建築の神が住む町⑬ 西陣の聖徳太子信仰 その1 

建築の神が住む町⑫ 釘抜地蔵 『またしても建築の神!』  よりつづく~

今までの旅の記事を書いたあとで、あっと気が付いたことがいくつかある。
そこで整理の意味もこめ、再度、今までの旅を振り返ってみたいと思う。

①北野廃寺跡は蜂岡寺跡?


駅の東北の角に京都信用金庫がある。
その京都信用銀行の南側、今出川通りに面したところに、小さな石碑があり「北野廃寺跡」と記されている。

北野廃寺跡

北野廃寺跡は、蜂岡寺の跡であるとする説、野寺の跡とする説がある。

蜂岡寺とは現在太秦にある広隆寺の前身とされる寺である。
広隆寺は現在は太秦にあるが、もともとは別の場所にあり鉢岡寺という寺名だった。

この石碑があるあたりを発掘調査したところ、「鵤室(いかるがむろ)」と墨書された灰釉陶器が発見された。
奈良には斑鳩(いかるが)という地名があり、聖徳太子が創建したと伝わる法隆寺がある。
そして広隆寺は飛鳥時代に秦河勝が聖徳太子より授かった仏像を安置するために建てたと伝わっている。
「鵤室」と記された陶器があるのは、蜂岡寺が法隆寺と同じ聖徳太子ゆかりの寺であるためだというのだ。

広隆寺 
広隆寺


また「野寺」と墨書された平安時代前期の土師器も発見されている。
野寺は別名を常住寺ともいい、日本後記に寺名が記載されている。
884年に焼失、復興されたが室町時代に廃寺となっている。

建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』 

②菅原道真は「年の変わり目」の神だった?

北野廃寺跡と記された石碑から、東へ400mほどのところに北野天満宮がある。

北野天満宮 梅

全国に天満宮は数多くあるが、たいてい境内には梅が植えられている。
梅が植えられているのは、天満宮の御祭神・菅原道真が藤原時平の讒言によって大宰府に左遷された際、道真の庭の梅が道真を慕って都から大宰府まで飛んできたという伝説(飛梅伝説)に基づくものだろう。
道真は梅の花の神だといってもいいだろう。

そして、道真は梅の花の神から「年の変わり目」の神へと神格を広げていく。

梅は1月1日、または2月3日の誕生花である。
旧暦1月1日は元旦で、このころから梅の花は咲き始める。
新暦2月3日は節分(立春の前日。暦法・二十四節気の大晦日)で、旧暦では正月ごろにあたる。

つまり、2月3日=大晦日、1月1日=元旦で、梅は「年の変わり目」をあらわし、梅の神・菅原道真は「年の変わり目」の神となったと考えられる。

建築の神が住む町② 北野天満宮 梅 『梅は1月1日と2月3日の誕生花』 


菅原道真が「年の変わり目」の神であることを示す例は、他にもある。

京都では正月に梅干しを入れた大福茶を飲む習慣があり、北野天満宮ではこの大福茶に用いる大福梅を、正月事始めの12月13日より授与している。

北野天満宮 大福梅 

北野天満宮で求めた大福梅

なぜ正月に梅干しをいれた大福茶を飲むのかというと、前述したように、梅が「年の変わり目」をあらわしているからだろう。
梅干しを入れたお茶を飲むことは、年の変わり目を飲み干すことで新年を迎えるというおまじないだと考えられる。

建築の神が住む町⑥ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』 

また北野天満宮では大晦日から新年にかけて吉兆縄で御神火をもらいうける朮詣の習慣があり、この火を持ち帰り、お雑煮を焚いて食べると無病息災のご利益があるなどと言われている。

これも、道真が「年の変わり目」の神であるところから生じた習慣だと思う。

北野天満宮 朮詣


建築の神が住む町⑧ 北野天満宮 雪 朮詣 『天神さんは黄泉の神で1年の変わり目の神だった』 

③丑寅は怨霊をあらわす?

②菅原道真は「年の変わり目」の神だった? で、道真は飛梅伝説から梅の神となり、梅は「年の変わり目」をあらわすので、道真は「年の変わり目」の神になったと書いた。
しかし、飛梅伝説から梅の神になったというよりは、道真は丑寅の神から梅の神、「年の変わり目」の神になったと考えたほうがいいかもしれない。

道真はすぐれた政治家で身分を超えて右大臣にまで登りつめた。(菅原氏は学者の家柄で政治家になれるような家柄ではなかった。)
道真に嫉妬した藤原時平は醍醐天皇に「道真は謀反を企てている」と讒言した。
その結果、道真は大宰府に左遷となり、数年後に亡くなった。

道真の死後、疫病や天災が相次ぎ、それらは道真の怨霊のしわざであると考えられた。

特に、清涼殿落雷事件では道真左遷に関与した多くの人物が死傷し、道真の怨霊の仕業として恐れられた。

怨霊とは鬼であるといっていいだろう。
道真は怨霊であり、鬼であった。

12か月を干支でいうと、12月は丑月、1月は月である。
二十四節気では小寒(新暦1月6日ごろ)から立春(新暦2月4日ごろ)までが丑月、立春(新暦2月4日ごろ)から啓蟄(新暦3月6日ごろ)までが寅月、である。

1月1日(旧暦)・・・旧暦の新年・・・・・・・・・・・寅
2月3日(新暦)・・・二十四節気の大晦日(節分)・・・丑

②菅原道真は「年の変わり目」の神だった? で、天満宮のシンボル・梅「年の変わり目」をあらわすと書いたが、梅=年の変わり目は、丑寅を表していると言ってもいい。

丑寅は暦では年の変わり目を表すが、方角では鬼の出入りする方角=鬼門である。
吉備津彦が退治した温羅という鬼は、別名を「丑寅御前」という。
このことは、丑寅=鬼であることを示している。

道真は鬼=丑寅の神=1年の変わり目の神=梅の神というふうに神格を広げていったのかもしれない。

④北野天満宮に秦氏の気配

私は北野天満宮に菅原道真の気配だけでなく、秦氏の気配を持感じた。

例えば、北野天満宮で正月に行われている新春奉納狂言。
新春奉納狂言では年によって異なる演目が演じられるが、『末広がり』と『福の神』のふたつの演目は毎年演じているそうである。

そのうち『福の神』には出雲の神(大国主命)と思われる神が登場し、参拝者が奉納した酒を、まず松尾の神に捧げてから飲み干すというシーンがある。

北野天満宮 新春奉納狂言 福の神

松尾の神とは松尾大社の神のことであり、松尾大社でも11月の上卯祭でこの「福の神」が奉納されている。
そして、松尾大社は秦氏の氏神なのだ。
つまり北野天満宮では毎年正月に福の神=出雲大社の神(大国主命)が、松尾大社の神=秦氏の神に酒を捧げているということになる。
北野天満宮は秦氏の神を厚く崇敬しているように思える。

狂言『末広がり』において、大蔵流では「傘を差すなる春日山、これもかみのちかいとて、人が傘を差すなら、われも傘を差そうよ…」(大蔵流)と謡うそうである。
(※北野天満宮の新春奉納狂言の『末広がり』では「傘を差すなる春日山、これもかみのちかいとて」と謡っていたかどうか、確認できなかったのだが。)

春日山は奈良市の春日大社の裏にある御蓋山(三笠山)の通称である。
三笠山という山名は、傘をさしたような山の形からくる。
それで「傘を差すなる春日山」と謡っているのだろう。

北野天満宮 新春奉納狂言 末広がり

それでは、「人が傘を差すなら、われも傘を差そうよ…」とはどういう意味なのか。
「人」とは春日山のことではないかと思う。
そして「われ」とは松尾大社の裏にある松尾山のことではないか。

つまり、春日山が神が降臨した山だとされているように、松尾山も神が降臨した山になろう、と謡っているようにも思えるのである。

建築の神が住む町⑨ 北野天満宮 新春奉納狂言 福の神 『福の神の正体』 

北野天満宮で節分の日に行われている北野追儺狂言は、北野天満宮の摂社・福部社の神が鬼を追いはらう狂言だとされる。

北野追儺狂言 福の神


私は「福部(ふくべ)の神」と聞いて池田理代子さんの漫画の一コマを思い出した。

たしか「おにいさまへ・・・」という作品だったと思うが、主人公の女子高生が、校内マイクで「服部さん」を「ふくべさん」と言って呼び出してしまい、上級生に「ふくべではなく、はっとりとよむ」と注意されるシーンがあったのだ。

福部社の神は、もともとは服部社だったなんてことはないだろうか。
服部氏は秦氏の末流だとされているのだが。


http://www2s.biglobe.ne.jp/~suzakihp/index40.html
↑ こちらのページで服部を検索してみると、服部という姓の読み方として、ハットリ・ハトリ・ハトリベ・フクベ・フクイ・ハッタとでてくる。

やはり福部社は服部社であり、秦氏の神を祀る神社である可能性が高いと思う。

⑤北野天満宮の地主神社の御祭神は聖徳太子?

北野天満宮 楼門 紅葉

北野天満宮 楼門




上の地図を見ていだくと、楼門と三光門、本殿(三光門の真上の北野天満宮の文字があるところ)が一直線に並んでおらず、楼門から三光門、本殿がやや東にずれていることがわかる。

神社の本殿は参道の正面にあるのが一般的なのだが、北野天満宮の楼門参道の正面には地主神社がある。

北野天満宮にはもともと地主神社があり、その後菅原道真公を祀る神社が建てられたのだが、その際、もともとここに鎮座していた地主神社の正面を避けて道真公を祀る神社を建てたためであるという。

北野天満宮 地主神社 紅葉 

地主神社

こんなことを聞いたこともある。
「もともと天神さんとは菅原道真のことではなかった。しかし、清涼殿の落雷が菅原道真の怨霊によるものだとされたことで、天神さんとは菅原道真のこととされるようになった。」

北野天神縁起には清涼殿で暴れる鬼(雷神/天神)が描かれているが、この鬼は道真の怨霊なのだろう。

File:Kitano Tenjin Engi Emaki - Jokyo - Thunder God2.jpg

『北野天神縁起』(承久本)巻六より。宮中清涼殿に雷を落とす雷神と逃げまどう公家たち

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AKitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/Kitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
よりお借りしました。
作者 不明 [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


地主神社の神もまた、雷神だったのではないだろうか。
ところが③丑寅は怨霊をあらわす?で書いたように、道真の死後相次いだ疫病や天災、特に清涼殿落雷事件が、道真の怨霊の仕業であると考えられたため、道真こそが雷神であると考えられ、もともと雷神が鎮座していた土地に道真は祀られることになったのではないだろうか。

北野白梅町駅の東北の角に「北野廃寺跡」と刻まれた石碑があり、かつて石碑前の交差点を中心として225m四方に及ぶ寺域を持つ寺があったと考えられている。

北野天満宮の地主神社はその石碑から600mほど東北に位置する。
徒歩5分は約400mであるとされる。600mは歩いて約7.5分ほどで、地主神社と北野廃寺はたいへん近い場所にあったといえる。

そして江戸時代までの日本では神仏は習合して信仰されていた。

神仏習合のベースとなったのは本地垂迹説という考え方である。

本地垂迹説とは日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿を表したものとする考え方で
日本古来の神々のもともとの姿である仏教の神々のことを本地仏、仏教の神々は仮にこの世に姿を現した日本古来の神々のことを権現といった。

例えば天照大神は大日如来の権現であるとか、スサノオの本地仏は牛頭天皇であるなどと考えられていたのである。

もしかして北野天満宮境内にある地主神社に祀られている神は、・北野廃寺の本尊を本地仏とする権現なのではないだろうか?

そして、④北野天満宮に秦氏の気配 で見てきたように北野天満宮には秦氏の気配がある。
北野廃寺跡は「広隆寺の前身の蜂岡寺跡」とする説、「野寺」とする説があるが、広隆寺は秦氏の氏寺である。
北野廃寺は広隆寺の前身の蜂岡寺跡ではないか。

広隆寺の本尊は聖徳太子だ。
北野天満宮境内の地主神社の御祭神とは聖徳太子ではないか?

⑥聖徳太子怨霊説

⑤北野天満宮の地主神社の御祭神は聖徳太子? で私は「おそらく地主神社の神は雷神であったのだろう。」と書いた。
地主神社の御祭神が聖徳太子だとすると、聖徳太子は雷神だということになるが、聖徳太子が雷神だと考えられていたと思われることがらがある。

梅原猛さんは「聖徳太子は怨霊である」と説かれた。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、天災や疫病は怨霊のしわざでひきおこされると考えられていた。

聖徳太子の子孫は全員、蘇我入鹿に責められて法隆寺で首をくくって死んだ。
聖徳太子の子孫は繁栄せず、そのため聖徳太子は怨霊になったと、人々に考えられたというのである。
聖徳太子は日本で最も崇敬されている人物であるが、現在の日本人に聖徳太子の血は一滴も流れていないのである。

井沢元彦さんは梅原猛さんの説を受け、先祖の霊は子孫が祭祀供養するべきとされているのに、聖徳太子には祭祀供養を行う子孫がいなくなってしまったため、人々は聖徳太子は怨霊になったと考えたというような意味のことをおっしゃられていた。

聖徳太子が建てた法隆寺の中門には柱がある。
一般的な門にはこのような柱はもうけられない。
梅原猛さんは、門に柱をたてれば閂であるとし、法隆寺は聖徳太子の怨霊封じ込めの寺であると説かれた。

法隆寺 中門と五重塔

法隆寺 中門

また法隆寺の夢殿の扉をあけると大地震がおこると言い伝えられ、夢殿のとびらは長年鍵がかけられたままの状態になっていた。
明治時代、アメリカの東洋美術史家であるフェノロサによって夢殿は開扉され、中からフランケンシュタインのように包帯状の布でぐるぐる巻きにされた仏像が発見された。
この像は『聖徳太子等身大の像』と伝わる救世観音で、光背が頭に直接釘で打ち付けられていた。

光背は仏の足元に棒を立ててその棒にとりつけるのが一般的で、救世観音のような様式は大変珍しい。
これについても梅原氏は聖徳太子の怨霊封じ込めの呪術であろう、と説かれた。

 法隆寺 夢殿
夢殿

そして、日本書紀670年の記事に次のように記されている。
「夏四月30日の あかつきに 法隆寺に火つけり ひとつのたてものも あまることなし。大雨降り雷なる」

法隆寺は長年「非再建論」と「再建論」があって対立していた。
再建論の根拠はもちろん日本書紀670年の記事である。
一方、非再建論は、金堂や塔などが645年の大化の改新以前に用いられていた高麗尺で設計されていることを根拠としていた。
しかし、発掘調査の結果、西院伽藍南東部より火災にあった跡のある伽藍跡(若草伽藍)が見つかったため、現在では再建論が有力となっている。

1943年から1954年に解体修理が行われ、腐っていた塔の心柱が一部取り外された。
2001年、その心柱を年輪年代法で測定したところ、594年に伐採された桧であるとされた。
しかし、非再建論はたいしてぶり返さず、移築したのではないかとか、伐採されて長年放置した木材を用いたのではないかという説が唱えられている。

若草伽藍に焼け跡があることなどから、日本書紀670年の法隆寺炎上の記事は事実ではないかと私は考える。
「大雨ふり雷なる」とあるので、落雷があって炎上したのではないだろうか。
平安時代、清凉殿に落雷があったのと同じように。

そして法隆寺落雷炎上事件は聖徳太子の怨霊の仕業であると考えられ、聖徳太子は雷神とあがめられるようになったのではないだろうか。


⑦聖徳太子と牛


天満宮のシンボルは梅のほか、牛もある。

北野天満宮 立牛 と 紋

聖徳太子が創建したと伝わる朝護孫子寺では、虎をシンボルとしており、聖徳太子には虎=寅の神というイメージがあるのだが
それだけではなく、聖徳太子には牛=丑のイメージもある。

長野県に牛伏寺(ごふくじ)という寺があり、次のような伝説が伝わっているというのだ。

聖徳太子が42歳の時に自ら刻んだ観音像を本尊として鉢伏山に安置した。
756年、唐からもたらされた大船若経600巻を善光寺奉納する途中、経典を運んでいたところ、2頭の牛が倒れたことから牛伏寺と名付けられた。


次回 につづく~
建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』  ← トップページはこちら





毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2017/10/13 15:56] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町⑫ 釘抜地蔵 『またしても建築の神!』 

建築の神が住む町⑪ 大報恩寺 おかめ節分 『大報恩寺に残る聖徳太子信仰?』  より続く~


①またしても建築の神!

