
100-1=99
百引く一は白

うまい!座布団2枚!

髄心院 歌碑 八重桜

髄心院 小野小町 歌碑

次に大伴家持についてだが、彼は藤原種次暗殺事件に関与したとして、すでに死亡して埋葬されていたのを掘り起こされ、流罪となっている。

.http://www.sogi.co.jp/sub/kenkyu/itai.htm
上記サイトによれば、死体は次のように変化するという。

腹部が淡青藍色に変色(青鬼)
   ↓
腐敗ガスによって膨らみ巨人化。暗赤褐色に変色。(赤鬼)
   ↓
.乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)
   ↓
骨が露出

一言主神社 一陽来復祭

一言主神社 一陽来復祭

掘り起こされた家持の死体は黒く変色し、黒鬼のような姿になっていたのではないだろうか。

そして、大伴家持は六歌仙の一である大友黒主と似た、というよりもほとんど同じ歌を詠んでいることから、私は大伴家持と大友黒主は同一人物ではないかと考えた。

白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)

白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。)


古今集真名書は大友黒主について次のように記している。

大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。(読み下し文)

「頗る逸興」とは大伴家持の死体が掘り出されたことをいっているのではないかと思う。

祇園祭 山鉾巡幸 黒主山2 
祇園祭 黒主山  

④六歌仙は藤原氏と敵対していた歌人


古今和歌集仮名序で名前をあげられた6人の歌人、小野小町・僧正遍照・在原業平・大友黒主・文屋康秀・喜撰法師のことを六歌仙という。

この6人は全員藤原氏と敵対関係にある人物であった。

私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えている。
惟喬親王は文徳天皇の第一皇子で、母親は紀静子の間にできた子の長子で立太子が望まれていた。
しかし文徳天皇には藤原明子との間に惟仁親王もあった。
文徳天皇は「惟喬親王を皇太子」にしたいと源信に相談したのだが、源信は藤原明子の父・藤原良房をはばかって天皇を諫めたという。

遍照は藤原良房に出家させられたといわれている。
在原業平は惟喬親王の寵臣で、惟喬親王の妹を妻にしており、紀氏側の人間だった。
大友黒主は③に書いたように、大伴家持のことだと思う。家持は藤原種次暗殺事件に関与したとして死体が掘り出されて流罪となった。
文屋康秀は文室宮田麻呂の親戚だと思うが、文室宮田麻呂は無実の罪で流罪となっている。
喜撰法師とは紀仙法師で、紀名虎または紀有常のことだとする説がある。
紀名虎は惟喬親王の祖父(惟喬親王の母・紀静子の乳)、紀有常は惟喬親王の叔父(惟喬親王の母・紀静子の兄)である。

遍照・在原業平・紀有常らは惟喬親王をもちあげてクーデターを計画していたとする説もある。

加茂船屋の雛祭 六歌仙屏風 
加茂船屋 六歌仙を描いた屏風
 
向かって右上から、大友黒主・小野小町・喜撰法師、向かって左上から在原業平・遍照・文屋康秀か?

⑤喜撰法師=紀仙法師=惟喬親王?

④ で喜撰法師とは紀仙法師で、紀名虎または紀有常のことだとする説があると書いたが、私は喜撰法師=紀仙法師とは惟喬親王の事ではないかと思う。
惟喬親王の母親は紀静子、その父が紀名虎、兄が紀有常である。
当時、藤原氏の母親を持つ天皇・親王が大多数であった中で、惟喬親王は紀氏の希望の星だった。
そんな惟喬親王を紀仙法師と呼ぶのはおかしいことではない。

惟喬親王は京都の法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説がある。
惟喬親王は木地師が用いる轆轤を発明したという伝説もあり、惟喬親王は木地師の祖としても信仰されている。
轆轤を用いて作る茶碗などは、漆を塗って漆器にするが、漆には別の用途もあった。
即身仏となるべく入定する際に漆を飲むのだ。これを「漆のお茶を飲む」と記したサイトもあった。
こうすることで胃の中を空っぽにし、また漆の防腐作用で死後腐りにくい体になる。

そして宇治に喜撰洞があり、そこに喜撰法師の像が置かれている。
喜撰洞とは喜撰法師が入定した洞窟ではないのか?

また喜撰というお茶の銘柄があり、喜撰はお茶の隠語でもある。
戦国武将たちは茶の湯をたしなんだが、お茶を飲むことは、漆を飲むことに喩えたものであり、茶の湯とは不老不死を願うまじないであったのではないかと私は考えたのだ。

陰陽 黒と白 ⑬『惟喬親王、入定して紀仙法師となる?』 

木地師資料館 惟喬親王像  

木地師資料館の惟喬親王像
下の女性と男性が轆轤を使って器を作っている。


⑥生の神と死の神

ここで、もう一度陰陽分類表を見てみよう。
性別天体光度天気生死
陰(黒)
陽(白)太陽

大友黒主という名前は彼が黒い神、死んだ神であるところからくるのではないか。
そして、小野小町(=喜撰法師=惟喬親王)は九十九髪=百引く一は白の神である。
なぜ小野小町は白の神なのか。
それは小野小町=惟喬親王=喜撰法師であり、惟喬親王が漆を飲んで入定して即身仏になったためではないか。

現代人からみて、即身仏は死体でしかない。
しかし古の人々は腐らない肉体をもった即身仏を生きていると考えたのではないだろうか。

大友黒主(=大伴家持)・・・・・・・・黒い神・・・死の神(死んで腐った神)
小野小町(=惟喬親王=喜撰法師)・・・白い神・・・生の神(死んでも腐らない神=即身仏)

すると、能「翁」の白式尉は生の神(死んでも腐らない神=即身仏)、黒式尉は死の神(死んで腐った神)ではないのか。

八坂神社 翁


⑦黒式尉はいかにして田の神になったか?

能「翁」の黒式尉は田の神だともいえる。
黒式尉の舞の中で種まきを思わせる所作があるからだ。

それを見て、私は白髪のことを九十九髪(つくもかみ)ということを思い出した。
そのココロは、100-1=99、百引く一は白。

黒という漢字も白と同じように分解してみたらどうなるだろう?
「黒=田+土+、、、、」となるではないか。「、、、、」は種をまいたように見える。

また、生物の死体は微生物に分解されて水に溶ける形になると、無機栄養として植物に吸収され、植物の肥料となる。

翁の黒式尉はそういった理由で種まきの所作をしているのではないだろうか。

⑧大友黒主はなぜ田夫なのか?

また古今和歌集真名書は大友黒主(=大伴家持)にたいして、「田夫の 花の前に息めるがごとし」といっている。
それは、大伴黒主は翁の黒式尉と同様、腐って植物の肥料のようになってしまったので、田夫といっているのではないだろうか。

黒主山 宵山


上の写真は祇園祭黒主山の提灯である。
提灯に記された文字にご注目。

http://www.kuronushiyama.or.jp/#kuronushi ← こちらのページにも大きく掲載されている。

「黒」の異体字として「黑」があるが、それともまたちがう。田夫と読めなくもない。

ところで、古今集には真名書のほかに仮名序がある。
真名書は漢文、仮名序はかなで記されているが、内容はほとんど同じである。

ところが、大伴黒主の部分は少し違っている。

真名書には
大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。(読み下し文)
とあるが、仮名書では
大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。
となっている。

真名書の頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとしは次のような意味だと思う。

頗る逸興ありてとは大伴黒主とは大伴家持のことであり、大伴家持が藤原種次暗殺事件に関与したとして、死体が掘り出されて流罪となったことだろう。

体甚だ鄙し
とは、その体が腐って『死体が腐って卑しい」

田夫の 花の前に息めるがごとしは、家持の腐った体が微生物に分解され花の肥料になったことを田夫(田+夫=黒/黒い神)になったとい表現しているのではないかと思う。

仮名序では田夫ではなく、山びとになっている。山びととはどういう意味なのだろうか?

八坂神社 舞殿 
八坂神社 舞殿


八坂神社 楼門

八坂神社 西楼門
陰陽 黒と白⑮ 奈良豆比古神社 翁舞 へつづく~
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陰陽 黒と白① 獏は白黒モノトーン  


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[2018/11/01 17:13] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)

仁徳天皇陵発掘。竹田恒泰さんの意見に反論させていただきます。 ② 



①「うちの墓掘るな!」竹田恒泰さんの主張のまとめ

竹田恒泰さんの発言をまとめます。

a.仁徳天皇陵の堤三か所にトレンチ(切り込み)を掘って調査する計画がある。
b.考古学の中でも左派(左翼)は陵を掘らせろといっている。
c.宮内庁は部外者による立入・調査を皇室の祖先の墓であり、静安と尊厳が必要として制限してきた。(新聞記事より引用)
d.宮内庁は現王朝の墓なので、発掘調査を認めたことがない。
e.滅びた墓は祭祀が行われていないので発掘調査してもいいが、天皇陵は現王朝の墓で祭祀が行われている。
f.うちの墓掘るな。
g.発掘調査の結果、被葬者が特定されたのは全国で数件しかない。誰の墓かなんてどうでもいい。
h.仁徳天皇の時代には文字がないのでわからない。


このうち、 は間違いの可能性があるとして、前回の記事に書きました。
仁徳天皇陵発掘。竹田恒泰さんの意見に反論させていただきます。 

e.滅びた墓は祭祀が行われていないので発掘調査してもいいが、天皇陵は現王朝の墓で祭祀が行われている。
はまちがいとはいえないですが、かなり納得のいかない点があるので、追加で書かせていただきます。

NintokuTomb

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ANintokuTomb.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3f/NintokuTomb.jpg よりお借りしました。
Copyright © 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省 [Attribution], ウィキメディア・コモンズ経由で

②古代の天皇陵の管理が差別意識を生んだ?

飛鳥時代後期より平安時代の桓武天皇代ごろまでの日本では律令制をとっていました。
その律令制では陵墓は国家の管理と定められていました。

天皇・皇族の陵墓の守衛を陵戸(りょうこ)といい、世襲で陵墓の管理をしていました。
大宝令制(701年)では陵戸はは賤民でなかったとされますが、養老令制(757年)では戸令で5種の賤民の一つとされました。

賤民とは「身分の低い民」のことです。
陵戸は良民と同額の口分田(唐の制度をまねたもので民衆に一律に支給された農地)を支給され、課役を免除されていましたが
良民との結婚などは認められていなかったとされます。

日本では「死は穢れたもの」とする考え方があったため、陵の管理をする陵戸は賤民とされたのでしょう。
この陵戸が形成した部落が明治まで存続していたケースもあったということです。

日本の階級制が外国の階級制と比較してどうだったかについては、勉強不足ゆえ、私にはわかりません。
ですが、5種の賤民、陵戸などの身分制度があったことは確かであり、差別意識を生む原因のひとつであったとは考えられるのではないでしょうか。

こういうことをいうと、短絡的に「反日」と決めつける人がいますが、歴史という学問に反日かどうかは関係ありません。
反日などの思想を捨てて史実を見るのが科学的態度だと思います。

また階級制は、ある程度文明が進んだ段階において必然的に生まれるものであるように思えます。
世界的に見ても、階級制のない社会のほうが珍しいと思います。
ですから日本に階級制があったからといって、日本はよくない国だというようなことにはならないはずです。

反正天皇陵 
堺市役所21階展望ロビーより反正天皇陵をのぞむ。

③寺院への天皇陵管理委託で多くの陵の所在が不明に。

醍醐天皇(885-930)陵の管理が醍醐寺に委任されて以降、いくつかの陵墓管理は国家管理から寺院管理へと移っていきました。




寺院が廃れたり、消滅したりすることで、不明になった陵も多いということです。

法住寺に委託された後白河天皇陵、如意輪寺に委託された後醍醐天皇陵などは近世まで管理されてきましたが、このような例は珍しいそうです。

如意輪寺 桜

如意輪寺 境内に後醍醐天皇陵がある。

後白河天皇陵 桜紅葉 
後白河天皇陵

中世以後、天皇家の力が衰えると多くの陵墓は荒れ、周濠がため池として用いられたり、伝安閑陵古墳は戦国大名の城に改造されています。

Takayaj3

高屋城 本丸跡(高屋築山古墳を流用)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Takayaj3.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7f/Takayaj3.jpg より引用
作者 投稿者が撮影 (ブレイズマン (talk) 08:56, 24 June 2008 (UTC)) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


④元禄の修陵・文久の修陵

江戸幕府が1697年~1699年に修陵を行っており、これを「元禄の修陵」といいます。
このころ、天皇陵の大半はその所在地がわからなくなっていました。
そのため、史料は参考にはしたものの、結構適当に治定したようです。。
また陵墓や周濠が私有地化・耕作地となっていたため、土地を強制的に買いあげたりもしています。

その後、江戸幕府は1862年~「文久の修陵」で、109か所の陵が修陵され、1867年には「文久山陵図」が完成して朝廷と幕府に献上されています。

現在、われわれが天皇陵と呼んでいるのは、主に江戸時代に探索・治定されたものであり
 現在の歴史学的・考古学的知見に基づき同意できるものは、奈良時代以前のものでは、天智天皇陵、天武・持統天皇合同陵程度しかないと言われています。

前回も言ったように、竹田恒泰さんは「うちの墓掘るな」といいますが、そもそも「うちの墓」かどうかわからないんですね。

⑤荒れた天皇陵で祭祀が行われていたのか?

