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言ってもいないことを、主観で決めつけて事実のように話すのは『嘘』 

武田邦彦先生の発言にはいろいろ問題があると考えており、別ブログなどでもいくつか記事を書いている。

大阪城 紅葉 『日本の城郭都市と乱取り』  
築港赤レンガ倉庫 『事故件数だけではわからない高齢ドライバーの危険性?』※追記あり 
武田邦彦先生の発言のまちがい。イザナギはイザナミを助け出していない。 



上の動画で、今回もかなり問題のある論法を使っておられるので、このことについてお話ししたいと思う。



今日、私がいいたいのは、トリエンナーレを再開するべきか、いなかについてではない。
これについては、いろんな考え方があってしかるべきだと思う。

指摘したいのは、話をする際の、もっと基本的なことである。

武田先生は次のようにおっしゃっている。


①トリエンナーレの主催者の人を見ますと、傲慢なんですよ。
顔つきがまず傲慢。頬の筋肉が傲慢。
それからお前らの意見を聞いてやるぞっていう態度なんですね。
俺達の意見は決まっているんだ。俺たちは万能なんだ。俺達が正義なんだって顔してる。(3:35)

②再開するときに苦情を電話で受け付ける窓口を作るという人たちが言っているコメントでびっくりししゃったんです。
まるで聞いてやるぞという感じなんですよ。
あれね、権力者なんですよ。
スターリンなんですよ、毛沢東。
なぜ同じ人間を殺せるのかというと、自分が上だと思っているからなんですよ。~
今の時代にこれほど階級制意識を持っている人がいるんだなあ、と思ったんです。
階級制意識をもっている人は朝日新聞、リベラル、東大教授、左翼の人、これが皆差別意識なんですよ。
俺達は偉いんだ、俺達は万能なんだ、だから俺達が慰安婦像を展示したり、天皇陛下の燃えた像、特攻隊を揶揄する作品を置いて何が悪いんだと
お前らそれで気分悪くするのか、それじゃあ気分悪くする理由を聞いてやろうじゃないかとこういう感じですね。(6:30)

③「俺達のやることは正義なんだ。」「お前らバカなんだから」「公金を使って展示して何が悪い」というような態度 (9:30 )

①は大学教授ともあろう人が、いくら嫌いだからといっても他人の顔つきまでいわないくてもいいだろう。
顔つきに傲慢さがあらわれていたということかもしれないが、それは武田先生の主観であり、別の人が見ても同じように感じるとはかぎらない。
むしろ武田先生の発言はヘイトだと言われる可能性がある。


②で「まるで聞いてやるぞという感じ」③で「・・・というような態度」と書いておられるので、
彼らは「おれ達は万能」「俺達のやることは正義」「お前らバカなんだから」「公金を使って展示してなにが悪い」と実際に発言したわけではないのだろう。
これも彼らの発言を聞いて武田先生がそう言っているように感じた、という主観にすぎない。
他の人が聞いたらそうは聞こえないかもしれない。

そして、彼らが実際に何と発言したのかについては、武田先生は一言も言っていない。
相手が先生の動画を聞いたら「俺たちは、『お前らバカなんだから』なんていっていない、武田先生は嘘つきだ、と言うだろうし
言われても仕方がない。
言ってもいないことを、主観で決めつけて事実であるかのように話すのは、『嘘』である。



家庭や職場、学校などで「あの人の態度、嫌なんだよね、人見下してるみたいで」のように話をすることはある。
しかし、やはりそれは望ましい会話とはいえない。
YouTubeという公の場で話すのはなおさら望ましくない。


やはり「彼らは〇〇というが、間違いで✖✖である」
「彼らは〇〇というが、そういういい方はあまりに傲慢ではないか」のように、
実際の彼らの会話を引き合いに出して語るべきである。



結局、先生のいう「彼ら」がどんなことを言ったのか、まったくわからず、最後まで判断のしようがなかった。





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[2019/10/18 19:03] トンデモ説? | TB(0) | CM(0)

現生人類の誕生は4万年前なのに、11万年前の石器が日本にあるってどういうこと? 


①11万~12万年前の砂原遺跡の石器は旧人が作ったものでは?


ねずさんとおっしゃる有名なブロガーさんが、次のような内容の記事を書いておられた。

http://nezu3344.com/blog-entry-4276.html
万年の単位で日本列島を俯瞰する


a.現生人類が誕生してからおよそ4万年、ネアンデルタール人などの旧人が誕生してからおよそ20万年といわれている。

b.(現生人類はアフリカで誕生し、日本には4万~3万年前にやってきたとする)もっともらしい図が流布しているが、日本ではなぜかおよそ11万~12万年前の石器(島根県出雲市の砂原遺跡)が発見されている。(2013年6月7日発表)。

c.ミトコンドリア・イブの解析によって、人類の始祖はおよそ20万年前〜15万年前あたりに中央アフリカのあたりで発祥し、およそ6万年〜4万年前あたりにそれがイラクのあたりに移動し、そこからヨーロッパや亜細亜方面に広がったのだと、まことしやかにいわれている。

d.しかし人は移動する生き物なので、一箇所にとどまっていると考えるのは不自然。

e.日本で11〜12万年前の石器が発見されたからといって、人類の始祖が日本人であるとも限らない。
万年の単位で人類史を考えるときには、いまとまったく異なる地形を前提に考えなければならないからである。


ねずさんが言いたいことをまとめると次のようになると思う。

「日本列島には4万年前ごろホモ・サピエンスがやってきたということになっているが、日本では11万~12万年前の石器(島根県出雲市の砂原遺跡)が発見されている。
現生人類はアフリカで誕生し、日本には4万~3万年前にやってきたとする図はウソで、本当は人類の始祖なのではないかとも思える。
しかし、日本で11〜12万年前の石器が発見されたからといって、人類の始祖が日本人であるとも限らない。
いまとまったく異なる地形を前提に考えなければならないからである。」


②はリンク先2枚目の世界地図を描いた図のことだが、図の出典元やタイトルが示されていない。
http://nezu3344.com/blog-entry-4276.html
こういうのは、「怪しい」と疑ってかかるべきである。

で、ネットでぐぐったところ、ほとんど同じ内容の図が見つかった。



世界中に広がっていくホモ・サピエンス:国立科学博物館
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/1/1-14.html# 

https://www.s-yamaga.jp/nanimono/seimei/jinrui-01.htmより引用 

出典元は国立科学博物館で、タイトルは「世界中に広がっていくホモ・サピエンス」である。

ホモ・サピエンスとは現生人類の学名である。

現生人類の前には、ネアンデルタール人などの旧人がいたことは、ねずさんもはっきりおっしゃっている。

単純に考えて、砂原遺跡で発見された石器は現生人類が作ったものではなく、旧人が作ったものなのではないだろうか?

そう考えてさらにググってみたところ、ウィキペディアに次のように書いてあった。

現生人類(ホモ・サピエンス)は7〜6万年前に出アフリカを果たし、それ以前にはアフリカ外には分布していなかった。
従って、日本列島最古の石器(砂原遺跡
の12万年前)を遺したのはデニソワ人などの旧人である。
日本列島に現生人類が現れるのは4〜3.5万年前と考えられており、これは日本固有のはプログループⅮプ1a2(Y染色体)
の起源年代とおおむね一致する


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%97%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3 より引用。

ねずさんは「いまとまったく異なる地形を前提に考えなければ、日本人が人類の始祖とはいえない」
とおっしゃっているが、地形を考えるとか以前に、旧人が作成した石器であるので、日本人が人類の始祖とはいえない。

②砂原遺跡の石器を作ったのは、日本人の先祖でも現生人類の先祖でもない。

我々の先祖は現生人類であって、旧人ではない。
旧人の一種であるデニソワ人は、現生人類の一部(メラネシア人など
)と遺伝子情報を部分的に共有する可能性が高いとされるが、ネアンデルタール人同様、絶滅した人種なのである。

砂原遺跡の石器を作ったのは、日本人の先祖ではないし、現生人類の先祖でもないのだ。

③オルドワン型石器は250万~2万年前に作られた。

ねずさんは砂原遺跡の石器が世界最古の石器と考えておられるふしがあるが、最古の石器はオルドワン型石器と呼ばれるものである。
礫を討ち欠くことによって制作した簡単なつくり石気であり、旧人のホモ・ハピリス(240~140万年前または頑丈型猿人(120〜200万年前)が作ったものではないかと考えられている。

④デビルスタワーは巨木の切り株ではなく、岩頸


また、ねずさんは「アメリカ合衆国ワイオミング州北東部に存在するデビルスタワーは巨木の切り株の化石であるといわれている」と書いている。

Devils Tower - Wyoming
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Devils_Tower_-_Wyoming.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/14/Devils_Tower_-_Wyoming.jpg
Land Cover Trends Field Photos [Public domain]

