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「中国ではなく、支那と呼ぶべき」について、調べてみた。 


「中国ではなく支那とよぶべきだ」という意見がネット上などに一定数ある。
これについて、調べたことをまとめて書いてみる。

①中華民国は外交文書に「支那共和国」と記されることに反発した。


上記、ウィキ「中華思想」-中華民国 にこんな内容が書かれていた。

・章炳麟、孫文、梁啓超ら清朝を倒し、1912年に中華民国を建国し、「中華」を正式な国名とした。
・日本の駐清大使伊集院彦吉は、立憲君主制国家の成立を目指していたため共和政体に不満があった。
そのため本国内において「中華民国」の国号を用いず、欧米の「China」の用法にしたがって「支那共和国」と呼称するように具申した。
・これは閣議決定によって承認され、日本側は外交文書に「支那共和国」の国号を用い、中華民国政府側はこれに反発した。

支那という言葉は差別用語ではなく、それまで中国では自分達を支那と呼んででいたのかもしれないが(調査不足すいません)、
1912年以降、「自分達は支那ではなく中華民国である」という意識がめばえた。
にも拘わらず、「日本は外交文書に「支那共和国」と書いている、けしからん。」となったのだと思う。

⓶漢字を用いてきた国は「シナ」ではなく「中国」からくる国名を用いている。

英語「チャイナ」ドイツ語「ヒーナ」オランダ語「シーナ」もシナが変化したものだ。
なぜ日本が「シナ」といってはいけないのか、という意見がある。

たしかにほとんどの国がシナに基づく呼び方をしている。、

しかし朝鮮語の「チュングク」とベトナム語の「トゥルンコック」は「中国」からくる呼称である。
これについて、朝鮮やベトナムは中国の属国だから、という意見があるようである。
日本は聖徳太子の時代から、中国と対等にわたりあってきた国なので、中国と呼んではいけないというのだ。

しかし私は朝鮮やベトナムが中国に基づいた呼称を用いているのは、属国だからではなく、
漢字を使っていた国だからではないかと思う。

漢字文化圏は中国大陸、台湾、ベトナム、朝鮮半島、日本列島である。

韓国では1970年に漢字が廃止されてハングルを使うようになった。
ベトナムでは17世紀にフランスのカトリック宣教師、アレクサンドル・ドゥ・ロードがベトナム語のローマ字転写法を考案し、
これが19世紀後半のフランス植民地化以降「クオック・グー(国語)」と呼ばれるようになって普及して次第に漢字は使われなくなった。
1945年のベトナム民主共和国成立後、北部では漢字教育が行われなくなったが
南ベトナムでは1975年まで中等教育に「漢文科」があった。

韓国・・・1970年まで漢字を用いていた。
ベトナム・・・1975年まで中等教育に「漢文科」があった。
       
つまり、中華民国ができた1912年、韓国・ベトナムにおいても漢字が用いられていたのである。

モンゴルはモンゴル文字、ペルシャはペルシャ文字を使っている。

漢字を使わない国は、それまでの呼称であるチャイナなどで構わないが、漢字を使う国なのに
外交文書に「中華民国」ではなく「支那共和国」と記されて、気分を害する気持ちは分かるように思う。

③中国が外交文書に日本ではない言葉を用いても構わない?


上記記事によると、中国では日本(Rìběn)と呼び、日本国(Rì běn guó)からジパングという言葉ができたとある。

また、11区(11區/Shíyī qū)、泥轰(泥轟/Ní hōng)、霓虹(Ní hóng)岛国(島國)などの語もあると記されているが、これは呼称だろう。
外交文書には「日本」が用いられていると思う。(未確認)

※「泥轟」の「泥爆弾」、「霓虹」の「にじ」に、特に蔑視の意味はなく、「ニホン」という音写から来た表現、だと説明があるが、泥轟(泥爆弾)という漢字表記には若干嫌みがあるかもしれないw

「シナと呼ぶべき」とする人々は「差別語や侮蔑しているわけではない。相手をどう呼ぶかは呼ぶ側が決めること。」
と主張しているようである。

この理屈でいえば、外交文書に日本ではないちがう名前、たとえばジャパンに漢字の音を当てたものなどを書かれても
日本は文句を言ってはいけないということになる。
しかし、そんなことをされると大勢の日本人が不快感をもつだろう。

④中国において「中国」という言葉は紀元前より用いられていた。

「シナと呼ぶべき」という人々は、日本の地方名である中国の歴史は古く1000年前から使っている。
一方日本でシナを中国と呼ぶようになったのは戦後だと主張している。
古には「もろこし」「から」と呼んでいた、というのだ。(未確認)

上記記事によれば、中国において「中国」という言葉は紀元前(西周時代)すでに史書に現れていたとあり
次のような用例が示されている。

皇天既付中國民越厥疆土于先王(皇天既に中國民と厥疆の土地を先の王に付す)
民亦勞止 汔可小康 惠此中國 以綏四方 (この中国に恵あれ、四方安らかに)

また、次の様にも記されている。
しだいに中国という言葉は中華思想に基づく「文化的優越性を持った世界の中心」という意味をもつようになると。

秦始皇は中国を防衛のため長城に建てた。
いにしえより中国には何百もの山と原があり。など。

そして、唐王朝に入ると「現在中国本土と呼ばれる領域が「中国」と認識されるようになったとある。

⑤「中国4000年の歴史」はマスコミによる歴史の捏造ではない。

最近できたばかりの国なのに、「中国4000年の歴史」といってマスコミが歴史を捏造している、という意見もあったが
中国はもともと国名ではなく地域をさす名前であり、黄河文明の始まりは(文明といえるかどうか微妙だが)
紀元前7000年にさかのぼり、殷の成立は紀元前17世紀ごろとされるので「中国4000年の歴史」というのは捏造とはいえない。

⑤中華という言葉は「華夏文化の優越性」というニュアンスを含む。


上記によれば
中華(ちゅうか)あるいは華夏(かか)という用語は、「優れた文化を持つ者」を意味し、漢民族の間で「中国」と同様の自称とある。

また、この言葉は、「中心の国に住む優れた文化の担い手」という意味で、「華夏文化の優越性」というニュアンスを含んでいたと説明がある。

中華思想に基づき、古代日本を倭、卑弥呼などのよくない意味の漢字を当てて呼んでいたこともある。

つまり、支那は差別語ではないが、
中華民国・中国などの国名は、「他国に勝る国」というニュアンスを含み、
周辺国を蔑視する言葉で、差別語といえるかもしれない。

なので、中華民国という国名によい印象を持たない日本人が多いということは理解できる。


上記にも次のように記されている。

・伊集院彦吉が「支那共和国」と呼称するように具申した意図は、
「中華民国と呼べば世界の中心の国として認めることとなり、日本をその付属国としてしまう」
というものであったと分析されている。

・1930年ごろ、日本国内において中華民国という国号を呼ぶ動きには反対が多く見られた。

・しかし幣原喜重郎外相は中国国民の感情などにも配慮し、外交文書上での正式国号は中華民国と呼ぶ方針を決定し、
軟弱外交として批判された。

⑥なぜ民国ではなく中国としたのか?


上記記事によれば、昭和21年(1946年)、外務省は、東京都内の主要マスコミに対して次のような通達を出したとある。

中華民國の國名として支那といふ文字を使ふことは過去に於ては普通行はれて居たのであるが
其の後之を改められ中國等の語が使はれてゐる處
支那といふ文字は中華民國として極度に嫌ふものであり,現に終戰後同國代表者が公式非公式に此の字の使用をやめて貰ひ度いとの要求があつたので、
今後は理屈を拔きにして先方の嫌がる文字を使はぬ樣にしたいと考え念のため貴意を得る次第です。
要するに支那の文字を使はなければよいのですから用辭例としては
中華民國、中國、民國。
中華民國人、中國人、民國人、華人。
日華、米華、中蘇、英華
などのいづれを用ひるも差支なく
唯歴史的地理的又は學術的の敍述などの場合は必しも右に據り得ない
例へば東支那海とか日支事變とか云ふことはやむを得ぬと考へます

中華民国のことを中国でも民国でもよいとしているが、なぜ中国という表現を用いるようになっただろうか。
そのあたりのこともわかれば、追記を入れる。


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[2021/07/10 13:26] 未分類 | TB(0) | CM(0)

平安時代の男性はひらがなを使っていたし、文学もやっていた。 


石山寺 紫式部

石山寺

①平安時代の男性は漢字で、記録文書を書くことしかできなかった?

こんなことを言う人がいる。
「平安時代の男性は漢字しか使えなかった。また記録文書を書くことしかできなかった。」

これは本当だろうか?



⓶平安時代の男性が記録文書しか書けなかったというのは間違い。

ちょっと調べればわかることだが、平安時代の男性が記録文書しか書けなかったというのは間違いである。
下記に平安時代の文学作品と作者をあげておく。

 
作品名作者作者性別成立年ジャンル
日本霊異記景戒822年頃説話集
竹取物語紀貫之?男?平安時代初期物語
伊勢物語紀貫之?男?平安時代初期歌物語
土佐日記紀貫之935年日記
平中物語959-965年頃歌物語
蜻蛉日記藤原道綱母975年日記
御堂関白記藤原道長998~1021年日記
落窪物語10世紀末頃物語
枕草子清少納言1001年随筆
源氏物語紫式部1008年物語
江談抄大江匡房の談話を藤原実兼が記録1104~1108年有職故実・故事・説話
台記藤原頼長1136~1155年日記
無名草子藤原俊成女?1196~1202年物語・歌集・女流作家などの批評
唐物語藤原成範12世紀後半説話集
紫式部日記紫式部平安時代中期日記
和泉式部日記和泉式部平安時代中期日記
狭衣物語ばい子 (ばいし) 内親王平安時代中期物語
宇津保物語源順?男?平安時代中期物語
大和物語在原滋春?花山院?伊勢?平安時代中期物語
更科日記菅原孝標女平安時代中期日記
多武峰少将物語藤原高光?男?平安時代中期日記文学
とりかへばや物語平安時代後期物語
夜の寝覚菅原孝標女?女?平安時代後期物語
浜松中納言物語菅原孝標女?女?平安時代後期物語
讃岐典侍日記讃岐典侍藤原長子平安時代後期日記
栄花物語赤染衛門?出羽弁?周防内侍?など複数の女性平安時代後期歴史物語
陸奥話記藤原明衡?男?平安時代後期軍記物語
大鏡源顕房?男?平安時代後期歴史物語
今昔物語集不明平安時代末期説話集
今鏡藤原為経(寂超)平安時代末期歴史物語
宝物集平康頼平安時代末期仏教説話集
しのびね平安時代末期物語
堤中納言物語平安時代後期以降短編物語集
古本説話集平安末期から鎌倉初期説話集

※竹取物語(10世紀半ば?)『源氏物語』に「絵は巨勢相覧、手は紀貫之♂書けり」と書かれているそうです。

京都御所 人形

京都御所

③平安時代、男性もひらがなを使っていた。

平安時代、男性は漢字しか使わなかったというのは、漢字のことを『男手』、ひらがなのことを『女手』といったりすることから勘違いされているのではないかと思う。

紀貫之は女と偽って仮名で『土佐日記」を書いている。
紀貫之は女と偽るために女性が使う仮名を用いたのではないかと思われるかもしれないが
藤原道長も仮名で日記を書いている。

さらに平安時代、男性が仮名を使っていたと考えられる理由として、古今和歌集の存在がある。
905年に成立した古今和歌集の序文・仮名序は、紀貫之が書いたといわれているが、仮名で書かれている。


上記に次のように記されている。

❶『『古今和歌集』の謎を解く』(2000年 講談社)87ページ
「『古今集』も写本による以外に接することができないが、先にあげた『土佐日記』…(中略)…このことから『古今集』の歌はすべて平仮名で書かれていたであろうと推定することができる。」
89ページに「『古今集』は、こうして整理統合された日本語の音韻を、生まれたばかりの表音文字〈かな〉によって表記した最初の歌集なのである。」とある。

❷『みそひと文字の抒情詩 古今和歌集の和歌表現を解きほぐす』(2012年新装版 笠間書院)
「平安初期に仮名の体系が形成され、短歌は三十一個の音節ではなく、三十一個の仮名連鎖として作られるようになった。…(中略)上代の短歌から新しく生まれ変わった、三十一個の仮名連鎖としての和歌を集めた最初の勅撰集が『古今和歌集』である。」とある。

❸『図説かなの成り立ち事典』(2006年 教育出版)152ページ(下段)
「延喜五年〈九〇五〉には初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が撰進されるに至りました。
和歌を記す仮名、つまり女手が確固たる地位を占めるようになっていたからこそ、であり、こうした和歌の隆盛が、ますます女手の発達を促しました。」とある。

