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私流 トンデモ百人一首 88番 難波江の~ 『藤原聖子を震え上がらせた歌?』  

小倉百人一首88番
波江の ()のかりねの 一よゆゑ 身をつくしてや 恋ひわたるべき/皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)

(難波江の、蘆を刈ってつくった小屋での、たった一夜の仮の一夜、蘆の一節(ひとよ)のような一夜のために、難波江に建てられている澪標の言葉と同じように身を尽くして 恋しつづけるべきでしょう。)

まいしまシーサイドパーク ネモフィラとヨット

舞洲シーサイドパーク ネモフィラ

皇嘉門院別当は崇徳院皇后・藤原聖子に仕えていた女性

この歌の作者は皇嘉門院別当となっているが、
皇嘉門院とは崇徳院(1119-1164)の皇后・藤原聖子(摂政・藤原忠通の娘/1122-1182)の院号、
別当とは院・女院・親王家・摂関家以下の公卿の家政を担当する院司(上皇・女院の直属機関)・家司(親王・内親王・職事三位以上の公卿・将軍家などに設置された家政を司る機関) の上首(長官)をいう。

つまり、皇嘉門院別当とは崇徳院の皇后・藤原聖子の院司の長官であった女性、という意味である。
当時の女性はおいそれと名前を語ることはなかったので、本名がわからないことが多い。
それで皇嘉門院別当という役職名で呼ばれているのだろう。

皇嘉門院別当が仕えていたのは藤原聖子だが、なぜ彼女の本名がわかっているのかというと、
天皇に入内すると位があたえられ、正史に記録が残るためである。

皇嘉門院別当(生没年不詳)は村上源氏(村上天皇の血筋)で、源師忠の曾孫。源俊隆の娘ということである。

まいしまシーサイドパークより大阪湾を望む

舞洲シーサイドパークより大阪湾(難波江)を望む。

②九条兼実が右大臣だったころ、九条兼実家の歌合で詠んだ歌

この歌の詞書に次のようにある。

「摂政右大臣の時の家歌合に、旅宿逢恋といへる心をよめる」
これは、「摂政が右大臣だったときの家歌合わせで、旅宿逢恋という心を詠んだ」という意味だと思う。

摂政とは誰か?

この歌は千載和歌集にある歌である。
千載和歌集は1183年、後白河院(1127- 1192)より藤原俊成(1114-1204)に撰集が命じられたもので、1188年に完成した。

1188年の千載和歌集完成時、摂政だったのは九条兼実である。
九条兼実が右大臣だったのは1166年から1186年で、1186年に摂政となっている。
摂政とはこの九条兼実のことだろう。

千人万首というサイトでも右大臣は九条兼実としており、
「皇嘉門院別当が仕えた皇嘉門院は兼実の異母姉にあたり、この縁から別当は兼実家の歌合にしばしば出詠したものらしい。」
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/k_bettou.html より引用
と記している。

皇嘉門院の父親は摂政・藤原忠通、母親は藤原宗子、九条兼実の父は藤原忠通、母は加賀局(藤原仲光の娘)で、確かに二人は異母姉弟である。

皇嘉門院別当は1175年の『右大臣兼実家歌合』や1178年の『右大臣家百首』など、兼実家歌合で歌を詠んでいる。
ただし、「難波江の~」の歌は九条兼実が右大臣だった1166年~1186年の間に行われた兼実家歌合で詠んだということがわかるだけで、歌を詠んだ正確な日時などはわからない。(もし日時等わかっていたら教えてくださいね)

京都御所 1

京都御所

③掛詞の多用

詞書にある「旅宿に逢ふ恋」とは「旅の宿で逢った相手との情事」のことである。
「難波江」は現在の大阪市あたりのことで、現在よりも湾が深く内陸部にまで入り込み、浅い海や蘆が生えた湿地帯が広がっていた。
「かりね」は「刈り根」と「仮寝」の掛詞、
「一よ」は「一夜」と蘆の「一節」の掛詞になっている。
さらに「身をつくしてや」は澪標(みをつくし)の掛詞。

織田正吉さんによれば、澪標とは「澪つ串」の意味であるという。
澪とは水尾で、水深の深い場所を表す水路標識を澪標というのだと。

古の大阪港は水深が浅く座礁する危険性のある個所がたくさんあったそうである。
そのためこのような澪標をたてて航路を示したのである。

Miotsukushi in Osaka

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Miotsukushi_in_Osaka.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/88/Miotsukushi_in_Osaka.JPGよりお借りしました。
不明 [Public domain]

澪標は大阪市の市章にもなっている。
それほど、難波江は澪標で有名だったということだろう。

かりね・・・刈り根 仮寝
一よ・・・・一節 一夜
みをつくしてや・・・身を尽くしてや 澪標

このように掛詞を多用しているので、イメージが重複して、印象深い歌になっていると思う。

護王神社 亥子祭 行列3

京都御所と護王神社と亥子祭の行列

④「恋ひわたるべき」は「恋し続けることになるのでしょうか」ではなく「恋し続けるべきです」では?


「べき」は「べし」の連体形であるが、「べし」には様々な意味がある。

【「べし」-古典文法】

(1) 意味

① 推量(~だろう・~そうだ)
② 当然(~はずだ・~べきだ)
③ 意志(~う(よう)・~つもりだ)
④ 適当(~のがよい)
⑤ 命令(~せよ)
⑥ 可能(~ことができる)

(2) 活用 形容詞(ク活用)型

未然形連用形終止形連体形已然形命令形

(べく)

べから

べく

べかり

べし

べき

べかる

べけれ

(3) 接続 終止形

活用語の終止形に付く。ただし、ラ変型活用語には連体形に付く。

(4) 「べらなり」

推量(~ようだ)をあらわす助動詞。中古の漢文訓読文や和歌に用いられた。

https://kobun-benkyou.jimdo.com/%E5%8A%A9%E5%8B%95%E8%A9%9E/%E3%81%B9%E3%81%97/より引用


「恋ひわたるべき」は一般的には「恋しつづけることになるのでしょうか」と疑問形で訳されることが多い。
しかし「べき」は「べし」の連体形である。
連体形とは「体言(名詞・代名詞・数詞の総称)に連なる」という意味なので「べき」のあとに、体言がくるのが本来の在り方ではないか。

https://kazsa.hatenablog.com/entry/20141013/1413202139
上のブログ「べき/べし(べき止め)」という記事には次のようにあります。

「べき」は連体形です。文末に来る場合、助動詞「である」「だ」「です」をとる「○○べきだ」などの形がふつうです。
助動詞を付けないなら終止形「べし」を用いて「○○べし」となるはずですが、「○○べき」といいきる形がめだちます。
・・・・・略・・・・・
1998年の
第28回年金審議会全員懇談会議事録に下記の発言が記録されていました。
「『べき』で文章を止めて、べきであるか、べきでないか、わからない文章を並べる。これは現代の、若い世代の共通の文体です。今お話のありました『意見』で止める体言止めも現代の若い世代の文体です。これは日本語の作文教育の成果です。『べき』止めは多分『べきである』と読むようです。『意見』というのは『意見があった』という趣旨のようです」
16年後の今、仕事でお役所の文書を読むことが多いせいか、「べき止め」には頻繁にお目にかかります。すでに「若い世代」どころか全世代共通の表現なのかもしれません。


すでに「若い世代」どころか全世代共通の表現なのかもしれません。

とありますが、平安末期すでに「べき止め」が用いられているw。

それはともかく、「恋ひわたるべき」を疑問形で訳すのは自分的には違和感がある。
「べき止め」とすれば、本来は「べきなり」なので、「恋し続けるべきです。」と訳すべきではないのだろうか?
(もし間違っていれば指摘をお願いします。)

護王神社 亥子祭2

護王神社 亥子祭

⑤本歌取り

ところで、以前にどこかで似たような歌を聞いたように思わないだろうか。

そう、以前の記事、私流 トンデモ百人一首 20番 わびぬれば・・・ 『業平の二の舞を踏んだ元良親王』 でご紹介した
元良親王の歌に似ている。

わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ/元良親王
(こんなに思い悩んでしまった今はもうどうなってもいい。難波の海の澪標の言葉どおり、身を尽くして(身を滅ぼして)もあなたに逢いたいと思う。)


実は皇嘉門院別当の歌は、この元良親王の歌を本歌取りした歌なのだ。

本歌取りとは、有名な古歌(本歌)の1句もしくは2句を自作に取り入れて歌を詠むテクニックのことをいう。
こうすることで、歌に本歌のイメージも重なって、より味わい深い歌になる。

「わびぬれば」の歌は、実は不倫の恋の歌なのである。
「後撰集」の詞書には「事いできて後に、京極御息所につかはしける」とある。

「事いできて後に」とは「不倫がばれた後」という意味、「京極御息所」とは宇多天皇の寵妃で藤原時平の娘の藤原褒子(ふじわらのほうし)のことである。

ただ、元良親王は30人以上の女性との恋愛歌を詠んでいて、京極御息所ひとりだけを愛したというわけではなさそうである。
また、本当に京極御息所を愛していたのかについても疑問だ。
元良親王はある目的をかなえるために京極御息所を利用したのではないか、と私は考えている。

詳しいことは、私流 トンデモ百人一首 20番 わびぬれば・・・ 『業平の二の舞を踏んだ元良親王』 を読んでいただきたいのだが
元良親王は宇多天皇の寵妃・藤原褒子に自分の子を宇多天皇の皇子として産ませ、その子を皇位につけることで、皇位継承の血筋に自分の血を残そうとしたのではないかと思う。

しかし、藤原褒子が産んだ子が皇位につくことはなく、宇多天皇と藤原 胤子の間に生まれた醍醐天皇が即位した。
元良親王の野望は叶わなかったのだ。

また、伊勢の
難波潟 みじかき蘆の ふしのまも 逢はで此の世を 過ぐしてよとや
(難波潟の短い芦の節の間ほどの短い時間もあなたにお会いすることができず、一生を過ごせと、あなたは言うのでしょうか。)

をも本歌としている。

私流 トンデモ百人一首 19番 難波潟・・・ 『伊勢が産んだ子は蛭子と淡島だった?』  

この歌は、恋の歌のように見えて、伊勢が夭逝した我が子(宇多天皇の皇子)と娘・中務を詠んだ歌のように思える。

「蘆」は足にかかり、足が悪かった蛭子を思い出させる。
蛭子はイザナギ・イザナミの長子だったが、3歳になっても歩けなかったので蘆舟に乗せられて流された神である。

熊野若王子神社 蛭子神

熊野若王子神社 蛭子神

また「逢はで」は「淡で」にかかり「淡島」を思い出させる。
淡島はイザナギ・イザナギの2番目の子だったが、やはり不具の子であったとして、蘆の舟に乗せられて流されている。

蛭子と淡島が葦舟で流されたというのは難波江の遊女が小舟で舟に近づいて客をとるのを思わせる。

淡嶋神社 行列

淡嶋神社 雛流し


皇嘉門院について詠んだ歌?

本歌と考えられる二首は私の考えではどちらも皇位継承を詠んだ歌である。

すると皇嘉門院別当が詠んだ歌も皇位継承に関係する歌なのではないか?

しかし皇嘉門院別当については、源師忠の曾孫、源俊隆の娘で、皇嘉門院に仕えていたということしかわからない。
いや、もしかしたら自分自身ではなく、仕えていた皇嘉門院について詠んだ歌なのかもしれない。

舞洲 葦

舞洲 葦

あらためて皇嘉門院(藤原聖子)の人生について見てみることにしよう。
(年齢は単純にものごとがあった年から生まれ年を引いたもの)

1122年、藤原聖子は関白藤原忠通の娘として生まれた。

1129年、7歳で崇徳天皇に入内し、女御に、1130年⒑歳のとき中宮になっている。
しかし二人の間に子供はできなかった。

1140年、崇徳と兵衛佐局の間に崇徳の第一皇子・重仁親王が誕生した。
聖子と聖子の父・忠通は重仁親王誕生を不快に思ったと『今鏡』には記されている。
それはそうだろう。
当時、娘を入内させて天皇の外祖父となることは権力掌握の常套手段だったのだから。

1141年、19歳のときに崇徳の異母弟・近衛の准母になっている。
准母とは天皇の生母ではない女性が母に擬されることをいう。

近衛の母親は藤原得子(美福門院)で、鳥羽天皇の寵妃だった。
得子の父親は藤原長実で中納言という身分だったので、関白・藤原忠通を父に持つ藤原聖子を准母として、即位するのにふさわしい地位を得ようとしたのかもしれない。 
また聖子にとっても子供が持てるということのメリットは大きかった。

1142年、崇徳が退位すると皇太后となり、1150年に皇嘉門院の院号を宣下される。

1155年、崇徳の同母弟・後白河が即位すると、崇徳はこれを不満に思うようになる。
崇徳は自分と兵衛佐局の間に生まれた重仁親王を即位させて、自分は院政を行いたいと思っていたのだろう。
ほかにも藤原聖子の父・藤原忠通と藤原頼長の対立などもあり、朝廷は後白河派vs崇徳派に対立、ついには戦となってしまった。(保元の乱)
藤原聖子の父と夫が対立して戦うということになってしまったのだ。
結果は崇徳が破れて讃岐に流罪となった。
兵衛佐局は崇徳に同行して讃岐に向かっている。

聖子は崇徳についていかず都にとどまったが、いたたまれなくなったのか、出家。
それでもまだ心が安らぐことがなかったのだろうか、1163年に再出家して髪をすべてそり落とした。
(当時の女性の出家は長い髪を肩のあたりまで切る程度だったようである。)
翌1164年、聖子の父・藤原忠道は薨去し、崇徳院も崩御してしまう。

1182年に聖子も崩御した。

崇徳天皇御廟 
崇徳天皇 御廟(京都市東山区)

⑦崇徳と聖子の仮の一夜?