しかし、ウィキペディアには次のように書いてある。

「地下のマグマ
が冷えて固まり、長年の浸食によって地表に現れた岩頸と呼ばれる地形である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%93%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC より引用




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[2019/10/16 14:31] トンデモ説? | TB(0) | CM(2)

ミシャグジ様の謎⑩ 千の仏頭が現れた山  


ミシャクジ様の謎⑨ 30kmも運ばれた丈六の仏像 よりつづきます~
トップページはこちらです→
ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

①聖徳太子は怨霊だったby梅原猛氏

2019年1月12日梅原猛さんの訃報を告げるニュースが流れた。
彼は哲学者だが、どちらかというと歴史に関する著作が有名である。
特に彼の著書「隠された十字架―法隆寺論」は聖人として今なお厚く信仰されている聖徳太子を怨霊であったと説いて人々に衝撃を与えた。

私も彼の本をわくわくしながら読んだ読者のひとりだった。
私は彼の説のすべてを支持するわけではないが、歴史を考える彼の手法には多いに学ばせてもらった。
そんな梅原猛さんに心からお礼の言葉を述べて、別れの言葉に変えさせていただきたいと思う。

梅原猛さんの訃報を聞いた後、「隠された十字架」の舞台、法隆寺を訪れた。

法隆寺の南大門をくぐり、松並木がつづく参道を歩いていくと、中門と五重塔が見えてくる。

法隆寺 中門と五重塔 

この門はかなり変わった門である。
どこが変わっているのかというと、四間のため中央に柱があるのだ。


喜光寺 門 本堂 
上は喜光寺の門を撮影したものだが、通常の門はこの喜光寺の門のように奇数間のため中央に柱がくることはない。
梅原猛氏は門に柱を建てれば閂で、法隆寺は聖徳太子の怨霊封じ込めの寺ではないかと説かれた。

法隆寺 夢殿 
法隆寺 夢殿

法隆寺 夢殿は開扉すると大地震がおこると言い伝えられており、長年扉が開かれたことがなかった。
1908年フェノロサが夢殿の扉をあけたところ、聖徳太子等身大の像と伝わる救世観音が発見されたのだが
布でグルグル巻きにされたフランケンシュタインのような状態であった。
また、光背が頭に直接釘で打ち付けられていた。(一般的には足元にたてた棒に光背をつける。)
このほかにも多くの事例をあげ、梅原さんはこの救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像ではないかと説かれたのだった。


GUZE Kannon Horyuji

法隆寺 救世観音
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:GUZE_Kannon_Horyuji.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e8/GUZE_Kannon_Horyuji

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、古には疫病の流行や天災は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。

聖徳太子がなぜ怨霊になったのかというと、彼の子孫は蘇我入鹿に攻められて、山背大兄王(聖徳太子の子)以下全員、斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって亡くなったからだと梅原猛氏はいう。

聖徳太子は立派な人物として今でも厚く信仰されているが、現在の日本人に彼の血は一滴も流れていないのである。

井沢元彦さんは梅原さんの説を受けて、先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべきとされているのに、聖徳太子には祭祀供養する子孫がいなくなった。
そのため怨霊になったと考えられたのではないかとおっしゃっている。

法隆寺 夕日 
法隆寺

②仏頭山

飛鳥にある橘寺は聖徳太子生誕の地で、聖徳太子創建の寺と伝わっている。
橘寺の山号は仏頭山という。

橘寺 彼岸花

お寺の後ろに写っている山が仏頭山である。

③千の仏頭が現れた伝説。


橘寺にはこんな伝説が伝えられている。

あるとき聖徳太子が3日間にわたり勝鬘経(しょうまんきょう)の講義を行うと、
蓮の花が庭に降り積もり、仏頭山に千の仏頭が現れ光り輝いた。
推古天皇はこれにたいそう驚かれて、この地に寺を建てるようにと聖徳太子に命じた。
そこで聖徳太子が橘の宮を寺と改めた。


仏頭といえば思い出すのが前回お話しした、興福寺所蔵で、もと山田寺にあったとされる仏頭である。 

Buddha Head Yamadadera

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Buddha_Head_Yamadadera.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/08/Buddha_Head_Yamadadera.JPG よりお借りしました。
作者 匿名Unknown author [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


仏頭とはみほとけの頭部のことである。
体から切り離された頭部というのは気持ち悪い。
しかも、その仏頭の数は千も仏頭山に現れたというのだからそれは不気味な光景であったことだろう。


橘寺 彼岸花 白

法隆寺

④千の仏頭は聖徳太子の子孫の霊のドクロ?

①でお話ししたように、聖徳太子の子孫は、蘇我入鹿に責められて山背大兄王以下、全員斑鳩寺(法隆寺)首をくくって自害している。
千の仏頭とは、首をくくって自害した聖徳太子の子孫の霊のドクロなのではないだろうか。

聖徳太子の子と孫は大勢いたが千人は大すぎる。
誇張して千の仏頭としたのではないだろうか。

二面石

⑤二面石はミシャグジ様?

本堂の奥の聖徳太子像を拝み、本堂を出ようとしたとき、壁にたくさんのしゃもじがつりさげられているのに気が付いた。

なぜ橘寺にしゃもじが奉納されているのだろうか?

たしか、ミシャグジ様という神様がいて、杓子(しゃもじのことを杓子ともいう)を奉納する習慣があると聞いたことがあるが、橘寺にもミシャグジ信仰があったのだろうか?

そんなことを考えながら本堂を出ると、右手に奇妙な形をした石像があった。

二面石というそうで、表裏に善悪ふたつの顔を刻んだものであるという。

そういえば、ミシャグジ様とは、御石神様のことである、と聞いた記憶があった。
二面石は石像であるので、御石神様といえるかもしれない。

この二面石が境内にあるところから、橘寺には杓子(しゃもじ)を奉納する習慣があるのだろうか?

 橘寺 本堂 ライトアップ


次回につづきます~



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[2019/10/10 11:17] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎⑨ 30kmも運ばれた丈六の仏像 



ミシャグジ様の謎⑧ 大神神社は物部氏が祭祀する神社?  よりつづきます~
トップページはこちらです→ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

興福寺 五重塔

興福寺 五重塔 八重桜

①巨大な仏頭

奈良を訪れたのは晩春で、もうソメイヨシノは散ってしまっていた。
こんな時期になぜ奈良を訪れたのかというと、東大寺知足院に咲くナラノヤエザクラを見たいと思ったからだった。
ナラノヤエザクラは遅咲きなのだ。
しかし残念ながらナラノヤエザクラは咲いていなかった。
それでも遅咲きの八重桜と藤が今を盛りと咲いていて心は落胆している暇がなかった。

興福寺 藤

興福寺 南円堂 藤

花を見ただけでは飽き足らず、御仏の姿も拝んでみたくなったので、興福寺国宝館に行ってみることにした。
国宝館には阿修羅像をはじめとする八部衆もあり、八部衆の前には人だかりができていた。
阿修羅の筋肉のついていない昆虫的な腕や少女のような憂いを含んだ顔に、私もしばし見とれた。
しかし阿修羅よりももっと私の度肝を抜いたのは、巨大な仏頭だった。高さは98.cmもある。

Buddha Head Yamadadera

山田寺仏頭(
興福寺蔵)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Buddha_Head_Yamadadera.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/08/Buddha_Head_Yamadadera.JPG よりお借りしました。
匿名Unknown author [Public domain]


さらに驚いたことは、この仏頭はもともとは飛鳥の山田寺のご本尊であったというのだ。
その山田寺のご本尊の仏頭がなぜ興福寺にあるのか。またなぜ頭部だけなのか。

②蘇我倉山田石川麻呂

山田寺を創建した蘇我倉山田石川麻呂(? - 649年)は蘇我馬子の孫で蘇我倉麻呂の子として生まれた。
蘇我蝦夷は叔父、蘇我入鹿は従妹である。

      蘇我蝦夷ー蘇我入鹿
蘇我馬子<
      蘇我倉麻呂ー蘇我倉山田石川麻呂
            蘇我日向(倉山田石川麻呂の異母弟)


同族ではあるが、蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏本宗家の蘇我蝦夷・蘇我入鹿父子と対立していたようである。

蘇我倉山田石川麻呂、乙巳の変のメンバーに。

626年、蘇我馬子が死亡し、子の蝦夷が大臣となった。
蘇我蝦夷・入鹿親子は権力を増大させ、豪族達は朝廷ではなく蘇我家に出仕する有様であったという。

642年、蘇我蝦夷と入鹿は、自分達の陵墓築造のために公民を動員している。
聖徳太子の一族の領民も動員され、聖徳太子の娘の大娘姫王が抗議したという記録が残っている。