❹『日本語の世界5 仮名』(1981年 中央公論社)166ページ
「延喜五年(九〇五)勅によって『古今和歌集』の撰進が行われた。これは、日本語の文字の歴史の上で、極めて大きな意味を持っている。
それは平仮名文という文体が、私的な世界から公的な世界へ躍り出たという、画期的な出来事であり、その後の仮名文学発展の素地を形成したものであった。」とある。

当時、公的記録には漢字を用い、漢文の形で記していたのだろう。

続日本後紀 (833年~850年)
日本文徳天皇実録(850年~858年)
日本三代実録 (858年8月~887年)

は全て漢文で記されている。

しかし漢文で漢詩は読まれているが、漢文で和歌を詠むのはむつかしいだろう。
和歌を詠む場合、万葉集では万葉仮名が用いられている。

しかし平安時代にはひらがなが成立しており、紀貫之が序文として仮名序を書いているところから、
和歌はひらがなを用いて詠まれているのではないかと思われる。

そして古今和歌集には女性歌人の歌もあるが、多くの男性歌人の歌が収録されている。

平安時代の男性はかなを使っていたと考えられるだろう。

京都御所 碁

京都御所

④平仮名は漢字を使いこなせる男性が作った。


上記サイトに次のような内容が記されている。

❶江戸時代まで空海が作ったと信じられていたが、ありえない。
空海がいろは歌を作ったという俗説もあるが、いろは歌ができたのは11世紀なのでこれもありえない。
いろは歌は仏教の無常観を詠ったものなので、空海と結び付けられた。
さらにいろは歌は子供が平仮名を使う際の手本として使われたため、いろは歌や平仮名も空海が作ったといわれるようになった。

❷片仮名は江戸時代まで,吉備真備が作ったといわれていた。

❸初期の平仮名の資料で,明らかに女性が書いた,という証拠があるものは一つもない。

❹初期の平仮名の資料には,男性が書いたことが明らかなものが存在する。
・「有年申文(ありとしもうしぶ)み」・・・讃岐介のた藤原有年という男性が,貞観9(867)年に書いた。
・「円珍病中言上状」・・・円珍(814年生~891年没)が書いた。

❺平安時代の平仮名の多くは、書いた年月日を記さない。署名がない。
私的なやりとりなどに使われたのではないか。

❻藤原良相邸跡より平仮名を記した土器が発見された。

❼平仮名を作ったのは,個人ではなく,平安時代9世紀中頃の都にいた漢字が使いこなせる男性たちだと考えられる。

❽平仮名の誕生以前,万葉仮名の時代にも,私的な手紙(正倉院文書の中の万葉仮名文書)や土器の落書き(飛鳥京跡苑池遺構出土の刻書土器)がある。
そうしたものがやがて平仮名に変わっていったと考えられる。

❾平仮名に女性のイメージが付いたのは,平仮名が文字として成熟してからのち,女性文学が発達したためだろう。

平仮名が作られた当初から、多くの男性がひらがなを使い、徐々に女性も使うようになったということだと思う。


⑤紀貫之は平仮名を使うのが恥ずかしいから女と偽ったのではない。

こういう意見があった。

紀貫之は平仮名を使うのが恥ずかしいから女と偽って土佐物語を書いたのだ。
ということは当時男が平仮名を使うのは恥ずかしいという風潮があったのではないか。と。

紀貫之が土佐物語を書いたのは935年、古今和歌集が成立したのは905年で土佐物語よりも30年も早い。
その古今和歌集で紀貫之は古今和歌集仮名序を漢字仮名交じり文で書いている。
また、その古今和歌集の和歌も漢字仮名交じりで記されていたと考えられ、男性は普通に平仮名を使っていたと考えられる。

それではなぜ紀貫之は女と偽って土佐日記を書いたのか。

実は古今和歌集には男性歌人が女の身になって詠んだ歌というのがたくさんあるのだ。
当時、女のふりをして文章を書くのが流行っていたのだろう。


⑥女性は漢字を使うのを憚っていた。

男性は漢字とひらがなと両方使っていたのではないかと思う。

記録文書・・・・漢字
和歌その他・・・ひらがな

しかし女性は漢字を使うのを憚っていたのではないかと思う。

女性は公文書の記録をするような仕事はしていなかっただろう。

また当時、漢字は使う女性は「知性をひけらかす」と考えられていたそうで
紫式部は一の字も書けないぶりをしていたそうである。
そして紫式部は清少納言のことを
「漢字を書き散らして偉そうにしている。」と日記の中で悪口を言っている。

平安時代に女性が漢詩を詠んだというのも聞いたことがない。(あったら教えてくださいね)





[2021/07/01 22:40] つれづれなるままに | TB(0) | CM(0)

尻尾のある井光は彗星だった? 


奈良県吉野郡川上村 井光神社 丹生川上神社上社 吉野川
2018年7月22日 撮影


不動窟鍾乳洞に向かう途中、「井氷鹿の里→」と書かれた看板を発見。
井氷鹿って古事記や日本書紀に出てくるあの井氷鹿?
これは行ってみなければなるまい!

井光川 
井光川

①光る井戸から姿を現した尾のある人

神武天皇は熊野で出会った賀茂健角身命(たけつぬみこと/八咫烏)に道案内してもらって旅を続けた。
そして、吉野に入ったあたりで、光り輝く井戸から(日本書紀では「光りて尾あり」となっている。)尾のある人に出会った。

神武が名前を問うと「国津神の井氷鹿(古事記では井光)」だと答えたという。

井氷鹿は吉野首等の祖とされる。
吉野首は吉野の周辺の氏族とされるが、ふつうの人間のはずである。
その先祖にしっぽがあったとか、体が光っていた(光っていたのは井戸かもしれないが)とはちょっと考えにくい。

しっぽがあると記されているのは、腰に何かをぶら下げていたのではないかとする説もある。
また井戸は地中を掘った井戸ではなく川岸に組んだ桁のことではないかともいわれている。


②川から説、水銀坑口説


井光川をさかのぼっていくと井氷鹿を祀る井光神社があった。

井光神社 

 
井光神社

観音寺(井光神社横) 鐘楼 

井光神社の隣・観音寺の梵鐘

井光神社から5kmほど東に丹生川上神社上社があった。
丹生というのは水銀地名である。
「丹」という漢字は「丼」からくるもので「井」の中の「点」は井戸の中から採掘される硫化水銀を意味していると聞いたことがある。

かつてこのあたりでは水銀が採掘されていたのかもしれない。
井戸というのは、水銀を採掘する穴のことなのか?

丹生川上神社上社  
丹生川神社上社

辰砂という赤色をした鉱石の中に水銀が含まれている。
古には伊勢国丹生(現在の三重県多気町)、大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)、吉野川上流が特産地だったとのこと。
丹生川上神社上社は吉野川の上流にある。

http://www.7kamado.net/ikari.html

↑ 上記サイトには「吉野の井光と川上」からの引用として、次のような二つの説を記している。

●井氷鹿は川からあがってきた説
昔の井は、川岸に桁(木で井の字形に組んだもの)を出してそこで食料をはじめすべての洗いものをしていた。
山の根を穿って作る横井戸は、かなりの後世。釣瓶を用いて水を汲み上げる縦井戸は、江戸時代中期以降。
「井氷鹿が井から出てきた」ということは、川から上がってきたということだろう。

●水銀坑口説
光ある井戸とは、水銀の形容ではないか。古代吉野地方で穴を掘り鉱石を探る人々が、その尻に獣皮から成る尻当てとか又は尾状の照明具をつけていたのかもしれない。


吉野川 夕景2 

吉野川


③尾のある人の正体は彗星?井戸は冥界に通じる出入り口?

ウィキペディア・土蜘蛛の項目には次のように記されている。

古代の史料に見られる大和国(奈良県)の土蜘蛛の外見で特徴的なのは、他国の記述と違い、
有尾人として描かれている点である。
『日本書紀』では、
吉野首(よしののおふと)らの始祖を「光りて尾あり」と記し、吉野の国樔(くず)らの始祖を「尾ありて磐石(いわ)をおしわけてきたれり」と述べ、大和の先住民を、人にして人に非ずとする表現を用いている。
『古事記』においても、忍坂(おさか・現
桜井市)の人々を「尾の生えた土雲」と記している点で共通している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E8%9C%98%E8%9B%9B より引用

この文章に「磐石をおしわけてきたれり」から閃いた。
磐といえば、思い出すのは大阪府交野市にある磐船神社だ。
磐船神社の御祭神はニギハヤヒだが、雲陽誌にニギハヤヒに関係する次のような話があるという。


[松崎神社:島根県松江市]   106    "日本伝説大系・山陰編",みずうみ書房
[雲陽誌]という書物によると、この神社の神宝に、延宝7年に掘り出された石がある. 古語「星隕って石となる」から神の石として、その神社の祭神ニギハヤヒ命(星の神と説明がある)として宝としたという.(ニギハヤヒは、日本書記によれば、大和の原住民のあがめる神で、天人の象徴の天羽羽矢をもち、天から降り立ったという.しかし神武天皇が九州からやってきて、門下に下り、物部氏の始祖となったとなっている.)


http://redbird.no-ip.info/archives/%E8%B3%87%E6%96%99/%E5%A6%99%E8%A6%8B/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%98%9F%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%AA%AC.htm
より引用

この話から、次のことがわかる。
・ニギハヤヒは星の神
「星隕って石となる」という古語があり、古の人々は石を天から降ってきた星だと考えていた。

尻尾のある人とは、もしかして、尻尾の有る星、彗星のことではないか?




そう考えると、井光が井戸からでてきたという記述については、次のようにも考えることができる。

平安時代の官僚だった小野篁は、昼間は宮中につかえ、夜は井戸からあの世に通い閻魔庁に仕えていたという伝説がある。
ここから「地下深く掘られる井戸は、地中にある黄泉の国に通じていると考えられていた」と考えることができる。
そして井光は黄泉の国からこの世に現れた死者の魂なのかもしれない。

足利学校 小野篁像

④ニギハヤヒは土蜘蛛だった?

ニギハヤヒは物部氏の祖神で、神武天皇が東征して畿内入りするよりも早く、天の磐船を操っていかるがの峰に天下ったとされる。

このことから神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説がある。

ニギハヤヒを神と奉っていたのはナガスネヒコという者だった。
ナガスネヒコは神武天皇と戦って敗れ、ニギハヤヒは神武に服したとされる。
ニギハヤヒは政権争いに敗れた人物なのだ。

ニギハヤヒは星の神と書いたが、記紀には星の神とは記されていない。
ニギハヤヒを星の神としているのは「雲陽誌」という書物である。

そして記紀には星の神はたった一柱、天津甕星と言う神しか登場しない。
天津甕星は天照大神の葦原中国平定に最後まで抵抗した荒々しい神だと記されている。
神武天皇は天照大神の子孫とされ、神武に服したニギハヤヒは天津甕星とイメージがだぶる。

土蜘蛛とは記紀や風土記に登場する「まつろわぬ民」のことであるが、ニギハヤヒは土蜘蛛(土雲)のイメージと重なる。

そしてニギハヤヒが星の神であるならば、尾のはえた土雲や井光らは、彗星の神ということになる。

神武天皇は人間に逢ったのではなく、星の神、彗星の神(怨霊)にであったということではないだろうか。

(※古には「神と怨霊とは同一のものであり、怨霊が祟らないように神として祀った」と言われる。)


⑤昔の人は夜になると地下にある黄泉の国が空に昇ると考えていた?