注意したいのは、江戸時代、多くの天皇陵(特に古代の天皇陵)はその所在が不明となり、耕作地となったり、他人が所有する土地となっていたり、ひどいケースではその上に城がたてられていたりしていたという事実です。

現在の法律では、土地の長期放置は「みなし放棄」として、所有権が認められません。
江戸幕府が天皇陵比定地を買い取ったのも、当時においてもそれが天皇家の所有地であると認められなかったためでしょう。

こういった荒れた天皇陵や、民間人の所有地となっていた天皇陵で祭祀が行われていたとは思えません。

各天皇陵において現在祭祀が行われているとしても、それは「元禄の修陵」「文久の修陵」以降のことであり、祭祀が行われていなかった期間が長かったのではないか、とおもえるのです。

ナガレ山古墳

造営当時の姿に復元されたナガレ山古墳。
造営当時の古墳の多くはこのナガレ山古墳のように、葺石で覆われていたものと考えられている。
現在、多くの古墳は草木が生い茂って岡のようになっているが、それは長年管理せず、放置してきたということではないのだろうか?


長年放置しておいて、最近になってようやく管理しはじめ、「現在も祭祀している」といわれても、騙されている感が強いです。
「あなたの先祖の土地じゃないかもしれないから調査させてくれ」といわれたので、あわてて祭祀をはじめたようにも見えなくないです。

「現在も祭祀している」は正しいかもしれないが、それは「長年にわたって祭祀を続けていた」ということではないのです。
「最近になって祭祀するようになった」というのが正しいのではないかと思います。

⑥天皇以前に物部王朝が存在していた?

私が宮内庁管轄地である天皇陵などの古墳発掘するべき、と考えるのは、記紀などを読むと、どうも天皇家は万世一系ではないように思えるからです。

記紀によれば、神武天皇が東征して畿内入りするより早く、ニギハヤヒという神が天の磐船に乗って天下っっていたとあります。
ニギハヤヒが天下ったとされる場所には現在、磐船神社(大阪府交野市)があります。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 拝殿より直接御神体の天の磐船を拝します。 

そしてニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武以前、畿内には物部王朝があったとする説があるのです。

そして籠神社で発見された系図によれば、
始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)の9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、脇に、『またの名を倭迹迹日百襲姫命』、『またの名を神大市姫命』、『日神ともいう』と記されています。
この『日女命』に漢字をあてたのが邪馬台国の女王・卑弥呼ではないかとする説があります。

ひめのみこと→ひみこ

これは確かにありえそうです。

籠神社

籠神社

そして倭迹迹日百襲姫命は第7代孝霊天皇の皇女とされており、桜井市にある箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命(日女命)の墓に比定されています。
魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓とも大きさが合致するので卑弥呼の墓ではないかともいわれています。
ですが宮内庁管轄地ですので、発掘調査ができません。

そして『先代旧事本紀』では倭迹迹日百襲姫命(日女命)の先祖・彦火明命はニギハヤヒと同一神だと記されているのです。
この系図が出て来た籠神社の社家・海部氏も物部氏です。

これらの史料を読む限り、倭迹迹日百襲姫命やその父親の第7代孝霊天皇は物部王朝の王のように思えます。

すると天皇家が万世一系というのは、長い間日本人が勘違いしていたということになります。
このあたりの真実を、私はどうしても知りたいと思います。

日本人の中には天皇家が万世一系であることをもって日本は最古の王朝だといい、それを重んじる人がいます。
しかし、日本の価値は勤勉な国民性、島国ならではのユニークな文化、各種産業、四季のある美しい自然の中で育まれた感受性などであって、万世一系など大して自慢にもならないと私は思います。
仮に万世一系でなかったとして、対外的にも、大きな影響はないと思います。

それよりも、そういう疑いがあるのであれば、積極的に調査をして事実を解明するべきだと思います。

箸墓古墳 桜 
箸墓古墳


⑦後漢書・梁書・日本書紀にも登場する邪馬台国

竹田恒泰さんは著書「日本人はなせ日本のことを知らないのか」の中で、次のように記しておられます。

あ. 倭人伝の記述はまちがいが多い。
い.中国側の史料にも倭人伝にしか記載がない。
う.日本側の史料には一切確認ができない。
え.中国側の史料に邪馬台国の記述があることを確認しておく程度でよい。

「あ.  倭人伝の記述はまちがいが多い。」について。
邪馬台国はまだ研究段階なので、まちがいが多いとはいいきれません。
ただ、魏志倭人伝の南宋の本に邪馬壹国とあるのは邪馬台国のまちがいだとは思います。(魏志倭人伝の原本は存在していません。)

「い.中国側の史料にも倭人伝(魏志倭人伝)にしか記載がない。」について。
3世紀に記された『三国志(魏志倭人伝)』のほか、5世紀に記された後漢書倭伝、7世紀に記された梁書倭伝、7世紀の髄書、唐代の北史四夷伝にも記載があります。
「3世紀に記された書物の中に記述がない」という意味かもしれませんが、それならそう記述するべきでしょう。

「う.日本側の史料には一切確認ができない。」について。

日本書紀の「神功皇后紀」39年条と40年条、43年条には魏志倭人伝から引用された箇所があります。

39年条「魏志によると、明帝の景初3年(239年)6月に倭の女王が大夫の難斗米などを派遣して、郡(朝鮮半島の帯方郡)に行き、天子に会いたいと朝献(朝廷に詣でる)した。太守の鄧夏は吏を派遣して、京都(洛陽)に詣でた」
40年条「魏志によると、正始元年(240年)に建忠校尉(文官)の梯携たちを派遣して詔書印綬を奉じ、倭国にもたらした」
43年条「魏志によると、正始4年(243年)に倭王はまた使者の大夫の伊聲者掖耶約たち8人を派遣して献上した」

http://fushigi-chikara.jp/sonota/6883/ より引用(ありがとうございます!)

我々の先祖は魏志倭人伝を読んでおり、魏志倭人伝に登場する卑弥呼とは神功皇后のことであると考えていたのです。
ですから、日本側の史料には一切確認ができない、とも言いきれないと思います。

また、邪馬台国、卑弥呼などの言葉は日本語の発音に漢字をあてたものと考えられるので、邪馬台国・卑弥呼という言葉が日本側の史料に出てこないのは当然だと考えられます。
第10代崇神天皇の叔母・倭迹迹日百襲姫命=日女命が卑弥呼、崇神天皇の皇女の豊鍬入姫命が卑弥呼の宗女の台与だとする説が有力です。
崇神天皇陵 夕日 『卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命、男弟は大物主、狗奴国の男王は崇神天皇?』 

崇神天皇陵

崇神天皇陵

もちろん、私の考えが妄想である可能性もあります。
なので妄想であれば妄想であると確信できる事実がほしいと思います。
それは天皇陵発掘調査しかありません。

天皇陵発掘調査は墓を暴くこととは異なります。
被葬者も、後世の人々に事実を正しく知ってほしいと考えているかもしれません。
また、被葬者に対して十分な敬意をはらって発掘調査を行っていると思うので、不敬にもあたらないかと思います。
発掘調査=不敬、というのはあまりに短絡的な考え方のように思えます。

竹田恒泰さんは、古代史や考古学にあまり興味がないのでしょうね。
古代史の事実よりも、天皇家の権威を守るほうが大切である、とお考えになっておられるように思えます。

石舞台古墳 小焼け

蘇我馬子の墓といわれる石舞台古墳。盛り土が失われて石室がむき出しになっています。
蘇我馬子の孫の入鹿は中大兄皇子によって滅ぼされています。
梅原猛さんは、石舞台古墳は謀反人・蘇我入鹿の先祖の墓なので、暴かれたのではないか、とおしゃっていました。
石舞台古墳が暴かれた墓だとすれば、それは誰によって暴かれたのでしょうか。
発掘調査は被葬者に敬意を払って行っていると思います。墓を暴くこととは全く異なります。




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[2018/10/29 11:24] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

仁徳天皇陵発掘。竹田恒泰さんの意見に反論させていただきます。 



①「うちの墓掘るな!」竹田恒泰さんの主張のまとめ

竹田恒泰さんの発言をまとめます。

a.仁徳天皇陵の堤三か所にトレンチ(切り込み)を掘って調査する計画がある。
b.考古学の中でも左派(左翼)は陵を掘らせろといっている。
c.宮内庁は部外者による立入・調査を皇室の祖先の墓であり、静安と尊厳が必要として制限してきた。(新聞記事より引用)
d.宮内庁は現王朝の墓なので、発掘調査を認めたことがない。
e.滅びた墓は祭祀が行われていないので発掘調査してもいいが、天皇陵は現王朝の墓で祭祀が行われている。
f.うちの墓掘るな。
g.発掘調査の結果、被葬者が特定されたのは全国で数件しかない。誰の墓かなんてどうでもいい。
h.仁徳天皇の時代には文字がないのでわからない。


このうち、 は間違いの可能性があると思います。


NintokuTomb

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ANintokuTomb.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3f/NintokuTomb.jpg よりお借りしました。
Copyright © 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省 [Attribution], ウィキメディア・コモンズ経由で


②仁徳天皇代、郷土の産物を記録させている=文字があった?

順番が前後しますが、まず「h.仁徳天皇の時代には文字がないのでわからない。」について。

日本は中国の漢字を文字として用いてきました。
竹田さんが「文字がない」とおっしゃっているのは、「まだ漢字が日本に伝わっていなかった」という意味だと思います。
(15代応神天皇以前、神代文字があったとする説もありますが、偽作だとする説が強い。)
漢字が日本に伝わったのは、いつぐらいのことなのでしょうか。

仁徳天皇陵 
堺市役所21回展望ロビーより仁徳天皇陵をのぞむ。ここからではほとんど形がわかりません。

http://kanjibunka.com/kanji-faq/old-faq/q0004/
↑ こちらのサイトに次のように記されています。

「紀元3世紀ごろ,.邪馬台国(やまたいこく)の時代、日本と中国との間に使節の往来があった。
外交文書を扱うことができなければ、使節として体を成さない。
おそらく邪馬台国やそれに先立つ国々には、漢字を理解し、文書を扱うことのできる人々がいたと考えられている。」

また日本書紀には「仁徳天皇代、紀角宿祢を百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した。」とあります。
記録するには文字が必要です。たぶん漢字を使ったのではないでしょうか。

また5世紀後半に築造されたと考えられている前方後円墳の稲荷山古墳(埼玉県)では、文字を刻んだ鉄拳が発見されています。
日本には墓誌の習慣はなかったとされますが、鉄剣のような副葬品に被葬者の名前が刻まれている可能性がないともいえないです。

反正天皇陵 
堺市役所21階展望ロビーより反正天皇陵をのぞむ。

③発掘調査は被葬者が誰か、を調べるためだけに行われるのではない。

g.発掘調査の結果、被葬者が特定されたのは全国で数件しかない。誰の墓かなんてどうでもいい。」について。

研究の手がかりになるのは文字だけではありません。
出土した埴輪・土器・葺石・副葬品などすべてのものが手がかりになります。
樹皮のついた木片がでてくれば年輪年代法で築造時期もある程度特定することができます。
人骨がでてくれば、性別・体格・死亡年齢などもわかります。

被葬者が誰か、ということだけに考古学的価値があるのではありません。

ナガレ山古墳 子供さんたち

ナガレ山古墳(奈良県北葛城郡)

④天皇陵は皇室の財産か?

