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小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』  

京都御所 平安装束の女性たち京都御所 


①三重の意味があった小町の和歌


古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が数多くある。
そして六歌仙(小野小町・遍照・在原業平・喜撰法師・文屋康彦・大友黒主)とは古今和歌集仮名序の中で名前をあげられた歌人のことをいうが、古今和歌集仮名序を書いたのは紀貫之だった。
紀貫之が書いた日記『土佐日記』の出だしは「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」だった。
紀貫之は男であるが、女であると偽って日記を書くような一筋縄ではいかない人物だった。
古今和歌集仮名序には次のようにある。
「小野小町は いにしへの衣通姫の流なり あはれなるやうにて強からず いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし」
やけに小町が女であることを強調しすぎてはいないだろうか。
また小野小町は穴がない体だったという伝説がある。
穴がない体とは男であるということではないのか。
小野小町は男なのではないか。
惟喬親王は小野宮という広大な邸宅に住み、自身も小野宮と呼ばれていた。
小野小町とは小野宮=惟喬親王のことではないのか?

そんなことを考えながら、私は小野小町の代表作ともいえる次の歌を鑑賞してみた。
花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに

この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされている。
しかしよくよく味わってみると、この歌には二重どころか三重の意味があるではないか!

妙性寺縁起は次のような伝説を伝えている。

再び天橋立に向かおうとした小町は、長尾坂で腹痛を起こし、上田甚兵衛に背負われて村まで帰るが、辞世の歌を残して亡くなった。
九重の 花の都に住まわせで はかなや我は 三重にかくるる
(九重の宮中にある花の都にかつて住んだ私であるが、はかなくも三重の里で死ぬのですね。)


三重というのは地名だが、『三重に重なった中に隠れる』という意味にもとれる。
何が三重に重なっているのだろうか。
もしかしたらそれは和歌に三重の意味をもたせたという意味なのかもしれない。

花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌の3番目の意味は・・・
私はこんなに堂々とした男らしい歌を他にしらない。

髄心院

髄心院(小町の邸宅跡と伝わる)


②小町の歌の一般的な解釈

まずこの歌の一般的な2つの解釈について見てみよう。

『花』は古今集の排列からすると桜だとされている。

そして『色』には赤・青・黄などの色(英語のColor)と、容色のふたつの意味がかかる。

『世にふる』は『世にあって時を経る』という意味だが『世』には男女関係という意味もある。
『ふる』は『降る』の掛詞である。
『ながめ』は『物思いにふける』という意味で、『長雨』と掛詞になっている。

このような技法を駆使しているため、この歌には二重の意味があるとされる。。

①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。

髄心院 梅

髄心院 はねずの梅

③色褪せたはねずの梅

小町の邸宅跡と伝わる,京都・,随心院にはたくさんの「はねずの梅」が植えられている。
はねずの梅は遅咲きで3月ごろに赤やピンクなどの鮮やかな花をつける。
はねずの花が満開になるころ,随心院では深草少将百夜通いをテーマにした『はねず踊り』が奉納されている。

随心院 はねずおどり

髄心院 はねず踊


また鮮やかな赤やピンクのはねずの梅の色のこともはねずといい、色褪せやすいことから『はねず』は『移る』の枕詞になっている。
花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌に詠まれた花とははねずの梅のことだと考えたほうがぴったりくる。

そうであるのに、なぜこの歌は桜の歌として古今集に取り入れられているのだろうか。

惟喬親王との世継ぎ争いに勝利して即位した惟仁親王(清和天皇)の母親は藤原明子だが、明子の父・藤原良房が次のような歌を詠んでいる。

染殿の后のおまへに花瓶(はながめ)に桜の花をささせたまへるを見てよめる
(染殿の后の前の花瓶に桜の花をいけてあるのを見て詠んだ。)

年ふれば 齢(よはひ)は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし
(年を重ねたので齢は老いたが、美しい桜の花を見れば、悩みなどありはしない。)


染殿の后とは良房の娘の明子のことである。
桜の花のように美しい娘の明子は文徳天皇の后となって惟仁親王を産み、その惟仁親王は皇太子となった。
惟仁親王が即位して清和天皇となると、良房は清和天皇の摂政となって政治の実権を握った。
娘の明子が清和天皇を産んだので良房には悩みなどなかったのである。

この歌から当時桜は栄華の象徴だと考えられていたということがわかる。

桜の花の色は淡いピンク色である。
一方はねずの梅は鮮やかなピンク色をしている。
その鮮やかなピンク色のはねずの梅の花の色が長雨のために色が落ち、淡いピンク色の桜になったということで桜の歌として取り上げられたのではないかと思う。

髄心院 八重桜

髄心院 八重桜

④ぎなた読み

言葉遊びのひとつに『ぎなた読み』というのがある。
『弁慶が なぎなたを もって』と読むべきところを『弁慶がな、ぎなたを持って』などのように、区切りを誤って読むことをいう。
宮沢賢治の『どんぐりと山猫』という物語に『たくさんの白いきのこが、どってこどってこどってこと、変な楽隊をやっていました。』という文章がある。
正しくは『どってこ どってこ どってこと』と読むのだが、それを『どって こどって こどって こと』と読んだ人がいた。
これなども『ぎなた読み』だといえるだろう。
『ぎなた』や『こどって』という言葉はないが、小野小町はぎなた読みをしても意味が通じるように歌を詠んでいるところがすごい。

もう一度小町の歌を鑑賞してみよう。
花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
『わがみよにふる』は『我が身 世に ふる』と読むが、ぎなた読みで『わが みよに ふる(我が御代にふる)』と読めるではないか。

『御代』とは『天皇の治世』、『我が御代に』とは『私の治世に』という意味である。

惟喬親王は自分とは一字違いの異母弟、惟仁親王(後の清和天皇)との世継ぎ争いに敗れて小野の里に隠棲し、渚の院(現在の枚方市)などで歌会を開いている。
その歌会のメンバーの中に六歌仙の遍照、在原業平、喜撰法師(紀有常)らの名前がある。
また文屋康秀は小野小町に「三河に一緒に行きませんか」と誘っている。
小野小町が小野宮と呼ばれた惟喬親王のことであるとするならば、文屋康秀は惟喬親王と交流があったということで彼もまたクーデターのメンバーであった可能性がある。
クーデターに成功した暁には惟喬親王は即位して天皇になるつもりだったと考えれば、彼が『わが御代に』と歌を詠んだ意味が理解できる。
実際には彼らのクーデターは未遂に終わったようであるが。

高田祟史さんや井沢元彦さんが和歌とは呪術であるというような意味のことをおっしゃっていたと思う。
惟喬親王の歌会とは清和天皇のバックで政権を牛耳る藤原良房や藤原基経らを呪う目的で行われていたのかもしれない。


渚の院 淡墨桜
 渚の院跡 ここで惟喬親王の歌会が行われた。

⑤「ふる」の意味

『ふる』を古語辞典でひくと『降る』のほかに『触る』『旧る』『振る』という項目がある。

「触る」・・・①触る ②かかわりあう ③箸がつく ④男女が交わる
「旧る」・・・古くなる。昔と今とすっかり変わる
「振る」・・・①揺れ動く。②波や風が立つ。③震わす。④遷宮させる。⑤(男女関係などで)きらい捨てる ⑥割りあてる。

さて、『わが御代にふる』の『ふる』とはどの意味なのだろうか。
『旧る』で、『昔と今とすっかり変わる』という意味だろうか。
すると、『私の御代に世の中がすっかりかわる様子を見ることができるだろう』という意味になるだろうか。

髄心院 石楠花

小野小町の邸宅跡と伝わる髄心院 石楠花

物部神道

私は『ふる』から物部神道を思い出す。
物部神道の本山・物部神社には「布留社(ふるのやしろ)』と呼ばれる振魂(ふるたま)神法が伝わっているのだ。

物部氏の祖神・ニギハヤヒは天から十種神宝(とくさのかむだから)と天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)を授かったとされる。
十種神宝とは、奥津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)、八握剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、死反玉(まかるかへしのたま)、足玉(たるたま)、道反玉(ちかえしのたま)、蛇比礼(おのちのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、品々物比礼(くさぐさのもののひれ)のことをいう。

天璽瑞宝十種は、この十種神宝を用いて行う鎮魂の神法のことである。
「一ニ三四五六七八九十 不瑠部由良由良不瑠部(ひふみよいむなやこたり、ふるべふるべゆらゆらふるべ)」と唱え、死者を生き返らせる秘法であるという。

『ふるべ』は瑞宝を振り動かすこと、『ゆらゆら』は玉の鳴り響く音とされる。
『わがみよにふる』の『ふる』は物部神道の『ふる』と関係があるのではないだろうか。
すると『わがみよにふるながめせしまに』とは『私の御代に(死者を生き返らせるために)十種の神宝を振り動かす光景を見ることだろう。』というような意味なのかもしれない。

小野小町は男だった⑮ 『惟喬親王と髑髏本尊』 
↑ こちらの記事で私は惟喬親王は髑髏本尊になったのではないか」と説いたが、髑髏本尊は7年間抱いて寝ると8年目に命を持って語りだすとされている。
これは髑髏本尊が生き返ることだといってもいいだろう。

五箇山 上梨 村上家 鬼門除け

五箇村村上家住宅に展示されていた鬼門除けの髑髏(猿の髑髏か?)

天(雨)の下

小野小町が雨乞いの際に詠んだといわれる歌がある。

ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとては 又天が下とは
(道理であるなあ、この国を日本と呼ぶならば、日が照りもするだろう、しかしそうは言っても、又、天(雨)の下とも言うではないか。だから、雨を降らせてください。)

参照/小野小町は男だった⑧ 雨乞い小町 『小野小町は弁財天・イチキシマヒメ・善女竜王と習合されている。』 


この歌の中で小町は天と雨をかけている。

花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに 
こちらの歌には「ながめせしまに」とあるが、これは「眺めせしまに」と「長雨せしまに」というふたつの意味をかけているとされる。
もしかして「長雨」の「雨」は「天」の掛詞になっているのではないだろうか?

そしてgoo辞書を調べてみると、次のように記されている。

くだ・る【下る/降る】
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/61845/meaning/m0u/より引用
初めて知ったが、降るは「くだる」とも読むのだ。

「わがみよにふる」は「わが御代に降る」→「わが御代にくだる」→「わが御代に下る」と変化するのではないだろうか。
「わがみよにふるながめせしまに」は「わが御代に降る長雨せしまに」→「わが御代に下る長天せしまに」と変化するということだ。
そうすることによって「下る長天」で、「長い天下」という言葉を導いているのではないか。

はねずの梅は長雨で色が褪せて栄華の象徴である桜となった。
私が天皇となって長い天下をおさめるときがきた。
昔と今はすっかり変わる。(死んだ私が生き返る?)
そんな眺めを私は見るのである。


古今和歌集仮名序で紀貫之はやけに小町が女性であることを強調していたが、一見女らしく見える歌の裏に、こんなに堂々とした男らしい意味が隠されていたのだ。

私は小野小町は男であり、小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えているが、(参照/小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 
この歌は惟喬親王が詠むにふさわしい歌だといえると思う。

小野小町像 
髄心院の歌碑に描かれた小野小町像

後向きに描かれた小野小町。振り向いた小町の顔は・・・・。


end.