643年、蘇我蝦夷は朝廷の許可をえず蘇我入鹿を大臣とし、次男を物部の大臣とした。

こうした蘇我氏の専横に対し、中臣鎌足&中大兄皇子らは蘇我入鹿殺害を計画した。
この蘇我入鹿殺害計画のメンバーに、蘇我倉山田石川麻呂もはいっていた。
蘇我倉山田石川麻呂は娘の遠智娘(おちのいらつめ)を中大兄皇子の后にするなど、姻戚関係も結んでいる。

645年、蘇我入鹿は中大兄皇子に斬られて没し、その翌日、蘇我蝦夷は自宅に火を放って自殺した。
こうして蘇我本宗家は滅んだ。

皇極天皇は孝徳天皇に譲位し、中大兄皇子が皇太子となった。
皇太子となった中大兄皇子は阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任命した。

多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)
 
多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)中大兄皇子に首を斬られた蘇我入鹿。入鹿の首は皇極天皇の御簾にくらいついたと伝えられる。

③蘇我倉山田石川麻呂、冤罪で自害。

右大臣の地位を手に入れた蘇我倉山田石川麻呂。
しかし彼の栄華はわずか5年で異母弟・蘇我日向によって壊されてしまう。

649年、蘇我日向は、「蘇我倉山田石川麻呂は謀反を企てている」と中大兄皇子に密告したのだ。
蘇我倉山田石川麻呂のもとへ孝徳天皇の軍がさし向けられ、蘇我倉山田石川麻呂は一族とともに山田寺仏殿前で自害した。

この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされる。

④蘇我倉山田石川麻呂の死後も続けられた山田寺建立。

山田寺は641年に整地工事が始まり、643年には金堂の建立が始まっている。
648年には僧が住むようになっていた。

しかし、この翌年の649年に蘇我倉山田石川麻呂が自害してしまったため、山田寺造営は中断してしまった。

663年(天智天皇2年)、中断していた山田寺建立工事が再開した。
676年(天武天皇5年)に塔が完成した。
678年(天武天皇7年)には丈六仏像鋳造が始まり、685年(天武天皇14年)丈六仏像が開眼され、天武天皇が山田寺に行幸しています。

※丈六/仏像の像高。立像で約4.8m、坐像はその約半分。

天智天皇と持統天皇は蘇我倉山田石川麻呂の怨霊を恐れた?

③でも述べたように蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘は中大兄皇子〈天智天皇)の妃となっている。
遠智娘は中大兄皇子の子として健皇子・大田皇女・ 鸕野皇女を産んだ。
鸕野皇女は天武天皇の皇后となり、天武天皇崩御後、持統天皇として即位している。

蘇我倉山田石川麻呂の死後も山田寺の造営が続けられたのは、持統天皇・天武天皇の力添えがあったのではないかと考えられている。

私は天智天皇(中大兄皇子)やその娘の持統天皇が、蘇我倉山田石川麻呂の怨霊を恐れ、そのため山田寺の建立を行ったのではないかと思う。

蘇我倉山田石川麻呂が自殺においやられたのは中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であった。
また、『末代まで祟ってやる』などというように、怨霊は憎い本人だけでなく、その子孫にも祟ると考えられていたようである。

奈良時代には長屋王が謀反を企てていると讒言され、厳しい取り調べを受けて自殺に追い込まれている。(長屋王の変)
長屋王の変は藤原四兄弟の陰謀だと考えられている。
その後、天然痘が流行り、藤原四兄弟は相次いで死亡してしまうが、これは長屋王の怨霊のしわざだと噂された。

 飛鳥時代にもこれと同じような怨霊信仰があったのではないかと思うのだ。

つまり、山田寺の丈六仏像は蘇我倉山田石川麻呂の怨霊封じ込めの像ではないかと思うのである。

⑥興福寺の僧兵、山田寺講堂本尊を強奪!

『玉葉』(九条兼実の日記)に次のような内容が記されている。

「1187年、興福寺の僧兵が山田寺に押し入り、山田寺講堂本尊の薬師三尊像を強奪して、興福寺東金堂の本尊とした」と。
この山田寺講堂本尊の薬師三尊像の中尊の薬師如来は685年(天武天皇14年)に開眼された丈六仏像だと考えられている。

1180年、興福寺は平重衡の兵火によって炎上しているが、このとき、興福寺・東金堂の本尊も焼失してしまったのかもしれない。

興福寺は藤原氏の氏寺だが、藤原氏の祖は中臣鎌足である。
中臣鎌足は死の間際に天智天皇(中大兄皇子)より藤原姓を賜ったとされる。
この藤原鎌足(中臣鎌足)の次男が藤原不比等だが、藤原不比等は天智天皇の後胤とする説がある。

藤原鎌足は天智天皇の后・鏡王女を妻としてもらいうけているが、この時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったと、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などに記されているのだ。

すると、藤原氏にとって蘇我倉山田石川麻呂は親戚(天智天皇と蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘の間に生まれたのが持統天皇なので)ということになる。

          鏡王女
           |――藤原不比等(興福寺縁起などによる。一般に藤原不比等は中臣鎌足の次男とされる。)
          天智天皇
           |――持統天皇
蘇我倉山田石川麻呂―遠智娘


興福寺は山田寺に対して、次のような理由を申し立てて仏像を強奪したのではないだろうか。
a.藤原氏は天智天皇の後胤である。
b蘇我倉山田石川麻呂の死後,山田寺に塔が建立されたのは天智天皇の資金援助を得たためである。(⑤を参照)

また陰陽道では荒ぶる怨霊(荒魂)は十分に慰霊するとご利益を与えてくださる和魂に転じると考えた。
さらに、明治まで神仏は習合して信仰されていた。

藤原氏の祖・天智天皇にとって蘇我倉山田石川麻呂は恐ろしい怨霊であるが、十分に慰霊・供養すれば和魂に転じる。
そういうわけで蘇我倉山田石川麻呂の怨霊封じ込めの像である山田寺の丈六仏像を興福寺は欲したのかもしれない。

1411年、興福寺東金堂で火災が発生し、丈六仏像も焼けてしまった。
ところが昭和12年、その後新しく新しく造られた本尊像の台座内から仏頭が発見された。
どうやら1411年の火災で丈六仏像の頭部が落ちて焼け残り、後に台座内にしまいこまれたようである。

これが興福寺国宝館に安置されている仏頭である。

美しく、端正な顔をしている。
しかし、頭部だけの仏像というのは首級を思い出させて気持ち悪いと思った。


興福寺国宝館をあとにした私は、桜井市にある山田寺跡へ行ってみることにした。
興福寺から車で50分ほど、直線距離で30kmも離れている。
この距離を丈六仏像を運ぶというのは、よほど厚い信仰心がないとできないだろう。

山田寺 白藤

山田寺跡 白藤


山田寺跡はただがらんとした何もない空き地のようなところだった。
そして空き地のすみに、明治25年
に再興されたという小さなお堂が建てられているだけだった。

山田寺 赤い楓

山田寺跡


ミシャグジ様の謎⑩ 千の仏頭が現れた山  につづきます~



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[2019/10/07 16:17] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎⑧ 大神神社は物部氏が祭祀する神社? 


ミシャグジ様の謎⑦ 神殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイル? よりつづきます~
トップページはこちらです→
ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

①三つ鳥居は怨霊を封じるためのもの?

前回、私たちは石上神宮について見てきた。
ミシャグジ様の謎⑦ 神殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイル? 