憲法では、「すべて皇室財産は、国に属する」と定められ、皇室による不動産保有は禁じられています。
まあ、これについて「戦後GHQによって決められた憲法なので、無効だ」という意見もあるかもしれませんが、現在の憲法では天皇陵は皇族の財産ではなく、国の財産だということになると思います。

法律の事は詳しくはないんですが、他人が所有している土地に先祖の墓があるとして、土地の所有者がそれを発掘調査しても、文句のいいようがないのではないでしょうか?(間違っていたら教えてください!)

また、仁徳天皇陵といいますが、本当に仁徳天皇の陵なのかどうかについても確定していません。
もしかしたら天皇家とは関係のない豪族の墓かもしれません。
そうだとすると「うちの墓」とはいえません。「うちの墓」と胸をはって言うためにも、発掘調査が必要ではないでしょうか。

 ホケノ山古墳 
ホケノ山古墳(奈良県桜井市) 埋葬施設


⑤右左の問題ではなく、信仰か化学かの問題では?

b.考古学の中でも左派(左翼)は陵を掘らせろといっている。」について。

考古学とは、ごく簡単にいってしまうと、土の中に残された人々の生活の痕跡から生活・風習を復元し、人間とは何なのかを考える学問です。
http://kaf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/02/minikouza.pdf より引用

つまり、考古学とは発掘調査なしに成立しない学問ということですよね。
考古学者が発掘調査しないで、何を研究するんだろう、と疑問に思ってしまいます。

考古学者も思想的に右左はあるでしょう。
ですが、それとは関係なく、考古学者である以上、発掘調査はしたいと考えるのではないかと思うのですが。

竹田恒泰さんには、そのあたりの詳しい説明をお願いしたいです。
特に天皇陵発掘調査に反対意見の考古学者の名前などを教えていただきたい。
単に「左派(左翼)は陵を掘らせろといっている」だけでは納得ができませんので。

左派と右派というより、信仰をとるか、科学をとるかという問題のような気がします。

百舌鳥古墳群 模型

堺市役所21階展望ロビーにあった模型。(見やすくするため一部加工しました。) 


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[2018/10/24 18:59] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

陰陽 黒と白 ⑬『惟喬親王、入定して紀仙法師となる?』 

平等院 門

平等院

陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神  よりつづきます~

①宇治茶

京阪宇治駅をおりて平等院のほうに向かって歩いていくと門前の店店からお茶の甘い香りが漂ってくる。

宇治と言えば宇治茶。この付近にはお茶を売る店がたくさんあるのだ。

中でも抹茶ソフトクリームを売る店が、ひときわ賑わっており、店の前のベンチで大勢の人がソフトクリームを食べている。
見ると、みな唇が緑色の粉をふいたようになっている。
一瞬、ぎょっとしたがよく見るとソフトクリームに粉末状にした抹茶がふりかけてあるのだ。

私も注文して食べてみた。友人が私の顔を見て笑ったが、友人の顔も唇が真みどりになっている。
それがおかしくて、私も笑った。

平安時代の空海が唐からお茶を持ち帰ったというが、それが真実でも、その量はわずかなものだっただろう。
同じく平安時代の空也が疫病を鎮めるために皇服茶(仏前に献じたお茶に結び昆布と梅干を入れたもの)を村上天皇や民衆に飲ませたというが、とかいうが、村上天皇はお茶を飲んだとしても、民衆にまでそれを飲ませたとは思えない。
当時、お茶は大変効果なものだったからだ。

六波羅蜜寺 皇服茶

六波羅蜜寺 皇服茶

日本に喫茶の習慣を広めたのは鎌倉時代初期の栄西と言われる。
栄西は宋から茶種を持ち帰り、明恵がそれを栂ノ尾高山寺近くに植え、その後宇治にも植えた。

13世紀半ば、平等院に小松茶園・西浦茶園が造られて宇治での茶の栽培が始まった。
南北朝時代には栂ノ尾のお茶は本茶、醍醐や宇治のお茶は非茶と呼ばれていたが、しだいに宇治は一流のお茶の生産地として発展していった。

平等院 鳳凰堂2

平等院

②喜撰とお茶


お茶といえば、「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった四杯で 夜も眠れず」という狂歌を思い出す人も多いのではないだろうか。

1853年のペリー来航を詠んだ歌である。
宇治茶に喜撰という銘柄があり、上等なお茶であることから上喜撰といっているのだろう。
その上喜撰に蒸気船をかけてあるのだ。
さらにお茶の成分であるカフェインには眠気をさます効果があって眠れないことと
蒸気船が四隻(実際には2隻だともいう。)やってきただけで、不安で眠れないことをかけてあるのだ。
ペリー来航後、日本は長年の鎖国をやめ、開国へと進んでいくことになる。

宇治茶の銘柄を喜撰というのは、喜撰法師の次の歌にちなむものである。

わが庵は 都の辰巳 しかぞ住む 世を宇治山と 人はいふなり
(私の庵は都の辰巳にあってこうやって住んでいる。世を憂しとして山に入った。宇治山であると人は言っているそうだ。)


またお茶のことを隠語で喜撰という。

どうやらお茶と喜撰は関係が深そうである。

霊山寺 初福茶 

霊山寺(奈良) 初福茶


③紀貫之の嘘

古今和歌集仮名序は喜撰法師について次のように記している。

ことばかすかにしてはじめをはりたしかならず。いはば秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。詠める歌、多くきこえねば、かれこれをかよはしてよく知らず。

(ことばがわずかで初め終わりがはっきりしない。いわば秋の月を見ているうちに暁の雲にあうようなものだ。詠んだ歌が多くないので、いろいろ文をかよわして調べてみたがよくわからない。)

古今和歌集仮名序を書いたのは紀貫之だといわれている。

紀貫之は土佐日記でも「男もすなる日記というものを、女もしてみむとてするなり。」と嘘をついているが
古今集仮名序でも嘘をついている。いや、とぼけたというべきか。

喜撰法師は紀仙法師で紀名虎または紀有常のことではないかとする説があるのだ。
同じ紀氏なんだから紀貫之が知らないはずはない。まったく貫之は一筋縄ではいかない男だ。

近江神宮 かるた祭2

近江神宮 かるた祭

④宇治は都の辰巳

高田祟史さんが「宇治は都の辰巳ではない、都の辰だ」とおっしゃっていたように記憶している。
当時の平安京は二条城付近にあった。

そして宇治の喜撰山に喜撰洞があり、洞内に喜撰法師像が祀られている。
ここが喜撰法師の棲んだ庵のあとではないかと思う。

二条城から宇治の喜撰洞の方角を確認してみると、申し訳ないが都の辰というのは厳しいのではないか。
やはり都の辰巳というのが正しいように思える。


喜撰洞の北西方向に二条城があります。

干支 方角

⑤「もののな」の高度なテクニック

さらに高田祟史さんは「わが庵は都の辰」できれ、「巳(み)しかぞ住む」→「みろく※鹿はろくとよむ)ぞ住む」という意味が隠されているともおっしゃっていた。
④で述べたように「わが庵は都の辰」とはいいがたいが、「わが庵は都の辰巳 しかぞ住む』の中に、「みろく」という言葉をよみとられたのは、高田祟史さんの素晴らしい発見だ。

この歌の中から「みろく」という言葉を読み取るのがむつかしいのは、ひとつは「わが庵は/都の辰巳/しかぞ住む」と「巳」と「しか」の間で文節が切れていることがある。
さらに、「しか」を漢字に変換して「鹿」とし、「鹿」を「ろく」と読むという発想はなかなか思い浮かばない。

和歌のテクニックのひとつに『もののな』がある。
もののなとは、ある事物の名称を、意味に関係なく歌の中に詠み込むものである。

たとえば「あしひきの 山たちはなれ ゆく雲の 宿り定めぬ 世にこそありけれ」という歌があるが、この歌の中に「たちばな」という言葉が読み取れる。

上の詩は「山たちはなれ」と五七五七七で構成されるひとつの文節の中に「たちばな」とあり、ひらがななので言葉を発見するのは比較的たやすい。
しかし「わが庵は都の辰巳 鹿ぞ住む』の中に「みろく」を発見するのは難しい。
高度な「もののな」のテクニックだといえるだろう。

奈良公園 鹿の親子

⑥ばれないように詠むのが大事

高田祟史さんは和歌は文学ではなく呪術だとおっしゃっているが、私は高田祟史さんのおっしゃる通りだと思う。

和歌ではないが、言葉を呪術として用いた例として
1610年、徳川家康が方広寺の鐘名「国」「君臣豊楽」に激怒したというエピソードがある。

方広寺 鐘銘 

方広寺鐘銘

「国だと?私(家康)の名前を切っているじゃないか!
「君臣豊楽子孫殷昌だと?豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ、という意味ではないか!
けしからんーーーー!」

こう家康は怒り、豊臣家を滅亡させてしまったのだ。

現代人はこれを家康のいちゃもんだと考えがちである。
しかし私は豊臣秀頼が本当に家康が指摘したような呪術を用いて鐘銘を刻んだ可能性があると思う。

言霊信仰という言葉を聞いたことがあることだろう。
言霊信仰とは口に出した言葉は実現する力があるとする信仰のことである。

ポジティブなことを言葉にすればポジティブなことがおき、ネガティブなことを言葉にすればネガティブなことがおきるとすれば
憎い相手を言葉の力によって貶めたいと考えるのは当然のことだと思う。

この事件は言葉に呪術をこめる伝統があったことを物語ってはいないだろうか。
「国」「君臣豊楽」とはなかなかうまい呪術を考えたものだ。
しかし相手にばれてしまうと、怒りをかって豊臣家のように滅ぼされてしまう。
呪術は慎重にかけなければならないのだ。

喜撰法師の「もののな」のテクニックはすごい。
この歌に『巳鹿→みろく」と言う言葉が隠されていることに気付いた人は、1000年近い長い年月の中でも高田祟史さん以外いないのではないか。

喜撰法師の和歌は一級の呪術だといえると思う。

⑦喜撰法師は入定した?


宇治には萬福寺という寺があり、天王殿に黄金に輝く布袋像が祀られている。
布袋は弥勒菩薩の化身とされている。

萬福寺 布袋  

萬福寺 布袋像

萬福寺は1661年に創建された寺だが、宇治に弥勒菩薩というイメージがあったため、ここに弥勒菩薩の化身である布袋像が置かれているのかもしれない。

弥勒菩薩とは56億7000万年後に現れるというみほとけである。
そして、かつて即身仏を志した人の目的は56億7000万年後の弥勒菩薩の聖業に参加するためだと聞いたことがある。

ここで④で述べた喜撰洞を思い出してほしい。
喜撰法師は即身仏となるべく、喜撰洞に入定したのではないだろうか?

⑧六歌仙は藤原氏と敵対していた?

