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仁徳天皇陵が公共事業で造られたという証拠がないと思う。 


百舌鳥八幡宮 模型   

堺市役所21階展望ロビーにあった模型(見やすくするため一部加工しました。)




①述べ人数と実人数を混同していた!仁徳天皇陵造営の作業員は一日平均1190人。

世界一の敷地面積を誇る巨大古墳・仁徳天皇陵。
この古墳を築造するのに、いったいどれくらいの作業員数が必要だったのか。

大手ゼネコン大林組が試算したところ、仁徳天皇陵を古代工法で建設すると、工期は15年8カ月に及び、作業員数が延べ680万7000人(ピーク時で1日当たり2000人)、総工費は796億円に上った。
https://okwave.jp/qa/q9716890.htmlより引用

この大林組が計算した「作業員数680万7000人」というのはよく知られていて、ネット上でもよくでてくる。
そして、この作業員数から、次のような説が流布しているようである。

仁徳天皇陵を造営するのに述べ680万7000人もの作業員が必要と計算されているが、当時の日本列島の人口4~500万人。
15年8か月もの長期間、民を墓作りのためだけに働かせると民が餓えて死んでしまう。
従って仁徳天皇陵造営は公共工事であったと考えられる。


日本の人口は8世紀には450〜650万人。1000万人を越えたのは中世後期、早くとも15世紀以降と考えられている。江戸時代前半の17世紀に急増し、18世紀から19世紀は3000万人前後で安定化した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88 より引用

とあるので、当時の日本の人口が4~500万人というのは妥当な数字だと思う。

680万7000人と4~500万人を比較すると、たしかにその作業員の多さに驚きそうになる。

しかし、680万人という数字は述べ人数である。
述べ人数とは「1つの事を成し遂げるときに動員した人数の合計」のことである。
1日に必要な作業員数が1500人、作業日数が3日であれば、述べ人数は1500人×3日=4500人となる。

実人数というのもあって、こちらは実際に作業した作業員の数である。
1500人で15年8か月の工事をやり遂げたのであれば、1500人。
15年8か月の工期の中で人員の入れ替わりがあり、3000人が携わった場合には3000人となる。

作業員数680万7000人というのは随分が多すぎると私は感じていたのだが、それは恥ずかしながら、延べ人数と実人数を混同していたからなのだったw。

さきほどの記事をもう一度読んでみよう。

大手ゼネコン大林組が試算したところ、仁徳天皇陵を古代工法で建設すると、工期は15年8カ月に及び、作業員数が延べ680万7000人(ピーク時で1日当たり2000人)、総工費は796億円に上った。
https://okwave.jp/qa/q9716890.htmlより引用

「ピーク時で1日当たり2000人」と明記されている。

680万7000人から1日平均の作業員数をざっくりと計算してみると、次のようになる。

680万7000人÷15年8か月(15.66か月)=434674.33人・・・・1年の作業員数(延べ人数)
434674.33人÷365日=1190.89人・・・・・・・・・・・・・1日の平均作業員数

1日平均1190人という作業員数はビッグプロジェクトには違いない。
しかし、農閑期などに農民一人あたり60日ほど無給で働かせても飢え死にするようなレベルではないと思う。
(負担は大きかっただろうが)

仁徳天皇陵 
↑ 全長840メートルの仁徳天皇陵(木が生い茂って丘のように見える部分)は境市庁舎21階展望ロビーから見ても、ぜんぜん前方後円墳だとはわかりません。

②クフ王ピラミッド建造に必要な作業員数は最低でも仁徳天皇陵の2.7倍

仁徳天皇陵はクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵と並び「世界三大墳墓」のひとつとされている。

この中のクフ王のピラミッドについて、次のような記事があった。

ピラミッド建造にかかる人手

 ピラミッドの建造は 1.石を切り出す 2.石を運ぶ 3.石を削って据え付けるという3つの工程に分けることができる。
まずは1.の採石から。クフ王の大ピラミッドを23年で建造するには、一日におよそ322個の石材のブロックを切り出す必要があった。レーナーのチームの12人の採石工は、22日間で186個、1日当たり8.5個の石材のブロックを生産することができた。しかし、彼らが鉄のケーブルを持ったウィンチを使ったことを考えると、クフ王の時代ではさらに20人の労働者がこの作業に必要だったかもしれない。計32人で一日8.5個とすると、322個の石材を切り出すには、1212人の採石工がいればよいことになる。

 次は、切り出された石を運ぶ作業。クフ王の採石場から大ピラミッドまでは約300メートルの距離がある。この道のりを、1個平均2.5トンの石材をソリに載せて引いていく。ピラミッド建造実験によると、ソリに載せた重さ2トンのブロックは10〜12人で引けることがわかった。ということは、1組20人のチームであれば、2.5トンの石材を十分に運ぶことができただろう。採石場とピラミッドの往復に2時間かかるとしたら、1チームあたり1日5個の石材をピラミッドに供給できたことになる。ピラミッドを23年で完成させるためには1日340個の石材を据え付ける必要があったため、20人のチームが68組、計1360人の引き手がいたと推測される。

 最後に、石を削って据え付ける作業。建造実験の結果から、テコを使って石を持ちあげるのに4人、石を押して位置を調節するのに2人、石材を削って仕上げをするのに2人、これに予備の2人を加えると、ピラミッドの現場でブロック1個に必要な人員は10人になる。採石場からは1時間当たり34個(340÷10)の石材が届けられるので、それを10人が1時間でひとつ据え付けるとすると、340人がこの作業に従事していたことになる。しかし、このペースを維持し続けるのは少々きついようだ。仮に人員を倍の40人にしたとすると、石を削って据え付ける作業には、約680人の労働者が必要だったことになる。

 石を切り出すのに1212人、運ぶのに1360人、削って据え付けるのに680人、合計すると3252人。これ以外にも、石材をピラミッドの上部に運ぶための「傾斜路」の建設に多くの人員が必要だったと考えられている。道具とソリを作る大工や、切断工具を作ったり研いだりする金属細工師、水を運ぶ労働者、労働者の食事を準備する職人もいたことを考えると、クフ王のピラミッド建造に関わった人々は、2万~2万5千人にのぼった可能性が指摘されている。では、それは一体どのような人々だったのだろうか。

http://tokidesign.jp/howto/story01.htmlより引用

採石一日に切り出す必要のある石・・・322個(工期23年より計算)
実験では12人で鉄のケーブルを持ったウィンチを用い1日あたり8.5個の伐り出しが可能だった。
古代エジプトいはウィンチはなかったと考えられるので、追加で作業員20人が必要とし、32人とする。
32人で8.5個の伐りだしを行ったとすると、1日322個のノルマを果たすためには1212人の作業員が必要。

322個÷8.5個×32人=1212人・・・・1日に必要な砕石の作業員数
運搬運搬距離300メートルを、1個平均2.5トンの石材を運ぶ。
実験では2トンの石材を10~12人でひくことが可能だった。
2.5トンを20人でひいたと仮定し、所要時間を2時間として計算。
20人椀チームで1日5個の運搬が可能。
1日に運搬する必用のある石・・・340個

340個÷5個×20人=1360人・・・1日に必要な運搬の作業員数
加工・据付テコを使って石を持ちあげる・・・4人
位置調整・・・・・・・・・・・・2人(実験より確認)
仕上げ・・・・・・・・・・・・・2人
予備・・・・・・・・・・・・・・2人

ブロック1個に必要な人員・・・・10人

採石場からは1時間当たり34個(340個÷10時間)の石材が届けられる。

その石材を10人が1時間でひとつ据え付ける・・340人・・一日に必要な加工・据付の作業員数
しかし、重労働すぎるので、人員を倍にする・・・340人×2倍=680人
その他傾斜路建設、道具を作る大工、金属細工師、料理人・・・2万人
まとめ採石1212人、運搬1360人、加工・据付680人。合計3252人。
その他2万人。

ピラミッド建造従事者は2万人から2万5000人に及ぶか。

この記事で算出している作業員数は仁徳天皇陵の述べ人数の計算とは異なり、1日当たりの作業員数である。

仁徳天皇陵の一日当たりの作業員数・平均1190人と比較すると、採石・運搬・加工据付の作業員数だけでも2.7倍となる。

Khufu CEM

クフ王像 (en)(エジプト考古学博物館)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Khufu_CEM.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6f/Khufu_CEM.jpg
Khufu.JPG:derivative work: JMCC1 / Public domain

③ピラミッド建造は公共事業だった説の根拠

この記事は続けてこんなことも記している

ピラミッドをつくった人々

 古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは、ピラミッドは身分の低い労働者を奴隷のように働かせてつくられた、と書き記している。しかし、今ではこの話を信じている専門家はほとんどいない。「ピラミッド建造実験」を行ったマーク・レーナーは、クフ王の大ピラミッドがそびえるギザ台地の南東に、ピラミッドの建造に従事した人々の街を発見した。この街の一角からパンを焼くための甕(かめ)や壺が見つかったことから、ここにはパン焼き場があったことがわかっている。ゴミ捨て場の調査からは、労働者たちが、当時とても貴重だった牛肉を食べていたことも判明した。さらに、この街の近くでは、労働者の墓も見つかっている。古代エジプト人にとって墓を持つというのはひとつの特権であった。これらのことから、ピラミッドを建造したのは奴隷ではなく、エジプトの一般市民、ことによると、ある種のエリートとさえいえる人々だったと推測されるのだ。遺骨調査の結果から、そこには女性も含まれていたと考えられている。ピラミッド労働者たちは仕事を終えて街に戻り、焼きたてのパンと貴重なタンパク源である肉、そして、当時の「アフターファイブ」にも欠かすことのできなかったビールによって、一日の疲れを癒していたのだ。しかし、そんな「エリート」たちが、なぜこの過酷な「プロジェクト」に参加したのだろうか。

ピラミッド建造のモチベーション

 古代エジプト人は死後の世界、すなわち来世を信じていた。死者が来世で「有力者」となるためには、葬送儀礼や死後の供物といった、生者の「世話」が必要だとされていた。そのため、死者は生者に自らの世話を求め、逆に生者は死者が来世で力を持つことによって、家を守り、維持していくことを求めたのである。ピラミッドが王の墓であることは先に述べた通りだが、それは同時に、王が天に昇るための「装置」でもあった。ピラミッド内部の墓室に記された「ピラミッド・テキスト」には、死者となった王は太陽光線に導かれて天に昇っ ていくとあり、そのため、ピラミッドとは雲の切れ間から降り注ぐ太陽光線を物質化したものだ、と考える説もある。古代エジプト人にとって王とは神であり、全エジプトの家長であった。つまり、ピラミッドをつくることは、国の事業に従事するという栄誉に浴するだけでなく、自らが属する共同体全体を、王の死した後の新たな世界へと運ぶ準備に関わることだったのである。

 4500年前のエジプトに思いを馳せてみる。そこでは、今日も、誇り高き労働者たちが、石を切り出し、石を引き、太陽に向かって、ひとつひとつ、据え付けていたことだろう。父なる王のため、愛する家族のため、そして、何物にも代えがたい、仕事の後の一杯のビールのために。

http://tokidesign.jp/howto/story01.htmlより引用

この記事の内容を箇条書きにまとめておこう。

①古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは、「ピラミッドは身分の低い労働者を奴隷のように働かせてつくられた」と書いている。

②しかし、ヘロドトスの説を信じる専門家は現在ではほとんどいない。

③マーク・レーナーは、ピラミッドの建造に従事した人々の街を発見した。(ワークマンビレッジ)
●パンを焼くための甕(かめ)や壺が発見された・・・パン焼き場があった。
●ゴミ捨て場の調査・・・・・・・・・・・・・・・作業員たちは当時貴重だった牛肉を食べていた。
●労働者の墓が発見された・・・・・・・・・・・・古代エジプト人にとって墓を持つというのは特権だった。
  👇
ピラミッドを建造したのは奴隷ではなく、エジプトの一般市民またはエリート?