ここでひとつ疑問が生じる。

黄泉の国への出入り口が井戸なのは、地下深く穴が掘られているからだろう。
つまり、黄泉の国は地下深いところにあるという認識が、古の人々にはあったのではないかということである。

(土蜘蛛は「穴にすむ」と記紀には記述ああるが、井戸をおりた地下にある黄泉の国に住んでいるという認識があったのかもしれない。)

それなのに、その地下に住む土蜘蛛や井光がなぜ天高く輝く星の神なのか。

昔の人は日が沈んで夜になると、地下にある黄泉の国が空に昇ると考えていたのではないか?
例えば月を神格化した月読命という神がいるが、神名にある「読」の音は「黄泉」に通じる。
月読命はもともとは夜の国を司る神であると同時に、黄泉の国を司る神であったのかもしれない。


吉野川 夕景 
吉野川

 

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[2021/02/13 18:42] トンデモ説? | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱㊺ (最終回) 『日よ沈むな、月よ沈むな』 

トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱㊹ 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』  よりつづきます~


「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。



日置天神社 お祓い 
日置天神社の秋祭のはじまり、はじまり~♪

①交野ケ原に残る惟喬親王の伝説

天田神社の由緒書に次のように書いてある。

「平安時代に入り、京都の宮廷貴族が遊猟に来ては盛んに和歌を詠み、七夕伝説に因んで甘野川は天の川、甘田は天田と書くようになった。
その頃、住吉信仰が流行し一方、磐船の神も海に関係があると考えられ、さらに物部氏の衰退もあって、交野の神社の祭神は、饒速日命(にぎはやひのみこと)から、海神であり和歌の神である住吉神に替わって、今日に至っている。」

「平安時代に入り、京都の宮廷貴族が遊猟に来ては盛んに和歌を詠み、」とあるが、その宮廷貴族の中に紀有常、在原業平らがいる。

彼らは惟喬(これたか)親王の寵臣だった。
伊勢物語には、彼らが惟喬親王のお供で狩にやってきて、歌会を開いたという話が記されている。

大阪府交野市・枚方市あたりはかつては交野ケ原と呼ばれていた。
そして枚方市には惟喬親王の伝説がいくつか残されている。

渚の院 淡墨桜 
渚の院

枚方市の渚の院跡(保育園の隣にあって鐘楼が残っているだけ)で、惟喬親王・紀有常・在原業平らは歌会を開いた。

本尊掛松(枚方市茄子作) 

本尊掛松跡(枚方市茄子作南町)

1321年、融通念仏宗中興の法明上人が男山八幡(石清水八幡宮)の神よりお告げを受けて、深江の庵室(現大阪市東成区南深江 法明寺)より男山へ向かっていたところ、
ここで、同じ夢告げを受けた八幡宮の使者に出会い、十一尊天得如来画像を授けられたと伝えられる。

茄子作という地名の由来は、ここで惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれる。

そしてここ、日置天神には次のような伝説が伝えられている。

惟喬親王(844~897)が交野ケ原で遊猟したとき、愛鷹のの姿が見えなくなったので、日没を惜しんで「日を止め置かせ給え」と天神に祈願した。

日置天神社 だんじり 彫刻 鷹

日置天神社には8台ものだんぢりが残されていて、秋祭に公開されている。
そのうち1台は氏子さんたちによって町を引き回される。

氏子さんにだんじりの彫刻の内容について聞いてみたが、「わからない」ということだった。

引き回されるだんじりの側面に、鷹の彫刻があったが
これは茄子作の地名由来伝説に登場する惟喬親王の愛鷹にちなむものなのかもしれない。

日置天神社 だんじり 彫刻 菊 
だんぢりの正面には菊の彫刻があり、やはり惟喬親王を連想させた。
 大皇器地祖神社は木地師の祖として惟喬親王を祀っているが、神紋が十六菊である。
この彫刻の花びら数えてみたら20弁で、数がちがってはいるが。

日置天神社 だんじり 彫刻 巻物 
↑ これはひきまわさない別のだんじりだが、巻物を持っているのが、惟喬親王を思わせる。
というのは、惟喬親王は巻物が転がるのを見て、木地師が用いるろくろを発明したという伝説があるのだ。
巻物持っているのは女性だが、私は小野小町の正体は小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えている。

詳しくは次のシリーズをお読みください。
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html

全部読む時間がない方はこちらを読んでいただけると嬉しいです♬
小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 
小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』  

日置天神社 だんじり

さあ、だんじりが出発しますよ~。
ながらくだんじりの引き回しは行われていなかったとのことですが、数年前から復活したそうです。嬉しいね。


②「日よ、沈むな」と「月よ、沈むな」




日置天神社 だんじり


さて、日置天神社の伝説についてもう一度見てみよう。

惟喬親王(844~897)が交野ケ原で遊猟したとき、愛鷹のの姿が見えなくなったので、日没を惜しんで「日を止め置かせ給え」と天神に祈願した。


この伝説は、伊勢物語・渚の院にある話を思い出させる。

昔、惟喬親王という親王がおられた。
山崎の向こうの水無瀬といふ所に宮があった。
毎年、桜の花盛りには、そのへいらっしゃった。
その時、右馬頭と言う人を常に連れてこられた。
随分昔のことなので、右馬頭の名前は忘れてしまった。

狩りは熱心にはやらず、酒を飲んでは和歌を詠んでいた。
今狩りする交野の渚の家、その院(御所)の桜が特にすばらしかった。
その木のもとに馬から下りて座り、枝を折って髪にさし、上、中、下の者身分を問わず、みな歌詠んだ。

馬頭が詠んだ。
世の中に たえて桜の なかりせば  春の心は のどけからまし
(世の中に 桜というものがなかったならば、春の心は もっとのんびりしていただろうに)


また他の人の歌、
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になに か久しかるべき
(散るからこそ桜はすばらしいのだ。悩み多き世の中に、変わらないものなどあるだろうか。)


このように歌を詠んで、その木のもとを立って帰る途中日暮れになった。

お供の人が酒を従者にもたせて野より出てきた。
この酒を飲んでみようと、飲むのにふさわしい場所を探していくと天の河というところにやってきた。

親王に馬頭が大御酒をさしあげた。
親王は言った。

「交野を狩りをして天の河のほとりにたどりついた、を題に歌を詠んで杯をつげ。」

馬頭は歌を詠んだ。

狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に 我は来にけり
一日中狩りをして日が暮れてしまったので、織姫に宿を借りよう。天の河原に私はやってきたのだから。)


親王は何度も歌を繰り返され、返歌することができない。

紀有常も御供されており、紀有常が返した。
ひととせに ひとたび来ます 君待てば 宿かす人も あらじとぞ思ふ
織姫は一年に一度いらっしゃる君(=彦星)を待っているのだから、宿を貸す人はないだろう。


帰って宮に入った。
夜が更けるまで酒を呑み、語り、主人の親王は床に入ろうとなさった。

十一日の月が山に隠れようとしているのであの馬頭が詠んだ。

飽かなくに まだきも月の 隠るるか 山の端逃げて 入れずもあらなむ
(ずっと眺めていても 飽きないのに 早くも月は隠れてしまうのか。山の端が逃げて月を入れないでおいてほしい。)

親王にかわり申し上げて紀有常

おしなべて 峰も平に なりななむ 山の端なくは 月も入らじを
(すべての峰が平らになってほしい。山の端がなくなれば月は入らないだろう。)


日置天神社の伝説から思い出されるのは、上の渚の院の話の中の次の部分である。

飽かなくに まだきも月の 隠るるか 山の端逃げて 入れずもあらなむ
(ずっと眺めていても 飽きないのに 早くも月は隠れてしまうのか。山の端が逃げて月を入れないでおいてほしい。)

親王にかわり申し上げて紀有常

おしなべて 峰も平に なりななむ 山の端なくは 月も入らじを
(すべての峰が平らになってほしい。山の端がなくなれば月は入らないだろう。)

日置天神の伝説・・・・・
惟喬親王(844~897)が交野ケ原で遊猟したとき、愛鷹のの姿が見えなくなったので、日没を惜しんで「日を止め置かせ給え」と天神に祈願した。


渚の院の記述・・・・・
すべての峰が平らになってほしい。山の端がなくなれば月は入らないだろう。)

日置天神の伝説では惟喬親王は「日よ、沈むな」と詠い、
渚の院では惟喬親王の代理の紀有常が「月よ、沈むな」と詠っている。

これはなにか関係がありそうだ。とあり

「十一日の月が山に隠れようとしているので」
とあり、月齢が11日であることがわかる。
季節は桜の咲くころなので、旧暦3月11日(新暦4月11日ごろ)だろうか。

月齢、月の形については下記イラストを参照してください。
https://www.nomu.com/ouchi/special/201309/03.html

大阪府の4月の月の出、月の入時刻は下記。

2021年 4月
方位[°]南中高度[°]入り方位[°]月齢[日]
122:30115.32:4337.88:02247.918.7
223:41119.53:4133.38:46242.719.7
3--:------4:4030.49:36239.420.7
40:47121.65:4029.110:33238.221.7
51:46121.46:3929.611:34239.322.7
62:36119.27:3531.612:38242.223.7
73:18115.48:2734.913:41246.624.7
83:54110.49:1539.214:43252.125.7
94:25104.610:0144.115:43258.326.7
104:5498.310:4349.316:40264.827.7
115:2091.911:2554.717:37271.328.7
125:4685.512:0660.118:33277.80.0
136:1279.312:4765.219:29283.91.0
146:4073.513:2969.920:26289.52.0
157:1168.314:1374.021:23294.33.0
167:4564.014:5977.322:20298.04.0
178:2460.815:4879.523:16300.55.0
189:0959.016:3980.6--:------6.0
1910:0058.817:3180.40:10301.37.0
2010:5660.318:2378.80:59300.58.0
2111:5863.519:1575.91:45298.09.0
2213:0268.320:0671.62:25293.910.0
2314:0974.520:5766.33:02288.411.0
2415:1781.821:4860.23:36281.712.0
2516:2689.722:3953.64:09274.213.0
2617:3897.923:3146.84:41266.314.0
2718:52105.8--:------5:15258.415.0
2820:07112.80:2640.55:53251.016.0
2921:22118.11:2535.26:36244.817.0
3022:34121.22:2631.37:25240.418.0


月齢11日は2021年4月では23日で、月の出は午後2時9分、月の入は翌日の午前3時2分となっている。
彼らは随分遅くまで酒をのんでは歌を詠んでいたということがわかる。

しかし、わかるのはここまでである。

なぜ日置天神では「日よ沈むな」と詠い、渚の院では「月よ沈むな」と詠ったのか?
長い文章を45話も書き、その間中考えていたが、結局わからなかった。

しかし、これから旅を続けるなかで、もしかしたらその答えを導くヒントにであえるかもしれない。


日置天神社 だんじり


長々とお付き合いくださいまして、ありがとうございました。

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[2021/02/08 14:28] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱㊹ 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』  


トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱㊸ 『業平はなぜ高子と駆け落ちをしたのか』 よりつづきます~


「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


龍田川

龍田川

①現代語訳が難しい業平の龍田川の歌


ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

この歌は現代語訳が難しい。
もちろん、千早という花魁が龍田川という相撲取りを振った、という意味ではないw
(参照/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%97%A9%E6%8C%AF%E3%82%8B

「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞。
「神代も聞かず」は「神代にも聞いたことがない」
「竜田川」は奈良県生駒郡斑鳩町竜田あたりを流れる川である。
「からくれなゐ」の「から」は「韓の国」や「唐土(もろこし)」という意味。
当時、韓や唐土の物産は大変高価で価値があるものだったとされる。
今でいうシャネルとかエルメスみたいなブランド品だったということだ。
「くれなゐ」は「紅色」。
なので「からくれなゐ」は「韓や唐土から日本に持ち込まれたブランド品の衣の紅色」みたいな意味になると思う。

ここまではそんなに難しいところはない。

龍田川 紅葉2

⓶「水くくる」に二つの解釈


問題は「水くくる」である。
もちろん、千早という花魁が入水したという意味ではないw。

この「水くくる」には2つの解釈がある。

a.水を「括り染め」にした。
「括り染め」とは布にところどころ糸を巻き付けて括ったのち、染色することや、こうして出来上がった生地のことをいう。
糸でくくった部分は染まらないので、それで模様をつくる。

b.水を潜った。川を埋め尽くすように散った紅葉の下を水が流れる。

現代語訳は
aの場合、「神代にも聞いたことがない。竜田川が韓や唐土の衣の鮮やかな紅のように水を括り染めにするとは。」
b
の場合は「神代にも聞いたことがない。韓や唐土の衣の鮮やかな紅に染まった紅葉の下を竜田川の水が流れていくとは。」
となる。

藤原高子が春宮の御息所と呼ばれていたときに詠んだ歌

ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

古今和歌集はこの歌に次のような詞書をつけている。
二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる


「この詞書は大変重要なことを書いてある」と私は思う。
まるで業平の歌は謎々で、この詞書はその謎々をとくヒントのようだ。

一語づつみていこう。

「二条の后」とは清和天皇に入内した藤原高子のことである。
「春宮」は「とうぐう」と読み、皇太子を意味する。
「みやす所」はもともとは「天皇の休憩所」という意味で、ここから天皇に侍る官女や、皇子・皇女を産んだ女御・更衣を指す言葉となった。

藤原高子は清和天皇に入内して女御の位となり、清和天皇にとの間に貞明親王(のちの陽成天皇)をもうけている。
この貞明親王が春宮(皇太子)となったので、高子は「春宮のみやす所」と呼ばれたので華以下と思う。

その藤原高子が在原業平を召したとき、業平は竜田川に紅葉が流れる屏風絵を見てこの歌を詠んだのである。

龍田川 紅葉

④在原業平と藤原高子の駆け落ち

「伊勢物語 芥川」に、高子が清和天皇に入内する以前、業平と高子は駆け落ちをしたと記されている。
(現代語訳はこちら→http://www.raku-kobun.com/ise6.html

駆け落ちの途中、雷が鳴りだしたので業平は高子を蔵の中にいれた。
ところが蔵には鬼がいて高子は鬼にくわれてしまったとある。

本当に高子が鬼にくわれてしまったのではなく、高子は兄・藤原基経に連れ戻されたのである。
こうして二人の駆け落ちは失敗に終わった。

このかつて駆け落ちをした二人が並んで屏風絵を見ているのである。なにか意味深な感じがする。

⑤業平がその気もないのに高子のもとへ通っていた理由

どうも業平は高子を本気で愛していたので駆け落ちしたというわけではないようである。
というのは、古今和歌集詞書に次のような記述があるのだ。

五条の后)の宮の西の対にすみける人に、本意)にはあらで物言ひわたりけるを、

「五条の后(仁明天皇の后、藤原順子)の宮の西側の建物に住んでいる人(藤原高子のことだと考えられています。)に、業平は本気ではなかったのだが通っていたが」という意味になる。

業平はなぜその気もないのに高子のもとへ通い、駆け落ちまでしたのだろうか?