③で喜撰法師は紀仙法師で紀名虎または紀有常のことではないかとする説があると書いた。
しかし私はしだいに喜撰法師(紀仙法師)とは惟喬親王のことではないかと考えるようになった。
惟喬親王の母親は紀静子で、惟喬親王は紀氏の血の濃い親王であった。
なので、惟喬親王を紀仙法師と呼ぶことはおかしいことではない。

六歌仙(遍照・在原業平・文屋康秀・小野小町・喜撰法師・大友黒主)は全員、藤原氏と敵対関係にあった人物である。

大友黒主は大伴黒主と記されることもあり、また大友家持とほとんど同じ歌を詠んでいることなどから、大伴家持のことだと思われる。
大伴家持は藤原種次暗殺事件に関与したとして、当時すでに亡くなって埋葬されていたのだが、死体を掘り出されて流罪とされている。
陰陽 黒と白⑩ 大友黒主の正体は大伴家持だった? 

小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと私は考えている。
陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神 
つまり喜撰法師も小野小町も惟喬親王のことだということである。

遍照・在原業平・紀有常(惟喬親王の叔父)は惟喬親王の歌会のメンバーである。

惟喬親王は文徳天皇の第一皇子で母親は紀静子だった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたのだが、当時の権力者・藤原良房を憚った源信にいさめられ、藤原良房の娘・明子との間にできた惟仁親王(のちの清和天皇)が皇太子となった。

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いているが、この歌会のメンバー・遍照・在原業平・紀有常らは歌会と称して惟喬親王を担ぎ上げてのクーデターを計画していたのではないかとする説がある。

文屋康秀は小野小町を「三河に行きませんか」と誘っている。
小野小町=惟喬親王だと考えられるので、文屋康秀もまたクーデター計画にかかわっていた可能性がある。

惟喬親王像 

惟喬親王像 木地師の里


⑨惟喬親王と漆の関係

六歌仙の説明が終わったところで、私がなぜ喜撰法師=惟喬親王だと考えているのかについて説明しよう。

惟喬親王は京都嵐山の法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったという伝説がある。

法輪寺 ライトアップ

法輪寺

 そして、私は先ほど次のようなことを述べた。

・喜撰法師の歌に「みろく(弥勒)」が読み込まれている。
・即身仏になるべく入定した人の目的は56億7000万年後に現れるとされる弥勒菩薩の聖業に参加することだった。
・喜撰洞は喜撰法師が即身仏となるべく入定した洞窟なのではないか。

即身仏になる際には、まず木食といって五穀をたち、木の実や皮を食べる修行をする。
こうすることによって体の脂肪が減る。
さらに入定する前に漆を飲む。
漆を飲むことで、胃の中に残った食物を吐いてしまう。
また漆には防腐作用があるため、死後腐りにくい体になるというのだ。

惟喬親王が法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったという伝説は、彼が入定して即身仏になったところから創作されたのではないか?

また陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神 
上の記事で、私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考察したが
小野小町は老衰し骨と皮だけの姿で現されることが多い。
私は京都の補陀落寺で小町老衰像を拝んだことがあるが、痩せて骨と皮ばかりの状態ではあるが骨が曲がっているということはない。
むしろ背筋がのび、骨格もしっかりしていて骨太な印象だった。
垂れ下がった乳房もあるようには見えなかった。(着物で隠れているだけかもしれないが。)
友人もこれは女には見えないと言っていた。

小町百歳像は惟喬親王が入定して即身仏となった姿ではないだろうか。

補陀落寺(小町寺) 紅葉

補陀落寺

⑩惟喬親王と轆轤の関係

惟喬親王は巻物が転がるのを見て轆轤を発明したという伝説もあり、轆轤がろくろ首に見えるところから、惟喬親王は髑髏本尊になったのではないかとも考えた。
髑髏本尊は身分の高い人のドクロを用いて作るほど霊力があるとされ、ドクロに和合水と漆を塗り重ねてつくる。
さきほども述べたように惟喬親王が虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったという伝説もある。

しかし小町老衰像を見ると、即身仏のように見えるので、惟喬親王は即身仏になったと考えたほうがいいかもしれない。
その場合、伝説が生じた経緯は次のようなものであると考えられるかもしれない。

木地師資料館 惟喬親王像  

木地師資料館の惟喬親王像
下の女性と男性が轆轤を使って器を作っている。


惟喬親王は漆を飲んで入定した。
  ↓
惟喬親王が虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説が創作される。
  ↓
漆は木地師が用いる茶碗に塗る。
  ↓
惟喬親王、木地師の祖とされる。
  ↓
惟喬親王、轆轤を発明したという伝説が創作される。

即身仏になるため入定する際、漆を飲むのだが、「漆のお茶を飲む」と記されたサイトもあった。
漆の木に傷をつけると樹液がでてくる。これに顔料を加えて色をつけ、漆器などに塗り重ねるのだが
もともとの漆の樹液は乳白色である。
しかし、すぐに酸化して茶色くなる。その色はほうじ茶のような色である。

戦国武将たちは茶の湯をたしなんだが、それは茶の湯に入定する際に飲む漆のイメージがあったからかもしれない。
 
前回、前々回の記事で、私は大友黒主は黒い神、小野小町は白い神と書いた。
陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神 
陰陽 黒と白⑪大友家持、白い神から黒い神に転じる? 

陰陽道では黒は陰で、白は陽である。
また陰陽道で生死を表すと、死が陰で、生が陽である。

大友黒主は死後藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、死体が掘り返されて流罪となった。
大友黒主の死体は腐っていたことだろう。

そして小野小町=小野宮=惟喬親王が喜撰洞に入定したのならば、腐らない体の即身仏となっていた可能性が高い。

つまり大友黒主は死んで腐った神、小野小町=小野宮=惟喬親王は即身仏となって腐らない神ということではないだろうか。
そして腐らない即身仏は永遠の命を持つ神、生きている神として信仰されたのではないかと思う。

小野小町像 
髄心院 小野小町像


陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると?  へつづく~
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陰陽 黒と白① 獏は白黒モノトーン  


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[2018/10/16 20:56] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)

陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神 

祇園祭 黒主山 御神体

祇園祭 黒主山 ご神体(大友黒主)

陰陽 黒と白⑪大友家持、白い神から黒い神に転じる?  よりつづきます~

①大友黒主は黒い神、小野小町は白い神。

「六歌仙の一、大友黒主は大伴家持ではないか」
「大伴家持主は白い神から黒い神に転じて大友黒主となったのではないか」
前回私はそう書いた。
陰陽 黒と白⑪大友家持、白い神から黒い神に転じる? 

そして六歌仙の中には白い神もいる。
小野小町だ。

小野小町像 
髄心院 小野小町像

②百引く1は白

なぜ小野小町は白い神だといえるのか。

それは、紀貫之が書いたと言われる伊勢物語にこんな話があるからだ。

昔、色気づいた女が三人の子に「思いやりのある男にお会いしたい」と話した。
三男は「よい男が現れるでしょう」と夢判断をし、在五中将(在原業平)に頼み込んだ。
在五中将は女をかわいそうに思ってやってきて寝た。
しかしその後、在五中将は女のもとへやってこなくなり、女は男の家に行って中を伺った。
男は女をちらっとみて歌を詠んだ。
ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)

その後、男がでかけようとしたので、女は家に戻って横になった。
在五中将が女の家の前で中を伺うと、女は次のように歌を詠んだ。

さむしろに 衣かたしき こよひもや こひしき人に あはでのみねむ
(狭いむしろに衣を一枚だけ敷き、今宵も恋しい人に会えずに寝るのだろうか。)

在五中将は女がかわいそうになり、その夜は女と寝た。

伊勢物語には単に「色気づいた女」とあるが、伊勢物語の注釈書『知顕集』には次のように記されている。
「このをんなは、をののこまちなり。小野小町とふ、こまちには子ありともきかぬに、三人ありといへり。いかなる人の子をうみけるぞや、おぼつかなし。」
(この女は小野小町である。小野小町に子供があったとは聞いたことがないが、三人の子がいるとしている。どんな人の子を産んだのかはっきりしない。)

業平が詠んだ歌に注目してほしい。

ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)

つくも髪は九十九髪と記し、白髪のことである。
そのココロは、「100-1=99」であり、「百引く一は白」だからである。うまい、座布団2枚!



白峯神宮 小町踊

白峯神宮 小町踊り

③小野小町は男だった?

私は小野小町とは男だと考えている。

こちら ↓ のシリーズにその理由を詳しく書いたのだが、簡単にまとめておこう。
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html

①古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌がたくさんある。

②六歌仙とは古今和歌集仮名序で名前を挙げられた6人の歌人のことを言うが、古今和歌集仮名序は紀貫之が書いたと言われている。
この紀貫之は「土佐日記」で「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と自分は男であるが、女であると偽って日記を書くような一筋縄ではいかない人物だった。

③古今和歌集仮名序には次のようにある。
「小野小町は いにしへの衣通姫の流なり あはれなるやうにて強からず いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし」
やけに小町が女であることを強調しすぎてはいないだろうか。

④小野小町は穴がない体だったという伝説がある。
穴がない体とは男であるということではないのか。

⑤六歌仙とは歌のうまい歌人というのは現代人の誤解だと思う。
高田祟史さんは六歌仙は全員藤原氏と敵対していた人物であると指摘し「六歌仙は怨霊である」とおっしゃっている。

⑥六歌仙のうち、遍照・在原業平は惟喬親王の歌会のメンバーである。
また惟喬親王の歌会には紀有常(惟喬親王の叔父)も参加しているが、六歌仙の一・喜撰法師は紀有常だとする説がある。

惟喬親王は文徳天皇の第一皇子母親は紀有常の妹の紀静子だった。
文徳天皇より立太子が望まれていたが、世継ぎ争いに敗れ、藤原良房の娘・明子を母親にもつ惟仁親王(のちの清和天皇)が立太子している。

遍照・在原業平・紀有常らは歌会と称して惟喬親王を担ぎ上げてのクーデターを計画していたのではないかといわれている。

⑦惟喬親王は小野宮という広大な邸宅に住み、自身も小野宮と呼ばれていた。
小野小町とは小野宮=惟喬親王のことではないのか?

⑧三国町は一般には三国氏出身の女性だと考えられているが、『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣(紀種子・・・紀静子の姉)としている。
また三条町は惟喬親王の母親・紀静子のことである。どうやら紀氏の女性を「町」と呼んでいるようである。
惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
そのため惟喬親王が女の身になって詠んだ歌の作者を小野小町としたのではないか。

⑨小野小町の歌「花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに」は
「花の色は 移りにけりな いたづらに わが御代に下(ふ)る 長雨せしまに」ではないか。
「御代」とは「天皇の治世」で「わが御代」とは「私が天皇となって治める世の中」となる。
「長雨」は「長天」にかかり、「下長天」で漢字を入れ替えると「長天下(長い天下)」となる。
「わが御代が長い天下となるだろう」と堂々と歌い上げることができる人物として、惟喬親王はふさわしい。

髄心院 薬医門 桜2

小野小町の邸宅跡とつたわる髄心院

惟喬親王には兼覧王という男子と三条町(叔母と同じ名前だが?)がいたらしいが、兼覧王は仁明天皇の第六皇子・国康親王の子ともされ、出自がはっきりしない。
ただ紀貫之は兼覧王に面会して感激したということが古今和歌集に記されている。
いうまでもなく紀貫之は紀氏の出身であり、紀氏の血をひく惟喬親王のことは敬愛していたことと思われる。
なので彼が、兼覧王の面会に感激したというのは、兼覧王が惟喬親王の子だからではないかと思ったりもする。

惟喬親王像 

惟喬親王像 木地師の里


また、小町が惟喬親王だとすれば、業平が惟喬親王と寝たというのは、男色である。
しかし日本において男色はふつうのこと、というより衆道と呼ばれるたしなみであった。
戦国武将の男色は有名だが、平安時代の藤原頼長の日記「台記」には頼長が稚児・舞人・武士・貴族たちとの男色が記されている。

大友家持=大友黒主は、はじめは白い神だったが、のちに黒い神に転じたと思われる。
ところが、小野小町には黒のイメージはなく、ずっと白い神であったようである。
両者の違いはどこにあるのか。

次回はそれを考えてみようと思う。


髄心院 小野小町

ライトペインティングのジミー西村さんと織物会社が共同制作したタペストリー(髄心院)


陰陽 黒と白 ⑬『惟喬親王、入定して紀仙法師となる?』 へつづく~
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[2018/10/06 22:27] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)

陰陽 黒と白⑪大友家持、白い神から黒い神に転じる? 



