①むささびは弓削皇子ではなく志貴皇子の比喩だと思う。
志貴皇子の御歌一首 むささびは木末こぬれ求むとあしひきの山の猟師さつをに逢ひにけるかも(万3-267) 【通釈】むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。 以前図書館で借りた本次のような内容が記されていた。
❶ 日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとあるが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっている。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)
この歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせる。
また笠金村は 次のような歌も詠んでいる。
御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)
こちらの歌は『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思える。
これらの歌から、志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年近く隠されていたように思われる。
❷ 萩は別名を『鹿鳴草』というが、日本書紀に次のような物語がある。
雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えた。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺した。
謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないか。
笠金村は
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに と歌を詠んでいるが、
志貴皇子を野辺の秋萩にたとえており、志貴皇子が謀反人であることを示唆しているように思われる。
志貴皇子の邸宅跡と伝わる白毫寺には笠金村が詠んだ志貴皇子の挽歌にちなみ、萩が植えられている。
❸ のちに志貴皇子の子・白壁王は即位して光仁天皇となっていることから、志貴皇子には正統な皇位継承権があったのではないか。
元正天皇が即位したのは715年である。
志貴皇子の薨去年が万葉集の詞書にあるように715年だったとしたら、志貴皇子の死はあまりに元正天皇にとってタイミングが良すぎる。 志貴皇子の死の原因を、周囲の人々はいぶかしく思うかもしれない。 そのため志貴皇子の死を隠したのではないだろうか。
元正上皇と舎人親王が贈答しあった歌が、万葉集にある。
あしひきの 山行きしかば 山人の 我に得しめし 山つとぞこれ/元正上皇 (山道を歩いていたところ、たまたま逢った山人が、私にくれた山の土産であるぞ、これは。)
あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰/舎人親王 (陛下は山へ行かれて山人に土産をもらったとおっしゃるのですか。「山人」とは誰のことなのでしょうか。山人とは陛下のことではありませんか。)
私はこの歌は志貴皇子のこの歌に対応しているのではないか、と考えているのだ。
むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山の猟師(さつを)に 逢ひにけるかも/志貴皇子 (むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。)
大伴坂上郎女という人が次のような歌を詠んでいる。
大夫(ますらを)の 高円山に 迫めたれば 里に下り来る 鼯鼠(むささび)ぞこれ/大伴坂上郎女 (勇士たちが高円山で狩りをして、里に下りてきたむささびがこれです。)
大伴坂上郎の歌の中に『 高円山』とでてくるが、志貴皇子の邸宅跡とされる百毫寺は高円山の西の山麓にある。 高円山に住むむささびとは志貴皇子を比喩したものなのではないだろうか。
鷺池より高円山を望む
そして元正上皇がいう『山人』もまた志貴皇子を比喩していったもので、『山人がくれたみやげ』とは『志貴皇子の死=元正天皇の即位』を意味しているのではないか。
山人とは『山に住む人』『仙人』という意味であるが、『いきぼとけ』とよんで『心や容姿の美しい女性』のことをさす言葉でもあった。 それで舎人親王は、「山人=仙人=志貴皇子のことなどしらない。山人とは美しい女性という意味で、元正上皇のことではありませんか。」と答えたのだと思う。
むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山の猟師(さつを)に 逢ひにけるかも/志貴皇子 (むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。)
この歌によまれたむささびとは志貴皇子自身のことで、漁師とは元正天皇または舎人親王のことをさしているのだと思う。
志貴皇子は、自分が元正天皇と舎人親王の陰謀で囚われの身となってしまったと嘆く歌のように私には思える。
⓶もののなとして「屠る」を読み込んだ歌?
次に梅原氏は『人麿歌集』の次の歌を紹介している。
弓削皇子に献る歌一首 御食向かう南淵山の巌には落(ふ)りしはだれか消え残りたる。 初句「御食〈みけ〉向かふ」は「南淵〈みなぶち〉」にかかる枕詞。「南淵山」は現在の高市郡明日香村稲淵〈いなぶち〉の一帯を指すと考えられています。この歌碑のある売店側から石舞台古墳を見ると、その奥に「南淵山」を見ることができます。三句目「巌〈いはほ〉」は地につき出た岩のことを言うため、「南淵山」は岩肌が表れている山であったと推測できます。その岩肌が白い鹿子模様になっている様子を、歌碑の立つ島庄か川原辺りから見、降った雪の「はだれ(雪や霜が薄く降り置いた様を表す語)」がうっすら消え残っているのだろうか、と詠んだ歌です。
原文は「御食向南淵山之巌者落波太列可削遺有」
「御食向かう南淵山の巌には落(ふ)りしはだれか消え残りたる」というのは
「御食向南淵山之巌者落波太列可削遺有」を次のように詠んだのだろう。 御食向・・・御食向かふ 南淵山之・・・南淵山の(之) 巌者・・・巌には 落波太列可・・・落(ふ)りし波(は)太列可(だれか) 削遺有・・・削(き)え遺(のこり)有(たる)
そして、契沖(1640~1701)が「削り残れる」に弓削皇子の名前がよまれていると指摘していることも、梅原氏は紹介されているが、これ以上の説明はされていない。
私はこれは謎々ではないかと考えた。
「削り残れる」の「削」は弓削の「削」である。
しかし弓がない。弓削の弓が削られて、削が残ったと、そういう謎々だろうか。
あるいは「削遺有」の「有」が「ゆ」「削」が「げ」ということなのかもしれない。 梅原氏はつぎのように述べておらえる。
不吉なイメージをもった南淵山で命を落としたのは誰か。私はここで生き残っている。この生き残ったというイメージに、人麿は、この死んだ人の名をいれて「削遺有」といったのではないか。(『黄泉の王』p148より引用)
「御食向かう南淵山の巌には落(ふ)りしはだれか削(き)え遺(のこり)たる」 この歌の中に私は「屠り(はふり)」という文字列を見つけてしまった。 わかりやすいように、ひらがなで書いてみよう。
「みけむかう みなみぶちやまの いわおには ふりしはだれか きえのこりたる」
「屠る」とは「体などを切り裂く」ことで「ほふる」ともいう。 古事記にも「控(ひ)き出して斬り屠(はぶ)りき」とあり、古くからある言葉である。
原文の「巌者」を「巌には」とよんでいると思うが、「者」からつくられた変体仮名があり、「は」とよむそうである。 ということは、「者」は「は」と読むのだろう。 「食向南淵山之巌者落波太列可削遺有」の「者落波」で「はふりしは」と読める。
これは和歌のテクニックのひとつで「もののな」という。
たとえば 心から 花のしづくに そほちつつ 憂く干ずとなみ 鳥の鳴くらむ(藤原敏行) この歌には「憂く干ず(うくひす)」が読み込まれている。
「南淵山の巌に屠られたのは誰だ。(弓削の弓が削え)、削のみが残っている。(屠られたのは弓削皇子)」 そういう意味ではないかと考えるのは、トンデモだろうか。
梅原氏は枕詞の「御食向かう」を「死人に食糧を供えるという意味をこめた枕詞だろう」とおっしゃっている。 「御食」とは「神への供物」のことであり、死人は神といってもよいので、梅原氏のおっしゃる通りだと思う。
次回へつづく~
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①武田先生は「弥生時代に渡来人が日本列島に渡ってきた」ことは認めている?
上記動画の中で、次の様な発言がある。
>0:47 この日本のこのルーツっていうのがですね、まあ言ってみれば騎馬民族説だとか 弥生人とか渡来人とかいうのは実はここ1000年とか2000年の間のことだけ言ってるんですね、まあ3000年とか。
武田先生は、騎馬民族説や弥生時代に渡来人が日本にやってきたということ自体はありえると考えておられるのだろうか。
ちなみに日本の時代区分は次のように分類されている。
旧石器時代 /?~ 紀元前14000年頃まで 縄文時代 /紀元前14000年頃 ~紀元前10世紀
弥生時代 /紀元前10世紀 – 3世紀中頃
⓶旧人も石器を作った。
旧石器時代を考えるとき、注意しなければならないのは、我々現生人類以外の化石人類(ネアンデルタール人、デニソワ人など)も石器をつくったということである。
たとえば世界最古の石器で検索すると、ケニアのトゥルカナ湖西岸で発見された約330万年前のものとでてくるが これは猿人が作ったものと考えられている。
日本最古の石器で検索すると島根県砂原遺跡出土の石器がでてくる。 11万~12万年前のものであるとされる。 そしてこの砂原遺跡の石器はデニソワ人が作ったものではないかと考えられている。
砂原遺跡は現生人類が作ったものだとする説もある。
現在、現生人類はアフリカで誕生し、ここから世界中に広がっていったとするアフリカ単一起源説が有力視されている。 (人類はそれぞれの地域で原人から現生人類に進化したとする地域進化説もある。例えばネアンデルタール人がヨーロッパ人に、北京原人が中国人に、明石原人が日本人になったなど。) ※アフリカ単一起源説が有力視されている理由については後で述べる。
現生人類が誕生したのは約20万年前で、日本に到着したのは3万8000年ごろと考えられている。 3万8000年前というのは、次に述べる岩宿遺跡が約3万年前のものであるというところからくる。
しかし、アフリカ単一起源説を正しいとしても、砂原遺跡出土の石器が、絶対に現生人類によってつくられたものではないとも言い切れない。 3万8000年前よりももっと早い時代に日本に現生人類が到着していた可能性はなくはないからだ。
③岩宿遺跡は約3万年前。日本に人が住み始めた時期は5万年にまで遡れるか。
>しかし日本人が日本列島に住み出したっていうのは、どんなに短くても5万年前で
それも遺跡の数が一番以上あるって事はですね
ここで武田先生が「遺跡」とおっしゃっているのは、砂原遺跡ではなく、縄文時代以前の旧石器時代の遺跡、たとえば岩宿遺跡などのことだ。
かつて日本には旧石器時代はないと考えられていたので、そのころの地層の発掘調査は行われていなかったのだが
発掘された遺跡の名前から、日本の旧石器時代は岩宿時代と呼ばれることもある。
武田先生がおっしゃっている石器は、岩宿時代のもののことで、これは現生人類が作ったものだろうが 年代は武田先生がおっしゃる5万年前ではなく約3万年前である。 約3万年前の石器があるということは、それよりもっと早い時点で日本に石器を作る人々がいたという可能性はあるが 5万年前まで遡れるかどうかは疑問である。
④渡来人が日本にやってきていないのであれば、日本人のほとんどがD系統(縄文系)のはず。しかしO系統が多い。
>1:15 もちろん未発見の遺跡って、その10倍ぐらいあるでしょうし非常に人口も多かったわけですね それからナウマン像だとかヘラジカなんかと戦った跡ですね、まあそれの武器だとか そういったものから見てもですね相当の戦闘能力を持ってた日本人独特の高度な技術もあったわけで それが5万年前にあるのにですね それから5万年経って簡単に大陸の方から大量に人が渡ってくるとかですね もちろん海を越えて大量に人が渡ってくるってこと自体がですね、その今と違いますからないわけですね
「日本列島に先住民である縄文人がいると、後から渡来人がやってこない」と武田先生はおっしゃっているのだが、 そんなことは言い切れない。
岩宿時代の遺跡が関東地方に多いことは、2023年6月8日のヒバリクラブで武田先生自身もおっしゃっていたが 縄文時代にも人は関東地方に多く住んでいたと考えられている。 つまり、九州地方にはあまり人が住んでいなかったのだ。 そこへ渡来人がやってくるということは普通に考えられる。
また弥生時代に渡来人がやってきたであろうことは、Y染色体ハプログループの研究からも裏付けられる。 縄文人のY染色体ハプログループはD系統である。 ところが現在の日本人でD系統は35%程度で、O系統のほうが多い。 そして、O系統は中国や朝鮮にも多い。 つまり、O系統の人々が縄文時代以降日本にやってきたと考えられる。 もし、渡来人が日本列島にやってきていないのであれば、日本人のほとんどがD系統のはずである。
もしかすると、日本列島にやってきた渡来人は少数であったかもしれない。 しかし、渡来人には子孫を増やす能力があったかもしれない。 その能力とは稲作技術である。稲作を行えば、狩猟採集よりも安定して子孫を増やすことができる。 とすれば、日本列島にやってきたあと、彼らは縄文人よりも子孫を増やした可能性がある。
⑤Y染色体ハプログループの研究は遺伝学、考古学、言語学が融合されている。
>2:09 歴史の方は文献を当たるだから紙があって文字がなきゃだめ 考古学の人は遺跡を掘り出してやっていくんですね
それからここで今日説明するのは言語学とか、それから遺伝学なんですけどもそれぞれ分かれてるんですね こういった別れた学問を融合しなきゃいけないということはもうずいぶん前から今から50年ぐらい前から
ですね
●●●●(聞き取れず)とか融合しようとかいうことはずっと言われてるんですが
最近研究が進んでいるY染色体ハプログループの研究は
文字がない時代なので、文献を読みとくということはやっていないが
Y染色体の突然変異で変化した塩基配列のちがいからグループ分けし(遺伝学)、
これを遺跡の年代(考古学)にあてはめて、
アフリカで誕生した人物がどのように世界中に広がっていったのかを推測し(遺伝学と考古学の融合)
言語(言語学)とY染色体の変異の間の相関が密接であるとする研究(言語学と遺伝学の融合)から
父系言語仮説が唱えられている。
⑥父系言語仮説
>5:13 日本語っていう言語はですね、この図は英語テキストなんですが 世界の言語学をまとめたものですね。 言語同士の親戚関係なんかをまとめてるんですが残念ながらここにもちろんジャパニーズ・日本語はなくてですね
なので、日本語はなくて当然である。
>5:45 日本語の類似言語は原則としてはないんです
類似言語がないとされているのは、日本語だけではない。 朝鮮語、アイヌ語、キリヤーク語なども類似言語のない系統不明言語とされている。
ただし、ウィキ・ハプログループO (Y染色体)のところには、Y染色体ハプログループO1b2が弥生人(倭人)の言語と記されており、系統樹も示されている。
オーストリック大語族(中国南部から東南アジア、インド東部/Y染色体ハプログループはO1)があり
その下に、
・オーストロアジア語族(東南アジアからインド東部・バングラデシュ/Y染色体ハプログループはO1b1)
・弥生人(倭人 Y染色体ハプログループはO1b2) となっている。
⓻日本語のルーツを考えるには、大和言葉を調査する必用がある。
>6:02 非常識とか常識の前に非をつけるとかですね、無というのをつけるとかですね こういった否定語をつける言語の多さという点では、ここの言語は似ているというような言語はないじゃないんですけども
私はこの発言を聞いて、申しわけないが武田先生は言語学が分かっていないのではないかと思った。 言葉は時代とともに変化するので、言語のルーツを考える場合、古い言葉を調査する必用がある。
非常識とか常識という言葉もそうだが、もともとは中国語であって、それを日本流に発音した言葉ではないだろうか。 そうではなくて、日本にもともとある古い言葉、大和言葉と他言語の比較を行わなければならない。
例えば現在の日本に「ラジオ」「テレビ」などの言葉があり、英語のradio,televisionなどの言葉に似ているから、 日本語のルーツは英語だ、などというのがおかしな論だということは、ご理解いただけると思う。
⑧日本人とネアンデルタール人はどこで交配したのか
>8:55 日本でたどり着いた人がいたか、それとも生粋に日本列島の中で日本人という新種が誕生したかどっちかであって
前者は単一起源説、 後者は多地域進化説(例えば北京人から中国人へ、明石原人から日本人へと進化したというような説) である。
現在、Y染色体ハプログループの研究が進み、その結果、人類はアフリカで誕生し、Y染色体の塩基配列を少しづつ変化させながら世界中へ広まったとする説が支持されている。
そして、塩基配列の変化によってA、B、C、Dなどのようにグループ分けされ、系統樹もつくられている。 当然、似たような塩基配列のグループは、系統樹の近いところに配置され、異なる塩基配列のグループは系統樹の離れたところに配置されることになるのだろう。
このような系統順は、順序が逆ではないかという疑問をもってしまうが、 最古級の現生人類の人骨が発見されているのはアフリカで、30万年前とか、20万年前のものが見つかっていることもあり、アフリカ起源とするのは妥当だと思う。
ときどき、日本人は明石原人から進化したといいながら 日本人のY染色体ハプログループD1a2a は日本人特有のもので、優秀な遺伝子である、などという人がいる。
そういう人には、そのY染色体ハプログループの研究がアフリカ単一起源説の正しさを示していると思われるが、 なぜY染色体ハプログループをもちだしながら、多地域進化説を支持しているのか、ぜひ理由を説明していただきたい。
>9:18
もちろん日本人の遺伝子の中にはネアンデルタール人の遺伝子の比率が1.8%
全ての日本人がネアンデルタール人の遺伝子をもっているわけではなく、30%程度だ。 また日本人だけがネアンデルタール人の遺伝子をもっているわけでもなく、アフリカ以外の人の50%程度はネアンデルタール人の遺伝子をもっているという。
>9:28 日本人ができてからネアンデルタール人とのわずかな交配があったということを示しているんではないか
ネアンデルタール人の人骨はヨーロッパで発見されている。日本人とどこで交配したのだろうか。
①紀皇女、高安王と密通?