④古代エジプト人は、死者が来世で「有力者」となるためには、葬送儀礼や死後の供物といった、生者の「世話」が必要だとされていた。

⑤ピラミッド内部の墓室に記された「ピラミッド・テキスト」には、「死者となった王は太陽光線に導かれて天に昇っ ていく」とある。

⑥古代エジプト人にとって王とは神であり、全エジプトの家長であった。
つまり、ピラミッドをつくることは、国の事業に従事するという栄誉に浴するだけでなく、自らが属する共同体全体を、王の死した後の新たな世界へと運ぶ準備に関わることだった。

Kheops-coupe

クフ王のピラミッド断面図 1.入口 2.盗掘孔 3.上昇通路入口 4.下降通路 5.未完の地下室 6.上昇通路 7.女王の間 8.水平通路 9.大回廊 10.王の間 11.控えの間 12.脱出孔

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kheops-coupe.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/73/Kheops-coupe.svg
Kheops-coupe.jpg: MONNIER Franckderivative work: Malyszkz / Public domain


④古代エジプト人がビールを飲んでいたとされる根拠

上の記事にはエジプト人がビールを飲んでいたことについては記されているが、その根拠については記されていない。
そこで調べてみると、証拠として次のようなものがあることがわかった。

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[2020/02/26 14:58] トンデモ説? | TB(0) | CM(0)

男性が女性を所有する文化って具体的にはどんな文化? 

武田邦彦氏の論法にはいくつかの問題点があると私は考えている。

言ってもいないことを、主観で決めつけて事実のように話すのは『嘘』 
上記記事では、武田氏の次のような論法について批判した。

武田氏は他人の顔つきや態度から他人の心情を決めつけて批判している。
よくない態度、人を不快にさせる態度というのはあると思うが、それでは具体的にどういう態度であったかという説明が必要である。
しかし、武田氏は具体的な説明をせず、
「俺達のやることは正義なんだ。」「お前らバカなんだから」「公金を使って展示して何が悪い」というような態度
と言っている。
「~のような態度」と言っているところから判断して、批判している相手が実際に「俺達のやることは正義なんだ。」「お前らバカなんだから」「公金を使って展示して何が悪い」などと発言したわけではないのだろう。
武田氏がそう思った、というだけのことである。
批判された相手としては、言ってもいないことを批判されても、困るだけである。




今回の動画ではこんなご発言をされている。

5:35あたり
「中国・ヨーロッっていうのは男が女を所有する文化ですから男は女に飯をつくれ、といって作らせるというのが欧州中国スタイルですね。
日本は女性のほうに全権がありまして男は農事記録文書の作成の3つしかできないというのが、日本の社会の原則でした。」

6:40あたり
「全権があるというのがどういうことかというと女性は何でもやっていい。一番そのころ大切なのは家庭ですからね。
食事をつくる。子供を育てる。家庭を守る。洗濯をする。縫物をするってことで最低の生活が全部確保できる。
これは全部女性の権利で、あとはまあ小説を書くとか飾り物をするとか 日常の生活は全部女がすると
女が権限を持っている。 義務じゃない。」


野菜

①男が女を所有する文化とは何かについての説明がない。

武田氏は「中国・ヨーロッパは男が女を所有する文化」と言っているが、「男が女を所有する文化とは何か」についての説明がない。
言葉の定義を定めずに話すのは武田氏の悪いクセである。

言葉の定義を定めてから話すべきである。

また具体例を示して話をするべきだが、具体例を出さないことが多い。

「武田氏は男は女に飯をつくれ、といって作らせると具体例を出しているじゃないか」と言われるかもしれないが、
中国やヨーロッパの男性の何パーセントが妻に対してそういう発言をしているのか。
そんなプライベートな内容の統計があるとも思えないし、武田氏も統計を提示したりもしていない。
武田氏が根拠なく決めつけているだけではないだろうか?

箒とちりとり

②男が女を所有するとは人身売買のことか?

一般に人が人を所有するということは、富裕な人が奴隷などを所有することを言う思う。
奴隷は人権をもたない物であり、物であるので売買の対象となった。また強制労働を強いられた。

そういう意味では、過去には日本でも人身売買が行われており「男が女を所有する」ことはあったといえる。

幕府は人身売買を禁じていたが、実際には、女衒(ぜげん)と呼ばれる“人買いに親が娘を妻を売ることがあったようである。

その例として「からゆきさん」がある。
明治ごろ、貧しい家庭に生まれた娘は、嬪夫(斡旋業者)・女衒たちの仲介によって海外に渡航し、奉公することがあり
これを「からゆきさん」といった。
親は娘を奉公に出したのち、仲介業者から金を受け取った。(つまり身売り)
奉公といっても、からゆきさんたちが勤めたのは売春宿である。

売られるのは娘であることが多かったようだが、男(父親)が女(娘)を売ったことはまちがいない。
やむない事情があってのことだと思うが、
父親が娘を売って代金を受け取ったということは、娘は父親の所有物だということになる。

糸巻き  

③欧米も日本も男尊女卑の考え方があった。


「欧米が男が女を所有する文化」について次のような説明をする人が結構いる。

聖書は神の姿に似せてアダム(男)を作り、アダムの肋骨からイブ(女)を作ったとしている。
だからキリスト教徒の多い欧米は男尊女卑世界であると。

この説明はだめだ。
なぜならば聖書の物語というのはフィクションであって、事実ではないからである。

そして、聖書にあることが描かれているということと、リアルの世の中は別のものである。
リアルな世の中でおこった出来事や習慣をベースにして語らなければ、導き出した結論が正しいとはいえない。

聖書に書いてある=現実の世の中も同じ・・・・✖


またキリスト教は男尊女卑だといわれるが、日本で広く信仰されていた仏教も男尊女卑である。

たとえば、スッタニパータに次のようにある。

835.
「私は嘗て『渇望』と『不満』と『貪欲』と(いう女)を見たが
それと一つになろうとは決して思わなかった
この尿と糞とに充ちた汚いもの それが一体何であろうか
私は足でそれに触れようとさえ思わない」

○中村元先生訳

https://76263383.at.webry.info/201503/article_27.html より引用

中世の地獄絵には筍を探し続ける地獄が描かれており、子供を産まない女性がおちるとされていた。
なんで筍を探し続けるのかといえば、竹は種子ではなく地下茎で増えるからということである。

洗濯板 

④「大きな歴史」という概念からくる考え方の間違い

文化の比較をする場合、当然、比較する文化について深く掘り下げて知識をえることが必要である。
武田氏はそういうことをやっていないと思う。
もし様々な文化について深く掘り下げて知識を得ているのであれば、実例をあげて話をすることができるはずである。

武田氏がこういった間違った結論を導き出すのは氏がよく言っている「大きな歴史」に問題があると思う。
「大きな歴史」というと聞こえはいいが、それは「浅い知識で語る歴史」とイコールなのである。

大きな歴史=浅い知識で語る歴史

男尊女卑についても、スッタニパータの文や、地獄絵等、細かな知識をもっていなければ語ることはできない。

現在ではネットでぐぐるとかなりの情報がでてくるので、動画の更新頻度を下げてでも知識の補充に努めたほうが内容の濃い動画になると思う。

 室内干し


⑤武田氏は「所有(強制)」「権利」などの言葉の概念を持て遊んでいるだけでは?

武田氏発言をまとめると次のようになると思う。

中国・ヨーロッパ・・・・男は女に飯をつくれ、といって作らせる。(強制)
日本・・・・家事は女性の権利で、義務じゃない。(権利)

中国・ヨーロッパは女性の家事は強制、日本では女性の家事は権利であると武田氏は言っているのだ。
女性が家事をするというのは中国・ヨーロッパ・日本でも同じということである。

①で武田氏が「所有」という言葉の定義や実例、統計をあげていないことを指摘したが
武田氏は、権利や強制という言葉の定義、実例、統計もあげていない。

言葉の定義がなく曖昧だと、どんな風にでもいえるわけで、こういうのは科学的であるとはいえない。

実際に犯罪をおかした証拠がない人に対して、犯罪者であるというレッテルを貼るようなものである。
ある人を犯罪者と認定するためには、その人がどのようなことをして、それがなぜ罪にあたるのかという理由が必要である。

中国・ヨーロッパ・日本とも、女性が家事をしていたという点は同じである。
武田氏は「強制」「権利」などの言葉の概念を持て遊んでいるだけ
 のように思える。

アイロンがけ





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[2020/02/22 19:56] トンデモ説? | TB(0) | CM(0)

日本文明は中国文明より古い? 文明と土器の古さを比較しても仕方ない。 

2019年12月03日のねずさんのブログ記事。
https://nezu3344.com/blog-entry-4337.html

内容を要約すると、次のようになる。


①「世界四大文明(エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明)」という用語は、清朝末期のChinaの政治家だった梁啓超(りょうけいちょう)が日本に亡命中に唱えた説で、中国が歴史を道具として利用するために捏造したものである。

「世界四大文明説」はかなり以前に世界の歴史学会で否定されている。
エジプト、メソポタミア、インダス文明が、およそ4〜5千年前の成立。
けれど、およそ8千年前に、それら文明よりも、もっと古い「シュメール文明」が存在した。
黄河文明の2千年前に、揚子江の流域に「長江文明」が存在した。
南米のインカ文明は、およそ7千年前。

③日本文明は、チャイナよりもはるかに古い。黄河文明は約5千年前。長江文明は7千年前。日本では1万6500年前の世界最古の土器の遺跡が見つかっている。そこからはじまる土器の時代を、我々は「縄文時代」と呼んでいる。
本来なら「縄文文明」と呼ぶことがふさわしい。

④1万6500年前の土器は青森県蟹田町「大平山元|遺跡(おおだいやまもといちいせき)」で出土したもの。
土器があるということは、すでに火を使い社会的分業体制が整っていたことを証明する。
大平山元遺跡群の2遺跡からは、約16,000年前の石で囲った炉の跡、石蒸し料理に使った焼けた石なども見つかっている。
もしかすると日本は、世界最古の文明国だった可能性がある。

⑤青森県のHPには、この大平山元遺跡のことは載っていない。
青森県内の遺跡を紹介したサイトでも、この遺跡から出土した土器は「青森県下最古の遺跡」と書いている。

⑥大平山元遺跡群は、場所が、1と2があるのだけれど、なぜか「1」と書けばよいモノを、パソコンのキーボードの右上の「¥」マークのところにある「|」という記号を使って、「大平山元|遺跡」と表記している。あるいは「Ⅰ」を使っている。
どうして、あえて、1と2にわけるのか


⑴世界四大文明は否定されているが、エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明がなかったという意味ではない。

小名木氏は世界四大文明は中国の政治家・梁啓超が唱えたものと言っておられるが、ウィキペディアの記述はこうなっている。

「四大文明」の考え方は20世紀につくられ、その原型は中国の政治家でジャーナリストであった梁啓超の『二十世紀太平洋歌』(zh:二十世紀太平洋歌)という詩の中にあり、「地球上の古文明の祖国に四つがあり、中国・インド・エジプト・小アジアである」と述べている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E6%96%87%E6%98%8Eより引用

