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私流 トンデモ百人一首7番 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 『安倍仲麻呂と光明皇后のスキャンダル?』 

小倉百人一首 7番

あまの原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも/ 阿部仲麻呂

(夜空を仰ぎ見ると月が出ていた。奈良の都で三笠の山から上る月と同じ月なのだなあ。)


浮見堂より三笠山を望む

浮見堂 三笠山 百日紅
向かって右の濃い緑色に見える山が三笠山


①阿部仲麻呂、帰京の喜びを詠む。

717年、第9次遣唐使が派遣されることになり、遣唐使に選ばれた人々は春日大社の背後にある三笠山(御蓋山)の麓で航海の無事を神に祈り、唐へ向かって出発した。
三笠山は遣唐使として出立する人々が航海の安全を祈る場所だったのである。
遣唐使の中には阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉らがいた。

735年、吉備真備・玄昉らは帰国しましたが、阿倍仲麻呂は唐で役人になって帰ってこなかった。

752年、孝謙天皇(光明皇后の娘)は第12次遣唐使を派遣し、次のような歌を詠んだ。

四つの船 早帰り来と しらかつく 我が裳の裾に 鎮ひて待たむ
(四隻の船よ、早く帰ってくるように。しらかをつけたこの我が裳の裾に祈りをこめて待っています。)

※しらか/麻やこうぞを細く裂いて幣帛としたもの

また、孝謙天皇の母親の光明皇太后(光明皇后)も入唐大使・藤原朝臣清川に次のような歌を贈っている。

大船に 真楫しじ貫き この吾子を 唐国へ遣る 斎へ神たち
(大きな船にたくさんの櫂を取り付けて、わが子を唐へ遣わします。神々よ、護り給え。)


※藤原清川は光明皇太后の甥で子ではない。
光明皇太后は国家の皇太后という立場からが清河を『この吾子』と表現したと考えられている。

遣唐使たちを乗せた船は無事唐へ到着し、翌753年、阿倍仲麻呂は藤原清川の船に乗って日本に帰ることになった。
日本に帰国する前日、唐の役人たちは仲麻呂との別れを惜しんで宴を開いた。
その席で仲麻呂が詠んだのが、百人一首7番である。

あまの原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも
(夜空を仰ぎ見ると月が出ていた。奈良の都で三笠の山から上る月と同じ月なのだなあ。)


ところが、仲麻呂が乗った船は暴風雨に会って長安に戻り、仲麻呂は日本に帰れないまま、唐で没した。

奈良瑠璃会 遣唐使船

②暗闇を照らす光、光明は月?

阿部仲麻呂が詠んだ「三笠の山」は「遣唐使として出立する人々が航海の安全を祈る場所」であり、その場所で孝謙天皇と光明皇太后が遣唐使船の無事の帰国を願う歌を詠んでいることに注意してほしい。

「暗闇を照らす光」のことを光明という。
暗闇を照らす光とは月のことで、阿倍仲麻呂の歌にある「月」とは光明皇太后のことではないだろうか。

阿倍仲麻呂が唐へ行った翌年、光明皇后(光明皇太后)が聖武天皇の皇女・阿倍内親王(孝謙天皇)を出産しているのが気になる。

浮見堂 ライトアップ

③孝謙天皇は阿部氏と関係が深い?

孝謙天皇は阿倍内親王という名前であったが、この名前は阿倍氏と関係の深い人物であったところからつけられたのではないだろうか。

『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』には、孝謙天皇(称徳天皇)は蝦夷の安倍一族の出身であり、あるとき朝廷軍は蝦夷軍に大敗し、それによって蝦夷の安倍氏の血を引く彼女が次期天皇になると取り決められたと記されている。

正史では孝謙天皇は聖武天皇の皇女で母親は光明皇后(=光明皇太后)となっているが。

東日流外三郡誌は後世に作られた偽書とされているが、気になる記述である。
正史は為政者の都合のいいように書き換えられている可能性もある。

阿倍仲麻呂は安倍仲麿とも記される。
阿倍内親王は聖武天皇の皇女とされているが、本当の父親は阿倍仲麻呂なのではないか?
第12次遣唐使は阿部仲麻呂を日本に帰国させる目的で派遣されたのではないか。
孝謙天皇(阿部内親王)と光明皇太后は父または愛しい男を迎える喜びをこめて①の歌を詠んだように思えてならない。

だとすると阿倍仲麻呂が唐にとどまって日本に帰ってこなかったのは、聖武天皇の妻である光明皇太后を孕ませてしまったためではないか、などと考えてしまう。
遣唐使派遣は体のいい流罪だったのではないかということである。
阿倍内親王が生まれたのは阿倍仲麻呂が唐へ旅立った翌年なので、時期的にもあう。

④孝謙上皇(淳仁天皇に譲位していた。)は藤原仲麻呂の新羅の討伐に反対したのはなぜ?

758年ごろ、孝謙上皇(淳仁天皇に譲位していた。)は藤原仲麻呂の新羅の討伐に反対し、これによって新羅討伐は実現しなかった。
孝謙上皇が新羅討伐に反対したのは、まだ帰国しない父・阿倍仲麻呂の身を案じたためではないだろうか。

春日大社 萬灯篭2
春日大社 萬灯篭  春日大社の背後に三笠山はある。


717年 第9次遣唐使が派遣される。
    阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉ら、三笠山の麓で航海の無事を祈って唐へ出発。
718年 阿倍内親王誕生(父/聖武天皇、母/光明皇后・・・ということになっている。)
735年 吉備真備・玄昉らは帰国。阿倍仲麻呂は唐で役人になって戻らず。
749年 阿倍内親王、即位して孝謙天皇となる。
752年 孝謙天皇(阿部内親王)は第12次遣唐使を派遣。「早く帰ってくるように」と歌を詠む。
    光明皇太后も「神よ、遣唐使船をお守りください」と歌を詠む。
    安倍仲麻呂、帰国にあたり三笠山に出る月を懐かしむ歌を詠む。
    帰国する遣唐使船に乗船するが暴風雨にあって日本にもどれず。
758年 孝謙天皇、淳仁天皇に譲位。
    孝謙上皇、藤原仲麻呂の新羅征伐に反対。実現せず。
770年 阿倍仲麻呂、ベトナムで死亡。





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[2019/02/17 18:00] 私流 トンデモ百人一首 | トラックバック(-) | コメント(-)

私流 トンデモ百人一首 1番 秋の田の  『埋葬されないわが身を嘆く歌』 

近江神宮 かるた祭
近江神宮 かるた祭
近江神宮では天命開別大神(あめみことひらかすわけのおおかみ=天智天皇)を祀っています。


小倉百人一首1番 
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ/天智天皇
(秋の田の仮小屋の屋根の苫(むしろ)が荒いので、私の衣のそでは梅雨に濡れてしまったことだ。)


①「秋の田の・・・・・」は天智天皇が詠んだ歌ではなかった。

天智天皇は飛鳥時代の人物で、万葉集に4首の歌が残されている。
しかし「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は万葉集にはない。
この歌は958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されている。

万葉集には「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」という読人知らずの歌が掲載されており
その内容から農民が詠んだ歌だと考えられている。

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないが、天智天皇の心を表す歌であるとして、撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられている。

近江神宮 紅葉
近江神宮

②天智天皇が農民の気持ちになってそのつらさを詠んだ?

なぜ「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は、天智天皇の心を表す歌であると考えられてたのだろうか?

一般には次のように考えられている。
心優しい天智天皇が、農民の気持ちになってそのつらさを読んだと考えるにふさわしい歌であるためだと。

枚方市 穗谷 稲


③埋葬されないわが身を嘆く歌

私の考えはこれとは違う。
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」
後撰和歌集の撰者たちはこの歌を「死んだ天智天皇の霊が、埋葬されないわが身を嘆く歌」であると考えたのではないかと思うのだ。

672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。
天智天皇の皇子・大友皇子と、天智天皇の同母弟・7大海人皇子が皇位をめぐって争ったのである。
そのため、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられている。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年である。

④風葬の際にたてる庵(いおり)

古事記に、大国主神が国譲りして、「八十青柴垣(ヤソクマデ)に隠りましき」とある。
これは大国主神が風葬された様子を記したもので、古には柴を沢山立てた中に死体を葬る風葬の習慣があったと考えられている。
柴を立てた八十青柴垣はとまが粗いだろう。

万葉集に次のような歌がある。

荒磯面に いほりてみれば 波の音の 繁き浜辺を しきたえの 枕になして 荒床に 自伏す君が(柿本人麻呂)
(荒磯の上に仮小屋を作ってみると、波の音が頻繁に聞こえる浜辺を枕として荒々しい岩の床に伏している人がいる)


荒床とは、風葬するときに死体の下に敷くむしろのことである。
「荒磯の上につくったいほり(仮小屋)」とは風葬するときに死体を安置する建物のことなのではないだろうか。
すると、「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」の中にでてくる、「とまが粗くて袖が濡れてしまう庵」もまた風葬の際につくられた仮小屋を表しているように思える。

天智天皇の時代、天皇は一定期間、殯宮に安置されるのが一般的だった。
でも壬申の乱がおこったために、天智天皇には殯宮さえ作られなかったのかもしれない。

石清水八幡宮 青山祭

石清水八幡宮 青山祭 風葬のようすをあらわしたものであるともいわれている。

②天智天皇は謀反人の父親

その後、壬申の乱では天智天皇の弟の天武天皇が勝利し、天智天皇の皇子・大友皇子は自害した。
つまり大友皇子は謀反人なのである。
そして天智天皇は謀反人・大友皇子の父親である。

③天智天皇は謀反人の父親なので埋葬が許されなかった?

中国では滅んだ王朝の王の墓は暴かれたという。
百田尚樹さんは「日本では墓を暴いたりはしていない、中国人は野蛮だ」とおっしゃっていた。
しかし私は日本でも墓を暴くようなことをしていたと思う。

大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして、当時すでになくなって1か月が経過していたにも関わらず、死体が流罪にされているのだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E5%AE%B6%E6%8C%81#経歴

上記ウィキペディアによると「(大伴家持は)埋葬が許されず」と書いてあるが、いくつかの本では「家持は死体が墓から掘り出された」と書いてあった。

天智天皇も謀反人の父ということで、埋葬が許されなかった可能性がある。

④「案山子=崩え彦=山田のそほど」に重なる天智天皇のイメージ

秋の田には米を鳥害から守るために案山子が置かれる。
記紀神話に登場する久延毘古(くえびこ)という神様は案山子の神だとされる。

古事記では「久延毘古とは"山田のそほど"のことである」と記されている。
「そほど」とは「ぐっしょり濡れる」という意味である。

秋の田のかりほの庵で動くことができず(案山子は歩くことができない)、雨にぐっしょり濡れているのは案山子である。
万葉集にある「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」という歌は、案山子を詠んだ歌であるのかもしれない。

「クエビコ」は「崩え彦」で、体が崩れた男という意味である。
体が崩れているのは、死んで体が腐っているからではないか?