長々とお付き合いくださいまして、ありがとうございました!




トップページはこちら → 小野小町は男だった① 小野小町はなぜ後ろを向いているのか 

 

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[2017/07/14 23:04] 小野小町は男だった | トラックバック(-) | コメント(-)

小野小町は男だった⑮ 『惟喬親王と髑髏本尊』 

小野小町は男だった⑭ 『男神を女神に変える呪術』  よりつづく~

①惟喬親王は髑髏本尊だった?

五箇山 上梨 村上家 鬼門除け

五箇村村上家住宅に展示されていた鬼門除けの髑髏(猿の髑髏か?)

小野小町は男だった⑫ あなめ小町『小野小町は髑髏本尊だった?』  において、私は「小野小町は髑髏本尊だったのではないか」と書いた。

「あなめ小町」は小町の髑髏から薄が生えて髑髏が「あなめ、あなめ(痛い、痛い)」と言ったという話である。
真言立川流では髑髏に漆や和合水を塗り重ねて髑髏本尊を作るが、仕上げにはお白粉を塗り、紅をさして美女か美少年のように化粧するそうである。
そこで絶世の美女といわれる小野小町とは髑髏本尊なのではないかと推理したのである。

そして小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 の記事で、「小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないか」と書いた。
こう考えると小野小町が穴のない体だといわれていることの説明がつく。
また三国町や三条町は紀氏の女性であり、惟喬親王は三条町(紀静子)の息子であるため「小町」と呼ばれたのではないかと考えられ、なぜ「小町」と呼ばれたのかについての説明もつく。

小野小町=惟喬親王だとすると、髑髏本尊であったのは惟喬親王だということになる。

立川流は鎌倉時代に開かれた真言宗の宗派だが、経典は平安時代に空海が唐より持ち帰った理趣経だし、平安時代に立川流につながる信仰がなかったとはいえない。
また立川流は江戸時代に迫害を受けて消滅したとされるが、1270年に成立した『受法用心集』には『真言密教の僧のうち、9割が立川流の信徒となっていた』とあるほど、流行った宗教だった。

そこで惟喬親王の伝説をたどってみると、惟喬親王もまた髑髏本尊との関連性が伺える。

惟喬親王とろくろ首

まず、惟喬親王が巻物が転がるのを見て、木地師が用いる轆轤(ろくろ)を発明したという伝説がある。

木地師資料館 轆轤

上の写真は許可を得て、木地師資料館(滋賀県東近江市蛭谷町)に展示されていたろくろの絵を撮影させていただいたものである。
ろくろ首という妖怪はこの木地師が用いる轆轤の付喪神だと考えられる。
轆轤を長く伸びた首に、轆轤の先端にあてた器を頭に喩えたのだろう。

File:Hokusai rokurokubi.jpg

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hokusai_rokurokubi.jpg?uselang=ja よりお借りしました。
葛飾北斎 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

ウィキペディアには次のように記されている。
「大別して、首が伸びるものと、首が抜け頭部が自由に飛行するものの2種が存在する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8D%E3%81%8F%E3%82%8D%E9%A6%96 より引用

蘇我入鹿や玄昉、平将門らの首が飛んだという伝説があるが、彼らは首が抜け頭部が自由に飛行するタイプのろくろ首だといえる。

File:Sorori wandering soul.jpg

首が抜け頭部が自由に飛行するタイプのろくろ首
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sorori_wandering_soul.jpg?uselang=jaよりお借りしました。
作者 不明 (scanned from ISBN 978-4-00-302572-7.) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

惟喬親王がろくろを発明したというのは間違いである。
というのは、奈良時代に木製の百万塔が轆轤で制作されているのだ。
http://www.narahaku.go.jp/collection/d-823-0-1.html
惟喬親王は平安時代の人物で、この百万塔は惟喬親王が生まれる以前に作られている。

それなのになぜ惟喬親王がろくろを発明したなどと言われているのだろうか。
それは惟喬親王がろくろ首であるという意味なのではないだろうか?
つまり、惟喬親王の頭部は胴体から切り離されたということなのではないだろうか?

③惟喬親王と漆

次に、惟喬親王が京都嵐山の法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩に漆の製法を授かったという伝説がある。
②で惟喬親王が轆轤を発明したという伝説をご紹介したが、轆轤を使って作るお椀などには漆を塗る。
法輪寺の伝説はそういったところから創作されたものではないかと、一般的には考えられている。

しかし、漆は立川流の髑髏本尊とも関係がある。

髑髏本尊を作るための髑髏は高貴な身分の人のものほどいいとされていた。
そしてその髑髏に漆と和合水を塗り重ねて髑髏本尊を作った。
漆は髑髏本尊を作るのにかかせない材料だった。
そういったところから、惟喬親王が虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったなどという伝説が生じたのではないかと思ったりもする。

惟喬親王の寵臣であった在原業平は多くの女性たちと関係を持ったプレイボーイとして知られているが、それは髑髏本尊を作るのに必要な和合水を手にいれるためだったのではないだろうか。
また髑髏本尊を作る作法に髑髏本尊の前で性行為を重ねるというものがあり、そのため在原業平は多くの女性と関係を持ったのだとも考えられる。

法輪寺 ライトアップ

法輪寺

③惟喬親王と漆器

木地師資料館 惟喬親王像

上の写真は木地師資料館に展示されていた惟喬親王の神像である。
惟喬親王は轆轤を発明したという伝承があるところから木地師の祖として信仰されている。
惟喬親王が茶碗を持っているのはそのためである。

黒田官兵衛ゆかりの地にいくと黒田官兵衛を描いたポスターが貼ってある。
見ると、官兵衛は茶碗をひっくり返したような兜をかぶっている。
確か大阪城にも同様の兜が展示されていたと思う。
https://matome.naver.jp/odai/2139711378115060501

官兵衛の兜は茶碗そっくりだが、これを頭に被る兜としたのは、茶碗にどくろ=頭蓋骨のイメージがあったためではないだろうか。

「茶の湯の茶碗はドクロ杯をイメージしたものだ」とおっしゃっている人がいたが、全くそのとおりだと思う。

④『嵐=山+風』からイメージされる切り離された頭と体

遍照・在原業平・喜撰法師(紀名虎または紀有常)・文屋康秀・小野小町・大友黒主のことを六歌仙といい、惟喬親王の歌会のメンバーにこのうちの遍照・在原業平・紀有常らの名前がある。
彼らは歌会と称して実は惟喬親王を担ぎ上げてクーデターを計画していたのではないかとする説がある。
そして文屋康秀は小野小町に「一緒に三河へ行きませんか」と誘っている。

小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 
で考察したように、小野小町と惟喬親王は同一人物だと考えらえるので、文屋康秀もまたクーデター計画のメンバーであった可能性がある。

その文屋康秀は次のような歌を詠んでいる。
吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしと言ふらむ
(吹くたびに秋の草木が萎れてしまうので、山風を嵐というのだろう。)


嵐=山+風という言葉遊びである。
さきほど惟喬親王が法輪寺に籠って虚空蔵地蔵より漆の製法を授かったという伝説を紹介したが、この法輪寺は京都の嵐山にある。
そして山という漢字を用いた熟語に山頭、風という漢字を用いた熟語に風体がある。
嵐を山と風に分解するとことで、(山)頭と(風)体が分離するイメージを持ってしまうのだが、考えすぎだろうか。

渡月橋より法輪寺を望む

法輪寺

⑤針供養

惟喬親王とゆかりの深い法輪寺だが、12月8日には針供養の行事も行われている。
小野小町は『男を受け付けない体』=『穴のない体』だったので、穴のない針のことを『小町針』といい、それが訛って『待ち針』というようになったと言われている。
法輪寺で針供養が行われているのは、惟喬親王が小野小町と同一人物であるためではないだろうか。


法輪寺 針供養

法輪寺 針供養

 

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[2017/07/11 17:42] 小野小町は男だった | トラックバック(-) | コメント(-)

小野小町は男だった⑭ 『男神を女神に変える呪術』 

小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』  よりつづく~

①小町が姿を映した井戸

髄心院 石楠花

髄心院 石楠花


補陀落寺(小町寺) 紅葉

補陀落寺 紅葉

髄心院と補陀落寺(小町寺)はどちらも小野小町に関係する寺院である。
髄心院は小町の邸宅跡、補陀落寺は小町の終焉の地だと言われている。
そしてどちらの寺院にも井戸がある。
髄心院のほうは「小町化粧井戸」、補陀落寺のほうは「小町姿見の井戸」と呼ばれている。

髄心院の「小町化粧井戸」というネーミングは、小町が井戸の水に姿を映して化粧をしたという言い伝えからくる。
つまり、髄心院の「小町化粧井戸」と補陀落寺の「小町姿見の井戸」はどちらも小町がその姿を映した井戸だということになる。

髄心院 小町化粧井戸

髄心院 小町化粧井戸

補陀落寺(小町寺) 小町姿見の井戸

補陀落寺 小町姿見の井戸

②お亀が池の伝説

曽爾高原 薄

曽爾高原


曽爾高原のススキの草原の中にお亀が池という池があり、次のような伝説が伝えられている。

伊勢国・太郎生村出身のお亀は曽爾村の男の嫁になり、毎日、太郎路池の水を溜めた井戸の水を鏡替わりにして化粧をしていた。
あるとき井戸の水に美しい男の顔が映り、「今夜、太郎路池のほとりに来て欲しい」といった。
それ以来、お亀は夜になると出かけるようになった。
その後お亀は子供を出産し、姿を消してしまった。
お亀の夫が子供を連れて太郎路池のほとりへやってくるとお亀が現れて子供に乳を飲ませた。
そして「二度と私を探さないでください」と言って姿を消したが、夫はまた太郎路池にやってきた。
するお亀が蛇となってあらわれ「二度とくるなと言ったのに、なぜ来た?」と言って夫に襲い掛かった。
夫はなんとか逃げ帰ったが、すぐに亡くなってしまった。
お亀は野火から山火事になった時、焼けて死んだ。
これ以来、太良路池はお亀ヶ池と呼ばれるようになった。

曽爾高原 お亀が池 
お亀が池

この伝説の中で、お亀が姿を井戸に映して化粧をしていたところ、水の中に美しい男が現れたとある。
井戸に姿を映していたのはお亀なので、美しい男とは、お亀が男神に転じたもののことではないだろうか。

③鏡に映すと性別が変わる?