小名木氏もウィキペディアを読み、それで「世界四大文明は中国の政治家・梁啓超が唱えたもの」と言っているのではないだろうか。

しかし「その原型は梁啓超の『二十世紀太平洋歌』という詩の中にあり」とはわかりにくい文章である。
ウィキペディアは「四大文明は梁啓超が唱えた」とは明記していない。
その原型が「梁啓超の二十世紀太平洋歌にある」という主張であって、梁啓超が唱えたとは書いていないのである。
ウィキペディアは続けて後に江上波夫がこの言葉を広めたと説明している。

私は世界四大文明を唱えたのは考古学者ではないかと思うが、それはひとまずおいておく。

小名木氏は世界四大文明という言葉は梁啓超が政治に利用するため捏造したものだと言いたいようだが、私はそうは思わない。

四大文明という考え方が否定されているのは四大文明にメソアメリカ文明(紀元前1250年ごろ)、アンデス文明(紀元前2500年ごろ。アンデス文明は文字をもたなかった。)
を含めて6大文明とする見解があったり、ヒッタイトが入っていないじゃないかとか、中国で黄河文明よりも古い長江文明が発見されたりしているためだと思う。(小名木氏が指摘するように、最近では長江文明が発見されたので、黄河文明とはいわず中国文明ということが多い。)

小名木氏はシュメール文明をあげているが、これは初期メソポタミア文明のことで、国家ができるのは紀元前3000年ごろのことである。

これは小名木氏もそう考えておられると思うが、世界四大文明が否定されているといっても、エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明がなかったという意味ではない。

Abu Simbel Temple May 30 2007

エジプト文明 アブ・シンベル神殿 BC1250年頃

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Abu_Simbel_Temple_May_30_2007.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bf/Abu_Simbel_Temple_May_30_2007.jpg
英語版ウィキペディアのThan217さん / Public domain


⑵文明という言葉の定義

文明という言葉の定義が重要だ。

文明について、ウィキペディアは次のように記している。

マルクス主義の考古学者ゴードン・チャイルド(1892年-1957年)の定義では、文明と非文明の区別をする指標として次のものを挙げている。

効果的な食料生産
大きな人口
職業と階級の分化
都市
冶金術
文字
記念碑的公共建造物(ピラミッドなど)
合理科学の発達
支配的な芸術様式


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%98%8E より引用

これはゴードン・チャイルドによるもので、文明という言葉が必ずしもこれらの要素を満たしているわけではない。

Ziggurat of ur

メソポタミア文明 BC2100年ごろ ジッグラト復元図
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ziggurat_of_ur.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/80/Ziggurat_of_ur.jpg
user:wikiwikiyarou / Public domain


⑶世界四大文明には共通点がある。

四大文明はゴードン・チャイルドがあげた文明の定義のうち、少なくとも冶金術・文字という共通点がある。
また、インダス文明はよくわからないが、ほかの三文明では国家が成立していた。

なので世界四大文明という言葉が否定されているとしても、そういう言葉を教科書に載せたり、本を発行したりしても
「共産党、社民党、中国共産党、北朝鮮、あるいはその影響を受けた韓国、在日コリアンなどの左翼・反日主義者たちによる歴史の捏造」とはいえないと思う。

※下表の空欄になっている部分は「該当なし」という意味ではない。
調べたりずわからないと解釈してほしい。

文明エジプトメソポタミアインダス中国(黄河・長江)
年代前3000年ごろ前3100年ごろ紀元前2500〜紀元前2300年紀元前5000年
国家メンフィス
シュメール人が都市国家を作る
殷(紀元前17世紀から紀元前11世紀)

まで続いた古代王朝で、に定め栄えていました。この大邑商の遺跡を殷墟といいます。
都市ウル・ラルク・ラガシュ商と呼ばれる大邑が殷の首都
文字ヒエログリフ(象形文字)楔形文字インダス文字(未解明)甲骨文字(漢字の原型)
宗教太陽神ラーを中心とする
多神教
文化測地術・幾何学・太陽暦
パピリス(紙)
紀元前1700年ごろ、バビロン第一王朝のハンムラビ王がハンムラビ法廷を発布
ギルガメッシュ叙事詩(旧約聖書)ノアの箱舟のルーツか?
太陰暦
建造物ピラミッドジッグラト(神殿・聖塔)
モヘンジョダロ ハラッパー

(排水施設・舗装道路・穀物倉庫・沐浴場等)
多数の巨大墳墓
(深さ20mを超えるものを含む)
青銅器青銅器 土器

黄河文明後期銅器

ファイル:太平山本I 土器破片.jpg

太平山本I 土器破片
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E6%9C%ACI_%E5%9C%9F%E5%99%A8%E7%A0%B4%E7%89%87.jpg

⑷世界と日本の歴史比較

また古代の世界の歴史と日本の歴史を比較してみると次のようになる。 
年代世界日本
1万6500年前大平山元遺跡 世界最古級の土器
1 万年前 日本列島が大陸から分離
紀元前3500 年三内丸山遺跡の大規模集落
BC3000頃エジプト、統一国家の形成
メソポタミアにシュメール人の都市国家
インダス文明
BC2000頃古バビロニア王国
BC1800頃ハムラビ法典制定
BC1500頃殷王朝の成立
BC1050頃周王朝による華北の統一
BC1000頃バラモン教の成立 →インドのカースト制度
BC500菜畑遺跡で水田稲作
水田稲作が広まる 
青銅器や鉄器が大陸から伝わる
BC400 年頃吉野ヶ里遺跡の環濠集落 
BC221 秦の始皇帝中国統一
BC202漢の成立
BC27ローマ帝国成立
57倭の奴国王が後漢に使いを送る
107倭国王帥升が後漢に使いを送る
2 世紀後半倭国大乱
220漢滅び 三国に分裂
239邪馬台国卑弥呼魏に使いを送る。


古い文明としてエジプト・メソポタミア・インダス・中国文明があったことは間違いないことであり
また、それらの文明はゴードン・チャイルド(1892年-1957年)の文明の定義をほぼ満たしていると思う。

一方、日本では世界最古級の土器が発見されたりはしているが、文字をもたなかった。
一部、神代文字の存在を主張する人もいるが、後世の偽造とする説が有力である。(後日詳しく調べてみるが)

縄文時代の遺跡から約3000年前の青銅刀子が出土しているが、大陸からもたらされたものと考えられている。
これはおそらく青銅器を製造する炉の跡などが見つかっていないため、大陸からもたらされたと考えられているのではないかと思う。

国ができるのは紀元後になってからだと考えられる。

ピラミッドやジッグラト、モヘンジョダロのような巨大建造物のあともみつかっていない。

木造だから残らない、といわれるかもしれないが、三内丸山遺跡などで柱跡などは見つかっている。
ここで見つかった建造物は長さ32m×幅10mのものだった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%80%E3%83%AD#/media/ファイル:Mohenjodaro_Sindh.jpeg

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%86%85%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1#/media/ファイル:140913_Sannai-Maruyama_site_Aomori_Japan01bs6bs6.jpg

写真を比較するとその差は歴然としている。
ただし、殷墟の遺跡などは確認できていないので、それについては確認したのち追記をいれるか、新しく記事を書くなどしたいと思う。


⑸文明と土器の古さを比較しても意味がない

つまり、文明と土器の古さを比較しても意味がないということである。
古くから土器をつくっていたとしても、冶金術や文字を生み出すことができていなければゴードンチャイルドのいう文明の条件には当てはまらないからだ。
比較するのであれば、古さだけでなく、その規模や性質を比較するべきだと思う。

日本には日本のよさがあるので、古さにこだわる必要はない。

日本が文字を発明しなかったことや、国家の成立が紀元後であるからといって、それで我々日本人は中国やエジプトなどに対して何かコンプレックスを持つ必要もない。

日本には日本の、縄文時代には縄文時代のよさがあるからだ。

また歴史が浅いと外交で損をするということもない。
もしもそんな世界なら、アメリカは外交で多大な損をしているということになるが、そのようには見えない。

逆に小名木氏のように文明と土器片を同じ土俵にあげて論じるような手法をみると、彼には「日本の歴史は古くなくてはいけない」という強迫観念でもあるのかと思ってしまう。

⑺武田氏は小名木氏の説を参考にしていると思う。

文化と稲作、日本と中国どちらが古い? ※追記あり 
↑ こちらの記事で武田邦彦氏の動画の内容について批判したが、武田氏は小名木氏の説を参考にされていると思う。
動画内で小名木氏の名前を出されたこともあるし、ほかにもキムチに唐辛子をいれるようになった理由など、小名木氏と同様の発言をされていたように思う。

小名木氏の説について知るのはいいが、他の研究者の論文などは読んでいるのだろうか。

多くの異なる意見を持つ研究者の見解を知ったうえで判断してほしいと思う。



※中国文明・インダス文明の写真はパブリックドメインのものがみつからなかったので、掲載していないが
ウィキペディアなどに写真があるので各自で確認してほしい。






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[2020/02/18 13:24] トンデモ説? | TB(0) | CM(0)

文化と稲作、日本と中国どちらが古い? ※追記あり 



上の動画で武田邦彦さんが次のようにおっしゃっている。

①NHKが世界4大文明という特集をやったりしているのは、NHKは中国の味方で日本の敵であるということである。
「紀元前5000年ぐらいから黄河に文明が発達しそれが成熟して中国以外の他国に影響を及ぼした」と主張するため、中国人が四大文明という概念を作った。
②黄河文明は7000年前(紀元前5000年)、縄文時代は1万6000年前(紀元前1万4000年)なので、
 縄文時代のほうが黄河文明より古い。
③一般的にこんなことがいわれている。
 「稲は弥生時代に大陸からわたった。黄河文明が先で、そのころ日本には文明がない。
 弥生時代に(紀元前3000年くらい)やっと稲作が伝わった。それとともに弥生人がきた。」
 しかし黄河文明は7000年前で、日本の稲作は縄文時代の8000年前。日本のほうが古い。
④日本の稲は中国と種が違う。
⑤地球の気温を調べると12万年前から2万年前までウィスコンシン間氷期(寒冷期)だった。
 その間氷期に黄河なら黄河、日本に人が移っていなくてはならない。
 エジプトあたりから移る。そのころ黄河地区は寒くて人が移り住むような状態ではなかった。
 もしも人が移りすむなら3万年、4万年前だが、海洋で移動しか無理。
  エジプトからくるなら海岸沿いにこれるのはインドまで。内陸には入れないだろう。
 寒いのでヒマラヤ・シルクロードを超えて中国に入るのはムリ。
 移動する際の食糧もない。
 したがって文明は中国より、日本・フィリピン・インドネシアが早い。
⑥減塩といっているのは、内陸の国は塩がとれない。動物からとるしかない。
 だから内陸に住んでいる人は塩は少量しかとらなくていい体になっている。
 日本人は周囲が海なので塩はいくらでもとれる。減塩しなくてもよい体になっている。
⑦日本人の中に二つコンプレックスがある。
 a.中国より日本に多くの文明がやってきたという誤解。
 b.日本よりヨーロッパの方が優れているという誤解。
 これはまちがい。中国の文明は日本より遅い。ヨーロッパの文明のほうが日本より劣っているとするのが正しい。

あらき島3


①NHKが世界4大文明という特集をやったりしているのは、NHKは中国の味方で日本の敵であるということである。
 紀元前5000年ぐらいから黄河に文明が発達しそれが成熟して中国以外の他国に影響を及ぼした」と主張するため、
 中国人が四大文明という概念を作った。
     