そういえばやいかがしといって、節分の夜、鰯の頭などを焼いて戸口に刺しておく風習がある。
その生臭い臭いで疫神を追い払うことができるという信仰によるものである。

やいかがしとかかしは似ている。

案山子の語源は「嗅がし」ではないかとする説がある。
かつて鳥獣よけになるとして、獣の肉を焼いたものを串刺しにして立てておくとことがあったそうで、そういうものも「カカシ」と呼ばれていたのだという。

天智天皇は何年も埋葬されず死体が放置されていた可能性が高い。
天智天皇の死体は腐り、うじがたかるような状態になっていたかもしれない。
それはまさしく『崩え彦』そのものである。

つまり
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」
この歌の「かりほの庵」とは風葬するときに死体を安置する粗末な建物であり、あまりに粗末であるため雨漏りがして死体がぐっしょりと濡れてしまい、「崩え彦」のような状態になっている。
それを死んだ天智天皇の霊が嘆いている歌であると後撰集の撰者たちは考えたのではないだろうか。

石上神宮付近の案山子

⑤埋葬のされ方を嘆く父娘

前回、私は持統天皇の『春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山』は『火葬されたわが身を嘆く歌ではないか、と述べた。
私流 トンデモ百人一首 2番 春すぎて 夏きにけらし 白妙の 『火葬されたわが身を嘆く歌』

持統天皇(小倉百人一首2番)は天智天皇(小倉百人一首1番)の皇女である。
つまり、天智天皇が父親で、持統天皇が娘なのである。
この親子関係のある二人が、ともに死を嘆く歌を詠んでいるというのも興味深い。




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[2019/02/16 18:00] 私流 トンデモ百人一首 | トラックバック(-) | コメント(-)

私流 トンデモ百人一首 2番 春すぎて 夏きにけらし 白妙の 『火葬されたわが身を嘆く歌』 

藤原京跡より香久山を望む

藤原京より天の香具山を望む

小倉百人一首2番

春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山/持統天皇 
(春がすぎて夏がやってきたらしい。白い衣が天の香久山に干してあるそうなので。)


①『土用の丑』から閃いたー!

旧暦では春は1月2月3月、夏は4月5月6月だった。
旧暦は新暦よりおよそ1か月遅れとなるので、持統天皇の歌は、新暦に換算すると5月ごろに詠んだ歌だと考えられる。

上の写真を撮影したのは新暦7月、土用の丑のころだったので、歌と季節がずれてしまった。
しかし、土用の丑がヒントになって、上記の持統天皇の歌を読み解くことができた。(と思うw)

陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考える。
季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水とされた。
季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまうが
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割りふられた。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にあるのである。

春・・・旧暦1月2月3月・・・・・木性   3月の終わりの18~19日間=春土用
夏・・・旧暦4月5月6月・・・・・火性   6月の終わりの18~19日間=夏土用
秋・・・旧暦7月8月9月・・・・・金性   9月の終わりの18~19日間=秋土用
冬・・・旧暦10月11月12月・・・水性   12月の終わりの18~19日間=冬土用


②春土用が過ぎて、火性の夏になってしまった。

私は「土用の丑」について調べていて、「んむむむ?」と閃いた。

持統天皇の「春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山」という歌には、もうひとつ裏の意味がかくされている!

ヒント・・・持統天皇は天皇としては初めて火葬された。

もうおわかりですね~。

「春過ぎて」は「春の土用が過ぎて」という意味だろう。
「夏」は五行説では「火性」である。
そして「白妙の衣」とは「死に装束」のことだと思う。

↓ 下の写真は千本閻魔堂狂言に登場する鬼と幽霊だが、幽霊は白い死に装束を着ている。

千本閻魔堂狂言

千本閻魔堂狂言 閻魔庁 鬼と亡者

持統天皇の歌には表の意味のほかに、
「春の土用が過ぎて、火性の夏になってしまったようです。私は天香久山に干されている死に装束をまとい、夏の火性と同じように火葬されてしまうのですね。」
という裏の意味が隠されていたのだ。(と思う。)

③蘇るためには魂の容れ物である肉体が必要?

41代持統天皇以後、42代文武、43代元明、44代元正と火葬が続いたが、45代聖武天皇以降、土葬に戻り、次に火葬されたのは8代のちの53代淳和天皇だった。
その後は火葬と土葬が入り混じっていたが、室町時代中期ごろより火葬が一般的になる。
ところが江戸時代に入ると再び土葬が復活した。

どうも天皇は火葬を嫌う傾向があるように思われる。

即身仏となるべく入定した人の目的は56億7000万年後に弥勒菩薩があらわれるとき、その聖業に参加するためであったといわれる。
干物のように干からびた死体にお湯をかけたら生き返ったというおとぎ話もある。
古の人々は、魂が復活するためには腐らない死体が必要であると考えていたのではないだろうか。

火葬して遺体がなくなってしまうともう生き返ることはできない。
そんな持統天皇を、古の人々は憐れんだのだろう。

もちろん、人間は死後に歌を詠むことはできない。
持統天皇の死後、誰かが持統天皇の身になって詠んで、持統天皇作としたか

あるいは持統天皇が生前に軽い気持ちでこの歌を詠み
「この歌を詠んだため、言霊が作用して持統天皇は火葬されてしまった」のだと世の人々が考えたのか
どちらかではないかと思う。

④香具山はカグツチの山?

天香具山は火の神・カグツチの山という意味ではないだろうか。
つまり、火葬と火の山=香久山をかけてあるのだと思うのだ。

どうやら古代人は、山や植物など、意味なく歌に用いるということをしなかったようである。
古代人はひとつの山、小さな植物にも意味をこめて歌を読んでいた可能性が高い。

飛鳥 光の大道芸

飛鳥光の大道芸

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[2019/02/15 18:56] 私流 トンデモ百人一首 | トラックバック(-) | コメント(-)

陰陽 黒と白⑳最終回 『まとめ と 神の性別を変える呪術』  

陰陽 黒と白 ⑲白髪が黒髪になった娘と白山信仰  よりつづきます~


私の陰陽についての考察は、前回まででひととおり説明を終えた。
今回は今までの話を簡潔にまとめておきたいと思う。

①獏のモデルはマレーバク?

莫(「悪い夢を食べてくれる」と信仰される伝説の動物)について、中国の文献には次のようにある。

貘屏賛・・・鼻はゾウ、目はサイ、尾は牛、脚は虎に似ている。
爾雅 釈獣・・・白豹
説文解字・・・熊に似て黄黒色、蜀中(四川省)に住む。(パンダ?)
爾雅 郭璞注・・・熊に似て頭が小さく脚が短く、黒白のまだらで、銅鉄や竹骨を食べる。
説文解字注・・・・今も四川省にいる。(パンダ?)


古代中国にはマレーバクが生息していたが、絶滅したとされる。
マレーバクの子供は黒白まだらである。



マレーバクは大人になると黒白モノトーンになり、太極図を思わせる。




Yin yang

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AYin_yang.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg よりお借りしました。
作者 Gregory Maxwell [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


太極図は白と黒の図で構成され、白は陽、黒は陰をあらわす。

古事記に次のように記されている。

昔、天地がまだ別れず、陰陽も分かれておらず、混沌として卵の中身のように固まっていなかったが、薄暗い中にきざしがあった。
やがて清らかな陽気がたなびいて天となり、重く濁った陰の気が滞って地となった。(天地開闢)


マレーバクは子供のころは黒白がまだらになっているのだが、成長すると白黒にくっきりわかれた柄になる。
この様子はまるで古事記に記された天地開闢のようである。

夢を食べる獏とはマレーバク、もしくはマレーバクをモデルとして想像されたものであり
マレーバクの白黒モノトーンの柄が太極図を思わせるため、「悪い夢(陰)を食べて、よいこと(陽)に転じさせる」と信仰されたのではないか。

貴船川 黒馬 白馬

貴船神社 白馬・黒馬の像

②陰陽の神々

白い神(陽)黒い神(陰)白黒混ざりあう神
莫(マレーバクがモデル?)
白馬(晴祈願に奉納)
陰陽では晴は陽
黒馬(雨祈願に奉納)
陰陽では雨は陰
白鳥(ヤマトタケル)
=復活した神の霊
ヤマトタケルの墓は複数ある。
=ヤマトタケルは復活した
=生霊
八咫烏
=復活しない神の霊
=死霊
八咫烏は三本足
足と書いて「たらし」と読み、三人の「たらし」を意味しているのではないか?
12代景行天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
13代成務天皇(わかたらしひこのみこと)
14代仲哀天皇・たらしなかつひこのすめらみこと)
住吉明神長足姫命
(おきながたらしひめのみこと)
=生霊
底筒男命
中筒男命
表筒男命
=死霊
底筒男命・中筒男命・表筒男命は三人の「たらし」で八咫烏ではないか?

息長足姫命の「息」は「生命」に通じる=生霊
生國魂神社生島大神(白杖代?)
=生霊
足島大神
=死霊
足島大神は三人の「たらし」で、八咫烏=景行・成務・仲哀?
(足は「たらし」と読むが、三天皇の和風諡号に「たらし」とある。)
生島大神は神功皇后(和風諡号は生長帯比売命とも書くが「息」の音は「生」に通じる。)
六歌仙小野小町 喜撰法師
(二歌仙は惟喬親王と同一人物?)
=生霊
大友黒主
(大伴家持と同一人物?)
=死霊
小野小町は九十九髪(百引く一は白→白髪→白い神)
喜撰法師は入定して腐らない(永遠の命を持つ神=生霊)
大伴家持は藤原種次暗殺事件にかかわったとして死後墓から掘り出されて流罪となった。
→腐っていた→死霊
翁・翁舞白式尉(志貴皇子)
山人/いきぼとけと読む
黒式尉(志貴皇子)
田人/種まきの所作をする
地元の伝承に翁は志貴皇子と伝えられている。
勝尾寺白髪の娘黒髪の娘
白山冠雪の白山雪が溶けた白山白山(季節によって白→黒
黒→白と変化する)

上賀茂神社 八咫烏

上賀茂神社 八咫烏を描いた提灯


③白い神は生霊(腐らない神)、黒い神は死霊(腐った神)?