記紀神話に次のような話がある。

天照大神が天岩戸に隠れたので、世の中は真っ暗になってしまった。
そこで神々は天照大神を岩戸から出すために次のような計画をたて実行した。
アメノウズメがストリップダンスをし、これを見た神々が笑った。
天照大神が「私がいないのになぜ皆笑っているのか」と聞くと「あなたより立派な神がおられるのです」と返答があった。
天照大神が岩戸を少しあけて外を覗き見ると、八咫の鏡に自分の姿が映った。
それが自分の姿だとわからずに天照大神が身を乗り出したところ、天照大神は天岩戸の外へ引っ張り出された。


天照大神はアメノウズメのストリップに興味を持って天岩戸から外を覗き見たのだ、女神のストリップに興味を持つのは男神だ、よって天照大神は男神だとする説がある。

飛鳥昭夫さんは鏡に姿を映すことは、反対の世界になることで、これによって神の性別が変わると考えられていたのではないかというようなことをおっしゃっていた。

お亀が姿を映した井戸は、鏡がわりの井戸だった。
そのため、反対の世界となり、お亀という女神は男神に転じたと、そういう話なのではないだろうか。

④小野宮=惟喬親王は井戸に姿を映して女神・小野小町となった?

前回の記事 小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 で、私たちは次のようなことを見てきた。
①古今和歌集には男の歌人が女の身になって詠んだ歌がたくさんある。
②古今和歌集仮名序を書いた紀貫之が著した土佐日記の出だしは「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」であり、女と偽って日記を書いている。
③小野小町は穴のない体あったと言われるが、穴のない体とは男だということではないか。

そして小野小町は男だった② 六歌仙は怨霊だった。  では次のようなことを見た。
①六歌仙とは古今集仮名序において名前をあげられた6人の歌人のことである。
②六歌仙は全員、藤原氏、特に藤原良房と敵対関係にある人物である。

これらのことから、私は小野小町とは男であり、小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないかと推理した。
惟喬親王は文徳天皇の長子で母親は紀静子だった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたが、藤原良房の娘・藤原明子を母親に持つ文徳天皇の第四皇子・惟仁親王が皇太子となった。
世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は御霊(怨霊が祟らないように慰霊されたもののこと)として、大皇器地祖神社(おおきみちそじんじゃ)・玄武神社・惟喬神社などに祀られている。

男神である小野宮=惟喬親王は、鏡かわりの井戸に姿を映すことで、女神・小野小町へと転じたのではないか。
髄心院の小町化粧井戸、補陀落寺の小町姿見の井戸とは小野宮=惟喬親王が姿を映して女神と転じる呪具としてそこにあるのではないか?

惟喬親王像

惟喬親王像 (惟喬親王陵/滋賀県東近江市筒井峠)

⑤語呂合わせの呪術


男神である小野宮=惟喬親王が、女神・小野小町へと転じた呪術にはもうひとつ、語呂合わせの呪術がある。

前回も少し紹介したが、俗謡に「おまえ百までわしゃ九 十九まで、共に白髪の生えるまで」というのがある。

これは謡曲「高砂」の尉・姥からくるもので
尉が熊手をもち、姥が箒をもって掃いているのは、熊手=九十九まで、掃く(まで)=百(まで)という語呂合わせであるという。

尉・・・熊手をもつ→九十九まで→くじゅうくまで
姥・・・箒をもつ→掃く→はく→・ひゃく→百


それで「おまえ百まで、わしゃ九十九まで」と謡うのだろう。

亀岡祭 高砂山 御神体 
亀岡祭 高砂山 御神体

しかし語呂合わせはこれで終わりではなかった。
肝心なのは「共に白髪の生えるまで」のほうだと私は考える。
なぜ、「共に白髪の生えるまで」と謡うのか。

九十九髪とは白髪のことであるという。
そのココロは

百-一=九十九
百-一=白
∴九十九=白


というわけだ。うまい。座布団2枚!

⑥尉も姥も白になる。

また百は掃く=はくなので、はく=白に転じる。

尉・・・熊手をもつ→九十九まで→くじゅうくまで)→百-一=白
姥・・・箒をもつ→掃く→はく→・ひゃく→百→はく→白

このように、尉も姥もどちらも白になる。
それで「共に白髪の生えるまで」と謡うのではないだろうか。

さらに、尉も姥もどちらも最終的に白になるので、

尉=白
姥=白
∴尉=姥=白


こうして男神である尉は女神である姥に転じるというわけだ。

伊勢物語に九十九髪という話があり、在原業平が九十九歳の色気づいた女を憐れんでともに寝るのだが伊勢物語の注釈書・『知顕集)』はこの九十九歳の色気づいた女は小野小町であるとしている。

九十九は奇数で陰陽思想では陽の数字、男性も陰陽思想では陽なので小野小町は男である。
しかし、九十九→百-一=白→はく→ひゃく→百と転じる。
百は偶数で陰陽思想では陰の数字、女性も陰陽思想では陰というわけで、男だった小野小町は女に転じたということではないだろうか。

(※友人にこれを話したところ、「はく→ひゃく」と転じるのはこじつけっぽいと言われたが、これは私が考えたことではない。
「おまえ百まで、わしゃ九十九まで」と謡われ、姥が箒を持っているのは「掃く=はく=百」の語呂合わせだと言われているので、昔の人は「はく→ひゃく」、ひっくり返せば「ひゃく→はく」と転じると考えていたことがわかる。)

髄心院 歌碑 八重桜
 
小野小町歌碑 隨心院  

 木地師資料館 惟喬親王像2 

木地師資料館の惟喬親王像


小野小町は男だった⑮ 『惟喬親王と髑髏本尊』 へつづく~
 
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[2017/07/06 13:52] 小野小町は男だった | トラックバック(-) | コメント(-)

小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 

小野小町は男だった⑫ あなめ小町『小野小町は髑髏本尊だった?』 よりつづく~


京都御所 1
京都御所

①残った4つの小町伝説

残る小町伝説は次の4つである。

①京都八瀬の里で修行する僧に薪や木の実を届ける女がいた。
女は「小野とは言はじ、薄生いたる、市原野辺に住む」と言って消える。
僧が市原野へ出かけて小町を弔っていると、四位少将の霊が現れ、小町の成仏を妨げる。
少将は百夜通いの後、成仏出来無いで苦しんでいた。
僧が、「懺悔に罪を滅ぼし給え」と勧めると、小町と共に成仏する。(通小町)


② 百歳の老女となった小野小町が近江の国関寺のあたりをさすらっているという話を聞いた陽成院が、小町に次のような歌を贈った。
雲の上は ありし昔に 変はらねど 見し玉簾の うちやゆかしき
(宮中は、かつての昔と変わっていないがあなたは、昔見慣れた玉簾(内裏)がなつかしくありませんか。)
 
小町は鸚鵡返しといって、院に歌を返した。
雲の上は ありし昔に 変はらねど 見し玉簾の うちぞゆかしき
(私は、昔見慣れた玉簾(内裏)がなつかしいです。)

相手の歌の「や」を「ぞ」に替えるだけで返歌した、鸚鵡返しの歌として知られる。(鸚鵡小町)

③絶世の美女であったにもかかわらず、男を寄せ付けなかった小町は実は男を受け入れられない体であった。
穴のない「まち針」は「小町針」がなまったものである。(小町針)

④昔、色気づいた女が三人の子に「思いやりのある男にお会いしたい」と話した。
三男は「よい男が現れるでしょう」と夢判断をし、在五中将(在原業平)に頼み込んだ。
在五中将は女をかわいそうに思ってやってきて寝た。
しかしその後、在五中将は女のもとへやってこなくなり、女は男の家に行って中を伺った。
男は女をちらっとみて歌を詠んだ。

ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)

その後、男がでかけようとしたので、女は家に戻って横になった。
在五中将が女の家の前で中を伺うと、女は次のように歌を詠んだ。

さむしろに 衣かたしき こよひもや こひしき人に あはでのみねむ
(狭いむしろに衣を一枚だけ敷き、今宵も恋しい人に会えずに寝るのだろうか。)

在五中将は女がかわいそうになり、その夜は女と寝た。
※伊勢物語には単に「色気づいた女」とあるが、伊勢物語の注釈書・『知顕集)』には次のように記されている。
「このをんなは、をののこまちなり。小野小町とふ、こまちには子ありともきかぬに、三人ありといへり。いかなる人の子をうみけるぞや、おぼつかなし。」
(この女は小野小町である。小野小町に子供があったとは聞いたことがないが、三人の子がいるとしている。どんな人の子を産んだのか、はっきりしない)(伊勢物語)

補陀落寺(小町寺) 紅葉 
補陀落寺(小町寺)

②小野小町は小野という名前ではなかった?

⑩の『通い小町』では小町と思われる女性が「小野とは言はじ、薄生いたる、市原野辺に住む」と言っている。
京都市左京区静市市原町に小町寺(補陀落寺)という寺がある。
市原は小野氏の所領地で、市原にある小町寺は小野小町終焉の地とされている。
小野小町の謎⑫ あなめ小町 で『あなめ小町』についてお話したが、小町寺の境内には小町の髑髏があったという場所が存在している。
「小野とは言わじ」という台詞が気になる。
「私の名前は小野ではない」ということだろうか?

補陀落寺(小町寺) 小野小町供養塔

補陀落寺(小町寺) 小野小町供養塔

③一字違いで大違いのもの、なあに?

⑪の鸚鵡小町では小町は相手の歌の「や」を「ぞ」に替えるだけで返歌している。
これは謎々ではないだろうか。
「一字違いで大違いのものはなあに?」という。

小町寺 小野皇太后供養塔

補陀落寺(小町寺) 小野皇太后供養塔

④穴のない体=男?


⑫小町針では小町は穴のない体であったとしている。
小町は先天性膣欠損症だったのか?

以前、紹介した古今和歌集仮名序の、小町について述べられた箇所をもう一度見てみよう。

小野小町は いにしへの衣通姫の流なり
あはれなるやうにて強からず
いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし


うーん?やけに女であることを強調しすぎてはいないだろうか。

古今和歌集仮名序は紀貫之が書いたと言われている。
紀貫之が著した土佐日記の出だしは「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」だった。
紀貫之は男であるが、女であると偽って日記を書くような一筋縄ではいかない人物だった。

そして古今和歌集には、男が女の身になって詠んだ歌が数多く存在している。
もしかして小野小町とは男?

そういえば、補陀落寺に小野老衰像があったが、骨格がしっかりしていて男性のように見えた。
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=1000200

惟喬親王像

惟喬親王像 (惟喬親王陵/滋賀県東近江市筒井峠)
 

⑤小野小町は小野宮だった?

通い小町では小町は「小野とはいわじ」と言っている。
惟喬親王は小野宮という邸宅に住んでいたため自身も小野宮と呼ばれていたのだが小野氏ではない。

そして鸚鵡小町は「一字違いで大違いのもの、なあに」という謎々だと私は思うが、惟喬親王と惟仁親王(清和天皇)は一字違いである。
惟喬親王は文徳天皇の長子で天皇にも立太子が望まれていた。
しかし当時の権力者・藤原良房の娘・藤原明子を母親に持つ惟仁親王が生まれたばかりで立太子し、紀静子を母親にもつ惟喬親王は世継ぎ争いで敗れたのだった。

さらに小野小町は穴がない体であったというが、それは男であったということではないのか。
とすれば、小野小町は小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないのか?