弓削皇子、紀皇女を思しのふ御歌四首のうちの一首
大船の泊つる泊(とまり)のたゆたひに 物思ひ痩せぬ 人の子故に(万2-122)
【通釈】大船が碇泊する港に波がたゆたっているように、私の心もひどく揺れ、思い悩んで痩せてしまった。あの子は人妻であるゆえに。
【補記】「人能兒(ヒトノコ)は、多く他妻をいへり」(万葉集古義)。
弓削皇子は紀皇女を激しく恋したようだが、人妻なので思い悩んで痩せてしまったという。 紀皇女は誰の妻だったのか。
物に寄せて思ひを陳のぶ歌
おのれゆゑ罵(の)らえて居れば葦毛馬の面高斑(おもたかぶた)に乗りて来べしや(万12-3098)
右の一首は、平群文屋朝臣益人伝へて云く、昔聞く、紀皇女竊かに高安王に嫁あひて責められし時、此の歌を御作よみたまへりと。但し高安王は左降して、伊与の国守に任まけらる。
【語釈】「おもたかぶた(だ)」は語義未詳。葦毛で斑(ぶち)模様のある馬のことをいうか。
【補記】左注の大意は「昔紀皇女が高安王と密通して罪を責められた時の御作で、高安王はこのため伊予国守に左降された」。高安王は初叙の年齢からして天武末年または持統初年頃の生まれと推定され、紀皇女とは年齢差が大きいことから、左注の作者名は「多紀皇女」の誤りであろうとする説もある(吉永登)。
「おのれゆゑ~」の歌の現代語訳は「あなたのせいで叱られているのに、白い面長の斑のある馬に乗ってよくも訪ねてきたものだ」というような意味である。
そして紀皇女がこの歌を詠んだのは、高安王と密通したときで、高安王は紀皇女と密通したため伊予国守に左遷されたと、平群文屋朝臣益人は伝え聴いているというのである。
ということは、高安王は紀皇女の夫ではなく、紀皇女には別の夫がいた、ということだろう。 紀皇女はよほど魅力的な女性だったのか、人妻であるにもかかわらず、弓削皇子をはじめ男性にもモテモテだったようである。
⓶紀皇女が和銅以前に死んでいたと推測される理由がわからない。
梅原猛氏は次の様な内容を記している。
・吉永氏が紀を多紀にしたのは一理ある。
・高安王は和同六(713)年にはじめて従五位を授かっているが、令制では諸王の子は21歳に従五位を授けられることになっていいるので、その時、彼は二十一歳であったと思われる。 ・紀皇女は『万葉集』にのせた挽歌によって、彼女は少なくとも和銅以前には死んでいたと思われる。 ・和銅以前に死んだと思われる紀皇女に、和同六年二十一歳である高安王が通じるはずはない。
(『黄泉の王』128p)
713年、高安王は和銅6年(713年)に従五位。(従五位は21歳で授かることになっているので、このとき高安王は21歳。) これはいい。
「万葉集にのせた挽歌によって、紀皇女が和銅以前に死んでいたと思われる。」とあるのがわからない。
万葉集にのせた挽歌とは、紀皇女に対する挽歌ということだろうが、誰が詠んだ挽歌なのかが記されていない。 調べてみたところ、山前王(?-723)という人が紀皇女への挽歌を二首読んでいる。
挽歌をよんだのが山前王であるとして、その歌から紀皇女が和銅以前に死んでいたと推測されるのはなぜなのか。
上記記事に次の様な内容が記されている。
424 こもりくの泊瀬娘子(はつせをとめ)が手に巻ける玉は乱れてありと言はずやも
425 川風(かはかぜ)の寒き泊瀬を嘆きつつ君がある国似る人も逢へや
この歌は、「石田王が亡くなったときに、山前王が作った歌の反歌(長歌のあとにつけ加えられた短歌)」とあるが、
左注には、「或いは、紀皇女が亡くなった後に、山前王が石田王に変わって作ったという」とも記されている。
長歌の反歌の場合は、石田王の妻・初瀬娘子の気持ちになって詠んだ歌ということになる。
一方、左注に従えば、泊瀬に葬られた紀皇女を、泊瀬に住む娘子に見立て詠んだ歌ということになる。
425は、「亡き紀皇女を思って石田王がさまよわれても、その皇女に似る人に会う事さえできない。」という意味。
しかしこれだけでは、石田王が死んだ年も、紀皇女が死んだ年もわからない。
吉永登氏の著書『萬葉 その異伝発生をめぐって』に詳しく記されていると思うので、それを読んでみるしかないか。
③紀皇女は多紀皇女の誤りか?
梅原猛氏は、次の様に結論づけておられる。。 ❶吉永氏はそれは紀皇女ではなく、紀皇女の異母妹、多紀皇女ではないかというが、多紀皇女としても、高安王の祖母の妹、あるいは姉であり、年齢差がある。
❷多紀皇女は天武の子なので、最低でも天武の死一年後、朱鳥元年(六八六)には生れているはずで、和銅六年には最低でも二十八歳である。 ❸多紀皇女は天智帝の子、志貴皇子の妻であるが、志貴皇子の歌にで家庭の破綻の兆候はない。 ❹歌の但し書きに「但し高安王は、左降して伊予の国の守ににんぜられしのみなり」とるのは、高安王の処分は紀皇女の処分に比して軽かったという意味であろう。 ❺「伝へて云はく」「昔聞く」とあり、紀皇女の奔放な性生活は伝えられたが、情事の相手はまちがえられやすい。 高安王ではなく、紀皇女と同時代の皇族、たとえば弓削皇子でもよい。
❹歌の但し書きに「但し高安王は、左降して伊予の国の守ににんぜられしのみなり」とるのは、高安王の処分は紀皇女の処分に比して軽かったという意味であろう。
とあるが、千人万首は「但し高安王は左降して、伊与の国守に任まけらる。」となっていて、「のみなり」という言葉が抜けている。 やはり、写本が複数あるので、内容も若干違っているということだろうか。
いずれにしろ、「但し高安王は、左降して伊予の国の守ににんぜられしのみなり」という一文から「高安王の処分は紀皇女の処分に比して軽かったという意味」ととるのは若干飛躍しているような気がしないでもない。
紀皇女は「あなたのせいで叱られているのに、白い面長の斑のある馬に乗ってよくも訪ねてきたものだ」と歌を詠んでいるが、 ここから確認できるのは、「紀皇女が不倫をして叱られている」ということだけであり、高安王よりもひどい処分をうけたことは確認できない。
⓸葦毛馬の面高斑は、謀反人の比喩?
私は「葦毛馬の面高斑」という表現が気になっている。
 。
萩は別名を「鹿鳴草」という。
なぜ「鹿鳴草」というのかといえば、萩の白い花を鹿の夏毛の斑点に見立てたためだろう。
そして、日本書記「トガノの鹿」にこんな話がある。
雄鹿が雌鹿に「全身に霜が降る夢を見た」と言った。
雌鹿は偽った夢占いをして「霜だと思ったのは塩で、あなたは殺されて塩漬けにされているのです。」と言った。
翌朝、雄鹿は猟師に射られて死んだ。
つまり、萩の白い花と、鹿の夏毛の白い斑点は、死体を塩漬けにするための塩の比喩なのだ。
古には謀反の罪で死んだ人の死体は塩漬けにされることがあったという。
とすれば、斑点のある葦毛の馬もまた、謀反人の比喩のような気がする。
⑤春日王は春日若宮?
私たちは万葉集にある弓削皇子の歌のうち、6首までを鑑賞してきた。 残りは2首である。
弓削皇子の御歌一首
秋萩の上に置きたる白露の消けかもしなまし恋ひつつあらずは(万8-1608)
【通釈】秋萩の花の上に置いた白露のように、はかなくこの世から消えてしまったほうがましだ。こんなに恋しがって苦しんでいるよりは。
【補記】秋相聞。万葉集巻十に「寄露」の題で重出。
弓削皇子、吉野に遊いでます時の御歌一首
滝の上の三船の山にゐる雲の常にあらむと我が思はなくに(万3-242)
【通釈】吉野川の激流の上の、三船山にかかっている雲のように、いつまでもこの世にあろうと私は思わない。
【補記】春日王がこの歌に「王(おほきみ)は千歳にまさむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや」と和している。春日王の没年は文武三年(699)六月二十七日なので、それ以前の作。新勅撰集に入集。
「秋萩の~」の歌は、その別名「鹿鳴草」からやはり謀反人をあらわしているように思える。
そしてこれは余談的になるが、「滝の上の~」の歌は、春日王が「王は千歳にまさむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや」と和しているのが気になる。
大君は長寿でいらっしゃいましょう。白雲も三船の山から絶える日などありませんよ。
この春日王という人物について、検索してみたところ、次のような記事が見つかった。 春日王は志貴皇子の子に同じ名前の人物がいるなど日本書紀や続日本紀などに複数人確認されていますが、この歌を詠んだ春日王は後の世の志貴皇子の子とは別人でこの歌の時点ではかなりの高齢の人物であったと思われます。
梅原氏は春日王について、次のような内容を記しておられる。
・春日王は、どういう王かも分からないが、弓削皇子の友人だろう。(『黄泉の王』140p) ・『続日本記』は699年7月21日に弓削皇子が死んだことを記し、それより少し前の6月27日に春日王が死んだことを記している。(『黄泉の王』p140~p142) つまり、続日本記には弓削皇子に歌を和した春日王の生年や父母の記録はないが、弓削皇子が亡くなる約1か月前に春日王が死んだことについては記しているのだろう。
実は私は春日王とは春日若宮様(春日大社若宮神社に祀られる神)のような存在ではないかと思っている。 奈良豆比古神社に、志貴皇子の子の春日王がハンセン病を煩ったが、春日王の子の浄人王が舞をまったところ春日王のハンセン病は治ったという伝説があり、この浄人王の舞が能・翁のルーツだと考えられる。
ところが、奈良豆比古神社にはもう一つ伝説が伝えられていて、ハンセン病を煩ったのは志貴皇子であるというのだ。 また志貴皇子は春日宮天皇、田原天皇とも呼ばれているが(皇位についたことはない。春日宮天皇は追尊。田原天皇は陵のある場所からの呼び名)春日王は田原太子とも呼ばれていて、二人は同じ名前で呼ばれている。
さらに奈良豆比古神社に伝わる翁舞では「奈良豆比古神社の翁舞では「とうとうたらりたらりろ」という謡いにあわせて翁が舞う。 そして奈良春日大社・若宮社の祭「春日若宮おん祭」で12月16日に若宮神社の前で奏される新楽乱声(しんがくらんじょう)の唱歌(しょうが/邦楽における楽譜のようなもの)は『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』である。
私は翁の「とうとうたらりたらりろ」はこの唱歌であり、春日若宮様のテーマソングなのではないかと思う。 つまり、春日若宮とは志貴皇子なのではないかと私は考えているのだ。 そして、弓削皇子の歌に和した春日王もまた春日若宮ではないか。 春日若宮はタイムトラベラーのように、過去にも遡って登場する精霊なのではないか。 春日王は『王は千歳にまさむ』と歌っているが、三人翁やそこから派生したとおもわれる能・翁には千歳という人物が登場するのだ。 
奈良豆比古神社 翁舞
それはさておき、弓削皇子が死んでしまいたいと思うほど恋に苦しんでいる様子が伝わってくる。
⑥挽歌は、不幸な死を迎えた人に対して贈るもの?