大報恩寺のおかめ節分を見学したのち、ぶらぶらと町を散策していると、「釘抜地蔵尊 石像寺」と記された石碑が目に留まった。
大報恩寺から300mほど東北の位置だ。

石像寺 門 
石像寺

大報恩寺には大工の棟梁とおかめの伝説が伝わっていた。
大工の棟梁とおかめは建築の神だといえる。
参照/建築の神が住む町⑪ 大報恩寺 おかめ節分 『大報恩寺に残る聖徳太子信仰?』 

千本釈迦堂 おかめ節分会 おかめと鬼

大報恩寺 おかめ節分会

そして今度は釘抜地蔵だ。
釘抜地蔵とは、またしても建築の神(みほとけというべきか?)ではないか。
このあたりではよほど建築の神が信仰されていたのだろう。

門をくぐって歩いていくと、大きなやっとこ(釘抜き)のモニュメントが置かれていた。

石像寺 舞妓 
石像寺

本堂の壁には釘抜きと八寸釘の絵馬がびっしりと貼り付けられていて、その信仰の厚さがうかがえる。

石像寺 絵馬 
石像寺 絵馬

②石像寺に伝わるふたつの伝説


石像寺にはふたつの伝説が伝えられている。

a.遣唐使として唐に渡った弘法大師は、日本へ石を持ち帰り、地蔵菩薩を彫った。
そして「人々の諸悪・諸苦・諸病を救い助けん」と祈願した。
いろいろな苦しみを抜きとってくださるお地蔵様「苦抜(くぬき)地蔵」と呼ばれるようになり、その後「くぬき」がなまって「くぎぬき」になった。


b.室町時代、両手の痛みに悩む大
商人・紀伊国屋道林がこのお地蔵さまに七日間願掛けすると、7日目の夜の夢の中にお地蔵様が現れた。
お地蔵さまは「手の痛みは、あなたが前世でわら人形に釘を打ち人をのろった報いである。」と言い、釘を抜いた。
商人が目覚めると手の痛みは治っていた。


石像寺 本堂 
石像寺 本堂

③苦抜地蔵は空海の成仏した姿?


aの伝説では苦抜地蔵は空海が刻んだものとある。

そこで思い出してほしい。
東向観音寺の門前にあった「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と刻まれた石碑のことを。
参照/建築の神が住む町⑦ 東向観音寺 『菅原道真が刻んだ観音』 

「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「天満宮(菅原道真)は十一面観音の生まれ変わりである。」とか「天満宮のもともとの正体である十一面観音をお祀りしています」というような意味だ。

東向観音寺 舞妓

そしてこの東向観音寺の十一面観音は菅原道真が刻んだとも伝わっている。

菅原道真が刻んだと伝わる十一面観音は道明寺にもある。
残念ながら東向観音寺の十一面観音は拝観できなかったのだが、道明寺の十一面観音はウィキペディアに写真があった。

ElevenFaced Kannon Domyoji

十一面観音像 〈道明寺)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/eb/ElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpg よりお借りしました。
作者 OGAWA SEIYOU(1894-1960) a famous photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


このような素晴らしい仏像を政治家が片手間に刻むことは可能だろうか?
何年も仏像作り一筋に修行してきた仏師でなければ無理ではないだろうか。

私はこの仏像は実際に道真が刻んだのではないと思う。

道真は大宰府に流罪となり数年後に亡くなった。
その後、都では疫病が流行り、天災があいついだ。そしてそれらは道真の怨霊のしわざだと考えられた。

成仏とは悟りを開いて煩悩を捨てることである。
人々は道真の怨霊が成仏することを望み、道真が成仏したことを、目に見える仏像という形で残したのだろう。
そして、「道真が成仏した」ということを比喩的に、「道真が十一面観音を刻んだ」と表現したのではないだろうか。

とすれば空海が刻んだ地蔵菩薩もまた、空海が成仏した姿として刻まれたもので、実際に空海が刻んだものではないと考えられる。

石像寺 絵馬2 
石像寺 絵馬

④空海はキリストになりたかった?


ただし、空海が怨霊であったようには思われない。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天災は怨霊のしわざでひきおこされると考えられていた。
しかし空海が政治的陰謀によって不幸な死を迎えたようには思えない。
空海にはもちろんつらいことや、大変なこともあっただろうが、朝廷より東寺や高野山を賜っており、宗教家として大変成功した人物のように思えるからだ。

高野山 金剛峯寺 東塔

高野山

東寺 桜 ライトアップ

東寺

空海が遣唐使として唐へ行ったころ、唐では景教が流行していた。
景教とはネストリウス派キリスト教のことである。
空海は景教の教えをよく知っていたはずで、空海が伝えた真言密教も景教の影響を受けているとする説がある。

密教では灌頂(かんじょう)といって頭頂に水を濯ぐ儀式を行うが
これはキリスト教の洗礼の灌水(頭部に水を注ぐ)や滴礼(頭部に手で水滴をつける)によく似ている。

また「南無大師遍照金剛」という御宝号の「遍照金剛」とは空海の洗礼名で、聖書マタイ5:16にある 「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」からとったともいわれている。

遍照金剛とは大日如来のことでもある。
空海は「自分自身が大日如来になるのだ」と考えてはいなかっただろうか。

大日如来とは太陽神であるといわれる。
そしてキリストは太陽を擬人化した神だとする説がある。

地球の自転軸が約25920年の周期でコマが首を振るように回転している(歳差運動)ため、古代ローマでは南十字星が見えていたという。



動画お借りしました。 動画主さん、ありがとうございます。


南十字星が見えていたといっても、当然、南中高度は低かったはずである。
そして冬至に近づくにつれ、太陽は南中高度を下げ南十字星の南中高度に近づく。
キリストは太陽を擬人化したものであり、キリストが十字架に磔になったというのは、冬至の太陽が南十字星の高度に近づくことを比喩的に表現したものだというのである。

さらに冬至(12月22日ごろ)の太陽は南十字星の位置に3日とどまったのち、再び南中高度をあげていく。
キリストが死後3日目に復活し、生きたまま昇天したというのもまた、この太陽の動きの比喩的表現であると説明される。

遍照金剛という洗礼名を持つ空海は、自らが太陽神=大日如来=キリストになろうとしたのではないかと思う。

空海は病死して荼毘にふされたとする文献もあるが、高野山では空海は奥の院に入定し、今も修行を続けていると信じられている。

キリストは人類の罪を背負って死んだとされる。
それで空海も人類の罪を背負って死ぬため、入定したのかもしれない。

⑤両手の痛みに悩んだ男とは空海だった?


次にbの伝説を見てみよう。

「両手の痛みに悩む」という点が気になる。
キリストは十字架に磔になるとき、両手両足に釘を打ちこまれていた。

Mantegna, Andrea - crucifixion - Louvre from Predella San Zeno Altarpiece Verona

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMantegna%2C_Andrea_-_crucifixion_-_Louvre_from_Predella_San_Zeno_Altarpiece_Verona.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/83/Mantegna%2C_Andrea_-_crucifixion_-_Louvre_from_Predella_San_Zeno_Altarpiece_Verona.jpg よりお借りしました。

アンドレア・マンテーニャ [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由


空海は高野山に金剛峯寺を開いているが、高野山は紀伊国にある。
両手の痛みに悩む紀伊国屋道林とはキリストになろうとした空海のことではないのか?

bの伝説は、空海とキリストを同一視した結果、創作されたものではないだろうか?

⑥藤原家隆と浄土宗と聖徳太子信仰の関係

こんなことを考えていると、なんだか心がわくわくしてきたが、わくわく感を感じるものは他にもあった。
もう一度、1枚目の写真を見てほしい。
石像寺の門の額に「家隆山」と書いてある。

なぜ家隆山という山号なのかというと、鎌倉時代、歌人の藤原家隆がこの寺で落髪して出家し、それ以降家隆山となったのだという。

境内には藤原家隆(1158-1237)や藤原定家(1162-1241)の墓(供養塔)があるとのことだったが、残念ながらどこにあるのかわからなかった。

藤原家隆の墓(家隆塚)は大阪市天王寺区の四天王寺の近くにもある。

家隆塚  
家隆塚

藤原家隆は1236年に病を患って出家し、四天王寺の近くに夕日庵を結んで日想観を行ったと伝えられている。
家隆塚はその夕日庵跡に建てられているという。
日想観とは、 西に沈む太陽を見て、その丸い形を心に留める修行法のことである。

ということは藤原家隆は1236年に病を患って石像寺で出家し、その後四天王寺近くの夕日庵に移ったわけだ。
藤原家隆はなぜ石像寺で出家したのか。

それは石像寺が四天王寺と関係の深い寺だったからではないか。

四天王寺 夕日

四天王寺 夕日

四天王寺を創建したのは聖徳太子である。
その四天王寺の近くには、世界最古の企業・金剛組があり、社員は朝礼の前に厨子の中の聖徳太子に手を合わせる。
聖徳太子は建築の神なのだ。

そしてここ石像寺にも釘抜き地蔵の伝説が残るなど、建築の神がおわす気配がある。

さらに、石像寺はもと真言宗であったが、重源(1121~1206)によって浄土宗に改められたとされる。
浄土宗の開祖は法然だが、法然は藤原家隆が修した日想観と関係が深い。

法然は四天王寺別当・慈円の要請を受けて四天王寺の西門の近くに源空庵という草庵を結んだ。
現在、その場所には一心寺という寺があるが、一心寺は法然の源空庵がルーツである。
その後、後白河法皇’(1127~1192)がここを訪れて法然とともに日想観を修したと伝えられる。

一心寺 仁王門

一心寺 夕日

四天王寺は浄土宗ではないが、浄土宗と四天王寺は関係があったということだろう。
四天王寺は聖徳太子が創建した寺で、聖徳太子信仰が強く、現在でも聖徳太子の命日にちなみ、4月22日に聖霊会を行っている。
(聖徳太子の命日は旧暦2月22日)
その四天王寺と浄土宗の関係が深かったということは、浄土宗は聖徳太子信仰が厚い宗派であったと考えらえる。

また藤原家隆の夕日庵はこの一心寺からほど近い場所にある。

ということは、浄土宗で藤原家隆の供養塔のある石像寺にも聖徳太子信仰があったのではないだろうか。
そして聖徳太子は建築の神として信仰されているため、石像寺の地蔵菩薩は釘抜の神として信仰されているのではないだろうか。




⑦藤原家隆は夕日庵で後鳥羽院の呪いから逃れることを祈った?


藤原家隆はなぜ四天王寺の近くに夕日庵を結んで日想観を行ったのだろうか。
家隆は後鳥羽院〈1180-1239)の呪いを怖れ、その呪いから逃れるため、日想観を行ったのではないかと私は考える。

後鳥羽院は和歌の能力に秀でた方で、藤原定家や藤原家隆とも交流があった。
1221年、後鳥羽院は承久の乱をおこして隠岐へ配流となり、こんな歌を詠んでいる。

われこそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 こころして吹け/後鳥羽院
(私は、新任の島守である。隠岐の荒き波風よ、それを心得て吹くがよい。)


隠岐の荒い波風は承久の変に敗れた後鳥羽院の怒りの心を表しているようで、たいへん恐ろしい歌である。
藤原家隆は1236年に病を患って出家したわけだが、病は後鳥羽院の呪いによるものではないかと恐れたのではないだろうか。

だとすると、bの伝説に登場する室町時代の商人・紀伊国屋道林の前世とは後鳥羽院ではないかとも思える。

⑤では、紀伊国屋道林とはキリストになろうとした空海のことではないか、と書いた。

時代としては、空海は平安時代、後鳥羽院は鎌倉時代の人物なので、空海の前世が後鳥羽院というのはおかしいが
創作された物語としては十分ありえることだ。

最近でも、徳川の歴代将軍が同じ場所にいて、あれこれ話をするといったドラマがあった。

石像寺 石仏 
石像寺 石仏



建築の神が住む町⑬ 西陣の聖徳太子信仰 その1  につづく~
建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』  ← トップページはこちら





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[2017/10/09 01:25] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町⑪ 大報恩寺 おかめ節分 『大報恩寺に残る聖徳太子信仰?』 

建築の神が住む町⑩ 北野追儺狂言 『福部の神は瓢の神で、丑を牽いて去る神だった?』 よりつづく~



①おかめ節分会


北野天満宮で北野追儺狂言を見たのち、歩いて大報恩寺(千本釈迦堂)へと向かう。
北野天満宮から大報恩寺までは直線距離で約450m。10分ほどで到着する。
この日は節分で、北野天満宮では北野追儺狂言が、大報恩寺ではおかめ節分会が行われる。
北野追儺狂言は午後1時から、大報恩寺のおかめ節分会は午後3時からなので、節分会のはしごができるのだ。

大報恩寺境内にあるおかめ像はこの日は特別に赤い傘をさし、山吹色の着物を着ておめかしをしていた。

大報恩寺 おかめ像 

大報恩寺になぜおかめの像があるのか。
それはここに大工の棟梁とおかめの伝説が伝えられているためである。
参照/建築の神が住む町⑤ 『大報恩寺の大根焚と男女双体の神』


千本釈迦堂の本堂を建てるとき、長井飛騨守高次(ながいひだのかみたかつぐ)という大工の棟梁が謝って柱を短く切ってしまった。
棟梁はどうしたものかと困り果てていたが、妻の阿亀(おかめ)が、全ての柱を短く切って升型の受けを作ってはどうかと助言した。
棟梁はおかめの助言に従って無事本堂を完成させることができた。
妻のおかめは夫の失敗が人に知れないようにと、本堂の完成を待たずに自殺した。

大報恩寺 柱の升組
  
大報恩寺本堂 矢印が示す場所に升受けがある。

本堂の大柱を見ると、たしかに枡受けがある。
このような伝説があるので、大報恩寺の節分会は『おかめ節分会』と呼ばれているのだろう。

②応仁の乱の戦火をまぬがれた寺

大報恩寺は1223年、義空上人が釈迦念仏道場として開いた寺である。
この付近は西陣と呼ばれるが、それは『応仁の乱(1467-1477)』において西軍の陣が置かれたことに由来する。
このとき千本釈迦堂にも兵火が及んだが、奇跡的にも焼失をまぬがれた。
応仁の乱で焼けなかったのはおかめのご利益にちがいないと、人々は噂したことだろう。

③飛騨守が大工?