金龍寺 八重桜2

金龍寺(惟喬親王が住んだ高松御所跡)

⑥九十九は奇数で陽の数字

小野小町が小野宮=惟喬親王であったならば、伊勢物語の九十九髪の内容も納得がいく。
九十九髪とは百引く一は白で白髪のことを言うのだが、それだけの意味ではない。

俗謡で「おまえ百までわしゃ九 十九まで、共に白髪の生えるまで」というのがある。
これは謡曲高砂の尉・姥からくるものだとされている。

尉が熊手をもち、姥が箒をもって掃いているのは、熊手=九十九まで、掃く(まで)=百(まで)という洒落であるという。
尉が九十九で、姥が百であるのは九十九が奇数で陽の数字、百が偶数で陰の数字、また男は陽で女は陰とされていることによる。
すると九十九髪と詠われた小町は九十九は奇数なので男だということになる。

つまり小野小町=小野宮=惟喬親王と在原業平はBLの関係にあったということである。

小野小町は男だった⑩ 百夜通い 『深草少将・小野小町・惟喬親王に共通する九十九のイメージ』
↑ こちらの記事にも書いたのだが、惟喬親王には菊のイメージがある。

滋賀県東近江市の大皇器地祖神社(おおきみちそじんじゃ)では惟喬親王を木地師の祖として祀っており、大皇器地祖神社のある小椋の里の木地師は十六弁の菊の紋章の使用を許されている。

大皇器地祖神社

大皇器地祖神社


また惟喬親王は京都の法輪寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説があるのだが、この法輪寺では9月9日に重陽神事を行っている。
法輪寺の重陽神事ではたくさんの菊が飾られ、菊のしずくを飲んで800年の長寿を得たという菊滋童の舞が行われ、菊滋童と惟喬親王のイメージが重なる。

菊滋童の長寿の秘密は菊のしずくを飲むことだけでなく、多くの男女と契ることによって得たものであるという話を聞いたことがある。
菊の契りといえばBLのことだが、惟喬親王に菊のイメージがあるのは彼がゲイであったためではないだろうか。

法輪寺 重陽神事2

法輪寺 重陽神事

⑧小町は惟喬親王の和霊だった

まてまて。小野小町の謎⑪ 深草少将は紀氏だ ← この記事の中で、深草少将は惟喬親王だと言っていたじゃないか。
小町も深草少将も惟喬親王だなんておかしいじゃないか。
そうおっしゃる方がいらっしゃるかもしれない。
これについて説明しておこう。

神はその現れ方で御霊(神の本質)、和霊(神の和やかな側面)、荒霊(神の荒々しい側面)の3つに分けられるという。
そして和霊は女神で荒霊は男神とする説がある。
すると御霊は男女双体ということになると思う。
これにぴったり当てはまるのが大聖歓喜天である。
歓喜天は象頭の男女双体の神で、男神が鬼王ビナヤキャで、女神が十一面観音の化身のビナヤキャ女神である。

御霊・・・神の本質・・・男女双体・・・大聖歓喜天
和霊・・・神の和やかな側面・・・女神・・・ビナヤキャ女神
荒霊・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・鬼王・ビナヤキャ


鬼王ビナヤキャとビナヤキャ女神は同じ名前で姿形もそっくりである。→ 
惟喬親王の場合は、惟喬親王が御霊で、惟喬親王の荒霊と惟喬親王の和霊に別れ、小野小町は惟喬親王の和霊であると、そういうことなのではないだろうか。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体・・・大聖歓喜天・・・・・・・・惟喬親王
和霊・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・ビナヤキャ女神・・・・・・小野小町
荒霊・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・鬼王・ビナヤキャ・・・・・小野宮(惟喬親王)

菊野大明神

菊野大明神 深草少将腰掛け石を御神体とする。

⑨深草少将が99日目にたてた代理人とは

随心院に伝わる百夜通い伝説は次のようなものだった。

99日目に小町は「1日足りないが、まあお入り」と扉を開ける。
するとそこに立っていたのは深草少将ではなく別人だった。
深草少将は毎日熱心に小町のもとへ通っていたのだが、その日に限って代理人をたてていたのだった。


一般的な百夜通い伝説は深草少将は今日で100日目という日に死んでしまうのだが、随心院では99日目に深草少将は代理人をたてたとする。
代理人をたてるという発想はどこからくるのだろうか。
それは文徳天皇が惟喬親王を皇太子にしたいと望んでいたにもかかわらず、惟仁親王が皇太子になったところからくるものではないだろうか。
随心院 はねずおどり

髄心院 はねず踊 深草少将百夜通い伝説を題材にした踊り

⑩町は紀氏を表す?

『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。

三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。

三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
そして紀静子は惟喬親王の母親だった。

そう考えると、惟喬親王を小町と呼ぶ理由がわかる。
惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
そういうことで小町なのではないだろうか。

金龍寺 八重桜

金龍寺(惟喬親王が住んだ高松御所跡)


次回へつづく~
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[2017/06/30 00:16] 小野小町は男だった | トラックバック(-) | コメント(-)

小野小町は男だった⑫ あなめ小町『小野小町は髑髏本尊だった?』 



小野小町は男だった⑪ 深草少将は紀氏だった? より つづく~

①後白河法皇と小町に伝わる髑髏伝説

File:Toshi-ya 00.jpg

上は歌川豊春が描いた『通し矢』の様子です。

ウィキペディア(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Toshi-ya_00.jpg?uselang=ja) よりお借りしました。

三十三間堂は後白河法皇の離宮・法住寺殿の一画に建てられた仏堂で、江戸時代にはその前でさかんに『通し矢』が行われた。
三十三間堂は南北に細長い(約121m)建物で、その長さが矢を射るのにちょうどよかったのだろう。

『通し矢』は現在でも「大的大会」として1月15日に近い日曜日に行われている。

三十三間堂 通し矢

三十三間堂 通し矢(大的大会)

三十三間堂 軒下にささった弓矢 

三十三間堂 軒下にささった矢がそのまま残されていた。

この日、堂内は無料開放される。
金色に輝く1001体の千手観音像は圧巻だ。

File:Kusakabe Kimbei 1364 Sanjiu.JPG

ウィキペディア(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kusakabe_Kimbei_1364_Sanjiu.JPG?uselang=ja)よりお借りしました。

また、堂内で、僧侶より『柳のお加持』を受けることができる。
『柳のお加持』とは柳の枝で参拝者の頭に数的の水をかけて祈祷するというもので、頭痛封じの霊験があるとされる。

ほうかいじ やなぎのおかじ  
法界寺裸踊り 柳のお加持 (三十三間堂堂内は撮影禁止のため、法界寺のものを貼っておきます。)

『柳のお加持』は三十三間堂に伝わる次の伝説にちなむものだろう。

後白河法皇はひどい頭痛持ちであったため、永暦二年二月二十二日、因幡堂に参詣して祈った。
すると夢の中に僧が現れて次のように告げた。
「後白河院の前世は、熊野の蓮花坊という者で、六十六部の経典を日本廻国して奉納した功徳によって天皇に生れた。
しかし、前世の髑髏が岩田川の水底に沈んでおり、その目穴から柳が生え、今は大木となっている。
柳は風が吹くと動くので、今の後白河院の身に頭痛がおこるのです。
髑髏の柳をとりのぞけば頭痛は治るだろう。」
そこでさっそく水底を探させたところ髑髏が見つかった。
髑髏から柳を抜き、その柳で観音の像をつくり、その中へ髑髏を納めた。
また柳の大木は三十三間堂の棟木にした。


※伝説では髑髏から生えていた柳は三十三間堂の棟木にしたと伝わるが、実際には三十三間堂の棟木に柳は用いられていない。

三十三間堂 矢がささった跡 

三十三間堂 弓矢が当たってできた傷?

これと同様の伝説が小町にもある。

ススキ野原の中で「あなめあなめ」(ああ、目が痛い)と声がするので僧が立ち寄ってみると、どくろがあって、その目からススキが生えていた。
抜き取ってやるとそれは小町のどくろだった。
(あなめ小町)

曽爾高原 薄

曽爾高原 すすき


②髑髏と真言立川流

髑髏といえば真言立川流を思い出す。
真言立川流では髑髏本尊をつくるのだ。

髑髏本尊は、髑髏に漆を塗り重ねて肉付けし、和合水を塗り、眼球をはめこみ、唇には紅をさすなどして美女か美少年のように化粧をほどこして作る。
この髑髏本尊を袋に入れて7年間抱いて寝ると、8年目に髑髏は命を持って話し出すというのである。

真言立川流は12世紀に成立し、南北朝時代には南朝の保護を受けて隆盛を極めた宗派であるが、江戸時代に迫害を受けて壊滅したとされる。

小野小町が生きていた平安時代には、まだ立川流は成立していない。
しかし、立川流の経典は遣唐使だった空海が唐より持ち帰った理趣経で、空海は平安時代初期の人物である。
また、立川流は陰陽道の影響を受けているが、奈良時代に成立した記紀には陰陽道の影響を受けたと思われる記事があり(混沌が陰陽に分離して天地となった/日本書紀 など)小野小町の時代に立川流につながるような信仰があった可能性はある。

『髑髏本尊を袋に入れて7年間抱いて寝ると8年目に髑髏は命を持って話し出す』という点に注意したい。
これは死んだ人が髑髏本尊として復活するということである。

髑髏は復活にかかせない呪具であったのではないかと私は思う。

五箇山 上梨 村上家 鬼門除け

五箇村村上家住宅に展示されていた鬼門除けの髑髏(猿の髑髏か?)

③布袋の袋

例えば七福神の布袋尊は、死後に姿を見かけられている。
これは死後に布袋が生き返った=復活したということではないだろうか。
そして布袋は手に袋をもっている。
萬福寺の布袋がもっている袋はちょうど髑髏が入っていそうな大きさである。

萬福寺 布袋  

萬福寺 布袋像

米原子供歌舞伎 弁慶 

↑ 上の写真は米原子供歌舞伎・旭山で演じられた『御所桜堀川夜討 弁慶上使の段』である。
弁慶が手に紅白の包みを持っているが、この包みの中に入っているのはどちらも人の首である。
萬福寺の布袋が持っている袋と大きさや形などが似ていると思う。

④大黒天と袋

大黒天も袋を持っている。
大黒天は日本神話の大国主と習合されているが、大国主は何度も死んでは生き返っている。

興福寺 大黒天

興福寺 追儺会に登場した大黒天

大黒天のルーツとされるインドの神・マハーカーラは『大いなる闇』という意味で、片手に宝物の入った小袋、又は人間の生首を持っていた。
そして不老長寿の薬をもつと考えられていたという。
ということは、宝物の入った小袋というが、その中身は人間の生首なのではないだろうか。
また大黒天が持つ不老長寿の薬とは人間の生首であるとも考えられる。

⑤涅槃図と風呂敷包


涅槃図には樹の枝に赤い風呂敷包が描かれる。→ (向かって左から2番目の樹に赤い風呂敷包が見える。)
この風呂敷包もちょうど髑髏が入っていそうな大きさである。
この風呂敷包は摩耶夫人がお釈迦様のために投じた薬が入っていると言われている。
薬とは不老長寿の薬である人間の髑髏なのではないだろうか。

⑥後白河法皇と復活

そこでもう一度、三十三間堂に伝わる後白河法皇の髑髏伝説をみてみよう。
後白河法皇の前世は熊野の蓮花坊という者で、六十六部の経典を日本廻国して奉納した功徳によって天皇に生れ変わったのである。
すなわち、蓮花坊の生まれ変わりが後白河法皇なのだ。
そしてこの蓮花坊の髑髏より柳が生えていることが後白河法皇の頭痛をひきおこしている。
やはり、髑髏は復活のための呪術であると考えられるのではないだろうか。

三十三間堂 桜 
三十三間堂

⑦小町と髑髏本尊

小野小町には後白河法皇と同様の伝説が伝えられているが、後白河法皇が蓮花坊の生まれ変わりであるのに対し、小町は蓮花坊と同じく髑髏そのものでその目からはススキが生えている。

そして髑髏本尊はお白粉を塗り、紅をさして美女か、美少年のように化粧するのだという。
絶世の美女といわれる小野小町とは髑髏本尊なのではないだろうか?