四大文明について、ウィキペディアは次のような内容を記している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E6%96%87%E6%98%8E

●世界四大文明(せかいよんだいぶんめい)とは、人類の文明史の歴史観のひとつ。
歴史上、4つの大文明が最初に起こり、以降の文明はこの流れをくむとする仮説。

●「四大文明」とは、メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明をさす。

●「四大文明」の考え方は20世紀につくられ、その原型は中国の政治家でジャーナリストであった梁啓超の『二十世紀太平洋歌』(zh:二十世紀太平洋歌)という詩の中にあり、「地球上の古文明の祖国に四つがあり、中国・インド・エジプト・小アジアである」と述べている。

●2000年にNHKスペシャルで『四大文明』というタイトルで特集番組が放送され、関連書籍が出版された。


政治家である梁啓超が『二十世紀太平洋歌』という詩をよんでいることから、武田氏は「四大文明は中国の陰謀」としているのだろう。

現在、ウィキペディアの記述は書き換えられているが、かつては次のように記されていたらしい。

Wikipediaによると、この考え方の原型は梁啓超の『二十世紀太平洋歌』(1900年)にあり、「地球上の古文明の祖国に四つがあり、中国・インド・エジプト・小アジアである」と述べている。この考え方はアジアでは広まったものの、欧米では受け入れられなかった。また、考古学研究が進展した現代では、初期の文明を4つに限定する見方は否定的であり(当の中国でも長江文明など、黄河文明以外の文明が存在したことが確認されている)、四大文明という概念自体が知識に乏しかった過去のものといえる。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E6%96%87%E6%98%8E より引用


勉強不足ゆえ知らなかったが、四大文明という概念はすでに時代遅れのようである。
そして黄河文明以外に長江文明があったことが確認されているというのである。

八瀬 稲の実り

②黄河文明は7000年前(紀元前5000年)、縄文時代は1万6000年前(紀元前1万4000年)なので縄文時代のほうが黄河文明より古い。


武田氏は黄河文明を紀元前5000年ごろ、としておられるが、ウィキペディアには紀元前7000年?とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3%E6%96%87%E6%98%8E#裴李崗文化

しかし、それは大したことではない。

①で引用した(現在は書き換えられている)ウィキペディアの記述にこう書いてある。

「考古学研究が進展した現代では、初期の文明を4つに限定する見方は否定的であり(当の中国でも長江文明など、黄河文明以外の文明が存在したことが確認されている)、四大文明という概念自体が知識に乏しかった過去のものといえる。」


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E6%96%87%E6%98%8E より引用

武田氏は黄河文明のことばかりおっしゃっているが、黄河文明より古い長江文明が中国にあったとされているのだ。

長江文明の時期を、ウィキペディアは紀元前14000年ごろから紀元前1000年頃と記す。
しかし、紀元前14000年とする根拠をウィキペディアは示していない。
ウィキペディアにはこういう点を明確に記述していただきたいと思う。

一方の縄文文化の時代をウィキペディアは紀元前14000年頃 – 前10世紀と記している。

どちらか古いのか、これだけでは判断できない。

猪名川町 棚田


③一般的にこんなことがいわれている。
 「稲は弥生時代に大陸からわたった。黄河文明が先で、そのころ日本には文明がない。
 弥生時代に(紀元前3000年くらい)やっと稲作が伝わった。それとともに弥生人がきた。」
 しかし黄河文明は7000年前で、日本の稲作は縄文時代の8000年前。日本のほうが古い。



ながらく、日本の稲作は弥生時代に始まったとされていたが、1990年代、縄文時代にも稲作があったと考えられるようになった。
武田氏は日本の稲作は縄文時代の8000年前とおっしゃっっているが、日本最古のプラントオパールは岡山の朝寝鼻貝塚のもので、6000年前のものとされる。
ただし、水田耕作ではなく雑駁農耕(陸稲)の可能性が高い。

一方、黄河文明ではなく、長江文明(7000年前)河姆渡(かぼと)遺跡では、栽培稲や栽培稲の先祖に当る野生稲の痕跡、野生稲から栽培稲へと変わっていった痕跡も発見されている。

ここから、次のような仮説がたてられている。

 a.水稲・・・縄文時代晩期に半島からやってきた渡来人達によって持ち込まれたのではないか。
b.陸稲・・・縄文時代に大陸から持ち込まれたのではないか。



また、「日本国内に稲の祖先型野生種が存在した形跡はなく」とウィキペディアに記されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8D#原産地

ということはやはりどこかから伝わったと考えるべきではないだろうか。


美山茅葺の里 はざかけ

④中国と種が違う。

稲はインディカとジャポニカの2種類ある。
さらにジャポニカは温帯ジャポニカ(水稲)と、熱帯ジャポニカ(陸稲)の2種類がある。
河姆渡のものはジャポニカで、地面にモミを播いて栽培(雑駁農耕)したのではないかと考えられている。

中国では90品種を調べた結果、61品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、
朝鮮半島では、55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。
現在の日本に存在する稲の遺伝子は、RM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類

中国の稲の遺伝子・RM1-b遺伝子を持つ稲が日本にもあるのだ。

④地球の気温を調べると12万年前から2万年前までウィスコンシン間氷期(7万年前に始まって1万年前に終了した寒冷期)だった。
 その間氷期に黄河なら黄河、日本に人が移っていなくてはならない。
 エジプトあたりから移る。そのころ黄河地区は寒くて人が移り住むような状態ではなかった。
 もしも人が移りすむなら3万年、4万年前だが、海洋で移動しか無理。
 エジプトからくるなら海岸沿いにこれるのはインドまで。内陸には入れないだろう。
 寒いのでヒマラヤ・シルクロードを超えて中国に入るのはムリ。
 移動する際の食糧もない。
 したがって文明は中国より、日本・フィリピン・インドネシアが早い。


これについては、何を言っているのがわからない部分があるが、
このような理屈はいくらでもつけられる。
それよりも日本・フィリピン・インドネシアのほうが文明が早いことを示す遺跡や出土品などの証拠をしめすべきだろう。

※追記

「エジプトから海岸沿いにこれるのはインドまで」と武田氏は言うが、それではアフリカで生まれたとされる新生人類は日本・フィリピン・インドネシアにどのようにしてやってきたのだろうか?
中国には内陸しかないわけではない。海岸もある。
海岸沿いに中国南部に移動し、中国南部を経由して日本・フィリピン・インドネシアに移動したと考えられるのではないか。
そして、中国南部には長江がある。
寒冷期であっても長江が流れているあたりは緯度が低いので温暖で稲作に適した土地であったのではないか?
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E4%B8%AD%E5%9B%BD&ei=UTF-8&ts=11117&aq=-1&ai=HYgsPrbERIaHou8usqtAuA&fr=top_ga1_sa#mode%3Ddetail%26index%3D0%26st%3D0
(長江の地図)


能勢 棚田


文明や稲の古さで国の優劣が決まるわけではない。
逆に事実ではないことを言ってまで、古さにこだわることのほうが

何かコンプレックスがあるように感じてしまう。


猪名川民族資料館 千枚こぎ2





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[2020/02/14 19:09] トンデモ説? | TB(0) | CM(0)

「一揆は一人でも反対があったらやらない」は超民主主義という妄想 




①ねずさんは姓・氏・名前、百姓の意味を混同している。

前回、上の動画でのねずさんの発言について、次のような間違いを指摘した。
姓・氏・名前の違い、庶民の名前 ※書き直しました。 

●「百姓とは百のかばね。」

姓には3つの意味がある。
⑴天皇から与えられた身分をあらわす称号(朝臣など)
⑵奈良時代以降、臣籍降下する際などに天皇から与えられた氏(姓と氏は本来別のものであるが混同された)
⑶氏(姓と氏は本来別のものであるが混同された)

百姓は大化の改新以降に「貴族、官人、公民、雑色人」をさす言葉だった。

百姓の百は「多くの」という意味だろう。
百姓の「姓」は本来の「称号」という意味⑴ではなく姓と混同された氏の意味⑶で用いられているように思える。

●「姓とは職業集団。」

⑴称号としての姓には史のような職業集団的なものもあるが、氏族の階級を表すもののほうが多い。

⑵臣籍降下する際などに天皇から与えられた氏(姓)は、親戚降下するものや一族に与えられたものであって、職業集団に対して与えられたものではない。

●「(姓には)もうひとつ意味がある。
女偏に生まれるとかく。一人の女性から生まれた仲間。村は全員親戚。
斉藤さん、鈴木さんのようにみんな姓をもっている。」


斉藤・鈴木は名字であって、姓(称号、天皇から与えられた姓)ではない 
明治以前、名字は自由になのることが出来た。

●天皇からすべての民衆は姓をもらった??

古代、有力氏族が臣・連などの称号である姓をもらったのであり、民衆が姓をもらったのではない。
奈良時代以降は功績があったものや、臣籍降下したものに対して天皇が姓(本来の意味での氏)を与えることがあった程度。
すべての民衆が天皇より姓をもらったりはしていない。

古代、有力氏族に隷属する庶民である部曲たちは、氏の名前〇〇に部をつけて〇〇部と呼ばれていた。
部曲廃止後は自由に名前をつけていたかもしれないが、庶民は公に名前を名のることは禁止されていた。

●たくさんある姓の中のひとつをもらったから百姓であり天皇のおおみたからである。


古代の称号としての姓は8個程度しかない。
奈良時代以降、天皇が功績があったものに与えたもの(藤原)や、天皇が臣籍降下するものに対してあたえたもの(橘・在原・源・平)も姓と呼ばれているが、そんなに多くはない。
庶民の名前は天皇からもらったもからのではない。


●全ての民衆は天皇から姓をもらっている。天皇だけ姓がない。

皇族にも姓がないw。

●百姓は「天皇のおおみたから」と言う意味。」

日本書記に「百姓」と書いて「おおみたから」とよませている例があるとのことである。

日本書記は漢文体で書かれているが、歌謡や訓注などで万葉仮名が使われているのかもしれない。
しかし、ここでいう「百姓」とは、「貴族、官人、公民、雑色人(品部及び雑戸)」をさしている。
農民のことを百姓と言うようになるのは、江戸時代のことである。
したがって、江戸時代に一揆をおこした農民たちが、自分たちのことを「百姓=おおみたから」だと考えていた可能性は低い。

伏見稲荷大社 田植祭 

伏見稲荷大社 お田植祭  6月10日

②「言葉があること」は「実際が言葉どおり」であることは違う。


1:34 ぐらいのところで、このように書いた紙が示されている。

一揆

揆を一にする。=気持ちをひとつにする

もともとは、平安末期の僧兵たちの強訴の際に行動の趣旨を書いた紙を全員で回覧したことにはじまる。

全員で決めた以上、決定も結果も一同全員の責任。

受益者全員による合議、満場一致による決議

これはねずさんがしょっちゅうやらかしている手口である。
「言葉があること」と「実際が言葉どおり」であったことは異なるのに、
「言葉があること」を「実際が言葉どおり」であったことと断定してしまうのだ。

たとえば、「平和」という言葉があることと、「世の中が平和である」ことはイコールではない。

これと同じで、一揆という言葉が「気持ちをひとつにする」という意味であることと、「一揆は満場一致の結果行われた」ということはイコールで結びつけることはできない。

「一揆は満場一致の結果行われた」というのであれば、その例をいくつか示さなければいけない。
それをされていないということは、事例がないということだととられても仕方がない。

③超民主主義という妄想

●満場一致 一人でも反対があったらやらない(超民主主義)

民主主義とは「人民が主権を持ち行使する政治」のことをいう。

すると、一揆は政治なのか、一揆衆は主権をもっているのか、という問題になってくる。

政治について、ウィキペディアは次のように記している。

 広辞苑では「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み。権力・政策・支配・自治にかかわる現象。」としている。 大辞泉では「1. 主権者が、領土・人民を治めること。2. ある社会の対立や利害を調整して社会全体を統合するとともに、社会の意思決定を行い、これを実現する作用。」としている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%B2%BB より引用

⑴人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み。(広辞苑)
⑵権力・政策・支配・自治にかかわる現象。(広辞苑)
⑶主権者が、領土・人民を治めること。(大辞泉)
⑷ ある社会の対立や利害を調整して社会全体を統合するとともに、社会の意思決定を行い、これを実現する作用。(大辞泉)

⑴⑵⑷の意味では、一揆は政治であるともいえそうだが、⑶の意味では一揆を政治であるというのは難しそうに思われる。

農民は主権者とはいえないからである。
江戸時代は幕府があり、その下に藩があり、藩主が藩の民を治めていたのである。

仮に一揆衆の運営は民主主義でやっていたといえるとしても、藩や日本の政治が民主主義であったなどとはいえないが
そもそも立場のちがう多くの人の考えを一致させるということが本当に可能なのか?