陰陽 黒と白⑩ 大友黒主の正体は大伴家持だった? よりつづきます~。


祇園祭 黒主山 御神体

祇園祭 黒主山 ご神体(大友黒主)


①大友黒主の正体は大伴家持だった?

前回の記事、陰陽 黒と白⑩ 大友黒主の正体は大伴家持だった? で、大友黒主とは大伴家持のことではないかと書いた。

その理由を簡単にまとめておこう。

a.古今和歌集真名書に『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』とあるが、百人一首で猿丸太夫は5番で、その次の6番は大伴家持である。(百人一首のそれぞれの歌には1~100までの番号がふられている。)

b.大友黒主と大伴家持はよく似た歌を詠んでいる。

白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)

白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。)


c.大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座したとして、死後、墓から死体が掘り出されて子孫とともに流罪となっている。
大伴家持の死体は腐敗し、蛆がたかったような状態であったのではないだろうか。

真名序に『(大友黒主は)頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。』とあるが、逸興とは「死体が掘り出されたこと」、『鄙し』は『死体が腐って卑しい」という意味ではないか。

d.http://www.sogi.co.jp/sub/kenkyu/itai.htm
上記サイトによれば、死体は次のように変化するという。

腹部が淡青藍色に変色(青鬼)
   ↓
腐敗ガスによって膨らみ巨人化。暗赤褐色に変色。(赤鬼)
   ↓
.乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)
   ↓
骨が露出

鬼という漢字は死者の魂をあらわすものだとされる。
大伴黒主という名前は、家持の死体が黒鬼のような状態になっていたところからつけられたのではないか。

e.小野小町と大伴黒主が宮中で歌合をすることになった。
歌合せの前日、大伴黒主は小町の邸に忍び込み、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きした。

蒔かなくに 何を種とて 浮き草の 波のうねうね 生ひ茂るらん
(種を蒔いたわけでもないのに何を種にして浮草が波のようにうねうねと生い茂るのでしょうか。)

当日、紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らが列席して歌合が始まった。
小町の歌は天皇から絶賛されるが、黒主が小町の歌は『万葉集』にある古歌である、と訴えて、万葉集の草紙を見せた。
ところが小町が草紙に水をかけると、その歌は水に流れて消えてしまった。
黒主は昨日盗み聞いた小町の歌を万葉集の草紙に書き込んでいたのだった。
策略がばれた黒主は自害を謀るが、小町がそれをとりなして和解を祝う舞を舞う。(草紙洗い)


大伴家持は優れた歌人であり、万葉集を編纂した人物でもあった。
そして謡曲・草紙洗に登場する家持以外の歌人、小野小町・紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らは古今和歌集の歌人である。
『草紙洗い』において、大友黒主=大伴家持は万葉集の中に小町の歌を書き入れているが、
『書き入れる』というのは『編纂する』という意味で、誰にでもできることではない。
万葉集を編纂した大伴家持(大友黒主)だからこそ小町の歌を万葉集に書き入れることができたというのが『草紙洗い』のテーマではないか。
小野小町は「私は『古今和歌集』の時代の歌人なので、私の歌を『万葉集』に書き入れることはできませんよ」と大伴家持を諭したということ話なのではないか。

f.今上天皇に仕える臣下が桜を見ようと江州志賀の山桜を見ようと山道を急いでいたところ、薪に花を添え花の陰に休む老人と男に出会った。
この老人が大友黒主で、和歌の徳を語って消え去るが、臣下の夢の中に現れて舞を舞う。(志賀) 


黒主は和歌の徳を説いているが、これなども万葉集を編纂した大伴家持にふさわしい行為だといえるのではないか。

一言主神社 一陽来復祭

一言主神社 一陽来復祭に登場した赤鬼・青鬼・黒鬼

②かささぎの 渡せる橋に 置く霜の

猿丸太夫(5番)の次に大伴家持(6番)の歌をもってきた藤原定家は、古今集真名書の『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』の意味をわかっていたのだろう。

その藤原定家は百人一首に大伴家持の次の歌を採用している。

かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける/大伴家持
(年に一度、天の川に鵲が橋をかけ、その橋を渡って牽牛と織姫が逢瀬を楽しむという。その橋のようにみえる宮中の階段に白い霜がおりているところを見ると、もうすっかり夜がふけてしまった。)


「宮中の階段に霜がおりているのを天の川にかかる橋に見立てた」ととるのは、
『大和物語』百二十五段の壬生忠岑の歌で御殿の御階(みはし)()を「かささぎのわたせるはし」によって喩えていることによるもので、賀茂真淵が唱えた。

「霜の白き」は天上に輝く星が白いのを霜に喩えたとする説もある。

観音山公園 牽牛 七夕飾り

中山観音寺跡 牽牛と七夕飾

③男女双体は荒魂を御霊に転じさせる呪術

まずポイントとして押さえておきたいのは、この歌が天の川伝説、すなわち牽牛と織姫が年に一度の逢瀬を楽しむとされる七夕に関する歌だということである。

牽牛と織姫が逢瀬を楽しむというのは、男女が和合するということだ。

仏教の神・歓喜天は男女が和合したおすがたをしておられ、次のような伝説がある。

鬼王ビナヤキャは祟りをもたらす神であった。
そこへ十一面観音の化身であるビナヤキャ女神があらわれ、鬼王ビナヤキャに「仏法守護を誓うならあなたのものになろう」と言った。
鬼王ビナヤキャは仏法守護を誓い、ビナヤキャ女神を抱いた。




動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

↑ 相手の足を踏みつけている方がビナヤキャ女神である。

この物語は、御霊・荒魂・和魂という概念をうまく表していると思う。

神はその現れ方で、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるといわれる。
そして荒魂は男神を、和魂は女神を表すとする説があるのだ。
すると神の本質である御霊とは男女双体と言うことになると思う。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・男神
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・女神

男女和合は荒魂を御霊に転じさせる呪術だったのではないだろうか。

そして鬼王ビナヤキャを牽牛、ビナヤキャ女神を織姫に置き換えてもいいだろう。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・牽牛・・・男神
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・織姫・・・女神


つまり、牽牛と織姫の逢瀬は、荒魂を御霊に転じさせる呪術であったのではないか、ということである。

④白黒コントラストの鳥・鵲

次に注意したいのは、鵲という鳥についてである。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

上の動画を見ればわかるとおり、鵲はくっきりした白黒のコントラストを持つ鳥であり、太極図を思わせる。

File:Yin and Yang.svg

太極図

ウィキペディア(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yin_and_Yang.svg?uselang=ja) よりお借りしました。
ありがとうございます。

太極図とは「陰が極まれば陽となり、陽が極まれば陰となる」という道鏡の考え方をあらわすもので
白は陽、黒は陰とされる。

男は陽、女は陰とされるので、男が白=荒魂で、女が黒=和魂だろう。
そう考えると、太極図は歓喜天を図案化したものだと言っていいかもしれない。

さきほど、男神は荒魂で女神は和魂とする説があるといったが、荒霊を白、和魂を黒であらわすこともあったのではないだろうか。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・牽牛・・・男神・・・・陽?・・・白?
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・織姫・・・女神・・・・陰?・・・黒?


機物神社 七夕飾り

機物神社 七夕祭

⑤霜は死体に振られた塩をあらわす?

さらに「置く霜の」という語にも注意したい。
日本書紀に「トガノの鹿」という物語がある。

仁徳天皇が皇后と涼をとっているとトガノの方から鹿の鳴き声が聞こえてきた。
天皇はその鹿の鳴き声をしみじみと聞いていたが、あるとき急に鳴き声がしなくなった。
翌日、佐伯部が天皇に鹿を献上したが、その鹿は天皇が夜な夜な鳴き声を聴くのを楽しみにしていた鹿だった。
気分を悪くした天皇は佐伯部を安芸の渟田に左遷した。

雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。
雌鹿は夢占いをして、
『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』
と答えた。
翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。

鹿の夏毛には白い斑点がある。この斑点を霜や塩に喩えたのだろう。

そして、謀反の罪で死んだ人には塩が振られることがあり、鹿は謀反人を比喩したものではないかとする説がある。
藤原種次暗殺事件の首謀者として死体が掘り出され、流罪となった大伴家持はまさしく謀反人である。

大仏殿 鹿

東大寺大仏殿 鹿

⑤白い神だったはずなのに黒い神になってしまった大伴家持

家持の歌を私流に現代語訳してみよう。

かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける/大伴家持

まるで太極図のように見える鵲。
また鵲は白い神(荒霊)と黒い神(和霊)が和合しているかのようにも見える。
その鵲が天の川に橋をかけ、年に一度牽牛と織姫が逢瀬を楽しむ。

鬼王ビナヤキャは祟るのをやめて仏法守護を誓いビナヤキャ女神を抱いた。
歓喜天は鬼王ビナヤキャとビナヤキャ女神の男女双体の神で、歓喜天は鬼王ビナヤキャがビナヤキャ女神の性的魅力によって骨抜きにされ、祟る力を失ってしまったの図なのだ。
この歓喜天と同じく、牽牛は織姫の性的魅力によって骨抜きにされ、祟る力を失ってしまう。
それが七夕なのだ。
(牽牛は牛をひく童子である。牛=丑、また童子は八卦で艮/丑寅の符である。丑寅は方角では鬼がやってくる方角、鬼門である。よって牽牛は祟りをもたらす鬼と考えられる。)

その天の川に鵲がかける橋のように見える宮中の階段に霜が白く輝いている。

霜は日本書紀のトガノの鹿を思わせる。
鹿は全身に霜が振る夢を見るが、霜だと思ったのは実は塩で、鹿は殺されて塩漬けにされているのだった。
謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあった。
鹿は謀反人の喩えである。
藤原種継暗殺事件の首謀者だと疑われている私(大伴家持)もまた謀反人である。

宮中に降りた霜がこんなにも白く見えているということは、私はすでに死んで夜の世界にいるということなのだろう。
そして私は鵲に似た太極図があらわすように、陽が極まって陰となり、白い神(荒魂)から黒い神(和魂)へと変わっていくのだ。


わずか31文字の中に、太極図、天の川伝説、トガノの鹿の伝説なども想像させ、実に味わい深い歌である。

白峯神宮 小町踊2

白峯神宮 小町踊(七夕に小町踊を踊る風習があった。)

⑥著作権がなかった古の和歌


秋の田の  仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。)


天智天皇が詠んだこの歌はもともとは万葉集の詠み人知らずの歌であるが、天智天皇が詠むにふさわしい歌だということで
天智天皇御作とされている。

同様に、「かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」も、家持が詠んだ歌ではないが家持が詠むにふさわしい歌ということで家持が詠んだ歌とされたのかもしれない。

この歌が家持自身が詠んだものでまちがいなければ、家持の発する言葉にはとんでもない言霊があって、言葉が実現してしまったということになるかもしれない。

穂谷 稲穂

枚方市穂谷

⑦大友黒主はなぜ黒い神なのか?

⑤に記した現代語訳で、「白い神」とは大伴家持、「黒い神」とは大伴黒主のことである。

大伴家持はすでに死んで埋葬されていたにもかかわらず、藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、死体が掘り出され、その死体は流罪となった。

http://www.sogi.co.jp/sub/kenkyu/itai.htm
上記サイトによれば、死体は次のように変化するという。

腹部が淡青藍色に変色(青鬼)
   ↓
腐敗ガスによって膨らみ巨人化。暗赤褐色に変色。(赤鬼)
   ↓
.乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)
   ↓
骨が露出

掘り出された家持の死体は黒鬼となっていたため、家持は大友黒主とよばれたのではないかと私は推理しているのだ。

しかし、つじつまの合わない点がある。
性別天体光度天気生死
女(和魂?)
男(荒魂?)太陽

大伴家持は男なので陽、白い神といってもいいが、同一人物だと考えられる大友黒主は、黒い神である。
黒は陰をあらわし、性別では女性を表す。

これはいったいどういうわけだろうか?