髑髏本尊は漆や和合水を塗り重ねて作るが、惟喬親王は法輪寺に籠った際、虚空蔵地蔵より漆の製法を授かったという伝説がある。

法輪寺 ライトアップ

法輪寺 

惟喬親王は文徳天皇の長子で、文徳天皇からも立太子が望まれていたが、母親が紀静子であったため、藤原良房の娘・明子を母親にもつ惟仁親王が立太子していた。
世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は小野の里に隠棲し、頻繁に歌会を開いた。
六歌仙のうち、遍照・在原業平・喜撰法師(紀有常)は惟喬親王の歌会のメンバーであった。
遍照・在原業平・喜撰法師(紀有常)らは歌会と称して、惟喬親王を担ぎ上げてのクーデターを企てていたのではないかとする説がある。
(詳しくはこちらをお読みください → 小野小町の謎② 六歌仙は怨霊だった。

小野小町は六歌仙の一だが、六歌仙(遍照・在原業平・喜撰法師・文屋康秀・大友黒主・小野小町)は全員、藤原良房と敵対関係にある人物だった。

そして『あなめ小町』では小町は薄の生えた髑髏として登場しており、惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授かっている。
髑髏に漆や和合水を塗り重ねて髑髏本尊を作ることと、何か関係がありそうである。


 

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[2017/06/21 14:10] 小野小町は男だった | トラックバック(-) | コメント(-)

小野小町は男だった⑪ 深草少将は紀氏だった? 


墨染寺 桜

墨染寺

小野小町は男だった⑩ 百夜通い 『深草少将・小野小町・惟喬親王に共通する九十九のイメージ』 よりつづく~

①墨染寺

京都市伏見区墨染町741に墨染寺がある。
平安時代に藤原基経がなくなったとき、これを悲しんだ上野峯雄が『深草の 野辺の桜し こころあらば 今年ばかりは 墨染に咲け』と歌を詠んだ。
墨染という地名はことにちなむという。

墨染寺はこの歌に詠まれた墨染桜があることで知られる。
墨染桜は花びらの中央部が墨で染めたように黒っぽくみえるところからこの名前がある。
また境内にはたくさんのソメイヨシノも植えられていて春には多くの観光客がやってくる。

墨染寺は別名を桜寺という。
小さなお寺だが、まさしくその名にぴったりのお寺である。

②欣浄寺

墨染寺のすぐ近所の京都市伏見区西枡屋町1038に欣浄寺という寺がある。
近所の人に欣浄寺の場所を尋ねたところ、次のような返事が返ってきた。
「この近所にあるお寺さんゆうたら墨染寺以外ない思いますけどなあ。」
やむなく付近を探し回ったところようやく欣浄寺は見つかった。
近所の人が知らないというのも無理はない。
欣浄寺は空き地の奥にあって寺門もないのだ。
空き地の奥に、民家と民家に挟まれた狭い通路があり、ここから敷地内に入るとコンクリート造の本堂が現れる。
それでようやくここが寺だと気付くほどだ。
本堂の前は林が生い茂っていて薄暗く陰湿な印象を受ける。

③墨染寺と欣浄寺、どちらにも存在する墨染桜の古株と墨染井

墨染寺と欣浄寺の由緒は次のとおりである。

【墨染寺】
①874年清和天皇(850-881)の勅願により、摂政・藤原良房(804-872)が建立した元号寺院の貞観寺が前身。
②豊臣秀吉より土地の寄進を受け、本宗寺院となった。
③学妙上人が復興された。

【欣浄寺】
①平安時代初期に桓武天皇より深草少将が邸地として賜わったもので八町四面の広さがあった。
②深草少将は弘仁3年(813年)3月16日に薨去しこの地に埋葬された。
③その後、遍照が仁明天皇の崩御を悼んで念仏堂をたてた。
④1230年~1232年、曹洞宗開祖の道元禅師がここに閑居された。
⑤欣浄寺の池の東には「少将の通い道」と呼ばれる道があり、この道を訴訟のある人が通ると願いがかなわないといわれている。

対照的な雰囲気を持ち、由緒もまったく異なる墨染寺と欣浄寺だが、二つの寺には何か関係がありそうである。
というのは、どちらの寺にも墨染桜の古株が残されており、どちらの寺にも墨染井があるのである。
もっとも墨染寺にある墨染井は1768年に歌舞伎役者・2代目中村歌右衛門が寄進した御手洗鉢、欣浄寺にある墨染井はつるべ式の井戸とものは違ってはいるのだが。

欣浄寺-墨染井 

欣浄寺 墨染井

④深草少将=仁明天皇?


欣浄寺の墨染井は深草少将が用いていたものとされ、井戸のほとりには小野小町と深草少将の供養塔が建てられている。

欣浄寺-供養塔

欣浄寺 小野小町・深草少将供養塔
また欣浄寺の池の東には「少将の通い道」と呼ばれる道があり、この道を訴訟のある人が通ると願いがかなわないといわれている。

深草少将は813年に亡くなったというが、小町との関わりを考えると時代が少し早いように思われる。
小町は分屋康秀(?~885)や遍照(816~890)と交流があった。
小町が深草少将と同年代だとすれば、小町は分屋康秀や遍照よりもかなり年が上ということになってしまう。
小町が分屋康秀や遍照よりもかなり年が上だったというのはありえなくはないが。

欣浄寺の由緒には「その後遍照がここに仁明天皇(810~850)を悼んで念仏堂をたてた」とある。
なぜ遍照は深草少将の邸宅跡に仁明天皇を悼むための念仏堂をたてたのだろうか。
この記事は深草少将と仁明天皇に関係があることを思わせる。
ということは、深草少将とは仁明天皇のことなのだろうか。

仁明天皇の陵は深草の地にある。
仁明天皇が深草帝と呼ばれたのはそのためである。
山村美佐さんは「小野小町は仁明天皇の更衣であった」としておられるが、彼女は深草少将は深草帝(仁明天皇)であると推理されているのだろう。
ただし、深草少将が亡くなったとされるのは813年、仁明天皇が崩御されたのは850年で時代がずれるが。

⑤深草は紀氏の土地だった。

私は深草少将のモデルは仁明天皇ではないと考えている。

奈良時代、深草は紀伊郡に属し、深草郷と呼ばれていた。
紀伊郡という地名は紀氏一族が本拠地としていた土地であったところからつけられたと考えらえている。
平安時代に深草は藤原氏の荘園となった。
そして紀氏の勢力は衰え、藤原氏の配下にあった秦氏がこのあたりの土地を支配したようである。

墨染寺、欣浄寺から徒歩10分くらいのところに藤森神社がある。

藤森神社 蹴鞠3

藤森神社

藤森神社の御祭神 はスサノオであり、別雷命、日本武命、應神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇、舍人親王、天武天皇、早良親王、伊予親王、井上内親王を配祀している。
しかし、藤森神社は紀氏の先祖を祀る神社だともいわれている。

記紀などによれば、紀氏は孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子・紀角宿禰を始祖としている。
しかし、別の史料には紀氏の祖神をスサノオとするものがあるのだという。
とすれば、藤森神社が紀氏の先祖を祀る神社であるというのは辻褄があう。

藤森神社 紫陽花

藤森神社

⑥土地と稲荷神を奪われた藤森神社

藤森神社はもともとは現在の伏見稲荷大社がある場所に鎮座していたが、そこに伏見稲荷大社が創建されることになって移転している。
伏見稲荷大社 千本鳥居 雪 
伏見稲荷大社

そのため、伏見稲荷大社周辺の住人は今でも藤森神社の氏子である。
また藤森神社の祭礼では神輿を伏見稲荷神社へ担ぎこみ「土地返せ」と囃し立てるそうである。

藤森神社 藤森祭 神輿 
藤森神社 藤森祭


伏見稲荷大社の御祭神は宇迦之御魂大神で、佐田彦大神、大宮能賣大神、田中大神、四大神を配祀している。
『式内社調査報告』で、柴田實氏は、四大神とは、五十猛命、大屋姫、抓津姫、事八十神の四柱の神としている。

五十猛神(イソタケル)は、スサノオの子で、林業の神として信仰されている。
記紀の記述によれば五十猛神は紀伊国に祀られているとある。
紀伊は古来より林業の盛んな地であり、紀伊の人々が信仰していた神だと考えられている。

大屋姫は大屋都姫命のことだろうか。
大屋都姫命と抓津姫は姉妹の神で、は、和歌山県和歌山市宇田森の大屋都姫神社の御祭神である。
日本書記一書ではスサノオの娘で五十猛神は兄となっている。
スサノオに命じられて五十猛命と共に全国の山々に木種を撒いたあと紀伊国に戻って住んだとある。

伏見稲荷大社は紀氏が祭祀する藤森神社の土地を奪っただけでなく、紀氏の神までも奪ったのである。

伏見稲荷大社 狐の像2 

伏見稲荷大社

また、 空海が816年、稲荷山三箇峯から現在地へ勧請したとも言い伝わっているが、その際、紀州の老人が稲を背負い、杉の葉を提て、両女を率い、二子を具して東寺の南門に望んだという伝説もある。
(伏見稲荷大社は東寺の鎮守とされる。)

東寺 桜 ライトアップ

東寺

伏見稲荷大社は711年、秦伊呂具によって創始されたとされているが、もともとは稲荷神は稲を背負った紀州の老人=紀氏の神だったのではないだろうか。

和歌山県有田市糸我町中番に稲荷神社があり、第27代安閑天皇(西暦531-535)代に創祀されたという伝説がある。
この稲荷神社は最古の稲荷社とも言われている。

⑦深草少将は紀氏だった?

欣浄寺-桜 
欣浄寺

欣浄寺によれば、深草少将は弘仁3年(813年)3月16日に薨去しこの地に埋葬されたという。
そして空海が稲荷神を勧請したのは816年である。

この816年ごろよりともとは紀氏の土地であった深草の地が藤原氏や藤原氏の配下にある秦氏の土地となっていったのではないだろうか。
(空海は秦氏だとする説がある。)
するとそれ以前にこの地に邸宅を持っていた深草少将とは紀氏だと考えられる。

空海が816年、伏見稲荷大社を稲荷山三箇峯から現在地へ勧請した際、東寺の南門に現れてたという紀州の老人が深草少将なのではないか?