弓削皇子(ゆげのみこ)の薨(かむあが)りましし時に置始東人(おきそめのあづまびと)の作れる歌一首并せて短歌
やすみしし わご大君 高光(ひか)る 日の皇子(みこ) ひさかたの 天(あま)つ宮に 神ながら 神と座(いま)せば 其(そこ)をしも あやにかしこみ 昼はも 日のことごと 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 臥(ふ)し居嘆(ゐなげ)けど 飽き足(た)らぬかも
巻二(二〇四)
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あまねく国土をお治めになるわが大君、その高く光る日の皇子がはるか天空の天の宮に、神々しく神としておいでなされたので、それを不思議なほど畏れ、昼はひねもす、夜は一晩中、臥して嘆くけれど心は満たされないことだ…
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大君(おほきみ)は神にし座(ま)せば天雲(あまくも)の五百重(いほへ)の下に隠(かく)り給ひぬ
巻二(二〇五)
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大君は神でいらっしゃるので天雲の幾重にも重なった下にお隠れになってしまった。
この歌についての梅原氏の感想はつぎの通り。
・原万葉集は鎮魂と告発のための歌集だと思う。 ・万葉集の挽歌は有馬皇子(権力者に殺された)にはじまる。 ・第二の挽歌は前半(皇族の死)と後半(人麿および人麿をめぐる人々の死)に分かれる。 ・弓削皇子の挽歌は前半と後半を結び付ける位置にある。 これは偶然ではない。万葉集は他の巻でも弓削皇子・紀皇女にかんする歌を、人麿にかんする歌の前に置いている。 こういう重要な位置にあることは、弓削皇子が有馬皇子、大津皇子、柿本人麻呂と同じく与えられた死であることを意味しているのではないか。(『黄泉の王』p144)
第2巻 有馬皇子・天智天皇・十市皇女・天武天皇・草壁皇子・泊瀬部皇女・忍坂部皇子へ・明日香皇女・高市皇子・但馬皇女・ 弓削皇子・柿本人麻呂の妻・吉備津采女・柿本人麻呂・志貴皇子 第3巻 大津皇子・河内王・石田王・田口廣麻呂・土形娘子・出雲娘子・真間娘子・大伴旅人の妻・長屋王・膳部王・丈部龍麻呂・大伴旅人・尼理願・ 大伴家持の妻・安積皇子・高橋虫麻呂の妻 第5巻 大伴旅人の妻 第9巻
宇治若郎子・柿本人麻呂の妻・菟原娘子・田辺福麻呂の弟・真間娘子・菟原娘子 1810 番歌 …1811番 菟原娘子 第13巻 高市皇子・大津皇子 第15巻 丹比大夫(たじひだいぶ)の妻・遣新羅使 第17巻 大伴書持
このリストを見て、以外に思うのは壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に敗れた大友皇子への挽歌がないことだった。 もしかしたら万葉集には大友皇子の歌も一首もとられていないのかもしれない。 天皇も天智・天武のふたりだけしか挽歌が贈られていない。
私が知る限り、この中で不幸の影がある歌人としては 有馬皇子、大津皇子、志貴皇子などがいる。 もしかしたら、挽歌とは、不幸な死を迎えた人に対して贈るものなのかもしれない。(大友皇子に対する挽歌がないが)
弓削皇子にしても、不吉な鳥・ほととぎす、無常をあらわす植物・ユズリハ、謀反人を意味する鹿鳴草(萩)などを歌の中に読み込んでいて、彼の歌には不吉なイメージが漂っている。
①正史には3回しか登場せず、万葉集に8首を残す弓削皇子
梅原猛氏は、高松塚古墳の被葬者は弓削皇子ではないかとしておられる。 そして、弓削皇子が正史に登場するのは下の3回だけ(生没についてと、官位を授かった記事)、万葉集には8首の歌を残しており、また柿本人麻呂が詠んだ挽歌などもあって、これらから弓削皇子は暗殺されたのではないかと梅原猛氏はおっしゃっている。
・673年天武天皇即位の記事 「・・・次の妃大江皇女、長皇子と弓削皇子を生れませり。」 ・693年 七年の春正月の辛卯の朔、壬辰(二日)に、浄広壱を以て、皇子高市に授けたまふ。浄広弐を皇子長と皇子弓削とに授けたまふ。 ・癸酉広弐弓削皇子薨ず。〈699年) 前回、天智・天武・額田王は三角関係であったとする説について記したのは、その弓削皇子が額田王と歌をやりとりしているためだ。
⓶ホトトギスは斬首のイメージ?
それでは万葉集の中に描かれた弓削皇子の姿を見てみることにしよう。
吉野の宮に幸いでま す時、弓削皇子の額田王に贈る歌一首
いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡りゆく(万2-111)
【通釈】過ぎ去った昔を恋い慕う鳥なのでしょうか。弓絃葉の御井の上を鳴きながら大和の方へ渡ってゆきます。
【補記】「鳥」はほととぎす。「弓絃葉の御井」は吉野離宮近くにあった水汲み場。ほとりに弓絃葉が茂っていたための呼称か。額田王の和した歌は「古に恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きし吾が思へるごと」。いつの吉野行幸とも知れないが、仮に持統七年(693)とすれば、弓削皇子二十代、額田王六十代半ばの贈答。
額田王の和へ奉る歌一首 倭京より進入(たてまつ)る
古に恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我が思へるごと(万2-112)
【通釈】遠い過去を恋い慕って飛ぶという鳥は、ほととぎすですね。もしかすると、鳴いたかもしれませんね。私がこうして昔を偲んでおりますように。
【語釈】◇吉野の宮に幸せる時 持統天皇の吉野行幸。持統四年(690)から同八年頃。当時、弓削皇子は二十代、額田王はすでに六十代の老齢であった。◇倭京 飛鳥京。◇霍公鳥 過去を偲んで悲しげに鳴く鳥と考えられた。一度帝位を退いたのち復位を望んだ蜀の望帝が、その志を果たせず、死してほととぎすと化し往時を偲んで昼夜分かたず鳴いた、との中国の故事に由ると言う。
【校異】結句、西本願寺本などは原文「吾戀流碁騰」とあり、「あがこふるごと」と訓む説もあるが、ここでは金沢本・元暦校本などに従った。
【補記】「古に恋ふる鳥かも」(昔を懐かしがる鳥なのでしょうね)と暗に額田王を鳥に喩えて詠んだ弓削皇子の歌に対し、中国の故事を踏まえて婉曲に「その通りです」と答えた歌。
この歌について梅原氏は次のように書いておられる。
だいいち、ほととぎすは不吉な鳥なのである。『十王経』にはエンマ大王の許に会った無常鳥が、ほととぎすになったとある。中国ではこの鳥は死者の亡魂の貸したものだという。そしてまたゆずる葉も無常を示す植物である。青年の心には、すでにこのとき、不吉な運命の自覚のようなものがあったのだろうか。(『黄泉の王』p117-p118より引用)
梅原氏のおっしゃるとおり、不吉を予感するかのような歌だと思う。
私たちはホトトギスが、「ほんぞんかけたか」「てっぺんかけたか」と鳴くことを知っている。
2)ホトトギスは平安時代すでに「死出(しで)の田長(たおさ)」といわれたように、冥土からやって来て農事を促したり、「死出の山こえて来つらん郭公」〔拾遺‐哀傷〕のように冥土の使いとしたりする俗信があり、不吉な鳥とする見方もあった。それが「本尊かけたか」という聞きなしにつながったかもしれない。
天辺とは、「兜 のいただき」のことで、転じて、「頭のいただき」を意味するようにもなった。
兵庫県姫路地方の伝説では、「大晦日に厠で「頑張り入道時鳥(がんばりにゅうどうほととぎす)」と3回唱えると、人間の生首が落ちてくるという。
天辺は「頭のいただき」のことだった。
そしてホトトギスは「てっぺんかけたか」と鳴くのだった。
「てっぺん」は「頭のいただき」のことで、その「頭のいただきがかけたか」とホトトギスは鳴くのである。
「頭のいただきが欠ける」とは「首が欠ける」「首が斬りとられた」という意味である。
それで「頑張り入道時鳥」と唱えると、生首が落ちてくるという話が創作されたのではないだろうか。
このように考えるとますます弓削皇子の歌から不吉なイメージが広がってくる。
③ユズルハは譲る葉で、古い葉は天武、新しい葉は天智の比喩?

ユズリハ(古名 ユズルハ)
梅原氏は「ユズルハは無常を示す植物」とおっしゃっている。
なぜユズルハは無常を示す植物なのか。
和名ユズリハは、春に枝先に若葉が出たあと、前年の葉がそれに譲るように落葉することに由来する[6]。古名はユズルハ(弓弦葉)といわれ、葉の中にある主脈がはっきりと目立ち、弓の弦のように見えることに由来する[8]。
「ゆずる葉」とは「古い葉が新しい葉にその地位を譲って落葉するところからつけられた名前で、「譲る葉」だったのだ。
【通釈】紫草の生える野を、狩場の標(しめ)を張ったその野を行きながら、そんなことをなさって――野の番人が見るではございませんか。あなたが私の方へ袖を振っておられるのを。
皇太子の答へたまふ御歌
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我あれ恋ひめやも(万1-21)
【通釈】紫草のように美しさをふりまく妹よ、あなたが憎いわけなどあろうか。憎かったならば、人妻と知りながら、これほど恋い焦がれたりするものか。
この2首について、次のような説があるのだった。
A.もともと額田王は大海人皇子(のちの天武天皇)の妻で、大海人皇子との間に十市皇子という娘ももうけていたのだが
大海人皇子は皇太子であった同母兄の中大兄皇子(のちの天智天皇)に「額田王を譲れ」とせまられて、泣く泣く譲った。
そして、668年に中大兄皇子が即位して天智天皇となり、天智天皇主催の薬狩のとき
大海人皇子はすでに自分のものではなく兄天智天皇のものとなった額田王に手を振った。
それを見た額田王は「天智天皇が見ていますよ」と大海人皇子をなだめた。
それにこたえて大海人皇子は「あなたが憎かったならば、人妻と知りながら、これほど恋い焦がれたりするものか。」と返した。
額田王が天智天皇の妃になったという記録はなく、上の説が絶対正しいとはいえないが
弓削皇子が額田王に贈った歌、
いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡りゆく(万2-111)
を鑑賞すると、Aの説は正しいように思える。
「ゆずるは」は「譲る葉」であり、枝先に若葉が出たあと、前年の葉がそれに譲るように落葉する植物だった。
これをふまえて現代語訳すると、次のようになるだろうか。
「額田王、あなたは過ぎ去った昔を恋い慕う鳥なのでしょうか。 弓弦葉の語源は「譲る葉」であり、新しい葉がでてくると、古い葉は新しい葉に譲るようにして落葉しますが
その譲る葉のように、あなたは大海人皇子(天武天皇)から中大兄皇子(天智天皇)天武天皇の妻であったのに、天智天皇の妻となられた。」
天智天皇が崩御したのは672年、天武天皇が崩御したのは686年。 弓削皇子が額田王に歌を送ったのは「吉野の宮に幸でま す時」である。
いつの吉野行幸とも知れないが、仮に持統七年(693)とすれば、弓削皇子二十代、額田王六十代半ばの贈答。
とあり、これが正しければ、天智も天武も亡くなったあとの話となる。
吉野千人万首の訳は「大和のほうへ渡ってゆきます。」とあるが、原文や詞書に「大和のほうへ渡ってゆく」とは書いていない。 なぜホトトギスが「大和のほうへ渡ってゆきます。」と訳したのかといえば、弓削皇子は吉野の宮にいて、大和にいる額田王にあてて歌を贈ったと考えたためだろうか。
古に恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我が思へるごと(万2-112)
【通釈】遠い過去を恋い慕って飛ぶという鳥は、ほととぎすですね。もしかすると、鳴いたかもしれませんね。私がこうして昔を偲んでおりますように。
額田王が偲んでいる昔の思い出とは何だろうか。
それは額田王を愛した二人の男性、天武(譲り葉の古い葉に喩えられる)・天智(譲り葉の新しい葉に喩えられる)との思い出だろう。
⓸弓削皇子が短命だったのは自分の命を額田王に与えてしまったから?