私には妄想のようにしか思えない。

鏡作神社 おんだ祭

鏡作神社 おんだ祭

④魏志倭人伝にねずさんが言うようなことは書いていない。

●魏志倭人伝にもこのこと(日本社会が超民主主義であったこと)はのっている。一揆ではないが、民衆が毎月神社に集まって酒を呑み、いろんなことを決めていくと書いてある。


魏志倭人伝全訳というサイトで酒を検索してみると、次の2つの文章がでてくる。

⑴(会稽の)水人(倭人)が死ねば、棺(かんおけ)を用いるが槨(かく)(外棺=そとばこ)はなく、土を盛って塚を造る。
死去から十日あまりは喪に服し、その間は肉を食べず、喪主は大声で泣き、他の人々は歌い舞ったり酒を飲んだりする。
埋葬が終われば、家人は皆が水中に入って禊(みそぎ)をする。中国で言っている練沐(練り絹を着ての沐浴)のようである。

⑵そこでは卜占を行う祭祈堂は座席の順序や男女や親子など立ち居を区別することなく、一同に会している。人々の性質は酒好きである。人々は大人(高貴な者)への敬意を表すにはもっぱら手を合わせている(合掌のこと)。それでもって、中国の跪拝(ひざまずいて礼をすること)にあたるようである。

http://www.himiko.kingchin.jp/336_1_zenbunWayaku.html より引用

「集まって酒を呑む」という意味にはとれそうだが、「いろんなことを決めていく」というような意味のことは書いていない。
「身分に上下関係があり、下の身分の人は上の身分の人に合掌して礼をしている」と書いてある。


⑤天子さまの百姓(おおみたから)に奴婢、蝦夷は含まれていない。

●天下の百姓である。天子さまのおおみたからである。大官地頭何するものぞ。


これについてはすでに述べたが、百姓が農民の意味となるのは江戸時代である。
もともとの百姓(日本書記では「おおみたから」とよんでいる。)とは、貴族、官人、公民、雑色人をさす言葉だった。

なお、皇族、奴婢などの賎民(奴隷)、蝦夷(東北にすむ民)などは百姓から除外されていた。

古代の奴婢は人口の10%から20%いたとされる。
10人のうち1人2人は百姓ではなかったのだ。

また東北に住む民も百姓には入っていなかった。

奴婢の子孫、蝦夷の子孫は百姓にはあたらないということになる。

鏡作神社 おんだ祭

鏡作神社 おんだ祭

⑥天草四郎はカリスマとして持ち上げられただけでは?

●島原の乱は一人のリーダーがいてとことん戦うということになれば武力を用いざるをえなくなる。
通常の百姓一揆は全然意味合いがちがう。



「一人のリーダー」というのは総大将の天草四郎のことを言っているのだろうか?

島原の乱は重税に苦しむ領民(大規模経営者を含む)、浪人、キリシタンらの不満など様々な立場・身分の人々が結束しておきた一揆である。

島原の領民は、過酷な税に苦しんでおり、旧有馬氏の家臣たち(武士身分から百姓身分に転じていた)をリーダーとして組織化していた。
また、肥後天草でも小西行長・加藤忠広の改易により大量に発生していた浪人たちが組織化していた。
彼らは湯島(談合島)において会談を行い、カリスマ性のある人気キリシタンである16歳の天草四郎を総大将として乱をおこすことを決めたのだ。

実際に乱を計画・指揮していたのは浪人や庄屋たちで、天草四郎は担ぎ上げられていたにすぎないとみるのが妥当だと思う。

原城に籠城した老若男女37,000人は全員が死亡し、内通者・山田右衛門作ひとりのみ生き残ったといわれるが、
キリシタンではないのに強制的に一揆に参加させられた百姓などが一揆から脱走した記録なども残っているそうである。

普通に考えて、こういうことはありがちなことである。

強制的に一揆に参加させることを超民主主義といえるのか?

なばなの里 くまモン プロジェクション マッピング

名馬場の里 プロジェクションマッピング 天草教会群


※他の一揆についてはこれから調べる。






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[2020/02/07 15:04] トンデモ説? | TB(0) | CM(0)

姓・氏・名前の違い、庶民の名前 ※書き直しました。 



↑ この動画について語る前に、姓・氏・名字のちがい、百姓の意味の変遷について簡単に勉強しておこう。
一夜漬けの知識なので、間違いなどあれば指摘をお願いします。

 

    姓(かばね)は大王が有力氏族に与えた称号

姓(かばね)とは古代日本で、大王(おおきみ。古代天皇とは呼ばれておらず、大王と呼ばれていた。)が有力氏族に対して与えた称号のことである。

第13代成務天皇が国造(くにのみやつこ)、県主(あがたのぬし)、ワケ(和気、別)、稲置(いなぎ)などの称号を定めて氏族に与えたとされる。
第19代允恭天皇代には臣連制が導入され、公・君(きみ)、臣(おみ)、連(むらじ)、直(あたい)、首(おびと)、史(ふひと)、村主(すぐり)などの称号を定めて氏族に与えた。

この姓の制度は、壬申の乱(672年)の後、天武天皇が八色の姓(やくさのかばね)を制定したことによって一新された。

八色の姓の制で定められた姓は、上位から、真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣・連・稲置であるが、
道師・臣・連・稲置は実際には与えられなかったともいわれている。

それまで上位の姓とされた臣・連は上位より
67番目となって地位が低下した。
しかし奈良時代にはほとんどの有力氏族の姓が朝臣になってしまい、八色の姓は形式的なものとなった。

八色の姓以前の姓

国造

地方官

倭氏・都祁氏・葛城氏・山背氏など

県主

地方官?

ワケ

皇族の子孫、王族将軍

鐸石別・池速別など

稲置

(こおり) を治める首長

応神天皇以後、あるいは継体天皇以降の 皇族の後裔と称する皇親氏族

息長公・多治比公・当麻公など

中小豪族

継体天皇以前の天皇から別れ出た氏族

蘇我氏・巨勢氏・紀氏・平群氏・葛城氏・波多氏など

皇室以外の神々の子孫

大伴氏・物部氏・中臣氏・土師氏・弓削氏など

渡来人や、国造などの地方豪族

部曲名を氏とする部民の統率者

海部首・山部首・忌部首・赤染部首など
職名を氏とする帰化人西文首・馬飼首・韓鍛冶首など
屯倉の管掌者大戸部・大鹿首・新家首など
もと文書や記録の作成を担当した渡来人集団を渡来人系の官人組織。
後に一族・部民らは史部となり、姓の1つに転じた。
田辺史・阿直岐史・船史・白猪史など
村主地方官職名か、あるいは朝鮮系漢人の統率者?渡来系中小豪族漢氏など



八色の姓

真人継体天皇の近親とそれ以降の天皇・皇子子孫守山公・路公(みちのきみ)・高橋公・三国公・当麻公・茨城公など
朝臣皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる大三輪氏、大春日氏、阿倍氏、巨瀬氏、膳氏、紀氏、波多氏、物部氏平群氏、雀部氏、
中臣氏、大宅氏など
宿禰連(むらじ)姓を持った神別氏族大伴氏、佐伯氏など
忌寸国造系氏族大倭氏・凡川内氏など
渡来人系の氏族東漢氏・秦氏など
道師不明不明
地方豪族
地方豪族
稲置



護王神社 亥子祭

護王神社 亥子祭(宮中行事を再現したもの)


②姓と氏の混同、名前


①で、姓とは朝臣・宿禰などの称号であることを見た。
たとえば大三輪氏の称号である姓は朝臣、大三輪氏などの氏は、男系祖先を同じくする同族とされる家の集団のことである。

しかし平安時代の頃から、氏と姓は同じものだという認識が広まっていく。
例えば源氏の場合、臣籍降下して天皇より「源氏」姓を賜ったなどといわれることがある。
ここでいう「姓」とは称号の「姓(かばね)」ではないと思う。
源氏が登場した平安時代にはすでに八色の姓は本来の意味を失っていたからだ。
そして姓=氏という認識が生じていたと思われるので、源は本来ならば氏なのだが姓といわれているのだと思う。
さらに、天皇から賜った名前を姓、自ら名乗った名前が名字という認識も生まれた。

例えば足利尊氏の足利は名字、源は姓(氏)ということで、彼は源尊氏といわれることもある。

だいたい次のように考えればいいのかなと思う。

もともとの氏・姓・名字の意味

親族集団

地名・職業に由来したもの
天皇から賜った(藤原・橘・源・平など)ものなどある

身分をあらわす称号朝臣など 奈良時代以降本来の意味を失い、氏と同義と考えられるようになる。

名字

家の名前

自由に名のることができる。


奈良時代以降変化した氏・姓・名字の意味

親族集団地名・職業に由来したもの
天皇から賜った氏天皇から賜った(藤原・橘・源・平など)氏
名字家の名前自由に名のることができる。

    古代の氏姓制度と庶民の名前


もともとは、共通の祖先をもつ人々の集団を氏と呼んでいた。
しかし大化の改新の後、血縁関係のない私有民も「氏」の構成要員となった。


氏の構成要員は次のとおり。


氏上・・・・・「氏」のトップに立つ人
氏人・・・・・氏人以外の氏の血縁関係のある構成員
部曲(かきべ)・・・・・・豪族に隷属する()・部民(べのたみ)と呼ばれる半自由民の労働集団。家を持ったり、結婚することはできた。

奴・奴婢・・・・・・奴隷(財産として売買、譲渡されることもあった。)

 

古代の庶民は部曲(かきべ/豪族の私有民)であり、そして有力氏族の氏に部をつけた「○○部」という名前で呼ばれていた。(大伴部、藤原部など)
しかし天武朝以降、部曲は廃止されて、公民となった。

名字(苗字)は近代まで誰でも自由に名乗る事が出来た。
しかし庶民は公的に名字を名乗ることができず、江戸時代には幕府は武家公家以外名字を名乗ることを禁止する法令を出している。

1871
年 姓尸(セイシ)不称令が出され、以後日本人は公的に本姓を名乗ることはなくなった。
1872
年「通称実名を一つに定むる事」(太政官布告第149號)により公的な名は一つと定められ、戸籍上の氏名は簡単に変更することができなくなった。
1875
年に平民苗字必称義務令がでて、国民はみな公的に名字を持つことになった。このとき自分で名字を創作して名乗ることもあった。

④百姓の意味の変遷

 大化の改新で部曲が廃止され、庶民が公民となって以降、百姓は貴族、官人、公民、雑色人(品部及び雑戸)をさす言葉となった。
品部・雑戸は、朝廷に直属する部民で、宮廷で用いるさまざまなものの生産などを行っていた。

 

皇族、奴婢などの賎民(奴隷)、蝦夷(東北にすむ民)などは百姓から除外されていた。

農民のことを百姓と言うようになるのは江戸時代のことである。

 

⑤ねずさんは姓と氏を混同している?