百人一首かるた


⑥陽成天皇の父親は在原業平だった?

業平と高子は駆け落ちをしているところから、高子が産んだ貞明親王(のちの陽成天皇)は業平の子ではないかとする説がある。
そして百人一首の絵札の、弓矢を背負う業平の姿は陽成天皇を守る姿であるという話を聞いたこともある。

業平がその気もないのに高子のもとへ通っていたのは、清和天皇に入内する予定の高子を妊娠させるのが目的だったのではないだろうか?
高子が産んだ子は清和天皇の皇子とされるはずだ。
そしてその皇子は将来皇太子となり、天皇となる可能性がきわめて高い。

⑦在原業平の祖父は平城上皇だった。

在原業平の祖父は平城上皇、父親は阿保親王だった。
ところが平城上皇は嵯峨天皇と対立して挙兵し、敗れた。(薬子の変)

⑧阿保親王、子供(行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許される。

このため、平城上皇は出家し、阿保親王は連座したとして大宰府に流罪となる。
10年以上たち、ようやく阿保親王は許されて京に戻った。
そして阿保親王は自分の子供(在原行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許されている。
阿保親王は自分の子供たちを臣籍降下させることによって、反逆する気持ちがないことを示そうとしたのではないだろうか。

⑧平城上皇の竜田川の歌

龍田川の紅葉について、業平の祖父・平城上皇も歌に詠んでいる。

龍田河 もみぢみだれて 流るめり 渡らば錦 なかや絶えなむ(平城上皇)
(龍田川の上を紅葉が乱れて流れている。私が渡ると紅葉の錦がちぎれてしまうだろう。)

祖父(平城上皇)と孫(在原業平)がどちらも龍田川の歌を詠んでいるのは、「偶然ではない」と私は思う。
業平は平城上皇の龍田川の歌を受けて、自分も龍田川の歌を詠んだのではないだろうか。

平城上皇は龍田川を皇位継承の血筋に喩えているのではないだろうか。
そして自分が薬子の変をおこしたため、私の子孫は皇位につくことができないということを「錦 なかや絶えなむ」と呼んだのだと思う。

ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

業平のこの歌は平城上皇の歌を受けて詠まれたものだと私は考える。

「平城上皇が薬子の変を起こしてちぎれてしまった皇位継承の血筋が、貞明親王(のちの陽成天皇)が皇太子になったことによって括られた。こんなことは神代にもなかったことだ」と業平は詠んだのだと思います。

⑨陽成天皇の父親が在原業平であることがばれた?


皇太子となった貞明親王は9歳で即位して陽成天皇となる。
そして高子の兄の藤原基経が摂政になった。

ところがどうも陽成天皇の父親が業平であることが基経にばれたようである。
私がこう思うのは、陽成天皇が源益を殴殺したといて退位させられているからである。

基経は陽成天皇の叔父である。
仮に陽成天皇が源益を殺したというのが本当でも、甥が天皇であるということは基経にとってメリットが大きいはずなので
普通なら事件をもみ消すのではないかと思う。
さらに基経と高子は実の兄妹でありながら大変仲が悪かったとされる。

これらは陽成天皇の父親が業平であることが、高子の兄・藤原基経にばれたのだと考えると辻褄があうように思える。

そしてその後、陽成天皇の子孫が皇位につくことはなかった。
業平の計画は失敗に終わったのだ。
 
八坂神社 かるた始め 

八坂神社 かるた始め


 
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次回につづきます~


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[2021/01/19 16:01] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱㊸ 『業平はなぜ高子と駆け落ちをしたのか』 

トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱㊷『天つ風~は藤原高子入内を妨害する歌?』 よりつづきます~


「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


①玉が塵の様に散ったから芥(塵と言う意味)川?

芥川といえば伊勢物語を思い出す。

男(在原業平)が藤原高子と駆け落ちをして芥川へやってきた。
高子は草の上の露をみて「あれはなあに?白玉なの?」と聞いた。
道中はまだ長く、夜がふけ、雷が鳴り響き、雨もひどくなってきたので、男は高子を蔵の中にいれ、自分は弓とやなぐいを背負って扉の前で見張っていた。
蔵の中には鬼がいて、高子を一口で食べてしまった。
高子は「あれえ」と言ったが、雷に打ち消されて男の耳には届かなかった。
夜が明けてきて男が蔵の中を見ると高子がいない。
男は地団駄を踏んで泣いたが、どうしようもなかった。

白玉か 何ぞと人の 問ひしとき 露と答へて 消えなましものを
(あれは真珠?何なの?と高子が問うたとき、露と答えていれば、消えてしまっただろうに。)


※「なまし」とは「①~しまうかもしれない。②きっと~だろう。」という意味。
※「高子が鬼に食われた」というのは比喩的表現で、実際には高子は兄の藤原基経に連れ戻されたとされる。

私は業平と高子は関係を持っていたと思うが、この物語は創作だと思った。
というのは、地名を掛詞として用いているように思えるからだ。

芥川のほとりには玉川という地名がある。
高子が「あれはなあに?白玉なの?」と聞くのにぴったりの地名である。

白玉か なにぞと人の問ひしとき 露と答えて 消えなましものを
(白玉なの?何なの?と高子が私に問うたとき、あれは露だと答えて、露のように消えてしまえばよかったのに。)


この歌の「消えなましものを」は一般的に、「業平自身が消えてしまえばよかった」という意味だとされている。
しかし私は高子が消えてしまえばよかったという意味ではないかと考えている。

何故そう思うのかと言う理由は⑥で述べる。

それはさておき、芥川の「あくた」とは「チリ、くず」という意味である。
玉が散ってしまった場所として芥川という地名はぴったりではないだろうか。

また、三島江の西には玉川という地名があり、歌垣(和歌の題材とされた日本の名所旧跡のこと)として有名だった。
「白玉か~」の歌はこの「玉川」という地名を踏まえて詠んだようにも思える。

⓶三島江は逢引するのにぴったりの場所

芥川を詠んだこんな歌がある。

はつかにも 君をみしまの 芥川 あくとや人の おとづれもせぬ (伊勢)

この歌のなかに「みしま」とあるのは「三島江」の事だと思われる。
三島江とは、大阪府高槻市にある地名である。

芥川が淀川と合流する地点よりやや南西辺りが三島江である。
三島江も古より歌枕として有名なところで、多くの歌人が歌を詠んでいる。

高槻 コスモスロード 碧流寺


伊勢の歌には「芥川」とでてくるところから
この歌にある「みしま」は「三島江」のことだと思われるが、「みしま」は「見し間」の掛詞になっている。

平安時代、貴族の女性は男性に姿を見せないのが一般的でだった。
なので「逢う」「見る」などは、そのまま男女の関係になることを意味する言葉だった。

業平の「白玉か~」の歌には直接出てこないが、芥川に近い三島江という地名も、「白玉か~」の歌は意識していそうに思える。

つまり、三島江でふたりが関係を持ったことをにおわせ
玉川にちなんで高子は「あれはなあに?白玉なの?」と聞いた。
このとき業平は高子の質問に答えなかったが「露」と答えていれば、芥川の芥(塵)のように高子は散ってしまったのに、という意味がこめられているのではないかと思うのだ。



芥川 桜2 
③業平は高子が好きで駆け落ちしたのではなかった?

情熱的な恋の物語?
私は違うと思う。
高子は業平のことを愛していたと思うが、業平はそうでもなかったのではないだろうか。

そう思うのは、古今和歌集の詞書に次のようにあるからだ。

五条の后)の宮の西の対にすみける人に、本意)にはあらで物言ひわたりけるを、

これは

「五条の后(仁明天皇の后、藤原順子)の宮の西側の建物に住んでいる人(藤原高子のことだと考えられている。)に、業平は本気ではなかったのだが通っていたが」という意味である。

芥川 桜 

④業平は高子が惟仁親王に入内するのを阻止しようとした?

業平はなぜその気もないのに高子のもとへ通い、駆け落ちまでしたのだろうか?

業平の父親は阿保親王、阿保親王の父親は平城天皇である。
つまり業平は平城天皇の孫と言う高貴の生まれである。

平城天皇が薬子の変をおこして、嵯峨天皇に敗れたため、業平の父・阿保親王は薬子の変に関与したとして大宰府に流罪となった。
阿保親王は許されて帰京した後、自分の子供(在原行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て、許された。
こうして業平は在原姓を賜ったのである。

阿保親王は自分の子供の臣籍降下を願い出ることで、朝廷に逆らう意思がないことを証明しようとしたのかもしれない。

その後、在原業平は惟喬親王の寵臣として仕える。

惟喬親王の父親は文徳天皇、母親は紀静子だった。
文徳天皇には藤原明子との間に惟仁親王もあった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信に相談したが、源信は当時の権力者・藤原良房(藤原明子の父)を憚って天皇を諫めた。
こうして藤原良房の孫・惟仁親王(のちの清和天皇)が皇太子となった。

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王はたびたび歌会を開いているが、その歌会のメンバーに僧正遍照・在原業平・紀有常(紀静子の兄・惟喬親王の叔父)らの名前がある。
また在原業平は紀有常の娘を妻としており、紀氏側の人間だった。
彼らは歌会と称し、惟喬親王をもちあげてクーデターを計画していたのではないかとも言われている。

藤原高子と兄・藤原基経は当時の権力者・藤原良房の養子である。
良房は娘・明子を文徳天皇に入内させたが、これについで、養女の高子を惟仁親王(のちの清和天皇)に入内させることでさらに権力を高めようと考えたのだろう。
そして在原業平が高子をさらったのは、高子が惟仁親王(のちの清和天皇)に入内するのを阻止するためだったとも言われている。

しかし、業平の計画は失敗し、高子は兄・基経に連れ戻され、惟仁親王(のちの清和天皇)に入内してしまうのだが。

教宗寺 
芥川橋近くにある教宗寺

⑤六歌仙は全員藤原氏と敵対関係にあった人物だった。

古今和歌集仮名序で名前をあげられた6人の歌人(僧正遍照・在原業平・文屋康秀・小野小町・喜撰法師・大友黒主)のことを六歌仙と言う。

高田祟史さんは六歌仙は藤原氏と敵対関係にあった人物で、怨霊であるとおっしゃっている。

そこで六歌仙ひとりひとりについて調べてみると、全員藤原氏と確執があることがわかる。

喜撰法師紀名虎または紀有常だという説がある。
私は喜撰法師とは紀氏の血のこい惟喬親王のことだと考えている。
参照/私流トンデモ百人一首 8番 わが庵は『喜撰法師は紀仙法師で惟喬親王のことだった?』 

遍照は桓武天皇の孫ですが父の良岑安世が臣籍降下しました。遍照は藤原良房にすすめられて出家したと伝わるが、彼は出家した理由を決して人に話さなかったと伝わる。

在原業平は紀有常の娘を妻としており、惟喬親王 の寵臣でもあり紀氏側の人物だった。

文屋は分室とも記され、文屋康秀は分室宮田麻呂と血のつながりがあると思われる。
分室宮田麻呂は謀反を企てたとして流罪となっているが、死後冤罪であったことが判明している。
分室宮田麻呂は藤原北家に暗殺されたのではないかとする説もあります。

大友黒主
は大伴黒主とも記され、大伴家持とほとんど同じ内容の歌が残されている。
大友黒主とは大伴家持のことだと私は考えている。
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして当時すでに死亡していたのだが、死体が掘り起こされて流罪となっている。
参照/ 陰陽 黒と白⑩ 大友黒主の正体は大伴家持だった? 

残る小野小町について、私は「小野宮」と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考えている。
惟喬親王はもちろん男性なのだが、古今和歌集には男性が女性の身になって詠んだ歌というのがたくさんある。
古今和歌集の編者の一人である紀貫之も土佐日記で「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と自らを女と偽って日記を書いている。
参照/ 私流 トンデモ百人一首 9番 花のいろは・・・  『小町の歌は男らしく堂々とした歌だった。』 

惟喬親王像

滋賀県東近江市 惟喬親王陵 惟喬親王像

⑥ことばたらず=「露」と答えなかった?