難波江の ()のかりねの 一よゆゑ 身をつくしてや 恋ひわたるべき/皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)

(難波江の、蘆を刈ってつくった小屋での、仮の一夜、蘆の一節(ひとよ)のような一夜のために、難波江に建てられている澪標の言葉と同じように身を尽くして 恋しつづけるべきでしょう。)

一般的にこの歌は遊女の歌だとされる。

平安時代の大江匡房の『遊女記』によれば、難波江・淀川の水運で栄えた江口・神崎・川尻・室・蟹島には遊女がおり
小舟で通行する船に近づいて客をとっていた。遊女の小舟は水面がみえないほど多かったとある。

しかし、仮の一夜、それは崇徳と聖子の関係を言っているようにもとれる。(それで二人の間には子供ができなかったのかもw)
そして、崇徳と過ごしたのがたった一夜であっても、澪標のように身を尽くして、崇徳を恋しつづけるべき、という意味ではないかと思ったりする。

1122藤原聖子 誕生
1123崇徳天皇 4歳で即位
1129藤原聖子7歳で、崇徳10歳に入内
1130藤原聖子、中宮となる。
1140崇徳と兵衛佐局の間に崇徳の第一皇子・重仁親王が誕生。聖子と父・藤原忠通はこれを不快に思う。
1141藤原聖子、近衛の准母となり、皇太后となる。
1142崇徳退位 近衛(崇徳の異母弟)即位 
1150藤原聖子、皇嘉門院の院号宣下を受ける。
1155近衛(崇徳の異母弟)崩御 後白河(崇徳の同母弟)即位
1156崇徳vs朝廷の戦がおきる。(保元の乱/皇位継承不満が原因。崇徳は息子の重仁親王を即位させたかった。)
藤原聖子の父・藤原忠通は崇徳の敵。朝廷が勝利し、崇徳は讃岐に配流となる。
藤原聖子出家し、九条兼実の後見をうける。
1163年藤原聖子再出家して髪をすべてそり落とす。
1164崇徳院(皇嘉門院の夫)崩御・藤原忠通(皇嘉門院の父)死亡
1166九条兼実、右大臣になる。
1182藤原聖子 崩御
1183後白河院、藤原俊成(-1204)に千載和歌集撰集を命じる。
1186九条兼実、摂政となる。
1188千載和歌集完成

皇嘉門院別当が「難波江の~」の歌を詠んだ詳しい年代はわからないが、九条兼実が右大臣のころに詠んだ歌なので、相当する期間を赤文字で表した。

皇嘉門院別当の生没年は不明だが、聖子が崩御したとき、存命していたようである。

皇嘉門院別当が「難波江の~」の歌を詠んだのは、聖子の存命中か、そのあとなのかわからない。
しかし、1175年の『右大臣兼実家歌合』や1178年の『右大臣家百首』で歌を詠んでいるので、そのどちらかで「難波江の~」の歌を詠んだのではないだろうか。
藤原聖子が崩御したのは1182年なので、藤原聖子は皇嘉門院別当のこの歌を耳にしたかもしれない。

とすれば、聖子はこの歌の道徳観「恋ひわたるべき(恋し続けるべきです)」に苦しめられたのではないかと想像する。

その理由はもちろん、保元の乱後、藤原聖子は崇徳について讃岐へ行かずに、都にとどまっていたからだ。

File:Sotoku invoking a thunder storm.jpg

讃岐に流された崇徳上皇(歌川国芳画)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sotoku_invoking_a_thunder_storm.jpg?uselang=ja よりお借りしました。

⑧崇徳の怨霊が聖子に会いにくる?

さらに崇徳院の歌が聖子を追い詰める。

私流 トンデモ百人一首 77番 瀬をはやみ・・・ 『藤原聖子を震え上がらせた歌?』  

詳しくは上の記事をお読みいただきたいが、崇徳の崩御後、崇徳は怨霊になったと噂された。

そして崇徳は生前、次のような歌を詠んでいた。

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ/崇徳院
(瀬の流れが早く岩にせき止められた滝川が岩にあたって二つに割れるように、あなたと別れても、いつかきっとあなたに逢おうと思う)

ふたつに割れた滝の一方は崇徳、割れた滝のもう片方は、私。
藤原聖子はそう思って震え上がったのではないだろうか。
言霊の力によって、崇徳の怨霊は私に会いに来るにちがいないと。

藤原聖子が2度も出家して、髪をそり落としたのは、崇徳の怨霊を恐れたためではないかと思う。

霜降高原 滝 

霜降の滝(栃木県日光市)



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私流 トンデモ百人一首 77番 瀬をはやみ・・・ 『藤原聖子を震え上がらせた歌?』  

※年齢は単純に出来事があった年から生まれ年をひいたものです。

小倉百人一首77番 題しらず
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ/崇徳院
(瀬の流れが早く岩にせき止められた滝川が岩にあたって割れるように、あなたと別れても、いつかきっとあなたに逢おうと思う。)

霜降高原 滝 

霜降の滝(栃木県日光市)


①崇徳は父・鳥羽に叔父子と呼ばれた?

崇徳天皇(1119~1164)は鳥羽天皇の第一皇子で、母は藤原璋子である。
しかし『古事談』は鳥羽の祖父・白河法皇と藤原璋子の間に生まれたとしている。

藤原璋子の父は藤原公実、母は藤原光子であるが、幼少時より白河法皇と寵妃・祇園女御に養われていた。
その養父である白河法皇が養女の藤原璋子に手をつけちゃったというのである。
で白河法皇は藤原璋子を孫・鳥羽に入内させた。
璋子は鳥羽の子として崇徳を産んだが、崇徳は実は白河法皇の子であったと、そういうことのようである。
『古事談』によると鳥羽は崇徳を「叔父にして子」という意味で「叔父子」と呼んでいたという。

ただし『古事談』は崇徳誕生後100年以上あとに記されたものであり、『古事談』にしかこれらの話はないので、真偽のほどはわからない。

藤原璋子が鳥羽に入内したのは1117年12月13日。
崇徳を出産したのは1119年5月28日である。
人間の子供はおよそ十月十日で生まれるので、『故事談』の記述が正しければ、藤原璋子は鳥羽に入内したのちも白河法皇と関係を持っていたということになるw。


白河天皇陵

白河天皇陵

②子供のない夫婦だった崇徳と藤原聖子

崇徳は1123年に4歳で即位した。
1129年、関白・藤原忠通の長女・藤原聖子(皇嘉門院/1122~1182)が崇徳に入内する。
崇徳は⒑歳、藤原聖子は7歳だった。
この年、白河法皇が崩御し、崇徳の父の鳥羽が院政をとるようになった。

藤原聖子は常に崇徳と同殿している。
また崇徳退位後も、二人はしばしば会っている。
しかし二人の間に子供はできなかった。

1140年、崇徳と兵衛佐局の間に崇徳の第一皇子・重仁親王が誕生した。
聖子と聖子の父・忠通は重仁親王誕生を不快に思ったと『今鏡』には記されている。
それはそうだろう。
当時、娘を入内させて天皇の外祖父となることは権力掌握の常套手段だったのだから。

鳥羽離宮跡 説明板 イラスト(部分) 
↑ 安楽寿院・案内板に描かれていた鳥羽離宮の絵(部分)。
杉山信三さんの復元案に基づき、中西立太さんが描いたもの。
鳥羽離宮は12世紀から14世紀頃まで代々の上皇により使用されていた院御所。


③皇太子のはずが皇太弟になっていた!


崇徳の父・鳥羽は藤原得子を寵愛し、得子は近衛(1139~1155)を産んだ。
崇徳にとって近衛は異母弟にあたる。

崇徳は近衛を養子とし、藤原聖子は近衛の准母となった。
崇徳は異母弟の近衛を養子としたわけである。

1141年、鳥羽は崇徳に譲位をせまった。崇徳は譲位して近衛が即位した。

崇徳は近衛を養子としているので、近衛は皇太子のはずである。
しかし、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』『今鏡』)

院政の資格は、自分の皇太子が即位することで得ることができたようである。
天皇が皇太弟では崇徳は院政を行う資格がなかった。

なぜ宣命に「皇太弟」となっていたのか。
宣命とは「天皇の命令を記した文書」だが、天皇が直接書くわけではなく、役人が書いたのだろう。
うっかりミスというよりは陰謀めいたものを感じる。

叔父子と呼んで崇徳を嫌っていた父・鳥羽の陰謀か。
はたまた兵衛佐局との間に重仁親王がうまれ、自分の娘・聖子との間には子供が生まれないことを恨んだ藤原忠通の陰謀か。

もちろん院政はひきつづき鳥羽が行っていた。

安楽寿院 多宝塔

近衛天皇安楽寿院南陵

④崇徳、院政の可能性ゼロに。

鳥羽は崇徳の第一皇子・重仁親王を藤原得子の養子とした。

1155年、近衛は16歳で崩御。
近衛には子供がなく、次期天皇は崇徳の第一皇子・重仁親王が有力視されていた。
しかし、崇徳の同母弟の後白河が中継ぎの天皇として即位した。

鳥羽の寵妃・藤原得子は崇徳の第一皇子・重仁親王のほかに、崇徳の同母弟・後白河の第一皇子・二条も養子にしていた。
そして本来ならば二条を即位させたいと思っていたが、天皇の父親が即位していないのはよくないとして、まず後白河を即位させたのだ。

こうして崇徳院政の可能性はゼロとなった。

鳥羽天皇陵 
鳥羽天皇安楽寿院陵


⑤保元の乱で藤原聖子の父と夫が争う。

1156年7月2日、鳥羽が崩御。崇徳は見舞いに訪れたが鳥羽に会うことはできなかった。
鳥羽は祖金の葉室惟方に「自分の遺体を崇徳に見せないように」と遺言していたという。(『故事談』)

7月5日、「崇徳と藤原頼長(藤原忠通の弟)が軍を集め、国家を傾けようとしている」という噂が流される。

7月8日、「藤原忠実(藤原忠通・頼長の父)・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止せよ」との後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下された。
また、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が摂関家の正邸・東三条殿に乱入して邸宅を没官(人身または財物を官が没収すること)した。
これらは鳥羽の寵妃・藤原得子、藤原忠通らの指示によるものと考えられている。

藤原聖子にとってみれば、父(藤原忠通)と夫(崇徳)が争うことになってしまったのである。

後白河天皇側崇徳上皇側
藤原忠通(関白)藤原頼長(藤氏長者)※藤原忠通の弟
藤原忠実(※藤原忠通・藤原頼長の父)
源義朝(河内源氏)源為義(河内源氏)
源頼政(摂津源氏)源頼憲(摂津源氏)
源義康(河内源氏足利流)
平信兼(伊勢平氏)平家弘(伊勢平氏)
平清盛《伊勢平氏)平忠正(伊勢平氏)
平重成(美濃源氏)
信西(後白河の乳母の夫)

※親子・兄弟・平氏・源氏間で対立している。


7月10日、白河北殿に崇徳・藤原頼長・崇徳院の側近藤原教長・平家弘・源為義・平忠正らの武士が集結した。

7月11日未明、後白河は武士を動員して白河北殿へ夜襲をかけた。
白河北殿は炎上したが、崇徳は御所を脱出した。

13日、崇徳は降参を決意して剃髪し、仁和寺に出向いた。
そして同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼したが断られてしまう。
崇徳はとらえられ、寛遍法務の旧房に監禁された。

23日、崇徳院は讃岐に流罪となった。
兵衛佐局は崇徳に同行したが、藤原聖子は出家して都にとどまった。

後白河天皇陵 桜紅葉 
後白河天皇陵

⑥崇徳、怨霊になる。

讃岐で崇徳は五部大乗経の写本をして、朝廷に差し出した。
しかし後白河は「呪詛が込められているのではないか」として、写本を送り返してきた。
激怒した崇徳は舌を噛み切り、その血で写本に次のように書き込んだ。

「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」。
また爪や髪を伸ばし続け、生きながら天狗になったとされている。(『保元物語』)

しかし、『今鏡』には怒り・恨みなどの話は記されていない。

1164年、崇徳は讃岐で崩御した。

1177年、延暦寺の強訴・安元の大火・鹿ヶ谷の陰謀などが起こり、「これらは崇徳院の怨霊のしわざではないか」と当時の貴族の日記に書かれている。
1176年、平滋子(後白河妃)・姝子内親王(鳥羽の内親王で二条の中宮)六条(二条の子)・藤原 呈子近衛の中宮)など、後白河や忠通に近い人々が相次いで死去し、ますます崇徳院の怨霊のしわざではないかという噂が広がった。