吉野より蘿生せる松が枝えを折取をりて遣おくりたまへる時、額田王の奉入たてまつる歌一首
み吉野の玉松が枝ははしきかも君が御言みことを持ちて通はく(万2-113)
【通釈】[詞書] 弓削皇子が吉野から苔のむした松の枝を贈って来た時、献上した歌。
[歌] 吉野の美しい松の枝は、なんて慕わしく思えるのでしょう。あなたのお言葉を持って飛鳥の都まで通って来るとは。
【語釈】◇玉松が枝 この「玉」は、「魂(たま)」と同根で、霊力を持つものであることを示す。常緑・長寿の樹である松は、生命を守る精霊の憑代(よりしろ)と考えられた。弓削皇子は額田王の長寿を願って松の枝を贈ったのである。
この歌について、梅原猛氏は次のように書いておられる。
蘿生した松、これはたしかに老人には気のきいた贈物であるが、なぜこの青年はこんなものに、心をひかれるのかしら、この青年の子k路の中には事故の人生の短さへの無意識の自覚のようなものがあるのではないかしらと。
(『黄泉の王』118pより引用)
私はこの歌を詠んで、有馬皇子の次の歌を思い出してしまうが、有馬皇子の歌と弓削皇子の歌を結び付けるのはやや飛躍しすぎているかもしれない。
有間皇子の自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首
磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む(万2-141)
【通釈】磐代の浜松の枝を引っ張って結び、道中の息災を祈る――願いかなって無事であったなら、また帰って来てこの松を見よう。
有馬皇子は孝徳天皇の皇子だったが、654に孝徳天皇が崩御したあと、孝徳天皇の同母姉宝皇女が再祚し(斉明天皇)、中大兄皇子(のちの天智天皇)が皇太子となった。
蘇我赤兄にそそのかされた有間皇子は謀反を語り合った。 しかし赤兄は有馬を裏切って中大兄皇子に之を密告し、有馬は藤白坂(和歌山県海南市内海町藤白)で絞首刑となった。 19歳だった。
上の歌は、藤白坂に向かう途中、岩代(和歌山県日高郡南部町)で詠んだ歌とされる。
松は確かに長寿のシンボルだが、有馬皇子はそれを旅の途中でおいてきてしまったために、わずか19歳という短い命で終わってしまったともいえる。
とすれば、弓削皇子が30歳ぐらいの短い命で終わってしまったのは(弓削皇子の年齢については次回書く予定です。)、このとき60歳ぐらいだったと思われる額田王に松を送ってしまったためであると、万葉集はそういうことを伝えようとしているようにも思える。
⑤弓削皇子はなぜ歌に萩を読みこんだのか?
弓削皇子、紀皇女を思しのふ御歌四首
吉野川行く瀬の速みしましくも淀むことなくありこせぬかも(万2-119)
【通釈】吉野川の早瀬のように、私たちの仲も、ほんのしばらくの間でも、淀むことなくあってくれないものか。
【補記】紀皇女は天武天皇の皇女で、弓削皇子の異母姉妹。石田王の妻であったらしい(万3-424~425)。
吾妹子わぎもこに恋ひつつあらずは秋萩の咲きて散りぬる花ならましを(万2-120)
【通釈】あの子に恋い焦がれてばかりいずに、いっそのこと、咲いてはすぐ散ってしまう秋萩の花であったらよかったのに。
これらの歌についての梅原氏の感想は次のとおり。
吉野まできても、男は女のことで胸が一ぱいなのである。吉野川の流れは早い、その早い流れを見て、男は、うらやましく思う。あの流れのように、しばらくでも中断することなく女とあいたい。川にまで全貌を感ぜざるを得ないとは、彼は何という深い恋にとらわれたことであろう。
男はまた吉野で萩の花をみる。女とあえないようだったら、あの秋の萩の様に、一次咲いて散ってしまった方がましだ。恋のみが、この青年の生きがいのようであるが、この恋には悲劇的なにおいが強いのである。男は、恋すべからず人に恋をしているのではないか。(『黄泉の王』p119より引用)
梅原氏の文章はやや感情的、感傷的なようにも思えるが、感想に異論はない。
ただ、それに付け加えておきたいのは、なぜここで弓削皇子が萩という花をもちだしたのか、についてである。
萩は別名を「鹿鳴草」という。
なぜ「鹿鳴草」というのかといえば、萩の白い花を鹿の夏毛の斑点に見立てたためだろう。
そして、日本書記「トガノの鹿」にこんな話がある。
雄鹿が雌鹿に「全身に霜が降る夢を見た」と言った。
雌鹿は偽った夢占いをして「霜だと思ったのは塩で、あなたは殺されて塩漬けにされているのです。」と言った。
翌朝、雄鹿は猟師に射られて死んだ。
つまり、萩の白い花と、鹿の夏毛の白い斑点は、死体を塩漬けにするための塩の比喩なのだ。
古には謀反の罪で死んだ人の死体は塩漬けにされることがあったという。
この歌は弓削皇子が謀反の罪で死んだことを暗示しているようにも思える。
⑥浅鹿の『鹿』は謀反人を暗示している?
弓削皇子、紀皇女を思しのふ御歌四首のつづき
夕さらば 潮満ち来なむ 住吉の 浅香の浦に 玉藻刈りてな(万2-121)
【通釈】夕方になれば潮が満ちて来るだろう。住吉の浅香の浦で、今のうちに藻を刈ってしまいたい。
【補記】世間の噂にならないうちに恋人を自分のものにしたい、ということ。浅香の地名に「朝」を掛けて「夕」と対比するか。
大船の泊つる泊(とまり)のたゆたひに 物思ひ痩せぬ 人の子故に(万2-122)
【通釈】大船が碇泊する港に波がたゆたっているように、私の心もひどく揺れ、思い悩んで痩せてしまった。あの子は人妻であるゆえに。
【補記】「人能兒(ヒトノコ)は、多く他妻をいへり」(万葉集古義)。
この2種についての、梅原氏の解説。
男は吉野から難波に行ったのかもしれない。悲恋の憂愁にたえかねて、男は海でも見たら心がなぐさめられるかもしれないと、皆と別れて、ひとり住吉の浅鹿の浦に立ったのかもしれない。しかし、そこにおいても男の追いかけるのは、恋しい女の面影のみである。男は女とのたまゆらの逢瀬を思う。夕方になると潮がみちてくるので、猟夫たちは、いそがしげに玉藻を刈っている。その漁夫のように、わずかな暇を盗んで、いそがしげに女を抱く、あのつかの間のおうせを男は思っているのである。ああ、つかの間の逢瀬でもよいから、もう一度女を抱きたい。
男は、また海上遠く漂っている舟を思う。舟は港々に、碇泊する毎にゆれにゆれて、定まらない。男は自分の人生も、あの舟のようなものであったと思う。自分の人生の、一コマ一コマが、不安にみち苦悩にみちて、心も体も弱りはてているのだ。あの女のために。(『黄泉の王』p120より引用)
住吉の浅香とは、大阪市住吉区浅香付近のことだろう。
「千人万首」は浅香と表記しているが、『黄泉の王』では浅鹿と表記している。
万葉集の原本は存在せず、いくつかの写本が伝えられているので、それらの写本の中には「浅香」と示すもの、「浅鹿」と示すものがあるということかもしれないし 千人万首のほうは、近年の地名の表記にあわせて浅香としたということかもしれない。
浅鹿の鹿という文字は、さきほど説明した、謀反人を暗示しているようにも思われる。
玉藻の玉は美称である。玉藻は特定の種類をさすものではなく、藻全般を指す言葉のようである。
肥料にする目的で刈っていたようである。食用に用いられることもあるとのこと。
万葉集の歌から、弓削皇子と紀皇女が恋仲であったことがわかる。 しかも紀皇女は弓削皇子ではない他の男性の妻であったと思われる。
すると、
いにしへに 恋ふる鳥かも 弓絃葉の 御井の上より 鳴き渡りゆく (額田王、あなたは過ぎ去った昔を恋い慕う鳥なのでしょうか。
弓弦葉の語源は「譲る葉」であり、新しい葉がでてくると、古い葉は新しい葉に譲るようにして落葉しますが
その譲る葉のように、あなたは大海人皇子(天武天皇)から中大兄皇子(天智天皇)天武天皇の妻であったのに、天智天皇の妻となられた。)と弓削皇子が歌を詠んでいるが
人妻である額田王に恋をした大海人皇子と、やはり人妻である紀皇女に恋をした弓削皇子のイメージがここで繋がってくる。
今日から新しいシリーズ「高松塚古墳・キトラ古墳を考える」を始めようと思う。 ただし内容はまだ定まっておらず、どのような結論になるかは、私自身にもわかっていない。 そのため、途中で順番を入れ替えたり、内容を書きなおしたり、追記を入れたりすることが頻繁にでてくるかもしれないがよろしくお願いします。
①大海人皇子と額田王の歌のやりとりは宴会のおふざけ?
天皇の蒲生野に遊猟したまへる時、額田王の作る歌
あかねさす紫野行き標野しめの行き野守は見ずや君が袖振る(万1-20)
【通釈】紫草の生える野を、狩場の標(しめ)を張ったその野を行きながら、そんなことをなさって――野の番人が見るではございませんか。あなたが私の方へ袖を振っておられるのを。
皇太子の答へたまふ御歌
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我あれ恋ひめやも(万1-21)
【通釈】紫草のように美しさをふりまく妹よ、あなたが憎いわけなどあろうか。憎かったならば、人妻と知りながら、これほど恋い焦がれたりするものか。
「紫のにほへる妹を~」の歌は大海人皇子(のちの天武天皇)が額田王の「あかねさす紫野行き~」の歌に答えたものである。
668年5月5日、天智天皇は蒲生野において薬狩りを行った。
薬狩とは、5月5日に鹿の若角をとったり、薬草を摘む行事のことである。
額田王の歌に詠まれた『君』とは大海人皇子(のちの天武天皇)、『野守』は天智天皇のことで、 天智天皇が見ているにもかかわらず、大海人皇子が私(額田王)に手をふっていると読んだ歌である。
また天智天皇はこんな歌を詠んでいる。
なかちおほえの三山歌
香具山は 畝傍うねびを愛をしと 耳成みみなしと 相争あひあらそひき 神代より かくなるらし 古いにしへも 然しかなれこそ 現人うつせみも 褄つまを 争ふらしき (万1-13)
~略~
【通釈】[長歌]香具山の神様は、畝傍山の神様を愛しいと思って、耳成山の神様と争った。神代からこんなふうに恋の争いがあったらしい。神様の昔もそうであったからこそ、現代の人も、結婚相手をめぐって争うものらしい。
この三首の歌から、天智天皇・大海人皇子・額田王は三角関係であったとする説が古くからある。
天香久山は額田王、耳成山は袖にされた大海人皇子、畝傍山は中大兄皇子ということになります。
と解説する記事があったが、争ったのは香具山と耳成山であり、香具山が愛しいと思っているのは畝傍山である。 耳成山も畝傍山をいとしいと思っているからこそ争ったのだろう。 すると、畝傍山が額田王、香具山は中大兄皇子、耳成山は大海人皇子 または、畝傍山が額田王、香具山は大海人皇子、耳成山は中大兄皇子の比喩ではないかと思う。
この三角関係説に対して千人万首は次のように書いている。
相聞の部でなく、雑歌の部に分類されていること、また題詞には「額田王の作る歌」とあって、「贈る歌」とはなっていないこと等から、額田王が大海人皇子個人に向けて思いを伝えた歌でなく、宴などでおおやけに披露した歌と思われる(宴で詠まれた歌は「雑歌」に分類するのが万葉集の常道)。そのような見方に立つ一つの読み方として、池田彌三郎『萬葉百歌』から引用すれば、「これは深刻なやりとりではない。おそらく宴会の乱酔に、天武が武骨な舞を舞った、その袖のふりかたを恋愛の意思表示とみたてて、才女の額田王がからかいかけた。どう少なく見積もっても、この時すでに四十歳になろうとしている額田王に対して、天武もさるもの、『にほへる妹』などと、しっぺい返しをしたのである」。
池田彌三郎氏が主張されているように、宴会のおふざけの歌だとすると、文学の香り、情緒は冷めてしまう。 しかし論理的に考えてそれが事実だと考えられるならば、それが文学的でなかろうと、情緒がなかろうと認めなくてはいけない。
龍王山より大和三山を望む。上から畝傍山、耳成山、箸墓古墳。向かって左の色の濃い部分は天香久山・・・だと思う。
⓶薬狩が行われたときの額田王の年齢は?
額田王の生没年は不詳。
大海人皇子(天武天皇)の后で、十市皇女を生んでいる。
十市皇女は天武の第一皇女とウィキペディアには記されている。 ウィキペディアによると天武の第二皇女は大来皇女で、生年は661年。 すると、十市皇女は661年より前の生まれということになる。 (額田王の)生年は不詳であるが、まず孫の葛野王が669年(天智天皇8年)の生まれであることは確実である。このことから、娘の十市皇女の生年は諸説あるが、648年(大化4年)から653年(白雉4年)頃の間の可能性が高い。更に遡って、額田王は631年(舒明天皇3年)から637年(同9年)頃の誕生と推定される。
葛野王の生年669年については正史に記載があるということだろう。 葛野王の母親・十市皇女の生年は不明だが、21歳で葛野王を生んだとすれば十市皇女の生年は648年、 16歳で葛野王を生んだとすれば十市皇女の生年は653年となる。 まあ、そんなものかなと思う。
さらに、その十市皇女を額田王が21歳で産んだとすると、627~632年。 16歳で生んだとすると、632~637年となる。
ウィキペディアは額田王の生年を631年~637年ごろとしているが、これもまあまあそんなものだと思う。
天智の薬狩りが行われたのは日本書記によれば668年とある。
十市皇女の生年「648~653年」が正しければ、天智の薬狩りが行われたとき、十市皇女は15~20歳ごろである。
すると天智の薬狩が行われたとき、額田王は36歳~41歳ごろということになる。
池田彌三郎氏が、「この時すでに四十歳になろうとしている額田王・・・」と書いているのは、そんなに間違っているように思えない。
③中大兄皇子は大海人皇子の妻・額田王を奪った?