古今和歌集仮名序は在原業平のことを次のように書いている。

ありはらのなりひらは、その心あまりて、ことばたらず。しぼめる花の、いろなくて、にほひのこれるがごとし。  
(月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして。
おほかたは月をもめでじこれぞこのつもれば人のおいとなるもの。
ねぬるよのゆめをはかなみまどろめばいやはかなにもなりまさるかな。)

※()内は注釈。

「その心あまりて、ことばたらず。しぼめる花の、いろなくて、にほひのこれるがごとし。  」は、そのあとの注釈にある3つの歌の説明のようでもあるが
私は、伊勢物語 芥川の話の事を言っているように思える。

男(在原業平)が藤原高子と駆け落ちをして芥川へやってきた。
高子は草の上の露をみて「あれはなあに?白玉なの?」と聞いた。
道中はまだ長く、夜がふけ、雷が鳴り響き、雨もひどくなってきたので、男は高子を蔵の中にいれ、自分は弓とやなぐいを背負って扉の前で見張っていた。
蔵の中には鬼がいて、高子を一口で食べてしまった。
高子は「あれえ」と言ったが、雷に打ち消されて男の耳には届かなかった。
夜が明けてきて男が蔵の中を見ると高子がいない。
男は地団駄を踏んで泣いたが、どうしようもなかった。

白玉か 何ぞと人の 問ひしとき 露と答へて 消えなましものを
(あれは真珠?何なの?と高子が問うたとき、露と答えていれば、消えてしまっただろうに。)


教宗寺2 
川橋近くにある教宗寺

高子は露を見て「あれはなあに?」と聞きましたが、業平はそれには答えていない。
「ことばたらず。」とは、このことを言っているように思えるのだ。

業平はこのとき、高子に「露」とこたえるべきだった。
そうすれば、言霊の力で高子は露のように消えてしまい、高子は惟仁親王(のちの清和天皇)に入内することなく、高子の養父の藤原良房がますます権力を高めることはなかったのに。

古今和歌集仮名序が伝えたいことはそういうことなのではないだろうか。

「消えなましものを」は一般には業平が「自分が消えてしまったらよかったのに」と考えたと訳される。
日本語は主語を省略することがあるので、あいまいだ。
私は業平が消えてしまえばよかったのにと考えたのは、自分自身のことではなく、高子のことではないかと思う。

芥川 桜 
芥川

 
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[2021/01/08 21:26] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱㊷『天つ風~は藤原高子入内を妨害する歌?』 


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惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱㊶『身投げした姥の正体とは?』  よりつづきます~


「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。

①六歌仙は古今和歌集仮名序で名前をあげられた六人の歌人

惟喬親王の乱 ⑳璉珹寺 茉莉花 『女人裸形の阿弥陀如来は小野小町のイメージ?』  
↑ こちらの記事で六歌仙について記した。
思わずこのシリーズは長くなり、今回で42回、上の記事を書いてからもう3か月近くがたってしまった。

もう一度、六歌仙についておさらいをしておこう。

紀貫之が書いたといわれる古今和歌集仮名序の中で名前をあげられた六人の歌人、僧正遍照・在原業平・喜撰法師・文屋康秀・小野小町・大友黒主のことを六歌仙という。

ただし、古今和歌集仮名序の中で「六歌仙」という言葉は用いられておらず、後の世になってこの6人の歌人のことを「六歌仙」と呼ぶようになったと考えられている。

八坂神社 かるた始め 

八坂神社 かるた始め

⓶喜撰法師は紀名虎または紀有常?

六歌仙のひとり、喜撰法師とは紀仙法師であり、紀名虎またはその子の紀有常のことではないかとする説がある。

紀名虎の娘(紀有常の妹)の紀静子は文徳天皇に入内して惟喬親王を産んだ。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたのだが、藤原良房の娘の藤原明子が産んだ惟仁親王(のちの清和天皇)が皇太子になった。

平家物語などに紀名虎と藤原良房が、いずれの孫を立太子させるかでもめ、相撲や高僧の祈祷合戦などのバトルを繰り広げた結果、藤原良房が勝利したと記されている。

これは史実ではない。
というのは、惟仁親王が生まれたときすでに紀名虎はなくなっていたからだ。
しかし、紀氏と藤原氏に確執があったことは確かだろう。

③六歌仙は怨霊だった?

高田祟史さんは六歌仙とは怨霊であるとおっしゃっている。
なるほどそういわれると、その通りかもしれないと思う。

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことであり、天災や疫病の流行は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。
そして六歌仙は全員藤原氏と敵対関係にあった人物なのだ。

遍照は桓武天皇の孫だが、父の良岑安世が臣籍降下した。遍照は俗名を良岑宗貞といった。
彼は藤原良房にすすめられて出家したというが、出家の理由を誰にも話さなかったという。

在原業平は惟喬親王の寵臣だった。
惟喬親王は文徳天皇と紀静子(紀名虎の娘)の間に生まれた長子で、文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていた。
しかし、文徳天皇には藤原明子(藤原良房の娘)との間に惟仁親王もあり、惟仁親王のほうが皇太子となった。(のちの清和天皇)
惟喬親王の寵臣である業平を藤原良房がいいように思うはずがなく、業平はなかなか昇進することができなかった。
また業平は紀静子(惟喬親王の母)の兄・紀有常の娘を妻としていて藤原氏と敵対していた紀氏側の人間だった。

大友黒主は大伴黒主と記されることもあり、私は大伴家持と同一人物だと考えている。
私流 トンデモ百人一首 6番 …『大伴家持、白い神から黒い神に転じる?』 
大伴家持は藤原種次暗殺事件の首謀者とされ、当事すでに亡くなっていたのだが、死体が掘り出されて流罪となった。

文屋康秀の文屋は分室と記されることもあり、文室宮田麻呂の子孫かもしれない。
文室宮田麻呂は謀反を企てたとして流罪となったが、死後無罪であることがわかって863年、神泉苑の御霊会で慰霊されている。

小野小町について、私は小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えている。
これについては詳しく「小野小町は男だった」のシリーズで述べたが、簡単にまとめておく。
a古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

④惟喬親王のクーデター計画?


世継ぎ争いに敗れた惟喬親王はたびたび歌会を開いているが、その歌会のメンバーに遍照・在原業平・紀有常らの名前がある。

紀有常=喜撰法師とすると、六歌仙(遍照喜撰法師在原業平・文屋康秀・小野小町・大友黒主)のうち3人までが惟喬親王の歌会メンバーだったことになる。
彼らは歌会と称して惟喬親王を担ぎ上げてクーデターを企てていたのではないかという説がある。

大友黒主とは大伴家持のことだと私は考えているので、すると彼は六歌仙の他の歌人とは時代がちがってくる。
(家持は奈良時代の人物。他の歌人は平安時代で、同時代に生きている。)

文屋康秀については、小野小町を「一緒に三河にいきませんか」と誘ったとする詞書があり、
小野小町=惟喬親王とすれば、彼もまたクーデターに参加していたのではないかとも考えられる。

そして大阪府東大阪市にある千手寺の寺伝では「惟喬親王の乱によって堂宇は灰燼に帰した」と伝えているのだった。

惟喬親王の乱㊵ 千手寺 『惟喬親王の乱と在原業平腰掛石』 

千手寺

千手院

⑤和歌は呪術だった?

また、高田祟史さんは和歌とは文学ではなく呪術であったとして、次のような例をあげておられた。

桜花 散りかひくもれ 老いらくの 来むといふなる 道まがふがに
(桜花よ、散り乱れて空を曇らせておくれ。老いというものがやってくるという道が花びらでまぎれて見分けられなくなるように。)


業平は五七五七七の初句に「かきつばた」を読み込んだ歌を詠んでいる。

唐衣 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ
(何度もきて身になじんだ唐衣のように、慣れ親しんだ妻を都に置いてきたので はるばる遠いところまで やってきた旅を しみじみと思う)


らころも つつなれにし ましあれば るばるきぬる  びをしぞおもふ

上の歌の五七五七七の初句をつなげると「かきつはた」となる。

花 りかひくもれ いらくの むといふなる まがふがに

上の歌も、「かきつばた」の手法が用いられていると高田祟史氏は主張する。
五七五七七の初句をつなげると「桜散老来道」となる。
「桜散老来道」は漢語であり、読み下すと「桜散り老い来る道」となり、業平が藤原基経を呪った歌だというのだ。

⑥世の中に藤原氏がいなければ、春の心がこんなにイライラすることはなかっただろうに

高田祟史さんの説を受けて、私は渚の院の歌を次のように解釈してみた。

世の中に たえて桜の なかりせば  春の心は のどけからまし
(世の中に 桜というものがなかったならば、春の心は もっとのんびりしていただろうに)


また他の人の歌、
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になに か久しかるべき
(散るからこそ桜はすばらしいのだ。悩み多き世の中に、変わらないものなどあるだろうか。) 


この二首は藤原良房が詠んだ次の歌を受けたものだと思う。

染殿の后のおまへに花瓶(に桜の花をささせたまへるを見てよめる
年ふれば 
()は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし/藤原良房
(年を経たので、齢は老いた。そうではあるが、美しい桜の花をみれば物思いにふけることもない)

染殿の后とは藤原良房の娘、明子のことである。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし/在原業平

この歌に詠まれた、桜とは藤原氏のことで
「世の中に藤原氏がいなければ、春の心がこんなにイライラすることはなかっただろうに。」という意味ではないだろうか。

渚の院 淡墨桜 
渚の院 淡墨桜(惟喬親王の歌会はここで行われた)

⑦乙女の姿しばしとどめむ


ようやく本題であるw。
歌会メンバーのひとり、僧正遍照の歌についてみてみよう。

天つ風  雲の通ひ路  吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ/僧正遍照
(天の風よ、吹いて雲のすきまを閉じてしまっておくれ。乙女の姿をもう少し見ていたいから。)

この歌は詞書に「五節の舞姫をみてよめる」とありる。

大嘗祭や新嘗祭に行われる、4,5人の舞姫による舞を五節舞という。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AF%80%E8%88%9E#/media/File:Gosechi_no_Mai-Hime_Shozoku.JPG(ウィキペディア 五節舞姫装束)

遍照は宮中を天上になぞらえ、そのため宮中に吹く風を「天つかぜ」と表現したと解釈されている。

僧侶がこんな好色な歌詠んでいいのか、と思っていたが(笑)、古今和歌集では作者は「よしみねのむねさだ(遍照の在俗時の名前)となっており、遍照が出家する以前に詠んだ歌だと一般には考えられている。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

⑦藤原高子、五節舞姫となる。

さて惟喬親王との世継ぎ争いに勝利した惟仁親王は859年に即位して清和天皇となったのであるが
この際の大嘗祭で、藤原良房の養女・藤原高子が五節舞姫をつとめている。
そして866年に藤原高子は清和天皇に入内して女御となった。

高子が清和天皇に入内したことで藤原良房はますます権力を高めていった。
藤原良房にとって高子は、天皇家と結びつきを強めるための大切な存在であった。

⑧「天つかぜ~」は高子入内を妨害する呪いの歌だった?