『吉記』寿永3年(1184年)4月15日条に藤原教長が「崇徳院と頼長の悪霊を神霊として祀るべき」と発言したことが記されている。

1184年、後白河は、8月3日には「讃岐院」の院号を「崇徳院」と改め、頼長には正一位太政大臣が追贈している。

4月15日には保元の乱の古戦場・春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)がつくられた。(のち平野神社に統合)
また、現在の香川県坂出市に崇徳の御陵がつくられ、その御陵近くに頓証寺(現在の白峯寺香川県に地元の人々)がつくられたが、この頓証寺に対して官の保護が与えられた。

これらは崇徳の慰霊を目的として行われたのだろう。

崇徳天皇御廟 
崇徳天皇御廟 ( 京都府京都市東山区祇園町南側)

1497年、現在の東山安井にあった光明院の住持・幸盛上人が御土御門天皇の綸旨により「崇徳天皇御廟」を光明院内に再興した。
これが上の写真の「崇徳天皇御廟」と考えられている。
光明院は、崇徳院の寵妃・阿波内侍が居住していた邸宅跡であったとも伝えられている。

⑦藤原聖子をふるえあがらせた歌


瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ/崇徳院

(瀬の流れが早く岩にせき止められた滝川が岩にあたって二つに割れるように、あなたと別れても、いつかきっとあなたに逢おうと思う)

この歌は詞書に「題知らず」とあるので、崇徳がいつ詠んだ歌なのかわからない。
しかしいつ詠んだのかは問題ではない。
口から発した言葉には将来、言葉を実現させる力、言霊があるからだ。

ふたつに割れた滝の一方はもちろん崇徳の比喩だろう。
もう一方は誰だろうか。

保元の乱後、兵衛佐局は崇徳に同行したが、藤原聖子は出家して都にとどまっている。
割れた滝のもう片方は、私。藤原聖子はそう思って震え上がったのではないだろうか。
言霊の力によって、崇徳の怨霊は私に会いに来るにちがいないと。

藤原聖子が出家したのは、崇徳の怨霊を恐れたためではないかと思う。



File:Yoshitsuya The Lightning Bolt.jpg

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yoshitsuya_The_Lightning_Bolt.jpg?uselang=ja よりお借りしました。
『椿説弓張月』より崇徳上皇が讃岐で崩御し、怨霊になる瞬間を描いた一場面(歌川芳艶画)



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私流 トンデモ百人一首 98番 風そよぐ・・・ 『楢の葉をそよがせた楢葉守』 

小倉百人一首98番
風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける/藤原家隆
(風がそよぐ楢の小川の夕暮れは、すっかり秋の気配が漂っている。みそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。)


上賀茂神社 夏越神事 
 
①藤原家隆が見た風景が今も目の前に。

6月30日、夕刻。
すっかり日が沈み薄暗くなった境内では、神職さんが1枚1枚紙の人形(ひとがた)を繰っては「ならの小川」に流していく。
小川を流れる人形はかがり火に照らされて星のようにきらめく。
京都・上賀茂神社の夏越神事である。

夏越神事は、六月祓、大祓などともいわれ、かつて旧暦6月晦日に各地の神社で行われていた行事である。
参拝者は人形に息を吹きかける。これは自らの穢れを人形に移すまじないである。
そしてそれを神社に奉納し、神職さんが川や海などに人形を流すことで、身が浄められると考えられていた。
お焚き上げと言って、川や海に流す代わりに人形を燃やしたりすることもある。
1年を半分過ぎたところで、穢れを落とし、残り半年を健康に過ごすための神事であるといわれる。
大晦日にも同様の神事をするそうだが、大晦日の大祓は見に行ったことがない。

現在でも、新暦6月30日や、月遅れの7月30日ごろに「夏越の祓」を行っている神社がたくさんある。
しかし、上賀茂神社の夏越神事は特別である。

鎌倉時代、藤原家隆が
風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける
と詠んだのが、上賀茂神社の夏越の祓なのである。

上賀茂神社では古式を守り、今も鎌倉時代と同じ夏越神事を行っている。(ただし、人形のほか、車形やバイク形も流しているw)
鎌倉時代の歌人・ 藤原家隆(1158年-1237年)が見たのと同じ風景を、私は見ているのだった。

②新暦7月に涼しい風が吹いてすっかり秋らしくなった?

風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける/藤原家隆
(風がそよぐ、ならの小川の夕暮れは、すっかり秋の気配が漂っている。みそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。)


この歌は、こんな風に現代語訳されることがある。
「涼しい風がそよぐならの小川はすっかり秋らしい気配が漂っている。みそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。」と。

なるほど、秋になると涼しい風が吹く。しかし、おかしいとは思わないだろうか。

夏越神事は旧暦の六月の晦日に行われる行事だった。新暦に換算すると7月ごろである。

7月の京都は夏の真っ盛りで、秋らしい気配なんてまるでないのだ。
それなのに家隆はなぜ「みそぎをする様子だけが夏のしるしなのだなあ。」などと歌を詠んだのだろうか?

かみがもじんじゃ なごしのはらえ

③旧暦では秋の始まりは涼しい季節の到来ではなく、もっとも暑い季節の到来を意味していた。

私ははじめ、冷夏だったのだろうかとか、昔の7月は今と違って夜は涼しかったんだろうかなどと考えた。
しかし、ちょっと考えてみてわかった。
これは謎でもなんでもなかったのだ。

旧暦では1月・2月・3月を春、4月・5月・6月を夏、7月・8月・9月を秋、10月・11月・12月を冬としていた。
旧暦は新暦の約ひと月遅れなので、新暦の2月・3月・4月が旧暦の春、新暦の5月・6月・7月が旧暦の夏、新暦の8月・9月・10月が旧暦の秋、新暦の11月・12月・1月が旧暦の冬。
だいたいそう考えていいだろう。
 
古の人にとって秋の始まりとは涼しい季節の到来ではなく、もっとも暑い季節の到来を意味していたのだ。
「涼しい風が吹いてすっかり秋らしくなった」というのは新暦の感覚だったのである。

④古の人にとって「そよ風」は不気味な風だった?

家隆は「風そよぐならの小川のゆふぐれは」と詠っているが、この風はどうやら涼しい風ではないようである。
それではどんな風が吹いていたのだろうか?

「風そよぐ」の「そよぐ」は漢字では「戦ぐ」と書く。
なにか意外な感じがする。
そよ風は優しい風だと思っていたが、なぜ「戦」のような漢字を「そよぐ」と読むのか。
 
漢和辞典で『戦』という漢字の意味を調べてみたところ、、次のように記されていた。
① 戦う。戦をする。
② いくさ 
③ おののく ふるえる 
④ そよぐ そよそよと揺れ動く
⑤ はばかる 

③おののく ふるえる とあるのに注目してほしい。

現代人は『そよ風』」を『吹かれて心地よく感じる優しい風』のことだと思っているが、古の人々にとって『そよ風』とは葉をざわつかせる不気味な風だったのではないだろうか。

上賀茂神社 夏越神事 (2)

⑤秋の到来はお盆の始まりだった。

6月晦日の翌日は7月1日だが、旧暦の7月1日は釜蓋朔日(かまぶたついたち)といわれていた。
釜蓋朔日とは、地獄の釜の蓋が開く日でのことであり、この日からお盆が始まるとされていた。

家隆は楢の葉がざわつくようすに、お盆であの世からこの世に戻ってきた霊の気配を感じたのではないだろうか。
そして「ああ、お盆の季節がやってきたんだなあ」という気持ちを歌に詠んだのではないかと思う。 

⑥ならの小川と楢の葉

古語辞典で『そよぐ』をひくと、『そよそよと音をたてる』とあり、文例として
岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉の そよぐは鹿の 渡るなりけり(平家物語・灌頂・大原入り)
があげられていた。

上賀茂神社の禊川が『ならの小川』と呼ばれているのは、川べりに楢の木が生えているからなのだそうだ。

そして、そよそよと音をたてるものは、ほかにもたくさんあるだろうと思われるのに、なぜ古語辞典には『楢』が文例にひかれているのか。

偶然か。それとも『楢がそよぐ』ということが何かを意味しているのだろうか。
そう思って平家物語を読んでみた。

建礼門院(平 德子)の父は平清盛、母は平時子で、高倉天皇の中宮として入内し、安徳天皇を産んだ。
平家没落の時、安徳天皇は祖母の時子に抱かれて入水した。
このとき、建礼門院も入水したのだが、死ぬことができず源氏方に捕らえられた。
彼女の母も、子も、一族の者も大勢死んだ。
壇ノ浦で入水したものの捕縛された建礼門院は東山の麓の吉田の地に隠棲し、長楽寺において出家した。
しかし大地震がおこり、築地が崩れて住めなくなった。
そこで人目のない大原に居を移した。
あるとき、庭に散り敷いた楢の葉を踏みしだく音がし、女院は捕り方がやってきたのかと思って身を隠そうとした。
しかしそれは鹿だった。
それを見ていた重衡の北の方が涙ながらに詠んだのが次の歌であった。


岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉の そよぐは鹿の 渡るなりけり

寂光院 
京都大原にある寂光院。建礼門院像が安置されている。


⑦トガノの鹿

岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉の そよぐは鹿の 渡るなりけり

楢の葉をざわざわと戦がせたのは鹿だったと平家物語にはあるが、鹿といえば、私は日本書紀 仁徳天皇38年の記事にある『トガノの鹿』 を思い出す。

雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えた。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺した。
時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂した。


昔、謀反の罪で殺された人を塩漬けにすることもあり、鹿は謀反の罪で殺される者の象徴だったと考えることができる。

大仏殿 鹿

⑧平家物語と怨霊

『トガノの鹿』の物語をふまえて、『岩根ふみ~』という歌を味わってみると、この歌は深みを増す。

平家物語を読んでいると、随所に怨霊の話が出てくる。

建礼門院が懐妊し、祈祷を行ったが、いまひとつ調子がよくないのを、平清盛は藤原成親の怨霊の仕業だろうと判断し、成親の息子・成経らを鬼界が島より召還させている。

また建礼門院が隠棲していた家は大地震で住めなくなってしまったが、この地震は安徳天皇や平家の怨霊によるものだとされ、怨霊は恐ろしいものであると人々は噂しあった、とも記されている。

琵琶法師の芳一が平家の霊にとり憑かれ、住職が全身にお経を書いて亡霊から芳一を守ったが、耳にお経を書くのを忘れたため、亡霊が芳一の耳をちぎって立ち去った話は有名だ。

能の『船弁慶』では、義経と弁慶が乗った船が風にあおられて沖に流された海上で平知盛の霊があらわれる。
義経は刀をぬいて亡霊と切りあうが、弁慶は『刀ではかなわないでしょう』と数珠を繰って経文を唱え、祈りの力で悪霊を退散させる。

これらの記述は当時、いかに怨霊というものの存在が信じられていたかを示すものだといえるだろう。

「岩根ふみ~」の歌に詠まれた鹿とは殺された平家の亡霊なのではないか。
重衡の北の方が、楢の葉を踏みしだく鹿の陰に安徳天皇や平家一門の怨霊を見たとしても不思議はない。

⑨大原入りは大祓の掛詞になっている?

家隆が歌を詠んだのは、詞書から1229年だと考えられる。
平家物語の成立年代は不明だが、1240年に書かれた『兵範記』に「治承物語六巻号平家候間、書写候也」とあり『平家物語』の前身として『治承物語』なる書物が存在していたと考えられている。

平家物語と家隆の歌のどちらが先でどちらが後かはわからない。
が、どちらかがどちらかの影響を受けている可能性はある。

その証拠に、平家物語の『大原入り』の段のタイトルから『おおはらいり』=『大祓(夏越神事のことを大祓ともいう)』という言葉が読み取れるではないか。

このような技法を、和歌では「もののな」という。

⑩祟る神、楢葉守

さらに『楢』を辞書でひくと、『楢葉守=ならの木の葉を守る神』とある。
そして文例に『楢葉守の祟りなし(浄瑠璃・会津山・近松)』がひかれていた。

古には楢葉守という神が存在すると考えられていたということがわかる。
しかもその神は祟る神、怨霊である。

⑪平城帝

楢は『平城(奈良)』を連想させるが、『平城帝』と呼ばれた人物がいる。

平城天皇(安殿親王)は桓武天皇の第一皇子で、806年に桓武天皇が崩御した後、第51代天皇として即位した。
安殿親王は自分の后の母親である藤原薬子と関係を持ち、寵愛するようになった。

809年、病気を理由に異母弟である嵯峨天皇に譲位し、平城京に移り住んだ。

810年、平城上皇は平城京遷都の詔を出すなどして嵯峨天皇と対立するようになった。
同年9月10日、嵯峨天皇は藤原薬子の官位を剥奪し、その翌日の9月11日に平城天皇は挙兵した。
しかし、薬子と共に東国に入ろうとしたところを坂上田村麻呂らに遮られて12日平城京に戻された。
こうして挙兵はあっけなく失敗に終わり、藤原薬子は服毒自殺し、薬子の兄の仲成は処刑された。
平城天皇は空海より灌頂を受けて出家し、奈良の『萱の御所』に隠遁した。
これを『薬子の変』という。