私は千人万首の「宴会でのおふざけの歌」と聞いて少し勘違いしてしまった。 十市皇女は天武の皇女なので、668年の薬狩のとき、すでに額田王は大海人皇子の妃で 40代に近い額田王が「人前で手を振るなんてやめてよ、恥ずかしい。」と大海人皇子にいった。 それに対して、「君は人妻だけど愛しいよ」と「しっぺい返し」をした。 このとき額田王には既に十市皇女という娘がいた。 十市皇女は大海人皇子の娘でもある。 すると、このとき大海人皇子と額田王は夫婦であったということになる。 いくらおふざけでも、大海人皇子が自分の妻である額田王を「人妻」などと呼ぶだろうか?と疑問に思ったのだ。
これについて、下記動画は次のように説明している。
>1:08 額田王は16歳頃女官として宮中に出仕するようになり、天智天皇と天武天皇の母・斎明天皇に仕えました。 額田王は和歌の才能を見出され、宮中の歌会で天皇に代わって歌を詠む役割を仰せつかっていたといいます。
額田王は宮中でも指折りの歌人として宮中行事に欠かせない存在となっていました。 https://www.youtube.com/watch?v=nwZ5wBK8G4M&t=1017s より引用658年の斉明天皇の紀温湯行幸、661年の斉明天皇の新羅征討の際、熟田津の石湯行宮などで額田王が詠んだとされる歌がある。 また額田王が皇極天皇代に読んだとされる歌の補記に、「648年の近江比良宮行幸の時の皇極上皇(斉明天皇と同一人物)御製」ともある。 このことから、「額田王は16歳頃女官として宮中に出仕、斉明天皇に仕えた」と言っているのだと思う。 正史に「額田王は16歳頃女官として宮中に出仕、斉明天皇に仕えた」という記録があるわけではないと思う。 額田王の生年は631年~637年ごろと考えられるので、648年は11歳~17歳となる。 宮中に出仕する年齢としては16歳ぐらいが適当、と考えたのではないだろうか。
>1:32 そしてある時、斉明天皇の息子・大海人皇子と出会ったのです
2人は同年代か、額田王が少し年下ともいわれています。
彼らは恋に落ち、額田王は大海人皇子の妃となったのです。
648年頃に額田王は第一子・十市皇女を出産しました。
娘も生まれ、夫婦仲もよく、宮中では第一線でバリバリ働くエリート女官。
全てが順風満帆だった彼女の前に厄介な人物が現れます。
大海人皇子の兄であり、後に天智天皇となる中大兄皇子です。
中大兄皇子は額田王の美貌と才能に強く引かれ、弟の妻であるにも関わらず
彼女を自分のものにしたいと思ってしまいました。
そして大海人皇子に「額田王を譲れ」と迫ったのです。
皇太子である兄に逆らえない大海人皇子は額田王を譲ってしまい
額田王は中大兄皇子の妻とされてしまいました。
668年の天智天皇の薬狩のとき、大海人皇子が自分の妻である額田王を「人妻」と呼んで「ごっこ遊び」をしたのではなくて
もともと額田王は大海人皇子(のちの天武天皇)の妻で、大海人皇子との間に十市皇子という娘ももうけていたのだが 大海人皇子は皇太子であった同母兄の中大兄皇子(のちの天智天皇)に「額田王を譲れ」とせまられて、泣く泣く譲った。 そして、668年に中大兄皇子が即位して天智天皇となり、天智天皇主催の薬狩のとき 大海人皇子はすでに自分のものではなく兄天智天皇のものとなった額田王に手を振った。 それを見た額田王は「天智天皇が見ていますよ」と大海人皇子をなだめた。 それにこたえて大海人皇子は「あなたが憎かったならば、人妻と知りながら、これほど恋い焦がれたりするものか。」と返した。
つまり、額田王は 「天武の妻であったのを、天智が奪って自分の妻とし、その天智の妻である額田王に天武がラブサインを送った」 このように上の動画は解釈しているわけである。
なるほど、このように考えたほうが、薬狩のとき、額田王に大海人皇子の娘の十市皇女がいたことの辻褄があいそうだ。
ただし、天智天皇の妃として額田王の名前は記録されていないので、確実とはいえない。
⓸雑歌なら宴会の歌といえるか?
>5:10いやこれ自分らで昔なんやかんやあったっていうてもうてるやないの
大スキャンダルじゃないの
その心配はいらない
だって大海人皇子の妻だった額田王を天智天皇が奪ったことなんて
宮中の人間はみんな知ってることだからな
>5:42 しかし彼らはなぜ宴の席でこんな歌を詠んだのか
理由は一つその場を盛り上げるためだよ
昔の自分たちのスキャンダルをネタにした座興だったというわけだ
しかもこれは天智天皇の御前で歌われたものだったそうだ
>6:39 これを聞いた天智天皇はどんな反応だったの
伝わってはいないが多分大笑いしていたんじゃないかな 中大兄皇子は弟が裏切らないように自分の娘を4人も嫁がせていたが このことの埋め合わせだったんじゃないかとも言われているんだ。
この部分は、千人万首にあるような解釈から導き出されたものだろう。 もう一度千人万首の記述を引用しておこう。
相聞の部でなく、雑歌の部に分類されていること、また題詞には「額田王の作る歌」とあって、「贈る歌」とはなっていないこと等から、額田王が大海人皇子個人に向けて思いを伝えた歌でなく、宴などでおおやけに披露した歌と思われる(宴で詠まれた歌は「雑歌」に分類するのが万葉集の常道)。そのような見方に立つ一つの読み方として、池田彌三郎『萬葉百歌』から引用すれば、「これは深刻なやりとりではない。おそらく宴会の乱酔に、天武が武骨な舞を舞った、その袖のふりかたを恋愛の意思表示とみたてて、才女の額田王がからかいかけた。どう少なく見積もっても、この時すでに四十歳になろうとしている額田王に対して、天武もさるもの、『にほへる妹』などと、しっぺい返しをしたのである」。 「相聞(そうもん)」「挽歌(ばんか)」と並ぶ、『万葉集』における三大部立(ぶだて)の一つ。「相聞」「挽歌」に含まれない内容の歌を総括するが、国見(くにみ)、遊猟(ゆうりょう)、行幸(ぎょうこう)など宮廷生活の晴の場でなされた歌などを収め、編纂(へんさん)にあたっては「雑歌」が他の二つの部に優先する。『万葉集』では、巻1、3、5、6、7、8、9、10、13、14、16の諸巻に「雑歌」の部をたてる。その部立の名称は、『文選(もんぜん)』に典拠を求めたと認められ、歌の内容からする「相聞」「挽歌」に対して、主として歌の場に基づくのが「雑歌」の部立だといえる。宮廷生活の晴の歌の集合として、表だった本格的な歌という意識があったものとみられる。 https://kotobank.jp/word/%E9%9B%91%E6%AD%8C-89152 より引用とあり、額田王と大海人皇子は額田王が天智天皇の妃になったのちもお互い愛を感じていたが、この歌は薬狩りという場の歌なので、雑歌に分類されている、などということはないのだろうか。
上記に万葉集の雑歌がリストアップされている。
その1番歌、 篭もよ み篭持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも
これは雄略天皇が菜摘みをする女性をナンパする歌である。 女性からの返歌がないので、相聞とはいえず、雑歌にいれたのかもしれないが。
相聞ではなく雑歌なので宴会で詠んだおふざけの歌、とするのは、申しわけないが、短絡的であるように思える。
この歌は、天智天皇と大海人皇子の対立の始まりを物語っているのではないか? 大海人皇子は天智天皇の皇太子だった。 しかし天智天皇は自らの子である大友皇子に皇位を継承させたいと思っていた。〈十市皇女は大友皇子の后) 天智天皇が672年に崩御したのち、天智の子・大友皇子vs天智の弟・大海人皇子の争いがおこる。(壬申の乱) 大海人皇子が勝利して即位した。(天武天皇)
そのような兄弟の対立の始まりを予感させる歌として、万葉集はこれらの歌を記録したように思われるのだが。
①黒手
❶黒手は能登(現在の石川県)戸板村に現れた妖怪。(『四不語録』6巻「黒手切り」浅香山井)
❷慶長年間のこと。笠松甚五兵衛宅で、甚五兵衛の妻が便所で何者かに尻を撫でられる。
甚五兵衛が刀をもって便所に入ると、毛むくじゃらの手が出てきたため、これを刀で切り落とした。
数日後、妖怪が3人組の僧に化けてやってきて「自宅に怪しい相がある。」といった。
僧の正体を知らない甚五兵衛は、先日切り落とした手を見せた。
手を受け取った僧の1人が「これは人家の便所に住み着く黒手という物だ」と言った。
さらに別の僧が手を受け取り「これはお前に斬られた我が手だ!」と叫び、九尺(約2.7メートル)もの丈のある正体を現し、手を奪って3人もろとも消え去った。
後日、甚五兵衛が夕方遅くに家への帰り道を歩いていたところ、突然空から衾のようなものが降りてきて彼を包み込み、6~7尺(約1.8~2.1メートル)も宙に持ち上げ、下に落とした。
甚五兵衛の懐から、黒手を斬った刀が奪われていた。
⓶黒手は加牟波理入道 では?
私は以前、加牟波理入道と言う妖怪についての記事を書いた。
鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「加牟波理入道」
加牟波理入道は厠(トイレ)に露われる妖怪で、鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』では、口から鳥を吐く入道姿で描かれている。 なぜ口から鳥を吐いているのか。それは、 ・大晦日に「がんばり入道郭公(がんばりにゅうどうほととぎす)」と唱えると、この妖怪が現れない。 ・大晦日に厠で「頑張り入道時鳥(がんばりにゅうどうほととぎす)」と3回唱えると、人間の生首が落ちてくる、 などという言い伝えがあるからだろう。
加牟波理入道が口から吐いているのはホトトギスというわけである。
なぜホトトギスなのかというと、中国には郭登(読み方がわからない。すいません。)という厠(トイレ)の神がいる。
郭登の姓は郭、名は登とのこと。 菅原公のように、名前の下に公をつけて呼ぶことがある。( 公は貴人の姓名などに添えて敬意を表わす言葉) するとトイレの神・郭登は郭公(カッコウ)となるが、日本では郭公(カッコウ)と書いてホトトギスともよむ。 トイレの神・郭登→郭公(カッコウ)→郭公(ホトトギス) という謎々なのだと思う。
鳥山石燕『今昔画図続百鬼』の「加牟波理入道」はホトトギスという鳥を吐く姿として描かれたのだろう。
厠で「頑張り入道時鳥(がんばりにゅうどうほととぎす)」と3回唱えると、人間の生首が落ちてくるといわれるのは ホトトギスが「天辺かけたか」と鳴くと考えられていることと関係があると思う。
天辺とは、「兜 のいただき」のことで、転じて、「頭のいただき」を意味するようにもなった。
「天辺かけたか」とは「頭がかけたか」ということであり、それで生首が落ちてくるなどと言われたのではないだろうか。
・丑三つ時に厠に入り、「雁婆梨入道(がんばりにゅうどう)」と名を呼んで下を覗くと、入道の頭が現れるので、
その頭をとって左の袖に入れてから取り出すと、その頭はたちまち小判に変わる。(『甲子夜話』松浦静山)
という話もあり、トイレで落ちてくる生首は加牟波理入道のものだと考えられる。
「加牟波理入道」という妖怪の名前ははトイレで力むことからつけられたのではないかと思う。
また「頑張り入道」のイラストを見ると、糞の妖怪のように見える😁。
十返舎一九『列国怪談聞書帖』より「がんばり入道」
加牟波理入道は毛むくじゃらのようにも見える。 便所にあらわれた毛むくじゃらの黒手は加牟波理入道のバリエーションのひとつなのではないか。
③黒手は茨木童子のイメージ?