 

以上のことを押さえたうえでねずさんの話を聞いてみよう。

 3:09あたりより~

●「百姓とは百のかばね。」

私たちはすでに姓には3つの意味があることを見た。

⑴天皇から与えられた身分をあらわす称号(朝臣など)
⑵奈良時代以降、臣籍降下する際などに天皇から与えられた氏(姓と氏は本来別のものであるが混同された)
⑶氏(姓と氏は本来別のものであるが混同された)

百姓は大化の改新以降に貴族、官人、公民、雑色人をさす言葉だった。

百は「多くの」という意味だろう。
「姓」は本来の「称号」という意味ではなく姓と混同された氏の意味⑶で用いられているように思える。

「百のかばね」というよりも「百の氏(姓と混同された)」といったほうがぴったりきそうに思える。
氏であれば、100はゆうにあるだろう。

⑥その他いろいろまちがってないか?

●「姓とは職業集団。」

①でみたように、姓には史のような職業集団的なものもあるが、どちらかといえば氏族の階級を表すもののように思える。


●「(姓には)もうひとつ意味がある。
女偏に生まれるとかく。一人の女性から生まれた仲間。村は全員親戚。
斉藤さん、鈴木さんのようにみんな姓をもっている。」


小さな村にいくと、同じ苗字の表札ばかりというのは珍しくはない。

しかし正確にいえば斉藤・鈴木は名字であって、姓(称号、天皇から与えられた姓)ではない。

 

●天皇からすべての民衆は姓をもらった??

民衆が姓(かばね)をもらったのではなく、古代、有力氏族が臣・連などの称号である姓をもらったのである。
奈良時代以降は功績があったものや、臣籍降下したものに対して天皇が姓(本来の意味での氏)を与えることがあった程度で、
すべての民衆が天皇より姓をもらったりはしていない。

有力氏族に隷属する庶民である部曲たちは、氏の名前〇〇に部をつけて〇〇部と呼ばれていた。
部曲廃止後は自由に名前をつけていたかもしれないが、庶民は公に名前を名のることは禁止されていた。

●たくさんある姓の中のひとつをもらったから百姓であり天皇のおおみたからである。


古代の称号としての姓は8個程度しかない。
奈良時代以降、天皇が功績があったものに与えたもの(藤原)や、天皇が臣籍降下するものに対してあたえたもの(橘・在原・源・平)も姓と呼ばれているが、そんなに多くはない。
庶民の名前は天皇からもらったもからのではない。


●全ての民衆は天皇から姓をもらっている。天皇だけ姓がない。

皇族にも姓がないw。

●百姓は「天皇のおおみたから」と言う意味。」

これば日本書記に「百姓」と書いて「おおみたから」とよませている例があるとのことである。

日本書記は漢文体で書かれているが、歌謡や訓注などで万葉仮名が使われているのかもしれない。

 

「漢字の一字一字を、その字義にかかわらずに日本語の一音節の表記のために用いるというのが万葉仮名の最大の特徴である。万葉集を一種の頂点とするのでこう呼ばれる。『古事記』や『日本書紀』の歌謡や訓注などの表記も『万葉集』と同様である。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80#より引用

 

飛鳥 勧請綱 雌綱 田植

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[2020/02/05 10:55] トンデモ説? | TB(0) | CM(0)

事実よりも美しい物語が大事 by ねずさん 


①青葉滋蔵尊

無知ゆえ知らなかったのだが、青葉滋蔵尊にまつわる有名な話があるらしい。
本や映画にもなっているそうである。

どんな話なのかはねずさんが「満州従軍看護婦実話」というタイトルで記事に詳しく書いておられる。

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1184.html
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1185.html
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1186.html

簡単にまとめると次のような内容になる。

昭和20年、掘喜身子さんら看護婦34名は、長春第八病院に勤務することになった。
掘喜身子さんは婦長だった。
ソ連陸軍病院第二赤軍救護所から看護婦の応援を要請してきたので看護婦9名を送るがいつまでたっても帰ってこない。
そのうち1名が銃創を負って戻ってきて「私たちはソ連軍将校の慰みものにされている」と告げて息絶えた。
それを知った看護婦22名は「慰みものにされるくらいなら」と自決した。
長春第八病院に向かった9名の看護婦のうち1人はなくなったが、あとの8人は梅毒にかかっていた。
昭和23年、長春の在留邦人に帰国命令が出た。
掘喜身子さんはともに帰国するため梅毒にかかった8人をまっていた。
そのうち3人はやってきたが梅毒を恥じて自決した。5人はやってこなかった。
日本に戻った掘喜身子さんは23名の看護婦の遺骨を、菩提寺の墓所に預けた。
そして元の上官の平尾氏と二人で地蔵菩薩の建立費を積み立てる約束をした。
浪曲家「若梅鶯」こと松岡寛氏は週刊誌で22名の看護婦自決の記事をよみ、『あゝ従軍看護婦集団自殺』浪曲にして全国を公演してまわった。
松岡寛氏は公演先で身元が分からなくなっていた23名の情報を観客に求めた。
そのかいあって19名の身元が判明し、遺骨を家族のもとに返すことができた。
一方、掘喜身子さんは地蔵建立のため平尾氏に送金を続けていたが、平尾氏の妻が病でお金は使いこまれていた。
昭和27年、山下奉文将軍の元副官で、陸軍大尉だった吉田亀治さんは埼玉県大宮市に所有する土地に公園墓地「青葉園」を開園した。
松岡寛氏の講演を聞いた吉田亀治さんは掘喜身子さんに面会し、自決した23名のための「青葉慈蔵尊」を建立した。


②青葉地蔵尊の物語は事実か?

ところがこの話、事実ではないのでははないかという説がある。

その理由は次のようなものである。

●堀喜身子さんが自決した22人の遺族を探した形跡がない。
●複数回マスコミが報道しているが、堀喜身子さんはマスコミに遺族探しの依頼をしていない。
●19人の身元がわかったとされるが、身元が発表されていない。
●身元が分からないので靖国神社に合祀が認められていない。

ネットでぐぐるともっと詳細に検証した記事がたくさんでてくるので、興味があれば読んでみてほしい。

確かに身元が確認できないのであれば、浪曲のために創作された物語である可能性もある。

そしてこれを疑問に感じたある方がねずさんに次のような文書を送ったそうである。

「青葉慈蔵尊に関係する女性たちは、靖国神社に合祀されていないので真実かどうか疑わしい。
真実かどうか疑わしい物語は従軍慰安婦と同じなので、広めないほうがいいのではないか」と。

③ねずさんの反論

これに対する返事としてねずさんが次のような記事を書いておられた。

長いが「文章を切り取った」と言う人がでてきそうなのでwほぼ全文引用しておく。

(リンクの部分など一部は略した。読むのが面倒な方は、④にとんでもらってもok。)

歴史は「学ぶ」ためにある、というのがボクの一貫した姿勢です。

赤穂浪士が討ち入りの際に着ていたいのは、歌舞伎に出てくるだんだら模様の秀麗な着ものであったかなかったかなど、ボクにとってはどうでもいい話で、そういう検証は、したい人、そういうことが好きな人にしていただけばよい。

討ち入りをすれば、死罪は免れないという時代です。
そんな時代に、彼らがなぜ「討ち入り」という選択をしたのか。
後世に生きるわたしたちはそこから、数多くのことを学ぶことができる。

青葉慈蔵尊の物語に関して言えば、その方は、
http://sinzitusikan.iza.ne.jp/blog/entry/262052/
のサイトを見て、青葉慈蔵尊にまつわる女性たちは、靖国神社に合祀されていない。
だから「真実かどうか疑わしい」と考え、この物語は「従軍慰安婦と同じ」であり、だから「広めるのはどうかと思います」なのだそうです。

まず、「真実かどうか疑わしい」ということについて申し上げます。

私はその場に居合せたわけではありません。
ですからこの女性たち自決等を見てきたわけではありません。
ですから「真実であるかどうか」は、私にはわかりません。
けれど、もし私がこの目で見、体験したことであったとしても、そんなことを言っているのはねずきちだけだ、他の誰もそんなことは言っていないと言われれば、「疑わしい」ことなる。

「織田信長が桶狭間で今川義元の首を討った」という話は、日本人のいわば「常識」であり、誰もが知っている物語です。
あったこと、とされています。
けれど、それは本当のことなのでしょうか。
桶狭間で、義元は自ら腹を切って自害したということはないのでしょうか。

桶狭間事件は、勝って天下をとった織田側の歴史です。
つまり戦勝者の歴史です。
そういう歴史観がほんとうに事実を語っているのでしょうか。

雑兵が義元の首を斬ったというけれど、周囲を近衛兵の猛者に囲まれた義元が、たかがひとりふたりの雑兵に討たれるのでしょうか?
義元の周囲には、小姓もいるし、いまでいうならSPのような屈強な近衛兵たちがいたはずです。
いくさの負けを悟った義元が、殺されるのを快しとせず、自ら自害し、その遺体から雑兵が首を取ったとのではないですか?

もしその「可能性」があるのなら、「織田信長が桶狭間で今川義元の首を討った」というのは、作り話なのではないですか?