平城天皇は
ふるさとと なりにしならの都にも 色はかはらず 花はさきけり
と歌を詠んでいる。
この平城天皇こそ、楢葉守の名にふさわしいのではないだろうか。

『楢の葉のそよぐは鹿の渡るなりけり』の出典は平家物語の灌頂の巻・大原入りの段だったが、巻のタイトルは『灌頂』となっている。
灌頂というタイトルは平城天皇が空海より灌頂を受けたことを示唆しているのではないかと思ったりするが、考えすぎだろうか。

不退寺 多宝塔 黄しょうぶ 

不退寺 萱の御所跡と伝わる。

⑪技巧的で深みのある歌

風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける/藤原家隆
(風が楢の葉をそよがせる楢の小川の夕暮れは、すっかり秋の気配が漂っている。六月祓のみそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。)


この歌は、単に夏越神事の風景について詠んだ歌ではない。
たいへん技巧的で、しかも深みのある歌だったようである。

『風そよぐ ならの小川』というフレーズから楢葉守や、平家物語にある『岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉のそよぐは鹿の渡るなりけり(平家物語/灌頂の巻・大原入りの段)』という歌を想起させる。

さらに夏越神事は別名を大祓という。

大祓から、大原入り(おおはらいり。/『岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉のそよぐは鹿の渡るなりけり』この歌の出典は平家物語/灌頂の巻・大原入りの段である。大原入りというタイトルの中に大祓と言う言葉がよみとれる。もののな。)の段を想起させる。

そして灌頂の巻の灌頂から、空海から灌頂を受けた平城天皇を想起させる。
平城上皇はその名前からして楢葉守を思わせる。

⑫後鳥羽上皇

しかし平城上皇は平安時代初期、藤原家隆は鎌倉時代の人物で、時代が違う。

家隆は平城上皇のイメージにもっと身近な人物のイメージを重ねて歌を詠んだのだとおもう。
それは後鳥羽上皇ではないだろうか。

平城上皇と後鳥羽上皇には共通点がある。
平城天皇は嵯峨天皇より政権を奪回するべく『薬子の変』を企てたが失敗した。
そして後鳥羽上皇は幕府より朝廷に政権を奪回すべく『承久の変』を企てたが失敗した。
どちらもクーデターを企てて失敗しているのである。

⑬後鳥羽上皇と藤原定家・藤原家隆

後鳥羽上皇は歌人としても優れた才能を持っていた人で、たびたび歌会を開いている。
この時代の代表的歌人である藤原定家や藤原家隆とも交流があった。

藤原定家は九条家に出仕して官位を上げていたが、1188年、源通親のクーデターにより九条家は失脚した。
その後1200年に定家は宮廷歌人となり、1201年には後鳥羽上皇から新古今和歌集の撰者に任命された。
ところが、歌の選定において定家は後鳥羽上皇と争い、1220年、後鳥羽上皇は定家の歌会への参加を禁じた。
しかしこのことは定家にとって災い転じて福となった。
なぜなら、1221年、後鳥羽上皇は承久の乱をおこして隠岐へ配流となったからである。

承久の乱後、定家は後鳥羽院とは一切の連絡を絶ち、高い官位を得て歌壇の頂点に立った。
一方、定家の兄弟弟子である家隆は変後も後鳥羽院と連絡をとりつづけている。

家隆が「風そよぐ~」の歌を詠んだのは、1229年である。

後鳥羽院の生没年は1180年~ 1239年なので、家隆が「風そよぐ~」の歌を詠んだとき、後鳥羽院は存命しているので、怨霊にはなっていない。

家隆は後鳥羽院の恨みを楢の葉を戦がせる風の中に感じ、楢葉守=平城天皇のイメージと後鳥羽院のイメージを重ねたのかもしれない。

藤原家隆の墓 

大阪四天王寺にある家隆塚




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私流 トンデモ百人一首 24番 このたびは 『幣のかわりに血筋を散らしてしまった道真』 



小倉百人一首24番
このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに/菅家(菅原道真)
(今回の旅は急な旅で幣も用意することができませんでした。かわりに紅葉の錦を捧げます。どうぞ神の御心のままお受け取りください。)

手向け山八幡宮 紅葉

手向山八幡宮

紅葉の錦 神のまにまに

この歌は平安時代の政治家・菅原道真が詠んだものである。

手向山八幡宮は現在は若草山の麓、東大寺三月堂の隣にあるが、平安時代には大仏殿のそばの鏡池の東側にあったそうだ。
現在の場所には鎌倉時代に移転したという。

菅原道真が「このたびは・・・」と歌を詠んだ場所とは現在の場所は異なってはいるものの、手向山八幡宮の紅葉は目をみはるほどの美しさである。
道真が見た手向山八幡宮の紅葉もさぞ美しかったことだろう。
道真の歌からそれが伝わってくる。


②幣のかわりにした紅葉

『このたびは』の『たび』は『度』と『旅』に掛けてある。

幣とは神への捧げ物のことで、絹や紙を細かく切ったものを道祖神の前で撒き散らす習慣があったそうだ。
今でも、神事のときに神主さんが細かく切った紙をまき散らしているのを見かけるが、幣とはそのようなものだろう。

一言主神社 天狗と幣を撒く人

幣(一言主神社にて)

道真が手向山八幡へやってきたとき、風がふいて紅葉がはらはらと散っていたのだろう。
それで、道真は紅葉を幣のかわりにしたのだ。

③朱雀院は宇多天皇

『古今和歌集』の詞書には『朱雀院の奈良におはしましたる時に、たむけ山にてよめる』とある。
また『定家八代抄』の詞書には『亭子院吉野の宮滝御覧じにおはしましける御ともにつかうまつりて、手向山をこゆとて』とある。」

朱雀院とは朱雀天皇のことではなく、宇多天皇のことだとされている。
もともと朱雀院とは嵯峨天皇が譲位後に住んだ離宮のことで、朱雀大路の西にあった。
その後、宇多天皇が整備して譲位後そこに住んだ。
また朱雀天皇が修理をして、やはり譲位後に住んだ。

亭子院(ていじのいん)は、西洞院大路の西側にあり、やはり宇多天皇が譲位後に住んだ。

④朱雀院は朱雀上皇ではないかと疑ってみたけど

実は私は朱雀院とは朱雀上皇のことではないかと疑って調べてみた。

菅原道真の生没年は845年-903年。
一方朱雀天皇の生没年は923年- 952年で時代が合わない。

しかし、古今和歌集仮名序には、『平城天皇と柿本人麻呂が身を合わせた』という記述がある。
平城天皇は平安時代、柿本人麻呂は奈良時代の人で時代があわないのだが。
これについて梅原猛氏は、『平城天皇と柿本人麻呂は精神的に身をあわせた』のだと説かれた。
そうであれば、朱雀天皇の行幸に、道真の霊が随行したと記されてもおかしくはないと思った。

が、やはり朱雀院とは宇多天皇と考えるべきだろう。
というのは古今和歌集の成立が905年であるからである。
道真の『このたびは…』の歌は古今和歌集にとられた歌なので、905年にはすでに詠まれていたということになる。
朱雀天皇の生没年は923年- 952年なので、古今和歌集成立したとき、まだ生まれていない。
従って、朱雀院とは宇多上皇のことだということになる。

⑤道真、時平の讒言で流罪となる。

賀茂真淵の『古今和歌集打聴』によれば、『奈良への御幸の事は記録にないが、宇多上皇は昌泰元年に吉野の宮の瀧御幸の次手に住吉へも御幸有しておられるので、そのとき奈良へも立ち寄ったのだろう。』とあり、一般的には898年十月の宮滝御幸の時のことだと考えられている。

菅原道真は宇多天皇にひきたてられて昇進した人物だった。
それで898年の宇多上皇の御幸にも随行したのかもしれない。

897年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位した。
このとき宇多天皇は『ひきつづき藤原時平と菅原道真を重用するように』と醍醐天皇に申し入れたという。

醍醐天皇の御代、菅原道真は右大臣となった。左大臣は藤原時平だった。
当時の官職や位は家の格によって最高位が定まっていた。
道真の右大臣という地位は菅原氏としては破格の昇進だった。

道真の能力を恐れた藤原時平は醍醐天皇に次のように讒言したという。
『道真は斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀っている』と。
斉世親王は宇多天皇の第3皇子で、醍醐天皇の異母弟だった。
そして斉世親王は道真の娘を妻としていた。

醍醐天皇は時平の讒言を聞き入れ、901年、道真を大宰府に流罪とした。
そして903年、道真は失意のうちに大宰府で死亡した。

大阪天満宮 人形 
大阪天満宮に展示されている雷神となって祟る菅原道真の怨霊の人形

⑥道真、怨霊となる。

その後、都では疫病が流行り、天変地異が相次いだ。
また、道真左遷にかかわった人物が相次いで死亡し、醍醐天皇の皇太子であった保明親王は21歳で早世した。
代わって孫の慶頼王を皇太子としたが、慶頼王は疱瘡を患ってわずか5歳で夭折した。
さらに旱魃対策会議を開いている真っ最中、清涼殿に落雷があった。
清涼殿は炎上し、多くの死傷者が出た。
醍醐天皇はこのショックでノイローゼとなって寝込み、3ヵ月後に死亡したともいわれる。
これら一連の事件は道真の怨霊のしわざであると考えられた。

Kitano Tenjin Engi Emaki - Jokyo - Thunder God2

『北野天神縁起』(承久本)巻六より。宮中清涼殿に雷を落とす雷神と逃げまどう公家たち。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/Kitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg よりお借りしました。
不明 [Public domain]


⑦貞明親王が皇太子だったころ、高子に召されて業平が詠んだ歌

私は紅葉というと、やはり百人一首にある在原業平の歌を思い出す。

ちはやぶる 神世もきかず 龍田河 唐紅に水くくるとは(在原業平)

この歌の詞書に次のようにある。
二条の后がの春宮のみやす所と頃と申しける時に、御屏風にたつた河にもみじながれたるかたをかえりけるを題にてよめる。
と。

『二条の后』とは藤原高子のことである。
伊勢物語によれば藤原高子は業平と駆け落ちしたが、兄の基経によって引き離された。
その後、高子は惟仁親王(のちの清和天皇)のもとへ入内した。

高子は清和天皇との間に貞明親王(のちの陽成天皇)をもうけたが、陽成天皇は業平と高子の子であるという説がある。

御息所には2つの意味がある。

天皇の寝所に侍する宮女。女御(にょうご)・更衣(こうい)、その他、広く天皇に寵せられた官女の称。また一説に、皇子・皇女の母となった女御・更衣の称という。みやすんどころ。「六条の御息所」
「上は、―の見ましかば、とおぼし出づるに」〈源・桐壺〉
皇太子妃または親王妃の称。
「二条の后、春宮(とうぐう)の―と申しける時に」〈古今・物名・詞書〉

https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E6%81%AF%E6%89%80-139576#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 より引用

上の説明では、詞書の春宮を惟仁親王(のちの清和天皇)として2の例にあげているが、私は1の「皇子・皇女の母となった女御・更衣の称」をとりたい。

貞明親王が生まれたのは869年。
清和天皇の在位は858~876年なので、貞明親王は清和天皇が即位して11年後に生まれたということになる。
貞明親王は生後3か月で皇太子となっている。

つまり、春宮とは高子が産んだ清和天皇の皇子・貞明親王(陽成天皇)で、
高子は貞明親王を生んだため「春宮の御息所」と呼ばれていたのではないかと思うのだ。

つまり、『藤原高子所生の貞明親王が皇太子だったころ、高子は業平を召し、業平は龍田川に紅葉が流れる様を描いた屏風を見てこの歌を詠んだ。』
というのが詞書きの意味ではないかと思う。

百人一首かるた

⑧皇統を括る紅葉

ちはやぶる 神世もきかず 龍田河 唐紅に水くくるとは

この歌は『神代の昔にも聞いた事がない。竜田河を流れる唐紅に染まった紅葉が水面をくくり染めにするとは。』または『紅葉が水を潜るとは』と訳されることもある。

ここに『水くくる』という表現が出てくるが、これをどう解釈するのかについては古来より異説がある。
ひとつは『まだら模様に色を染め出す括り染め』であるという説。
もうひとつは『水潜る』とする説である。

私は業平のこの歌は業平の祖父・平城帝が詠んだ次の歌に対応したものだと思う。

龍田川 もみぢみだれて 流るめり わたらば錦 なかやたえなむ
(竜田川を紅葉が乱れて流れている。私が渡ると錦は途切れてしまうだろう。)

806年、安殿親王は即位して平城天皇となったが、3年後の809年には病気を理由に異母弟である嵯峨天皇に譲位し、平城京に移り住んだ。
810年、平城上皇は平城京遷都の詔を出すなどして嵯峨天皇と対立するようになった。
同年9月10日、嵯峨天皇は藤原薬子の官位を剥奪し、その翌日の9月11日に平城上皇は挙兵した。
しかし、平城天皇は寵愛していた藤原薬子と共に東国に入ろうとしたところを坂上田村麻呂らに遮られて12日平城京に戻された。
こうして挙兵はあっけなく失敗に終わった。
藤原薬子は服毒自殺し、薬子の兄の仲成は処刑された。
平城天皇は空海より灌頂を受けて出家し、奈良の『萱の御所』に隠遁した。
これを『薬子の変』という。