小野小町と大友黒主の例をあげる。
人物腐ったか(死)、腐らなかったか(生)。陰陽白黒
小野小町(小野宮と呼ばれた惟喬親王と同一人物?)腐らなかった。(生)

惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授けられたという伝説がある。
惟喬親王は漆を飲んで即身仏となったため、このような伝説ができたのではないか。
また古の人は腐らない体を生きていると考えたのではないか。
生は陰陽道では陽陽は陰陽道では白
大友黒主(大伴家持と同一人物?)腐った。(死)

藤原種継暗殺事件に関与したとして、すでに死んでいたのだが死体が掘り出されて流罪となった。
その体は腐っていたことだろう。
古の人は腐った死体を生きていない(死)と考えたのではないか
死は陰陽道では陰陰は陰陽道では黒

加茂船屋の雛祭 六歌仙屏風 
加茂船屋 六歌仙を描いた屏風
 
向かって右上から、大友黒主・小野小町・喜撰法師、向かって左上から在原業平・遍照・文屋康秀か?


④3対1

白い神と黒い神は、3対1または1対3になっているケースがある。

白い神(陽)黒い神(陰)
白鳥(ヤマトタケル)
八咫烏
八咫烏は三本足
足と書いて「たらし」と読み、三人の「たらし」を意味しているのではないか?
12代景行天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
13代成務天皇(わかたらしひこのみこと)
14代仲哀天皇・たらしなかつひこのすめらみこと)
住吉明神息長足姫命
(おきながたらしひめのみこと)
底筒男命
中筒男命
表筒男命
底筒男命・中筒男命・表筒男命は三人の「たらし」で八咫烏ではないか?

生國魂神社生島大神(白杖代?)
足島大神
足島大神は三人の「たらし」で、八咫烏=景行・成務・仲哀?
(足は「たらし」と読むが、三天皇の和風諡号に「たらし」とある。)
六歌仙小野小町=喜撰法師=惟喬親王
大友黒主=大伴家持
翁舞白式尉(三人)黒式尉(一人)

※六歌仙のみ、3対2になっている。

神はその表れ方で、御霊・荒魂・和魂の三つに分けられるという。
三柱の神々はこれを表すものではないか。
御霊神の本質
荒魂神の荒々しい側面
和魂神の和やかな側面


小野小町像 
髄心院 小野小町像

祇園祭 黒主山 御神体

祇園祭 黒主山ご神体 大伴黒主像




⑤神の性別を変える呪術
白い神(陽)黒い神(陰)
白馬(晴祈願に奉納)
黒馬(雨祈願に奉納)
白鳥(ヤマトタケル)
ヤマトタケルが女装するシーンあり
八咫烏
八咫烏は三本足
足と書いて「たらし」と読み、三人の「たらし」を意味しているのではないか?
12代景行天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
13代成務天皇(わかたらしひこのみこと)
14代仲哀天皇・たらしなかつひこのすめらみこと)
住吉明神息長足姫命
底筒男命
中筒男命
表筒男命

底筒男命・中筒男命・表筒男命は三人の「たらし」で八咫烏ではないか?

生國魂神社生島大神=息長足姫命足島大神
底筒男命・中筒男命・表筒男命
足島大神は三人の「たらし」で、八咫烏=景行・成務・仲哀?
(足は「たらし」と読むが、三天皇の和風諡号に「たらし」とある。)
生島大神は神功皇后(和風諡号は生長帯比売命とも書くが「息」の音は「生」に通じる。)
六歌仙小野小町 喜撰法師
(二歌仙は惟喬親王と同一人物?)
大友黒主大伴家持小野小町は九十九髪(百引く一は白→白髪→白い神)
喜撰法師は入定して腐らない(永遠の命を持つ神=生霊)
翁・翁舞白式尉志貴皇子
黒式尉志貴皇子
地元の伝承に翁は志貴皇子と伝えられている。
勝尾寺白髪の娘黒髪の娘
白山冠雪の白山雪が溶けた白山

女神は赤字男神は青字性別不明の神は緑字で表した。
陰陽道で性別をいうと男が陽で女が陰だが、逆になっているケースが多い。

女神は和魂、男神は荒魂をあらわすとする説があるが、それにあわせた結果、女神が陽の神=白い神=生の神となっているのかもしれない。
また、陰陽どちらの神も男神であったり、女神であったりするケースもある。

これについては宿題としてもう少し考えてみたいが、神の性別を変える呪術の存在があったということは考えられる。

俗謡に「おまえ百までわしゃ九 十九まで、共に白髪の生えるまで」というのがある。

これは謡曲「高砂」の尉・姥からくるもので
尉が熊手をもち、姥が箒をもって掃いているのは、熊手=九十九まで、掃く(まで)=百(まで)という語呂合わせであるという。

尉・・・熊手をもつ→九十九まで→くじゅうくまで
姥・・・箒をもつ→掃く→はく→・ひゃく→百


それで「おまえ百まで、わしゃ九十九まで」と謡うのだろう。

亀岡祭 高砂山 御神体 
亀岡祭 高砂山 御神体

しかし語呂合わせはこれで終わりではなかった。
肝心なのは「共に白髪の生えるまで」のほうだと私は考える。
なぜ、「共に白髪の生えるまで」と謡うのか。

九十九髪とは白髪のことであるという。
そのココロは

百-一=九十九
百-一=白
∴九十九=白


というわけだ。うまい。座布団2枚!

また百は掃く=はくなので、はく=白に転じる。

尉・・・熊手をもつ→九十九まで→くじゅうくまで)→百-一=白
姥・・・箒をもつ→掃く→はく→・ひゃく→百→はく→白

このように、尉も姥もどちらも白になる。
それで「共に白髪の生えるまで」と謡うのではないだろうか。

さらに、尉も姥もどちらも最終的に白になるので、

尉=白
姥=白
∴尉=姥=白


こうして男神である尉は女神である姥に転じるというわけだ。

end.

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉2

奈良豆比古神社 翁舞 ↑ ↓

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉2




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[2019/02/05 11:49] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)

陰陽 黒と白 ⑲白髪が黒髪になった娘と白山信仰 

陰陽 黒と白⑱ 勝尾寺には白山信仰があった?  よりつづきます~

勝尾寺 新緑

勝尾寺

①白い神が黒い神に転じる。

大阪府箕面市の勝尾寺には次のような伝説があった。
1677年、旗本菅沼隠越中守の娘が勝尾寺の三宝荒神さまに祈願したところ、白髪が黒髪になった。

この伝説は、白い神が黒い神に転じたということを比喩的に語ったものではないかと私は考えた。

勝尾寺 紫陽花 三宝荒神社

勝尾寺 三宝荒神

②菅沼隠と菅沼集落

そして、旗本菅沼隠越中守とは
旗本・・・江戸時代の武士の身分のひとつ
越中・・・現在の富山県
守・・・・国司

である。

菅沼隠が何をあらわしているのか、わからない。
この人は越中(富山県)の国司をつとめていた人だが、富山県五箇村に世界遺産に登録されている菅沼集落がある。
合掌造りの家が数多く残っていることで有名な集落である。

菅沼とはこの菅沼集落をさしているのかもしれない。

五箇山 菅沼集落

五箇山 菅沼集落


勝尾寺には白山信仰があった?

そして勝尾寺には白山信仰があったと考えられる。
というのは、次のような創建説話が伝えられているからだ。

727年、双子の兄弟、善仲と善算(年藤原致房の子)がここに草庵を築き、765年開成(かいじょう/光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りした。 
777年、開成は大般若経600巻の書写をやり遂げ、この場所に弥勒寺を創建した。
780年、妙観が十一面千手観世音菩薩立像を刻み、本尊として安置した。
880年、行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行って効験があったため、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」 の寺号を帝より賜った。
しかし、「王に勝った寺」とはあまりに畏れ多いとして、「王」を「尾」として勝尾寺と号した。 


ここに開成皇子なる人物が登場するが、静岡県磐田市の白山神社の創建説話に登場する海上皇子(戒成皇子/桓武天皇の第四皇子)愛知県新城市の白山神社の創建説話に登場する後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子と関係があるのではないかと前田速男さんが指摘されている。
勝尾寺大阪府箕面市開成光仁天皇の皇子
桓武天皇の異母兄
旗本菅沼隠越中守の娘が勝尾寺の三宝荒神さまに祈願したところ、
白髪が黒髪になった
白山神社静岡県磐田市海上皇子(戒成皇子)桓武天皇の第四皇子裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、
病になった
白山神社愛知県新城市開成皇子後醍醐天皇の第3皇子裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、
病になった


静岡県磐田市・白山神社の海人皇子と、愛知県新城市・白山神社の開成皇子はどちらも「裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、病になった」と伝えられている。
愛知県新城市・白山神社の開成皇子は何の病になったのかわからないが、静岡県磐田市・白山神社の海人皇子についてはハンセン病になったとされる。


そして②で述べた五箇山は白山信仰の強い地域で、菅沼集落からほど近い上梨には白山宮がある。

白山宮 五箇山 
五箇山 上梨 白山宮

③ハンセン病にかかった伝説のある皇子のことを、開成・海上・戒成と呼んでいる?