しかし、このおかめ伝説、ちょっと気にかかることがある。
それはおかめの夫の大工の棟梁、長井飛騨守高次についてである。
飛騨守とは役職名だ。
古代から中世にかけて、朝廷は各地に国司という行政官を派遣していた。
その国司には、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)などの役職があった。
つまり、長井飛騨守高次とは、飛騨守という役職で、名前が長井高次なのだ。

飛騨守という役職についている役人が兼業で大工の棟梁をやっているとはちょっと考えられないのだが。

飛騨は過疎地帯であったため、租庸調(税金)のうち庸調が免除されていた。
そのかわり、飛騨の人々は大工として挑発された。
こういう事情があって飛騨では大工業が発達した。

おかめ伝説に登場する大工の長井飛騨守高次とは架空の人物なのではないか。
いや、おかめは神なので、おかめの夫の長井飛騨守高次も神なのではないか。
その大工の神を飛騨守としたのは、飛騨が大工業が発達した地域だからではないか?

長井高次という名前は「長い高継ぎ」という意味ではないだろうか。
「高接ぎ」とは果樹などを接ぎ木する際に、台木(接ぎ木をするとき上部にする植物体を穂木、下部にする植物体を台木という)の高い位置に接ぐ方法のことである。

本堂の柱を植物の木に喩えたのではないだろうか。
升受けは柱の高い位置についており、まるで接ぎ木の高接ぎのようではないか。
さらに柱はとても長い。
それで、大工の神の名前を「長い高接ぎ」から「長井高次」としたのではないだろうか。

大報恩寺 おかめ節分会 木遣音頭


④木遣音頭


そんなことを考えていると、鬼とおかめが行列を作ってやってきて、おかめの像の前で法要が行われた。
法要が終わると番匠保存会による木遣音頭が奉納された。

これと同じものを以前、聞いた記憶がある。
そう、確か広隆寺で1月2日に行われている「釿(ちょうな)始め」で木遣音頭を聞いた。

かつて元旦は年神様を迎える日で、仕事をしてはいけないとされていた。
そして元旦の翌日の1月2日が仕事はじめの日とされていた。
大工たちはこの日、仕事始めの儀式として「釿始め」を行っていた。
「釿始め」は大工たちが木遣音頭を歌いながら大きな木材を運び込び、釿という日本独自の道具を用いて粗削りをするというもので、
昭和になって廃れてしまった習慣を、広隆寺において復活させたのだという。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

④建築の神・聖徳太子

なぜ広隆寺で釿始めの儀式が行われているのか。
それは広隆寺の御本尊・聖徳太子が建築の神として信仰されているからだろう。

世界最古の企業は大阪にある金剛組だといわれている。
創業はなんと飛鳥時代の578年で、四天王寺からほど近い場所にある。

四天王寺 夕景 合成

四天王寺

聖徳太子は四天王寺を創建するために百済より3人の宮大工を招いた。
そのうちのひとり、金剛重光(柳重光)によって金剛組は創業された。
593年、金剛組によって四天王寺が建てられた。
607年に創建された法隆寺も金剛組によって建てられたものである。

法隆寺 夕景 
法隆寺

金剛組は現在、100人以上の宮大工を抱えているという。

以前、テレビで金剛組の朝礼風景を見たことがある。
事務所には厨子が置いてあって、中に聖徳太子像が安置されていた。
社員たちは厨子の前に並び、まず聖徳太子に合掌してから朝礼を始めるのだ。
金剛組の朝礼風景は、今でも聖徳太子が建築の神として信仰されていることを示すものだといえるだろう。

大報恩寺は大工の棟梁とその妻・阿亀の伝説が伝わっている。
そのため、木遣音頭が奉納されているのだろう。

⑤北野追儺狂言とおかめ節分会の共通点

木遣音頭の奉納ののち、いよいよ古式鬼追いの儀(狂言)が行われた。

大報恩寺 おかめ節分会 狂言2

本堂では太郎冠者・次郎冠者らが豆を撒き、暴れる鬼を退散させようとしていた。
しかし、鬼は豆を撒かれたくらいでは退散せず、逆に太郎冠者・次郎冠者らは鬼に倒されてしまう。

大報恩寺 おかめ節分会 狂言 
ここへおかめが登場した。

千本釈迦堂 おかめ節分会 おかめと鬼2 

おかめは何をするでもなくただ笑顔を浮かべているだけ(といっても面が笑顔に作られているのだが)なのだが、鬼たちはおかめが登場するや、平伏し、手に持っていた打ち出の小づちをおかめに渡した。

千本釈迦堂 おかめ節分会 おかめと鬼 

こうして狂言は終わった。

大報恩寺の古式鬼追いの儀では先ほど見た北野追儺狂言のような鉢叩きはなかった。

北野追儺狂言 鉢叩き2

北野追儺狂言 鉢叩き

しかし、おかめ(お多福)が登場し、おかめが何をするわけでもないのに鬼が調服されてしまうというのは同じである。
これは、この付近の地域でー西陣と呼ばれるこあたりでお多福(おかめ)が厚く信仰されていたということを物語るものだろう。

北野追儺狂言 福の神

北野追儺狂言 おかめに調服される鬼

ただし、北野追儺狂言のお多福は烏帽子をかぶっている。
また福部社の神が鬼を祓う狂言だとされるが、福部社の御祭神は十川能福という菅原道真の舎人である。
北野追儺狂言のお多福は男神だと考えられる。

これに対し、大報恩寺のおかめ節分会の狂言に登場するおかめは女神だと考えられる。
なぜかというと、大報恩寺には先ほど紹介した大工の棟梁の妻・阿亀の伝説が伝えられているからである。
おかめ節分会の狂言に登場するおかめは大工の棟梁の妻・阿亀だと考えられる。

しかし奈良県の宝山寺で護摩供を行っていた修験者が、おかめと同じように白い布を巻いていた。

宝山寺 修験者

伝説に登場する阿亀は女性だが、狂言に登場するおかめは男神であるかもしれない。

とにかく日本の神は性別がルーズで、親鸞の夢枕に聖徳太子が現れて「女に生まれ変わってあなたの妻になろう」と言ったという伝説もある。

まあ、これについては今後の宿題としておこう。

⑥おかめは安産の神、ひょっとこは防火の神

おかめとペアになっている神様といえばひょっとこである。
六斎念仏の演目である祇園囃子にはおかめとひょっとこの面を被った人が登場することが多い。

梅津六斎 祇園囃子 おかめ

梅津六斎 祇園囃子 ひょっとこ

梅宮大社 梅津六斎 祇園囃子に登場するおかめとひょっとこ

おかめは妊婦さんで、ひょっとこは「火の用心」と書いた巻物を持っている。

これは柿本人麻呂を思い出させて興味深い。
柿本人麻呂は人丸と記されることもあり、語呂合わせで「ひとまる→人産まる」となり安産の神に、「ひとまる→火止まる」で防火の神になったというのである。

⑦お多福・おかめの語源

『お多福』の語源には次のような説がある。

a.福が多いと言う意味。
b.膨らんだ河豚からくる。
c。狂言面の『乙』『乙御前』が訛った。(乙御前は末娘という意味)

また『おかめ』の語源にも諸説ある。

d.顔の形が瓶ににている。
e.室町時代の巫女の名前からくる。

「おかめ」については「亀石」と関係があるのではないかと私は考えている。

亀石とは飛鳥や一言主神社にある謎の石のことだが、私は亀石は頭蓋骨をあらわしているのではないかと思う。
というのは、飛鳥の亀石は妖怪ぬらりひょんにそっくりなのである。

亀石 
飛鳥の亀石


妖怪ストリート ぬらりひょん

京都の大将軍商店街(妖怪ストリート)に置かれてあったぬらりひょんの人形。

亀石とぬらりひょんは眉間に半月形の皺があるところまでそっくりである。

亀は頭蓋骨を表しているのではないだろうか。

詳しく説明すると長くなるので、下記記事を読んでほしい。
参照/土蜘蛛の謎⑦ 妖怪ぬらりひょんと亀石と土蜘蛛 

そして、滋賀県・西明寺にあった福禄寿の像は瓢箪型の頭部をしていた。
福禄寿と寿老人はどちらも南極老人星の化身で同一神であるともいわれる。
福禄寿と寿老人の頭部はどちらも長いが、もともと二柱の頭部は瓢箪型だったのかもしれない。
福禄寿と寿老人の長い頭部は福禄寿+寿老人の二柱の神の頭蓋骨が合体していることをあらわしているのではないだろうか。

寝屋川戎神社 寿老人・布袋・弁才天・毘沙門天・福禄寿

そして北野追儺狂言やおかめ節分会に登場するおかめ(お多福)の顔は瓢箪型をしている。
おかめ(お多福)はふたつの頭蓋骨がくっついた神なのではないか。

⑧お多福はお福と布袋のドクロが合体した神?

おかめ(お多福)は「お福」と言われることもあり、1712年の『七福神戯遊之図』には、七福神ともうひとり女神が描かれているそうである。
説明書によればこの女神は「お福」または「乙御前」とあり、布袋に酌をしているとのこと。
「お福」「乙御前」とはお多福、おかめのことである。

そういえば、大報恩寺には他の七福神像はないが、布袋像は境内の片隅のめだたないところにある。
その布袋像が手にした長細い袋は、中にちょうど二つの髑髏が入っていそうな大きさと形をしている。

千本釈迦堂 布袋像

大報恩寺 布袋像

おかめ(お多福)はお福のドクロと布袋のドクロが結合した神なのではないか。
もしかしたら、お福+布袋(福神)で、福が重なる神なので、お多福という名前がつけられたのかもしれない。

⑨ひょっとこの語源

③で述べたように、おかめの夫の大工の棟梁・長井飛騨守高次は実在した人物だとは思えず、大工の神であるように思える。
そして⑥で見たように、おかめとペアになっている神といえばひょっとこである。
長井飛騨守高次とはひょっとこのことではないかと思う。

このひょっとこの語源についても見ておこう。
こちらもいくつかの説がある。

a.竈(かまど)の火を竹筒で吹く『火男』が訛った。
b.口が徳利のようであることから『非徳利』からくる。
c.岩手県奥州氏の江刺地方の民話に登場するヘソから金を生む奇妙な顔をした子供の名前『ヒョウトク』が訛った。

aの『火男』からくるという説は、⑥で述べた六斎念仏の演目『祇園囃子』に登場するひょっとこが『火の用心』と書いた巻物を持って登場するのを思い出させて興味深い。

ひょっとこはもともとは火男であった。
男子の名前の後ろには男のほか、彦、麿、丸などをつけることもある。
そこで火男は火丸となり、そこからさらに人丸と転じ、語呂合わせで「ひとまる→火止まる」となり、防火の神に転じたとも考えられる。


⑩ひょうとくは聖徳太子?

cの民話とは次のような物語である。

強欲な婆さんがヒョウトクのへそを火箸でぐりぐりといじったためにヒョウトクは死んでしまった。
ヒョウトクをかわいがっていた爺さんはヒョウトクの死をそれは悲しんだ。
そんな爺さんの夢枕にヒョウトクが立ち、『自分の顔の面を竈の前の柱にかけておけば裕福になるだろう』と告げた。
そのとおりにしたところ、爺さんは大金持ちになった。


ヒョウトクという名前は聖徳(ショウトク)に似ている。
もしかして、ヒョウトクとは聖徳太子のことではないか?

③で述べたように、聖徳太子は建築の神でもあった。。
世界最古の企業・金剛組の朝礼風景についてはすでに述べたが、このほかにも、太子の忌日である2月22日には木匠の間で講が営まれているともきく。

大報恩寺の伝説に伝わる大工の棟梁とはひょっとこ=ひょうとく=聖徳太子のことなのではないだろうか。

⑪大報恩寺の太子堂

大報恩寺を出ようと門の方へ向かって歩いていくと、門の手前に小さなお堂があった。
お堂の上部には、なんと太子堂と記した額がかけられているではないか。
『ひょっとこ=ひょうとく=聖徳太子』という推理はそうトンデモ説ではないかもしれない。

お堂の前には、下の写真のような説明板が建てられていた。

大報恩寺 太子堂 説明板 

お堂の額には太子堂とあるが、説明板は「北野経王堂 願成就寺」となっている。
説明板には次のような内容が記されている。

1391年、明徳の乱がおこった。
1392年、足利義満は明徳の乱の戦没者を悼んで北野経王堂 願成就寺という大寺を建てた。
北野経王寺 願成就寺では、毎年10月、10日間に渡って万部経会を行って戦没者を供養していた。
江戸時代に荒廃し、1671年に解体縮小されて小堂となったのがこのお堂である。

説明板には、このお堂になぜ太子堂という額がかけられているのかの説明はないが、太子堂の太子とは聖徳太子のことではないだろうか。
太子と呼ばれて信仰されている人物は聖徳太子以外に思い浮かばないのだが、もし他に太子と呼ばれて信仰されている人物がいれば教えていただきたい。

そして、この太子堂にはおかめ御幣がたくさん置かれてあった。
おかめ御幣は関西では上棟式などに用いられるもので、明徳の乱の戦没者のほか、建築の神を祀っていることを物語っているかのようである。

大報恩寺 太子堂 おかめ御幣

⑨広隆寺の弥勒菩薩は聖徳太子の本地仏?