平城上皇が『私が渡ると錦は途切れてしまうだろう。』と詠ったのは、『薬子の変を起こしたので、自分の子孫は皇位を継承できないだろう。』という意味ではないだろうか。

すると業平の歌は、平城帝によって途絶えた皇位継承の血統が、高子が自分(業平)の子を生むことで、括られていくだろう、という意味になると思う。

紅葉は皇統の比喩だと私は思うのである。

龍田川 紅葉2

龍田川

⑨幣のかわりに血筋を差し出した道真

これをふまえて
このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
を鑑賞すると、道真は幣の代わりに自分の血筋を幣として八幡神に差し出したという意味になると思う。

風がふいて紅葉がはらはらと散る様子は、紅葉の錦がちぎれて、バラバラになって散っていく様のようにも思え、道真の血をひく子孫が繁栄しないというイメージを抱かせる。

日本では言霊が信じられていた。
道真はこんな歌を詠んだので、彼の子孫は歴史の表舞台に立つことができなかったのだと昔の人々は思ったのかもしれない。

あるいは、この歌は実際に道真が詠んだのではなく、道真の死後に道真の気持ちにたってほかの人が詠み、菅原道真作としたのかもしれない。
北野天満宮 本殿 梅

菅原道真を祀る北野天満宮



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私流 トンデモ百人一首 20番 わびぬれば・・・ 『業平の二の舞を踏んだ元良親王』 

小倉百人一首 20番
わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ/元良親王
(こんなに思い悩んでしまった今はもうどうなってもいい。難波の海の澪標の言葉どおり、身を尽くして(身を滅ぼして)もあなたに逢いたいと思う。)


南港大橋 夕景 
あべのハルカスより港大橋・大阪府咲州庁舎(向かって左の高層ビル)を望む

①みおつくし

大阪府咲洲庁舎展望台にのぼると大阪の町だけでなく、東に神戸、明石海峡大橋、淡路島、西には堺泉北工業地帯、関空までも望むことができる。

港大橋とあべのハルカス 
港大橋(大阪市港区↔住之江区)とあべのハルカス(大阪市阿倍野区 向かって右の高層ビル)

眼下に広がる大阪市。その市章は「澪標(みおつくし)」である。

Emblem of Osaka, Osaka

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AEmblem_of_Osaka%2C_Osaka.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2e/Emblem_of_Osaka%2C_Osaka.svg よりお借りしました。
作者 waketasu1977 (大阪市章1894年4月制定) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


大阪ドーム  
大阪ドーム〈大阪市西区)

古の大阪港は水深が浅く座礁する危険性のある個所がたくさんあったそうである。

織田正吉さんによれば、澪標とは「澪つ串」の意味であるという。
藻とは水尾で、水深の深い場所を表す水路標識を澪標というのだと。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%AA%E6%A8%99#/media/File:Miotsukushi_in_Osaka.JPG
↑ 澪標の写真

長居スタジアム

長居スタジアム(大阪市東住吉区)

②みをつくしても 逢はんとぞ思ふ

この澪標を詠んだ有名な歌が百人一首にある。

わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ/元良親王
(こんなに思い悩んでしまった今はもうどうなってもいい。難波の海の澪標の言葉どおり、身を尽くして(身を滅ぼして)もあなたに逢いたいと思う。)

名神高速道路の吹田サービスエリアの中元良親王の歌碑があるとのことなので、今度見にいってみたい。

スカイビル 

梅田スカイビル〈大阪市北区)

③不倫の恋を詠んだ歌

この歌、実は不倫の恋の歌なのである。
「後撰集」の詞書には「事いできて後に、京極御息所につかはしける」とある。

「事いできて後に」とは「不倫がばれた後」という意味、「京極御息所」とは宇多天皇の寵妃で藤原時平の娘の藤原褒子(ふじわらのほうし)のことである。

最近、不倫がばれると「一線を超えていない」とかなんとか言い逃れしようとする人が多くて、粋じゃないな~と残念になる。
元良親王のように批判を恐れず、人妻に対する情熱を熱く語る人がひとりぐらいいてもいいのに、と思ってしまう~。


太陽の塔 と osaka wheel-2

太陽の塔とosaka wheel(大阪市吹田市)

④元良親王は京極御息所を愛していたわけではなかった?

ただ、元良親王は30人以上の女性との恋愛歌を詠んでいて、京極御息所ひとりだけを愛したというわけではなさそうである。
また、本当に京極御息所を愛していたのかについても疑問だ。
元良親王はある目的をかなえるために京極御息所を利用したのではないか、と私は考えている。

みなと堺グリーン広場と大阪ガス泉北(製)第2工場 
みなと堺グリーン広場/手前 と 大阪ガス泉北 第2工場/奥(大阪府堺市)

⑤在原業平と藤原高子の駆け落ちの真相


元良親王はなかなかの色好みであったようだが、他に平安時代の色好みと言えば在原業平だ。

在原業平と元良親王はよく似ている。
というのは在原業平は清和天皇に入内する予定だった藤原高子と駆け落ちをしているのである。

しかし業平は高子のことが好きで好きで仕方なかったということではなかったようだ。
というのは古今集詞書に次のようにあるのだ。

五条の后)の宮の西の対にすみける人に、本意)にはあらで物言ひわたりけるを、

これは「五条の后(仁明天皇の后、藤原順子)の宮の西側の建物に住んでいる人(藤原高子のことだと考えられています。)に、業平は本気ではなかったのだが通っていたが」という意味である。

大平和祈念塔 
大平和祈念塔 (大阪府富田林市)


業平と高子が駆け落ちをしているところから、高子が産んだ貞明親王(のちの陽成天皇)は、清和天皇の子ではなく、業平の子ではないかとする説がある。
そして百人一首の絵札の、弓矢を背負う業平の姿は陽成天皇を守る姿であるという話を聞いたこともある。

百人一首かるた

業平は自分の血をひく子供を高子に生ませ、自分の血を引く子が清和天皇の皇子として育てられ、自分の血をひく子が皇位につくことを目的として、高子と関係を持ったのだと思う。
また、そうして生まれたのが陽成天皇ではないだろうか。

参照/私流 トンデモ百人一首 ⑰ちはやぶる・・・ 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』  

二上山と葛城山 
二上山(向かって左)と葛城山(向かって右)

⑥ばれた業平の計画

おそらく業平の策略は高子の兄で摂政だった高子藤原基経にばれたのだろう。
陽成天皇は9歳で即位したが、源益を殴殺したとして17歳で退位させられている。
そして基経は陽成天皇の大叔父にあたる光孝天皇を即位させた。

関西国際空港 
関西国際空港(大阪府泉佐野市・大阪府泉南郡田尻町・泉南市にまたがる)

⑦元良親王は在原業平の孫だった?

元良親王はこの陽成天皇の皇子で、宇多天皇は光孝天皇の皇子である。
元良親王は業平の計画がばれなければ、自分が天皇になれたかもしれないのにと、宇多天皇を憎く思ったかもしれない。

私の考えが正しければ、陽成天皇は在原業平の子であり、元良親王は在原業平の孫である。
そして元良親王は本当の祖父・業平と同じことをしようとしたのではないかと思うのだ。

明石海峡大橋

明石海峡大橋 手前は神戸空港


⑧元良親王と京極御息所の不倫の真相

元良親王は宇多天皇の寵妃・藤原褒子に自分の子を宇多天皇の皇子として産ませ、その子を皇位につけることで、皇位継承の血筋に自分の血を残そうとしたのではないだろうか。

しかし、藤原褒子が産んだ子が皇位につくことはなく、宇多天皇と藤原 胤子の間に生まれた醍醐天皇が即位した。
元良親王の野望は叶わなかったのだ。

夢洲 舞洲 
舞洲(向かって右) 夢洲(向かって左)

もう一度元良親王の歌を鑑賞してみよう。

わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ/元良親王
(こんなに思い悩んでしまった今はもうどうなってもいい。難波の海の澪標の言葉どおり、身を尽くして(身を滅ぼして)もあなたにお会いしたいと思います。)


思い悩んでいたのは、褒子に対する恋にではなく、なんとか自分の血をひく子を宇多天皇の皇子として褒子に産ませたい、という計画についてではないだろうか。

天保山大観覧車 
天保山大観覧車

ところが、褒子との密会がばれてしまい、「もうどうなってもいい」とやけのやんぱちになってしまったのだろう。
処分されようがどうされようがかまうものか。とにかく褒子に自分の子を産ませてやるぜ!
みたいな意味で、歌を詠んだのかもしれない。

夢舞大橋

夢舞大橋

 あべのハルカスと通天閣 
通天閣〈大阪市浪速区) と あべのハルカス〈大阪市阿倍野区)



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私流 トンデモ百人一首 19番 難波潟・・・ 『伊勢が産んだ子は蛭子と淡島だった?』  


小倉百人一首 19番

難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや /伊勢
(難波潟の短い芦の節の間ほどの短い時間もあなたにお会いすることができず、一生を過ごせと、あなたは言うのでしょうか。)


舞洲 百合 ヨット 

 ①難波潟 短き芦の 節の間も


百合の花が咲き乱れる舞洲。
大阪湾にある人口の島である。

かつての大阪湾は現在よりも内陸部にまで入り込んでいた。
そして干潟が広がり、難波潟と呼ばれていた。

難波潟と呼ばれていたころは百合ではなく、芦(あし)が生い茂っていた。 
この難波潟の葦を詠んだのが
難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや
である。

舞洲 葦 
 ②恋多き女性だった伊勢

伊勢はすごくもてる女性だったようである。
藤原仲平とつきあっていたが破綻。
その後、藤原仲平の兄の時平や平貞文から求愛を受けている。
宇多天皇の寵愛を受けて皇子を産んだ。この皇子は5歳または8歳で夭逝したようであるが。
宇多天皇が出家したあと、宇多天皇の皇子の敦慶親王との間に中務という娘をもうけている。

えっ・・・おっおっおっ・・親子どんぶり?

舞洲 百合 

③伊勢はなぜ本名がわかっていないのか?

平安時代の女性はおいそれと人前で名前を名乗ることがなかったこともあって、ほとんど本名がわかっていない。
伊勢というのは紫式部・清少納言等と同様、通称である。

ただし、天皇に入内した女性は位が与えられて記録が残っているため、名前がわかっている。
伊勢は宇多天皇の后・藤原温子に仕えているが、藤原温子という名前が後世に残っているのはそのためである。

いやいや、そんなことよりも、伊勢が自分が仕えている人(温子)の夫(宇多天皇)と関係をもって子供を産んでいるというのが衝撃的だ~。

いやー、平安時代の宮中って実に乱れている。それとも当時そんなのは普通のことだったのだろうか?

それはさておき、『古今和歌集目録』に伊勢が宇多天皇の更衣となったとある。
更衣になったのであれば記録があって本名が記録に残っているはずではないだろうか?

なぜ伊勢は本名が後世に伝えられていないのだろうか?
更衣になったというのは間違いなのか、それとも記録が消されたのか、記録することができない何らかの事情があったのか?

舞洲 百合 黄色

④伊勢の御息所(みやすどころ)

伊勢は「伊勢の御息所」とも呼ばれていたが、この御息所には2つの意味がある。

天皇の寝所に侍する宮女。女御(にょうご)・更衣(こうい)、その他、広く天皇に寵せられた官女の称。また一説に、皇子・皇女の母となった女御・更衣の称という。みやすんどころ。「六条の御息所」
「上は、―の見ましかば、とおぼし出づるに」〈源・桐壺〉
皇太子妃または親王妃の称。
「二条の后、春宮(とうぐう)の―と申しける時に」〈古今・物名・詞書〉

https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E6%81%AF%E6%89%80-139576#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 より引用

伊勢が「伊勢の御息所」と呼ばれていたのは、1で、宇多天皇に寵愛されていたためか、または宇多天皇の皇子を産んだためではないかと思う。

天皇の皇子を産むというのはすごいことである。
自分が生んだ皇子が皇位を継承したら、自分は国母となる。
まあ、宇多天皇には多くの皇子があったので、身分の低い伊勢が生んだ皇子が皇位継承する可能性は低かったと思われるが。

しかし、伊勢が生んだ宇多天皇の皇子は夭逝してしまった。

舞洲 百合 ピンク

⑤低い身分で国母となった藤原胤子

②でお話ししたように、宇多天皇が出家したあと、伊勢は宇多天皇の第四皇子の敦慶親王との間に中務という娘をもうけている。
醍醐天皇は敦慶親王の同母兄にあたる。

醍醐天皇と敦慶親王の母親は藤原高藤の娘の藤原胤子である。
勧修寺を創建したとも伝わる女性である。

勧修寺 睡蓮・花菖蒲・額紫陽花・沙羅双樹 『外祖父になっても昇格できなかった藤原高藤』 

藤原高藤は醍醐天皇の外祖父であるにもかかわらず、大納言どまりで出世できなかった。
また胤子の母親は宮道弥益(山城国宇治郡大領)の娘・列子で、身分としては低い方だった。

そのような低い身分の人でも国母(醍醐天皇の母親なので)になった例があったのである。
ちなみに伊勢の父親は藤原北家真夏流の伊勢守藤原継蔭、母親は不明である。

しかし伊勢は宇多天皇の皇子を産んだにもかかわらず、国母になることができなかった。
⑥恋の歌ではなく、我が子を詠んだ歌?