法輪寺 針供養

虚空蔵法輪寺 針供養 織姫

陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神 へつづく~
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陰陽 黒と白① 獏は白黒モノトーン  


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[2018/09/26 20:18] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)

陰陽 黒と白⑩ 大友黒主の正体は大伴家持だった? 

祇園祭 山鉾巡幸 黒主山2


祇園祭 黒主山

陰陽 黒と白⑨ 白鳥は生霊、黒鳥(八咫烏)は死霊?  よりつづきます~

①草紙洗い

7月17日、祇園祭山鉾巡行。(写真は過去のもので、現在、黒主山は 7月24日の後祭で巡行)
祇園囃子の音色とともに山鉾が、大路をがゆっくりと進んでいく。
豪華な装飾品で飾り立てられた山鉾のようすから、山鉾巡幸は『動く美術館』とも称される。
そんな山鉾の中に、桜を見上げるひとりの老人をご神体とする山がある。
黒主山である。

祇園祭 黒主山 御神体

黒主山 御神体

謡曲に志賀という演目がある。黒主山はその謡曲・志賀をモチーフとした山である。

今上天皇に仕える臣下が桜を見ようと江州志賀の山桜を見ようと山道を急いでいたところ、薪に花を添え花の陰に休む老人と男に出会った。
この老人が大友黒主で、和歌の徳を語って消え去るが、臣下の夢の中に現れて舞を舞う。(志賀)


桜を見上げる老人は六歌仙の一人、大伴黒主だったのである。

大友黒主が登場する謡曲には『志賀』の他にも『草紙洗い』という演目がある。

小野小町と大伴黒主が宮中で歌合をすることになった。
歌合せの前日、大伴黒主は小町の邸に忍び込み、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きした。

蒔かなくに 何を種とて 浮き草の 波のうねうね 生ひ茂るらん
(種を蒔いたわけでもないのに何を種にして浮草が波のようにうねうねと生い茂るのでしょうか。)

当日、紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らが列席して歌合が始まった。
小町の歌は天皇から絶賛されるが、黒主が小町の歌は『万葉集』にある古歌である、と訴えて、万葉集の草紙を見せた。
ところが小町が草紙に水をかけると、その歌は水に流れて消えてしまった。
黒主は昨日盗み聞いた小町の歌を万葉集の草紙に書き込んでいたのだった。
策略がばれた黒主は自害を謀るが、小町がそれをとりなして和解を祝う舞を舞う。(草紙洗い)


志賀では和歌の徳を説く神として登場し、草紙洗いでは小野小町の邸に忍び込む卑怯な男として登場する大伴黒主。
いったい、彼はどのような人物だったのか。

祇園祭 山鉾巡幸 黒主山

祇園祭 黒主山


②大友黒主は古の猿丸大夫の次なり

大伴黒主は遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町らとともに六歌仙の一である。
六歌仙とは「古今和歌集仮名書」において、名前をあげられた6人の歌人のことをいう。
古今和歌集仮名書とは仮名で記された古今和歌集の序文で、紀貫之が記したと考えられている。
ただし、仮名序やには六歌仙という言葉は使われていない。
後の世になって真名序及び 仮名序に名前をあげられた六人の歌人のことを六歌仙というようになったと考えられている。

古今集仮名書は大友黒主について次のように記している。

大友黒主は そのさまいやし
いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし

(大友黒主はその様子が賎しい。
薪を背負う山人が花の影に休んでいるかのようだ。)


『滋賀』では大友黒主は花(桜)の影に休む老人として登場するが、それはこの古今和歌集仮名書の文章を受けたものだと考えられる。

大友黒主は大伴黒主とも記され、小説家の井沢元彦氏は政治的に不幸だった大伴一族の霊のことではないかと言っておられる。

大伴家持は藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、すでに死亡していたのだが、死体が掘り返されて流罪となった。
子の永主や大伴継人も隠岐へ流罪となった。
その後、応天門の変によって伴善男らが失脚するなどして、大伴氏は歴史の表舞台から姿をけした。
(※淳和天皇の名前が大伴親王だったので、これに憚って大伴氏は伴と氏を改めていた。)

古今集には仮名書のほかにもうひとつの序文「真名序」とよばれる漢文で記された序文がある。
仮名序は紀貫之が、真名序は紀淑望(きのよしもち)が書いたとされている。
仮名序と真名序の内容はほとんど同じだが、微妙に表現が違っている箇所もある。

たとえば、仮名書では

大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。
となっているが、真名序は次のようになっている
大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。(読み下し文)

真名序に『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』 とある。
これはどういう意味だろうか。

仮名序を書いた紀貫之は古今伝授の創始者であるという。
古今伝授とは紀貫之より代々伝えられた和歌の極意のことで、伝授する人物は和歌の第一人者に限られ、伝授の方法は主に口頭で行われた。
和歌の極意を文章に記さず口頭で伝えるのは、情報が漏洩しないようにするためだろう。

鎌倉時代には藤原定家が、父親であり師匠であった藤原俊家から古今伝授を受けている。
百人一首のそれぞれの歌には1から100までの番号が振られている。
もしかしたら定家は『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』という仮名序の文章を受けて、百人一首において大友黒主の正体を明らかにしているのではないか、と思ったのだ。
つまり、猿丸大夫の次の歌人が、大友黒主ではないかと。

八坂神社 かるた始め 

八坂神社 かるた始め

私は百人一首を調べてみた。
百人一首では猿丸大夫は5番だった。
その次・・・6番は大伴家持だった!

また大友黒主と大伴家持はよく似た、というよりもほとんど同じ歌を詠んでいるのだ。

白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)

白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。)


古歌の語句・発想・趣向などを取り入れて新しく作歌する手法のことを『本歌取り』という。
本歌取りで大切なのは、古い歌をベースにしながら、あくまでもオリジナリティのある歌を詠むことである。
大伴黒主の歌は大伴家持の歌とほとんど同じ意味なので、本歌取りではない。

ほとんど同じと思われるふたつの歌の、一方は大伴黒主、一方は大伴家持の歌であるという。
このことからも、ふたりは同一人物ではないかと思われる。

大伴氏は武力で天皇家に仕える家柄だった。
仮名序にある『薪負へる山びと』とは、矢を負う姿を喩えたものではないだろうか。

また大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座したとして、死後、墓から死体が掘り出されて子孫とともに流罪となっている。
大伴家持の死体は腐敗し、蛆がたかったような状態であったのではないだろうか。
仮名序の 『大友黒主は そのさまいやし』というのは墓から掘り出された死体の様子を言っているのではないだろうか。

真名序に『頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。』とあるが、逸興とは死体が掘り出されたことを言っているのだろう。
『鄙し』の『鄙』は①田舎 ② いなかっぽい。ひなびている。つまらなく卑しい、などの意味がある。
『体甚だ鄙し』とは掘り出された死体がひなびている(田舎っぽい)、または卑しいということか。 

 一言主神社 一陽来復祭

一言主神社 一陽来復祭の鬼の舞

③青鬼・赤鬼・黒鬼


死体が掘り返された大伴家持の遺体はどのような状態だったのだろうか。

http://www.sogi.co.jp/sub/kenkyu/itai.htm
上記サイトによれば、死体は次のように変化するという。

a.腹部が淡青藍色に変色(青鬼)
   ↓
b.腐敗ガスによって膨らみ巨人化。暗赤褐色に変色。(赤鬼)
   ↓
c.乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)
   ↓
d.骨が露出


そしてこの死体の変化が青鬼・赤鬼・黒鬼の正体ではないかというのだ。

鬼という漢字は死者の魂をあらわすものだとされるので、この説はなるほどもっともだと思わせる。

一言主神社 一陽来復祭

一言主神社 一陽来復祭に登場した鬼たち

大伴黒主という名前は、家持の死体がcの段階まで進み、黒鬼のような状態になっていたところからつけられたのではないだろうか。

●万葉集を編纂した大伴家持 

大伴家持は優れた歌人であり、万葉集を編纂した人物でもあった。
そして草紙洗に登場する家持以外の歌人、小野小町・紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らは古今和歌集の歌人である。

『草紙洗い』において、大友黒主=大伴家持は万葉集の中に小町の歌を書き入れているが、
『書き入れる』というのは『編纂する』という意味で、誰にでもできることではない。
万葉集を編纂した大伴家持(大友黒主)だからこそ小町の歌を万葉集に書き入れることができたというのが『草紙洗い』のテーマなのだと私は思う。

そして小野小町は「私は『古今和歌集』の時代の歌人なので、私の歌を『万葉集』に書き入れることはできませんよ」と大伴家持を諭したということだろう。

つまり、大伴家持はタイムスリップして後世に現れたという設定なのである。

また『志賀』において、黒主は和歌の徳を説いているが、これなども万葉集を編纂した大伴家持にふさわしい行為だといえるのではないだろうか。

祇園祭 黒主山 提灯

祇園祭 黒主山

 
陰陽 黒と白⑪大友家持、白い神から黒い神に転じる? へつづく~
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[2018/09/21 19:04] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)

陰陽 黒と白⑨ 白鳥は生霊、黒鳥(八咫烏)は死霊? 




陰陽 黒と白⑧ 八咫烏が三本脚なのは三人のタラシの象徴だから? よりつづく~


住𠮷祭 神輿3

住吉大社

①住吉明神はみたらし星の神?

住吉大社の境内には同じ大きさ、同じ作りの社が四つあり、そのいずれもが本宮とされている。
奥から、

第一本宮・・・底筒男命 (そこつつのをのみこと)を祀る
第二本宮・・・中筒男命 (なかつつのをのみこと)を祀る
第三本宮・・・表筒男命 (うわつつのをのみこと)を祀る
第四本宮・・・息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと)を祀る

第一本宮・第二本宮・第三本宮は北から南に一直線に並んでいるが、第四本宮は第三本宮の東にある。
http://www.sumiyoshitaisha.net/cmn/pdf/map.pdf

その社の配置がみたらし星の配置に似ており、住吉明神はみたらし星の神ではないかとする説がある。 
みたらし星とはオリオン座の三ツ星の和名である。
 住吉大社
 
②底筒男命・中筒男命 ・表筒男命=景行天皇・成務天皇・仲哀天皇?

住吉大社の第四本宮は14代仲哀天皇の皇后・神功皇后=息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと)をお祀りしている。

第一本宮、第二本宮、第三本宮に祀られている底筒男命・中筒男命 ・表筒男命とは、
12代景行天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
13代成務天皇(わかたらひこのみこと)
14代仲哀天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)のことなのではないかと私は考えた。

どの天皇がどの神に対応するのかはわからないが。

景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后は和風諡号に「たらし」とあるところから、「タラシ王朝」とよばれることもある。
住吉明神とはタラシ王朝の天皇と皇后を祀っているのではないかという推理だ。

住吉大社 第四本宮14代仲哀天皇の皇后/神功皇后=息長姫命 (おきながたらしひめのみこと)
住吉大社 第一本宮
     第二本宮
     第三本宮

底筒男命 12代景行天皇=大彦忍代別天皇・(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)?
中筒男命  13代成務天皇=稚彦尊(わかたらひこのみこと)?
表筒男命 14代仲哀天皇=仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)?
※ただし、どの天皇がどの神に対応するのかわからない。

①で、住吉明神とはみたらし星の神とする説があることを書いた。
つまり、住吉明神=みたらし星=タラシ王朝の天皇と皇后
ということになる。

住𠮷祭 神輿2

住吉祭

③下鴨神社の御手洗祭は三足祭?