「甚五兵衛宅で、甚五兵衛の妻が便所で何者かに尻を撫でられる。」 これは古事記にある次の物語を思い出させる。
大物主神は丹塗り矢に姿を変え、セヤダタタラヒメが用をたすために川にやってきたところを、川の上流から流れていき、彼女のほとをついた。 セヤダタタラヒメが矢をとって部屋に戻ると大物主神は美しい男性の姿になり、二人は結婚した。 二人の間にはヒメタタライスケヨリヒメが生まれ、ヒメタタライスケヨリヒメは神武天皇の皇后となった。(古事記)
これに似たような話が『山城国風土記』にもある。 玉依日売が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、賀茂別雷命を産んだ。
外国の伝説は勉強不足で知らないが、日本の伝説は類型的で似たような話が多いのだ。
そして手を切り落とされた黒手が、手を取り戻しにくるというのは、茨木童子の伝説を思わせる。
一条戻橋で、若い女性が道に迷って困っていたので、渡辺綱は女性を馬に乗せてやった。 すると女性は鬼の姿となり、渡辺綱の髪の毛をつかんで舞い上がり、愛宕山に連れ去ろうとした。 上というパターン。若い美女が道に困っていたため、渡辺綱が馬に乗せてやると、女は突然鬼の姿になって綱の髪の毛を掴綱は鬼の腕を刀で切り落とした。 その後、茨木童子は綱の叔母に変身して綱の家を訪れ、腕を取り戻して空の彼方に消えた。
黒手の「トイレで尻をさわる」という伝説と、大物主神の「矢の姿になってトイレで女性のほとをつく」を結び付けるのはむりくりっぽいかもしれないが(笑) 「切られた手を取り戻しにくる」という黒手の話は、この茨木童子の物語にインスピレーションを得て創作されたものだと考えてよいのではないだろうか。
まず黒手と茨木童子は、どちらも異形(鬼、妖怪)である。 そして、茨木童子は渡辺綱を空高く持ち上げているが、 黒手の伝説でも「空から衾のようなものが降りてきて彼を包み込み、6~7尺(約1.8~2.1メートル)も宙に持ち上げ、下に落とした。」とある。
なぜ鬼や妖怪は切り落とされた手を取り戻しに来ると考えられたのか。 これについては宿題とさせていただく。
④手を切り落とされる非人
余談となるが、関西には中世より非人と呼ばれる人々がおり、主に坂の町に住んでいた。 清水坂辺りに住んでいた非人は犬神人(いぬじにん)といい、祇園社(現在の八坂神社)に隷属し、死体の処理、清掃、警護、神事などを行うほか 弓の弦を製作して「弦召せ」と言って売り歩いていたため、弦召(つるめそ)とも呼ばれた。
非人は結髪が許されず、大人になっても結髪しない童形であったので、童子と呼ばれていたという。 八瀬童子などもそういう人々であったのだろう。 非人ではないかとする説がある。
清水坂の近くに平清盛が住む六波羅があった。 清盛は禿(かむろ)というおかっぱ頭の少年を召し抱え、平家に不満を持つ人をとりしまらせていたとされる。 この禿とは犬神人ではないかとする説がある。
かつて大河ドラマ「義経」に犬神人と思われる人々が登場していた。 そのうちのひとり、五足ははじめ、結髪しない、ぼさぼさの髪で登場していたが 平清盛に仕えるようになってからは、櫛目を通したおかっぱ頭となっていた。 これは禿のイメージだ。
さらに五足が平清盛の頭を剃髪した際、清盛の頭を傷つけ、血がたらーりと流れるというシーンがあった。 これは茨木童子のイメージだ。
茨木童子は両親に捨てられ、床屋に拾われたのだが、あるとき客の頭をカミソリで傷つけてしまい、その血をなめたところ大変おいしく感じ、鬼としてめざめたという伝説があるのだ。
さらには五足ではない別の犬神人が、平家によって手首を切られるというシーンもあった。 これも、渡辺綱によって腕を斬られた茨木童子のイメージから、創作されたものだろうと思った。
歌川芳藤 『髪切りの奇談』(1868年)
①髪切り(黒髪切)
❶人が気づかぬ間にその人の頭髪を切ってしまう妖怪。 ❷元禄のはじめごろ伊勢国松坂(現・三重県松阪市)や江戸の紺屋町(現・東京都千代田区)で、夜中に道を歩いている男女が髪を元結(もとゆい)から切られる怪異が多発した。 『諸国里人談(寛保年間/1741年 - 1743年)』 ❸江戸の下谷(現・東京都台東区)、小日向(現・東京都文京区)などで商店や屋敷の召使いの女性が髪が切られた。 『半日閑話(大田南畝)』 ❹明治7年(1874年)、東京都本郷3丁目の鈴木家で「ぎん」という名の召使いの女性が便所へ行ったところ、寒気のような気配と共に突然、結わえ髪が切れて乱れ髪となった。ぎんは近所の家へ駆け込み、気絶した。便所のあたりを調べると、斬り落とされた髪が転がっていた。やがてぎんは病気となり、親元へと引き取られた。 その便所は髪切りが現れたとして、誰も入ろうとしなかった。 ❺人間が獣や幽霊と結婚しようとしたときに出現し、髪を切る。(水木しげるの作品) ❻中国では477年・517年・1876年5月に、ロンドンでは1922年10月に同様の事件が発生している。 ❼中国の『太平広記』に頭髪を切るキツネの話がある。(『建内記(室町時代/万里小路時房)』 ❽髪切りの被害があった場所で捕えられたキツネの腹を裂くと、大量の髪が詰まっていた。(『耳嚢』巻四「女の髪を喰う狐の事」 ❾道士が妖狐を操って髪を切らせているという説がある。(『善庵随筆』朝川鼎) ❿寛永14年(1637年)に髪切りは「髪切り虫」の仕業であるという話があった。(『嬉遊笑覧』)による髪切り ⓫剃刀の牙とはさみの手を持つ虫が屋根瓦の下に潜んでいるともいわれ、髪切り虫を描いた絵が魔除けとして売られたり、「千早振(ちはやぶる)神の氏子の髪なれば切とも切れじ玉のかづらを」という歌を書いた守り札を身に着けることが髪切り避けになるとされた。 ⓬明和8年(1771年)から翌年にかけ、江戸や大坂の人々の間で髪切りの騒動が続き、江戸では多くの修験者、大坂では「かつら」を売るためにかつら屋が仕組んだとして、かつら屋が処罰された。 ⓭明和8年の事件以降も、修験者らが髪切り除けの札を売り歩いており、修験者の自作自演との説も。 ⓮昭和6年(1931年)に東京で少女の髪を切ったとして逮捕された青年は、「百人の女性の頭髪を切り、神社に奉納すれば自らの病弱な体が必ず健康になる」という迷信にしたがって髪切りを行ったことを供述した。 ⓯自然に髪が抜け落ちる病気との説も。
⓶キツネは髪の毛を消化できるか?
❽髪切りの被害があった場所で捕えられたキツネの腹を裂くと、大量の髪が詰まっていた。(『耳嚢』巻四「女の髪を喰う狐の事」 について。
犬は髪の毛を食べる(誤飲する)ことがあるそうで、次の様なネット記事がある。
髪の毛は消化できないので食べる量が多くなると胃などに詰まってしまいます。その結果、食欲低下、嘔吐、元気がなくなるなどの症状が見られることがあります。
人間もそうだが、犬も髪の毛を消化できないのだ。 キツネは犬科であり、やはり髪の毛を消化できないのではないかと思うのだが、どうだろう? これと同様、キツネが何らかの理由で髪の毛を大量に食べてしまったが、消化できなかった髪の毛が胃の中につまっていたということはないだろうか。
③妖怪「かみきり」はミヤマカミキリ?
カミキリムシ
漢字表記では天牛と記すが、これは中国語で、長い触覚を牛の角に見立てたものである。 成虫は植物の花、花粉、葉、茎、木の皮、樹液などを食べ、植物の繊維や木部組織を噛むための大顎が発達している。 カミキリムシという名前は、髪の毛を噛み切るほどの大顎の力を持っていることに由来する。 
佐脇嵩之『百怪図巻』より「かみきり」
上の妖怪「かみきり」はカミキリムシのように顎で髪の毛を噛み切るのではなく、はさみ状になった手で髪の毛を切るのだろうか?
妖怪「かみきり」は、痩せてあばら骨が浮き出ているが、下のミヤマカミキリの写真を見ると胸部に横線が幾筋も入っており、
このミヤマカマキリにインスピレーションを得て創作されたもののようにも思える。 妖怪「かみきり」の嘴のように見えるものは、ミヤマカマキリの口元(顎?)を表しているのではないだろうか? また妖怪「かみきり」の手の形は、ミヤマカマキリの脚のハート形から創作されたもののようにも思える。 妖怪「かみきり」目と目の間にあるⅤ字形のしわはミヤマカマキリの触覚のようにも見える。
たとえば、 カミキリムシの特徴として ・目の上に長いV字形の触覚がある。 ・胸部に横皺がある。 ・手足はハート形 と聞いたとき、実際にカミキリムシを見たことがなければ、妖怪「かみきり」のような姿を描いてしまいそうである。
④妖怪「かみきり」の正体は、販売目的の犯罪?
ウィキペディアの説明を読むと、髪を切られるという事件は、実際に起こった出来事であるようだ。
上記記事は2017年のもので、つい最近も妖怪「かみきり」が現れたことがわかる。(笑) その正体は23歳の男性で、その動機はネットオークションで売るためだとある。
「女子高生 ロング 黒髪」などとタイトルのついたものは39件の入札があり、3万2500円で落札。「中国女性 1メートル40センチ 360グラム 1時間の動画付き」は15万円で落札された。 ~略~ 髪の毛の売買は昔からあった。本物の髪は、古くはロープ代わりや日本髪を結う際のかもじ(添え髪)などで需要があり、現在でもエクステンション(付け毛)やウイッグ(かつら)、人形用などさまざまな用途がある。
とあり、髪の毛は需要があり、結構な高額で売れるケースもあるようだ。
❷元禄のはじめごろ伊勢国松坂(現・三重県松阪市)や江戸の紺屋町(現・東京都千代田区)で、夜中に道を歩いている男女が髪を元結(もとゆい)から切られる怪異が多発した。
『諸国里人談(寛保年間/1741年 - 1743年)』
❸江戸の下谷(現・東京都台東区)、小日向(現・東京都文京区)などで商店や屋敷の召使いの女性が髪が切られた。
『半日閑話(大田南畝)』
⓬明和8年(1771年)から翌年にかけ、江戸や大坂の人々の間で髪切りの騒動が続き、江戸では多くの修験者、大坂では「かつら」を売るためにかつら屋が仕組んだとして、かつら屋が処罰された。
↑ これらの事件は、2017年の事件と同様、販売目的で切られた可能性が高そうである。
⑤髪の毛に対する信仰
⓮昭和6年(1931年)に東京で少女の髪を切ったとして逮捕された青年は、「百人の女性の頭髪を切り、神社に奉納すれば自らの病弱な体が必ず健康になる」という迷信にしたがって髪切りを行ったことを供述した。
↑ こちらの記事にも書いたのだが、例えば次のような信仰があった。
❶京都・六波羅蜜寺の鬘掛地蔵・・・左手に毛髪をもっており、たくさんの毛髪が奉納されている。 ❷京都・菊野大明神・・・かつて毛髪を奉納する習慣があった。縁切りにご利益あり。 ❸京都・東本願寺・・・髪の毛で作った毛綱がある。 ❹大分・椿堂・・・奉納された毛髪が祭られている。 ❺京都・安井金毘羅宮・・・「櫛祭」飛鳥時代から現代までの髪型を結いあげた人々が練り歩く。縁切りにご利益あり。 ❻京都・御髪神社・・・1961年(昭和36年)に、京都の理美容関係者によって創建された。髪を奉納して健康を祈願する。 ❼京都・金戒光明寺・・・境内にアフロ仏像(五劫思惟阿弥陀仏(ごこうしゆいあみだぶつ)がある。 ❾奈良時代、県犬養姉女が志計志麻呂を皇位につけるために称徳天皇の髪を盗んで佐保川の髑髏に入れて呪詛した。 ❿遺髪の習慣
「百人の女性の頭髪を切り、神社に奉納すれば自らの病弱な体が必ず健康になる」という迷信は本当にあったのではないだろうか。
⑥発熱を伴う病で脱毛?
❹明治7年(1874年)、東京都本郷3丁目の鈴木家で「ぎん」という名の召使いの女性が便所へ行ったところ、寒気のような気配と共に突然、結わえ髪が切れて乱れ髪となった。ぎんは近所の家へ駆け込み、気絶した。便所のあたりを調べると、斬り落とされた髪が転がっていた。やがてぎんは病気となり、親元へと引き取られた。
これは何かの病気の様にも思える。
ここ数カ月で高熱を出したことがあるのなら、その抜け毛は「中毒性脱毛症」かもしれません。
上の記事は髪が切れるのではなく、脱毛であるが、寒気がしたというのは熱を出した時の症状なので、この中毒性脱毛症の様にも思える。
原爆で被曝された方や、放射線治療で脱毛することもある。 ぎんさんは、なんらかの原因で被曝したというのは考えにくいだろうか?
また、ぎんさんは寒気を覚えたとたんに気絶したとあるので体調不良から発熱して寒気を覚え、気絶したときに何かに引っかかって髪の毛がきれたなんてことはないだろうか?
勝川春亭画による鞍馬山僧正坊
①鞍馬天狗
鞍馬天狗(くらまてんぐ)は、鞍馬山の奥、僧正ヶ谷に住むと伝えられる大天狗である。別名、鞍馬山僧正坊。
牛若丸(のちの源義経)に剣術を教えたという伝説で知られる。鬼一法眼と同一視されることがある。
鞍馬寺の鞍馬天狗
鞍馬弘教では、鞍馬寺に祀られる尊天の一尊である大天狗、護法魔王尊、またの名を鞍馬山魔王大僧正が、鞍馬山僧正坊を配下に置くとする。または、鞍馬山僧正坊と同一視する。この教義が現在の形となったのは、鞍馬弘教が天台宗から独立した1949年以降である。
鞍馬天狗 鞍馬駅前には巨大な鞍馬天狗の面が置かれている。
⓶鞍馬寺は紀氏の神を祀る寺?