今日はこの石上神宮から山辺の道を歩いて南へ6kmほどの場所にある大神神社を参拝してみることにしよう。

大神神社 茅の輪

コンクリート造りの大鳥居をくぐり、参道を歩いていくと大神神社の拝殿が見えてくる。
拝殿の前に置いてある輪は茅の輪である。

6月晦日の夏越の祓で、茅の輪潜りをする習慣が全国の神社にある。
その作法は神社ごとに多少の違いはあるが、だいたい、次のような文言を唱えながら輪をくぐる。

水無月の 夏越の祓ひ する人は、千歳の命 延ぶといふなり (1回目/左回り)
思ふこと みなつきねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓ひつるかな(2回目/右回り)
蘇民将来 蘇民将来(3回目/左回り)


生田神社 夏越大祓式 

上は生田神社(兵庫県神戸市)の夏越大祓式の写真である。
通常の茅の輪は生田神社のもののように一つの輪があるだけである。

大神神社は三輪山をご神体とする神社で、拝殿より直接ご神体の三輪山を拝する。

三輪山 日の出

大神神社 ご神体の三輪山


拝殿と大神神社の間には三つ鳥居がおかれているそうである。
私はなんとか三つ鳥居を見ることができないかといろんな場所から拝殿の向こう側をのぞいてみたが、残念ながら三つ鳥居は見ることができなかった。

三つ鳥居の写真は大神神社のhpに写真が掲載されていた。
http://oomiwa.or.jp/keidaimap/02-mitsutorii/

三つの輪を持つ茅の輪はこの三つ鳥居を模して作ったのだろう。

 三つ鳥居の中央には御簾のようなものがかけられているが、以前、大神神社のhpを見たときには鳥居の中央には御簾ではなく彫刻を施した扉のようなものがついていたと思う。
もしかしたら最近この三つ鳥居を作り直したのかもしれない。

いずれにせよ、この鳥居が普通の鳥居と性質が異なることは確かだろう。
普通の鳥居は参拝者がその下をくぐって神域に入ることができる。
いわば門のような役割をはたしている。
しかし、御簾や扉のついた鳥居では、その下を参拝者が通ることはできない。
 
三輪山は聖なる山、禁足地として参拝者の通行を制止するためのものなのか?
いや、どちらかというと、三輪山は怨霊の住まう山であり、怨霊が出てこないようにとの配慮からこのような御簾や扉のついた鳥居を作ったのではないかと私は思う。

というのは大神神社の御祭神・大物主は怨霊なのだ。
こんな話がある。

崇神天皇の夢枕に大物主があらわれ、こういった。
「今疫病が流行っているのは私の仕業である。自分の血をひく大田田根子に私を祀らせたならば、疫病はおさまるだろう。」
そこで天皇が大田田根子を探し出したところ、彼は「父は大物主神、母は活玉依姫」と答えたので、大物主神の祭主とした。
するとたちまち疫病は収まった。


怨霊とは政治的陰謀により不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天災は怨霊の仕業でひきおこされる、と考えられていた。
疫病を引き起こした大物主は怨霊だといえる。

②大田田根子は秦氏のオオ氏?

大田田根子は神君、鴨君の祖先だとされているが鴨氏が祭祀する上賀茂神社の摂社に大田神社がある。
また大田田根子は秦氏のオオ氏ではないかとする説がある。

秦氏は渡来人で、百済からやってきたとされるが、秦氏の祖が弓月君という人物であるところから、中央アジアにあった弓月王国の民ではないか、
そして弓月王国はキリスト教国であり、秦氏はクリスチャンではないかともいわれている。

秦氏の本拠地・京都の太秦には秦氏の氏寺である広隆寺があるが、広隆寺はかつて別名を太秦寺といった。
そして唐のネストリウス派キリスト教(景教)の寺院は大秦寺といい、太秦寺とは点があるかないかの違いしかない。
蚕の社はその広隆寺の鎮守として創建されたとも伝わるが、そこには珍しい三柱鳥居があり、キリスト教の三位一体をあらわすのではないかといわれている。

蚕の社 三柱鳥居 

蚕の社 三柱鳥居 3つの鳥居で三角柱の形を作っている。


三柱鳥居が秦氏の信仰によるものであるならば、大神神社の三つ鳥居もまた秦氏によるものではないか、とも考えられる。

③物部氏の祖神・ニギハヤヒと大物主は同一神?

大田田根子が秦氏だとすると、大物主は秦氏なのか?
私は大田田根子の母親の活玉依姫が秦氏の女性であったのではないかと思う。

大田田根子の父親、大物主は物部氏ではないだろうか。

物部氏の祖神はニギハヤヒだが、先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)と表記している。

そして大物主神は正式名称を倭大物主命という。
櫛・玉(魂)が共通するので、二神は同一神ではないかとする説があるのだ。

④本殿をもたないのは物部氏の祭祀スタイル?


そういえば、肩野物部氏の本拠地である大阪府交野市・枚方市あたりには本殿のない神社がいくつかあった。

磐船神社・星田妙見宮は巨岩をご神体とし、交埜神社の境外社の瘡(くさがみ)神社は拝殿の後ろにある沼をご神体としていた。
いずれも本殿はない。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 天の磐船

星田妙見宮 織女石

星田妙見宮 織女石(たなばたいし)

瘡(くさがみ)神社
 

瘡(くさがみ)神社 拝殿より後方の沼を拝する。
鳥居の左右の脚の長さがちがっていたw 2018年の台風で折れたのかも?

そして前回訪れた石上神宮には現在は本殿があるが、もともとは本殿はなく拝殿の奥の聖地を「布留高庭」として祀っていたのだった。
石上神宮は物部氏が祭祀する神社である。

石上神宮 3

石上神社


そして、ここ大神神社にも拝殿はあるが本殿がない。
拝殿より直接ご神体である三輪山を廃するという祭祀スタイルである。

大神神社の御祭神・大物主神は物部氏の神で、大物主神の「物」とは「物部氏」を意味しているのではないか。

星田妙見宮には次のような伝説が伝わっているとネット記事で読んだ記憶がある。

星田妙見宮は何度本殿を作っても火事になって焼失してしまう、それでこの神様は本殿は欲しくないのだろうということになり、本殿をつくっていない。

そしてこれとほとんど同じ伝説を、大神神社に伝わる伝説として聞いた記憶があった。
しかし随分昔のことであり、テレビか何かの本で読んだのだと思うが、覚えていない。
なので残念ながらこれについてのソースを示すことができない。

⑤大物主神と大国主神は同一神?

大神神社の御祭神・大物主神と出雲大社の御祭神・大国主神は同一神とされている。

というのは、次のような神話があるからだ。

大国主神は少名彦名神とともに国作りを行っていたが、国作りの途中で少名彦名神は常世の国へいってしまった。
大国主神はこれからどうやって国作りをすればいいのかと途方にくれていたが、そこへ海の向こうから光り輝く神があらわれた。
大国主が神に名前を問うと、「私はあなたの幸魂、奇魂。私を祀れば国造りは完成するだろう」と言った。
そこで大国主が祀ったのが大神神社であるという。


Izumotaisha 17feb1875

国立公文書館所蔵「出雲大社絵図」(1875年〈明治8年〉頃作成)
中央にある一番大きな建物が神殿だろう。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Izumotaisha_17feb1875.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/66/Izumotaisha_17feb1875.jpg
不明 [Public domain]


⑥出雲大社の本殿は15階建てビルに匹敵する大きさだった。

大国主を祀る出雲大社には大きな本殿がある。
現在でも破格の大きさだが、かつてはもっと大きかったらしく、出雲大社の言い伝えでは、神殿の高さは上古には32丈(約96m)もあったという。
970年に源為憲が書いた『口遊(くちずさみ)』によれば『雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)』とある。
雲太は出雲太郎、和二は大和二郎の略で東大寺大仏殿、京三は京三郎の略で京都の大極殿を表しており、出雲大社・大仏殿・大極殿の順で建物が大きいという意味だ。
その当時の東大寺大仏殿の高さは15丈であり、出雲大社の本殿は十六丈(約48m)はあったと想定される。
高さ十六丈は現在の15階建ての高層ビルに匹敵する。

また、3本の木を鉄の輪で1つに束ね、柱の太さが1丈(3m)もある金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)』なども伝えられていた。
金輪御造営差図のような建物は構造的に無理だと考えられていたが、平成11年(1999)年から平成12年に行われた発掘調査の結果、拝殿北側から3本の柱の根本部分が発見され、しかも3本を束ねた柱の直径は約3mもあった。
こうして『金輪御造営差図』が現実のものであったことがわかった。

Izumo-taisha scale model 121281969 6127ff6b17 o

古代の本殿の模型
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Izumo-taisha_scale_model_121281969_6127ff6b17
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8e/Izumo-taisha_scale_model_121281969_6127ff6b17_o.jpg
Blue Lotus [CC BY 2.0 (
https://creativecommons.org/licenses/by/2.0)]

⑥出雲の国譲り

大国主といえば国譲りの神話で知られる。

天照大神に派遣されたタケミカヅチが大国主神に「国を譲れ」とせまった。
大国主は「二人の息子に聞いてくれ」と言った。
そこでタケミカヅチが大国主神の息子の事代主神に「国を譲れ」と迫ったところ、事代主神は「承知した」と答えて
逆手を打ち、海を青芝垣に変え、船を踏み傾けて姿を消した。(入水したのだろう。)

次にタケミカヅチは大国主神のもうひとりの息子タケミナカタと相撲をとった。
タケミナカタはタケミカヅチに手をつぶされて諏訪湖まで逃げたが逃げ切れず「国は天孫にさしあげる」と約束した。

大国主神は「二人の息子がそういうならば国は天孫にさしあげる。そのかわり天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を作ってほしい。そうすれば私はその宮殿に籠って外に出ることはないだろう。」

この大国主の言葉に従って作られたのが出雲大社で、出雲大社の社殿が大きいのは大国主の願いを聞き入れた、ということだろう。

⑦本殿を作らないのは、天皇家に従わないという意思表示だった?