3人の父親は異なるが、ハンセン病にかかった伝説のある皇子のことを、開成・海上・戒成と呼んでいるように思われる。

また、奈良豆比古神社地元の語り部さんによれば、・良豆比古神社・翁舞の翁は志貴皇子だというが
志貴皇子の子にも海上王または海上女王がいる。

静岡県磐田市白山神社海上皇子(戒成皇子)桓武天皇の第四皇子裸足で大地を踏んだので病になった。
愛知県新城市白山神社開成皇子後醍醐天皇の第3皇子裸足で大地を踏んだのでハンセン病になった。
北摂神峯山寺
本山寺
安岡寺 
勝尾寺
など
開成皇子光仁天皇の皇子

桓武天皇の異母兄
海上王(本朝皇胤紹運録)
または海上女王(続日本紀)
志貴皇子の子志貴皇子または志貴皇子の子の春日王がハンセン病になった。
(奈良豆比古神社伝説)

光仁天皇は志貴皇子の子で、桓武天皇は光仁天皇の子である。

従って、志貴皇子~光仁天皇~桓武天皇と三代にわたり、海上または戒成または開成という名の子があったということになる。

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉

奈良豆比古神社 翁舞

④実際にハンセン病にかかったわけではない、と思う。

日本書紀にトガノの鹿という話が記されている。

雄鹿が「全身に霜が降る夢を見た」というと、雌鹿は「霜だと思ったのは塩で、あなたは殺されて全身に塩を振られているのです。」と答えた。
翌朝、雌鹿の占いのとおり雄島は漁師に撃たれて死んだ。(トガノの鹿)

鹿の夏毛には白い斑点がある。
その白い斑点が霜や塩に喩えられたのだろう。

謀反の罪で殺された人には塩が振られることがあり、鹿とは謀反人の比喩だとする説がある。

そしてハンセン病患者の症状はさまざまだが、白い斑点ができるものがある。

つまり、次のような発想で謀反人と鹿やハンセン病患者は結び付けられたのではないかと思う。
謀反人→死体に塩を振る→鹿の白斑を思わせる→ハンセン病患者を思わせる。

開成皇子や海上皇子は謀反人であったため、ハンセン病になったなどという伝説が生じたのではないだろうか。

大仏殿 鹿

東大寺大仏殿 鹿

⑤ジンベエザメと海上皇子

また日本書紀は次のような話もある。


612年、百済から渡来したものの中に体に白斑を持つ者がおり、海中の島に置き去りにしようとした。
白斑の男はこう言って抵抗した。
「白斑が悪いというのなら、私と同じように白斑のある牛馬は飼えないではないか。
私は築山を作るのが得意で、この国のお役にたつことができます。私を海中の島に捨てるのは日本のためになりません。」
そこでこの男に須弥山の形と呉風の橋を御所の庭に築かせた。

この話から、海上皇子という名前の由来を推理することができる。

海上皇子はハンセン病を患って白斑を持っていたと考えられ(実際にハンセン病であったのではなく死体に塩が振られていたのをハンセン病に喩えた)海中の島に捨てられたと考えられたため、海上皇子と命名されたのではないだろうか。

海遊館 ジンベエザメ2

白斑を持つ大きな魚にジンベエザメがおり、別名をエビスザメという。
エビスザメと呼ばれるのは、ジンベエザメが現れるとき、カツオやイワシが大漁になるからだ。
ジンベエザメもイワシ・カツオもプランクトンを主食にしているため、上記のような現象がおきる。

エビスザメのエビスは蛭子神または事代主とされ、海の神・大漁をもたらす神である。

また水死体のこともエビスといい、水死体があがると大漁になるなどといわれる。

蛭子神は3歳になっても歩けない身体障害児だったため、両親のイザナギ・イザナミは彼を葦舟に乗せて流した。
蛭子神は竜宮に流れ着き海神に育てられたと言われるが、竜宮とは死の世界のことだろう。

また事代主は天照大神が派遣したタケミカヅチにか「国を譲れ」と迫られ、海を青柴垣に変え、船を踏み傾けて姿を消したとされる。(入水したのだろう。)

えびす神も事代主も水死しているのである。そのため水死体をえびすというのだろう。
えびすザメとも呼ばれるジンベエザメは、死んだ蛭子神または事代主神の化身であると考えられたのではないだろうか。
また海上皇子
は蛭子神や事代主と同一神であり、ジンベエザメは海上皇子の化身でもあると考えられたのだと思う。

勝尾寺は鰹(カツオ)寺であり、開成皇子=海上皇子=ジンベエザメが大量のカツオをひきつれてやってくるところから命名されたのかもしれない。

⑥白い山から黒い山へ、そして黒い山から白い山へ。

我々は、どうやら勝尾寺には白山信仰があったらしいことを考察した。
それではなぜ白山信仰はハンセン病と結びつけられたのだろうか。

それは白山の冠雪と関係があるのではないかと私は思う。

五箇山の菅沼集落からさらに登っていくと相倉集落にでる。
この相倉集落の高台から白山連峰がみえる。

下の写真は3月ごろに撮影した相倉集落である。

五箇村 相倉

青い山に白い雪をかぶった白山は鹿やジンベエザメの斑点を連想させる姿をしていないだろうか。

④に書いた「トガノの鹿」では、雄鹿は全身に霜が振る夢を見たのだったが、摂津国風土記にも似たような話があり、こちらのほうは雄鹿は全身に雪が降ってススキが生える夢を見たとある。
ススキは矢、雪は塩で、雄鹿は矢で射られて殺され、塩づけにされることを暗示する夢であると、雌鹿に占われている。

雪も霜と同様、謀反人を塩づけにするための塩をあらわしているのだ。

白山は地上に現れた巨大なジンベエザメである、そしてそれは海上皇子の化身である。
そんな風に人々は考えたのではないだろうか。


↓ こちらはやはり相倉集落を5月ごろに撮影したものである。
雪深い土地で5月でも雪が残っているが、遠くに見える白山の雪は、3月の写真に比べるとかなり溶けている。

五箇山 相倉

夏になると白山の雪はほとんどとけて青い山になるのだろう。

青は黒といってもいいと思う。
こうして白い山は黒い山へと変わっていく。そしてまた黒い山から白い山へ。

その様子はまさしく、陰(黒)が極まると陽(白)に転じ、陽(白)が極まると陰(黒)に転じるという陰陽の考え方をあらわしているかのようである。


Yin yang

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AYin_yang.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg よりお借りしました。
作者 Gregory Maxwell [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で



勝尾寺に伝わる白髪が黒髪になった旗本菅沼隠越中守の娘とは、白山そのものなのではないだろうか。


 



陰陽 黒と白⑳最終回 『まとめ と 神の性別を変える呪術』  へつづく~

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[2019/02/01 10:01] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)

陰陽 黒と白⑱ 勝尾寺には白山信仰があった? 

陰陽 黒と白 ⑰ 白髪が黒髪になった娘  よりつづきます。

勝尾寺 多宝塔 しだれ桜

①海上皇子と開成皇子

前田速男さんの「白山信仰の謎と被差別部落」という本に興味深いことが書いてあった。

静岡県磐田市の白山神社には次のような伝説が残されているそうである。


①桓武天皇の第四皇子の海上皇子(戒成皇子)は従者とともにこの地にやってきて、地元の人々の食べ物を乞うようになった。
その原因は、飼っていた雀が戸から飛び出し南殿の白砂にとまったのを追って、裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、ハンセン病になったためである。


勝尾寺の創建説話には光仁天皇の皇子・開成皇子が登場する。

勝尾寺は727年に双子の兄弟、善仲と善算(藤原致房の子)がここに草庵を築いたのを始まりとし
765年に開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りした。


というのである。

前田速男さんはこの開成皇子と海上皇子には関係があるのではないかと指摘されている。

 勝尾寺 多宝塔 石楠花

②春日王と春日宮天皇(志貴皇子)は同一人物?

奈良の奈良豆比古神社には志貴皇子の子の春日王がハンセン病を患ったという伝説があった。
ところが地元ではハンセン病を患ったのは志貴皇子であるという語りが伝承されている。
また、春日王は田原皇子、志貴皇子は春日宮天皇または田原天皇とも呼ばれており、ふたりは同じ名前で呼ばれていたということになる。
皇室において父子が同じ名前で呼ばれていたというケースはないと思う。
このことから、私は春日王と志貴皇子は同一人物ではないかと考えた。

参照/陰陽 黒と白⑮ 奈良豆比古神社 翁舞 

勝尾寺 多宝塔 桜

③海上皇子と開成皇子は同一人物?


海上皇子は桓武天皇の第四皇子、開成皇子は光仁天皇の皇子、というが
桓武天皇は光仁天皇の皇子なので、開成皇子と桓武天皇は兄弟、開成皇子と海上皇子は伯父・甥の関係ということになる。
志貴皇子と春日王の例もあるように、開成皇子と海上皇子は同一人物ではないだろうか?

志貴皇子は施基皇子、志紀皇子とも書く。
古には音が同じであれば、さまざまな字をあてて名前を表記していたのかもしれない。

勝尾寺-二階堂 しだれ桜 

④志貴皇子の子に海上女王または海上王の名前が!

光仁天皇は志貴皇子の皇子である。
志貴皇子ー光仁天皇ー桓武天皇と血筋がつながっている。
そして志貴皇子の子には光仁天皇・春日王のほか、海上女王または海上王の名前がある。
つまり、志貴皇子・光仁天皇・桓武天皇の3代にわたり、それぞれ海上または開成という名の子があったということになる。
しかも血のつながりのある志貴皇子・海上(開成)皇子がいずれもハンセン病をっ患ったという伝説が残されているのだ。

勝尾寺 山門 

後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子

また前田速男さんの「白山信仰の謎と被差別部落」によると、愛知県新城市の白山神社には後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子についての、次のような文書が残されているそうである。

②御殿において白雀を飼はせらる
まさに餌をやらんとすれば飛び放る
再び捕へんとして穢れし大地を踏まる
悪病にかかりて殿を出で
漂泊 旅して東原に至る

これは内容が①の伝説とまったく同じである。
名前は開成皇子となっていて、勝尾寺の創建にかかわった開成皇子と同名だ。

②の文書は①の伝説をもとにしてつくられたもので、開成皇子を後醍醐天皇の子と変えたのかもしれない。
それとも「ポーの一族」のエドガーやメリーベル(彼らは吸血鬼で年をとらず何百年もの時を生きている。)のように、開成皇子は時を超えて存在しているとか?

勝尾寺 鐘楼 桜

⑥勝尾寺には白山信仰があった?

①の海上皇子、②の開成皇子はどちらも白山神社に伝わるもので、勝尾寺の創建は開成皇子とされている。
同様に開成皇子の伝説が残る勝尾寺には白山信仰があったのではないだろうか。

勝尾寺の三宝荒神社には、1677年、旗本菅沼隠越中守の娘がこの荒神さまに祈願したところ、白髪が黒髪になったという伝説がある。

参照/陰陽 黒と白 ⑰ 白髪が黒髪になった娘 


私は、白髪の娘は白山の神をイメージしたものではないかと思う。

また、白髪だったのは菅沼隠越中守の娘というが、越中とは富山県のことである。
富山県五箇村には菅沼集落があり、菅沼隠越中守はこの菅沼集落と関係の深い人物ではないかと思ったりするのだが
五箇村は古より白山信仰が根付いていた地域だった。

 五箇山 菅沼集落 
五箇村菅沼集落


陰陽 黒と白 ⑲白髪が黒髪になった娘と白山信仰 へつづく~

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[2019/01/21 08:34] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)

陰陽 黒と白 ⑰ 白髪が黒髪になった娘 


 陰陽 黒と白 ⑯ 古今集真名書の田人は黒、仮名序の山人は白という謎々だった? よりつづきます~

勝尾寺 紫陽花 本堂

勝尾寺 本堂

①白髪を黒髪に変えた三宝荒神

雨の勝尾寺を参拝する。
長い階段を上ると、右手には紫陽花の垣根ごしに本堂が見えてくる。
そして左手には三宝荒神社が、雨に曇って見える。

この三宝荒神社にはこんな伝説がある。

1677年、旗本菅沼隠越中守の娘がこの荒神さまに祈願したところ、白髪が黒髪になった。

勝尾寺 紫陽花 三宝荒神社

勝尾寺 三宝荒神

②旗本菅沼隠越中守と五箇村菅沼集落

旗本とは江戸時代の武士の身分のひとつ、越中とは現在の富山県、守とは国司である。
つまりこの人は旗本という身分で、越中(富山県)の国司をつとめていた人なのである。

菅沼隠が何をあらわしているのか、わからない。
人名なのか?