すると、僧正遍照が 
天つかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
と歌を詠んだ真意が見えてくるような気がする。

この歌にある「をとめ」とは859年の清和天皇即位に伴う大嘗祭で五節舞姫をつとめた藤原高子のことではないだろうか。
遍照は宮中を天上になぞらえてこの歌を詠んだとされていることを思い出してほしい。
遍照は「風よ、高子を天上(宮中)に入れないでくれ。清和天皇に入内させないでくれ」という意味で、この歌を詠んだのではないだろうか。

古今和歌集ではこの歌の作者名は「よしみねのむねさだ」と遍照が在俗時の名前になっているので、出家する前に詠んだ歌だと考えられている。
遍照が出家したのは849年、高子が五節舞姫を務めたのが859年なので、遍照が詠んだ五節舞を舞う乙女とは高子のことではない、と思われる方もいるかもしれない。

遍照出家後に詠んだ歌ではあるが、「高子を入内させないでくれ」というとんでもない内容の歌なので、
呪ったことがばれないように、あえて在俗時の名前で掲載されたという可能性もあると思う。

今は人を呪っても罪にはならないが、古には権力者を呪うことは罪として罰せられたのである。

あるいは「僧侶が好色な歌を詠むとはいかがなものか」との批判を避ける目的があったのかもしれない。

京都御所 平安装束の女性たち  
京都御所。(八坂神社 かるた始めに登場したかるた姫さんたちを合成)

 




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[2020/12/15 18:53] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱㊶『身投げした姥の正体とは?』 


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「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。

①注連縄掛神事(お笑い神事)『天岩戸神話と冬至』

12月25日はクリスマスだが、この日、 枚岡神社では注連縄(しめなわ)掛神事(お笑い神事)が行われる。
白装束の氏子さんたちが藁で新しい注連縄を作り、古い注連縄を外して新しい注連縄につけかえるのだ。

枚岡神社 注連縄掛神事 

新しい注連縄につけかえたあと、神職さん、巫女さん、氏子さん、一般の参拝者の方々も注連縄の前に並び、一斉に「わっはっはー」と笑う。
それだけ。シンプルな神事である。

枚岡神社 お笑い神事 

次のような神話がある。

天照大神が天岩戸にこもったとき、アメノウズメがストリップダンスをし、それを見ていた神々が笑った。
天照大神はその笑い声を聞いて「何を笑っているんだろう」と思い、少し天岩戸をあけたところを引っ張り出され、再び世の中に太陽の光がさすようになった。


「お笑い神事」はこれを表したものといわれている。

上の神話が何を表しているのかについて、二つの説がある。

①日食をあらわしているという説。
②冬至になって勢いが衰えた太陽をあらわしているという説。

「お笑い神事」はもともとは冬至の日におこなっていたそうなので、天照大神が天岩戸にこもったという神話は、⓶の「冬至になって勢いが衰えた太陽をあらわしている」ではないかと思える。

⓶池の中に浮かぶ神社

枚岡神社のご本殿の玉垣から中をのぞいてみると、そこは池になっており、鯉が泳いでいた。
そして池の向こう側に4つの本殿が並んでいる。
つまり、拝殿があり、池を挟んで本殿が並ぶという配置になっているのだ。
本殿前に池があるというのは珍しくないだろうか。
少なくとも、私は本殿前に池がある神社はここ枚岡神社しか知らない。

http://hiraoka-jinja.org/grounds-of-a-shrine/
上記、枚岡神社のhpには照沢池と書いてある。

枚岡神社 照沢池

 
水辺や池の中にある島に祀られることが多いのは、弁財天という女神である。

枚岡神社の御祭神は天児屋根命・比売御神・経津主命・武甕槌命で、一般には比売御神は女神、比売御神以外は男神だと考えられている。

そうではあるが、枚岡神社の神は女神のイメージが強い神であるような印象をうける。

枚岡神社 照沢池とご本殿

③姥ヶ火

ここ枚岡神社を舞台とした怪談がある。

600年前ごろ、枚岡神社の御神燈の油が盗まれるという事件が相次ぎ、生活に困った老婆が油を盗んで売っていたことが発覚した。
老婆は気の毒だとして許されたが、人の噂にいたたまれなくなり池に身投げした。、
その後、雨の夜になると池のあたりに青白い炎があらわれるようになった。(枚岡神社 姥ヶ池 説明版より)

あるとき、河内に住んでいる者が夜道を歩いていたところ、直径30㎝ほどの火の玉が顔に当たった。
よく見ると鶏のような形をしていたが、やがて火の玉に戻った。(諸国里人談)


Saikaku shokoku banashi Ubagabi

井原西鶴『西鶴諸国ばなし』より「身を捨て油壷」

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7e/Saikaku_shokoku_banashi_Ubagabi.jpg よりお借りしました。
Ihara Saikaku (井原西鶴, Japansese, *1642, †1693), Public domain, via Wikimedia Commons



枚岡神社本殿から向かって左に歩いていくと、緩やかな山道がある。
この山道を100mほども歩いていくと「姥ヶ池」と記された石碑があり、玉垣の中にコの字の形をした池がある。

土砂が埋まっていたのを、ボランティア団体が復元させたのだという。

姥ヶ池

池の中に弁財天が祀られるときには、下の写真に▲で示した場所に祠が作られることが多いのではないだろうか。
しかし、姥ヶ池の祠は異なる場所にある。

姥ヶ池

これは復元するときに誤った場所に社を建ててしまったのだろうか?
それとも何か呪術的な意味があるのだろうか?

④姥の正体は年をとった天照大神?

それはともかく、姥ヶ火、姥ヶ池というのだから、この妖怪(=神)は女性だ。
そして、鶏のような形をしているというのだから、この妖怪(女神)の正体は天照大神ではないかと思う。
というのは、天照大神の神使は鶏だからだ。

池に身投げした姥の正体は年をとった天照大神なのではないだろうか。

お笑い神事がかつては冬至に行われていたということを思い出してほしい。
冬至とは太陽の南中高度が最も低くなる日のことで、その日を境に太陽は再び南中高度をあげていく。
つまり、冬至とは古い太陽が死んで、新しい太陽が生まれる日だともいえる。

姥が火になった老女は、冬至の古い太陽(年とった天照大神)を比喩したものだといえるかもしれない。

姥ヶ池2

⑤日の神、語呂合わせで火の神に転じる?

こんな話がある。

晩年、小町は天橋立へ行く途中、三重の里・五十日(いかが・大宮町五十河)に住む上田甚兵衛宅に滞在し、「五十日」「日」の字を「火」に通じることから「河」と改めさせた。
すると、村に火事が亡くなり、女性は安産になった。
再び天橋立に向かおうとした小町は、長尾坂で腹痛を起こし、上田甚兵衛に背負われて村まで帰るが、辞世の歌を残して亡くなった。
九重の 花の都に住まわせで はかなや我は 三重にかくるる
(九重の宮中にある花の都にかつて住んだ私であるが、はかなくも三重の里で死ぬのですね。)
後に深草の少将が小町を慕ってやってきたが、やはり、この地で亡くなった。
(妙性寺縁起)


五十日→五十火→火事になる→五十河→河の水で火が消える→火止まる→ひとまる→人産まれる
このような語呂合わせのマジックで村の火事はなくなり、女性は安産になったというわけである。

小野小町は日の神(天照大神)であったが、河の神(水の神)に転じた物語であるとも考えられる。

姥ヶ火伝説の老女のほうは、もともと日の神(天照大神)だったが、語呂合わせで火の神=姥が火に転じたという物語のように思える。

⑥姥ヶ池は石油が湧き出る池だった?

『西鶴諸国ばなし』には「身を捨て油壷」と記されている。
「身を捨て油壷」とは「姥が身を捨てて油壷になったという意味だろうか。

油壺とは油を入れる壺のことかとおもったが、どうも油が湧き出るくぼみのことも油壷というようである。

https://naka-go.at.webry.info/201408/article_4.html
上記ブログ写真2枚目に「油壷跡」の写真がある。

姥が池とはもしかしたらこのような石油が湧き出る油壷だったのだろうか。

日本でも新潟県などかつて石油が採掘されていた場所はある。
しかし枚岡神社近辺で石油が採掘されていたという話は聞かないが、どうだろう?

枚岡神社のhpにも
「ご本殿周辺また若宮社周辺には神の森から絶えず命の水が湧き出ています。」
http://hiraoka-jinja.org/grounds-of-a-shrine/ より引用

とあり、姥ヶ池はご本殿からそう離れていないところから、油田ではなく、水がたまった池だった様にも思えるが。

油さし」というと、姥が火が消えるのはなぜ?

この老女が姥ヶ火となった話は、『西鶴諸国ばなし』でも「身を捨て油壷」として記述されている。
姥ヶ火は一里(約4キロメートル)をあっという間に飛び去ったといい、姥ヶ火が人の肩をかすめて飛び去ると、その人は3年以内に死んでしまったという。ただし「油さし」と言うと、姥ヶ火は消えてしまうという。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%A5%E3%83%B6%E7%81%ABより引用

なぜ「油さし」というと姥ヶ火は消えるのだろうか。

天ぷら油は360度以上になると発火するそうである。
火を消す方法のひとつに油をたして温度をさげるというのを聞いたことがある。
それで「油さし」というと姥が火は消えるなどと言う話が作られたのではないだろうか。
ただし、油をいれて温度を下げる方法は危険な場合もあるようなので、下記のような方法を試したほうがいいかもしれない。

※天ぷら油
が発火したときの対処法
・鍋の全面を覆うふたをして、空気を遮断しましょう。油温が十分に下がるまで時間をかけましょう。
・炎が大きくなってしまったら、消火器を使用し、速やかに消火しましょう。
・濡れたシーツやバスタオル等で覆い、空気を遮断します。(引火しないように注意してください)。

https://www.nikki-net.co.jp/knowledge/knowledge04  より引用

⑧油壺は血で染まった池?

油壺という地名もある。
神奈川県三浦半島に存在する湾のことを油壺湾といい、その付近(三浦市三崎町小網代の一部)の地名も油壺というようだ。

この地を支配していた三浦氏は、北条早雲の軍と戦ったが、1516年三浦義同(道寸)らは討死にし、残る者は油壺湾へ身を投げたという。
その際、湾一面が血で染まり、まるで油を流したようであったところから「油壺」と呼ばれるようになったといわれる。

『西鶴諸国ばなし』に「身を捨て油壷」とあるのは「姥が身を捨てて血でそまって油のようにみえた」ところからのネーミングだろうか?

⑨姥ヶ火はリンが燃えてできた人魂?

あるいは姥ヶ火は人魂の一種と考えることができるかもしれない。
人魂の正体について、次のようにいわれることがある。

土葬が主流だった時代、異体から抜け出したリンが雨水と反応して青白く光ったのではないか、と。

しかし、人や動物の骨に含まれるリンは発光しないそうだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%AD%82

⑩長木を作った離宮八幡宮の神官は惟喬親王?

それはさておき姥が火の伝説に
枚岡神社の御神燈の油が盗まれるという事件が相次ぎ、生活に困った老婆が油を盗んで売っていたことが発覚した。
とあるのに注意してほしい。

私たちは長木とよばれる油を絞る道具を作った神官の話を知っている。
そう、平安時代に離宮八幡宮の神官が長木を作ったのだった。
(参照/惟喬親王の乱⑲離宮八幡宮 紅葉 『搾油器を発明した神官の正体とは?』  

山崎 油売り

長木の図 
離宮八幡宮 説明板より

この長木の「棒に綱を巻き付ける構造」は、惟喬親王が発明したといわれるろくろに似ている。

ろくろ

また離宮八幡宮は石清水八幡宮の元社である。

もともと離宮八幡宮の地に石清水八幡宮があったのだが、石清水八幡宮は淀川の対岸にある男山にうつり
この社は離宮八幡宮と神社名が改められたのだ。

私は
搾油器を発明した離宮八幡宮の神官とは惟喬親王ではないかと考えている。
惟喬親王は巻物が転がるのを見てろくろを発明したと伝えられるが、これと同じように、巻物を転がるのを見て搾油器を発明した、と信じられたのではないか?

石清水八幡宮を創建した清和天皇と惟喬親王(844-897)は異母兄弟である。

どちらも父親は文徳天皇、清和天皇の母親は藤原良房の娘・明子、惟喬親王の母親は紀名虎の娘・静子である。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子につけたかった。
しかし、時の権力者は藤原良房。
源信はこの藤原良房を憚って、「惟喬親王を皇太子にしたい」という文徳天皇を諫めた。
こうして清和天皇が皇太子についた。

惟喬親王と清和天皇の間には藤原氏と紀氏の世継争いという因縁があるのだ。

山崎 油売り2

離宮八幡宮 説明板より

⑪八幡神は身をひくことで皇位継承をもたらす神

八幡宮の総本社は宇佐八幡宮である。
奈良時代、この宇佐八幡宮は「道鏡を天皇とするべし」「道鏡を天皇にしてはならない」という相反する二つの神託を下している。

また宇佐八幡宮には天皇即位や国家異変の際に勅使(ちょくし―天皇の使い)が派遣される習慣があった。
八幡神は皇位継承の神として信仰されていたのだと思う。

そして八幡宮の主祭神は応神天皇だが、この応神天皇が伊奢沙和気大神(福井県敦賀市の気比神宮の神)と名前を交換したという話が古事記にある。

応神天皇は伊奢沙和気大神となって気比神宮に祀られ、神饌として大漁のイルカがお供えされた。
そして伊奢沙和気大神は応神天皇となり、ちゃっかり皇位についたという話のように思える。
これは政権交代を意味する物語ではないだろうか。

つまり、八幡神=応神天皇は自分の身をひくことによって、他者の皇位継承をもたらす神だといえ、
惟喬親王のイメージと重なるのである。

⑫離宮八幡宮の搾油機を作った神官(陽)と、枚岡神社の油を盗んだ姥(陰)は同じ神?