難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや
(難波潟の短い芦の節の間ほどの短い時間もあなたにお会いすることができず、一生を過ごせと、あなたは言うのでしょうか。)


この歌は、恋の歌のように見えて、伊勢が夭逝した我が子(宇多天皇の皇子)と娘・中務を詠んだ歌のように思える。

「芦」は足にかかり、足が悪かった蛭子を思い出させる。
蛭子はイザナギ・イザナミの長子だったが、3歳になっても歩けなかったので芦舟に乗せられて流された神である。

また「逢はで」は「淡で」にかかり「淡島」を思い出させる。
淡島はイザナギ・イザナギの2番目の子だったが、やはり不具の子であったとして、芦の舟に乗せられて流されている。


舞洲 百合 オレンジ



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私流 トンデモ百人一首 13番 筑波嶺の・・・ 『龍田川だったらよかったのに・・・・』 


八坂神社 かるた始め3

八坂神社 かるた始め


小倉百人一首 13番
筑波嶺(つくばね)の 峰より落つる 男女川(みなのがは)恋ぞつもりて 淵となりぬる/ 陽成院
(筑波山の峰から流れ落ちてくる男女川(みなのがわ)が、どんどん水嵩を増して淵になるように、恋心が募って深い淵となってしまった。)



①歌垣の聖地・筑波山


古代の日本には歌垣と呼ばれるフリーセックスの習慣があり、高橋虫麻呂と言う人がそのようすを歌に詠んでいる。

筑波嶺に登りて嬥歌会(かがい)をする日に作る歌一首 并せて短歌
(筑波の山に登って嬥歌会する日に作った歌一首、あわせて短歌)


鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 娘子壮士(をとめをとこ)の行き集ひ
かがふ嬥歌(かがひ)に 人妻に 我も交はらむ 我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より いさめぬわざぞ
今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな
(鷲が住む 筑波の山の 裳羽服津の津のほとりに、誘い合って 若い男女が集まる 嬥歌で 人妻とエッチしよう。私の妻と誰でもエッチしていいぞ。この山を支配する神が、昔から 許していることだ。今日だけは見苦しいなどとみるな。なにがあっても咎めるな)

反歌

男神に 雲立ちのぼり 時雨ふり 濡れ通るとも 我帰らめや
(男神に雲立ち上り 時雨が振り 濡れ通っても 私は帰らないぞ。)


②歌垣は荒魂(男神)に和魂(女神)を和合させて御霊にする神事?

なにやらすごい歌だが(笑)、現代フリーセックスを行う者との違いは、これが神が許した行事、神事であったということだ。

仏教の神・歓喜天は男女が和合したおすがたをしておられ、次のような伝説がある。

鬼王ビナヤキャは祟りをもたらす神であった。
そこへ十一面観音の化身であるビナヤキャ女神があらわれ、鬼王ビナヤキャに「仏法守護を誓うならあなたのものになろう」と言った。
鬼王ビナヤキャは仏法守護を誓い、ビナヤキャ女神を抱いた。




動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

↑ 相手の足を踏みつけている方がビナヤキャ女神である。

この物語は、御霊・荒魂・和魂という概念をうまく表していると思う。

神はその現れ方で、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるといわれる。
そして荒魂は男神を、和魂は女神を表すとする説があるのだ。
すると神の本質である御霊とは男女双体ということになると思う。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・男神
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・女神

歌垣の習慣は、荒魂(男神)に和魂(女神)を和合させることで、御霊に転じさせる呪術であったのではないだろうか。

③筑波山はなぜ紫峰と呼ばれているのか?

筑波山は茨城県つくば市にある標高877mの山で、М字型をしている。
西を男体山(標高871m)、東の女体山(標高877m)といい、筑波山神社の境内地ということである。
一度訪れてみたいが、関西在住の私はまだ行ったことがない。

雅称を紫峰(しほう)というそうだが、これには思い当たるところがある。

Mt.Tsukuba

西側から望んだ筑波山
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMt.Tsukuba.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/87/Mt.Tsukuba.jpgよりお借りしました。
作者 RESPITE (photo by RESPITE) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


関西で歌垣があった場所といえば、奈良県桜井市の海石榴市(つばいち)であるが、そこに歌碑が建てられていて、次のような歌が刻まれている。

紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰/万葉集 詠み人知らず
(海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。)


紫色に布を染めるためには、椿の灰を媒染剤とした。
紫とは道で出会った女、灰汁は男のことで、男と目があったとたん、女がぱっと美しく瞳を輝かせた、というような意味だろうか。

こんな歌もある。

紫草(むらさき)の にほへる妹を 憎くあらば  人妻ゆゑに 我恋ひめやも. /大海人皇子
( 紫草の紫色のように美しいあなたのことを憎いと思っているとしたら、どうして私はあなたのことがこんなに恋しいのでしょうか。あなたは人妻だというのに)


この2首を鑑賞すると、恋する女が美しく瞳を輝かせるようすを『紫』といっているように思える。

筑波山は男体山と女体山からなる。
このような山の形を、古の人々は男女双体であると考えたのだろう。
女体山は男体山に恋をして瞳を輝かせている。そこから紫峰と呼ばれたのではないだろうか。

④つりどのの皇女は光孝天皇の第3皇女

この歌には「つりどのの皇女につかはしける」と詞書がついている。
「つりどのの皇女」とは「綏子内親王(?-925)」のことである。
綏子内親王は光孝天皇(830-887)の第3皇女である。

⑤退位させられた天皇

和歌は歴史と重ね合わせて鑑賞するべきというのが私流。
簡単にこのころの歴史についてみてみることにしよう。

陽成天皇(869-949)は生まれたばかりで皇太子となり、876年、9歳で清和天皇の譲位を受けて即位した。
幼い陽成天皇の摂政には高子の兄・藤原基経がついた。

883年、陽成天皇の乳兄弟の源益が殴り殺されるという事件がおき、記録にはないものの陽成天皇が犯人ではないかと考えられている。(犯人ではないとする説もある。)
884年、陽成天皇は藤原基経にせまられて退位した。基経は55歳の光孝天皇を擁立する。
光孝天皇は自身の皇位を一代限りのものとして、すべての皇子・皇女を臣籍降下させた。
このとき、光孝天皇の皇女・綏子内親王(つりどのの皇女)も臣籍降下した。

887年、光孝は病を患い、基経と光孝は次期天皇とするため、光孝の子・源定省を皇籍に復帰・立太子させた。
光孝天皇はその日のうちに崩御され、定省親王(宇多天皇)が即位した。
宇多天皇は、光孝天皇が寵愛していた内侍・藤原淑子の猶子であったので、皇太子に選ばれたのではないかといわれている。
このとき、光孝天皇の皇女・綏子内親王(つりどのの皇女)も皇族に復帰した。

宇多天皇は897年に皇子の醍醐天皇に譲位する。
こうして、皇統は光孝―宇多―醍醐とひきつがれていき、文徳―清和―陽成の系統に戻ることはなかった。

大鏡には陽成院が宇多のことを「今の天皇はかつて私の臣下ではないか」と言ったとある。

 
(54)仁明天皇
 
(55)文徳天皇
 
(56)清和天皇
 
(57)陽成天皇
 
(源)清蔭陽成源氏へ〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
惟喬親王
 
 
貞純親王
 
(源)経基清和源氏へ〕
 
 
 
 
 
(58)光孝天皇
 
(59)宇多天皇
 
(60)醍醐天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
人康親王
 
藤原基経
 
 
真寂法親王
(斉世親王)
 
 
 
 
 
敦実親王
 
(源)雅信宇多源氏へ〕
 
 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%88%90%E5%A4%A9%E7%9A%87より引用

⑦陽成天皇の父親は在原業平だった?

陽成天皇は清和天皇の皇子で母親は藤原高子である。
藤原高子は清和天皇の女御となる以前、在原業平と駆け落ちしたとの説話が伊勢物語などにみえ、このため陽成天皇の父親は清和天皇ではなく在原業平であるとする説もある。
これについては前回の私流 トンデモ百人一首 ⑰ちはやぶる・・・ 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』  でもお話しした。

陽成天皇は殴殺事件をおこして退位させられているが、通常ならば叔父の藤原基経は殴殺事件など握りつぶしたのではないかと思う。
甥が皇位についているというのは、基経にとって有利だと思うからだ。
それなのに退位させ、、文徳―清和―陽成の皇統を断ったのは、陽成天皇が業平の子だったからではないかと思ったりする。
基経は業平と駆け落ちをした藤原高子とも大変仲が悪かった。
これも高子が清和天皇の皇子と偽って業平の子供を生んだためではないかと思われる。

さらに陽成天皇の乳母は紀全子、宮人にも紀氏の女性がおり、陽成天皇は紀氏と関係が深かった。

私は陽成天皇の父親は在原業平ではないかと考えているが、業平は紀名虎の娘を妻にしており、紀静子を母親に持つ惟喬親王の寵臣であった。
陽成天皇と紀氏のつながりの深さは、陽成天皇と在原業平が親子だからではないだろうか。

百人一首かるた

⑧「みなの川」「こひぞつもりて」「淵となりける」

「みなの川」「こひぞつもりて」「淵となりける」について、『千人万首』は次のように記している。

◇みなの川 『宗祇抄』によれば、「桜川へおつる」川。桜川は霞ヶ浦に注ぐ川。後世、男女二峰を有する山に因んで「男女の川」とも書かれる。「みな」は「蜷」(泥中に棲むタニシなど小巻貝の類)と同音なので、そこから次句の「こひぢ」(泥濘)と同音を持つ「こひ」を導く序となる。

◇こひぞつもりて 恋心が積もって。「こひ」は「泥(こひぢ)」を連想させるため、「泥濘が積み重なって」の意を兼ねる。

◇淵となりける 「淵」は水が淀んで深くなっているところ。「瀬」(流れが早くて浅いところ)の対意語。「泥水が積もり積もって深い淀みとなった」「恋が積もり積もって、淵のように深く淀む思いになった」の両義

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/youzei.html より引用

泥水が積もれば深い淵ではなく、浅瀬になるのではないか、と思ってしまうが、
泥水が積もって土手になれば水が流れず淵になると言うことを言っているのかもしれない。

⑨龍田川の歌を詠めばよかったのに・・・・

龍田河 もみぢみだれて 流るめり 渡らば錦 なかや絶えなむ(平城上皇・・・在原業平の祖父)

この歌を詠んだ平城天皇は薬子の乱をおこしたが嵯峨天皇に負け、そのせいで業平の父の阿保親王は流罪となった。
そして帰京後、自分の子供(在原行平・在原業平ら)の臣籍降下を願い出て許された。(こうすることによって反逆の意思がないことを示そうとしたのだろう。)

上の歌は、龍田川を皇統に喩え、「私が「薬子の変」をおこしたため、私の子孫は皇位継承することができないだろう」という意味で詠んだものではないかと思う。


ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

「貞明親王(のちの陽成天皇)は実は清和天皇の子ではなく、私(在原業平)と藤原高子の子なのだ。
祖父・平城上皇が薬子の変を起こしてちぎれてしまった皇位継承の血筋が、貞明親王(のちの陽成天皇)が皇太子になったことによって括られた。こんなことは神代にもなかったことだ」

陽成院の歌は上の2首を受けたものだと思う。


筑波嶺の峰よりおつる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりける(陽成院)

筑波山の男体山は陽成天皇、女体山は綏子内親王(つりどのの皇女)に喩えたのだろう。
筑波山は古来より歌垣で有名なところである。
陽成天皇はこの歌を綏子内親王(つりどのの内親王)に送ったというのだから、
ストレートにいえば陽成天皇が綏子内親王に「ねえ、君。エッチしようよ~」という意味ではないだろうか。
ただ、陽成天皇が単に綏子内親王とエッチしたかったというだけの歌ではないと思う。
陽成天皇は綏子内親王の子供がほしかったのだ。
陽成天皇は子供が好きだったの?なんて考えてはいけない。
綏子内親王のような身分の高い女性との間にできた子なら、皇太子になれる可能性がある。
陽成天皇は自分の子どもを天皇とし、自分の血を皇統に残したかったのだ。

在原業平が自分の子供を天皇として、自分の血を皇統に残そうとしたように。
恋が積もってできた淵は、自分の子供を守ってくれる淵というわけだろう。

しかし、残念!
平城上皇、在原業平が皇位継承の血筋に喩えたのは龍田川だった。筑波山からながれるみなの川ではない。
そして皇位継承の血筋は流れなくてはいけなかった。淵だと水がながれない。

陽成院と綏子内親王(つりどのの内親王)の間に子供が生まれることはなく、先に述べたように皇統が戻ることはなかった。

龍田川 紅葉

龍田川



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私流 トンデモ百人一首 ⑰ちはやぶる・・・ 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』  

小倉百人一首17番 
ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに水くくるとは 在原業平
(神代にも聞いたことがない 竜田川が唐土の衣の鮮やかな紅のように水を括り染めにするとは。)


龍田川 紅葉3 
龍田川


①現代語訳が難しい業平の龍田川の歌


この歌は現代語訳が難しい歌である。

「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞。
「神代も聞かず」は「神代にも聞いたことがない」
「竜田川」は奈良県生駒郡斑鳩町竜田あたりを流れる川。
「からくれなゐ」の「から」は「韓の国」や「唐土(もろこし)」を意味する。
当時、韓や唐土の物産は大変高価で価値があるものだったとされる。
今でいうシャネルとかエルメスみたいなブランド品だったということだろう。
「くれなゐ」は「紅色」の意味で、「からくれなゐ」は「韓や唐土から日本に持ち込まれたブランド品の衣の紅色」というような意味だと思う。