この人は越中(富山県)の国司をつとめていた人だが、富山県五箇村に世界遺産に登録されている菅沼集落がある。
菅沼とはこの菅沼集落をさしているのかもしれない。

五箇山 菅沼集落3

五箇山 菅沼


③比喩化して作った物語


勝尾寺の荒神さまが娘の白髪を黒髪にしたという伝説は、言葉どおり白髪が黒髪になったというだけの物語ではなく、何かを比喩したものだと思う。
なぜそう思うかというと、昔の人は様々なものを比喩化して物語を作っていたようだからだ。

たとえば飛鳥時代に迹見 赤檮(とみ の いちい)という人物がおり、彼は物部守屋を弓で射たとされる。
私はこの人は実在の人物ではなく、弓を擬人化したものだと思う。
というのは、「いちい」という木があり、弾力性があることから、アイヌではこの木を使って弓を作っていたのだ。
また学名をTaxusというが、これはギリシャ語で弓を意味する taxosからくるとされる。

三十三間堂 通し矢

三十三間堂 通し矢


④白は煙硝、黒は黒色火薬?

旗本菅沼隠越中守という名前から五箇山菅沼集落を思い出すが、五箇山では煙硝を生産していた。
煙硝は白い色をしている。
煙硝は黒色火薬の原料となるが、黒色火薬はその名のとおり黒い色をしている。

白髪の旗本菅沼隠越中守の娘とは煙硝のことで、その娘が黒髪になったというのは、煙硝が黒色火薬になったということの比喩なのではないだろうか。

五箇山 上梨 村上家 煙硝厩

五箇山上梨 村上家住宅 煙硝厩(えんしょうまや)

⑤白髪は白い神、黒髪は黒い神?

またそれだけでなく、この物語は陰陽思想によるもので
白髪は白い神で陽、黒髪は黒い神で陰を表すものではないかと私は考えた。

私たちはすでに下記のような「白い神(陽)と黒い神(陰)の対比」と「太極図のように白黒混ざりあう神」について見てきた。


Yin yang

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AYin_yang.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg よりお借りしました。
作者 Gregory Maxwell [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


太極図は白と黒の図で構成され、白は陽、黒は陰をあらわす。


白い神(陽)黒い神(陰)白黒混ざりあう神
莫(マレーバクがモデル?)
白馬(晴祈願に奉納)
陰陽では晴は陽
黒馬(雨祈願に奉納)
陰陽では雨は陰
白鳥(ヤマトタケル)
=復活した神の霊
ヤマトタケルの墓は複数あり
=ヤマトタケルは復活した
=生霊
八咫烏
=復活しない神の霊
=死霊
八咫烏は三本足
足と書いて「たらし」と読み、三人の「たらし」を意味しているのではないか?
12代景行天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
13代成務天皇(わかたらしひこのみこと)
14代仲哀天皇・たらしなかつひこのすめらみこと)
住吉明神息長足姫命
(おきながたらしひめのみこと)
=生霊
底筒男命
中筒男命
表筒男命
=死霊
底筒男命・中筒男命・表筒男命は三人の「たらし」で八咫烏ではないか?

生國魂神社生島大神(白杖代?)
=生霊
足島大神
=死霊
足島大神は三人の「たらし」で、八咫烏=景行・成務・仲哀?
(足は「たらし」と読むが、三天皇の和風諡号に「たらし」とある。)
生島大神は神功皇后(和風諡号は生長帯比売命とも書くが「息」の音は「生」に通じる。)
六歌仙小野小町 喜撰法師
(二歌仙は惟喬親王と同一人物?)
=生霊
大友黒主
(大伴家持と同一人物?)
=死霊
小野小町は九十九髪(百引く一は白→白髪→白い神)
喜撰法師は入定して腐らない(永遠の命を持つ神=生霊)
翁・翁舞白式尉(志貴皇子)
山人/いきぼとけと読む
黒式尉(志貴皇子)
田人/種まきの所作をする
地元の伝承に翁は志貴皇子と伝えられている。
勝尾寺白髪の娘黒髪の娘




動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!

陰陽 黒と白⑱ 勝尾寺には白山信仰があった? へつづく~

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[2019/01/07 13:56] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)

陰陽 黒と白 ⑯ 古今集真名書の田人は黒、仮名序の山人は白という謎々だった? 

陰陽 黒と白⑮ 奈良豆比古神社 翁舞 よりつづく~

.
①小野小町は白い神、大友黒主は黒い神

六歌仙(遍照・在原業平・小野小町・文屋康秀・大友黒主・喜撰法師)の小野小町は白い神(陽)、大伴黒主は黒い神(陰)である。

小野小町像 
髄心院 小野小町像

a..小野小町が白い神である理由。
小野小町は在原業平に「九十九髪」と歌を詠まれている。→百引く一は白 ∴九十九髪=白髪
小野小町=小野宮=惟喬親王ではないかと思う。

小野小町は「花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに」と歌を詠んでいるが、
この歌は「花のいろは うつりにけりな いたづらに わが御代に下る ながめ(長雨→長天)せしまに」とよめる。
意味は次のような意味ではないか。

はねずの梅は長雨で色が褪せて栄華の象徴である桜となった。
私が天皇となって長い天下をおさめるときがきた。(「下る長天」で長い天下となる)
昔と今はすっかり変わる。(死んだ私が生き返る?)
そんな眺めを私は見るのである。

参照/小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』  

惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授けられたという伝説があるが、即身仏になるべく入定する際に漆を飲んだ。
惟喬親王は漆を飲んで即身仏となったため、このような伝説ができたのではないか。
また古の人は腐らない体を生きていると考えたのではないか。生は陰陽道では陽(白)である。

祇園祭 黒主山 御神体

祇園祭 黒主山ご神体 大伴黒主像


b...大友黒主が黒い神である理由。名前に黒の文字がある。
大友黒主=大伴家持ではないかと思う。
なぜかというとほとんど同じといってよい歌を詠んでいるからだ。

大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして、すでに死んでいたのだが死体が掘り出されて流罪となった。
その体は腐っていたことだろう。
古の人は腐った死体を生きていない(死)と考えたのではないか。
死は陰陽道では陰(黒)である。

参照/陰陽 黒と白⑪大友家持、白い神から黒い神に転じる? 
人物腐ったか(死)、腐らなかったか(生)。陰陽白黒
小野小町(小野宮と呼ばれた惟喬親王と同一人物?)腐らなかった。(生)

惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授けられたという伝説がある。
惟喬親王は漆を飲んで即身仏となったため、このような伝説ができたのではないか。
また古の人は腐らない体を生きている(と考えたのではないか。
生は陰陽道では陽陽は陰陽道では白
大友黒主(大伴家持と同一人物?)腐った。(死)

藤原種継暗殺事件に関与したとして、すでに死んでいたのだが死体が掘り出されて流罪となった。
その体は腐っていたことだろう。
古の人は腐った死体を生きていない(死)と考えたのではないか
死は陰陽道では陰陰は陰陽道では黒

陰陽の神々の比率は3対1

住吉大社の女神は、神功皇后一柱であり、生霊であると考えられる。
住吉大社の男神は底筒男命・中筒男命・表筒男命の三柱であり、死霊だと考えられる。

一方、奈良豆比古神社の翁舞の白式尉は生霊、黒式尉は死霊と考えられる。

奈良豆比古神社 翁舞 

奈良豆比古神社 翁舞

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

翁舞のケースでは生霊が三柱、死霊が一柱で、住吉大社とは神の数が逆になっているが、
どうやら陰陽の神々の比率は3対1になっているようである。
すなわち、陰の神が三柱のときは陽の神は一柱、陰の神が一柱のときは陽の神が三柱になっているということである。
生国魂神社住吉大社奈良豆比古神社陰陽

島大神
 第四本宮/神功皇后白式尉(三人翁)
生霊白鳥
島大神 第一本宮/底筒男命
 第二本宮/中筒男命
 第三本宮/表筒男命
黒式尉死霊黒鳥
(八咫烏)

すると、小野小町と大友黒主も、次の表のように整理できるかもしれない。

生国魂神社住吉大社奈良豆比古神社六歌仙陰陽

島大神
 第四本宮/神功皇后白式尉(三人翁)
惟喬親王(小野宮)
小野小町
喜撰法師(紀仙法師)

生霊白鳥
島大神 第一本宮/底筒男命
 第二本宮/中筒男命
 第三本宮/表筒男命
黒式尉大伴家持(大伴黒主)死霊黒鳥
(八咫烏)

③喜撰法師は紀仙法師で惟喬親王だった?

加茂船屋の雛祭 六歌仙屏風 
加茂船屋 六歌仙を描いた屏風
 
向かって右上から、大友黒主・小野小町・喜撰法師、向かって左上から在原業平・遍照・文屋康秀か?