一方、大物主神を祀る大神神社には本殿がない。
これについて、こんなことを言う人がいる。
「大国主神は宮殿をつくってもらえたが、大物主神は宮殿を作ってもらえなかったのだ。」

しかし伝説では、大物主のために何度本殿(宮殿)をつくっても潰れてしまうので、人々は大物主自身が本殿(宮殿)を欲していないと考えたということだった。

この伝説をどう考えるべきだろうか。

ニギハヤヒは初代神武天皇より早く畿内に天下った神であり、神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説がある。

日本書紀に次のような記述がある。

ニギハヤヒを神と奉じていたナガスネヒコは、日向より東征して畿内入りした神武と対峙し、次のように発言した。

「昔ニギハヤヒという天孫が天下り、私は妹のトミヤスヒメをニギハヤヒと結婚させた。
二人の間にはウマシマジノミコトという御子も生まれた。
あなたは天孫だというが、天孫がふたりもいるのか。
あなたは天孫だと偽って土地を奪おうとしているのではないか。」

神武は天つ神の子である証拠の天の羽羽矢と歩靱(かちゆき)を見せた。
それでもナガスネヒコは考えを改めなかったので、神武に服したニギハヤヒによってナガスネヒコは殺された。

(日本書紀)

ナガスネヒコは神と奉じていたニギハヤヒに殺されたとあるが、これは信用できない。
日本書紀は舎人親王らが編纂し元正天皇に奉納したものであり、天皇家に都合よく改竄されている可能性が高いからだ。

③で書いたように、大物主神=倭大物主命は物部氏の祖神・ニギハヤヒ=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と同一神であったのだろう。

実際のニギハヤヒ=大物主神は誇り高い人物であり、簡単に国を明け渡すような人物ではなかったのではないだろうか。

「私は宮殿などいらない。私は宮殿にこもったりはしない。もちろん国を天孫に譲ったりもしない!」
大物主はそんな風に考えているににちがいない、と人々は考え、大神神社に関しては出雲大社のように本殿をつくるということをしなかったのではないか。

しかしそれではあまりに大物主の祟りが恐ろしいということ大田田根子は大物主の怨霊を封じるため、三つ鳥居をつくり、三輪山から大物主神の怨霊が彷徨い出ないような呪術的な仕掛けをつくったのではないだろうか。

また本殿を造るのは秦氏の祭祀スタイルであり、本殿を作らず巨岩・沼・山などをご神体とするのは物部氏の祭祀スタイルだと考えられると思う。





ミシャクジ様の謎⑨ 30kmも運ばれた丈六の仏像 につづきます~



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[2019/09/21 16:28] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎⑦ 神殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイル? 

ミシャグジ様の謎⑥ 沼をご神体とする神社  よりつづきます~
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ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

①刀剣を神格化した神フツヌシ

春日大社の御祭神はアメノコヤネノミコト・タケミカヅチ・フツヌシ・ヒメガミの4柱である。
アメノコヤネノミコトは藤原氏の祖神、タケミカヅチ・フツヌシは藤原氏の守護神、ヒメガミはアメノコヤネノミコトの妻とされる。

春日大社の一柱・フツヌシは、刀剣を神格化した神だと考えられている。

春日大社 舞楽始 

春日大社

②神武天皇を助けた刀剣・フツノミタマ

記紀には「フツノミタマ」という神剣が登場する。

高倉下(タカクラジ)はこんな夢をみた。
葦原中国が騒がしいので、天照大神と高木神はタケミカヅチを葦原中国に派遣しようとした。
タケミカヅチは「自分が葦原中国へ行かなくとも、国を平定した剣があるのでそれを降ろせばいい」と言った。
高倉下が目覚めて倉の中を見てみると、倉の中に剣があった。

神武天皇が率いる軍は熊野で悪神の毒気にあたって倒れてしまった。
しかし、高倉下がこのフツノミタマをもたらすと意識を戻した。

 春日大社 萬灯篭2

春日大社


③フツノミタマ、物部氏が祭祀する石上神宮から出土。

フツノミタマは石上神社(奈良県天理市)にあると記紀には記されている。

石上神社はかつて地元では「いわがみさん」などとも呼ばれており、布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)を御祭神としている。
石上神社は古代軍事氏族の物部氏が祭祀し、大和政権の武器庫であったと考えられている。

石上神社にはもともと拝殿があるだけで本殿はなかった。
そして拝殿の奥の聖地を「布留高庭」として祀っていた。

「布留高庭」には二つの神宝が埋められていると言い伝えられていた。
1874年の発掘調査で布都御魂剣が、1878年の発掘調査では天羽々斬剣が出土し、1913年、これらを祀るための本殿が建造された。

 
石上神宮 3

石上神社


④物部氏の祭祀する神社は神殿がない

大阪府交野市付近は肩野物部氏の本拠地だったが、星田妙見宮・磐船神社・など神殿のない神社が多い。
どちらの神社も拝殿より直接ご神体の巨大な岩を拝するという祭祀スタイルである。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 ご神体 天の磐船


星田妙見宮 織女石  

星田妙見宮 織女石

磐船神社は物部氏の祖神・ニギハヤヒを御祭神とする神社なので、物部氏が祭祀する神社でまちがいないといえそうだ。
また交野市の隣・枚方市にある片埜神社の境外社・瘡(くさがみ)神社も拝殿よりその背後にあるご神体の沼を拝する。
交野市・枚方市は肩野物部氏の本拠地だったところである。

瘡(くさがみ)神社 

瘡神社 鳥居の左右の脚の長さがちがっていたw 2018年の台風で折れたのかも?

石上神社ももともとは本殿がなかったということであるし、本殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイルなのではないだろうか。
物部氏以外にもそういう祭祀スタイルを持つ氏族はあるのかもしれないが。

④伊勢神宮は陽=生の神、石上神宮は陰=死の神?

石上神宮境内では鶏がたくさん飼われていた。
鶏は石上神宮の神使なのだ。
白い鶏もいたが、その多くは茶色の鶏だった。

石上神宮 鶏

鶏といえば伊勢神宮でも神とされて飼われているそうである。
私は伊勢神宮は参拝したことがない。
そこで、「伊勢神宮 鶏」で画像検索してみると、茶色い鶏もいるが、白い鶏の写真の方が多いようである。
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE+%E9%B6%8F
きちんと確認する必用があり、推論にすぎないが、

伊勢神宮の神使・・・白い鶏・・・・・・・・・・・陽
石上神宮の神使・・・黒い(色のついた)鶏・・・・陰

のように、陰陽の関係になっているようにも思える。

参照/
陰陽 黒と白⑳最終回 『まとめ と 神の性別を変える呪術』  

陰陽道では万物は陰陽両面を持つと考える。
生死を陰陽で表すと、生が陽、死が陰である。
性別天体光度天気生死
陰(黒)
陽(白)太陽

また陽は白、陰は黒で表される。

Yin yang

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AYin_yang.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg よりお借りしました。
作者 Gregory Maxwell [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


すると、伊勢神宮は陽=生の神、石上神宮は陰=死の神 なのではないかと思える。

また、伊勢神宮は呼名を「磯宮」といったそうだが、石上神宮を思わせる神社名である。

物部氏の祖神・ニギハヤヒは先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)と表記されており、ニギハヤヒが本当の天照大神ではないかとする説がある。

またニギハヤヒは初代神武天皇が日向から東征して畿内入りする以前、すでに畿内に天下っていたとされる。
ここから初代神武以前、畿内には物部王朝があったとする説もある。

私は天照大神とは男神・ニギハヤヒのことであったと思う。
そして天照大神の子孫が葦原中国をおさめるべきというようなルールがあったのではないかと思うのだ。

岩戸山ご神体 天照大神

祇園祭 岩戸山 ご神体の天照大神は男神だった。天照大神を男神とする伝承は各地にある。鳥居にとまっているのは茶色い鶏である

あとから畿内にやってきた神武(天皇家の先祖)には葦原中国を支配する方法はある。
物部王朝に婿入りし、物部氏の女性である自分の妻を王として、自分は摂政のような形で政権を牛耳るというやり方だ。

さらに本来男神であった天照大神を女神に変え、同複の兄妹または姉弟の結婚を禁忌とする。
(古事記の衣通姫と軽太子の話は同複の兄妹または姉弟の結婚を禁忌とする。)
そして、皇位継承を男系に限る。

そうすれば、神武(天皇家の祖先)の血筋がずっと皇位継承されることになる。
これが天皇家の万世一系の正体なのではないかと思う。

そして男神の天照大神を石上神宮に祀って死霊とし、女神の天照大神を伊勢神宮に祀って生霊としたのかも?