などなど、そのような話をいくらしても、それは学者さんや歴史オタクさんたちにとっては大事な話かもしれないけれど、悪いけれどボクにはまったく関心も興味もありません。

義元が「討たれた」のか、「自決した」のか、そんなことはどうでもよろしい。
このような議論をいくらしても、ボクは不毛だと思う。
もちろん、そういうことを、事実を積み上げて一生懸命冷静に検証する学問的努力は必要です。
けれど、自分が桶狭間に居合せたわけでもなく、記録の検証も原書を直接確認し、研究したわけでもない素人が、あったかなかったかなどを議論しても、それは不毛です。

後世の私たちにとって大切なことは、信長が勇気をもって寡兵で何倍もの敵を討ったということ、迅速な作戦行動の重要性、大将の油断のもたらす危険など、ボクたちが桶狭間事件から「学ぶ」ことはたくさんある。
その「学ぶ」ということが大事なのです。
ボクは、そう思っている。

青葉慈蔵尊の物語でいえば、命を捨ててまで仲間たちを守ろうとした大島看護婦の勇気、操を命より大切なものとして集団自決の道を選んだ22名の乙女たちの心、半分死んだようになっていた拉致被害者の乙女たちを必死で救おうとした掘婦長の誠実さ、「日本に帰れる」そのことが本当に嬉しかったからこそ、現地で死を選ばざるを得なかった彼女たちの愛国の情、帰国後、何年かかかっても、彼女たちの冥福のために人生を捧げた掘元婦長の優しさ、その行動を意気に感じて名を捨ててまで「自分でできることで」全力で支援しようとした浪曲師、事態を知ってお地蔵さんを建立してくれた青葉園の創立者の心、私たちがこの物語を通じて「学ぶ」ことはたくさんある。

歴史を学ぶというのは、そういうことなのではないかと思うのです。
検証作業は、学者や、そういうことが好きな人に任せればよい。
私たちにとって必要なことは、どこぞのサイトに否定の文書が掲載されていたという「理屈」ではなく、この物語を通じて何かを得ることなのではないかと思うのです。

ですから、この物語を否定する人がいるというのなら、それはそれで良い。
その人には、そういう捉え方しかできなかったのだな、とボクは思うだけです。
もっと、はるかに大切なことを、その人は感じ取ることができなかった、かわいそうな人だとボクは思うだけです。

次に、青葉慈蔵尊の物語が「従軍慰安婦と同じ」という指摘についてです。

「疑わしい」から「従軍慰安婦と同じ」というのは、同じ日本人同朋にたいする侮辱であると思います。怒りさえおぼえる。

従軍慰安婦の話は、ハナからねつ造そのものであり、目的は日本政府からカネをふんだくるところにある。
日本兵の給料が月に15円~25円だった時代に、月に1000円も2000円も荒稼ぎして、その成功体験が忘れられず、どこぞの国では、いまでも床屋にさえもマッサージ嬢と称する売春婦が出入りしている。
歳をとって、いまさら売春もできないとなったら、過去の売春は日本軍に強要されたものだとデタラメを言って賠償金を取ろうとする。
そこに見え隠れするのは、醜悪な金の亡者の利己だけです。
学ぶべきことなど何もない。

終戦直後の満州や朝鮮半島において、何が起こったのか。
そこで我々の同朋が、どのような目に遭わされたのか。
それだけではない。
日本に対する侮日工作の過程の中で、何が起こったのか。

~略~

青葉慈蔵尊に祀られた乙女だちだけではないのです。
まだ幼い子供までが強姦され、殺害された。女に生まれると、こんなことまでされるのかと思うほど想像を絶する酷い目に遭わされた。日本人であるというだけで、人間であるということ自体を否定された。

そういう事例が、数限りなく外地で繰り返された。
青葉慈蔵尊の物語は、そのなかのひとつの典型です。

夢と希望をもって大陸に渡った満州開拓団の人々が酷い目に遭わされた。
集団自決した看護婦たちの思い、あるいは、梅毒に罹患して生き残りながら、やっと日本に帰れるとわかったその日に命を絶った乙女たちの思い。
それでも「私たちは満州の地に魂魄として残り、いつの日か、日本の同朋が再びこの地を訪れるとき、ご案内したい」と命を絶った。

その悔しさ、悲しさ、辛さ。
そういうことが、日本人としてけっして忘れてはいけないことだとするならば、この物語は、日本人として未来永劫、語り継がなきゃならない物語だと、ボクは思う。

「仮に」と申し上げました。青葉慈蔵尊にまつわる乙女たちの物語が、単に浪曲のための創作であったとしても、その物語は、終戦直後の国家を喪失したとき、すなわち「ゼロ時」の出来事として、国を考えるときの重要なメッセージが含まれている物語として、伝えていかなければいけない話である、と思うのです。

従軍慰安婦のような、単に欲ボケの利権屋のねつ造物語と、国を大切にすることの重要性や、その他多くのことを教えてくれる物語と、一緒にされては困る。
それこそ、勉強不足というものです。

三つ目に、真実かどうか疑わしいから「広めるのはどうかと思う」という議論です。

ま逆です。
この物語は、広めなければならない。
ボクはそう思っています。

この物語の論拠となっているのは、掘元婦長の話だけです。

伝えられている事件が、あまりにも悲惨で酷い物語であるだけに、これを否定する論が出てくるのは当然のことと思いますし、そうした論調があることも十分承知しています。
それでも伝えなければいけない。
物語として、ボクはこのお話をご紹介しています。

いまとは比較にならないくらい貞操観念の強かった時代です。
大陸で強姦されたの性的おもちゃにされたの、梅毒に罹患したの、自殺したのとなれば、彼女たちだけなく、そのご家族の苦しみは想像を絶する。

もし、ご自分の愛娘が、この当事者であったのなら、ご遺族としてはどうするでしょう。
真岡郵便局事件のように、関係者全員が、ソ連兵に強姦される前に自決した、というのなら、合同法要もありかもしれない。

けれど、仲間のうちの何人かが、ソ連兵に拉致され、性的おもちゃにされた揚句、梅毒に罹患し、死んだとなれば、そのことについて住所、氏名を公表し、ご自分がご遺族として世間の前に晒されるという選択を、果たして望まれるでしょうか。

もちろん中には、靖国合祀となれば、氏名住所本籍の公表を受け入れようというご遺族もおいでになるかもしません。
けれど、ご遺族の何人かが「それは困る」と申し出れば、おそらく事態の悲惨さから、事件そのものについて、合祀さえもお断りする。
もし、ボクが彼女たちの誰かの親なら、拒否します。
なぜなら娘の恥を、世間に晒してなどしてほしくないからです。
靖国合祀などされなくても、関係者や「わかってくださる人」が、お地蔵さんを建ててくださったのなら、それだけで十分です。
毎年欠かさず、そこにお参りする。
鶴を持っていく。綺麗な花を手向けてくる。冥福を祈る。次に生まれてくるときには、絶対に絶対に幸多かれと祈る。
それが普通の日本人の感覚なのではないかと、ボクは思います。

それを、逆手にとって、靖国合祀されなかった、住所氏名本籍の公開がなかった、だから事実ではない、と声高に主張する人の方の心が、ボクには、逆に理解できません。
それが論理的帰結というのなら、その論は、あまりに人間を知らなすぎる。人の心を知らなすぎる。日本人としての心を失っている。そのようにボクは思います。

論理というのは、単にどこぞにこう書いてあるとか、どこかの学者がこう言っているというのが論理ではありません。

事実の積み上げが論理です。
そして青葉慈蔵尊の物語でいえば、その物語が事実であったかなかったかということよりも、もっと大切なメッセージがそこに込められている。
その「メッセージがこめられている」という事実を除外しては、それは論理にはならないとボクは思う。

百歩譲って、そのブログのように、この悲劇が単に浪曲の創作話にすぎなかったとしても(ボクはそうは思っていませんが)、この青葉慈蔵尊に関する物語は、語り継ぐべき内容と持った物語であるとボクは思います。

なぜなら、ゼロ時、すなわち国家というものがなくなったとき、私たちの同朋がどのような目に遭わされてしまうのか。
けっして能天気なお花畑ではすまない現実がそこにあるからです。

唯物史観などというもっともらしい言葉がついているようですが、証拠というものは客観的なものです。

けれどそれをつなぎ合わせて、どういう事実をそこに見出すかは「解釈」の問題であり、その「解釈」には、解釈する人の知識や人生観や主観がはいります。
だから対立や論争が起こる。

ボクは学者ではありませんし、歴史家でもありません。
そこいらにいるただのオヤジです。
そしてこのブログも、ねずきちの「ひとりごと」です。

そこに書かれた「物語」が史実であるかどうかなどということは、ボクにとっては問題ではない。
前にも書きましたが、満州でひどい目にあった乙女たちがいた。
そう知ったならば、仲間たちと一緒に一輪の花を手向けに行く。
そして日本をまもる、この国を大切する、金輪際、二度と同じ目に遭わされる乙女が出ないよう、強い日本を造る。
そのために、自分でできることをする。
それが「たいせつなこと」なのだと思います。

「従軍慰安婦と同じ」?

デタラメと一緒にすんじゃねえ、バカヤロー!!
てめえの娘が同じ目に遭わされ見ろ!
絶対に許せねえだろーがっ!!
何、屁理屈垂れてんんだっ!
娘さんたちのご遺族の身にもなってみろっってんだっ!
大事なことは、んなことが二度と起んねえようにすることだろうがっ!
日本人を舐めるなっ!!

年甲斐もなく言葉はきたないですが、これがそこらのオヤジであるボクの本音です。

ついでに申し上げると、ボクは理屈たれの朱子学が性に合わず、知行合一を説く陽明学派です(笑)

https://nezu3344.com/blog-entry-1232.htmlより引用

④事実でなくてもいい。学ぶことがあるかどうかが大切?

ねずさんは検証には興味がないということを繰り返し書いている。

(以下、ピンクの文字はすべてhttps://nezu3344.com/blog-entry-1232.htmlより引用)

●赤穂浪士が討ち入りの際に着ていたいのは、歌舞伎に出てくるだんだら模様の秀麗な着ものであったかなかったかなど、ボクにとってはどうでもいい話で、そういう検証は、したい人、そういうことが好きな人にしていただけばよい。

●「織田信長が桶狭間で今川義元の首を討った」という話は、日本人のいわば「常識」であり、誰もが知っている物語です。
あったこと、とされています。
けれど、それは本当のことなのでしょうか。
桶狭間で、義元は自ら腹を切って自害したということはないのでしょうか。

桶狭間事件は、勝って天下をとった織田側の歴史です。
つまり戦勝者の歴史です。
そういう歴史観がほんとうに事実を語っているのでしょうか。

雑兵が義元の首を斬ったというけれど、周囲を近衛兵の猛者に囲まれた義元が、たかがひとりふたりの雑兵に討たれるのでしょうか?
義元の周囲には、小姓もいるし、いまでいうならSPのような屈強な近衛兵たちがいたはずです。
いくさの負けを悟った義元が、殺されるのを快しとせず、自ら自害し、その遺体から雑兵が首を取ったとのではないですか?

もしその「可能性」があるのなら、「織田信長が桶狭間で今川義元の首を討った」というのは、作り話なのではないですか?

などなど、そのような話をいくらしても、それは学者さんや歴史オタクさんたちにとっては大事な話かもしれないけれど、悪いけれどボクにはまったく関心も興味もありません。

義元が「討たれた」のか、「自決した」のか、そんなことはどうでもよろしい。
このような議論をいくらしても、ボクは不毛だと思う。

●もちろん、そういうことを、事実を積み上げて一生懸命冷静に検証する学問的努力は必要です。
けれど、自分が桶狭間に居合せたわけでもなく、記録の検証も原書を直接確認し、研究したわけでもない素人が、あったかなかったかなどを議論しても、それは不毛です。

そして学ぶべきことがあるかどうかが大切として次のような例をあげています。

●討ち入りをすれば、死罪は免れないという時代です。
そんな時代に、彼らがなぜ「討ち入り」という選択をしたのか。
後世に生きるわたしたちはそこから、数多くのことを学ぶことができる。

●後世の私たちにとって大切なことは、信長が勇気をもって寡兵で何倍もの敵を討ったということ、迅速な作戦行動の重要性、大将の油断のもたらす危険など、ボクたちが桶狭間事件から「学ぶ」ことはたくさんある。
その「学ぶ」ということが大事なのです。

●青葉慈蔵尊の物語でいえば、命を捨ててまで仲間たちを守ろうとした大島看護婦の勇気、操を命より大切なものとして集団自決の道を選んだ22名の乙女たちの心、半分死んだようになっていた拉致被害者の乙女たちを必死で救おうとした掘婦長の誠実さ、「日本に帰れる」そのことが本当に嬉しかったからこそ、現地で死を選ばざるを得なかった彼女たちの愛国の情、帰国後、何年かかかっても、彼女たちの冥福のために人生を捧げた掘元婦長の優しさ、その行動を意気に感じて名を捨ててまで「自分でできることで」全力で支援しようとした浪曲師、事態を知ってお地蔵さんを建立してくれた青葉園の創立者の心、私たちがこの物語を通じて「学ぶ」ことはたくさんある。