小野小町・大友黒主は在原業平・遍照・文屋康秀・喜撰法師らとともに、六歌仙と呼ばれている。
六歌仙とは歌のうまい6人の歌人と誤解されがちだが、正しくは古今和歌集仮名序の中で名前をあげられた6人の歌人のことである。

その六歌仙の一人である喜撰法師は次のような歌を詠んでいる。

わが庵は 都の辰巳 しかぞ住む 世を宇治山と 人はいふなり
(私の庵は都の辰巳にあってこうやって住んでいる。世を憂しとして山に入った。宇治山であると人は言っているそうだ。)

宇治の喜撰山に喜撰洞があり、喜撰法師像が祀られている。
この喜撰洞は喜撰法師が入定し、即身仏となった場所ではないかと考えた。

そして喜撰法師は紀仙法師で、紀名虎または紀有常だとする説がある。
紀名虎は惟喬親王の母・紀静子の父親(惟喬親王の外祖父)、紀有常は紀静子の兄(惟喬親王の叔父)である。

即身仏となるべく入定する際には漆を飲んだという。
漆を飲むことで、胃の中に残った食物を吐き出し、また漆の防腐効果が死後の肉体を腐りにくくした。
惟喬親王は虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったという伝説がある。
惟喬親王は即身仏になったのではないか。それでこのような伝説が生じたのではないか。

すると喜撰法師とは紀名虎または紀有常と考えるよりも、紀氏の血の濃い惟喬親王のことだと考えたほうがしっくりくるのではないかと思う。
参照/陰陽 黒と白 ⑬『惟喬親王、入定して紀仙法師となる?』 

すなわち、惟喬親王と小野小町と喜撰法師は同一人物ではないかという推理である。

惟喬親王像 

惟喬親王像 木地師の里


④喜撰法師=御霊、小野小町=和魂、惟喬親王=荒魂

大友黒主は大伴家持はどちらも男(神)であり、大友黒主というのは大友家持(という神)の別名だと考えられる。
しかし、小野小町、喜撰法師(紀仙法師)は単なる惟喬親王(小野宮)の別名ではない。

小野小町は女(神)、惟喬親王は男(神)、そして喜撰法師は即身仏である。

神は御霊(神のもともとの正体)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂(神の荒々しい側面)の3つにわけられると言われる。
そして、女神は和魂、男神は荒魂とする説がある。
すると神のもともとの正体である御霊とは歓喜天のような男女双体だと考えられる。

和魂は小野小町(女神)、荒魂は惟喬親王(男神)、御霊(男女双体)は喜撰法師だろう。

喜撰法師が荒魂で、惟喬親王が御霊ではないかという質問があるかもしれない。

日本では本地垂迹説といって、「日本古来の神々は、仏教の神々が衆上を救うため、仮に姿を現したものである」とする考え方があった。
そして日本の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏、
仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を表した日本の神々のことを権現といった。

神のもともとの正体は、仏教の神なのだ。
喜撰法師は即身仏なので、仏教の神だといえる。神のもともとの正体である御霊とは本地仏と同等のものだと考えられる。
従って、喜撰法師が御霊だと思う。

⑤田夫=黒の謎々

黒という字を分解すると、田+土+、、、、である。
、、、、は種まきのように見えなくもない。
それで能の翁や、奈良豆比古神社の黒式尉は種まきの所作をするのではないだろうか。

そして祇園祭黒主山の黒は下の写真のような字が用いられている。

黒主山 宵山

これを分解すると田+夫「」となるが、古今和歌集真名書(古今和歌集の漢文で書かれた序文)は大友黒主(=大伴家持)にたいして、「田夫の 花の前に息めるがごとし」といっている。

古今和歌集真名書の「田夫」とは謎々で「大伴黒主が黒い神(陰の神)」であると言っているのではないだろうか。

⑥山人と書いて「いきぼとけ」と読む。

古今集にはふたつの序文があり、真名書のほか、仮名で記された仮名序もある。

真名書では「大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。」となっているが、

仮名序では「大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。」となっている。

私は数回この仮名序の言葉を読み返しているうちに、万葉集にある数首の歌を思い出した。

まず、元正上皇と舎人親王が贈答しあった歌。

あしひきの 山行きしかば 山人の 我に得しめし 山つとぞこれ/元正上皇
(山道を歩いていたところ、たまたま逢った山人が、私にくれた山の土産であるぞ、これは。)

あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰/舎人親王
(陛下は山へ行かれて山人に土産をもらったとおっしゃるのですか。「山人」とは誰のことなのでしょうか。山人とは陛下のことではありませんか。)


この歌は志貴皇子の次の歌に対応しているのではないだろうか。

むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山の猟師(さつを)に 逢ひにけるかも/志貴皇子
(むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。)


大伴坂上郎女という人が次のような歌を詠んでいる。

大夫(ますらを)の 高円山に 迫めたれば 里に下り来る 鼯鼠(むささび)ぞこれ/大伴坂上郎女
(勇士たちが高円山で狩りをして、里に下りてきたむささびがこれです。)


大伴坂上郎の歌の中に『 高円山』とでてくるが、高円山には志貴皇子の墓がある。
高円山に住むむささびとは志貴皇子を比喩したものではないだろうか。 

奈良大文字送り火 

高円山


のちに志貴皇子の子の光仁天皇が即位していることからみて、志貴皇子には正当な皇位継承権があったのではないかとする説がある。
奈良豆比古神社の語り部・松岡嘉平さんも次のような語りを伝承しているそうである。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。

志貴皇子の死亡年は万葉集言葉書では715年になっているが(日本続紀では716年)この年、元正天皇は即位している。
志貴皇子に皇位継承権があったとすれば、志貴皇子の死は元正天皇にとってあまりにタイミングが良すぎる。

元正上皇がいう『山人』とは『むささび」と同様、志貴皇子を比喩していったもので、『山人がくれたみやげ』とは『志貴皇子の死=元正天皇(女帝)の即位』を意味しているのではないだろうか。

山人とは『山に住む人』『仙人』という意味だが、『いきぼとけ』とよんで『心や容姿の美しい女性』のことをさす言葉でもあった。

それで舎人親王は、山人=仙人=志貴皇子のことなどしりません。山人とは美しい女性という意味で、元正上皇のことではありませんか、ととぼけてみせたのだろう。

次の部分に注意してほしい。
山人とは『山に住む人』『仙人』という意味だが、『いきぼとけ』とよんで・・・・

さきほども述べたように志貴皇子の死亡年は万葉集言葉書では715年になっているが、日本続紀では716年となっている。
なぜ志貴皇子の死亡年が1年ちがっているのだろうか?

笠金村が志貴皇子の挽歌を詠んでいる。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)

志貴皇子の邸宅跡と伝わる白毫寺に萩が植えられているのは、この挽歌にちなむものだと考えられる。

百毫寺 萩2

白毫寺

萩は別名を鹿鳴草というが、日本書紀にトガノの鹿という物語がある。
雄鹿が雌鹿に「全身に霜が振る夢を見た」というと、雌鹿は「霜だと思ったのは塩で、あなたは殺されて塩が振られているのです」と答えた。
そして雌鹿の夢占いのとおり、雄鹿は漁師に射られて死んでしまった。

かつて謀反の罪で殺された人には塩を振ることがあったという。
志貴皇子は暗殺され、その死体にはたっぷり塩が振られたため1年近く腐らなかったのではないだろうか?

ここで古今和歌集仮名序の文言を思い出してほしい。
それは「大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。」だった。
「山びと」とは「山人」であり、「仙人」「いきぼとけ」という意味ではないだろうか。
「いきぼとけ」とは「生きている仏」である。

陰陽道で生死をいうと、生が陽で、死が陰である。
そして陰陽をあらわす太極図では、陽は白、陰は黒であらわされる。


Yin yang

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AYin_yang.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg よりお借りしました。
作者 Gregory Maxwell [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


古今集真名書は田夫で黒、古今集仮名序は山人(いきぼとけ)で白と対比させてあったのである。

真名書田夫の花の前に息めるがごとし田夫田+夫=黒
仮名書いはば薪負へる山びとの花のかげに休めるがごとし山人いきぼとけ=生仏(生は陰陽では陽、陽は太極図では白)=白

イタリアの聖人の不朽体

http://karapaia.com/archives/52195951.html
上記にはイタリアの聖人の不朽体について述べられている。

防腐処理やミイラ化したものは不朽体とは認められないそうだが、ろうや銀で覆う、あるいは石炭酸に浸すなどは認められているようである。




エジプトでは死体をミイラにした。
日本では即身仏という習慣があった。
腐らない死体は世界中で神聖視されていたようである。

上記サイトには
「フランチェスカ・ロマーナは1440年に没して数ヶ月腐敗しなかったことから、不朽体と見なされた。それから2世紀後に墓を暴くと、骨以外は残されていなかった。研究を行ったピサ大学の病理学者チームによれば、墓を暴いたことにより遺体を保存していた微気候が崩れ、腐敗が進んだ可能性があるという。」
と記されている。

大伴家持も墓を暴かれたことによって、腐敗がすすんだのかもしれない。

「大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。」とは
「大友黒主はその様子が卑しい。薪を負ういきぼとけが、花のかげで休んでいるうちに腐ってしまった」という意味だろうか。

祇園祭 山鉾巡幸 黒主山 
祇園祭 黒主山


陰陽 黒と白 ⑰ 白髪が黒髪になった娘 へつづく~

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[2018/12/29 11:45] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)

陰陽 黒と白⑮ 奈良豆比古神社 翁舞 


陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると?  よりつづきます~

北山十八間戸

※北山十八間戸に霊山寺(奈良市中町3879)境内の文殊菩薩像を合成。


陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると? よりつづきます~


①非人とハンセン病患者

なだらかな登り坂が続く奈良坂。
呼吸の乱れを整えるために立ち止まり、振り返ると坂の下に興福寺の五重塔が見えていた。
大きく深呼吸をしてから再び歩き始める。
しばらくすると柵で囲われた細長い長屋が見えてきた。
長屋の裏に回ってみると18個の裏戸があり、そのひとつひとつに「北山十八間戸」と文字が刻まれていた。
柵の中に入って見学したいと思ったが、出入口には鍵がかけられていた。

見学することはできないのだろうか?

思い切って長屋の隣にあるお好み焼き屋さんに尋ねてみた。
「あのう、北山十八間戸を見学したいんですが、どうしたらいいんでしょうか?」

するとおかみさんが
「はいはい、今鍵をあけますね。ちょっと待っててくださいね」
と言い、ぽんと好み焼きをひっくり返した。
どうやらこのお好み焼き屋さんが北山十八間戸を管理されているようである。

おかみさんはすぐに出てきて柵の鍵をあけてくださった。
そして次のように説明していただいた。

「ここは鎌倉時代、ハンセン病患者を救済するための福祉施設だったところです。
奈良時代に光明皇后が建てたとも、鎌倉時代に僧の忍性さんによって建てられましたともいわれています。
ここからもうちょっと北に行ったところに般若寺さんがあるんですが、もともとはその般若寺さんの北東にあったそうです。
1567年に戦災で焼けまして、1660年から1670年ごろにここに移りました。
2畳くらいの部屋が17つ、4畳くらいの部屋がひとつで、合計18つの部屋があります。
4畳くらいの部屋は仏間です。
1万8千人のハンセン病患者が利用したと言われてるんですよ。」

北山十八間戸がいつ誰によって建てられたものなのかについては、おかみさんが説明してくださったように2つの説があってはっきりしない。
しかし、なぜ奈良坂にハンセン病患者のための療養施設が作られたのかについてははっきりしている。
それは奈良坂が非人が住む町であったためである。

非人というと江戸時代に制定された身分制度を思い出すが、関西では中世より非人と呼ばれる人々がおり、多くは坂の町に住んでいた。
非人たちは寺社に隷属し、寺社の清掃、祭りの警備、死体の処理、神事などに携わっていた。