石上神宮 雨 
石上神宮


ミシャグジ様の謎⑧ 大神神社は物部氏が祭祀する神社? につづきます~



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[2019/09/03 12:07] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎⑥ 沼をご神体とする神社 

ミシャグジ様の謎⑤ 交野ヶ原の天の川伝説 よりつづきます~
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ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 


片埜神社2 
片埜神社

①アテルイの首塚


おや、片埜神社(大阪府枚方市)の境内に鬼の面が。

このあたりは豊臣秀吉が築城した大坂城の鬼門(東北)にあたる。
そのため片埜神社は大阪城の鬼門除けの神社として信仰されたという。
それで、ここに鬼の面が置いてあるのだろう。

片埜神社-鬼の面 

②アテルイの首塚

しかし私はこの鬼の面を見ると、片埜神社の隣の牧野公園にあるアテルイの首塚(地元では蝦夷塚と呼ばれている。)や牧野公園の東北3丁(327m)離れた場所(枚方市宇山東町6-1)にあったというアテルイの胴塚をイメージしてしまう。

アテルイの首塚がある牧野公園はかつては片埜神社の境内であったといわれる。

アテルイは吾妻鏡などに登場する悪路王と同一視されているが、悪路王は伝説の中では鬼とされていることがある。

アテルイ(?~802年)は大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)などとも記され、奈良時代末期から平安時代初期ごろ、東北地方に住んでいた蝦夷の首長だった。

このころ、東北にはまつろわぬ民(朝廷に従わない人々)が結構いたようで、蝦夷と呼ばれていた。
802年、征夷代将軍・坂上田村麻呂は東北のまつろわぬ民を攻撃し、苦戦の末、勝利を納めた。
坂上田村麻呂は蝦夷の首長であるアテルイとモレを京へ連れ帰った。
坂上田村麻呂は朝廷にアテルイとモレの助命を嘆願したが、聞き入れられず、ふたりは河内国杜山で処刑された。

アテルイの首塚 
牧野公園 アテルイの首塚

アテルイ・モレが処刑された場所は「杜山」のほか、「植山」「椙山」と記した史料もある。
しかしいずれも河内国には存在しない。

枚方市宇山は江戸時代初期には上山という地名だった。
そこで植山は上山で、現在の枚方市宇山にある塚がアテルイの墓ではないかとする説がある。

昭和63年に枚方市教育委員会が牧野公園の東北にある塚(アテルイの胴塚と考えられていた。)を発掘調査した結果、6世紀後半の円墳と判明した。(宇山1号墳)
アテルイの墓とするには時期がずれている。
現在はその上にマンションが建てられていて、現存しない。

宇山1号墳の東には宇山2号墳があったそうだが、こちらも現存しない。

牧野公園東の坂道(府道17号枚方高槻線)は、「祟り坂」と呼ばれ、ここで転ぶとケガは一生治らないと言い伝えられているそうである。

この話を聞いた限りでは、牧野公園のアテルイの首塚は発掘調査されていないようであるが?

アテルイが処刑された場所が現在の牧野公園かどうかわからない。

しかし、宇山1号墳(2号墳は詳しい情報がつかめていないため、わからない)は6世紀後半の円墳なので、アテルイの胴塚ではないだろう。

③宇山1号墳は肩野物部氏の墓?

このあたりは古には肩野物部氏の本拠地だった。
宇山1号墳は肩野物部氏の首領クラスが眠る墓ではないだろうか。

初代神武天皇がやってくるより早く、このあたりにニギハヤヒという神が天下っていたということは
こちらの記事に書いた。→ ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

ニギハヤヒは物部氏の祖神とされている。

ニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコという者があり、神武にこういった。

「私の妹は天孫ニギハヤヒの妻となり、ウマシマジノミコトという御子も生まれた。
あなたは天孫だというが、天孫は二人もいるのか。あなたは天孫だと偽って土地を奪おうとしているのではないか。」

神武はナガスネヒコに天孫の証である天の天羽々矢(あまのははや)と歩靱(かちゆき)を見せたが、それでもナガスネヒコは納得しなかった。

ナガスネヒコは神武に服したニギハヤヒに殺された。

と日本書紀には記されている。

その後、ニギハヤヒの子孫である物部氏は蝦夷とともに東へのがれたともいわれる。
ニギハヤヒの兄・アビヒコは安倍氏の祖だといわれるが、阿倍氏は蝦夷である。
このように物部氏は蝦夷と関係が深そうに思われる。

アテルイの首塚が地元で蝦夷塚と呼ばれているのは、アテルイが蝦夷であるというだけでなく、物部氏が蝦夷と関係が深いところからそう呼ばれているのかもしれない。

④朝原神社と瘡神社は道祖神?

片埜神社から東へ歩いていくと片埜神社の境外社の朝原神社がある。猿田彦神を祀っている。

朝原神社 

朝原神社

朝原神社の隣は枚方東消防署阪出張所で、その隣が同じく片埜神社の境外社の瘡(くさがみ)神社である。

瘡(くさがみ)神社 

瘡神社 鳥居の左右の脚の長さがちがっていたw 2018年の台風で折れたのかも?

瘡神社は次のような伝説を伝えている。

菅原道真が無実の罪で流罪となり大宰府へ向かう途中、この地で道真の馬が倒れた。
道真は馬を地元の人に託して大宰府へ向かった。
地元の人は手厚く介抱したが、馬は死んでしまった。
馬が埋葬された場所には馬の好物である草がたくさんお供えされ、「草神様」と呼ばれるようになった。
この「草神」が「瘡(くさ)神」に転じて「瘡神社」となり、皮膚病にご利益があると信仰された。


私たちは、磐船神社・星田妙見宮など神殿のない神社を見てきた。
磐船神社・星田妙見宮は大阪府交野市にあるが、片埜神社のある枚方市は交野市と隣接している。
そして交野市・枚方市のあたりは古には交野ケ原と呼ばれていた。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 ご神体 天の磐船

星田妙見宮 織女石  

星田妙見宮 織女石

片埜神社の境外社・瘡神社にも神殿がない。
写真の建物は「お籠り堂」で、かつてここに籠って皮膚病祈願が行われていたが、現在は拝殿となっている。
ご神体は岩ではない。拝殿の奥にある沼がご神体となっている。

沼や池には弁財天が祀られることが多い。
女神は水神なのだ。

瘡神社の現在の祭神は火酢芹命だが、もともとは異なる神を祀っていたという。
もともとここに祀られていた神は、女神のアメノウズメではないだろうか。

日本では道祖神は猿田彦神とアメノウズメの男女双体の神とされている。
朝原神社と瘡神社で、道祖神をあらわしているのかもしれない。
参照/ミジャクジ様の謎③ 『ニギハヤヒは太陽神?それとも星の神?』 

河治温泉 如意輪観音 道祖神

川治温泉の道祖神(向かって左)




ミシャグジ様の謎⑦ 神殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイル?  につづきます~



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[2019/08/30 16:49] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(2)

ミシャグジ様の謎⑤ 交野ヶ原の天の川伝説 


ミシャグジ様の謎④ 『何度作っても神殿が焼けてしまう神社』  よりつづきます~
トップページはこちらです→ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 


①天田神社はアルタイル、星田妙見宮の織女石はベガ

前回の記事で、私は次のように書いた。

星田妙見宮から天野川を挟んだ対岸には天田神社があり、天田(豊に実る田)の神を祀っている。
この天田は牽牛が耕す田で、対岸の織女石は織姫であると考えられたという。

このような伝説があり、交野ケ原と呼ばれた大阪府交野市・枚方市あたりは七夕伝説発祥の地とされている。

星田妙見宮 織女石

星田妙見宮 織女石

天田神社

天田神社

七夕伝説とはみなさんよくご存じのように、年に一度、旧暦の7月7日に牽牛と織姫が天の川にかけられた鵲の橋をわたって逢瀬を楽しむという伝説である。

この伝説は夏の夜空を擬人化したものとされている。

すなわち牽牛はアルタイル(牽牛星)、織姫はベガ(織女星)であり、鵲がかける橋は白鳥座だといわれている。

観音山公園付近 石碑

中山観音寺近くにある説明板

天田神社はアルタイル、星田妙見宮の織女石はベガに喩えられたのだろう。
そして天田神社と星田妙見宮の間を流れる川はずばり、天の川という名前である。

②中山観音寺の牽牛石はアルタイル、機物神社はベガ

交野が原にはもう一組、牽牛星・織女星に喩えられた場所がある。

中山観音寺跡(観音山公園)にある牽牛石と、機物神社である。

下の地図の東側、第二京阪道路とJR片町線が交差するあたりに機物神社が、西側香里ヶ丘中央公園の南あたりに中山観音寺跡がある。
5kmほど離れているだろうか。



郡津駅の西側を南北に流れる川は天野川である。

天野川は天上の天の川を、中山観音寺はアルタイル(牽牛星)を、機物神社はベガ(織女星)を表すものとされ
天野川には牽牛と織姫が年に一度逢瀬を楽しむという合逢橋もある。