みたらし星から連想するのは、京都・下鴨神社で土用の丑の行事として行われている御手洗(みたらし)祭である。

下鴨神社の御手洗祭では神前にみたらし団子と素麺をお供えする。

下鴨神社 みたらし祭-お供え

このみたらし団子はみたらし星(オリオン座の三ツ星/実際には小さい星があって四個の星で構成されている。)を模したものだと思う。
「みたらし星は四個の星から構成される、だけど、みたらし団子は5個櫛に刺さっているじゃないか」といわれるかもしれない。
しかし、よくみるとみたらし団子は4個の団子がくっついており、1個は隙間があいている。
1個だけ離れている団子が何を意味しているのかわからないが、くっついた4個の団子はみたらし星のを構成する星の数と同じである。

みたらし団子がみたらし星を模したものだと考える理由は他にもある。
それは御手洗祭が土用の丑の行事だからである。

陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考える。
季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水と考えられた。
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割り振られた。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にあるのである。

そして土用の丑とは、冬の水性で夏の火性を緩和する行事だと考えられる。
本来鰻の旬は冬である。
その鰻を夏の土用の丑の日に食べるのは、冬の水性(鰻)で夏の火性を緩和するという意味があるのではないだろうか。

さきほども述べたように、みたらし星とはオリオン座の三つ星(実際には四つ星)のことであるが、オリオン座は冬の星座である。
すなわち、神前に冬(水性)の星・みたらし星をお供えすることで、夏の火性を緩和するのが御手洗祭の意味ではないかと思うのだ。

また御手洗祭では露店でみたらし団子も売られていたので、鰻のようにみたらし団子を食して、夏の火性を緩和するという習慣もあったのではないだろうか。
もちろん神前にお供えしたみたらし団子は撤饌として、ありがたく食べるのだろう。

下鴨神社 みたらし祭3

下鴨神社の御手洗祭は、御手洗というが、手ではなく足を水につけて身を浄める。
足と書いて『たらし』とよむ。
御手洗祭と書くが、本当は三足祭なのではないだろうか。

三足祭だとするのが正しいとすると、御手洗祭とは、みたらし星の神である住吉明神のうち、三柱の男神、底筒男命・中筒男命・表筒男命=三人のタラシの祭なのではないか。

三人のタラシとはもちろんタラシ王朝の天皇、すなわち
12代景行天皇=大彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
13代成務天皇=稚彦尊(わかたらひこのみこと)?
14代仲哀天皇=仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)
のことである。


下鴨神社 みたらし祭 足形


④三本脚の八咫烏は三人のタラシを表している?

御手洗祭が行われる下鴨神社の御祭神は賀茂健角身命で、八咫烏は賀茂健角身命の神使とされる。
賀茂健角身命=八咫烏と考えても差し支えないだろう。
八咫烏とは三本足のカラスである。

上賀茂神社 八咫烏

この賀茂健角身命=八咫烏を祀る下鴨神社で御手洗祭(三足祭?)を行っているのはなぜか?
賀茂健角身命=八咫烏とは三人のタラシ、12代景行天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・13代成務天皇(わかたらひこのみこと)・14代仲哀天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)が合体した神なのではないだろうか?
それで、八咫烏は三本足だとされているのではないだろうか?

下鴨神社 みたらし祭


⑤三人のタラシは死霊だった。


④までは前回の記事のまとめである。陰陽 黒と白⑧ 八咫烏が三本脚なのは三人のタラシの象徴だから? 
これをふまえて次に進もう。

熊野三山では、カラスはミサキ神とされているそうである。
ミサキ神とは死霊が鎮められたもののことであるが、ミサキ神は死霊であるといってもいいだろう。
なぜなら鎮められてミサキ神となる前は死霊だったからである。

八咫烏は熊野大神(スサノオ)に仕える存在とされる。

スサノオは根の国(死の国)王である。
そのスサノオに仕える八咫烏もまた死霊だと考えらえるだろう。

陰陽道では万物は陰陽両面を持つと考える。
生死を陰陽で表すと、生が陽、死が陰である。
性別天体光度天気生死
太陽

また陽は白、陰は黒で表される。

Yin yang

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AYin_yang.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg よりお借りしました。
作者 Gregory Maxwell [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

そういうわけで、黒いカラスは死霊、または死霊が鎮められたミサキ神であると考えられたのだと思う。

八咫烏=12代景行天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・13代成務天皇(わかたらひこのみこと)・14代仲哀天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)とすれば、
12代景行天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・13代成務天皇(わかたらひこのみこと)・14代仲哀天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)は死霊または死霊が鎮められたミサキ神だということになる。

下鴨神社 みたらし祭4

⑥足島大神は死霊、生島大神は生霊?


次に、生國魂神社について述べた二つの記事を思い出してほしい。

陰陽 黒と白⑥ 足島大神はタラシ王朝の神=物部王朝の神? 
陰陽 黒と白⑦ 足島大神はタラシ王朝の王で、生島大神はオキナガタラシヒメ(神功皇后)? 


生國魂神社の主祭神は生島(いくしま)大神・足島(たるしま)大神である。

足島大神とは、神名に「足」とあるので、

12代景行天皇・・・大彦忍代別天皇(オオタラヒコオシロワケノスメラミコト)
13代成務天皇・・・稚彦尊(ワカタラヒコノミコト)
14代仲哀天皇・・・仲彦天皇(タラナカツヒコノスメラミコト)

のことではないか。

また、14代仲哀天皇の皇后である神功皇后は、和風諡号を息長帯比売命(オキナガタラシヒメ)と言うが、この中にある「息」という漢字の読みは「生(いき)」と同音である。

息長帯比売命は生長帯比売命であり、生島大神なのではないかと考えた。

つまり、生國魂神社の神と住吉大社の神は同一神ではないかということである。

さらに、住吉大社の底筒男命・中筒男命・表筒男命 が景行・成務・仲哀の三人のタラシのことで、足島大神(足はタラシと読む)のことであり、八咫烏(黒鳥=死霊)のことであるとすれば、
白鳥とは、陽の鳥、生をあらわす鳥で息長帯比売命(息は生と同音)=神功皇后のことではないか。

島大神住吉大社 第四本宮神功皇后(仲哀天皇皇后)・・・長帯比売命/気長姫尊(おきながたらしひめのみこと)?
               と同音
生霊白鳥
島大神住吉大社 第一本宮/底筒男命
     第二本宮/中筒男命
     第三本宮/表筒男命
12代景行天皇・・・・・・・・・大彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)?
13代成務天皇・・・・・・・・・稚彦尊(わかたらひこのみこと)?
14代仲哀天皇・・・・・・・・・仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)?
死霊黒鳥
(八咫烏)

生玉夏祭 鳳輦

生國魂神社 生玉夏祭り

⑦生霊は生きていると信仰された神?

https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/46316_25542.html
上は青空文庫の「折口信夫 盆踊りの話」である。

ここに次のように記されている。
「しかし、古代の日本には死霊・生魂の区別がなく、生き御霊の祭(生きた魂を扱う)と死にみたまの祭(死霊を扱う)の二つを行っていた。」
「民衆はお盆には鯖や塩鯖をもって親や親方のところへ行った。 この行事を生き盆・生きみたまと言う。」

折口信夫さんのいう『生魂』とは、今実際に生きている人の魂のことで、それを親や親方に差し上げることを「生き盆」「生きみたま」であるとを言っているようである。

しかし生島大神は大昔から祀られている神であるので、現在生きている人の魂のようには思われない。
生島大神は「生きている」と信仰された神である可能性はあるだろう。

生島大神は、「生きていると信仰されている神」であるが、しだい「に生きている霊」と混同され、その結果、お盆に生きている親や親方のところへ行く行事(生き盆・生きみたま)が生じたと考えるとつじつまがあうように思えるがどうだろう?

生玉夏祭 獅子神楽

生國魂神社 生玉夏祭り

⑧生島大神は女神?

コトバンクは次のように生魂(いくむすび)の説明をしている。

生産日,生産霊とも書く。物を活発に産み出す霊力のこと。また,人間の生命を活発に栄えさせる霊力のこと。
https://kotobank.jp/word/%E7%94%9F%E9%AD%82-1145420 より引用

子供を産んで、生命を栄えさせるのは女性である。よって、生島大神は女神で、神功皇后=長帯比売命(息は生にかかる)と考えるのはつじつまがあっているようにも思える。

生玉夏祭 太鼓2

⑨白杖代は生島大神の御杖代?

 実は生玉夏祭りで、生島大神を表しているのではないかと思われるものを見つけていた。

生玉夏祭 白杖代 
白杖代である。

神や天皇の杖代わりとなって奉仕する者のことを御杖代(みつえしろ)という。白杖代も御杖代のひとつだと考えられるが、
陰陽道では生=陽=白、死=陰=黒なので
生國魂神社の御祭神・生島大神(神功皇后?白鳥?生霊)・足島大神(タラシ王朝の天皇?黒鳥?死霊?)のうち、白杖代は生島大神の御杖代だと考えられる。

⑩猿田彦は黒杖代?

それでは死霊と考えられる足島大神の御杖代もあるのか。
見落としている可能性もあるが、黒杖代は見かけなかった。

しかし、猿田彦が黒杖代だといえるかもしれない。

生玉夏祭 猿田彦


なぜなら、猿田彦と八咫烏はよく似ているからである。

猿田彦・・・天孫ニニギを高天原から葦原中國まで道案内した。
八咫烏・・・神武天皇を熊野から大和まで道案内した。

ニニギは神武天皇の曽祖父で、神武もニニギも天孫(ニニギは天照大神から3代目、神武は天照大神から6代目)という共通点がある。
ニニギ&猿田彦の話は、神武天皇&八咫烏の物語を神代に置き換えて創作したもののように思われるのだ。

もちろん、猿田彦は露払い役としてどこの神社の祭でも、行列を先導することが多い。

しかし、八咫烏=三人のタラシの象徴と考えたとき、ここ生國魂神社や住吉大社の行列を先導する猿田彦は、特別な意味を持っていそうにも思える。

住吉祭 猿田彦

住吉祭の行列を先導する猿田彦

⑪白杖代が少年なのは応神天皇をあらわしている?

私は白杖代とは生島大神=神功皇后の御杖代だと思うが、白杖代は少年である。
神功皇后は女性なのに、なぜ白杖代は少年なのだろうか。

神功皇后は仲哀天皇崩御後、三韓出兵した。
そして帰国後九州の宇美で応神天皇を御産みになられた。
その後、応神天皇は九州から畿内入りするのだが、そのルートが神武東征ルートと重なるので初代神武と15代応神は同一人物ではないかとする説がある。

応神天皇は仲哀天皇の子ではなく、武内宿祢の子ではないかともいわれている。
「武内宿祢」の「武」は「神武天皇」の「武」と同じで、武内宿祢と神武は同一人物であるようにも思われる。

また武内宿祢が応神天皇を角鹿につれていき、イザサワケ大神と応神天皇の名前を交換したという話もある。
この話は政権交代を比喩したもののように思える。

磐船神社 天の磐船

初代神武以前、ニギハヤヒが天下ったとされる大坂交野市の磐船神社

⑫王家の女性と結婚した者が王となる。


神武天皇以前に物部氏の祖神・ニギハヤヒが天下っていたという話もあり、神武天皇以前物部王朝があったとする説もある。

おそらく畿内には神武天皇以前に物部王朝があったのだろう。それが邪馬台国であり、大和朝廷の前身だと思う。
タラシ王朝は物部王朝だと思う。
神功皇后は物部王朝の女性であり、あとから畿内にやってきた天皇家の男性と結婚して子供を産んだのだろう。
そして、その天皇家の男の血をひく子供が、大和朝廷の王となったのではないか。
つまり、大和朝廷は物部王朝から天皇家の王朝になったのではないかということである。
これは政権交代である。日本は万世一系といわれるが、それは間違いだと思う。

神功皇后は天照大神のイメージとも重なる。
天照大神が女性であることについて、古代の日本は女性上位であったからだなどという意見も聞くが、そうではないだろう。
物部氏の祖神のニギハヤヒは別名を天照国照彦火明櫛玉饒速日命といい、この神が本当の天照大神だとする説がある。
物部王朝が大和朝廷であり、天照大神が物部王朝の神であり、天照大神の子孫が皇位につくべき、という掟があったとしたら
あとからやってきた天皇家の人物はどうすれば物部氏から政権を奪えるか。

天照大神を女神にして、自分が天照大神と結婚すれば、自分の血をひく子孫が皇位につくことができる。
古代エジプトでは王家の女性と結婚した者が王となることがあったと聞くが、同じようなことが日本でもあったのではないだろうか。

こうして物部氏より政権を奪った天皇家は、自分たちが物部氏の失敗をおかさないように、ずっと男系で皇位継承している。
女性天皇もいたが、もと天皇の皇后がほとんどで、我が子に皇位を継承させるための中継ぎとしての即位だった。

独身で即位した女性天皇(元正・孝謙・明正・後桜町)が結婚が許されず生涯独身だったのも、ほかの氏族に皇位を奪われないようにするための対策であったと思う。

神功皇后が産んだ応神天皇とは、父方は天皇家、母方は物部王朝の血をひく人物をモデルに創作されたものではないだろうか。


神功皇后は物部王朝から天皇家に政権をつないだ女性ということで生島大神とされ、白杖代が少年なのは神功皇后が産んだ応神天皇をあらわしているのかもしれない。


崇神天皇陵 夕日 『卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命、男弟は大物主、狗奴国の男王は崇神天皇?』 

大鳥大社 神紋

大鳥大社のお賽銭箱の鳳の紋。


⑬ヤマトタケルは男性なのになぜ白鳥なのか?