ここ奈良坂の非人たちは興福寺に隷属する民だった。

非人たちは非人宿(夙)に住み、病人の看護にも携わっていた。
奈良坂に北山十八間戸が作られたのは、ここに非人宿があったからだろう。
または北山十八間戸が先にあって、病人を看護するために非人宿が作られたのかもしれない。
いずれにせよ、北山十八間戸と非人に密接な関係があったことは事実である。

興福寺 夕景

荒池より興福寺を望む


②ハンセン病患者は文殊菩薩の化身

北山十八間戸からさらに奈良坂を上っていくと般若寺がある。
境内にはコスモスが咲き乱れ、その中にうずもれるようにして本堂があった。
本堂の厨子の中には、少年のような表情をした獅子にのる文殊菩薩像が安置されていた。

般若寺は629年高句麗の僧・慧灌(えかん)によって創建された。
735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したといわれる。文殊菩薩の巨像を御本尊としていたが1490年に焼失した。
現在の文殊菩薩像は1324年に慶派仏師・康俊が刻んだもので、もともとは経像の本尊で秘仏だった。
本堂の御本尊が焼けてしまったのでかわりに本尊にしたという。

文殊菩薩は『智慧の菩薩』と言われている。
仏教の修行の結果として得られたさとりの智慧のことを般若という。
般若寺という寺名は文殊菩薩を祀っているところからくるのだろう。

能に用いる般若の面は『嫉妬や恨みの篭る女の顔』を表したもので、角が生えた恐ろしい形相をしている。
なので、鬼のことを般若というのだとずっと思っていたが、それは間違いだったのである。

般若坊という僧侶が面を作ったので般若面と呼ばれるのだとか、
『源氏物語』の葵の上が六条御息所の生霊にとりつかれた時、般若経を読んで怨霊を退治したところからそう呼ばれるようになったなどと言われている。

さきほど見学してきた北山十八間戸は、ハンセン病患者を救済するための福祉施設であったが、ハンセン病患者は文殊菩薩の化身であると考えられていた。

宿の町・奈良坂にある般若寺の御本尊が文殊菩薩なのはこのためだろう。
般若寺はハンセン病患者の霊を弔うための寺なのだろうか。
いや、無名のハンセン病患者の霊を弔う寺だとは考えられない。
735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てたということは、それなりの身分で、ハンセン病を患った人がおり、その人物を弔うための寺であったのではないだろうか。

聖武天皇と同時代で、それなりの身分でハンセン病を患った人物がいる。
春日王だ。

般若寺 十三重石塔 コスモス


③能・翁

般若寺前の植村牧場さんでソフトクリームを買う。
植村牧場さんのソフトクリームはミルクの味が濃くてとてもおいしいので、般若寺にくるたび食べるのを楽しみにしている。
私はソフトクリームを食べながらさらに坂を上って奈良豆比古神社へとむかった。
この日は10月8日、奈良豆比古神社で伝統行事の翁舞の奉納がある日だった。

日が暮れると舞殿前の篝火に火が入れられ、翁舞が始まった。

奈良豆比古神社は古来芸能の神として信仰が厚く、歴代の能楽師も数多く参拝したという。
一説によれば、奈良豆比古神社の翁舞は能・翁のルーツでもあるという。

私は舞殿に燃やされた篝火を見つめながら、八坂神社の能・翁を見にいったことを思い出していた。
陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると? 

私は能・翁を見て、次のように考えたのだった。

a.陰陽道の陽は白、陰は黒で表される。白式尉は陽(白)の神・黒式尉は陰(黒)の神である。

b.六歌仙(遍照・在原業平・小野小町・文屋康秀・大友黒主・喜撰法師)の小野小町は白い神(陽)、大伴黒主は黒い神(陰)である。

c.小野小町が白い神である理由。
小野小町は在原業平に「九十九髪」と歌を詠まれている。→百引く一は白 ∴九十九髪=白髪
小野小町=小野宮=惟喬親王ではないかと思う。
惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授けられたという伝説があるが、即身仏になるべく入定する際に漆を飲んだ。
惟喬親王は漆を飲んで即身仏となったため、このような伝説ができたのではないか。
また古の人は腐らない体を生きていると考えたのではないか。生は陰陽道では陽(白)である。

d.大友黒主が黒い神である理由。名前に黒の文字がある。
大友黒主=大伴家持ではないかと思う。なぜかというとほとんど同じといってよい歌を詠んでいるからだ。
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして、すでに死んでいたのだが死体が掘り出されて流罪となった。
その体は腐っていたことだろう。古の人は腐った死体を生きていない(死)と考えたのではないか。死は陰陽道では陰(黒)である。

e.黒という字を分解すると、田+土+、、、、である。、、、、は種まきのように見えなくもない。それで翁の黒式尉は種まきの所作をするのではないか。
また祇園祭黒主山の黒は下の写真のような字が用いられている。

黒主山 宵山

これを分解すると田+夫「」となるが、古今集真名は大友黒主(=大伴家持)にたいして、「田夫の 花の前に息めるがごとし」といっている。

奈良豆比古神社 翁舞 千歳
④奈良豆比古神社 翁舞

篝火がたかれる中、小鼓の音と「いーやー、あいやー、おんはー」という掛け声が続く。
少年が扮する千歳が舞を舞ったのち、三人の大夫が舞台上で翁の面をつけた。
なんと、奈良豆比古神社の翁舞の白式尉は一人ではなく三人なのである。

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉2

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

三人翁が退出したのち、三番叟が登場した。
三番叟は舞を舞ったのち、舞台上で黒い翁の面をつけ、鈴を持ってさらに舞った。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉2

千歳・三人翁の舞はゆったりしたスローテンポの舞だが、三番叟の舞は激しい。
田植えをする所作のようにも見えた。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

⑤二つの伝説

奈良豆比古神社でもらったパンフレットには次のような内容が記されていた。

天智天皇の孫、志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。
春日王の二人の子・浄人王と安貴王という二人の子供があって、この兄弟が熱心に春日王の看病した。
兄の浄人王は春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。


後日、図書館で『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』という雑誌を借りて読んだ。
その中に奈良豆比古神社の翁舞についての記事があり、地元の語り部・松岡嘉平さんが次のような語りを伝承していると書いてあった。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。

奈良豆比古神社でもらったパンフレットにはハンセン病になったのは春日王だと書いてあったが、ハンセン病になったのは志貴皇子だとする伝承も伝わっているのだ。

⑥志貴皇子=春日王?

志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。

そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになるが、皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。

志貴皇子と春日王は同一人物なのではないか。

神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
とすれば、志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるとも考えられる。
春日王が志貴皇子のことであるとすれば、春日王の子の浄人王・安貴王は志貴皇子の子だということになる。

奈良大文字送り火

高円山

⑥弓削浄人は道鏡の弟

桓武天皇は浄人王と安貴王に弓削という姓を与えたが、弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴という名前ではなかっただろうか。

さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしているのだ。

道鏡は称徳女帝が次期天皇にしたいと考えていた人物である。
そして、道鏡の父親は志貴皇子の子であるとする史料もある。
称徳天皇は独身で即位した女帝だったため結婚が許されなかったものと考えられる。
(独身で即位した女性天皇が結婚した例はない)
そのため、称徳天皇は志貴皇子の子である道鏡を次期天皇にしたいと考えたのではないだろうか。
ところが和気清麻呂が宇佐八幡宮での信託として「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」と称徳天皇に奏上した。
これは「道鏡を皇位につけてはいけない」という意味で、これに称徳天皇はかんかんになって怒り、和気清麻呂を別部穢麻呂と改名させて流罪にした。
道鏡が志貴皇子の子であったとすれば、称徳天皇がかんかんになって怒った理由が理解できる。
「道鏡は志貴皇子の子で、皇緒である。和気清麻呂の嘘つき!なにが清麻呂だ、おまえなんか穢麻呂で十分だ!大和から出ていけ!二度と顔を見せるな!」
ところが、称徳女帝は急死。(暗殺説あり)道鏡は失脚して下野に左遷となり、数年後に死亡して庶人として葬られた。

道鏡に子孫はいなかったはずである。
道鏡は僧侶であり、当時は鑑真が日本にやってきて戒律を伝えたばかりだったからである。
(戒律では僧の性交は禁止されていた。)
しかし道鏡の兄・弓削浄人には子孫がいただろう。
奈良坂の夙に住む非人たちは弓削浄人の子孫なのかもしれない。


護王神社絵巻に描かれた道鏡 
護王神社絵巻に描かれた道鏡


⑦3対1で構成される神々

それはともかく、なぜ奈良豆比古神社の翁舞は三人翁なのか?
私は以前、次のような表を作成した。陰陽 黒と白⑨ 白鳥は生霊、黒鳥(八咫烏)は死霊? 

生国魂神社住吉大社住吉大社陰陽

島大神
 第四本宮神功皇后(仲哀天皇皇后)・・・長帯比売命/気長姫尊(おきながたらしひめのみこと)?
               と同音
生霊白鳥
島大神 第一本宮/底筒男命
     第二本宮/中筒男命
     第三本宮/表筒男命
12代景行天皇・・・・・・・・・大彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)?
13代成務天皇・・・・・・・・・稚彦尊(わかたらひこのみこと)?
14代仲哀天皇・・・・・・・・・仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)?
死霊黒鳥
(八咫烏)

住吉大社の男神は、底筒男命・中筒男命・表筒男命の三柱であり、三柱の神々の象徴が八咫烏(黒鳥)であり、死霊であると考えられる。

そして住吉大社の女神は、神功皇后一柱であり、その象徴が白鳥であり、生霊であると考えられる。
翁舞の白式尉は生霊、黒式尉は死霊と考えられ、翁舞のケースでは生霊が三柱、死霊が一柱で、住吉大社とは神の数が逆になっているようである。
生国魂神社住吉大社奈良豆比古神社陰陽

島大神
 第四本宮白式尉(三人翁)
生霊白鳥
島大神 第一本宮/底筒男命
 第二本宮/中筒男命
 第三本宮/表筒男命
黒式尉死霊黒鳥
(八咫烏)


陰陽 黒と白 ⑯ 古今集真名書の田人は黒、仮名序の山人は白という謎々だった? へつづく~
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[2018/11/16 19:16] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)

陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると? 