観音山公園 牽牛 七夕飾り 
中山観音寺跡(観音山公園)

中山観音寺 牽牛石 
中山観音寺跡(観音山公園) 牽牛石

機物神社 七夕飾り 
機物神社

機物神社の背後には交野山があり、巨大な磐座がある。もしかしたらこれが機物神社のご神体で、織女石かもしれないと思った。

交野山

交野山 ↑↓


交野山

交野山 観音岩

交野山 磐座

③小さな男神と大きな女神

牽牛石に比べて交野山の磐座ははるかに巨大である。
その巨大な磐座が女神の織姫を表す磐であるというのはおかしいように思うかもしれない。

しかし、雛人形のルーツになったともいわれる和歌山県加太の淡島大社の雛守りは、男装をした神功皇后と赤子の応神天皇のペアであり、神功皇后の方が大きく作られている。

また少彦名神と大穴持命のペアの話が記紀にあるが、大きな穴を持つ神(命)とは女神ではないだろうか。

大穴持命は大国主の別名とされ、大国主には妻があるところから男神だと考えらえる。
すると大穴持命も男じゃないのか、といわれそうだが、
どうも日本の神は性別がルーズなようで、

謡曲三輪では男神であるはずの三輪明神は女神として登場している。
また祇園祭の岩戸山のご神体の天照大神は女神ではなく男神だった。

聖徳太子が女性に生まれ変わって親鸞の妻になろう、と言ったという話もある。

また交野山が女神、磐座は男神で男女和合を表しているようにも見える。

④天田神社に牽牛石はあるか?

もう一度、天田神社の写真を見てみよう。

天田神社

天田神社

天田神社由緒と記された説明板の後ろにある石は、なんとなく中山観音寺の牽牛石に似ている。
もしかするとこの説明板の後ろにある石が天田神社の牽牛石なのかもしれない。

中山観音寺 牽牛石 
中山観音寺跡(観音山公園) 牽牛石

枚方パーク 夕景

天の川より枚方パーク観覧車を望む。



ミシャグジ様の謎⑥ 沼をご神体とする神社 につづきます~



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[2019/08/28 14:51] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎④ 『何度作っても神殿が焼けてしまう神社』 


ミジャクジ様の謎③ 『ニギハヤヒは太陽神?それとも星の神?』 よりつづきます~
トップページはこちらです→ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

①隕石が落ちた神社


初回の記事ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? で私たちは磐船神社を訪れた。
今回はこの磐船神社の西北2kmほどのところにある星田妙見宮を訪ねてみよう。

星田妙見宮 鳥居 紅葉

星田妙見宮

星田妙見宮

星田妙見宮 絵馬堂


妙見山の頂上近くに星田妙見宮の拝殿があり、その奥に織女石(たなばたいし)が祀られている。
たぶんこの織女石が御神体なのだろう。本殿はないようである。

星田妙見宮 織女石  

星田妙見宮 織女石

星田妙見宮の説明板に次のような旨が記されていた。

816年、ここに隕石が落ちたことで山が吹き飛ばされ、馬蹄形になっている。
落ちたのはペルセウス座流星群の母彗星スイフト・タッフル彗星からの隕石である。

星田妙見宮 滝の説明版

星田妙見宮-説明版

どうやら816年ここに隕石が落ちたというのは、星田妙見宮に伝わっている話であり、正史に記録があるというわけではなさそうであるが。

また星田妙見宮には隕石が落ちてきたという伝説はあっても、本物の隕石が存在しているわけではなさそうである。


②古の人々は巨石を空から落ちてきた星だと考えた?


「拝殿の奥にある織女石が、星から落ちてきた隕石である。」
古の人々はそう考えたのではないかと私は思う。
その理由を述べる。

『雲陽誌』には『星降って石となる』という古語があると記されている。
それが隕石であるかどうかは別にして、古の人は巨岩を空から落ちてきた星だと考えたのではないかと思われる。

初回にご紹介した磐船神社の御神体・天の磐船。
磐船神社の御祭神はニギハヤヒという物部氏の祖神で、ニギハヤヒはこの天の磐船を操ってここに天下ったとされる。

さらに『ニギハヤヒは星の神である』との旨が『雲陽誌』には記されている。

天の磐船は隕石ではないが、古の人は巨石を空から落ちてきた星であると考え、
「ニギハヤヒがこの天の磐船を操って地上に天下った」という物語を創作したのではないかと思うのだ。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 ご神体 天の磐船

③作っても作っても神殿が焼けてしまう神社

ネットでぐぐってみたところ、「星田妙見宮は何度神殿を作っても火事になって焼失してしまう、それでこの神様は神殿は欲しくないのだろうということになり、神殿をつくっていない」という記事を読んだ。

しかしもう何年も前のことで、記憶が定かではない。

また今ぐぐってみても、この記事は見つからない。

④星田妙見宮と天野川を挟んで対面する天田神社

天田神社 
天田神社

ついでなので、星田妙見宮から天野川を挟んだ対岸にある天田神社にも立ち寄ってみることにしよう。

天田神社は天田(豊に実る田)の神を祀っている。
この天田は牽牛が耕す田で、対岸の織女石は織姫であると考えられたという。

天田神社 絵 
天田神社に奉納された絵


星田妙見宮に神殿はなかったが、天田神社には神殿があった。



天田神社付近の田圃 
天田神社周辺には田圃が広がっていた。





ミシャグジ様の謎⑤ 交野ヶ原の天の川伝説  につづきます~



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[2019/08/23 13:37] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミジャグジ様の謎③ 『ニギハヤヒは太陽神?それとも星の神?』 

ミシャグジ様の謎② 太陽と月が結婚すると星の神になる? よりつづきます~
トップページはこちらです→ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 


①ニギハヤヒは太陽神?それとも星の神?

前回私は、次のように述べた。

物部氏は製鉄・鋳造の技術に長けており、そのため物部氏の神は星の神だとする説がある。
また雲陽誌という書物には次のような内容が記されている。
島根県松江市の松崎神社では延宝7年に石が 掘り出され、古語『星隕って石となる』から神・ニギハヤヒの石として宝物にした。
ニギハヤヒは星の神。」


これに対して、こんな反論があるかもしれない。

ニギハヤヒは先代旧事本記では天照国照彦火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)と表記されている。

一方、天照大神は男神とする説がある。
天照大神は女神であるアメノウズメのストリップダンスに興味を持って天岩戸からでてきた。
女神のストリップに興味を持つのは男だ。よって天照大神は男だとする説がある。
そして天照国照彦火明櫛玉饒速日命が本当の天照大神ではないかともいわれている。

するとニギハヤヒは太陽神だ。星の神ではない。


岩戸山ご神体 天照大神

祇園祭 岩戸山 ご神体の天照大神は男神だった。

いったいニギハヤヒは太陽神なのか、星の神なのか。

私はニギハヤヒは太陽神、アメノウズメは月神、ニギハヤヒとアメノウズメの男女双体の神が星の神だと私は考えている。

②伏義は太陽神、女媧は月の神?

中国伏義と女媧という兄妹で夫婦でもある神がいる。

五盔墓4号墳の壁画は、伏義が持ち上げている円の中に八咫烏が、女媧が持ち上げている円の中にはヒキガエルが描かれている。
八咫烏は太陽の中に、ヒキガエルまたはウサギは月に住むと考えられてた。

五盔墓4号墳の壁画を見ると、伏義は太陽の神、女媧は月の神のように思われる。

ファイル:Anonymous-Fuxi and Nüwa3.jpg

伏義と女媧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg
よりお借りしました。


伏義は地の神、女媧は天の神?