鞍馬寺にはこんな創建説話が伝えられている。
796年、藤原伊勢人の夢の中に貴船の神が現れ、鞍馬寺をつくるようにと言った。
※鞍馬寺から貴船神社までは山道を歩いて30分ほどである。
貴船神社
貴船神社は平安時代に上賀茂神社の第2摂社となっている。
賀茂神社の御祭神・賀茂別雷大神の母神は玉依姫で、下鴨神社に祀られている。
そして貴船神社奥の院にある船形石が玉依姫の乗った船であるという伝説があるので、
貴船神社は上賀茂神社と関係がある神社だということで、上賀茂神社の摂社とされたのではないかと思う。
ところが兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社には次のように伝わっている。
平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てた。
貴船神社(貴布禰神社)は紀氏の神のようだ。
すると、貴船の神に命じられて創建された鞍馬寺もまた紀氏の神を祭る寺だと考えられる。
鞍馬寺
③伏見稲荷大社と藤森神社の確執
鞍馬寺の創建説話に登場する藤原 伊勢人(ふじわら の いせんど)の聖没年は759年~827年。
藤原南家の藤原巨勢麻呂の七男である。
藤原伊勢人は鞍馬寺を創建したのと同年の796年に東寺を創建したとも伝わる。
この東寺の鎮守は伏見稲荷大社である。
東寺
伏見稲荷大社の南に紀氏の神を祀る藤森神社があるが、もともと藤森神社は伏見稲荷大社の場所にあったとされる。
その場所に伏見稲荷大社が建てられることになったので、藤森神社は移転したという。
そのため、伏見稲荷大社付近の人々は今でも藤森神社の氏子なのだそうだ。
藤森神社
藤森神社の祭礼では氏子さんたちは神輿を担いで伏見稲荷神社に乗り込み、その境内にある藤尾社の前で「土地返しや、土地返しや」と叫び
稲荷神社側の人々は「神さん、今お留守、今お留守」と言い返す。
こんな話が伝えられている。
稲荷山はが藤森神の土地だったが、稲荷神が俵1つ分の土地を貸してほしいと言った。
俵一つ分くらいならと許可すると、稲荷神は、持っていた俵を解いて長い縄にし、その縄で囲んだ土地を借りた。
しかし期限が来ても返さないので、祭礼の際に「土地返せ」と言っている。
伏見稲荷大社があるあたりは山城国紀伊郡といい、紀氏の土地であったのが、藤原氏や秦氏が権力を持つようになって紀氏は土地を奪われたと考えられている。
⑤空海のもとにやってきた紀州の神
『稲荷大明神流記』には次のように記されている。
816年、紀州国熊野で空海は神に出会い、神にこういった。
『私は密教を広めたいと思っているので、仏法で守ってくださるとうれしいです。東寺であなたをお待ちしています。』
823年、紀州の神が約束通り東寺にやってきたので、空海は大喜びで神をもてなし、17日間祈祷して神に鎮まっていただいた。
空海が紀州で出会った神とは紀氏の神ではないだろうか。
⑥伏見稲荷大社は紀氏の神までも奪っていた?
伏見稲荷大社
伏見稲荷大社では宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能賣大神、田中大神、四大神を祭っているが
柴田實氏によると、四大神とは、五十猛命(いそたけるのみこと)、大屋姫(おおやつひめ)、抓津姫(つまつひめ)、事八十神の四柱の神々のことだという。(式内社調査報告)
五十猛命(イソタケル)は、スサノオの子で、林業の神である。
記紀の記述によれば五十猛神は紀伊国(紀州)に祀られている神とある。
また記紀の記述によれば、大屋都姫命(大屋姫)はスサノオの娘で、五十猛命は兄、抓津姫は妹としており
大屋都姫命と抓津姫はスサノオに命じられて五十猛命と共に全国の山々に木種を撒いたあと紀伊国に戻ったとある。
そして、和歌山市宇田森の大屋都姫神社では大屋都姫命を、和歌山市伊太祈の伊太祁曽神社では五十猛命を主祭神としている。
都麻都姫命(抓津姫)は都麻都比売神社の主祭神とされていると古い文献には記されているが、この都麻都比売神社が現在のどの神社のことであるのかは不明。
紀州は古より林業が盛んだったので、紀州の人々は林業の神・五十猛神や、木種をまいた大屋都姫命・抓津姫を信仰していたのだろう。
そして紀州は紀氏の本拠地だった。
五十猛神・大屋都姫命・抓津姫は紀氏の神だと考えられる。
伏見稲荷大社は紀氏の土地を奪っただけでなく、紀氏の神まで奪ったということだろうか。
和歌山県有田氏の糸我稲荷神社が最古の稲荷社だともいわれている。
⑦秦伊侶具とは空海をモデルとして創作した人物?
空海は東寺建設のために稲荷山から木を伐りだしている。
高さ54.8mの東寺の五重塔の心柱とするのに適切な木材が稲荷山にしかなかったので、空海は稲荷山を欲したのではないだろうか。 『稲荷大明神流記』では紀州の神に鎮まってもらったのは823年となっている。
それ以前の稲荷山には紀氏の神を祀る神社があったはずだ。
伏見稲荷大社の創建説話では秦伊侶具が711年に矢を射たとあるが、これはウソっぽい。その理由↓
空海の俗名は佐伯真魚という。
そして伏見稲荷大社の創建説話に登場する秦伊侶具は「はたのいろぐ」と読むが、「はたのうろこ」とルビをふってある文書もある。
さらに空海は秦氏だとする説もある。 私は秦伊侶具とは空海をモデルとして創作した人物ではないかと思う。
空海は佐伯真魚で『魚』なので、そこからイメージして伊侶具(うろこ)という名前にしたんだったりして?
⑧藤原伊勢人は架空の人物?
東寺の記録書『東宝記』には「796年、藤原伊勢人が造寺長官となって東寺を建立した」とあるが
藤原伊勢人は公式の史書や系譜にはその名前がなく、架空の人物だとする説がある。
私は藤原伊勢人という人物は架空の人物であり、鞍馬寺はもともとは紀氏の神を祀る貴船神社と関係のある寺ではないかと思う。
⑨護法魔王尊は鞍馬天狗?
鞍馬寺の本尊はもともとは毘沙門天(北方を守護する仏)で、併せて千手観世音を祀っていた。 護法魔王尊とは鞍馬天狗のことではないだろうか。
⓾鞍馬天狗の信仰はいつからある?
護法魔王尊像はいつから鞍馬寺に安置されているのだろうか。 それについては調べてみたがわからなかった。
それでは鞍馬天狗の信仰はいつからあるのか。
南北朝時代あるいは室町時代初期の作と考えられている『義経記』には鬼一法眼が登場する。 (法眼は僧侶に対する尊称)
義経は鞍馬山を出て奥州へ下るも、再び都へ上り、一条堀河に住む陰陽師・吉岡鬼一法眼が持つ兵法書『六韜 』をしり、鬼一に入門を願い出るが断られてしまう。 そこで義経は、鬼一の三の姫を誘惑し、姫に兵法書を盗ませた。 鬼一は激怒し、義経を討とうとしますが果たせず、義経に去られた姫は嘆き悲しんで死んでしまった。
室町時代には能『鞍馬天狗』が成立している。
鞍馬寺の僧たちが、花見の宴を楽しんでいる中に、見知らぬ山伏がおり、僧たちは山伏を嫌がって稚児一人を残して去ってしまう。
稚児は山伏に優しく声をかけたので、山伏は稚児に恋をし、また稚児が牛若丸であることに気づく。 牛若丸は「ほかの稚児は平家一門で大事にされているが、、自分はないがしろにされている」といい、山伏は同情して牛若丸に近隣の花見の名所を見せる。 山伏は自分が鞍馬山の大天狗であるといい、さらに兵法を伝授するので平家を滅ぼすようにと牛若丸に告げた。
どうやら義経記(南北朝時代あるいは室町時代初期)に登場する鬼一法眼が、能・鞍馬天狗(室町時代)では鞍馬天狗に変化したようである。 鞍馬天狗の信仰が生じたのは室町時代だろうか。
⑪鞍馬の火祭はカシオペア座の神・藤原純友の祭礼だった?
なぜ鬼一方眼の伝説が鞍馬天狗信仰に変化したのか。 私は過去に天狗に関する記事をいくつか書いている。
これらの記事の中で、私は一貫して天狗とは流星または火球、彗星だと述べた。 そして鞍馬寺にも星に対する信仰があったふしがある。
10月に行われる鞍馬の火祭は鞍馬寺境内にある由岐神社の祭礼である。 940年9月9日、朱雀天皇はそれまでは御所で祭っていた由岐明神を鞍馬に遷宮させた。
遷宮の理由として、939年におこったもろもろの悪いことを払拭するという意味合いがあったとする記事もあった。 由岐明神の遷宮の行列は無数の松明を携え、その行列は十町(約1キロ)に及んだ。
『鞍馬の火祭』はこの遷宮の様子を再現したものだといわれている。
平将門は940年2月14日に討死し、由岐明神が鞍馬に遷宮してきた940年9月9日(旧暦)ときすでに平将門の乱は鎮圧されていた。
しかし、このとき藤原純友の乱はまだ鎮圧できていなかった。
由岐明神を鞍馬に遷宮させたのは、由岐明神に立派な社殿を奉り、また都の東北におくことで鬼門封じとし、藤原純友の乱を鎮圧させようという呪術的な目的があったのではないかと思う。
藤原純友は海賊の棟梁で、海賊を率いて乱を起こした。
当時の海賊がどのようないでたちをしていたのかわからないが、鞍馬の人々が祭礼で身に着けているような船頭篭手をつけていたのかも?
941年5月、朝廷の派遣した軍が純友軍を破った。
純友は小舟に乗って伊予に逃れたが、同年6月に捕らえられ、獄中で死亡した。
由岐神社は靭(ゆき)明神とも呼ばれているが、靭は矢を入れる道具であり、「うつぼ」ともよむ。 ウツボという魚もいるが、凶暴な魚で『海のギャング』とも言われる。 ウツボは海賊の首領だった藤原純友のイメージにぴったりだと思うが、いかがだろうか?
由岐神社=靭明神とは魚のウツボの神でもあり、藤原純友のことではないかと思う。
藤原純友は日振島を本拠地としていたが、日振島はwの形をした島である。
そのWの形はカシオペア座ににている。
そして鞍馬の火祭では深夜チョッペンの儀が行われる。
チョッペンの儀とは二人の青年が脚を上向けに開脚して2つのV字形=W字形を作るというものである。
宮崎地方で天辺(てっぺん)のことをチョッペンというそうである。
かつて日振島あたりでも天辺のことをチョッペンと言っていたのではないだろうか。
天辺とは「空のはて」「上空」という意味である。
チョッペンは藤原純友の本拠地・日振島をあらわすと同時に、上空にあるカシオペアをもあらわしているように思える。
詳しくはこちらの記事をお読みください。
①倉(くら)ぼっこ
❶倉の守り神
❷岩手県遠野地方に伝承される。
❸子供ほどの背丈、全身毛むくじゃらに描かれることが多い。 ❹危害を加えず、人を助ける。
❺座敷童子に類する妖怪で、倉ぼっこが倉から離れると家運が徐々に傾く。 ❻物音をたてるが姿を現すことは少ない。
❼遠野のある家では、「倉に籾殻を撒いておくと足跡が残るので存在がわかる」と伝えられる(『遠野物語拾遺』柳田國男)
❽酒屋で倉に入ってきた人に子供のような声で「ほいほい」と声をかけたり、異様な音を立てた。(『奥州のザシキワラシの話』佐々木喜善)
❾江戸時代、本所の梅原宗得の土蔵に棲み付いていた。
便意を催すと、この妖怪の現れる前兆なので急いで蔵を出た。
❿防火の神としても祀られている。
火事があったとき、顔が見えないほど髪を長く垂らした女の姿となって現れ、荷物を運び出して火災から守った。
⓶座敷わらし、ノタバリコ、ウスツキコ、コメツキワラシ
以前、↓ こちらの記事で、座敷わらしと関係する妖怪と考えられている、ノタバリコ・ウスツキコ・コメツキワラシについて書いた。
内容を簡単にまとめておこう。
a, 「ノタバリコ」は土間から這い出て座敷を這い回るワラシ。 「のたれ死ぬ」は「倒れて死ぬ」「みじめに死ぬ」という意味。 「ノタバリコ」とは「倒れてみじめに死んだ子」という意味ではないか。
b. ウスツキコは臼(餅をついたり、蕎麦を牽いて粉にするための道具)を搗くような音をたてる。 コメツキワラシの「コメツキ」とは「米搗き」だろう。かつて玄米は臼にいれて杵でついて精米していた。 ウスツキコとコメツキワラシは同様の妖怪と思われる。
c,東北地方では間引きを「臼殺(うすごろ)」といって、口減らしのために間引く子を石臼の下敷きにして殺し、墓ではなく土間や台所などに埋める風習があった。 間引かれた子供の埋められた場所が土間や臼の下などであることが関連しているとの指摘がある。
弘誓院や徳満寺(茨城県)に間引き絵馬が残されており、江戸時代には飢饉が頻発したことなどから、全国で間引きの風習
e.7歳までは神の領域なので、間引きは神に子供を返す行為と考えられており、間引きのことを「返す」「戻す」などといった。
f、「座敷ワラシ」と「ノタバリコ、ウスツキコ、コメツキワラシ」は同種と考えられているが、私にはわからない。 その理由。 ・「ノタバリコ、ウスツキコ、コメツキワラシ」は生まれて間もない赤子の妖怪だと考えられる。 いかし「座敷ワラシ」は3歳から15歳ぐらいの姿をしていると伝えられている。
・「ノタバリコ、ウスツキコ、コメツキワラシ」は土間に現れ、座敷ワラシは座敷に現れる。 静岡県磐田市の白山神社には次のような伝説が残されている。 「桓武天皇の第四皇子の海上皇子(戒成皇子)は従者とともにこの地にやってきて、地元の人々の食べ物を乞うようになった。その原因は、飼っていた雀が戸から飛び出し南殿の白砂にとまったのを追って、裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、ハンセン病になったためである。」 この話から、現れる場所が土間と座敷では妖怪の格がちがうのではないかと思われる。
③倉ボッチはなぜ防火の神として信仰されたのか。 「座敷ワラシ」と「ノタバリコ、ウスツキコ、コメツキワラシ」
「座敷ワラシ」と「倉ぼっち」が同類のものなのかどうか、私にはわからない。
しかし、「ノタバリコ、ウスツキコ、コメツキワラシ」と「倉ぼっち」は同類であり これらの妖怪は間引きされた子供の妖怪ではないかと思う。
その理由は、倉ぼっちが「❿防火の神としても祀られている。」からである。
防火の神として有名なのは柿本人麻呂である。 柿本人麻呂は柿本人丸と記されることもあり 「人丸→ひとまる→火止まる」の語呂合わせから、防火の神として信仰されている。 さらに「人丸→ひとまる→ひとうまる→人産まる」の語呂合わせから、安産の神としても信仰されている。
「ひとうまる」は「人埋まる」にも通じる。 「人埋まる→ひとうまる→ひとまる→火とまる」の語呂合わせで、倉に死体が埋められた子供は防火の神に転じると考えられたのではないだろうか?