そういえば境内の片隅には布袋像があったが、布袋は弥勒菩薩の化身とされている。
そして太秦の広隆寺は聖徳太子から授かった仏像を祀るため、秦河勝が建てたとされるが、広隆寺には有名な弥勒菩薩像がある。
聖徳太子から授かった仏像とはこの弥勒菩薩像だろうか。

広隆寺 
広隆寺

File:Maitreya Koryuji.JPG

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMaitreya_Koryuji.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/62/Maitreya_Koryuji.JPG よりお借りしました。

作者 日本語: 小川晴暘 上野直昭 English: OGAWA SEIYOU and UENO NAOAKI [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


私は「秦河勝が聖徳太子から授かった仏像を祀る寺をたてた」という言葉の意味は、「秦河勝が聖徳太子の本地仏を祀る寺をたてた」という意味ではないかと思う。

かつての日本では日本古来の神々は、衆上を救うため仏教の神々が仮に姿をあらわしたものであるとする本地垂迹説が信仰されていた。

本地垂迹説では仏教の神々が日本古来の神として仮に姿をあらわしたもののことを権現、日本古来の神々のもともとの姿である仏教の神々のことを本地仏といった。

東向観音寺 舞妓

上の写真は北野天満宮の神宮寺だった東向観音寺で、門前に「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と記された石碑が建てられている。

天満宮とは天満宮の御祭神・菅原道真のことで、「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「菅原道真は十一面観音の化身である。」「菅原道真の本地仏である十一面観音をお祀りしています。」というような意味だ。

東向観音寺では「本尊は菅原道真が刻んだ十一面観音」だととしている。
また道明寺でも菅原道真が刻んだ国宝の十一面観音を御本尊としている。

残念ながら東向観音寺の十一面観音は拝観することができなかったのだが、道明寺の十一面観音はウィキペディアに写真が掲載されていた。

ElevenFaced Kannon Domyoji

十一面観音像 〈道明寺)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/eb/ElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpg よりお借りしました。
作者 OGAWA SEIYOU(1894-1960) a famous photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


とても政治家が片手間に刻んだものとは思えない素晴らしい観音像ではないか。
こういう観音像は何年も仏師としての修行を積まなくては作れないのではないだろうか。

そういうわけで、私は実際に菅原道真が十一面観音を刻んだわけではないと想う。
実際には、菅原道真の本地仏として仏師が刻んだ仏像であるのを、菅原道真の霊が仏師に乗り移り、自らが成仏したことのあかしとして十一面観音を刻んだと考え、「本尊は菅原道真が刻んだ十一面観音」だと言っているのではないだろうか。

参照/
建築の神が住む町⑦ 東向観音寺 『菅原道真が刻んだ観音』 

広隆寺の弥勒菩薩も、聖徳太子の本地仏として仏師が刻んだ仏像であるのを、聖徳太子の霊が仏師に乗り移り、自らのが成仏したことのあかしとっして弥勒菩薩像を刻んだと考えたのではないだろうか。

これと同様、秦河勝が聖徳太子から授かった弥勒菩薩とは聖徳太子の霊のことなのではないか。
すると、弥勒菩薩の化身とされる布袋もまた聖徳太子だということになる。

そして大報恩寺に布袋の石像があるのは、
聖徳太子=弥勒菩薩=布袋で、布袋は聖徳太子を表しているのではないかと思うのである。


建築の神が住む町⑫ 釘抜地蔵 『またしても建築の神!』 につづく~
建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』  ← トップページはこちら





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[2017/10/03 13:36] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町⑦ 東向観音寺 『菅原道真が刻んだ観音』 


建築の神が住む町⑥ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』 
よりつづく~






①事始め

北野天満宮で大福梅を求めたあと、私は楼門を出てもときた参道を引き返した。
参道を大鳥居の方に向かって歩いていくと右手(西)に東向観音寺というお寺がある。


東向観音寺 舞妓 

東向観音寺

北野天満宮は大勢の参拝者で賑わっていたががいたが、東向観音寺の境内には舞妓さんがひとりいるだけでひっそりしていた。

この日、12月13日は正月準備を始める「正月事始め」の日とされている。
京都の正月に欠かせない大福梅の授与もこの日から始まるし、六波羅蜜寺の隠れ念仏もこの日から大晦日まで行われる。

ちなみに六波羅蜜寺の隠れ念仏が行われている期間、御本尊の十一面観音に御茶が献じられる。
そして正月3が日にこのお茶に梅干しと結び昆布を入れた皇服茶を参拝者に授与する。
つまり隠れ念仏を行うことは正月にかかせない皇服茶の準備であると考えられる。
それで、正月準備を行う事始めの日から隠れ念仏は行われているのだろう。

それはさておき、京都の花街ではこの日に一足早く「おめでとうさんどす」と踊りの師匠さんなどに挨拶回りする習慣があり、この習慣を「事始め」と言う。

祇園 事始め2

祇園の事始め

東向観音寺で手を合わせていた舞妓さんは、事始めの挨拶回りを終えて、ここに参拝にやってきたのだろう。

②本地垂迹説

東向観音寺の門前には「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と刻まれた石碑が建てられていた。
この「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とはどういう意味なのだろうか。

日本では古来より神仏は習合して信仰されてきたが、その神仏習合のベースになったのが本地垂迹説という考え方である。

本地垂迹説とは「日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を現したものである」とする考え方のことである。

そして日本の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏、仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿をあらわした存在である日本の神々のことを権現、化身などといった。

例えば天照大神の本地仏は大日如来であるとか、市杵島姫は弁才天の権現であるなどとして同一視された。

天満宮とは北野天満宮の御祭神・菅原道真のことである。
つまり「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「天満宮=菅原道真の本地仏である十一面観音をお祭りしています。」というような意味である。
菅原道真は十一面観音の化身であると信じられていたのだ。

④北野天満宮の神宮寺

東向観音寺は806年、桓武天皇の詔を受けて藤原小黒麿と賢璟法師が創建した寺で、もともとは朝日寺という寺名だった。

901年、左大臣藤原時平の讒言を受けて右大臣菅原道真は大宰府に流罪となり、903年、菅原道真は大宰府で死亡した。
菅原道真の遺骨は大宰府に葬られた。

947年、朝日寺の僧・最鎮(最珍)らが北野天満宮を建立し、大宰府より道真の霊を遷し祀ったといわれる。

朝日寺には西向と東向の二つのお堂があったが、西向堂はなくなって現在は東向堂のみが残っている。
東向観音寺という寺名はここからくるのだろう。

③でお話しした本地垂迹説を受け、かつて日本の神社には神宮寺が、寺には鎮守の社があった。
明治の神仏分離令・廃仏毀釈で、多くの神宮寺は神社と切り離され、また神社に転向したり、廃寺になったりした。

東向神宮寺の前身・朝日寺は前述したように北野天満宮と関係の深い寺であり、北野天満宮の神宮寺であった。

⑤伴氏廟

東向観音寺の本堂の横手には土蜘蛛の塚があり、オカルトファン必見の名所となっている。

東向観音寺 土蜘蛛の塚 
東向観音寺 土蜘蛛の塚
 
土蜘蛛の塚については、こちらの記事を読んでいただけると嬉しい。→土蜘蛛の謎⑥ 燈籠の火袋が『土蜘蛛の塚』と呼ばれている理由 

土蜘蛛の塚の右手には、高さ4.5メートルの巨大な五輪塔があった。

東向観音寺 伴氏廟 

伴氏廟

伴氏廟である。

室町時代、父母の死後49日の服喪を終えたあと50日目にこの塔に詣る風習があり、そのため北野の忌明塔と呼ばれていたという。
もともとは北野天満宮の楼門の手前にある伴氏(ともうじ)社にあり、菅原道真の母の廟塔だと言われている。
道真の母親は伴氏だったのである。

北野天満宮 伴氏社 
伴氏社

伴氏はもともとは大伴氏と名乗っていたのだが、淳和天皇の諱が同じ大伴だったので、憚って伴氏と改姓した。
その後866年に応天門が炎上するという事件があり、大納言・伴善男が左大臣・源信の犯行であると告発した。
しかし太政大臣藤原良房の進言で源信は無罪となり、逆に伴善男父子に嫌疑がかけられて流刑となった。
これは藤原氏の他氏排斥事件のひとつだと考えられている。

これによって伴氏は没落したかに思われたが、そうではなかった。
その後、伴氏を母にもつ菅原道真が右大臣にまで上り詰めたのである。

④で述べたように、その後901年に菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に左遷となり、903年太宰府で亡くなってしまうのだが。

ここに伴氏廟があったり、北野天満宮の楼門前に伴氏社があるのは、菅原道真の母親が伴氏で菅原道真と伴氏の関係が深いためだろう。

⑥怨霊菅原道真が神として祭られた理由

北野天満宮 梅3

北野天満宮

北野天満宮は菅原道真を祀る神社として、947年に朝日寺の僧・最鎮(最珍)らによって創建されたのだが、なぜ菅原道真は神として祭られたのだろうか。

道真の死後、天変地異や疫病の流行が相次ぎ、道真左遷にかかわった人々が次々に死亡した。

また、道真を左遷した醍醐天皇は第二皇子の保明親王を皇太子としていたのだが、923年に21歳の若さでで亡くなってしまった。
そのため、保明親王の子の慶頼王を皇太子としたが、925年、わずか5歳で亡くなってしまう。
皇太子の相次ぐ死を醍醐天皇は道真の怨霊の仕業ではないかとおびえたことだろう。
その後、930年に清涼殿に落雷が落ちるという事件がおき、道真の怨霊に対する人々の畏れはピークに達する。
清涼殿落雷事件の3か月後に醍醐天皇は崩御しているが、これは醍醐天皇が道真の怨霊を怖れるあまりノイローゼになってしまったためだといわれている。

また、940年には東国で平将門の乱が、941年には南海で藤原純友の乱が起り、これらも菅原道真の怨霊の仕業と考えられた。

菅原道真は文武両道に長けた優秀な人物であったとされる。
しかし、道真が神として祀られたのは、彼が優秀な人物であったためではない。

現在ではある能力に長けた人物のことを尊敬の意を込めて「神」と呼ぶことがある。
例えばマイケル・シェンカーは「ギターの神様」、B・B・キングは「ブルースの神様」などと言われる。
しかし古における神とは能力に長けた人物のことではなかった。

陰陽道では荒ぶる神(怨霊)は十分にお祭りすればご利益を与えてくださる神に転じると考えるという。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天変地異は怨霊のしわざで引き起こされると考えられていた。

菅原道真は藤原時平の讒言で大宰府に流罪となり、数年後に死亡した。
その後、疫病の流行や天変地異があり、それらは菅原道真の怨霊の仕業だと考えられた。
そのため、道真を神として祭り、道真の怨霊を和霊に転じさせようと考えられたのだろう。

現在では菅原道真は学問の神として全国の受験生から厚い信仰を集めている。

立派な人物であるということで神として祀られるようになるのは、時代が下がった戦国時代や江戸時代だと考えられる。
たとえば、豊臣秀吉や徳川家康は自らが神として祀られることを望み、彼らを祀る神社が作られた。
豊臣秀吉を祀る神社は豊国神社、徳川家康を祀る神社は東照宮である。

⑦怨霊を神として祭る御霊神社

怨霊を神として祭る神社は数多くある。
御霊神社もそうした神社のひとつである。

下御霊神社 
下御霊神社(女性は葵祭に登場された方です。/合成)

京都の下御霊神社では八所御霊と称して吉備聖霊(吉備真備?)崇道天皇(早良親王)・伊予親王・藤原大婦人(藤原吉子)・藤原広嗣・橘逸勢・文屋宮田麻呂・火雷神・を祀っている。

火雷神は六座の(下御領神社では吉備聖霊は六座の心霊の和魂としているため)荒魂とされているが、他の六柱はいずれも実在した人物で不幸な死を迎え、死後怨霊になったと信じられた人物ばかりである。

吉備真備は称徳天皇崩御後、後継の天皇候補として文室浄三および文室大市を推したが敗れ、辞職している。

早良親王は桓武天皇の弟で皇太子にたてられていたが、藤原種継暗殺事件に関与したとして廃太子となった。
無実を訴えてハンガーストライキを行い、淡路島へ流される途中、船の中で憤死したと伝わる。

藤原吉子は桓武天皇の婦人で伊予親王を生んだが、謀反の疑いで伊予親王とともに川原寺に幽閉され、伊予親王を道連れにして自殺した。

藤原広嗣は大宰府に左遷となり、反乱をおこしたが、捕えられて処刑された。

橘逸勢は承和の変に関与したとして伊豆へ流罪となる途中の船上で死亡した。

文屋宮田麿も謀反を企てたとして伊豆へ流罪となったが、のちに無実であるとして慰霊されている。

しかし八所御霊は神として祀りあげられた結果、現在では人々にご利益を与えて下さる神として信仰されている。
菅原道真のケースと全く同じである。

⑦菅原道真が自ら刻んだ十一面観音


「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と石碑に記された十一面観音とは、東向観音寺の御本尊の十一面観音のことだろう。
この十一面観音は961年に菅原道真が刻んだものだと伝わっている。
なんと、菅原道真は文武両道に秀で、優秀な政治家であったのみならず、仏像を刻んだというのである。

菅原道真が刻んだと伝わる十一面観音は大阪府葛井寺市の道明寺にもある。

ElevenFaced Kannon Domyoji

十一面観音像 〈道明寺)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/eb/ElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpg よりお借りしました。
作者 OGAWA SEIYOU(1894-1960) a famous photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


上の写真は菅原道真が刻んだという道明寺の十一面観音である。
政治家が片手間に刻んだものとはとても思えない素晴らしいもので、国宝となっている。

道明寺 梅 

道明寺

私は東向観音寺の十一面観音を拝観したいと思った。
道明寺の十一面観音と作風を比較してみたかったのだ。
しかし東向観音の十一面観音は秘仏とされていて、この日は拝観することはできなかった。

正直に言おう。
私は菅原道真が道明寺の素晴らしい十一面観音を刻んだとはとても思えないのだ。
菅原氏は学者の家柄で、政治家になれるような高い家柄ではなかった。
菅原道真の右大臣という地位は、菅原氏としては破格の大出世だといえる。
それは菅原道真が頭脳明晰、武芸にも優れ、政治家として抜きんでた才能を持っていたということだろう。
その上、仏師としての腕も一流で、国宝に指定されるほどの作品を残したとはとても信じられない。