ところがウィキペディアの伏義と女媧の図には太陽を表す八咫烏や月をあらわすヒキガエルは描かれていない。
その代わり絵の上部に菊のようなものが、下部にクロワッサンのようなものが描かれている。
菊のようなものは太陽、クロワッサンのようなものは月だと思う。

そして伏義と女媧は蛇身の下半身を絡ませている。
五盔墓4号墳の壁画にあるように伏義=太陽神、女媧=月神であり、上の図は太陽神・伏義と月神・女媧の和合(結婚)を表しているのではないだろうか。

月が太陽の上に重なれば日食である。(蛇足/太陽が月の上に重なるということはない。月のほうが地球に近いからだ。月食は月に地球の影が映る現象で月と太陽の和合ではない。)

上の伏義と女媧の図は日食を表していると思う。
というのは二神の周囲に星が描かれているからだ。

皆既日食がおこると皆既日食では日没後20分から30分くらいたった程度に暗くなり、明るい星であれば観測されるそうである。

太陽神と月神が重なると星の神になるのだ。




④女神が男神の足を踏みつける大聖歓喜天

大聖歓喜天という仏教の神がある。
大聖歓喜天はもともとはヒンズー教の神であったのが、のちの仏教にとりいれられて仏法守護の神とされた。
大聖歓喜天のお姿は道祖神や伏羲&女媧と同じく男女の神が抱きあう姿で表され、次のような伝説がある。

鬼王ビナヤキャの祟りで国中に不幸な出来事がおこった。
そこで十一面観音はビナヤキャの女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われた。
ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、『自分のものになれ』と命令した。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓った。
 

双身歓喜天像の相手の足を踏みつけているほうが、十一面観音菩薩の化身ビナヤキャ女紳とされる。

Icon of Shoten

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AIcon_of_Shoten.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Icon_of_Shoten.jpg よりお借りしました。
作者 不明 (平安時代の図像集『別尊雑記』(心覚 撰)巻 42より) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で




伏義&女媧と大聖歓喜天はよく似ている。
伏義&女媧の腕がつながっている点に注意してほしい。
大聖歓喜天は女神が男神の脚を踏みつけることで、女神と男神の脚はつながっているとみることもできる。
大聖歓喜天は脚がつながっているが、伏義&女媧は腕がつながっているというわけである。

伏義&女媧の影響を受けて大聖歓喜天が創作されたか、大聖歓喜天の影響を受けて伏義&女媧が創作されたのではないかと思う。

⑤道祖神

さらに日本の道祖神も伏義&女媧に似ている。
道祖神はもともとは中国の道教の神なのだが、日本では猿田彦神と天鈿女の男女双体の神として信仰されている。

下の道祖神の写真を見てほしい。
道祖神はこの写真のように男女の神像が手をつなぎあう姿で表される。

それは手のつながった伏義と女媧を思わせるお姿である。


多気山不動尊 道祖神

多気山不動尊 道祖神

④道祖神は猿田彦がアメノウズメのセックスにおぼれ死んでいるの図

道祖神は日本では猿田彦神と天鈿女の男女双体の神だとされているということはすでに述べたとおりだが、猿田彦神と天鈿女は記紀神話の天孫降臨のシーンに登場する。

天孫ニニギの葦原中国降臨の際、天上の道が八衢に分かれている場所に立ち、高天原から葦原中国までを照らす神があった。
天照大神と高木神は天鈿女に命じて、神の名前を尋ねさせた。
天鈿女は神の前にたち、胸をあらわにし、腰ひもをずらし、神に名を訪ねた。
すると『私は国津神で猿田彦神と申します。ニニギを葦原中国まで道案内しようと思い参りました』と答えた。
ニニギは猿田彦神に道案内されて葦原中国の日向の宮へと天下った。
その後、ニニギは天鈿女に『猿田彦神をもともと彼が住んでいた伊勢へと送り届け、猿田彦神の名前を伝えて仕え祭れ』と命じた。
ここから天鈿女は猿女君と呼ばれるようになった。
のちに猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死んだ。(古事記)


ニニギは天鈿女に『猿田彦神をもともと彼が住んでいた伊勢へと送り届け、猿田彦神の名前を伝えて仕え祭れ』と命じている。

「仕える」というのは「性的に仕える」という意味で、
「猿田彦神の名前を伝えて仕え祭れ」というのは、天鈿女に猿田彦神と結婚せよ、と命じたということではないだろうか。

天鈿女は天の岩戸の前でストリップダンスをした神、性の神なのである。

「サルタヒコは比良夫貝に手を挟まれて溺れ死んだ」とあるが、貝は女陰の比喩だと思う。
つまり猿田彦神は天鈿女のセックスにおぼれて死んだということだと思う。

そこでもう一度道祖神の写真を見てほしい。
男女の神像が手をつなぎ合っているように見えるが、これは手をつないでいるのではなく、大聖歓喜天のビナヤキャ女神が鬼王ビナヤキャの足を踏みつけているのと同じで、和合を表すサインなのだと思う。

道祖神の中にはストレートに和合したお姿のものもあるそうだが、我々の先祖はストレートな表現を好まず、わかる人にはわかる的なサインを用いたのだろう。

つまり、道祖神とは猿田彦神が比良夫貝に手を挟まれて溺れ死んでいるの図(猿田彦神が天鈿女のセックスに溺れしんでいるの図)だといえるのではないかと思う。

河治温泉 道祖神

川治温泉 道祖神

⑤道祖神は星の神


道祖神について、ウィキペディアは次のように記している。

道祖神(どうそじん、どうそしん)は、路傍の神である。集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E7%A5%96%E7%A5%9Eより引用

ウィキペディアは、道祖神が旅や交通安全の神として信仰されるようになったのは近世としている。

これについては詳しく調べてみる必要があるが、道祖神はもとから道案内の神、旅の神として信仰されていたのではないかと私は思う。

そういえば、道祖神は猿田彦神と天鈿女の男女双体の神とされるが、猿田彦はニニギを道案内しているではないか。

③⑤でみたように、道祖神と伏義&女媧はよく似ている。
道祖神と伏義&女媧は習合されているといってもいいだろう。

伏義は太陽の神、女媧は月の神。太陽と月が和合することは日食である。
日食がおきると夜のように暗くなって星がみえる。なので伏義&女媧は星の神だと考えられる。

すると道祖神も星の神だと考えられるが、星は方角を知るのにかかせないものだった。
太陽や月は毎日位置をずらしていくので、これらから方角を正確に知ることはむつかしい。
しかし星は地平線から出入りする時刻はずれるが、地平線から出入りする方角は常に一定である。
特に天の中心にあって動かない北極星や真東からでて真西に沈むオリオン座の三つ星などは航海の指標とされていた。

飛鳥坐神社 むすひの神石

飛鳥坐神社 むすびの神石

飛鳥坐神社には上の写真のような陰陽石がたくさん置かれている。
「むすびの神石」と呼ばれているが、これは道祖神と言ってもいいだろう。
関西にはどういうわけか男女の神像で表した道祖神はあまり見かけない。


⑥猿田彦神とニギハヤヒは同一神?

④に記した古事記の伝説をもう一度読んでみてほしい。
「猿田彦神は高天原から葦原中国までを照らす神」と記述されている。
これにぴったりな神名を持つ神がいる。

天照国照彦火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)である。

高天原を天、葦原中国を国とすれば、「高天原から葦原中国までを照らす神」とは「天照国照彦」となる。

天照国照彦火明櫛玉饒速日命とは①で記した星の神・ニギハヤヒのことである。

さらに④の伝説によると猿田彦神の故郷は伊勢だとある。
伊勢には天照大神を祀る伊勢神宮がある。
猿田彦神は天照大神と同一神なのではないか。
さらに猿田彦神とニギハヤヒ(天照国照彦火明櫛玉饒速日命)は同一神なので、ニギハヤヒが天照大神だということになる。

もともとニギハヤヒは太陽神・天照大神だった。
そしてニギハヤヒ=猿田彦神が天鈿女と和合した結果、星の神になったということではないか。

そういえば、ニギハヤヒを祀る磐船神社(大阪府交野市)のそばを流れる川は天の川といい、川をはさんで星田妙見宮の織女石と天田神社、中山観音寺跡の牽牛石と機物神社が対面している。
星田妙見宮の織女石や機物神社はベガ(織女星)に、天田神社や中山観音寺跡の牽牛石はアルタイル(牽牛星)になぞらえられ、
このあたりは天の川伝説発祥の地ともいわれている。

牽牛はニギハヤヒ=猿田彦神、織女は天鈿女であり、ニギハヤヒ=猿田彦神と天鈿女を和合させる呪術として、これらの神社や石は置かれているのかもしれない。

磐船神社 天の磐船

磐船神社(大阪府交野市) 
写真は御神体の天の磐船。
ニギハヤヒはこの天の磐船を操ってここに天下ったと伝わる。




ミシャグジ様の謎④ 『何度作っても神殿が焼けてしまう神社』 につづきます~



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[2019/08/20 10:15] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)