墨染寺 桜 

墨染寺 

墨染寺は874年に清和天皇(850-881)の勅願により、摂政・藤原良房(804-872)が建立した貞観寺が前身だというが、欣浄寺の前身である深草少将の邸宅は八丁四面の広大な敷地を持っていたという。
藤原良房は紀氏の人物と考えられる深草少将の邸宅があった土地をなんらかの方法で自分のものとし、そこに貞観寺を建てたのではないか。

墨染桜はもともとは813年になくなった深草少将の死を悲しんで花びらが墨色に染まったものと考えられていたのだと思う。
深草少将邸宅跡とされる欣浄寺に墨染桜の古株や墨染井があるのはそのためではないだろうか。
ところが深草が藤原氏の土地となり藤原氏によって貞観寺がたてられたため、深草少将ではなく藤原基経の死を悲しんで花びらが墨色に染まったのが墨染桜であると考えられるようになったのではないだろうか。

欣浄寺の池の東には「少将の通い道」と呼ばれる道があり、この道を訴訟のある人が通ると願いがかなわないといわれている。
願がかなわないというのは、訴訟に負けるということだろう。
深草少将=紀氏は藤原氏およびその配下にある秦氏に巧妙に土地を奪われてしまったことから、このような言い伝えができたのではないだろうか。

深草少将とは紀氏であると私は思う。
前回の記事で私は、深草少将には菊のイメージがあり、やはり菊のイメージがある惟喬親王が深草少将ではないかと書いたが、惟喬親王の母親は紀静子であるので惟喬親王は紀氏であるといってもいいだろう。

さきほど私は「空海が816年、伏見稲荷大社を稲荷山三箇峯から現在地へ勧請した際、東寺の南門に現れてたという紀州の老人が深草少将なのではないか?」と書いた。
惟喬親王はこの紀州の老人とイメージが重ねられている(習合されている)のではないだろうか?

法輪寺 重陽神事

 
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[2017/06/15 09:45] 小野小町は男だった | トラックバック(-) | コメント(-)

6月13日にメールくださった方へ 

矢田の神と春日明神(矢田寺) 

↑ こちらの記事について、6月13日にメールをくださった方、ありがとうございました。
返事をおくろうと思いましたが、メールを送ることができません。
お手数ですが、メールを送ることのできるアドレスを明記したうえで、再度メールフォームを送っていただけないでしょうか。


宜しくお願いします。




















[2017/06/13 21:15] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

小野小町は男だった⑩ 百夜通い 『深草少将・小野小町・惟喬親王に共通する九十九のイメージ』 

随心院 はねずおどり

髄心院 はねず踊

小野小町は男だった⑨ 関寺小町『小野小町は織姫と習合されている?』  より続く

①百夜通い

3月の終わりごろ,随心院では遅咲きの梅・はねずの梅が満開となり、梅園のかたわらでは童女たちによって『はねず踊り』が奉納される。

随心院は小野小町の邸宅があった場所だと伝わり、小町を慕う深草少将が百夜通いしたという伝説が残る。
『はねず踊り』はこれを題材としたものである。

深草少将の百夜通い伝説は随心院だけでなく、各地にある。
その一般的なあらすじは次のようなものだ。

小町を慕う深草少将に小町は「百日間私のもとに通いとおしたならば、あなたのものになりましょう」と約束をする。
深草少将は毎夜小町のもとに通い続けるが、今日で100日目という雪の夜に凍えて死んでしまう。


随心院に伝わる百夜通い伝説はこれとは少し異なっている。

99日目に小町は「1日足りないがまあお入り」と扉を開ける。
するとそこに立っていたのは深草少将ではなく別人だった。
深草少将は毎日熱心に小町のもとへ通っていたのだが、その日に限って代理人をたてていたのだった。


髄心院 梅

髄心院 梅園

②お百度参り

小町伝説の『百夜通い』という発想はどこからくるのだろうか。
友人に質問してみたところ「お百度参りと関係があるのではないか。」とアドバイスしてくれた。

お百度参りは現在では1日に百度参るというスタイルをとるのが一般的だが、もともとは100日間毎日参拝するというのが正式な作法だった。

『吾妻鏡』には『1189年奥州追討を祈願して御台所御所中の女房数名に鶴ヶ岡八幡宮にお百度参りをさせた』という記述があり、1189年にはお百度参りをする習慣があったことがわかる。

小野小町が活躍したのはこれよりももう少し早い平安時代前期だが、すでにお百度参りの習慣があった可能性はないとはいえない。
またお百度参りの習慣が生じたのちの時代に『百夜通い伝説』が、創作された可能性もある。

ところが深草少将は99日目で死んでしまったり、代理人をたてたりしたため、お百度参りは達成できなかったということだろうか?

髄心院 総門 桜

髄心院 桜

③重陽

このように深草少将は99に縁の深い人である。
そして小野小町は100と縁が深く、たとえば関寺小町では百歳の老婆として登場している。

しかし小町は100だけではなく99とも関係がある。

というのは、伊勢物語に「九十九髪」の段があり、次のような物語が記されているのだ。

昔、色気づいた女が三人の子に「思いやりのある男にお会いしたい」と話した。
三男は「よい男が現れるでしょう」と夢判断をし、在五中将(在原業平)に頼み込んだ。
在五中将は女をかわいそうに思ってやってきて寝た。
しかしその後、在五中将は女のもとへやってこなくなり、女は男の家に行って中を伺った。
男は女をちらっとみて歌を詠んだ。

ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)

その後、男がでかけようとしたので、女は家に戻って横になった。
在五中将が女の家の前で中を伺うと、女は次のように歌を詠んだ。

さむしろに 衣かたしき こよひもや こひしき人に あはでのみねむ  
(狭いむしろに衣を一枚だけ敷き、今宵も恋しい人に会えずに寝るのだろうか。)

在五中将は女がかわいそうになり、その夜は女と寝た。 (伊勢物語)

※伊勢物語には単に「色気づいた女」とあるが、伊勢物語の注釈書・『知顕集)』には次のように記されている。
「このをんなは、をののこまちなり。小野小町とふ、こまちには子ありともきかぬに、三人ありといへり。いかなる人の子をうみけるぞや、おぼつかなし。」
(この女は小野小町である。小野小町に子供があったとは聞いたことがないが、三人の子がいるとしている。どんな人の子を産んだのか、はっきりしない)
  

九十九は「つくも」と読むが、「つくも」とは「つぎもも(次百)」という意味である。
100ひく1は99となるが、百ひく一は白となるので九十九髪とは白髪のことであるという。
なかなか洒落た表現である。

さらに十(じゅう)の音は重(じゅう)に通じるので、九十九は九重九という意味なのではないだろうか。
九重九とは九に九を重ねるということで、重陽を意味しているのではないか。
重用とは9月9日のことで、9がふたつ重なるので重陽の節句と言われている。

法輪寺 菊の被綿 

菊の被綿(法輪寺)
重陽の節句の前夜、菊の花に綿をかぶせ、翌朝、綿についた雫で体を撫でると長寿になると言われている。

陰陽道では奇数は陽、偶数は陰の数字とされていた。
そして月と日が同じ一桁の陽の数字の日は陽+陽=陰になると考えられて避邪の行事が行われていた。
月と日が同じ一桁の陽の数字の日とは、1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日だが、1月1日は元旦で特別な日だとされたためか、この日は外され1月7日とされた。
すなわち1月7日(七草の節句)・3月3日(桃の節句)・5月5日(菖蒲の節句)・7月7日(笹の節句)・9月9日(菊の節句)が五節句とされた。
五節句は、しだいに避邪の行事という意味合いが薄れ、おめでたい日として祝われるようになっていった。
特に9月9日は一桁の奇数としては最も大きい数字であるので重陽の節句ともいわれ、大変おめでたい日とされた。

法輪寺 菊滋童の像

菊滋童の像(法輪寺)


重用の節句は菊の節句とも呼ばれるが、これは旧暦の9月9日ごろは菊が見ごろを迎える時期であるというだけの意味ではないだろう。
日本神話に菊理媛神という女神が登場するが、菊理媛神はククリヒメノミコトと読む。
つまり、菊とはククで、ククは九九で重陽につながるのである。

また妙性寺縁起(小野小町の謎⑦ 妙性寺縁起)では、小町は次のような歌を詠んだことになっている。
九重の 花の都に住まわせで はかなや我は 三重にかくるる
(九重の宮中にある花の都にかつて住んだ私であるが、はかなくも三重の里で死ぬのですね。)


ここに九重とでてくる。
九重とはいくえにも重なっている様子を意味する言葉で、また宮中を意味する言葉でもあった。
さらに九重とは九が重なるということで、重陽を意味しているのではないだろうか。

木地師資料館 惟喬親王像2 

木地師資料館の惟喬親王像

●惟喬親王と菊

小野小町の謎② 六歌仙は怨霊だった。において、私は次のようなことを書いた。

「惟喬親王は文徳天皇の長子で母親は紀静子だった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考え、これを源信に相談したが、源信は当時の権力者・藤原良房に憚ってこれをいさめた。
結局、惟喬親王を皇太子にしたいという文徳天皇の希望はかなえられず、藤原良房の娘・明子との間に生まれた惟仁親王が立太子し、8歳で即位した。
世継ぎ争いに敗れた惟喬親王はたびたび歌会を催した。
その歌会のメンバーの中に、在原業平・僧正遍照・、紀有恒(紀名虎の息子。喜撰法師は紀名虎または有常のことではないかといわれている。)らの名前がある。
彼らは惟喬親王をまつりあげ、歌会と称してクーデターを企てていたのではないかとする説もある。」
と。

ろくろ

ろくろ 木地師の里(滋賀県東近江市蛭谷)

惟喬親王は巻物が転がるのを見て木地師の用いる轆轤を発明したという。
滋賀県東近江市の大皇器地祖神社(おおきみちそじんじゃ)ではこの惟喬親王を木地師の祖として祀っている。
そしてこの大皇器地祖神社のある小椋の里の木地師は十六弁の菊の紋章の使用を許されている。
なぜ彼らは十六弁の菊の紋章の使用を許されたのだろうか。
それは彼らが木地師の祖として祀る惟喬親王が菊に縁の深い人物であるからではないだろうか。

大皇器地祖神社

大皇器地祖神社

惟喬親王は京都の法輪寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説があるのだが、この法輪寺では9月9日に重陽神事を行っている。

法輪寺の重陽神事ではたくさんの菊が飾られ、菊のしずくを飲んで800年の長寿を得たという菊滋童の舞が行われた。
 
法輪寺 重陽神事2

菊滋童の舞 (法輪寺 重陽神事)
 
菊滋童と惟喬親王のイメージが重なっていく。
●菊野大明神

京都市中京区河原町通二乗上ル清水町に法雲寺という寺がある。
高層ビルの谷間にあってお世辞にも風情があるとはいえないこの寺の境内に菊野大明神が祀られている。

菊野大明神

ご神体は深草少将が腰掛けたという石だと聞いたのだが、柵で囲まれているので御神体の石がどこにあるのかわからなかった。

深草少将は99日目の夜に死んでしまい、深草少将腰掛石にはその恨み籠もっているので男女の仲を裂くといわれている。
京都では婚礼の時には決して菊野大明神の傍を通らないという。
また縁切りのご利益があるということで、離婚や禁煙を祈願する人も数多く参拝する。

惟喬親王を祀る大皇器地祖神社の氏子である小椋の里の木地師は十六弁の菊の紋章の使用を許されていた。
また惟喬親王の伝説が残る京都法輪寺では重陽神事が行われ、菊滋童の舞が奉納されている。
このように惟喬親王は菊と関係が深いように思われる。

深草少将腰掛石がある神社を菊野大明神というのは、深草少将のモデルが惟喬親王であるからではないのだろうか。

惟喬親王は小野宮と呼ばれており、また小野の里に隠棲するなど、小野小町とは関係が深いように思われる。
井沢元彦氏は小野小町は惟喬親王の乳母ではないかとしておられるが、そうではなく惟喬親王は深草少将のモデルで、小野小町とは惟喬親王が恋い慕った女性のことなのではないだろうか?