ここまではそんなに難しいところはない。

龍田川 紅葉2 

②「水くくる」に二つの解釈


問題は「水くくる」だ。
この「水くくる」には2つの解釈がある。

①水を「括り染め」にした。
「括り染め」とは布にところどころ糸を巻き付けて括ったのち、染色するものをいう。
糸でくくった部分は染まらないので、それで模様をつくるのである。

②水を潜った。川を埋め尽くすように散った紅葉の下を水が流れる。

現代語訳は
①の場合、「神代にも聞いたことがない。竜田川が韓や唐土の衣の鮮やかな紅のように水を括り染めにするとは。」
②の場合は「神代にも聞いたことがない。韓や唐土の衣の鮮やかな紅に染まった紅葉の下を竜田川の水が流れていくとは。」
となる。

③藤原高子が春宮の御息所と呼ばれていたときに詠んだ歌

ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

古今和歌集はこの歌に次のような詞書をつけています。
二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる


この詞書は重要なことを書いてあると思う。
まるで業平の歌は謎々で、この詞書はその謎々をとくヒントであるかのようだ。

一語づつみてみよう。

「二条の后」は清和天皇に入内した藤原高子のこと。
「春宮」は「とうぐう」と読み、皇太子を意味する。
「みやす所」はもともとは天皇の休憩所という意味で、ここから天皇に侍る官女や、皇子・皇女を産んだ女御・更衣を指す言葉となった。

藤原高子は清和天皇に入内して女御の位となり、清和天皇にとの間に貞明親王(のちの陽成天皇)をもうけている。
この貞明親王が春宮(皇太子)となったので、高子は「春宮のみやす所」と呼ばれたのだろう。

その藤原高子が在原業平を召したとき、業平は竜田川に紅葉が流れる屏風絵を見てこの歌を詠んだ、というのである。

龍田川 紅葉 

④在原業平と藤原高子の駆け落ち

「伊勢物語 芥川」に、高子が清和天皇に入内する以前、業平と高子は駆け落ちをしたと記されている。
(現代語訳はこちら。→http://www.raku-kobun.com/ise6.html

駆け落ちの途中、雷が鳴りだしたので業平は高子を蔵の中にいれた。
ところが蔵には鬼がいて高子は鬼にくわれてしまったと記されている。

実は本当に高子が鬼にくわれてしまったのではなく、高子は兄・藤原基経に連れ戻されたのだ。
こうして駆け落ちは失敗に終わった。

このかつて駆け落ちをした二人が並んで屏風絵を見ているわけだ。なにやら意味深である。

⑤業平がその気もないのに高子のもとへ通っていた理由

どうも業平は高子を本気で愛していて駆け落ちしたというわけではないようである。
というのは、古今和歌集詞書に次のような記述があるのだ。

五条の后)の宮の西の対にすみける人に、本意)にはあらで物言ひわたりけるを、

「五条の后(仁明天皇の后、藤原順子)の宮の西側の建物に住んでいる人(藤原高子のことだと考えられている)に、業平は本気ではなかったのだが通っていたが」という意味である。

業平はなぜその気もないのに高子のもとへ通い、駆け落ちまでしたのだろうか?

百人一首かるた


⑥陽成天皇の父親は在原業平だった?

業平と高子は駆け落ちをしているところから、高子が産んだ貞明親王(のちの陽成天皇)は業平の子ではないかとする説がある。
そして百人一首の絵札の、弓矢を背負う業平の姿は陽成天皇を守る姿であるという話を聞いたこともある。

業平がその気もないのに高子のもとへ通っていたのは、清和天皇に入内する予定の高子を妊娠させるのが目的だったのではないかと思う。
高子が産んだ子は清和天皇の皇子とされる。
そしてその皇子は将来皇太子となり、天皇となる可能性がきわめて高い。

⑦在原業平の祖父は平城上皇だった。

在原業平の祖父は平城上皇、父親は阿保親王だった。
ところが平城上皇は嵯峨天皇と対立して挙兵し、敗れてしまった。(薬子の変)

⑧阿保親王、子供(行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許される。

このため、平城上皇は出家し、阿保親王は連座したとして大宰府に流罪となった。
10年以上たち、ようやく阿保親王は許されて京に戻った。
そして阿保親王は自分の子供(在原行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許されている。
阿保親王は自分の子供たちを臣籍降下させることによって、反逆する気持ちがないことを示そうとしたのではないかと思う。

⑨平城上皇の竜田川の歌

龍田川の紅葉について、業平の祖父・平城上皇も歌に詠んでいる。

龍田河 もみぢみだれて 流るめり 渡らば錦 なかや絶えなむ(平城上皇)
(龍田川の上を紅葉が乱れて流れている。私が渡ると紅葉の錦がちぎれてしまうだろう。)

祖父(平城上皇)と孫(在原業平)がどちらも龍田川の歌を詠んでいるのは、偶然なのだろうか。
そうではないと私は思う。
業平は平城上皇の龍田川の歌を受けて、自分も龍田川の歌を詠んだのではないか。

平城上皇は竜田川を皇位継承の血筋に喩えているのではないだろうか。
そして自分が薬子の変をおこしたため、私の子孫は皇位につくことができないということを「錦 なかや絶えなむ」と呼んだのだと思う。

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

「平城上皇が薬子の変を起こしてちぎれてしまった皇位継承の血筋が、貞明親王(のちの陽成天皇)が皇太子になったことによって括られた。こんなことは神代にもなかったことだ」と業平は詠んだのではないだろうか。

⑩陽成天皇の父親が在原業平であることがばれた?


皇太子となった貞明親王は9歳で即位した。(陽成天皇)
そして高子の兄の藤原基経が摂政となった。

ところがどうも陽成天皇の父親が業平であることが基経にばれたようである。
そう思うのは、陽成天皇が源益を殴殺したといて退位させられているからである。

基経は陽成天皇の叔父である。
仮に陽成天皇が源益を殺したというのが本当でも、甥が天皇であるということは基経にとってメリットが大きいはずなので
普通なら事件をもみ消すのではないかと思う。
さらに基経と高子は実の兄妹でありながら大変仲が悪かったとされる。

これらは陽成天皇の父親が業平であることが、高子の兄・藤原基経にばれたのだと考えると辻褄があうように思える。

そしてその後、陽成天皇の子孫が皇位につくことはなかった。
業平の計画は失敗に終わったというわけである。
 
八坂神社 かるた始め 

八坂神社 かるた始め


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私流トンデモ百人一首 12番 天つ風・・・・ 『僧正遍照、大嘗祭で呪いの歌を詠む?』  

小倉百人一首12番

天つ風  雲の通ひ路  吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ/僧正遍照
(天の風よ、吹いて雲のすきまを閉じてしまっておくれ。乙女の姿をもう少し見ていたいから。)


京都御苑・九條池の百日紅を見ようと京都御苑を訪れたのだが
「そうだ、京都御所通年公開されることになったんだった~。」と思い出し、京都御所に行ってみることにした。

京都御所 松 
①1331年から1869年まで皇居があった場所

14世紀ごろ、鎌倉幕府は持明院統と大覚寺統から交互に天皇をたてていた。
1308年、大覚寺統の後醍醐天皇が即位。
1331年、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、後醍醐天皇は京都を脱出して南山城の笠置山に籠った。
このとき鎌倉幕府は持明院統の光厳天皇を即位させた。
これがきっかけで南北朝が並立するようになっていく。

光厳天皇は土御門東洞院殿を里内裏とした。
それ以来、ここが皇居として用いられるようになり、明治2年(1869年)に明治天皇が東京へ行幸するまで続いた。
ただし、建物は何度も建て直されている。

794年の平安遷都時の内裏は現在の御所より西の千本通り沿いにあった。

②即位の礼が行われていた紫宸殿

京都御所 承明門と紫宸殿 
承明門と紫宸殿

承明門の向うに紫宸殿が見えている。
紫宸殿は儀式を行うところで、昭和天皇まで『即位の礼』はここで行われていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AE%E7%A4%BC#/media/File:Enthronement_of_Emperor_Hirohito.jpg
(ウィキペディア 昭和天皇の即位の礼(京都御所・紫宸殿の儀) 大阪朝日新聞 昭和3年10月1日付挿画)

今上天皇の『即位の礼』は1990年11月12日に東京で行われた。

京都御所 池と百日紅2 
③大嘗祭

11月23日は勤労感謝の日ですが、この日宮中では新嘗祭が行われる。
新たな天皇が即位した年に行われる新嘗祭は大嘗祭と呼ばれ、即位の礼と一連の儀式とされている。

大嘗祭は大極殿前に大嘗宮という建物をつくり、そこで行われた。
1990年の大嘗祭では東御苑に約9000㎡もの土地が用意され、39棟もの建物が建てられたそうである。

大嘗祭では様々な行事が行われるが、その中に五節舞(ごせちのまい)がある。

④五節舞

五節舞とは大嘗祭や新嘗祭に行われる、4,5人の舞姫による舞のことである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AF%80%E8%88%9E#/media/File:Gosechi_no_Mai-Hime_Shozoku.JPG(ウィキペディア 五節舞姫装束)



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

天つかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
(天の風よ、吹いて雲のすきまを閉じてしまっておくれ。乙女の姿をもう少し見ていたいから。)


この歌は詞書に「五節の舞姫をみてよめる」とありる。

遍照は宮中を天上になぞらえ、そのため宮中に吹く風を「天つかぜ」と表現したと解釈されている。

僧侶がこんな好色な歌詠んでいいのか、と思っていましたが(笑)、古今和歌集では作者は「よしみねのむねさだ(遍照の在俗時の名前)となっており、遍照が出家する以前に詠んだ歌だと一般には考えられている。

京都御所 池 

⑤六歌仙は怨霊だった。


僧正遍照
は六歌仙の一である。(他の五歌仙は在原業平分室康秀喜撰法師小野小町大友黒主
高田祟史さんは「六歌仙とは藤原氏と敵対関係にあった人物であり、怨霊である。」とおっしゃっている。

そこで六歌仙ひとりひとりについて調べてみると、全員藤原氏と確執があることがわかる。

喜撰法師紀名虎または紀有常だという説がある。
紀名虎の娘で紀有常の妹の紀静子は文徳天皇に入内して惟喬親王を産んだ。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信に相談しましたが、源信は藤原良房を憚ってこれを諌めたとされる。
藤原良房の娘の藤原明子もまた文徳天皇に入内して惟仁親王(のちの清和天皇)を産んでいた。
この惟仁親王が皇太子になった。
私は喜撰法師とは紀氏の血のこい惟喬親王のことだと考えている。

参照/私流トンデモ百人一首 8番 わが庵は『喜撰法師は紀仙法師で惟喬親王のことだった?』 

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いているが、その歌会のメンバーの中に遍照在原業平紀有常らの名前がある。
彼らは歌会と称し、惟喬親王をまつりあげてクーデターを計画していたのではないかという説もある。

遍照は藤原良房にすすめられて出家したと伝わるが、彼は出家した理由を決して人に話さなかったという。

在原業平は紀有常の娘を妻としており、惟喬親王の寵臣でもあり紀氏側の人物でした。

文屋は分室とも記され、文屋康秀は分室宮田麻呂と血のつながりがあると思われる。
分室宮田麻呂は謀反を企てたとして流罪となっているが、死後冤罪であったことが判明している。
分室宮田麻呂は藤原北家に暗殺されたのではないかとする説もある。

大友黒主は大伴黒主とも記され、大伴家持とほとんど同じ内容の歌が残されている。
大友黒主とは大伴家持のことだと思う。
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして当時すでに死亡していたのdが、死体が掘り起こされて流罪となっている。

参照/ 陰陽 黒と白⑩ 大友黒主の正体は大伴家持だった? 

京都御所 池と百日紅

⑥小野小町は男だった?


残る小野小町について、私は「小野宮」と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考えている。
惟喬親王はもちろん男性なのだが、古今和歌集には男性が女性の身になって詠んだ歌というのがたくさんある。
古今和歌集の編者の一人である紀貫之も土佐日記で「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と自らを女と偽って日記を書いている。

参照/ 私流 トンデモ百人一首 9番 花のいろは・・・  『小町の歌は男らしく堂々とした歌だった。』 

京都御所 平安装束の女性たち  

↑ 八坂神社のかるた始めに登場したかるた姫さんたちを合成しました。

⑦藤原高子、五節舞姫となる。

さて世継ぎ争いに勝利した惟仁親王は859年に即位して清和天皇となったのであるが
この際の大嘗祭で、藤原良房の養女・藤原高子が五節舞姫をつとめている。
そして866年に藤原高子は清和天皇に入内して女御となった。

高子が清和天皇に入内したことで藤原良房はますます権力を高めていった。
藤原良房にとって高子は、天皇家と結びつきを強めるための大切な存在であった。

⑧「天つかぜ~」は高子入内を妨害する呪いの歌だった?