東向観音寺の十一面観音も実際に菅原道真が刻んだものではないだろう。

「菅原道真が自ら仏像を刻んだ」というのは「怨霊であった菅原道真が成仏して十一面観音になった」ということを比喩的に表現したのではないだろうか。

現在でも人が死んだことを「成仏した」とか、死んだ人のことを「仏さん」と言うではないか。

日本で神仏が習合されて信仰されていたのは、神=怨霊を、人々にご利益を与えてくださる和魂=仏教の神に転じさせるという信仰があったためではないだろうか。

成仏するということは煩悩を捨てることだ。

怨霊が煩悩を捨てれば祟らなくなる。
そして道真の怨霊が確かに成仏した、ということを目に見える形にしたのが道明寺や東向観音寺の十一面観音像なのだと私は思う。

仏教用語辞典によれば
『諸仏菩薩には法身と生身の二身が有り、生身(しょうしん)、法身(ほっしん)所証の理体を法身といい、衆生を済度する為に、父母に胎を託して生じる肉身を生身という。』とある。
つまり、生身とは人間のことであり、菅原道真とは生身の菩薩だということになると思う。



建築の神が住む町⑧ 北野天満宮 雪 朮詣 『天神さんは黄泉の神で1年の変わり目の神だった』  につづく~
建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』  ← トップページはこちら

記事の順番を入れ替えました。すいませーん。




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[2017/10/01 22:44] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町⑩ 北野追儺狂言 『福部の神は瓢の神で、丑を牽いて去る神だった?』 

建築の神が住む町⑨ 北野天満宮 新春奉納狂言 福の神 『福の神の正体』 よりつづく~


①北野天満宮は鬼をとじこめる神社

京都では節分に四方(よも)詣りをする習慣がある。

京都の四方詣とは、京都御所の北東の吉田神社、南東の八坂神社、南西の壬生寺、北西の北野天満宮の四つの神社仏閣を参拝することをいう。

吉田神社 方相氏 と しん子

吉田神社 鬼やらい神事

吉田神社 節分祭 赤鬼

吉田神社 鬼やらい神事

八坂神社 節分祭

八坂神社 節分祭

※壬生寺では節分の日に大念仏狂言が行われますが、撮影禁止です。

鬼は、吉田神社で追い払われ、八坂神社に逃げる。
八坂神社でも鬼は追い払われ、壬生寺に逃げる。
壬生寺でも鬼は追い払われ、北野天満宮に逃げてきて、ここで封じ込められるというわけだ。
北野天満宮は鬼を封じ込める神社だと言ってもいいだろう。

②北野追儺狂言と踊念仏と鉢叩き

北野天満宮では節分の日に北野追儺狂言が行われる。
北野天満宮の境内にある福部社の神が、鬼を追い払う様子を狂言にしたものが北野追儺狂言であるという。

梅の枝を持った神職さんたちが神楽殿に登場。

北野追儺狂言 梅の枝を持つ人

神職さんと茶筅売りたちは瓢箪をたたいて謡う。

北野追儺狂言 鉢叩き

これは踊念仏だろう。

踊念仏とは平安時代に空也上人が始めたといわれ、鉦・太鼓・瓢(ひょうたん)などを叩いて念仏を唱えるもので
空也堂の空也忌などで現在も行われている。↓

空也堂 空也歓喜踊躍念仏 
空也堂 空也歓喜踊躍念仏

また北野追儺狂言は『鉢叩き』でもある。

空也堂の僧侶たちは鉢や瓢箪を叩きながら和讃を唱えるなどして金銭を得ていた。
そのため、彼らは『鉢叩き』と呼ばれていた。

特に年末(旧暦11月13日から大晦日まで)に瓢箪を叩きながら手作りの茶筅を売り歩く習慣が近年まであった。
空也堂の僧以外にもこれを行う者が出てきたようで、江戸時代には門付け芸(人家の門前で芸能を行って金品をもらうこと)となり、広く全国で行われたようである。
この習慣のことも『鉢叩き』と呼ばれている。

北野追儺狂言 鉢叩き2 

③節分に年末の風物詩・鉢叩きが演じられる理由

つまり、鉢叩きは年末の風物詩ということなのだが、なぜ節分の日の北野追儺狂言で鉢叩きが演じられるのだろうか。

前回までの記事をお読みいただいた方にはおわかりだろう。

かつての日本では旧暦と1太陽年を24に分割した二十四節気という暦を併用していた。
節分とはもともとは二十四節気の立春・立夏・立秋・立冬の前日を意味する言葉であったが、しだいに立春の前日のことをさすようになった。
二十四節気の新年は立春(新暦の2月4日ごろ)であり、立春の前日の節分は二十四節気の大晦日であった。
つまり、旧暦と二十四節気という暦法の違いはあるが、大晦日も節分も1年で最後の日であったのである。

参照/建築の神が住む町⑤ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』 

本来鉢叩きは旧暦の11月13日から大晦日まで行われる行事だったのだが、節分は二十四節気の大晦日なので北野追儺狂言で鉢叩きを演じているのかもしれない。

また、もともと追儺式は節分ではなく大晦日に行われていたといわれる。
北野追儺狂言もルーツをたどると、節分ではなく大晦日に行われていたという可能性もある。

④お茶を飲むことは目には見えない年の移り変わりを視覚化したもの

建築の神が住む町⑤ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』 
にも書いたように、京都では正月にここ北野天満宮で授与された梅干し・大福梅を入れた大福茶を飲む習慣がある。

北野天満宮 大福梅

北野天満宮で求めた大福梅

また六波羅蜜寺では正月3が日に梅干しと結び昆布を入れたお茶・皇服茶を授与している。

六波羅蜜寺 皇服茶

六波羅蜜寺 皇服茶

北野天満宮の大福梅と六波羅蜜寺の皇服茶の由来はほとんど同じである。

【北野天満宮/大福梅】
村上天皇が北野天満宮の梅星を入れたお茶を召し上がったところ、病が平癒した。
そのため王も服したお茶から王服茶と呼ばれるようになり、さらにこれに慶字をあてて大福茶となった。

【六波羅蜜寺】
951年、疫病が流行ったとき、空也は病人に梅干しと結び昆布の入ったお茶を飲ませた。
村上天皇も召し上がったところ、病が平癒した。
そこで皇帝も服したお茶という意味で、皇服茶と呼ばれるようになった。

また、空也堂の僧侶たちが年末に売った茶筅でたてた抹茶のことも大福茶という。

霊山寺 初福茶 

霊山寺(奈良)では正月に初福茶(抹茶)を授与している。


京都の正月とお茶は切ってもきれない関係であったようであるが、梅干しをいれた王福茶や皇服茶の意味については
建築の神が住む町⑤ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』 ですでにご説明した。

梅は1月1日または2月3日の誕生日とされる。
旧暦1月1日は元旦で梅の花が咲き始めるころである。
新暦2月3日は旧暦1月と同時期で節分(暦法・二十四節気の大晦日)である。

そして12か月を干支でいうと、12月は丑月、1月は月である。
二十四節気では小寒(新暦1月6日ごろ)から立春(新暦2月4日ごろ)までが丑月、立春(新暦2月4日ごろ)から啓蟄(新暦3月6日ごろ)までが寅月、である。

1月1日(旧暦)・・・旧暦の新年・・・・・・・・・・・寅
2月3日(新暦)・・・二十四節気の大晦日(節分)・・・丑

となり、梅は丑寅、12月と1月の中間で、「変わり目」をあらわしているのではないかと思う。

そして、これを飲み干すことで、目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない、これが大福梅・皇服茶・大福茶の意味なのだろう。

鉢叩きが売る茶筅でたてた抹茶にも丑寅=年の変わり目という意味があるのだろうが、その理由については今のところ私にはわからない。

⑤福部の神=瓢の神?

北野天満宮の神楽殿に鬼が登場した。

北野追儺狂言 鬼 

福の神が現れると福の神が何をしたわけでもないのに、鬼は調伏されてしまう。

北野追儺狂言 福の神 

鬼は豆をまかれて退散し、狂言は終了した。

北野追儺狂言 豆まき2 

福の神は北野天満宮の摂社・福部社の神である。
福部社の神はお多福の面をつけている。
つまり、福部社の神はお多福だということになる。

福部(ふくべ)は語呂合わせから瓢(ふくべ)に通じる。
瓢とは狂言の中で茶筅売りたちがたたいていた瓢箪(ひょうたん)のことである。
そしてお多福の顔は瓢箪に似ている。

福部の神は語呂合わせで瓢の神に転じた結果、瓢(瓢箪)のような顔をしているのではないだろうか。

さらに瓢の神は語呂合わせから福の神へと転じたのではないかと思う。

北野天満宮 節分 豆まき 

北野追儺狂言が終了したのち、芸舞妓さんたちによる豆まきが行われた。


福部社の神は牛(丑=12月)を牽く神

福部社の御祭神は十川能福(そごうののうふく)という名前で、菅原道真の舎人(牛車を牽く牛の世話役)とされる。
「牛を牽く」というのは『丑=12月を牽く』という意味につながる。
丑=12月を牽いて去ってしまえば正月がくるということで、福部社の神・十川能福は二十四節気の大晦日・節分にふさわしい神だといえる。

断言はできないが、年末の鉢叩きで瓢箪をたたく習慣は、福部社の神=瓢(ふくべ/ひょうたんのこと)の神=十川能福が『丑=12月を牽く』神であるところから生じた可能性もあると思う。

平安時代、二十四節気の大寒の日に宮中では諸門に牛を牽く童子の像が置かれたという。
これらの像は節分の翌日の立春に撤去されていたそうだ。
なぜこういうことをしていたのかというと、やはり「丑=12月を牽き去ると正月がくる』という意味があったのだろうと思う。

また宮中の諸門に牛を牽く童子の像が置かれたというが、童子は八卦では丑寅をあらわす符であった。
丑=12月、寅=1月である。
そして童子は丑寅はを表す符なので、丑寅=12月と1月の中間となり、童子は「年の変わり目」をあらわすものだと考えられる。

大寒の日に「牛を牽く童子の像」を諸門に置き、立春に撤去するというのは、童子=丑寅(年の変わり目)が牛=丑(12月)を牽き去るということを意味していたのだろう。
この習慣は、正月に大福茶・皇服茶を飲むのと同じく、目には見えない年の移り変わりを視覚化したものだといえる。

⑥十川能福は菅原道真の遺体を乗せた牛車を牽く童子?

十川能福が菅原道真の牛車を牽く牛の世話係と聞いて、私は10月に行われている北野天満宮の祭礼・瑞饋祭を思い出していた。


ずいきまつり おはぐるま 

建築の神が住む町④ 北野天満宮 瑞饋祭 『ずいき神輿には秀吉が、牛車には菅原道真が乗っている?』 

上記記事に記したように、私はこの牛車には道真の霊が乗っていると思う。

北野天満宮の御祭神・菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に左遷となり、数年後に死亡した。
道真の亡きがらは牛車に乗せられて運ばれたが、途中牛が動かなくなった。
その場所に道真は葬られ、その上に社をたてたのが大宰府天満宮だという。
 
行列の牛車は道真の亡きがらが運ばれていくシーンを再現したものではないかと思うのだ。

牛車は牛が牽くが、さらにその牛には綱がつけられて、二人の男性が牽くことが多かったようである。

葵祭 斎王代列 牛車

上の写真は葵祭の行列に登場した牛車だが、北野天満宮・瑞饋祭の行列に登場した牛車と同様、牛を赤い着物を着た二人の童子が牽いている。

福部社の神=十川能福は「菅原道真の牛車を牽く牛の世話係」だというが、それは「牛車を牽く牛を牽く童子」なのではないか。

菅原道真の霊を乗せた牛車の牛を牽く赤い着物の二人の童子、彼らが十川能福なのではないか?

⑦十川能福は二人の童子の総称だった?

「十川能福は一人ではないか」
そうおっしゃられるかもしれないが、私は二人の童子の総称が十川能福だと思う。
その理由を説明しよう。

北野追儺狂言は福部社の神が鬼を追い祓う狂言であった。
福部社の神は十川能福なので、十川能福が鬼を追い祓うという狂言なのである。
狂言の具体的な内容は、お多福が登場すると、鬼は調服されてしまうというものだった。
つまり、十川能福はお多福なのである。
なぜ十川能福はお多福のような顔をしているのか?

中国には次のような伝説がある。
あるとき大洪水がおこって多くの人間が死んだが、伏羲と女媧という兄妹は巨大なヒョウタンの中に隠れていたので無事だった。
兄妹は結婚して子供を産み、人類の祖となった。 

瓢箪にはふたつのふくらみがある。このうち、大
きいほうのふくらみが伏羲、小さいふくらみが女媧というわけだろう。

Anonymous-Fuxi and Nüwa3

伏羲と女媧

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AAnonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a9/Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg よりお借りしました。
作者 匿名 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


十川能福は菅原道真の牛車を牽く二人の童子が和合した神なので、瓢のようなお多福の顔をしているのではないだろうか。

「伏羲は男神、女媧は女神である。しかし牛車をひく童子はふたりとも男だ。男神と男神が和合するのはでおかしい。」
そんな反論があるかもしれない。

だが、男と男が和合体して、瓢(瓢箪)の神になったと思われる神がいる。
七福神の福禄寿と寿老人だ。
福禄寿と寿老人はともに南極老人星を神格化した神だとされ、どちらも頭部が長い。

寝屋川戎神社 寿老人・布袋・弁才天・毘沙門天・福禄寿 
寝屋川戎神社

滋賀県の西教寺を参拝したとき、寺内で福禄寿の像を見たのだが、この福禄寿の頭部は瓢箪型をしていた。
福禄寿や寿老人の頭部が長いのは、もともとは二神の頭部が瓢箪型であり、福禄寿と寿老人が和合した神であることを示しているのではないだろうか。

さらに寿老人は「不死の霊薬を含む瓢箪を運ぶ」とされており、福禄寿と同様、瓢箪と関係が深い。


Unidentified Artist Untold Stories in Japanese Mythology

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AUnidentified_Artist_Untold_Stories_in_Japanese_Mythology.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/31/Unidentified_Artist_Untold_Stories_in_Japanese_Mythology.jpg
よりお借りしました。
作者 unidentified artist (Honolulu Museum of Art) [Public domain], ウィキメディア・


上は福禄寿と僧侶のBLを描いた絵であるが、福禄寿が同じ男神である寿老人と和合した神というイメージからこのような絵が描かれたのではないかと思う。

⑧福部の神は服部の神?