離宮八幡宮の神官は油を搾る道具をつくり、枚岡神社ではご神燈を盗んだ老女が姥ヶ火という妖怪になった。
そして枚岡神社は藤原氏の氏神だが、同じく藤原氏の氏神である大原野神社の狛鹿の雄島は巻物をくわえ、雌鹿はどんぐりの帽子をかぶっていた。

大原野神社 雄鹿 
↑↓ 大原野神社の狛鹿

大原野神社 雌鹿




上の動画で、こんなことを言っている。

1:10あたり 惟喬親王はあるものを見てお椀の形を思いついた。そのあるものとは・・・・どんぐりの帽子。
3:55あたり 手挽きろくろも惟喬親王があるものを見て考案した。そのあるものとは・・・・巻物。

また大原野神社には文徳天皇(惟喬親王の父)が作った鯉沢池や、清和天皇(惟喬親王の異母弟)が産湯につかった瀬和井などもある。

私は大原野神社の御祭神には惟喬親王のイメージが重ねられていると考えた。

すると同じ藤原氏の氏神である枚岡神社の神にも惟喬親王のイメージが重ねられているのではないか?
そして油を盗んだ姥とは年老いた惟喬親王ではないか?

神社名伝説陰陽
離宮八幡宮平安時代、神官が搾油機の長木を発明
枚岡神社約600年前、姥が枚岡神社御神燈の油を盗んだ


惟喬親王は男である。しかし、私は小野小町の正体とは男であり、小野宮と呼ばれた惟喬親王の事ではないかと考えている。
これについては詳しく

これについては詳しく「小野小町は男だった」のシリーズで述べたが、簡単にまとめておく。

a
古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

とすれば、小野小町は100歳の老婆になったという話があり、枚岡神社の姥とは小野小町=惟喬親王をモデルに創作されたものだと考えられる。

なんでもかんでも惟喬親王に結び付けすぎだよ!
とか言われそうだw。

しかし、ここ枚岡神社は千手寺に近く、直線距離で1.5kmほどしか離れていない。
そして、千手寺パンフレットにはこんな伝説が伝えられていたのだった。

その後、維喬親王(これたかしんのう:844~897)の乱で、堂宇は灰燼に帰したが、本尊の千手観音は深野池(現大東市鴻池新田あたりにあった)に自ら飛入り、夜ごとに光を放つを見た在原業平がこれを奉出し、これを本尊として寺を再建したと伝える。
 維喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。

[参考資料] 『恵日山 光堂千手寺』 千手寺パンフレット
         『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社


惟喬親王の乱が本当にあったとしたら、枚岡神社付近にもその影響は及んだことだろう。





石切劔箭神社


・清和天皇は文徳天皇の第二皇子として850年に生まれ、生まれたばかりで皇太子となった。
そして858年、わずか8歳で即位した。政治は清和天皇の外祖父の藤原良房がとっていた。
石清水八幡宮の創建は860年、清和天皇の勅命によってとされるが、このとき清和天皇は10歳。
石清水八幡宮の創建は藤原良房の意思によるものだと考えるのが妥当。

 ・文徳天皇には清和天皇のほかに第一皇子の惟喬親王があった。
清和天皇の母親は藤原良房の娘の藤原明子、惟喬親王の母親は紀名虎の娘の紀静子だった。
文徳天皇は惟喬親王のほうを皇太子につけたいと考えており、これを源信に相談している。
源信は藤原良房をはばかって文徳天皇をいさめたという。

・世継争いに敗れた惟喬親王は御霊として大皇器地祖神社
(おおきみきじそじんじゃ)、筒井神社、玄武神社などに祀られている。
御霊とは、怨霊が祟らないように慰霊されたもののことをいう。
つまり、惟喬親王は怨霊であったということである。

・石清水八幡宮の神主は代々紀氏が世襲していた。
日本では古より先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべき、と考えられていた。
石清水八幡宮の御祭神・八幡神と惟喬親王はイメージを重ねられており、惟喬親王は紀氏の血筋の親王なので、石清水八幡宮は紀氏が祭祀するべきであると考えられたのではないか。




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惟喬親王の乱㊷『天つ風~は藤原高子入内を妨害する歌?』 につづきます~


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[2020/12/14 09:50] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱㊵ 千手寺 『惟喬親王の乱と在原業平腰掛石』 


トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  

惟喬親王の乱㊴『大原野神社の神相撲は世継争いに負けたことを知らしめるための行事?』  よりつづきます~


「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


大阪府東大阪市 千手寺

石切神社

石切劔箭神社

①千手寺

新石切駅から石切劔箭神社へ。
石切劔箭神社から石切参道商店街の緩やかな坂をのぼると
石切大仏がある。

石切大仏 

石切大仏

石切は精力ドリンク「赤まむし」などを製造・販売するサカンポー(阪本漢方製薬)の創業地で、
そのサカンポーの4代目・阪本昌胤さんが石切大仏を建立したそうである。

そういえば石切商店街にこんな ↓ 看板があった。店自体はなかったが、看板のみ残してあるのだろう。

石切参道商店街3

石切大仏からさらに登っていくと千手寺がある。

千手寺

千手寺

②維喬親王=惟喬親王、維仁親王=惟仁親王

千手寺について、次のように記されているサイトがあった。

当山の縁起は1574年(天正2年)に記された寺伝によれば、今から約1300年前、笠置山の千手窟で修行していた役行者が、神炎に導かれ当地に来て千手観音の出現に出会い、一宇を創建し、恵日山千手寺と名付けた。以後里人はこの堂を光堂とよび、この地を神並(こうなみ)の里と呼ぶようになった。
 また、平安時代の初め、弘法大師がこの寺に止宿した際、当寺守護の善女竜王が夢に現れ、補陀落山の香木を与えた。大変喜んだ大師はこの木で千手観音像を刻し本尊とした。
 その後、維喬親王(これたかしんのう:844~897)の乱で、堂宇は灰燼に帰したが、本尊の千手観音は深野池(現大東市鴻池新田あたりにあった)に自ら飛入り、夜ごとに光を放つを見た在原業平がこれを奉出し、これを本尊として寺を再建したと伝える。
 維喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。

 いずれにしても、役行者、弘法大師、維喬親王、在原業平と歴史上の人物が次々と登場するこの寺の寺伝は一大叙事詩でもある。

[参考資料] 『恵日山 光堂千手寺』 千手寺パンフレット
         『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社



http://www12.plala.or.jp/HOUJI/otera-2/newpage175.htmより引用

ここに維喬親王(これたかしんのう:844~897)とでてくるが、これは惟喬親王のまちがいだろうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B
上記ウィキペディアに惟喬親王について記されているが、生没年も同じだし、文徳天皇の第1皇子というのも同じである。
また第4皇子を維仁親王(後の清和天皇)としてるが、こちらも惟仁親王のまちがいではないかと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
あるいは維喬親王・維仁親王のように記すこともあったのかもしれないが、ネット上でそういった表記は他に見たことがない。

もしかしたら千手寺では惟喬親王・惟仁親王ではなく維喬親王・維仁親王と伝えているのかもしれない。

維喬親王は惟喬親王、維仁親王は惟仁親王と考えて間違いはないだろう。
ややこしくなるので、以下、維喬親王・維仁親王ではなく惟喬親王、惟仁親王と記すこととする。

惟喬親王像 

惟喬親王像 (木地師の里)

惟喬親王の乱

②でご紹介した記事に「惟喬親王の乱で、堂宇は灰燼に帰した。」とある。

私は惟喬親王については大変興味があり、いろいろ調べて記事をたくさん書いている。
しかし「惟喬親王の乱」というのはウィキペディアにも記述がないし、他のサイトでも読んだことがない。

上の記事でも次のように記している。

「惟喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。」


しかし、私は「惟喬親王の乱」がなかったとはいいきれないと思う。

千手寺 在原業平 菅原道真を祀る社 

千手寺 在原業平 菅原道真を祀る社

④藤原氏vs紀氏のバトル!

惟喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の惟仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかった」について、このシリーズで何度も書いたが、復習の意味で繰り返しておく。

文徳天皇は紀静子(紀名虎の娘)との間に第一皇子の惟喬親王、藤原明子(藤原良房の娘)との間に第四皇子の惟仁親王をもうけていた。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子につけたいと考えて源信に相談しましたが、源信は時の権力者・藤原良房を憚って天皇をいさめた。

こうして生まれたばかりの惟仁親王が皇太子となった。

平家物語などに次のように記されている。

藤原良房と紀名虎はいずれの孫(惟仁親王vs惟喬親王)を立太子させるかでもめ、高僧による祈祷合戦、相撲などによるバトルを繰り返した末、藤原良房が勝利し、惟仁親王が立太子した。

この話は史実ではない。
というのは惟仁親王が生まれたとき、紀名虎はすでに亡くなっていたからだ。
しかし藤原氏と紀氏に確執があったことは確かだろう。

ちなみに愛宕山にはこれに関係する次のような伝説が伝えられている。

空海の高弟であった知恵優れた僧が、惟喬親王と惟仁親王(後の清和天皇)の皇位争いの際に惟喬親王について、
惟仁親王についた天台僧と壮絶な呪詛合戦を繰り広げた末に敗北し、この恨みをはらすために天狗(怨霊)となって天皇家を脅かし続けた。
この天狗が、生前に修行を積んだ愛宕山に住み着いて太郎坊天狗となった。

惟喬親王の乱㉟ 愛宕神社 『惟喬親王側について呪詛合戦をした太郎坊天狗』 


千手寺2

⑤惟喬親王の歌会はのろいの会だった?

紀名虎の子で紀静子の兄(つまり惟喬親王の叔父)・紀有常、在原業平は惟喬親王の寵臣だった。
世継争いに敗れた惟喬親王は紀有常や在原業平をお供として交野ケ原(現在の交野市・枚方市付近)に狩をしにやってきて、渚の院(枚方市)で桜をめでつつ歌会を催すなどしている。

これについて、世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は文学の世界に情熱を傾けたのだろう、と一般にはいわれている。

しかし、そうではなく、彼らは歌会と称して藤原氏をのろっていたのではないかというような意味のことを高田祟史さんがおっしゃっていた。

私は彼の説を支持する。

たとえば伊勢物語「渚の院」の段ににこんな歌が掲載されている。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし /右馬頭(在原業平)
(世の中に桜がなかったなら、春の心はもっとのどかなものだっただろうに。)

散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき ※この歌を詠んだのは右馬頭ではない別の人だと記されているだけで、名前は記されていません。
(散るからこそ、桜はすばらしいのです。憂世に永遠に存在するものなんてあるでしょうか。)


渚の院 歌碑 

⑥馬頭は在原業平

ここに登場する右馬頭とは在原業平のことである。
というのは伊勢物語に記された右馬頭の歌は古今和歌集では在原業平作となっているからである。

「右馬頭の名前は忘れた」と伊勢物語の作者は言っているが、これは嘘なのである。
伊勢物語の作者は紀貫之ではないかといわれているが、紀貫之は古今和歌集を編纂した人物であって、知らないはずがないのだ。
彼は土佐日記では自らを女と偽って日記を書いているし、
古今和歌集仮名序でも喜撰法師のことを「よく知らない」と書いているが、おそらく喜撰法師とは紀仙法師で紀名虎(紀有常の父)または紀有常、または惟喬親王のことだと思われ、親族である彼らのことを貫之が知らないはずがない。
紀貫之と言う人は一筋縄ではいかない人だという印象を私は持っている。

⑦惟喬親王と惟仁親王の世継争い。

文徳天皇には紀静子(紀名虎の娘、紀有常の妹)との間に長子の惟喬親王、藤原良房の娘・藤原明子との間に惟仁親王(のちの清和天皇)があった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと源信に相談している。
文徳天皇が世継ぎにしたいと考えていたのは藤原明子所生の惟仁親王ではなく、紀静子所生の惟喬親王だったのだ。
源信は当時の権力者・藤原良房を憚って文徳天皇を諌め、惟仁親王が皇太子になったのだが。

⑧在原業平と紀氏、藤原氏の関係


業平は惟喬親王の寵臣で、また紀静子の兄・紀有常の娘を妻としていて完全に紀氏側の人間だった。
また世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いていますが、歌会と称してクーデターを計画していたのではないかとも言われている。

伊勢物語・渚の院は、惟喬親王の歌会のようすを描いたものである。

在原業平は惟喬親王の歌会のメンバーであり、クーデターの首謀者だったのではないかとする説もある。
在原業平はなぜか「色好み」ばかりがクローズアップされているが、政治的に不遇で、反骨精神にあふれた人物であったと考えられる。

⑨桜散り老い来る道

言霊という言葉がある。
口に出した言葉は実現する力を持つという信仰のことである。

言霊はプラス思考のことだととらえられがちだ。
例えば、「私はできる」と考えると本当にできるようになると言われる。
これはある程度正しい。

しかし、古の日本人はこのようなプラス思考のほかに、呪術的な目的をもって言霊を信仰していたように思われる。
呪術は他人に気がつかれないようにかけなければいけない。
古には国家や貴人を呪うことは重罪とされていたからだ。
和歌の掛詞・縁語・もののななどのテクニックはこのようなことを背景にできたのではないかと思う。

高田祟史さんは和歌は呪術ではないかとし、在原業平が藤原基経(藤原良房の養子)に送った次のような歌の例をあげておられる。

桜花 散りかひくもれ 老いらくの 来むといふなる 道まがふがに
(桜花よ、散り乱れて空を曇らせておくれ。老いというものがやってくるという道が花びらでまぎれて見分けられなくなるように。)


業平は五七五七七の初句に「かきつばた」を読み込んだ歌を詠んでいる。

唐衣 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ
(何度もきて身になじんだ唐衣のように、慣れ親しんだ妻を都に置いてきたので はるばる遠いところまで やってきた旅を しみじみと思う)


らころも つつなれにし ましあれば るばるきぬる  びをしぞおもふ

上の歌の五七五七七の初句をつなげると「かきつはた」となる。

花 りかひくもれ いらくの むといふなる まがふがに

上の歌も、「かきつばた」の手法が用いられていると高田祟史氏は主張する。
五七五七七の初句をつなげると「桜散老来道」となる。
「桜散老来道」は漢語であり、読み下すと「桜散り老い来る道」となり、業平が藤原基経を呪った歌だというのだ。

⑩桜は藤原氏または藤原氏の栄華の象徴?