 

陰陽 黒と白 ⑬『惟喬親王、入定して紀仙法師となる?』 よりつづきます~

①能「翁」の白式尉と黒式尉


阪急河原町駅で下車し、四条通を東に向かって歩いていく。
鴨川にかかる四条大橋を渡り、途中、托鉢の僧が手に持つ鉢の中に小銭を入れて手を合わせる。
「どうか、新しい発見のある楽しい旅になりますように!」
そんなふざけたな願い事を心の中で唱え、また橋を渡っていく。

四条大橋を渡ると右手に南座、そのまままっすぐ歩いていけば八坂神社に到着する。

八坂神社の本殿前には、1月3日にもかかわらず初詣する人たちの長い行列ができていた。
私は行列の後ろのほうで手を合わせてお参りをし、八坂神社境内にある能舞台へと向かった。
能舞台の前のベンチはすでに人で埋め尽くされていた。
この日、八坂神社では初能奉納があるのだった。
能の演目は「翁」である。

まもなく舞台の上に囃し方が登場し、つづいてシテ(役者)が登場した。

シテは舞台の上でお面をつけた。
舞台上でお面をつけるのは能の中でも翁だけである。

八坂神社 翁 面をつける白式尉 
『翁」は『能にして能にあらず』『能というよりも神事である』などといわれている。
シテは舞台に立つ7日前から家族と寝食を別にし、食事を調理する火も共用することが許されない。
これを『別火を喰う』と言う。

「とうとうたらりたりらら」
翁(白式尉/はくしきじょう)のよく通る声が、冬の澄んだ青空にこだました。

八坂神社 翁 白式尉 

「とうとうたらりたりらら」とはどういう意味なのか、よくわかっていないらしい。
おそらく古い言葉で、長い年月を経るうちにわからなくなってしまったのだろう。
和歌の枕詞などももともとは意味があったのだろうが、意味が分からなくなってしまった言葉がたくさんある。

しばらくするとさきほどの翁とは別の翁がやはり舞台上で面をつけ、鈴を振って足拍子を踏み鳴らした。
私はその翁を見てとても驚いた。

八坂神社 翁 黒式尉 

翁の面が真っ黒だったからである。
黒い面の翁(黒式尉)は黒人なのか?
しかし顔立は日本人のようである。

②能「翁」は、陰陽 黒と白

能「翁」はまさしく、「陰陽 黒と白」だった。

陰陽道では万物は陰陽両面を持つと考える。
生死を陰陽で表すと、生が陽、死が陰である。
性別天体光度天気生死
陰(黒)
陽(白)太陽

また陽は白、陰は黒で表される。

Yin yang

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AYin_yang.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg よりお借りしました。
作者 Gregory Maxwell [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

③小野小町は白い神、大伴家持は黒い神


陰陽 黒と白⑪大友家持、白い神から黒い神に転じる? 
陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神  

私は上の記事で、小野小町は白い神、大伴家持は黒い神ではないかと書いた。

小野小町は在原業平に次の様に詠まれている。

ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)


この歌に登場する九十九歳の白髪の女とは小野小町のことであるとされる。

つくも髪は九十九髪と書く。これは謎々である。
100-1=99
百引く一は白

うまい!座布団2枚!

髄心院 歌碑 八重桜

髄心院 小野小町 歌碑

次に大伴家持についてだが、彼は藤原種次暗殺事件に関与したとして、すでに死亡して埋葬されていたのを掘り起こされ、流罪となっている。

.http://www.sogi.co.jp/sub/kenkyu/itai.htm
上記サイトによれば、死体は次のように変化するという。

腹部が淡青藍色に変色(青鬼)
   ↓
腐敗ガスによって膨らみ巨人化。暗赤褐色に変色。(赤鬼)
   ↓
.乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)
   ↓
骨が露出

一言主神社 一陽来復祭

一言主神社 一陽来復祭

掘り起こされた家持の死体は黒く変色し、黒鬼のような姿になっていたのではないだろうか。

そして、大伴家持は六歌仙の一である大友黒主と似た、というよりもほとんど同じ歌を詠んでいることから、私は大伴家持と大友黒主は同一人物ではないかと考えた。

白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)

白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。)


古今集真名書は大友黒主について次のように記している。

大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。(読み下し文)

「頗る逸興」とは大伴家持の死体が掘り出されたことをいっているのではないかと思う。

祇園祭 山鉾巡幸 黒主山2 
祇園祭 黒主山  

④六歌仙は藤原氏と敵対していた歌人


古今和歌集仮名序で名前をあげられた6人の歌人、小野小町・僧正遍照・在原業平・大友黒主・文屋康秀・喜撰法師のことを六歌仙という。

この6人は全員藤原氏と敵対関係にある人物であった。

私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えている。
惟喬親王は文徳天皇の第一皇子で、母親は紀静子の間にできた子の長子で立太子が望まれていた。
しかし文徳天皇には藤原明子との間に惟仁親王もあった。
文徳天皇は「惟喬親王を皇太子」にしたいと源信に相談したのだが、源信は藤原明子の父・藤原良房をはばかって天皇を諫めたという。

遍照は藤原良房に出家させられたといわれている。
在原業平は惟喬親王の寵臣で、惟喬親王の妹を妻にしており、紀氏側の人間だった。
大友黒主は③に書いたように、大伴家持のことだと思う。家持は藤原種次暗殺事件に関与したとして死体が掘り出されて流罪となった。
文屋康秀は文室宮田麻呂の親戚だと思うが、文室宮田麻呂は無実の罪で流罪となっている。
喜撰法師とは紀仙法師で、紀名虎または紀有常のことだとする説がある。
紀名虎は惟喬親王の祖父(惟喬親王の母・紀静子の乳)、紀有常は惟喬親王の叔父(惟喬親王の母・紀静子の兄)である。

遍照・在原業平・紀有常らは惟喬親王をもちあげてクーデターを計画していたとする説もある。

加茂船屋の雛祭 六歌仙屏風 
加茂船屋 六歌仙を描いた屏風
 
向かって右上から、大友黒主・小野小町・喜撰法師、向かって左上から在原業平・遍照・文屋康秀か?

⑤喜撰法師=紀仙法師=惟喬親王?

④ で喜撰法師とは紀仙法師で、紀名虎または紀有常のことだとする説があると書いたが、私は喜撰法師=紀仙法師とは惟喬親王の事ではないかと思う。
惟喬親王の母親は紀静子、その父が紀名虎、兄が紀有常である。
当時、藤原氏の母親を持つ天皇・親王が大多数であった中で、惟喬親王は紀氏の希望の星だった。
そんな惟喬親王を紀仙法師と呼ぶのはおかしいことではない。

惟喬親王は京都の法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説がある。
惟喬親王は木地師が用いる轆轤を発明したという伝説もあり、惟喬親王は木地師の祖としても信仰されている。
轆轤を用いて作る茶碗などは、漆を塗って漆器にするが、漆には別の用途もあった。
即身仏となるべく入定する際に漆を飲むのだ。これを「漆のお茶を飲む」と記したサイトもあった。
こうすることで胃の中を空っぽにし、また漆の防腐作用で死後腐りにくい体になる。

そして宇治に喜撰洞があり、そこに喜撰法師の像が置かれている。
喜撰洞とは喜撰法師が入定した洞窟ではないのか?

また喜撰というお茶の銘柄があり、喜撰はお茶の隠語でもある。
戦国武将たちは茶の湯をたしなんだが、お茶を飲むことは、漆を飲むことに喩えたものであり、茶の湯とは不老不死を願うまじないであったのではないかと私は考えたのだ。

陰陽 黒と白 ⑬『惟喬親王、入定して紀仙法師となる?』 

木地師資料館 惟喬親王像  

木地師資料館の惟喬親王像
下の女性と男性が轆轤を使って器を作っている。


⑥生の神と死の神

ここで、もう一度陰陽分類表を見てみよう。
性別天体光度天気生死
陰(黒)
陽(白)太陽

大友黒主という名前は彼が黒い神、死んだ神であるところからくるのではないか。
そして、小野小町(=喜撰法師=惟喬親王)は九十九髪=百引く一は白の神である。
なぜ小野小町は白の神なのか。
それは小野小町=惟喬親王=喜撰法師であり、惟喬親王が漆を飲んで入定して即身仏になったためではないか。

現代人からみて、即身仏は死体でしかない。
しかし古の人々は腐らない肉体をもった即身仏を生きていると考えたのではないだろうか。

大友黒主(=大伴家持)・・・・・・・・黒い神・・・死の神(死んで腐った神)
小野小町(=惟喬親王=喜撰法師)・・・白い神・・・生の神(死んでも腐らない神=即身仏)

すると、能「翁」の白式尉は生の神(死んでも腐らない神=即身仏)、黒式尉は死の神(死んで腐った神)ではないのか。

八坂神社 翁


⑦黒式尉はいかにして田の神になったか?

能「翁」の黒式尉は田の神だともいえる。
黒式尉の舞の中で種まきを思わせる所作があるからだ。

それを見て、私は白髪のことを九十九髪(つくもかみ)ということを思い出した。
そのココロは、100-1=99、百引く一は白。

黒という漢字も白と同じように分解してみたらどうなるだろう?
「黒=田+土+、、、、」となるではないか。「、、、、」は種をまいたように見える。

また、生物の死体は微生物に分解されて水に溶ける形になると、無機栄養として植物に吸収され、植物の肥料となる。

翁の黒式尉はそういった理由で種まきの所作をしているのではないだろうか。

⑧大友黒主はなぜ田夫なのか?

また古今和歌集真名書は大友黒主(=大伴家持)にたいして、「田夫の 花の前に息めるがごとし」といっている。
それは、大伴黒主は翁の黒式尉と同様、腐って植物の肥料のようになってしまったので、田夫といっているのではないだろうか。

黒主山 宵山


上の写真は祇園祭黒主山の提灯である。
提灯に記された文字にご注目。

http://www.kuronushiyama.or.jp/#kuronushi ← こちらのページにも大きく掲載されている。

「黒」の異体字として「黑」があるが、それともまたちがう。田夫と読めなくもない。

ところで、古今集には真名書のほかに仮名序がある。
真名書は漢文、仮名序はかなで記されているが、内容はほとんど同じである。

ところが、大伴黒主の部分は少し違っている。

真名書には
大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。(読み下し文)
とあるが、仮名書では
大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。
となっている。

真名書の頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとしは次のような意味だと思う。

頗る逸興ありてとは大伴黒主とは大伴家持のことであり、大伴家持が藤原種次暗殺事件に関与したとして、死体が掘り出されて流罪となったことだろう。

体甚だ鄙し
とは、その体が腐って『死体が腐って卑しい」

田夫の 花の前に息めるがごとしは、家持の腐った体が微生物に分解され花の肥料になったことを田夫(田+夫=黒/黒い神)になったとい表現しているのではないかと思う。

仮名序では田夫ではなく、山びとになっている。山びととはどういう意味なのだろうか?

八坂神社 舞殿 
八坂神社 舞殿


八坂神社 楼門

八坂神社 西楼門
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[2018/11/01 17:13] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)