倉ボッチが髪の長い女性の姿であらわれたのは、小野小町のイメージがあるのかもしれないと思う。 小野小町にはこんな伝説があるのだ。
晩年、小野小町は天橋立へ行く途中、三重の里・五十日(いかが・大宮町五十河)に住む上田甚兵衛宅に滞在し、「五十日」「日」の字を「火」に通じることから「河」と改めさせた。 すると、村に火事が亡くなり、女性は安産になった。 (妙性寺縁起)
五十日→五十火→火事になる→五十河→河の水で火が消える→火止まる→ひとまる→人産まれる このような語呂合わせのマジックで村の火事はなくなり、女性は安産になったということだろう。
小野小町は日の神(天照大神)であったが、火の神となり、さらに河の神(水の神)に転じたのだ。
倉ぼっちは防火の神ということで、この小野小町とイメージが重ねられたのかもしれない。
あるいは、防火の神=水の神であり、水の神は弁財天、イチキシマヒメなど女神であることが多いので女神とされたのかもしれない。
陰陽思想で天気は、晴は陽、 雨は陰とする。また、湿度では乾燥が陽で湿潤は陰。 そして性別では男性が陽で女性が陰なので、雨や水をもたらす髪は女神ということになる。
とこのように書いて気がついたが、生まれてまもなく亡くなった子供や、流産、中絶で死亡した胎児のことを水子という。水子は名前に「水」とあるので防火の神になるというような信仰もあったのではないだろうか。
④倉ぼっこが岩手県に伝承されている理由
青森や岩手など東北地方では、江戸時代に飢饉が起こっている。
↑ こちらの記事によれば東北地方にある地名の「わらす河原」は子どもを捨てた河原、「崩川」は赤ん坊がよじ登ろうとして崩れた川と説明されている。 地獄沢については説明がないが、やはり子供を捨てた沢ということなのだろう。
そして飢饉がおこった理由について、当時東北地方は米作に不向きで(現在は品種改良されて寒冷な気候でも栽培できるようになった)、稗の栽培に適していたが、政府や幕府が米を年貢として求めたので米策を行ったという趣旨が記されている。
そのような状況であったので岩手県では多くの間引きが行われ、「ノタバリコ、ウスツキコ、コメツキワラシ、倉ぼっこ」などの妖怪が信仰されるようになったのではないだろうか。
⑤便意を催すと倉ぼっこが現れる?
「子供ほどの背丈」とあるが、何歳ぐらいの子供なのかによって身長は異なる。 そうではあるが、倉ぼっこが子供の妖怪であるということを示しているのだろう。
「全身毛むくじゃらに描かれることが多い。」というのは、誰によってそのような姿の倉ぼっこが描かれたのかが不明。 ウィキペディアには 境港市水木しげるロードに設置された倉ぼっこのブロンズ像 が掲載されているので、水木しげる氏によってこのような姿に創作されたのかもしれない。 いずれにしろ、「火事があったとき、顔が見えないほど髪を長く垂らした女の姿となって現れ、荷物を運び出して火災から守った。」という伝説から毛むくじゃらの姿として描かれたのではないかと思う。
❾「便意を催すと、この妖怪の現れる前兆」というのは、どういうことだろうか。 昔、「本屋にいくとトイレに行きたくなる」という話が話題になったことがあり、私もそれは何度か経験している。 しかし、ほかの場所でもトイレに行きたくなったことはある。 たまたま本屋に行くことが多いので「本屋にいくとトイレに行きたくなる」と思ってしまっただけかもしれないが その理由としては次のようなものが考えられている。
「紙やインキの匂いが便意を促しているのだ」という説
「大量の本を前にして神経が高ぶるのだ」という説
「立ち読みする際の姿勢が便通を良くしているのではないか」という説
「不安感や逆境が関係しているのだ」という説
①倉坊主
倉坊主(くらぼうず)は、根岸鎮衛による江戸時代の随筆『耳嚢』巻之九にある江戸(現・東京都)の怪異。原題は「怪倉の事」であり[2]、「倉坊主」の名は『妖怪お化け雑学事典』(講談社)によるもの[3]。
概要
本所(現・東京都墨田区)の隅田川近くに数原宗徳という幕府の御用医師が住んでいたが、昔から彼の屋敷の倉には不思議な言い伝えがあった。倉の中に奇妙なものが住んでおり、家人が倉から何か物を出したいときには、そのたびに断りを入れなければ凶事があるとのことだった。その代わり、どの品物を明日欲しいと倉に願うと、翌朝にはその品物が倉の前に揃っているのだった。
ある年のこと。数原邸が火事にあったが、なぜか件の倉だけは焼け残った。寝床を焼かれた数原の家来の一人の書生が寝床を求め、この倉に何者かが住んでいても非常時ならば問題ないとして、倉の中を片付けてそこに寝ていた。すると恐ろしい顔つきの坊主が現れて、許可なく倉に立ち入ったこと、さらには無礼にも倉の中で寝たことを責めた。そして、本来ならば命を奪うところだが、非常時なので許し、今後は決して立ち入ることのないようにと言い残して姿を消した。驚いた書生は、たちまち倉を逃げ出した。
以来、数原家では毎年決まった日に、倉の前で祭礼を執り行うようになったという[2]。 なお、数原家代々の墓所は神奈川県伊勢原市の日蓮宗上行寺にある。もともと寺自体は江戸時代から白金(現在の明治学院大学の真正面)にあったが、戦後になり伊勢原に移転した。
⓶「在原業平ゆかりの地」の怪 上記リンク先、写真の説明に「東京都墨田区吾妻橋。数原宗徳の倉があったとされる」と記されている。
物語の舞台は東京都墨田区吾妻橋である。
吾妻橋 吾妻橋の西、隅田川には地名と同名の吾妻橋という橋がかかっている。
地図に橋の名前が表示されないかもしれないので、隅田川にかかる橋を北から順に書いておこう。 白髭橋、桜橋、(白髭橋、桜橋は上にスクロールして確認してください。)言問橋、すみだリバーウォーク、吾妻橋、駒形橋である。 吾妻橋の東には大横川に業平橋という地名と同名の橋がかかっている。
③事問橋
すみだリバーウオークをはさんで吾妻橋の北には言問橋があるが、言問橋という橋名は、平安時代の歌人・在原業平(825~880)が詠んだ次の歌にちなむとされる。
名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
(その名に「都」を持っているのであれば、さあ訪ねよう。都鳥よ。私が思う人は無事でいるだろうか。)
事問橋
『伊勢物語 東下りの段』には次の様な内容が記されている。 在原業平とその一行は東下りをしてこの地にやってきて、見知らぬ鳥がいたので船頭に聞くと、「都鳥」だという。 そこで業平は、都鳥という名前から都に残してきた人のことを思い出してこの歌を詠んだのだった。 業平の歌を聞いて一行はみな泣いてしまった。
竹屋の渡
④業平橋
次に業平橋という橋名の由来をみてみよう。 かつてこの橋があるあたりに、南蔵院というお寺があり、その境内に業平天神社があった。 『江戸名所記』によれば、業平はこのあたりで亡くなったとあり、その場所に業平塚が建てられていたことから、業平天神社は建てられたのだという。 (業平塚は力士・成川運平の墓が業平の墓に転じたという説(『遊歴雑記』)、里見成平の墓という説(『本所雨やどり』)など諸説ある。)
業平天神
⓹業平は『惟喬親王の乱』で流罪になった?
物語の舞台となった吾妻橋の由来が気になるが、その前に、在原業平という人物について、ざっとみておこう。
文徳天皇は紀静子が産んだ長子の惟喬親王を皇太子にしたいと考えて、源信に相談したが、 源信は藤原良房を憚って天皇をいさめたという。 その結果、藤原良房の娘・明子が産んだ惟仁親王が産まれたばかりで皇太子となった。
在原業平はこの文徳天皇の長子・惟喬親王の寵臣であった。
大阪府東大阪市にある千手寺パンフレットに「在原業平と業平が仕えていた惟喬親王」についての、こんな伝説が記されていた。
その後、維喬親王(これたかしんのう:844~897)の乱で、堂宇は灰燼に帰したが、本尊の千手観音は深野池(現大東市鴻池新田あたりにあった)に自ら飛入り、夜ごとに光を放つを見た在原業平がこれを奉出し、これを本尊として寺を再建したと伝える。
維喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。
[参考資料] 『恵日山 光堂千手寺』 千手寺パンフレット
『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社
千手寺パンフレットより引用
※文徳天皇の生没年は827年~858年。在位は850年~858年である。 パンフレットには「文徳天皇の第1皇子は維喬親王」とあるが、維喬親王とは惟喬親王(844~897)の事だと思われる。 また「乱を起したというのは史実ではない」とあるが、そうとも言い切れないような気がする。 (詳しくは、 惟喬親王の乱 シリーズをお読みください。
千手寺
在原業平は「京には住まない。東に住む国を見つけよう」と東下りの旅に出て、隅田川にやってくる前、
三河の国の八つ橋というところにやってきたところ、 ある人に、「かきつばたといふ五文字を、句の上に据えて、旅の心を詠め。」 と言われ、こんな歌を詠んでいる。
からごろも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思う
五七五七七で構成される和歌の最初の文字をつなげると、「かきつばた」となる。
「つま」とは「夫からみた妻」という意味もあるが、古語においては「夫婦や恋人が、互いに相手を呼ぶ称」のことであった。 業平は都においてきた妻を思い出してセンチメンタルな気分になったのかもしあれないが、「つま」とは業平が仕える惟喬親王のことであるかもしれないと思った。 しかし「かきつばたといふ五文字を、句の上に据えて、旅の心を詠め。」と命令口調で言ったある人が惟喬親王であるようにも思える。
後者の説をとれば、業平は惟喬親王とともに東国に住むべき土地を探して旅をしている、ということになる。 業平が惟喬親王とともに旅をしているのか、都に残してきたのかわからないが いずれにしろ、東国に住むべき土地を探して、ということは、平将門がやったように、東国に独立国をつくるということだろう。 これはクーデター(惟喬親王の乱?)である。
伊勢物語が史実を記したものかどうかわからないが。
⑥吾妻橋の由来は「東下り」からくる?
業平の人物像が見えてきたところで、吾妻橋の由来についてみてみよう。 ・江戸の東にあるために東橋と呼ばれていたのが吾妻橋になったという説 ・向島にある「吾嬬(あずま)神社」へと通ずる道であったことから転じて「吾妻」となった説 などがある。
しかし、言問橋、業平橋の由来を見ればこの地は在原業平ゆかりの地であるといえ 業平を主人公とする伊勢物語 東下りの段において、業平が 名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと と詠んでいることなどを考えると、伊勢物語 東下りの段にちなんで、東橋→吾妻橋と転じた可能性もありそうに思える。
検索すると、業平吾妻鑑という歌舞伎もあるようである。
なお、幕府の御用医師・数原宗徳については、検索しても倉坊主の話しかヒットしない。
⑦伊勢物語 芥川の段に登場する倉に住む鬼
どうやら数原邸があった吾妻橋付近は在原業平に対する信仰が深い地域であることがわかった。
ということは、数原邸の倉に住む妖怪・倉坊主の正体もまた在原業平に関係するものだと推測される。
伊勢物語に芥川の段がある。
業平は身分違いで得ることができない女のもとへ長年通っていたが、ある夜、盗み出して芥川というところまでやってきた。 女は草の上の露を見て、「あれはなあに?」と聞いたが業平は答えなかった。 雷が鳴り、雨も激しくなってきたので、業平は鬼がいるとは知らずに、壊れかけた倉に女をいれて、自分はやなぐい(弓を入れる道具)を背負って戸口にたっていた。 夜があけるころ、鬼は女を食べてしまった。 業平が見にきたときには女はすでにおらず、業平は地団太を踏んで悔しがった。
これは、二条の后(藤原高子/藤原良房の養女)がの、いとこの女御に仕えていたが、大変美しかったので業平が盗んだのだが、藤原基経(高子の兄、良房の養子)と藤原国経(基経の実弟)が取り返したのだった。 それを鬼と表現したのだ。
吾妻橋周辺は業平がこのあたりで和歌を詠んだということもあって、業平信仰の厚い地域だった。 すると、「数原邸の倉に住む妖怪・倉坊主」が創作された背景には、業平と高子が駈け落ちしたが失敗したことを記す伊勢物語 芥川の段のイメージがありそうである。 芥川の段に登場する倉の中には鬼がいて、その鬼は高子を一口で食べてしまったのだった。 (「鬼が高子を食べた」というのは比喩的表現で、実際には藤原基経と藤原国経が高子を連れ戻した。)
もちろん倉に鬼がいるとは思っていなかった業平は、倉の鬼に断りもなく高子を中に入れたことだろう。
この伊勢物語・芥川の段のイメージから、倉坊主は生みだされたのではないだろうか。
芥川
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