惟喬親王の渚の院での歌会は、呪術会だったのではないか?

世の中に たえて桜の なかりせば  春の心は のどけからまし
(世の中に 桜というものがなかったならば、春の心は もっとのんびりしていただろうに)


また他の人の歌、
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になに か久しかるべき
(散るからこそ桜はすばらしいのだ。悩み多き世の中に、変わらないものなどあるだろうか。) 


この二首は藤原良房が詠んだ次の歌を受けたものだと思う。

染殿の后のおまへに花瓶(に桜の花をささせたまへるを見てよめる
年ふれば 
()は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし/藤原良房
(年を経たので、齢は老いた。そうではあるが、美しい桜の花をみれば物思いにふけることもない)

染殿の后とは藤原良房の娘、明子のことである。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし/在原業平

この歌に詠まれた、桜とは藤原氏の栄華のことで
「世の中に藤原氏の栄華がなければ、春の心がこんなにイライラすることはなかっただろうに。」という意味ではないだろうか。

また

散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき 
 
は藤原氏の栄華は散るからめでたいのだ。思い悩むことの多い世の中だが、藤原氏の繁栄がいつまでも続いたりはしないだろうという意味だと思う。

古の日本では言霊信仰といって、口に出した言葉には実現させる力があると信じられていた。
これは、つまり歌は文学などではなく呪術であったということである。

惟喬親王は歌会と称して藤原氏を呪っていたのではないだろうか。

渚の院 淡墨桜 
渚の院 淡墨桜

⑪なぜ惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖とされているのか?

枚方市には茄子作という地名がありここで惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれている。

惟喬親王は鉄鋼鋳造と関係が深そうに思える。

本尊掛松(枚方市茄子作) 

本尊掛松(枚方市茄子作)

大阪府三島郡島本町広瀬には粟辻神社があって、鍛冶屋の祖神として惟喬親王と在原業平を祀っている。

なぜ惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖とされているのだろうか。

惟喬親王は木地師の祖とされているが、木地師が用いるカンナはかつては木地師自身で作っていたという。
つまり、木地師は鍛冶屋でもあったのだ。
そのため惟喬親王は鍛冶屋の祖とされているのかもしれない。

また、かつて鍛冶屋は刀や弓矢などの武器をつくっていた。
惟喬親王と在原業平は挙兵をけいかくしており、武器を製造していたため、鍛冶屋の祖神として祀られているのかもしれない。


粟辻神社

粟辻神社

⑫腰掛石は怨霊の執念がしみついた石?

在原業平腰掛石 

千手寺 在原業平腰掛石

千手寺境内には在原業平腰掛石があった。

腰掛石と呼ばれるものはほかの寺にもある。

宇多天皇が創建した京都の仁和寺には菅公腰掛石があり、次のような伝説がある。

道真は藤原時平の讒言により流罪となった。
道真は大宰府に向かう途中、仁和寺に立ち寄り、冤罪であることを宇多上皇に訴えようとした。
しかし宇多上皇は留守だった。
仕方なく道真は石に座って帰りを待っていたが、会うことができないまま大宰府へ流されていった。


仁和寺 菅公腰掛石

仁和寺 菅公腰掛石

また奈良の手向山八幡宮にも菅公腰掛石がある。

道真は宇多天皇の行幸に付き従って手向山八幡宮へやってきてこんな歌を詠んだとされる。


このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに/菅家(菅原道真)
(今回の旅は急な旅で幣も用意することができませんでした。かわりに紅葉の錦を捧げます。どうぞ神の御心のままお受け取りください。)


手向け山八幡宮 紅葉

手向山八幡宮

『このたびは』の『たび』は『度』と『旅』に掛かる。

幣とは神への捧げ物のことで、絹や紙を細かく切ったものを道祖神の前で撒き散らす習慣があった。
今でも、神事のときに神主さんが細かく切った紙をまき散らしているのを見かけるが、これが幣だと思う。

一言主神社 天狗と幣を撒く人

幣(一言主神社にて)

道真が手向山八幡へやってきたとき、風がふいて紅葉がはらはらと散っていたのだろう。
それで、道真は紅葉を幣のかわりにしたということだろう。

菅原道真は宇多天皇にひきたてられて昇進した人物だった。
897年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位した。
このとき宇多天皇は『ひきつづき藤原時平と菅原道真を重用するように』と醍醐天皇に申し入れた。

醍醐天皇の御代、菅原道真は右大臣、藤原時平は左大臣になった。
当時の官職や位は家の格によって最高位が定まっており、道真の右大臣という地位は菅原氏としては破格の昇進だった。

道真の能力を恐れた藤原時平は醍醐天皇に次のように讒言した。
『道真は斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀っている』と。
斉世親王は宇多天皇の第3皇子で、醍醐天皇の異母弟である。
そして斉世親王は道真の娘を妻としていた。

醍醐天皇は時平の讒言を聞き入れ、901年、道真を大宰府に流罪とした。
そして903年、道真は失意のうちに大宰府で死亡した。

大阪天満宮 人形 

大阪天満宮に展示されている雷神となって祟る菅原道真の怨霊の人形

その後、都では疫病が流行り、天変地異が相次ぎ、これらは菅原道真の怨霊の仕業だと考えられた。

⑬菊野大明神

京都市中京区に法雲寺という寺があり、境内に菊野大明神が祀られている。

菊野大明神

菊野大明神


ご神体は深草少将が腰掛けたという石だというが、柵で囲まれているので御神体の石がどこにあるのかわからなかった~。

髄心院に伝わる伝説によれば、深草少将は小野小町に「百夜通したならば100日目に会ってあげる。」と言われて実行したのだが、99日目の夜に死んでしまったとされる。

深草少将腰掛石にはその恨みが籠もっているので男女の仲を裂くといわれている。

このように見てみると、官公腰掛石は官公の、菊野大明神の深草少将腰掛石は深草少将の恨みが籠った石ではないかと思える。
すると在原業平腰掛石もまた、業平の恨みが籠った石なのではないだろうか?

千手寺 在原業平腰掛石 
千手寺 在原業平腰掛石

千手寺-石切観音 水子地蔵 
千手寺-石切観音 水子地蔵




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惟喬親王の乱㊶『身投げした姥の正体とは?』 につづきます~



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[2020/12/05 09:56] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱㊴『大原野神社の神相撲は世継争いに負けたことを知らしめるための行事?』 

トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱㊳『大原野神社の鹿の巻物とどんぐり帽子』 よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


大原野神社 御田刈祭 行列 

①大原野神社は惟喬親王を祀る神社?

惟喬親王の乱㊳『大原野神社の鹿の巻物とどんぐり帽子』 
こちらの記事で、私は次のようにのべた。

惟喬親王は大原野神社の四柱の神(武御賀豆智命・伊波比主命・天之子八根命・比咩大神)いずれかと同一視して祀れれているのではないか、と。

その理由は、神殿前の鹿の像の一体が巻物をくわえ、もう一体が頭にどんぐりの帽子を乗せていることにあった。

大原野神社 雄鹿 
大原野神社 狛鹿 ↑ ↓

大原野神社 雌鹿

惟喬親王は巻物が転がるのを見て木地師が用いるろくろを発明し、どんぐりの帽子から茶碗の形を思いついたという伝説があるだ。

また、大原野神社には文徳天皇が作ったとされる鯉沢池や、清和天皇が産湯に使ったと伝わる瀬和井(せがい)があるが
文徳天皇は惟喬親王の父親、清和天皇は惟喬親王の異母弟である。

文徳天皇は紀静子との間にできた惟喬親王を皇太子にしたいと考え、源信に相談している。
源信は藤原良房(藤原明子の父・清和天皇の祖父)をはばかって天皇を諫めた。
こうして文徳天皇と藤原明子の間にできた惟仁親王(後の清和天皇)が皇太子となったのだった。

このように惟喬親王と関係の深い人物ゆかりの地と伝わっていることも、惟喬親王が大原野神社の神と同一視されているのではないかとの推論を裏付けているように思える。(気のせいかw)

大原野神社 御田刈祭

⓶重陽とは何か

この大原野神社では9月第2日曜日に御田刈祭が行われ、神相撲が奉納されている。
 1717年より300年以上続く伝統神事であるという。

大原野神社の神相撲はたぶん、9月9日の重陽の節句にちなむ行事ではないかと思う。

陰陽道ではすべてのものは陰陽両面をもつと考える。
例えば人間は男が陽で女が陰。天地では天が陽で地が陰である。
数字では、奇数が陽、偶数が陰である。

古代中国では、1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日は、「陽(月)+陽(日)=陰」になるとして避邪の行事が行われていた。
1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日は五節句といわれ、お祝いをしたりするが、もともとは避邪の行事だったのである。

特に9は一桁の奇数としては一番大きな数であるために「陽の極まった数」と考えられ、「陽の極まった数の重日」ということで「重陽」と呼ばれていた。
日本においても宮中では「観菊の宴」などが開かれ、盛大に祝われた。

大原野神社 御田刈祭3

③重陽と惟喬親王

京都では様々な寺社で重陽の節句の行事が行われているが、中でも有名なのは法輪寺の重陽神事だろう。

周の穆王が寵愛していた少年・菊慈童は、あるとき誤って帝の枕の上を超えてしまい、レッケン山に流刑となった。
穆王は菊滋童に観世音菩薩 普門品というお経にある「具一切功徳慈眼視衆生、福聚海無量是故応頂禮」を毎日唱えるようにと言った。
菊慈童がこれを菊の下葉に書きつけたところ、菊の下葉の露が不老長寿の薬となった。
そしてそれを飲んだ菊滋童は700歳の長寿を得た。

この伝説にちなみ、法輪寺では菊滋童の舞が奉納される。

そしてこの法輪寺に惟喬親王が籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説がある。
即身仏となるべく入定する際に漆のお茶を飲んだという。
そうすることで胃の中の者を吐き出し、また漆の防腐作用で死後腐りにくい体になったという。

昔の人は腐らない肉体があることを不老長寿と考えていたようで、即身仏となる目的は56億7000万年後に弥勒菩薩があらわれる、その際に復活して彼の聖業に参加することであったと聞いたことがある。

そう考えると惟喬親王と菊滋童のイメージが重なる。



法輪寺 重陽神事2

法輪寺 重陽神事




平家物語などに紀名虎と藤原良房が、いずれの孫を立太子させるかでもめ、相撲や高僧の祈祷合戦などのバトルを繰り広げた結果、藤原良房が勝利したと記されている。

これは史実ではない。
というのは、惟仁親王が生まれたときすでに紀名虎はなくなっていたからだ。
しかし、紀氏と藤原氏に確執があったことは確かだろう。

惟喬親王の乱⑬ 上加茂神社 烏相撲 『紀名虎&藤原良房の世継ぎ争い』  

そしてこちらの記事には次のように書いた。

「烏相撲は上賀茂神社の親神である松尾の大山咋神に見せるために行われている」といわれているが

紀名虎または惟喬親王は、松尾の大山咋神とイメージが重ねられており
烏相撲は、紀名虎または惟喬親王に、「世継ぎを決める相撲で、あなた方は負けたんだよ」ということを思い出させるために行われているのかもしれないと。

上賀茂神社 烏相撲

上賀茂神社 烏相撲

この上賀茂神社の烏相撲と同様、大原野神社の神相撲もまた
紀名虎または惟喬親王に、「世継ぎを決める相撲で、あなた方は負けたんだよ」ということを思い出させるために行われているのかもしれない。


大原野神社 御田刈祭2 


大原野神社 赤ちゃん土俵入り4


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惟喬親王の乱㊵ 千手寺 『惟喬親王の乱と在原業平腰掛石』 につづきます~



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[2020/11/25 10:28] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)