私は昔読んだ池田理代子さんの漫画を思いだしていた。
たしか「おにいさまへ・・・」という作品だったと思うが、主人公の女子高生が、校内マイクで「服部さん」を「ふくべさん」と言って呼び出してしまうシーンがあったのだ。

福部社の神は、もともとは服部社だったなんてことはないだろうか。
服部氏は秦氏の末流だとされているのだが。

最後に、話がややこしくなってしまったかもしれないので、内容をまとめておく。


【まとめ】

もともとは服部(はっとり)の神だった?
   ↓
福部(ふくべ)の神 ※服部は「ふくべ」と読める。※北野追儺狂言は福部社の神が鬼を追いはらう狂言
   ↓
瓢(ふくべ/瓢箪のこと)の神 ※北野追儺狂言で鉢叩き(瓢箪をたたくこと)が行われる。
   ↓
お多福(瓢箪のような顔をしている。)※北野追儺狂言にお多福が登場する。
   


福部(ふくべ)の神
   ↓
十川能福
   ↓
菅原道真の牛車の牛の世話役
   ↓
牛=丑=12月で、12月を牽いて去る神。12月が去れば新年がくる。
   ↓
牛車は二人の童子によって牽かれる。
   ↓
瓢(瓢箪)にはふたつのふくらみがあり、二人の童子が合体していることを表している?
福部の神はお多福の顔をしており、瓢(瓢箪)に似ている。



建築の神が住む町⑪ 大報恩寺 おかめ節分 『大報恩寺に残る聖徳太子信仰?』 につづく~

建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』  ← トップページはこちら



毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2017/09/27 23:05] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町⑨ 北野天満宮 新春奉納狂言 福の神 『福の神の正体』 

建築の神が住む町⑦ 北野天満宮 雪 朮詣 『天神さんは黄泉の神で1年の変わり目の神だった』 よりつづく~

懲りもせず、年があけた1月3日にも北野天満宮にでかけた。
北野天満宮で初詣(朮詣)をしたのはつい数日前のことだというのに。

この日北野天満宮に出かけたのは、北野天満宮境内の神楽殿で新春奉納狂言が行われると聞いたからだ。

①末広がり 春日山は縁起のいい山

主人に「末広がり(扇のこと)を買ってこい」と命じられた太郎冠者はすっぱ(詐欺師)に「末広がりとは傘のことだ」と騙され、傘を買って戻った。
太郎冠者が扇ではなく傘を買って戻ってきたので主人は機嫌が悪くなるが、太郎冠者がすっぱに教わった歌を謡うと機嫌がなおるという筋である。

大蔵流では「傘を差すなる春日山、これもかみのちかいとて、人が傘を差すなら、われも傘を差そうよ…」(大蔵流)と謡うそうである。

北野天満宮 新春奉納狂言 末広がり

情けないことに、古語のヒアリングができず、歌詞はよく聞き取れなかった。(すいません)
しかし、北野追儺狂言でも「人が傘を差すなら、われも傘を差そうよ…」と謡う部分は聞き取れた。

春日山は奈良市の春日大社の裏にある花山と御蓋山(三笠山)の通称である。

狂言にでてくる春日山は三笠山(御蓋山)のことではないかと思う。
三笠山という山名は、傘をさしたような山の形からくる。
それで「傘を差すなる春日山」と謡っているのだと思う。

浮見堂 三笠山 百日紅

向かって右の濃い緑色に見える山が三笠山

三笠山は春日大社の御神体として古くから信仰されていた。
いわば三笠山は神の住む山、神聖なる山であり、その山の形も末広がりで大変縁起がいいということで、怒っていた主人の機嫌が直ったのだろう。

②附子 附子が甘い砂糖に変わった話

主人が「この桶には猛毒の附子(トリカブト)が入っているので近づくな。桶から流れてくる空気を浴びただけでも死んでしまう。」と言って外出した。
しかし太郎冠者と次郎冠者が桶に近づき、扇子で風を起こしてみてもなんともない。

北野天満宮 新春奉納狂言 附子 

そこで桶の中に入っているものを少しなめてみたところ、それは砂糖だった。
二人は桶の中の砂糖を全部なめてしまった。
主人が家に戻ると二人が大泣きしており、主人が大切にしていた茶碗と掛軸が壊れていた。
二人は主人に「茶碗と掛軸を壊してしまったので死のうと思い、附子を食べたが死ねない」と言った。
もちろん、茶碗と掛軸を壊したのは、二人の策略である。

江戸時代以前、砂糖は輸入品でたいへん高価なものだった。
そのため主人は使用人に食べられてはたいへんと、毒と偽ったのだろう。

また、不美人のことをブスというのは、附子(トリカブト)に含まれる成分・アコニチンによって神経障害がおこり、顔の表情筋が不随となって醜い顔になるためだと言われる。

猛毒の附子が甘くておいしい砂糖に変わった話だととらえることもでき、
そういうことからおめでたい狂言として新春に演じられているのかもしれない。

③福の神



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

2人の信者が年籠(大晦日の夜、神社や寺にこもり、新年を迎える事)をするため出雲の社にやってくる。
年が変わるころ、二人は「福は内、福は内」と、豆を撒いた。(動画06:10あたり)

北野天満宮 新春奉納狂言 福の神2

④大晦日に豆まきをする理由

豆まきとは節分に行うものではなかったか。なぜ二人は大晦日に豆まきを行うのか。

延暦寺のお坊様に伺ったところ、昔は節分ではなく大晦日に追儺式を行っていたといい、現在でも延暦寺では大晦日の12月31日深夜に追儺式を行っている。

追儺式が終わるとちょうど新年になるようプログラミングされているのだ。

延暦寺 追儺式

延暦寺 追儺式

建築の神が住む町⑤ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』 

↑ こちらの記事に、大晦日と節分の関係について説明したが、これを簡単にまとめておこう。

かつての日本では旧暦と二十四節気の二つの暦を併用していた。

大晦日・・・太陽太陰暦(旧暦)の12月晦日(12月最後の日、1年の最後の日)
節分・・・・二十四節気の立春の前日(立春より新年になると考えられており、節分は二十四節気の大晦日だといえる。)

これが混同した結果、旧暦では新年を大々的に祝い、二十四節気では大晦日である節分に追儺式を行うようになったのではないだろうか。

豆まきは追儺式の中で行われることが多い。
そのため、豆まきもかつては追儺式が行われる大晦日に行われていたのだろう。


⑤酒の神・松の尾の大明神

話を狂言「福の神」に戻そう。

「福は内、福は内」と豆をまくと、そこへ福の神が高笑いしながら登場する。
この福の神がなかなかの呑兵衛で、ふたりにお神酒を催促する。
お神酒を神に差し出すと、まず「神々の酒奉行」である松の尾の神にお神酒をささげ、それから自分も飲み干した。

北野天満宮 新春奉納狂言 福の神

そして次のように言う。
「豊になるには元手がいる。元手とは金銀・米などではなく、心持ち。
早起き、慈悲、人付き合いを大切にすること、夫婦仲よくすること、
そして私のような福の神に美味しいお神酒をたくさんささげること。」

福の神がお神酒をささげた松の尾の大明神とは松尾大社の神のことだろう。

松尾大社 八朔祭 女神輿

松尾大社の神様は酒の神として信仰されている。
それで福の神は自分が飲むよりも先にまず松の尾の大明神にお神酒をささげたのだろう。

松尾大社で11月に行われる上卯祭でも狂言・福の神が奉納されている。

随分昔に松尾大社・上卯祭の狂言・福の神を見にいったことがあるが、北野天満宮で演じられているものとほぼ同様の内容だったと思う。

⑥福の神は蛭子神?それとも大国神?

福の神は出雲大社の神だと考えられる。
出雲大社の神とは大国主命だ。
つまり大国主命が松尾大明神に酒をささげているわけだ。

しかし福の神は烏帽子をかぶっている。
烏帽子をかぶるのは蛭子神の装いである。
大国主は大黒天と習合されているが、大黒天は頭巾をかぶっている。

恵比寿神は大国主の息子の事代主のことだとされることもある。
そして神が子を産むとは、神が分身をつくるという意味だとする説もある。
恵比寿神=事代主は大国主の分身ということで、出雲の神は恵比寿神=事代主の装いをしているのかもしれない。

長田神社 蛭子と大国 
長田神社 蛭子と大黒

⑦日本最古の酒神は三輪大明神

松尾の神は酒神として信仰されているが、なぜ酒神とされるのかについては明確になっていない。
また松尾の神が酒神として信仰されるようになったのは、狂言「福の神」が作られた室町時代だと言われている。

日本で最古の酒神といえば、奈良県桜井市にある大神神社の神、大物主神である。

崇神天皇代、疫病が流行したので、天皇は高橋活日命(タカハシイクヒノミコト)に酒を造らせて大物主神にお供えをしたところ、疫病が沈静したという。
そのため、大物主神は酒造の神”と崇めらてきたのだ。

⑧神殿を作らないのは物部氏の祭祀スタイル?

大神神社は古事記・日本書紀にも登場する神社で、日本最古の神社ではないかともいわれている。
祭祀のスタイルからして古い。

神社というのは神殿があり、拝殿があるというのが一般的である。
しかし大神神社には神殿はなく、拝殿から直接ご神体の三輪山を拝する。

「大神神社に何度神殿を作っても作っても壊れた。そのため拝殿だけを作った」というようなことを聞いた記憶がある。

三輪山 日の出

大神神社の御神体・三輪山

大阪府交野市にある星田妙見宮にも神殿がなく、大神神社と同様の伝説が伝えられている。
「神殿を何度作っても焼けてしまうので、神は神殿をのぞんでいないのだ、として拝殿のみをつくった」というのである。

星田妙見宮 織女石

星田妙見宮

交野市には星田妙見宮だけでなく、磐船神社・片埜神社の境外社の瘡(くさがみ)神社 など神殿のない神社がいくつかある。

磐船神社 天の磐船

磐船神社拝殿と御神体・天の磐船

瘡神社

片埜神社の境外社・瘡(くさがみ)神社の拝殿 拝殿の奥にある沼を御神体とする。

交野市付近はかつて肩野物部氏の本拠地であった。

物部氏の祖神・ニギハヤヒは初代神武天皇が日向より東征して畿内入りする以前に、天の磐船を操って天下ったと記紀に記述がある。
交野市の磐船神社の御神体はニギハヤヒが乗っていた天の磐船と呼ばれる巨岩であり、もちろん磐船神社の御祭神はニギハヤヒである。

ニギハヤヒが神武よりはやく畿内に天下っていたという記紀の記述から、神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説がある。

そしてニギハヤヒは『先代旧事本紀』では、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)となっている。

大神神社の御祭神・大物主神は別名を倭大物主櫛甕魂命という。
天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊と大物主命は【櫛】【玉(魂)】が共通するので、同一神ではないかという説がある。

そして、どちらの神社も神殿を持たない。

ということは、神殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイルなのではないだろうか。
また大物主とニギハヤヒは同一神で、どちらも物部氏の神なのではないか?

⑨松尾大社の神にパクリ疑惑?

松尾大社はなぜ酒神として信仰されているのだろうか。

それは松尾大社が大神神社の伝説をパクったためではないかと思う。

大神神社の主祭神・大物主神が矢に姿を変えて川を流れていき、ミシマノミゾクヒの娘・セヤダタタラヒメのほとをついたとうい伝説がある。

これと全く同じ伝説が下鴨神社・上賀茂神社・松尾大社にも伝えられているのだ。

下鴨神社・上賀茂神社の伝説では矢に姿を変えたのはオオヤマグイノカミで、ほとをつかれたのはタカモタケツノノミコト(ヤタガラス)の娘のタマヨリヒメ、生まれた子供が賀茂別雷大神となっており
カモタケツノノミコトとタマヨリヒメは下鴨神社に、賀茂別雷大神は上賀茂神社に祀られている。
そして丹塗りの矢に姿を変えたオオヤマグイノカミは松尾大社の主祭神なのである。

上賀茂神社 蹴鞠 

上賀茂神社

下鴨神社 蹴鞠始め2

下鴨神社

大神神社の伝説は記紀にも記されており、日本最古の神社であるとも言われている。
⑧で見たように、その祭祀スタイルも古い。
そういう理由から、秦氏のほうが物部氏の伝説をパクったように思える。

松尾大社は秦氏の氏神なのだが、秦氏は他にも紀氏の神であった稲荷神を、自らの神と偽ったと思われる例もある。
参照/小野小町は男だった⑪ 深草少将は紀氏だった? 

⑩大神神社の神官・オオタタネコは秦氏だった?

10代崇神天皇が大物主の子孫のオオタタネコに大神神社の大物主を祀らせたところ
大物主の祟りがおさまった、と記紀に記述がある。

このオオタタネコは秦氏のオウ氏ではないかという説がある。

⑧でみたように、大物主は物部氏の神だと考えられる。
大物主の子・オオタタネコが大物主の子でありかつ秦氏であるとするなら、オオタタネコの母親が秦氏なのだろう。

するとミシマノミゾクヒ・セヤダタタラヒメ父娘が秦氏なのか?
それともカモノタケツノノミコト・タマヨリヒメ父娘が秦氏なのか?