次回、これについてもう少し詳しく考えてみたい。

法輪寺 重陽神事4


菊滋童の舞 (法輪寺 重陽神事)



小野小町は男だった⑪ 深草少将は紀氏だった? へつづく~
トップページはこちら → 小野小町は男だった① 小野小町はなぜ後ろを向いているのか 

 
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[2017/06/05 10:05] 小野小町は男だった | トラックバック(-) | コメント(-)

小野小町は男だった⑨ 関寺小町『小野小町は織姫と習合されている?』 

 
白峯神宮 小町踊2

白峯神宮 小町踊


小野小町は男だった⑧ 雨乞い小町 『小野小町は弁財天・イチキシマヒメ・善女竜王と習合されている。』 よりつづく

●七夕と小町踊り

七夕の夕暮れ、星を祭る関寺の境内で小野小町は自分の若き日の思い出を歌いながら舞った。
小町は百歳を越えた老女となっており、人々は絶世の美女の変わり果てた姿を憐れに思う。
(謡曲『関寺小町』)


関寺小町では七夕の日に小町が舞を舞うという話になっているが、七夕と小町は関係が深い。
前回の記事 においても小町が
千早振る 神も見まさば 立ちさわぎ 天のと川の 樋口あけたべ
と歌を詠んでいることを紹介した。
天のと川とは「天の川」のことであり、七夕には牽牛と織姫が1年に1度の逢瀬を楽しむとされている。

かつて七夕の日には童女たちが歌を歌いながら路地で小町踊を踊る習慣が各地にあった。
現在では路地で小町踊を踊る風景は見られなくなったが、京都の白峯神宮では七夕の日に小町踊の奉納がある。
童女たちは頭には紫色のターバンを巻き、着物の片袖を脱いで、太鼓や鉦をたたきつつ輪になって踊る。
化粧をほどこした童女たちの表情はときどき大人っぽく見え、妙に色っぽかったのを思い出す。

白峯神宮 小町踊3


白峯神宮 小町踊

太鼓や鉦をたたきつつ輪になって踊るというのは念仏踊りである。
小町踊は念仏踊の一種なのである。

念仏踊とは南無阿弥陀仏と唱えつつ太鼓や鉦をたたいて踊るというもので、平安時代の僧・空也が始めたとされる。
空也は南無阿弥陀仏と唱えさえすれば誰でも極楽浄土へ行けると説いた。
つまり念仏踊とは死者を極楽浄土へ送り届けるための踊りであり、念仏踊の一種と思われる小町踊もまた死者を極楽浄土へ送る踊りだといえるだろう。

空也堂 歓喜踊躍念仏

空也堂 空也踊躍念仏

●七夕は荒霊と和霊を和合させる神事である。

七夕伝説は中国から伝わったものである。

天の川の西は天人の世界であり、天帝には働き者の娘・織姫がいた。
織姫は化粧もせずに機織ばかりしているので、天帝は嫁に行けないのではないかと心配になった。
そこで、天の川の対岸(東)で牛の世話をしていた働き者の牽牛と結婚させた。
ところが織姫と牽牛は新婚生活が楽しくて仕事をしなくなってしまった。 
見かねた天帝はふたりを天の川の西と東に引き離した。
しかし、年に一度、7月7日だけは、かささぎの群れが天の川に橋をかけてくれて、ふたりは逢瀬を楽しむ。


織姫星とは「こと座」の一等星・ベガ、牽牛星は天の川を挟んでベガの対岸にある「わし座」の一等星・アルタイルのことである。

旧暦ではお盆は7月15日を中心とした行事であり、7月7日はお盆の入りの行事であった。
お盆にはは地獄の釜の蓋が開き、お精霊さん(先祖の霊)があの世からこの世へ戻ってくると考えられた。
そんなお盆の入りの行事がなぜ七夕なのだろうか。
七夕は織女と牽牛が1年に1度逢瀬を楽しむというが、ふつうに考えると、何も先祖の霊が戻ってくるお盆の時期に逢引しなくてもよさそうなものだ。

神はその現れ方によって御霊(神の本質)、荒霊(神の荒々しい側面)、和霊(神の和やかな側面)に分けられるという。
そして荒霊は男神、和霊は女神とする説がある。
とすれば、御霊とは男女双体である。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体
荒霊・・・神の荒々しい側面・・・男神
和霊・・・神の和やかな側面・・・女神


日本では古くから神仏は習合して信仰されていたが、仏教の神(みほとけ)・大聖歓喜天の説話はこの概念を表したものだと思う。

鬼王ビナヤキャの祟りで国中に不幸な出来事がおこった。
そこで十一面観音はビナヤキャの女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われた。
ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、『自分のものになれ』と命令した。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓った。 


双身歓喜天像の相手の足を踏みつけているほうが、十一面観音菩薩の化身ビナヤキャ女紳とされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%93%E5%96%9C%E5%A4%A9#mediaviewer/File:Icon_of_Shoten.jpg



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

(詳しくはこちらをお読みください。→ 小野小町は男だった⑥ 小野小町は衣通姫の流なり 『小野小町は和魂だった?』※書き直しました。 

男神は荒霊、女神は和霊であり、男女和合は荒霊を御霊に転じさせる呪術であったと私は思う。

お盆には死んだ人の霊が戻ってくると考えられたが、その中には恨みを抱いて死んでいった人の霊もある。
恨みを抱いて死んだ人の霊は、死後、怨霊となって祟ると考えられていた。
怨霊は荒霊と言ってもいいだろう。

そこでそのような荒霊がこの世に戻ってきて、祟らないように、女神と和合させる必要があると考えられたのではないだろうか。

お盆にこの世に戻ってくる荒霊の代表が牽牛、荒霊と和合する和霊が織姫というわけである。

河治温泉 道祖神 
河治温泉 道祖神 (道祖神は歓喜天と習合されているのではないだろうか。)

●牽牛とは艮(丑寅)=鬼である。

牽牛という名前は大変興味深い。
牽牛とは「牛を牽く人」という意味だが、牽牛はまだ年の若い青年のようなので童子と言ってもいいかもしれない。
すると牽牛は「牛を牽く童子」という意味になるが、「牛を牽く童子」とは干支の艮(丑寅)を表すものである。
牛は丑、童子は八卦では艮(丑寅)をあらわしている。

葵祭 斎王代列 牛車

葵祭 牛を牽く童子

かつて宮中では大寒の日に牛を牽く童子の像を諸門に置き、節分の日に撤去するということが行われていた。

牛は干支の丑で12か月では12月を表す。
童子は干支の艮(丑寅)で丑は12月、寅は1月なので1年の変わり目を表す。
そしてかつては旧暦と二十四節気という二つの暦を併用していたのだが、節分とは二十四節気の立春の前日のことであった。
二十四節気では立春が正月となり、また旧暦の正月ともだいたい同時期であった。
大寒の日に牛を牽く童子の像を諸門に置き、節分の日に撤去するというのは、目には見えない1年の移り変わりを視覚化したものであったのである。

飛鳥坐神社 おんだ祭 田おこし

飛鳥坐神社 おんだ祭 
丑を牽いて田を耕す天狗は牽牛でもあると思う。
そのあとおかめが登場して夫婦和合のしぐさが演じられる。おかめは織姫だろう。


飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言 天狗とおかめ

飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言

そして丑寅は方角では東北で東北は鬼の出入りする方角、鬼門として忌まれた。
また吉備津彦が退治した温羅という鬼は「丑寅御前」とも呼ばれており、丑寅は鬼そのものを表す言葉でもあった。

石清水八幡宮 鬼やらい神事-豆まき

石清水八幡宮 鬼やらい神事
鬼の角は牛(丑)を、パンツは虎(寅)をあらわすといわれる。


ということは、牽牛=牛(丑)をひく童子(丑寅)=鬼となる。
牽牛とは鬼であったのだ。
鬼とは荒霊であるといってもいいだろう。

白峯神宮 織物の道具

白峯神宮にて

織姫は織物を得意としているが、織物とは経糸と横糸を絡み合わせることによってつくられる。
「ダビンチ・コード」には、男は記号Λ、女は記号∨であらわされると記されてあったが、これと同様に経糸は男、横糸は女性で織物とは男女和合を表すのではないだろうか。
そして織姫とは荒霊である男神と和合することで荒霊を御霊に転じさせる女神という意味ではないかと私は考えている。

●小野小町の男性遍歴

小野小町の謎⑥ 小野小町は衣通姫の流なり において私は猿田彦と天鈿女は大聖歓喜天と習合されており、天鈿女は性の女神であると言った。
天鈿女は猿田彦神に会ったときには、胸を開き、腰紐をずらしている。
天鈿女はビナヤキャ女神のように性的に猿田彦神を誘惑しようとしたのだ。
また天照大神が天岩戸に籠ったときにはストリップダンスをして神々を笑わせている。

小野小町は天鈿女同様、性の女神である。
小野小町は性的に不能であったという伝説もあるので、矛盾するが、なぜ伝説に矛盾が生じているのかについての考察はあとですることにして、今回は小町が性の女神であるということの証拠をあげておきたい。

六歌仙の一に僧正遍照があるが、小野小町は遍照と次のように歌のやりとりをしている。

岩のうへに 旅寝をすれば いとさむし 苔の衣を 我にかさなむ/小野小町
(石上神社の岩の上で旅寝をするととても寒いのです。あなたの苔の衣を貸していただけませんか。)

世をそむく 苔の衣はただ一重 かさねばうとし いざふたり寝む/遍照
(世の中と縁を切るための法衣はたった一重です。しかし貸さないというのも気がひけます。さあ、二人で寝ましょう。)


小町はもうひとりの六歌仙の一、文屋康秀も誘惑している。

文屋康秀が三河国に左遷となったとき、小町に「一緒に田舎見物に行きませんか。」と誘ったとき、小町は次のような歌を詠んでいるのだ。

わびぬれば 身をうき草の 根をたえて さそふ水あらば いなむとぞ思ふ
(侘び暮らしをしていたので、我が身を憂しと思っていました。浮草の根が切れて水に流れ去るように、私も誘ってくれる人があるなら、一緒に参ります。)