京都御所 蹴鞠の絵


すると、僧正遍照が 
天つかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
と歌を詠んだ真意が見えてくるような気がする。

この歌にある「をとめ」とは859年の清和天皇即位に伴う大嘗祭で五節舞姫をつとめた藤原高子のことではないだろうか。
遍照は宮中を天上になぞらえてこの歌を詠んだとされていることを思い出してほしい。
遍照は「風よ、高子を天上(宮中)に入れないでくれ。清和天皇に入内させないでくれ」という意味で、この歌を詠んだのではないだろうか。

古今和歌集ではこの歌の作者名は「よしみねのむねさだ」と遍照が在俗時の名前になっているので、出家する前に詠んだ歌だと考えられている。
遍照が出家したのは849年、高子が五節舞姫を務めたのが859年なので、遍照が詠んだ五節舞を舞う乙女とは高子のことではない、と思われる方もいるかもしれない。

遍照出家後に詠んだ歌ではあるが、「高子を入内させないでくれ」というとんでもない内容の歌なので、
呪ったことがばれないように、あえて在俗時の名前で掲載されたという可能性もあると思う。

今は人を呪っても罪にはならないが、古には権力者を呪うことは罪として罰せられたのである。

あるいは「僧侶が好色な歌を詠むとはいかがなものか」との批判を避ける目的があったのかもしれない。



京都御所 蹴鞠の庭   

蹴鞠の庭。
絵に描かれた人物を現実の風景の中に立たせてみたら面白いだろうな~、とずっと思っていました。
そこで京都御所の建具(戸かな?)に描かれていた蹴鞠する人々の絵を合成してみました。


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私流 トンデモ百人一首 9番 花のいろは・・・  『小町の歌は男らしく堂々とした歌だった。』 

小倉百人一首 9番
花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に/小野小町
(花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。)

髄心院

髄心院(小町の邸宅跡と伝わる)


①小野小町は男だった?

前回の記事、私流とんでも百人一首 8番 わが庵は 『喜撰法師は紀仙法師で惟喬親王?』⑧で、「小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないか」と書いた。

その理由をもう少し詳しく述べておこう。

a.小町は穴のない体であったといわれる。穴がない体とは男だということではないか。
b.古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調している。
小野小町は いにしへの衣通姫の流なり あはれなるやうにて強からず いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし

小町の実体が男であるので、逆に女を強調したのではないか。
c.古今和歌集仮名序は紀貫之が書いたと言われている。
紀貫之が著した土佐日記の出だしは「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」だった。
紀貫之は男であるが、女であると偽って日記を書くような一筋縄ではいかない人物だった。
d.古今和歌集には、男が女の身になって詠んだ歌が数多く存在している。
e.補陀落寺の小野老衰像は骨格がしっかりしていて男性のように見える。
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=1000200
f.小野小町は小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないか?
g.『古今和歌集』の女性歌人で名前に町とあるのは三国町、三条町である。
『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
名前に町とつくのは紀氏の女性をあらわしているようである。
紀静子は惟喬親王の母親だった。
つまり、惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
そういうことで小町なのではないだろうか。

詳しくはこちらのシリーズに書いたので、興味があればお読みいただけると嬉しいです。→ 小野小町は男だった?

②三重の意味があった小町の歌

花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに

この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされている。
しかしよくよく味わってみると、この歌には二重どころか三重の意味があるではないか!

この歌の3番目の意味は・・・
私はこんなに堂々とした男らしい歌を他にしらない。

③小町の歌の一般的な解釈

まずこの歌の一般的な2つの解釈について見てみよう。

『花』は古今集の排列からすると桜だとされている。

そして『色』には赤・青・黄などの色(英語のColor)と、容色のふたつの意味がかかる。

『世にふる』は『世にあって時を経る』という意味だが『世』には男女関係という意味もある。
『ふる』は『降る』の掛詞である。
『ながめ』は『物思いにふける』という意味で、『長雨』と掛詞になっている。

このような技法を駆使しているため、この歌には二重の意味があるとされる。。

①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。

髄心院 梅

髄心院 はねずの梅

④色褪せたはねずの梅

小町の邸宅跡と伝わる,京都・,随心院にはたくさんの「はねずの梅」が植えられている。
はねずの梅は遅咲きで3月ごろに赤やピンクなどの鮮やかな花をつける。
はねずの花が満開になるころ,随心院では深草少将百夜通いをテーマにした『はねず踊り』が奉納されている。

随心院 はねずおどり

髄心院 はねず踊


また鮮やかな赤やピンクのはねずの梅の色のこともはねずといい、色褪せやすいことから『はねず』は『移る』の枕詞になっている。
花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌に詠まれた花とは、桜ではなくはねずの梅のことだと考えたほうがぴったりくる。

そうであるのに、なぜこの歌は桜の歌として古今集に取り入れられているのだろうか。

惟喬親王との世継ぎ争いに勝利して即位した惟仁親王(清和天皇)の母親は藤原明子だが、明子の父・藤原良房が次のような歌を詠んでいる。

染殿の后のおまへに花瓶(はながめ)に桜の花をささせたまへるを見てよめる
(染殿の后の前の花瓶に桜の花をいけてあるのを見て詠んだ。)

年ふれば 齢(よはひ)は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし
(年を重ねたので齢は老いたが、美しい桜の花を見れば、悩みなどありはしない。)


染殿の后とは良房の娘の明子のことである。
桜の花のように美しい娘の明子は文徳天皇の后となって惟仁親王を産み、その惟仁親王は皇太子となった。
惟仁親王が即位して清和天皇となると、良房は清和天皇の摂政となって政治の実権を握った。
娘の明子が清和天皇を産んだので良房には悩みなどなかったのである。

この歌から当時桜は栄華の象徴だと考えられていたということがわかる。

桜の花の色は淡いピンク色である。
一方はねずの梅は鮮やかなピンク色をしている。
その鮮やかなピンク色のはねずの梅の花の色が長雨のために色が落ち、淡いピンク色の桜になったということで桜の歌として取り上げられたのではないかと思う。

髄心院 八重桜

髄心院 八重桜

⑤ぎなた読み

言葉遊びのひとつに『ぎなた読み』というのがある。
『弁慶が なぎなたを もって』と読むべきところを『弁慶がな、ぎなたを持って』などのように、区切りを誤って読むことをいう。
宮沢賢治の『どんぐりと山猫』という物語に『たくさんの白いきのこが、どってこどってこどってこと、変な楽隊をやっていました。』という文章がある。
正しくは『どってこ どってこ どってこと』と読むのだが、それを私の友人は『どって こどって こどって こと』と読んだ。
これなども『ぎなた読み』だといえるだろう。
『ぎなた』や『こどって』という言葉はないが、小野小町はぎなた読みをしても意味が通じるように歌を詠んでいるところがすごい。

もう一度小町の歌を鑑賞してみよう。
花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
『わがみよにふる』は『我が身 世に ふる』と読むが、ぎなた読みで『わが みよに ふる(我が御代にふる)』と読めるではないか。(御代という言葉がいつから使われていたのかが気になるが、調べてみたがわからなかった。ご存じの方がいれば教えてください~)

『御代』とは『天皇の治世』、『我が御代に』とは『私の治世に』という意味である。

惟喬親王は自分とは一字違いの異母弟、惟仁親王(後の清和天皇)との世継ぎ争いに敗れて小野の里に隠棲し、渚の院(現在の枚方市)などで歌会を開いている。
その歌会のメンバーの中に六歌仙の遍照、在原業平、喜撰法師(紀有常)らの名前がある。
また文屋康秀は小野小町に「三河に一緒に行きませんか」と誘っている。
小野小町が小野宮と呼ばれた惟喬親王のことであるとするならば、文屋康秀は惟喬親王と交流があったということで彼もまたクーデターのメンバーであった可能性がある。
クーデターに成功した暁には惟喬親王は即位して天皇になるつもりだったと考えれば、彼が『わが御代に』と歌を詠んだ意味が理解できる。
実際には彼らのクーデターは未遂に終わったようであるが。

高田祟史さんが和歌とは呪術であるというような意味のことをおっしゃっていたと思う。
惟喬親王の歌会とは清和天皇のバックで政権を牛耳る藤原良房や藤原基経らを呪う目的で行われていたのかもしれない。


渚の院 淡墨桜

渚の院跡 ここで惟喬親王の歌会が行われた。

⑤「ふる」の意味

『ふる』を古語辞典でひくと『降る』のほかに『触る』『旧る』『振る』という項目がある。

「触る」・・・①触る ②かかわりあう ③箸がつく ④男女が交わる
「旧る」・・・古くなる。昔と今とすっかり変わる
「振る」・・・①揺れ動く。②波や風が立つ。③震わす。④遷宮させる。⑤(男女関係などで)きらい捨てる ⑥割りあてる。

さて、『わが御代にふる』の『ふる』とはどの意味なのだろうか。
『旧る』で、『昔と今とすっかり変わる』という意味だろうか。
すると、『私の御代に世の中がすっかりかわる様子を見ることができるだろう』という意味になるだろうか。

髄心院 石楠花

小野小町の邸宅跡と伝わる髄心院 石楠花

物部神道

私は『ふる』から物部神道を思い出す。
物部神道の本山・物部神社には「布留社(ふるのやしろ)』と呼ばれる振魂(ふるたま)神法が伝わっているのだ。

物部氏の祖神・ニギハヤヒは天から十種神宝(とくさのかむだから)と天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)を授かったとされる。
十種神宝とは、奥津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)、八握剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、死反玉(まかるかへしのたま)、足玉(たるたま)、道反玉(ちかえしのたま)、蛇比礼(おのちのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、品々物比礼(くさぐさのもののひれ)のことをいう。

天璽瑞宝十種は、この十種神宝を用いて行う鎮魂の神法のことである。
「一ニ三四五六七八九十 不瑠部由良由良不瑠部(ひふみよいむなやこたり、ふるべふるべゆらゆらふるべ)」と唱え、死者を生き返らせる秘法であるという。

『ふるべ』は瑞宝を振り動かすこと、『ゆらゆら』は玉の鳴り響く音とされる。
『わがみよにふる』の『ふる』は物部神道の『ふる』と関係があるのではないだろうか。
すると『わがみよにふるながめせしまに』とは『私の御代に(死者を生き返らせるために)十種の神宝を振り動かす光景を見ることだろう。』というような意味なのかもしれない。

⑧惟喬親王は生き返る?

ここで前回の記事を思い出してほしい。私流トンデモ百人一首 8番 わが庵は『喜撰法師は紀仙法師で惟喬親王のことだった?』 
この記事の中で、私は喜撰法師は紀仙法師で紀氏の地の濃い惟喬親王のことではないか、と書いた。
私は小野小町の正体も小野宮=惟喬親王のことだと考えている。
つまり、喜撰法師(紀仙法師)=小野小町=惟喬親王(小野宮)と推理しているわけである。

高田祟史さんの指摘によれば、喜撰法師の歌は次のように変化する。

わが庵は 都のたつ しかぞすむ 

わが庵は 都のたつ 鹿ぞすむ 

わが庵は 都のたつ ろくぞすむ ※鹿は音読みでは「ロク」

わた庵は 都のたつ弥勒ぞすむ

弥勒菩薩とは56億7000万年後に現れるとされる菩薩で、即身仏になるべく入定した人の目的は、56億7000万年後の弥勒菩薩の聖業に参加するためだったと聞いたことがある。

昔の人々は魂が復活するためには、魂の容れ物である肉体が必要であると考えていたのではないだろうか。

そして喜撰洞は喜撰法師=紀仙法師=惟喬親王が入定した場所だと私は考えた。
紀氏の人々は惟喬親王がいつか生き返る、復活すると考えていたことだろう。

やはり惟喬親王と考えられる小野小町が「わが御代にふる」と歌を詠んでいるのは、「私はいつか復活してこの世の中をおさめる天皇になる」という意味だったりして?

小倉百人一首の8番喜撰法師と9番小野小町の歌はセットになっていると思う。


天(雨)の下

小野小町が雨乞いの際に詠んだといわれる歌がある。

ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとては 又天が下とは
(道理であるなあ、この国を日本と呼ぶならば、日が照りもするだろう、しかしそうは言っても、又、天(雨)の下とも言うではないか。だから、雨を降らせてください。)

この歌の中で小町は天と雨をかけている。

花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに 
こちらの歌には「ながめせしまに」とあるが、これは「眺めせしまに」と「長雨せしまに」というふたつの意味をかけているとされる。
もしかして「長雨」の「雨」は「天」の掛詞になっているのではないだろうか?

そしてgoo辞書を調べてみると、次のように記されている。

くだ・る【下る/降る】
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/61845/meaning/m0u/より引用
初めて知ったが、降るは「くだる」とも読むのだ。

「わがみよにふるながめせしまに」は「わが御代に降る長雨せしまに」→「わが御代に下る長天せしまに」と変化するということだ。
そうすることによって「下る長天」で、「長い天下」という言葉を導いているように思える。

はねずの梅は長雨で色が褪せて栄華の象徴である桜となった。
私が天皇となって長い天下をおさめるときがきた。
昔と今はすっかり変わる。(死んだ私が生き返る?)
そんな眺めを私は見るのである。


こんなに男らしい堂々とした歌を詠めるのは、惟喬親王以外いない。

小野小町像 
髄心院の歌碑に描かれた小野小町像
 



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