いずれにせよ、オオタタネコは物部氏の神・大物主と秦氏の女性との間に生まれたのではないだろうか。

そしてオオタタネコもしくはオオタタネコの子孫の秦氏は、大神神社を物部氏の神殿を持たない祭祀スタイルではなく、神殿を持つ祭祀スタイルに改めようとしたことだろう。
ところが神殿を建てるたびに火災が起こるなどして壊れた。
もしかすると、自らの祭祀スタイルにこだわる物部氏が、神殿に放火したのかもしれない。
そこで大物主は神殿のある秦氏スタイルではなく、神殿のない物部スタイルを好んでいると考えられたのだろう。

そして秦氏は神殿をつくることはあきらめ、神殿の代わりに、三輪山の手前に三つ鳥居をおくことを思いついたのだろう。
http://oomiwa.or.jp/keidaimap/02-mitsutorii/大神神社の三つ鳥居の写真)

檜原神社 三つ鳥居 
檜原神社 三つ鳥居 これと同様の形をした鳥居が大神神社拝殿の向う側にあり、申し込めば拝観できるそうだ。

大神神社の三つ鳥居が秦氏によって建てられたと考えるのは、秦氏の本拠地である京都・太秦の蚕の社に、三つ鳥居を立体的にしたような三柱鳥居があるからだ。

蚕の社 三柱鳥居 

蚕の社 三柱鳥居


⑪大物主はなぜ神殿を嫌ったのか

ときどき秦氏は大物主を嫌ったため、神殿をつくらなかったのではないか、という人がいる。
しかし私はそうは思わない。
秦氏が大物主を嫌って神殿をつくらなかったのではなく、大物主または物部氏が神殿をつくることを拒んだのだと思う。

物部氏には、やはりそれまでの自分たちの祭祀スタイルにこだわりがあっただろう。

また、出雲大社の大国主が出雲の国譲り神話の中でこんなことを言っていることに注意したい。

「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げる。
その代わり、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。
私はそこへ籠って外に出ない。また百八十神たちを天津神に従わせる。」

大神神社の大物主はこの大国主の幸魂・奇魂とされている。

大国主の前に光り輝く神があらわれ、大国主が名を問うと神は「私はあなたの幸魂・奇魂」と答えた。
こうして祭られたのが、大神神社だとされているのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E9%AD%82%E3%83%BB%E5%92%8C%E9%AD%82
↑ こちらのサイトによると、幸魂は愛、奇魂は智、和魂は親、荒魂は勇と説明されている。
つまり、大国主と大物主は同一神だと考えていいだろう。

大物主とはニギハヤヒのことで物部王朝の王または神だと考えられるが、九州からやってきた神武天皇に政権を奪われてしまったのだろう。
しかし、大物主は大国主と同じようには答えず、こう答えたのではないだろうか。

「天津神にこの国は差し上げない。天の御子が住むような大きな宮殿などいらない。
宮殿の中に籠ったりはしない。百八十神たちも天津神に従わせない!」

⑫福の神は大物主だった?

福の神は出雲の神、大国主だと考えられるが、大神神社の御祭神・大物主神は大国主の幸魂・奇魂なので、大国主と大物主は同一神と考えられる。

呑兵衛の福の神はわが国最古の酒神・大物主神なのではないか。

大物主神はわが国最古の酒神であるとも考えられる。

その大物主神の化身・福の神が、松尾の神に酒を捧げる・・・・。

それは本物の酒の神が、ニセモノの酒の神に酒を捧げているように私には見えた。




建築の神が住む町⑩ 北野追儺狂言 『福部の神は瓢の神で、丑を牽いて去る神だった?』 へつづく~
トップページはこちらです。→建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』 
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[2017/09/23 14:38] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町⑧ 北野天満宮 雪 朮詣 『天神さんは黄泉の神で1年の変わり目の神だった』 

北野天満宮 雪

北野天満宮 本殿

建築の神が住む町⑥ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』  より続く~

①三光門には星がない?

紅葉、梅、瑞饋祭、大福梅授与とすでに4度参拝してきたが、初詣もやはり北野天満宮へ詣でることにし、大晦日の夕刻に家を出た。
この日、京都は大雪で、私の心を躍らせた。

北野天満宮 三光門

北野天満宮 三光門

雪の積もる参道を歩いて三光門をくぐる。

三光門と呼ばれているのは彫刻の中に日月星があるためである。

北野天満宮 三光門-星

↑ 太陽だと言われている。

北野天満宮 三光門 太陽  

↑ 月だと言われている。

北野天満宮 三光門-月  

↑ 三日月。

三光門なのに星がない?

平安時代に天皇が大内裏(だいだいり、宮殿)から、その北方にある北野天満宮を拝んだ際、この三光門の真上に北極星が瞬いていたため、星を刻まなかったとも言われている。

②三光門にはちゃんと太陽・月・星が揃っている。

私は三日月が月、赤丸が星、黄丸が太陽だと思う。その理由を説明しよう。

まず、星は星型(☆)で表現されると思いがちだが、相撲では黒星・白星は丸で表現する。

城南宮 城南祭5 
城南遇 ご神紋

城南宮のご神紋も日月星を象ったものといわれているが、大きな●と小さな●、そして三日月でデザインされていて星型は用いられていない。
ということは、大きな●か、小さな●のどちらかが星なわけだ。

そして現在の日本では太陽は赤、月は黄色で描かれることが多いが、キトラ古墳では太陽は金、月は銀色で描かれている。
北野天満宮の三光門の三日月も銀色に塗られている。

一方、星には赤・黄・青などさまざまな色のものがある。
自ら光を発する恒星の場合は温度によって色がかわる。

太陽は、5000~6000kで実際には黄色である。
外国では太陽は黄色で描かれることが多い。
日本では太陽は赤で描かれることが多いが、それは夕日の赤の印象が強いためではないだろうか。

そういうわけで、三光門の黄色い丸は太陽で、赤い丸は星だと考えられる。

三日月もあるので、太陽・星・月の3つの光がちゃんと揃っている。

③立牛と梅鉢紋

三光門を通り抜けると本殿があり、本殿の前では朮火が焚かれていた。
大晦日に北野天満宮を詣で、朮火を縄でもらい受けてお雑煮を焚いて食べると、無病息災のご利益があるなどと言われている。

北野天満宮 朮詣 

本殿の上方を見上げると、立牛のレリーフがある。
天満宮の牛はほとんどが寝そべる姿のものであり、立ちあがる姿のものは珍しい。

立牛の下には北野天満宮のご神紋、星梅鉢紋が刻まれていた。

北野天満宮 立牛 と 紋 

天満宮の御祭神・菅原道真は大宰府で亡くなり、その遺体を牛車に乗せて運んでいたところ、牛が止まって歩かなくなってしまった。
そこで、その地に菅原道真の遺体を葬り、その上に大宰府天満宮を建てたといわれている。

ずいきまつり おはぐるま 

天満宮に牛の像北野天満宮 瑞饋祭 牛車 菅原道真公の遺体を運ぶ様を再現したものだと思われる。

天満宮に牛の像が置かれているのは、その故事にちなむものだろう。

また、藤原時平の讒言によって菅原道真が太宰府に左遷されたとき、道真の邸宅の梅の木が道真をしたって京から大宰府まで飛んできたという伝説もある。

天満宮の紋は若干のデザインの違いはあるが、ほとんどが梅紋である。
それはこの飛梅伝説によるものだろう。

④牛は月、梅は星を表す?


私は羽田空港にある千住博さんのmooonという作品を思い出していた。

羽田空港 mooon

千住博さんのmooon

作品の説明版には次のように記されていた。
「大古の昔、月の形に似た角を持つ牛は天体の運行を司る使者として、人々から崇められてきた。」
なるほど、牛とは月の神なのだ。

そして立牛の下にある星梅鉢紋は、5つの●でデザインされている。
②でに述べたように、●は星をあらわしている。
また●でデザインされた紋を、星紋という。
http://www.harimaya.com/kamon/column/hosi.html
星梅鉢紋はその名のとおり、星をあらわしているのだ。

牛=月、梅鉢紋=星なので、菅原道真は夜の神だといえるだろう。

北野天満宮 地主神社 雪

北野天満宮 地主神社

⑤菅原道真は夜の神で黄泉の神?

記紀神話に登場する月の神は月読命という神名であるが、読は黄泉に通じる。月は黄泉の国の神だとも考えられる。
月読命=月の神=黄泉の国の王

そして船場俊昭さんが次のようにおっしゃている。
「スサノオを漢字で書くと素戔鳴尊となるが、これは輝ける(素)ものを失って(戔)ああ(鳴)と嘆き悲しむ神(尊)という意味で、スサノオはもともとは星の神だったのが、のちに星の神という神格を奪われたのてはないか」と。

記紀神話ではスサノオは根の国の王として登場する。
根の国とは黄泉の国と同様のものと考えられている。
スサノオ=星の神=根の国の王=黄泉の国の王

月も星も黄泉の神だということになる。

そして菅原道真を祀る天満宮のシンボルは牛と梅である。
④でのべたように、牛は月の神である。
そして北野天満宮のご神門は星梅鉢紋である。

つまり、牛=月=黄泉の神、梅=星=黄泉の神。
菅原道真は黄泉の神だともいえるのではないだろうか?

⑤牛=12月丑、梅=1月=寅で、天満宮は艮(丑寅)の神?

また、こんな風にも考えられる。

牛は干支の丑。丑は季節では12月をあらわす。

梅は1月1日または2月3日の誕生花である。

1月1日は旧暦だろう。
新暦の1月1日ではまだ梅は咲かないが、旧暦の1月(新暦の2月ごろ)になると梅の花が咲き始めるからだ。

2月3日は二十四節気の立春の前日、節分だ。
立春は暦法・二十四節気の元旦でもあった。
つまり梅は新年をあらわす花だということになると思うが、新年=1月は干支では寅である。
天神さんのシンボルが牛と梅なのは、牛=12月=丑、梅=1月=寅で、艮(丑寅)の神でもあるということではないか。

艮(丑寅)は方角では東北のことだが、東北は鬼が出入りする方角、鬼門として忌まれた。

猿が辻

上は京都御所の猿ヶ辻だが、東北の角を作らないよう、わざわざ塀を内側に凹ませてある。
それほど、東北=丑寅は忌まれていたのだ。

北野天満宮の御祭神・菅原道真の死後、疫病の流行・清涼殿に雷が落ちるなどの事件があったが、それらは大宰府に左遷された菅原道真の怨霊のしわざだと考えられた。

北野天神縁起には清涼殿で暴れる鬼(雷神/天神)が描かれているが、この鬼は道真の怨霊だと考えられる。

File:Kitano Tenjin Engi Emaki - Jokyo - Thunder God2.jpg

『北野天神縁起』(承久本)巻六より。宮中清涼殿に雷を落とす雷神と逃げまどう公家たち

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AKitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/Kitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
よりお借りしました。
作者 不明 [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


道真は鬼なのだ。
それで鬼をあらわす牛=丑=12月と梅=1月=寅が道真のシンボルになっているのかもしれない。

⑥菅原道真、1年の変わり目の神へと神格を広げる?

さらに道真は艮(丑寅)の神ということで、1年の変わり目の神へと神格を広げたようである。
艮(丑寅)は丑=12月、寅=1月で1年の変わり目もあらわしているのだ。

ここ北野天満宮で大晦日から新年にかけて、朮詣が行われているのは、道真が怨霊であり鬼であり、丑寅の神であり、さらに1年の変わり目の神であるからかもしえない。

⑦八坂神社の朮詣

八坂神社でも朮詣の習慣がある。

八坂神社の御祭神はスサノオであり、スサノオは牛頭天皇と習合されている。
⑤でみたように、スサノオは星の神だと考えられ、牛頭天皇は牛の角を生やした姿であらわされることもある。

月読命は黄泉の神。星の神・スサノオは根の国の王=黄泉の国の王と考えられる。

つまり、スサノオ=牛頭天皇もまた、黄泉の神であり、鬼(丑寅)なのだ。
丑寅は丑=12月、寅=1月で、スサノオは1年の変わり目をあらわす神でもあると考えられる。
そういうことから、八坂神社でも朮詣でが行われているのではないかと思う。


建築の神が住む町⑨ 北野天満宮 新春奉納狂言 福の神『福の神の正体』 へつづく~
建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』 ←トップページはこちらです。



 
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[2017/09/17 23:11] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町⑥ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』 


建築の神が住む町⑤ 『大報恩寺の大根焚と男女双体の神』  よりつづく~

①大福梅授与はなぜ12月13日より始まるのか

京都では正月に大福茶(梅干しをいれたお茶。皇服茶とも。)を飲む習慣がある。
北野天満宮では12月13日より大福茶に用いる大福梅の授与が始まる。

大福梅は北野天満宮梅園で収穫した梅の実を梅干しとして漬け込み、夏土用干ししてカラカラに乾かしたものである。

北野天満宮 大福梅 

北野天満宮で求めた大福梅

この大福梅の授与が12月13日に始まるのは、この日が正月事始めの日だからだろう。
最近はこういうことにこだわらなくなったが、昔は12月13日から正月準備を始めるのは12月13日から、と決められていたのだ。

北野天満宮 梅

北野天満宮 梅

②お屠蘇は蘇という鬼を屠るという意味


正月に大福茶を飲むのはなぜなのだろうか。

そんなことを考えながら、私は北野天満宮の授与所で大福梅を一袋求めた。
清楚な印象の巫女さんが「どうぞ」と袋を差し出してくれたのを受け取り、
ふと見ると、大福梅の袋と並んで『お屠蘇』と記した袋も並べられていた。

「あっ、お屠蘇もあるんですね。」

「お屠蘇は、蘇という鬼を屠るという意味でお正月に飲むんだそうですよ。
北野天満宮のお屠蘇はティーバッグになっておりますので、お酒につけるだけで召し上がっていただけますよ。」

巫女さんはそういって勧めてくださったが、私は一滴もお酒が飲めないので、大福梅だけいただいて北野天満宮をあとにした。

③追儺式は大晦日に行われるものだった。

現在では節分に追儺式を行う寺社が多いが、延暦寺では大晦日に追儺式を行っている。

延暦寺 追儺式

延暦寺 追儺式

延暦寺のお坊様の説明によると、もともと追儺式は大晦日に行うものであったとのことである。

かつての日本では旧暦と二十四節気の二つの暦を併用していた。

太陽太陰暦(旧暦)は月の周期をベースにした暦である。
月の周期は29.5日なので、1年=29.5日×12か月=354日となり、太陽の動きをベースにした太陽暦(新暦)とは1年で11日ずれる。
3年では約一か月もずれてしまう。
そのため、3年に1度閏月を設けてずれを調整していた。

太陽太陰暦は月がカレンダーがわりになって便利なのだが、太陽の動きによって生じる実際の季節とはずれが生じ、農作業等に支障が生じる。
そのため、1太陽年を24に分割した二十四節気という暦を併用していたのである。

節分とは二十四節気の立春の前日のことである。
立春は暦法・二十四節気の正月であり、その前日の節分は二十四節気の大晦日である。

旧暦の大晦日も節分もどちらも大晦日であるということで、もともと旧暦の大晦日に行っていた追儺式を、節分に行うようになったのだろう。

③追儺式の鬼はなぜ牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいているのか。

石清水八幡宮 鬼やらい神事-豆まき

石清水八幡宮 鬼やらい神事

節分の鬼は牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいている。
これは干支の丑寅をあらわすものであると言われる。

12月は干支では丑月、1月は干支では寅月である。
また二十四節気では小寒(1月6日ごろ)~立春(2月4日ごろ)までが丑月、立春(2月4日ごろ)から啓蟄(3月8日ごろ)までが寅月となる。

つまり、鬼の牛の角は丑月を、虎皮のパンツは寅月で、年の変わり目を表しているというのだ。
そして、鬼=年の変わり目をおっぱらうことで、新しい年がやってくるというわけだ。
目には見えない1年の移り変わりを視覚化したのが、追儺式だといえるだろう。