誘ったのは文屋康秀であるが、小町は「一緒に行く」と答えている。
女にこんな返事をされたならば、大抵の男は「女は自分に気がある」と考えて嬉しくなってしまうのではないだろうか。

小野小町が誘惑した男性には小野貞樹もいる。

今はとて わが身時雨に ふりぬれば 言の葉さへに うつろひにけり/小野小町
(今はもう、時雨が降って色が褪せた樹々のように、我が身も涙に濡れて色褪せてしまいました。あなたが昔約束して下さった言の葉さえも変わってしまいました。)

人を思ふ こころ木の葉に あらばこそ 風のまにまに 散りもみだれめ/小野貞樹
(人を思う心が木の葉のように変わってしまうのなら、風が吹くままに散り乱れるでしょう。
しかし私があなたを思う気持ちは散り乱れたりはしません。)


また伊勢物語に次のような話がある。

昔、色気づいた女が、思いやりのある男に逢うことができたらなあと思い、三人の子に話をした。
二人の子はまともに取り合わなかったが、三男は「よい男が現れるでしょう」と夢判断をした。
さらに三男は在五中将(在原業平)に頼み込んだので、在五中将は女をかわいそうに思ってやってきて寝た。
しかしその後、在五中将は女のもとへやってこなくなったので、女は男の家に行って中を伺った。
男は女をちらっとみて歌を詠んだ。


ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)


そして男はでかけようとしたので、女は家に戻って横になった。
在五中将は女の家の前で中を伺うと、女は次のように歌を詠んだ。


さむしろに 衣かたしき こよひもや こひしき人に あはでのみねむ
(狭いむしろに衣を一枚だけ敷き、今宵も恋しい人に会えずに寝るのだろうか。)


在五中将は女がかわいそうになり、その夜は女と寝た。

伊勢物語には単に「色気づいた女」とあるが、伊勢物語の注釈書・『知顕集)』には次のように記されている。

このをんなは、をののこまちなり。
小野小町とふ、こまちには子ありともきかぬに、三人ありといへり。
いかなる人の子をうみけるぞや、おぼつかなし。
(この女は小野小町である。小野小町に子供があったとは聞いたことがないが、三人の子がいるとしている。
どんな人の子を産んだのか、はっきりしない)


九十九髪というのは謎々である。
九十九は「つくも」と読むが、「つくも」とは「つぎもも(次百)」の意味である。
そして百から一を引くと白になるので、九十九髪とは白髪という意味である。

在原業平にセックスを迫ったとき、小町は高齢であったが、業平は小町を同情して関係をもったというのである。

髄心院 小野小町像 

髄心院に展示されていた小野小町像

●小野小町は荒霊(男神)と和合することで御霊に転じさせる女神

僧正遍照・文屋康秀・在原業平は六歌仙のメンバーであり、六歌仙は怨霊だと考えられる。

小野貞樹は石見王の子であると言われている。
石見王とは、長屋王の孫・磯部王と淳仁天皇の娘・安倍内親王の間に生まれた皇族である。
長屋王は長屋王の変で自殺した人物、淳仁天皇は藤原仲麻呂の乱に関与したとして称徳天皇に退位させられ淡路に流罪となった人物である。
経歴だけを聞いても、大変政治的に不幸な人物で、死後怨霊になるにふさわしい人物だといえるだろう。

そして小野小町は彼らと和合することで荒霊(男神)を御霊に転じさせる役割を担った和霊(女神)なのである。

つまり、実際に関係をもったというよりは、男たちが死後に怨霊となったと考えられたため、後世の人が小町という女神と和合させようとして物語を創作し、また怨霊となった男たちの身になって和歌を詠んだのではないかと私は思う。

髄心院 小野小町

ライトペインティングのジミー西村さんと織物会社が共同制作した小野小町のタペストリー(髄心院)



小野小町は男だった⑩ 百夜通い 『深草少将・小野小町・惟喬親王に共通する九十九のイメージ』 へつづく~
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[2017/05/28 09:34] 小野小町は男だった | トラックバック(-) | コメント(-)

小野小町は男だった⑧ 雨乞い小町 『小野小町は弁財天・イチキシマヒメ・善女竜王と習合されている。』 

神泉苑 躑躅

神泉苑 つつじ

小野小町は男だった⑦ 妙性寺縁起 『語呂合わせで神格が変わる神』  よりつづく 

①雨乞小町

神泉苑には小野小町の雨乞い伝説が伝えられている。

京の都の神泉苑で小野小町が雨乞いをし、見事雨を降らせた。
その雨乞いのために詠んだのが次の歌とされる。

ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとては 又天が下とは
(道理であるなあ、この国を日本と呼ぶならば、日が照りもするだろう、しかしそうは言っても、又、天(雨)の下とも言うではないか。だから、雨を降らせてください。)

また
千早振る 神も見まさば 立ちさわぎ 天のと川の 樋口あけたべ
(神様、日照りを御覧になったなら、大急ぎで天の川の水門を開けて下さい。)

という歌を詠んだとも伝わる。

神泉苑 つつじ 

神泉苑 つつじ

②語呂合わせは言霊信仰の一種だった。

日本には古くから言霊信仰があった。
言霊信仰とは「口にした言葉は実現する力を持っている」とする考え方のことである。

山岸凉子先生の漫画『テレプシコーラ』では鳥山先生が拓人に言霊信仰について教えるシーンがある。

「いつもダメだ。できない。」と言っていると本当にできなくなる。意地でも「できる。」というべきだ。

いわゆるポジティブ・シンキングというやつである。
鳥山先生が言っていることは確かに正しい。

しかし、私はもともとの言霊信仰はポジティブ・シンキングではなく、まじないだったのではないかと考えている。
すなわち「雨が降る」と言葉にすれば本当に雨が降り、憎い相手に「死ね」といえば本当に死ぬ、ということである。

しかしあまりにストレートすぎるまじないは神様のお気に召さなかったのかもしれない。
また、和歌による呪術は他人に気づかれないように行う必要があったからかもしれない。

小町は掛詞、縁語、もののななどのテクニックを用いて、他人に気付かれないよう、またひとひねりして神様が「おお!」と感嘆するような呪術をかけようとしたようである。

ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとては 又天が下とは
(道理であるなあ、この国を日本と呼ぶならば、日が照りもするだろう、しかしそうは言っても、又、天(雨)の下とも言うではないか。だから、雨を降らせてください。)


日本→日の本(元)→日が照る。
天下→天は「あめ」とも読む→「あめのした」→「雨の下」→雨が降る。

語呂合わせが面白く、現代人が聞いても「おお!」と感嘆してしまう。

和歌の掛詞や縁語、もののななどの技法は、和歌の技法であると同時に、言霊信仰によるまじないの技法でもあったのではないだろうか。

大蓮寺 蓮 雨

大蓮寺 雨

千早振る 神も見まさば 立ちさわぎ 天のと川の 樋口あけたべ
(神様、日照りを御覧になったなら、大急ぎで天の川の水門を開けて下さい。)


こちらの方の歌は語呂合わせ+アルファのユーモアで神に雨を降らせようとしている。

旧暦の7月は梅雨があけるころのことである。
7月7日は七夕で、織女と牽牛が天の川にかかるかささぎの橋を渡って逢瀬を楽しむ、と言われている。

このごろは都会の夜は明るすぎて天の川はほとんど見えないが、私が子供のころは都会でも天の川が見えていた。
昔の人は梅雨が明けて天の川が見えてくると、そろそろ七夕の季節だな、と感じたことだろう。

小町は『天の川』というネーミングに注目し、これを語呂合わせで『雨の川』とした。
そして天の川=雨の川の出口をあければ雨が降る、と洒落たわけである。

白峯神宮 小町踊2

白峯神宮 七夕の笹飾りと小町踊

③神泉苑の雨乞い伝説

神泉苑で雨乞いをしたと伝わる人物は小野小町だけではない。
空海や静御前も神泉苑で雨乞いをしたと伝わっている。
どうやら旱魃には神泉苑で雨乞いをする習慣があったらしい。

中でも空海と守敏(しゅびん)の「降雨祈願法力争い」は有名である。

まず守敏が祈願法力で雨を降らせたが、雨は僅かな量しか降らなかった。
次に空海が降雨祈願を行うが、雨を降らす竜神は守敏の呪術で封じ込められていた。
これに気付いた空海は、善女竜王が天竺にいることを突き止め、京に導いた。
こうして京の都に雨が降った。


神泉苑の法成就池にかかる法成橋を渡った小島にお堂があり、ここに善女竜王が祀られている。
そして神泉苑の池のほとりには弁天堂がある。
弁天堂は七福神の一柱・弁財天を祀る堂であるが、弁財天はもとはインドのサラスパティーという水の神であった。
どちらも同じ水の神であるところから、弁財天と善女竜王は習合されたようである。

1182年の旱魃の際には、朝廷は100人の舞姫を神泉苑に集めて雨乞いをさせた。
雨乞いの場所として神泉苑を選んだのは、空海が雨乞いをした際に天竺からやってきた善女竜王が神泉苑の法成就池に住んでいると伝えられていたからである。

99人の舞姫が雨乞いの舞を舞っても雨は降らなかったが、最後に静御前が後白河法皇から賜った蛙蟆龍(あまりょう)の錦の舞衣を着て、しんむじょうという曲を舞うと、愛宕山の方向に黒い雲が涌き出し、雨が降った。
雨は三日間降り続き、都は旱魃からすくわれた。
後白河法皇は静を「日本一」と称した。


小野小町は和歌によって雨を降らせたが、静御前は舞うことによって雨を降らせている。
舞もまた和歌と同様、呪術の道具であったようである。

下鴨神社 名月管絃祭 白拍子

下鴨神社 名月管弦祭 白拍子の舞(静御前は白拍子だった。)

④雨を降らせる神は女神である。

神泉苑で雨乞いを行ったのは、空海・小野小町・静御前で、空海のみ男性である。
しかし空海は善女龍王を勧請することで雨を降らせたのであり、実際に雨を降らせたのは善女龍王である。
従って、雨を降らせる神は女神だといえるだろう。

神泉苑の法成就池だけでなく、池や湖、川や海のほとりには弁財天やイチキシマヒメ、善女竜王など女神が祀られることが多い。

陰陽思想でも、男性や晴は陽で、女性や雨は陰とされている。
天体性別天気
太陽(日)


小野小町が神泉苑で雨乞いをしたという伝説は、小野小町が弁財天・イチキシマヒメ・善女竜王と習合されている(同一視されている)ことを示すものだろう。

大覚寺身振り狂言 十王堂2jpg 
大覚寺身振り狂言 十王堂 (向かって左、オレンジ色の着物を着ているのが弁才天)


小野小町は男だった⑨ 関寺小町『小野小町は織姫と習合されている?』 へつづく~
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[2017/05/24 11:01] 小野小町は男だった | トラックバック(-) | コメント(-)
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