そう考えても、まだ疑問が残る。

ヤマトタケルが白鳥となって飛び立ったという伝説だ。
陰陽 黒と白③ 大鳥大社 白鳥になって飛び立ったヤマトタケル  

生霊=生きていると信仰された神=女神と考えたが、ヤマトタケルは男である。

コトバンクは次のように生魂(いくむすび)の説明をしているのだった。

生産日,生産霊とも書く。物を活発に産み出す霊力のこと。また,人間の生命を活発に栄えさせる霊力のこと。

https://kotobank.jp/word/%E7%94%9F%E9%AD%82-1145420 より引用

女神は子供を産んで、いのちを活発に栄えさせる力がある。
ヤマトタケルは男なので子供は産めない。それなのに、なぜ彼は白鳥=生霊として信仰されたのか。

それとも、白鳥=生霊と結論づけるにいたった、積み重ねてきた思考のどこかに間違いがあったのか?


大鳥大社 花菖蒲

ヤマトタケルを祀る大鳥大社

陰陽 黒と白⑩ 大友黒主の正体は大伴家持だった? へつづく~
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陰陽 黒と白⑧ 八咫烏が三本脚なのは三人のタラシの象徴だから? 

陰陽 黒と白⑦ 足島大神はタラシ王朝の王で、生島大神はオキナガタラシヒメ(神功皇后)? よりつづく~
 
下鴨神社 みたらし祭

①「土用の丑」とは何か?

陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考える。
季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水と考えられていた。
季節は4つなので、木火土金水のうち土が余る。。
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割り振られた。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にあるのである。

陰陽五行説には『相生説』と『相克説』がある。

『相生説』とは、五行が対立することなく、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を生じていくという説である。

『木生火』・・・・・・木は摩擦により火気を生ずる。
『火生土』・・・・・・火は燃焼して灰(土)を生ずる。
『土生金』・・・・・・土は金属を埋蔵している。
『金生水』・・・・・・金属は表面に水気を生ずる。
『水生木』・・・・・・水は植物(木)を育てる。

『相剋説』は五行同士が相互に反発し、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を剋していくとする説をいう。

『木剋土』・・・・・・木は土中の栄養を奪う。
『土剋水』・・・・・・土は水の流れをせきとめる。
『水剋火』・・・・・・水は火を消す。
『火剋金』・・・・・・金属は火に溶ける。
『金剋木』・・・・・・金(斧など)は木を切り倒す。

『土用の丑』の習慣については、諸説あるが『水剋火』、すなわち夏の火性を冬の水性で緩和しようとするのが『土用の丑』の習慣だと考えてまず間違いないと思う。
 
下鴨神社 みたらし祭

②冬の食べ物を食べることは、夏の火性を冬の水性で緩和すること?

『土用の丑』には鰻を食べる習慣がある。

ところが、丑年生まれと寅年生まれは鰻を食べてはいけないなどと言われる。
その理由は丑寅年生まれの守り本尊は虚空蔵菩薩で、その虚空蔵菩薩の神使が鰻だからというのだ。
えーーーっ、ちょっとまってくださいよ!私だって鰻食べたいよ!(寅年生まれ)

本題にもどる。

夏の『土用の丑』に鰻を食べる習慣があるが、本来、鰻の旬は冬である。
そのため経営不振に陥った鰻屋に、平賀源内が『本日、土用の丑』と書いた紙を店先に貼るようにアドバイスしたというエピソードは有名だ。
その結果、鰻は飛ぶように売れたという。

冬の食べ物である鰻を夏に食べるということは、夏の火性を冬の水性で緩和することだといえる。
平賀源内のキャッチコピーは当時の人々に陰陽五行説の『水剋火(水=冬は火=夏を消す)』を思い起こさせる効果があったということだと思う。 

下鴨神社 みたらし祭-お供え

③ 御手洗祭はみたらし星の祭?

土用の丑の行事として、下鴨神社の『御手洗祭』がある。

土用の丑のころ、下鴨神社を参拝してみると、神前には『素麺』とともに『みたらし団子』が供えられていた。
また境内の出店でも『みたらし団子』が売られていた。
どうやらこの『みたらし団子』と『御手洗(みたらし)祭』には関係があるらしい。

下鴨神社のみたらし団子について、次のようないわれがある。 

後醍醐天皇が、下鴨神社の境内の御手洗池で水をすくうと、泡が1つ浮き上がった。
その後、しばらくして4つの泡が浮き上がってきた。
みたらし団子はこの水玉を模したもので、 一番上の団子は人間の頭を、他の四つは体を現しているといわれる。


しかし、私は上記のみたらし団子のいわれよりも、オリオン座の三ツ星がかつての日本では『みたらし星』と呼ばれていたことが気になる。

オリオン座の三つ星は三つ星の傍に小さい星があって、本当は三つ星ではなく四つ星である。
みたらし団子の伝説の、あとで浮き上がってきた四つの泡はみたらし星をあらわしているのではないだろうか。

そしてこれが肝心なのだが、オリオン座は冬の星座で、陰陽五行説では水性になる。
冬の星座であるオリオン座の三つ星を模したみたらし団子を食べることで、夏の火性を緩和しようとするのが『みたらし祭』の意味なのではないだろうか。

素麺は天の川ではないだろうか。天の川というと夏のイメージがあるが、冬にも天の川はみることができる。

下鴨神社 みたらし祭 足形 

④住吉明神はみたらし星の神?

大阪の住吉大社は現在では海の神として信仰されているがもともとは『みたらし星』の神だったのではないかとする説がある。

みたらし星(オリオン座の三ツ星)は、真東からのぼって真西に沈むので航海の指標とされていた。
海の神とはみたらし星の二次的な神格なのではないかと思う。

住𠮷祭 神輿3

住吉大社

住吉大社の境内には同じ大きさ、同じ作りの社が四つあり、そのいずれもが本宮とされている。
奥から、

底筒男命 (そこつつのをのみこと)を祀る第一本宮、
中筒男命 (なかつつのをのみこと)を祀る第二本宮、
表筒男命 (うわつつのをのみこと)を祀る第三本宮、
第三本宮の東が神功皇后=息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと)を祀る第四本宮

となっている。

その社の配置がみたらし星の配置に似ているというのだ。 
 住吉大社
 
⑮みたらし祭は三足祭?

住吉大社の第四本宮は14代仲哀天皇の皇后・神功皇后=息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと)をお祀りしている。
もしかして、第一本宮、第二本宮、第三本宮に祀られている底筒男命・中筒男命 ・表筒男命とは、12代景行天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)、13代成務天皇(わかたらひこのみこと)、仲哀天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)のことなのではないだろうか?(どの天皇がどの神に対応するのかはわからないが)

景行天皇・成務天皇・仲哀天皇は和風諡号に「たらし」とあるところから、「タラシ王朝」などともよばれる。


そういえば御手洗祭は、御手洗というが、水に足をつけて身を浄めるではないか。
足を水につけるのは、足と書いて『たらし』とよみ、『みたらし星』と音が通じるからではないだろうか。。
御手洗祭と書くが、本当は御足祭または三足祭なのではないだろうか。

実際、下鴨神社の御手洗祭では手ではなく足を御手洗池につけることで禊をするのだ。

また、京都の御室戸寺はもとは御室戸寺と称していたのを、光仁、花山、白河三帝の離宮になったために【御】の字を【三】に替えたと伝わる。

御手洗祭が三足祭だったのではないかと考えるのは、そのためである。

⑦底筒男命・中筒男命 ・表筒男命は禊の神


私は底筒男命・中筒男命 ・表筒男命はみたらし星の神で、タラシ王朝の神だと思うが
底筒男命・中筒男命 ・表筒男命とは黄泉の国から戻ったイザナギが禊をしたときに生まれた神である。
底筒男命・中筒男命 ・表筒男命は禊の神でもあるのだ。

そして下鴨神社のみたらし祭は、参拝者が境内の御手洗池に足をつけて禊をするという行事である。

下鴨神社で禊の行事「みたらし祭」が行われているのは、下鴨神社の神が底筒男命・中筒男命 ・表筒男命、もしくはタラシ王朝の天皇と関係がある神だからということはないだろうか。

下鴨神社 みたらし祭3

⑧三本脚の八咫烏はタラシ王朝の三人の天皇をあらわしている?

下鴨神社の御祭神・賀茂健角身命の神使は三本脚の八咫烏だとされる。
八咫烏は日向からやってきた神武天皇を熊野から大和に道案内した烏である。

神武の先祖に天照大神の孫・ニニギがいる。
ニニギは天照大神に命じられて葦原中国に天下ったが、このとき猿田彦という神に道案内されている。

ニニギ(天照大神の孫)・・・・・猿田彦に道案内される
神武(天照大神の5代目の孫)・・・八咫烏に道案内される。

ふたつの話はとてもよく似ている。ニニギの話は神武の話を神代に置き換えて創作されたものではないかと思ったりもする。

ニニギを道案内した猿田彦は「高天原から葦原中国までを照らす神」と記されている。
これにぴったりな神名を持つ神がいる。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)である。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊というのは先代旧事本紀による記述で、記紀では単にニギハヤヒとなっている。
ニギハヤヒは物部氏の祖神で、神武が東征して畿内入りするより早く、畿内に天下っていたとされる。
そのため、神武以前、畿内には物部王朝があったとする説があって、私はこれを支持している。

そして、猿田彦は「高天原から葦原中国までを照らす神」と記述があるが
高天原とは天、芦原中国とは国なので、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と同一神ではないかと思う。

そしてすでにのべたように、どちらも天孫を道案内しているので、猿田彦と八咫烏は同一神であるように思える。

ということは、八咫烏は物部氏の神だということになる。

八咫烏を神使とする賀茂健角身命を祀る下鴨神社は賀茂氏の神社だが、賀茂氏と物部氏は関係があるのではないだろうか。

八咫烏が三本脚なのは、三人のタラシ王朝の天皇、12代景行天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)、13代成務天皇(わかたらひこのみこと)、仲哀天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)の象徴だからだったりして?

つまり、賀茂健角身命=景行・成務・仲哀=八咫烏=底筒男命・中筒男命 ・表筒男命 (禊の神)、ということで、
下鴨神社で御手洗祭を行っているのは、賀茂健角身命=景行・成務・仲哀=八咫烏=底筒男命・中筒男命 ・表筒男命の慰霊という目的があるのかもしれない。

下鴨神社 みたらし祭4 
 
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[2018/09/05 13:34] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)