また方角を干支であらわすと、東北の方角が丑寅となる。
丑寅の方角は鬼が出入りする方角、鬼門として忌まれた。

石清水八幡宮  鬼門封じ 

石清水八幡宮 本殿 鬼門封じ


石清水八幡宮 鬼門封じ 

④蘇という鬼を屠る

お屠蘇は「蘇という鬼を屠る」という意味であるという。

そして、「飲む」という言葉には「水などの液体を体内に摂取する」という意味のほかに、「相手を圧倒する」という意味もある。

広島カープファンの友人に聞いた話だが、対ヤクルト戦では広島カープ側の応援席に「飲め、飲め」と言ってヤクルトが配られていたそうである。
これは飲料のヤクルトを飲むことで、球団のヤクルトを圧倒しようというまじないであると言えるだろう。

これと同様で、お屠蘇は鬼=年の変わり目をあらわすものであり、これを飲むことで鬼=年の変わり目を屠るというまじないであると考えられる。

お屠蘇を飲むことは追儺式同様、目には見えない1年の移りかわりを視覚化したものだと言ってもいい。

六波羅蜜寺 皇服茶 

六波羅蜜寺では正月3が日に結び昆布と梅干を入れたお茶・皇服茶を授与している。
皇服茶という名前は村上天皇が召し上がって(服して)病が回復したの「皇帝も服したお茶」からくると言われる。
一方、王福茶も村上天皇が召し上がって(服して)病が回復したので「王服茶」と呼ばれていたのが「大福茶」に転じたとされる。


⑤なぜ梅を入れたお茶・王福茶を飲むのか。

こう考えると、梅を入れたお茶・王福茶を飲む意味も解ける。
建築の神が住む町③ 北野天満宮 梅 『梅は1月1日と2月3日の誕生花』 で見たように、梅は1月1日と2月3日の誕生花である。
1月1日は正月、2月3日は節分(二十四節気の大晦日)で、梅もまた年の変わり目と、鬼を表している。

正月に大福梅の入った大福茶を飲むのは、お屠蘇を飲むのと同じで、梅は鬼=1年の変わり目をあらわしており、これもまた目には見えない1年の移り変わりを視覚化したものだと言えるだろう。

霊山寺 初福茶 

霊山寺(奈良)では正月に初福茶(抹茶)を授与している。



建築の神が住む町⑦ 北野天満宮 雪 朮詣 『天神さんは黄泉の神で1年の変わり目の神だった』  へつづく~

建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』  ← トップページはこちら



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[2017/09/15 09:08] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町⑤ 『大報恩寺の大根焚と男女双体の神』 

 建築の神が住む町④ 北野天満宮 紅葉 『筋違いの本殿』  よりつづく~

①大報恩寺の大根焚



北野白梅町駅で下車し、交差点の東北の角・京都信用銀行前の「北野廃寺跡」と記された石碑の前を通って東に歩いていく。

北野廃寺跡石碑 

北野廃寺跡

北野天満宮 東門 
北野天満宮 東門

北野天満宮を超えてさらに東へ向かったところに大報恩寺(千本釈迦堂)がある。

大報恩寺の境内は大根を焚く甘い香りがたちこめ、大勢の人でにぎわっていた。
この日は12月8日、大報恩寺では年末の風物詩である大根焚が行われていたのだ。

千本釈迦堂 大根焚 
大報恩寺 大根焚

私も一杯いただき、ベンチに腰掛けてふうふう言いながら食べた。
寒さでかじかんだ体がじんわりと温まっていくようだった。

12月8日は釈尊が悟りを開いた日とされ、千本釈迦堂の大根焚はこれにちなむ行事だとされる。
またこの日、成道会法要も行われる。

千本釈迦堂 大根 
大報恩寺 大根焚

②大根焚は聖天さんにちなむ行事だった? 
 
私は東京の待乳山聖天で1月7日に行われている大根まつりを思い出していた。
待乳山聖天と同じく、聖天さんを祀る京都の嵯峨聖天でも毎年小雪(11月22日ごろ)を含む2日間に大根供養を行っている。
大根焚きはもともとは聖天さんにちなむ行事だったのではないだろうか。

待乳山聖天-引換券

待乳山聖天 大根まつり


待乳山聖天 ふろふき大根

待乳山聖天 大根まつり

待父山聖天の境内のいたるところに巾着袋と違い大根のシンボルがあふれていた。

待乳山聖天 巾着

待乳山聖天

待乳山聖天 二股大根

待乳山聖天

聖天さんを祀る寺はぜnどこの聖天さんでも、多少のデザインの違いはあってもたいてい巾着袋と違い大根のシンボルを用いている。
巾着袋と違い大根は聖天さんのシンボルなのだ。

双林院 提灯 

京都・双林院の紋。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!

聖天さんは大聖歓喜天とも呼ばれ、象頭の男女の神が抱きあう姿をされている。
男神は鬼王ビナヤキャ、女神は十一面観音の化身のビナヤキャ女神である。

聖天さんの紋が違い大根なのは、鬼王ビナヤキャの好物が大根とされているからだろう。

待乳山聖天 巾着&二股大根

待乳山聖天

③大根は男女双体をあらわす?

鬼王・ビナヤキャはなぜ大根が好物なのか。
好物に理由なんてあるか、好きなものは好きなのだ。
そう言われるかもしれないが、「鬼王・ビナヤキャの好物が大根とされている」ことには理由があると私は思う。

大根は直根の先端にある生長点が石ころなどにあたると、側根が肥大して二股になってしまうことがよくあるそうである。
そうした二股大根の形が男女双体の神を思わせるところから、大根が聖天さんの好物であるとされているのではないだろうか。

待乳山聖天 二股大根

待乳山聖天


④巾着の中には何が入っている?

それではもうひとつの聖天さんのシンボルが巾着袋なのはなぜなのだろうか。

聖天さんは象頭であるが、これはビナヤキャ&ビナヤキャ女神のほかに、ガネーシャという神様が聖天さんに関係しているからだと言われる。

ガネーシャには次のような伝説がある。

ガネーシャは母親のパールヴァティーに命じられて、彼女の入浴の見張りをしていた。
そこへシヴァが戻ってきたが、ガネーシャはシヴァが自分の父だと知らず、入室を拒んだ。
シヴァは怒ってガネーシャの首を切り落として遠くへ投げ捨てた。
その後、シヴァはガネーシャが自分の子供だと知り、ガネーシャの頭を探させたが見つからなかった。
そこで象の首を斬り落として持ち帰り、ガネーシャの体につけて生き返らせた。


象にも深い意味があると思うが、今のところ私にはよくわからない。
ただ、この伝説からガネーシャがドクロをつけて生き返った神であることがわかる。

真言立川流では髑髏に漆や和合水を塗り重ねて髑髏(どくろ)本尊を作り、これを袋に入れて7年間抱いて寝るとドクロが語りだすとしている。

これは死んでいたドクロが生き返ったということである。

どうやら昔の人はドクロは復活にかかせない呪具であると考えていたようである。
聖天さんの巾着袋の中には復活にかかせない呪具・ドクロが入っているのではないだろうか。

待乳山聖天 奉納された大根

待乳山聖天

⑤了徳寺の大根焚

了徳寺 大根焚 
了徳寺 大根焚

京都の了徳寺では報恩講の大根焚をが12月9日~10日に行っている。
報恩講とは親鸞の命日の法要であるが、親鸞といえば僧侶の身分でありながら妻帯したことで有名である。

なんでも、京都の六角堂に籠ったとき、聖徳太子が夢枕に現れて「私が女に生まれ変わってあなたの妻になろう」と言ったというのだ。

六角堂 しだれ桜

六角堂

今の時代、こんなことを言う人が現れても、「頭がおかしいのでは」と思われるだけだが、当時はこのはったりがきいたのだろう。
親鸞の死後、親鸞の子孫たちが本願寺を世襲し、また浄土真宗の信者も増えていった。

このように見てみると、なぜ了徳寺で大根焚が行われているのか、わかるような気がする。

妻帯した親鸞は、男女双体の神・聖天さんとイメージが重ねられ、その結果聖天さんの行事である大根供養を真似て了徳寺の大根焚は行われるようになったのではないだろうか。

⑥大報恩寺に伝わる大工の棟梁と阿亀の伝説

境内には手に升を持つお亀の像が建てられていた。
ここ大報恩寺には大工の棟梁とその妻・阿亀の伝説が伝えられており、それにちなんでお亀の像は建てられたのだろう。

千本釈迦堂 阿亀像

千本釈迦堂の本堂を建てるとき棟梁が謝って柱を短く切ってしまった。
妻の阿亀が柱の長さが足りない分を枡組を作って補ったらどうかとアドバイスし、本堂は完成した。
阿亀は女の助言を受け入れたことが知られたら夫の恥になると思い、本堂が完成する前に自害した。


千本釈迦堂 升 
大報恩寺本堂

大報恩寺本堂を見上げてみると、なるほど、柱に枡組がついている。

●∧は男性、∨は女性

ベストセラー小説『ダ・ヴィンチ・コード』に∧は男性、∨は女性を表すと書いてあったと記憶している。
これと同様、枡とは凹で女性を、柱とは凸で男性を表しているのではないだろうか。
すると枡(凹)と柱(凸)が合体している千本釈迦堂の柱は男女和合の象徴であるということになる。

そういったところから、千本釈迦堂は聖天さんのイメージと重ねられ、大根焚きの行事を行うようになったのではないかと思う。

千本釈迦堂 大根焚2 

大報恩寺 大根焚

よく見ると、大報恩寺の境内の片隅に布袋像が置かれていた。
布袋は袋を持っている。

千本釈迦堂 布袋像 

大報恩寺 布袋像

大根炊、布袋の袋で、聖天さんのシンボルが大報恩寺には揃っているということになるが。


建築の神が住む町⑥ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』  につづく~
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[2017/09/05 16:09] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町④ 北野天満宮 紅葉 『筋違いの本殿』  




建築の神が住む町③ 北野天満宮 瑞饋祭 『ずいき神輿には秀吉が、牛車には菅原道真が乗っている?』 よりつづく~

①筋違いの本殿


北野廃寺跡石碑 

北野廃寺跡から東へ400mほど歩くと北野天満宮の参道が見えてくる。
松並木が続く参道を北へ、まっすぐ歩いていくと楼門だ。

北野天満宮 参道

北野天満宮参道

北野天満宮 楼門 紅葉

北野天満宮 楼門




上の地図を見ていだくと、楼門と三光門、本殿(三光門の真上の北野天満宮の文字があるところ)が一直線に並んでおらず、楼門から三光門、本殿がやや東にずれていることがわかる。

これは北野天満宮の七不思議のひとつで、「筋違いの本殿」と呼ばれている。

北野天満宮 菊

北野天満宮 本殿

神社の本殿は参道の正面にあるのが一般的なのだが、北野天満宮の楼門参道の正面には地主神社がある。

ここにはもともと地主神社があり、その後菅原道真公を祀る神社が建てられたのだが、その際、もともとここに鎮座していた地主神社の正面を避けて道真公を祀る神社を建てたためであるという。

北野天満宮 地主神社 紅葉 

地主神社

菅原道真、天神になる。

菅原道真は才能のある人物で、低い家柄の出であるにもかかわらず右大臣の地位にまで上り詰めた人物だった。
それを左大臣の藤原時平が嫉妬し、醍醐天皇に「道真は謀反を企てている」と讒言した。
藤原時平の言葉を真に受けた醍醐天皇は、道真を大宰府に左遷した。
道真は数年後失意のうちに太宰府で亡くなった。

その後、都では相次いで天災がおこり、疫病が流行した。
醍醐天皇は保明親王を皇太子としていたが、21歳の若さで薨御してしまった。
そこで醍醐天皇は保明親王の子の慶頼王を皇太子としたが、またしても薨御。わずか5歳だった。

そんなところへ、清涼殿に落雷が落ち、道真左遷にかかわった人々が相次いで亡くなった。
これらは菅原道真の怨霊の仕業であると考えられた。
醍醐天皇は清涼殿落雷事件の3か月後にノイローゼになって崩御されたといわれている。

北野天神縁起には清涼殿で暴れる鬼(雷神/天神)が描かれているが、この鬼は道真の怨霊なのだろう。

File:Kitano Tenjin Engi Emaki - Jokyo - Thunder God2.jpg

『北野天神縁起』(承久本)巻六より。宮中清涼殿に雷を落とす雷神と逃げまどう公家たち

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AKitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/Kitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
よりお借りしました。
作者 不明 [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


③本来の天神は菅原道真ではなかった。

こんなことを聞いたことがある。
「もともと天神さんとは菅原道真のことではなかった。しかし、清涼殿の落雷が菅原道真の怨霊によるものだとされたことで、天神さんとは菅原道真のこととされるようになった。」

おそらく地主神社の神は雷神であったのだろう。
ところが清涼殿落雷事件などが道真の怨霊の仕業であると考えられたため、道真こそが雷神であると考えられ、もともと雷神が鎮座していた土地に道真は祀られることになったのではないだろうか。

とすれば、もともとここに祀られていた地主神社の御祭神とはどんな神だったのだろうか?

御土居より北野天満宮を望む  
御土居より北野天満宮を望む

④北野廃寺と地主神社の関係は?

私は北野白梅町駅の東北の角にある小さな石碑を思い出していた。
その石碑には「北野廃寺跡」と刻まれており、かつて石碑前の交差点を中心として225m四方に及ぶ寺域を持つ寺があったと考えられている。

ここ北野天満宮の地主神社はその石碑から600mほど東北に位置する。
北野天満宮の境内にある地主神社は北野廃寺から近い場所にあったのだ。

そして江戸時代までの日本では神仏は習合して信仰されていた。

神仏習合のベースとなったのは本地垂迹説という考え方である。

本地垂迹説とは日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿を表したものとする考え方で
日本古来の神々のもともとの姿である仏教の神々のことを本地仏、仏教の神々は仮にこの世に姿を現した日本古来の神々のことを権現といった。

例えば天照大神は大日如来の権現であるとか、スサノオの本地仏は牛頭天皇であるなどと考えられていたのである。

もしかして北野天満宮境内にある地主神社に祀られている神は、北野廃寺の本尊を本地仏とする権現なのではないだろうか?
とすれば、北野天満宮の本尊と地主神社の神は習合されており、同一の存在であると考えられていたことになるのだが。

 北野天満宮 宝物殿 かぼちゃ 
北野天満宮 宝物殿


 
建築の神が住む町⑤ 『大報恩寺の大根焚と男女双体の神』  へつづく~
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[2017/09/04 10:32] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)