歴史を学ぶというのは、そういうことなのではないかと思うのです。
検証作業は、学者や、そういうことが好きな人に任せればよい。
私たちにとって必要なことは、どこぞのサイトに否定の文書が掲載されていたという「理屈」ではなく、この物語を通じて何かを得ることなのではないかと思うのです。

●青葉慈蔵尊に祀られた乙女だちだけではないのです。
まだ幼い子供までが強姦され、殺害された。女に生まれると、こんなことまでされるのかと思うほど想像を絶する酷い目に遭わされた。日本人であるというだけで、人間であるということ自体を否定された。

そういう事例が、数限りなく外地で繰り返された。
青葉慈蔵尊の物語は、そのなかのひとつの典型です。

夢と希望をもって大陸に渡った満州開拓団の人々が酷い目に遭わされた。
集団自決した看護婦たちの思い、あるいは、梅毒に罹患して生き残りながら、やっと日本に帰れるとわかったその日に命を絶った乙女たちの思い。
それでも「私たちは満州の地に魂魄として残り、いつの日か、日本の同朋が再びこの地を訪れるとき、ご案内したい」と命を絶った。

その悔しさ、悲しさ、辛さ。
そういうことが、日本人としてけっして忘れてはいけないことだとするならば、この物語は、日本人として未来永劫、語り継がなきゃならない物語だと、ボクは思う。

●そこに書かれた「物語」が史実であるかどうかなどということは、ボクにとっては問題ではない。
前にも書きましたが、満州でひどい目にあった乙女たちがいた。
そう知ったならば、仲間たちと一緒に一輪の花を手向けに行く。
そして日本をまもる、この国を大切する、金輪際、二度と同じ目に遭わされる乙女が出ないよう、強い日本を造る。
そのために、自分でできることをする。
それが「たいせつなこと」なのだと思います。

上の内容をよむと、ねずさんは史実かどうかについては興味がなく、その物語に学ぶべき点があるかどうかが大切だと考えておられることがわかる。

⑤ねずさん、青葉滋蔵尊の話が真実かどうかわからないと認める。

私はその場に居合せたわけではありません。
ですからこの女性たち自決等を見てきたわけではありません。
ですから「真実であるかどうか」は、私にはわかりません。

ねずさんははっきり「真実であるかどうか」わからない、といっている。

そして、そのあとにこう続けている。


●けれど、もし私がこの目で見、体験したことであったとしても、そんなことを言っているのはねずきちだけだ、他の誰もそんなことは言っていないと言われれば、「疑わしい」ことなる。

「事実でも疑わしい」とされることは確かにある。
だからどうだといいたいのか。それについては記されていないが
「事実でも疑わしいとされることはあるのだから、よくわからないものを事実としてもいい」とでもいいたいのだろうか。

⑥真実かどうかわからないのに「実話」と書いていいのか?


●「疑わしい」から「従軍慰安婦と同じ」というのは、同じ日本人同朋にたいする侮辱であると思います。怒りさえおぼえる。

従軍慰安婦の話が捏造とされたのは事実が確認できなかったからだ。
これは当然の事で、事実が確認できないものを事実であると判断する世の中では、嘘がまかりとおってしまう。
そして、青葉地蔵の話が事実かどうか確認できないのに実話としてしまうと、韓国の従軍慰安婦の話と同じで捏造だといわれても仕方がないとなる。
どちらも事実が確認できないのに、韓国の従軍慰安婦の話は捏造とし、日本の青葉滋蔵尊の話は実話だとする態度をとれば、「日本人は嘘つき」とののしられても仕方がないと思う。

青葉地蔵の話は学ぶべき点があるかもしれないが、そういう話はいくらでも創作できる。
それゆえ、小説などとよばれるものが世の中にあるのだ。
なので、いくら学ぶべき点があろうと、事実が確認できないものを事実として語ってはいけない。

「事実かどうか確認できないが、こんな話がある」と但し書きをしてから書くのならよいが、
ねずさんはこれを「満州従軍看護婦実話」として紹介している。

⑦従軍慰安婦が捏造であることを感情的に訴えても、質問の答えにはなっていない。

●従軍慰安婦の話は、ハナからねつ造そのものであり、目的は日本政府からカネをふんだくるところにある。
日本兵の給料が月に15円~25円だった時代に、月に1000円も2000円も荒稼ぎして、その成功体験が忘れられず、どこぞの国では、いまでも床屋にさえもマッサージ嬢と称する売春婦が出入りしている。
歳をとって、いまさら売春もできないとなったら、過去の売春は日本軍に強要されたものだとデタラメを言って賠償金を取ろうとする。
そこに見え隠れするのは、醜悪な金の亡者の利己だけです。
学ぶべきことなど何もない。


上の文章は「従軍慰安婦が捏造であること」につい感情的に述べたもので、
「青葉地蔵の女性たちは真実かどうか疑わしい」「真実かどうかわからない話を広めるのは従軍慰安婦と同じ」という質問に答えたものではない。

しかし、こういう感情に訴える文章は論理的に坦々と事実を述べただけの文章より人の心に響くのだろう。
そういった点で、ねずさんの文章はうまいとはいえる。

⑧どんどん論理が破綻していく・・・・・

彼は感情的に訴えるのはうまいが、論理的に考えることは苦手なようである。
そして後半になってますます、論理が破綻した文章になっていく。

●この物語の論拠となっているのは、掘元婦長の話だけです。

伝えられている事件が、あまりにも悲惨で酷い物語であるだけに、これを否定する論が出てくるのは当然のことと思いますし、そうした論調があることも十分承知しています。

否定する論がでてくるのは、「あまりにも悲惨で酷い物語」だからではない。
事実かかどうかわからないのに「実話」として記事を書いていることが批判されているのだ。


●それでも伝えなければいけない。
物語として、ボクはこのお話をご紹介しています。

えっ?物語として?タイトルは「満州従軍看護婦実話」となっているが?

もし、ご自分の愛娘が、この当事者であったのなら、ご遺族としてはどうするでしょう。
真岡郵便局事件のように、関係者全員が、ソ連兵に強姦される前に自決した、というのなら、合同法要もありかもしれない。

けれど、仲間のうちの何人かが、ソ連兵に拉致され、性的おもちゃにされた揚句、梅毒に罹患し、死んだとなれば、そのことについて住所、氏名を公表し、ご自分がご遺族として世間の前に晒されるという選択を、果たして望まれるでしょうか。

~略~
それを、逆手にとって、靖国合祀されなかった、住所氏名本籍の公開がなかった、だから事実ではない、と声高に主張する人の方の心が、ボクには、逆に理解できません。
それが論理的帰結というのなら、その論は、あまりに人間を知らなすぎる。人の心を知らなすぎる。日本人としての心を失っている。そのようにボクは思います。


前半のような事情があった可能性はある。
しかし「可能性があること」と「事実であること」はイコールではない。
ところが後半「それを、逆手にとって・・・」と言うに至っては、「可能性があること」と「事実であること」をイコールで結びつけているようにしか思えない。

●論理というのは、単にどこぞにこう書いてあるとか、どこかの学者がこう言っているというのが論理ではありません。

事実の積み上げが論理です。
そして青葉慈蔵尊の物語でいえば、その物語が事実であったかなかったかということよりも、もっと大切なメッセージがそこに込められている。
その「メッセージがこめられている」という事実を除外しては、それは論理にはならないとボクは思う。

メッセージというのは小説にもこめられています。
小説は都合のいいように物語を創作できるので、事実よりもメッセージ性の高いもの、人の心を感動させるものを創作することもできる。
よって「メッセージがこめられている」ことを事実とするのはまちがいである。


●唯物史観などというもっともらしい言葉がついているようですが、証拠というものは客観的なものです。

けれどそれをつなぎ合わせて、どういう事実をそこに見出すかは「解釈」の問題であり、その「解釈」には、解釈する人の知識や人生観や主観がはいります。
だから対立や論争が起こる。

歴史の解釈に主観がはいることは確かだ。
だからといって、事実が確認できないもの(検証作業をおこなっていないもの)を実話と称していいということはない。

(私は文献至上主義ではない。文献には偽り、古代表現などもあるからだ。
文献のほか、発掘物、時系列など複数のものから総合的に判断するべきだと思う。
しかしねずさんは事実と決めつけ検証作業すら興味がないといってやっていない。)












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[2020/01/30 21:11] トンデモ説? | TB(0) | CM(0)

「NHKが縄文人の人骨を弥生人の人骨と偽った」というのはねずさんの嘘 ※書き直しました。 

①NHKは左右反転させた写真を用いていた。しかし捏造だとは思えない。


縄文人 弥生人

「日本人はるかな旅⑤」37ページより引用

↑上の写真は「日本人はるかな旅⑤ そして日本人が生まれた(日本放送出版協会)』37ページに掲載されていたもので、
タイトルは「写真1 岩手県宮野貝塚の縄文人(左)と島根県古浦遺跡の渡来系弥生人(右)」となっている。(A)


縄文人 弥生人2

「日本人はるかな旅⑤」より引用

↑こちらの写真は同じ本の138ページに掲載されていた写真である。
タイトルは「左・縄文時代晩期の男性頭骨[国立科学博物館]。右・土井ヶ浜遺跡の頭骨」となっている。(B)

Aの左「岩手県宮野貝塚の縄文人」とBの左「縄文時代晩期の男性頭骨[国立科学博物館]の写真を並べてみたのがⅭである。


比較画像4  

左右とも写真は「日本人はるかな旅⑤」より引用

ややっ、この2枚の写真はなんと左右反転した状態になっているではないか。
残っている歯、骨の欠損状態などを見比べても同じである。
ただ鏡で映したように左右反転してはいるが。

角度が異なっているようにも見えるので、同じ写真ではないかもしれないが、被写体の頭蓋骨そのものは同じものだろう。

②写真が左右反転した理由

なぜ、左右反転した写真を使ってしまったのだろうか。

現在デジカメで撮影した写真はパソコンにとりこんでフォトショップなどで簡単に加工できる。
左右反転など3秒もあればできる。

しかし、『日本人はるかな旅⑤』に掲載された写真は放送された2001年よりももっと古い写真の可能性がある。
たぶんフィルムで撮影したものではないだろうか。
そして印刷時に誤まってフィルムを左右反転してしまったのではないかと思う。
フィルムは透けているので裏表がわかりにくいのだ。
またフィルムをひっくり返してプリントすることもできる。
実際私もラボに依頼して左右反転した写真を焼いてもらったことがある。

具体的な印刷の方法は知らないが、プリントと同じようにフィルムをひっくり返して印刷できるのではないだろうか。

ポジフィルムはフィルムを1コマづつ切り離してマウントと呼ばれる枠にはめこむことがある。
私もやったことがあるが、はめこむさいに表裏を間違うこともよくあった。

誰がフィルムを左右反転させたのか。
NHKのスタッフ、国立科学博物館、どちらの可能性もある。
重大なミスだとはいえるだろうが、捏造とまではいえないと思う。

なぜならば宮野貝塚の縄文人の頭蓋骨を、縄文晩期の男性頭骨といっても嘘でもなんでもないからである。

また、意図的に左右反転させたと考えるには、その意図がわからない。

③細長い輪郭に見えるのは画質が悪く黒く潰れた部分が背景に同化しているためでは?





上の動画を見てみよう。

3:10あたり。
「縄文人と弥生人は民俗がいれかわるくらい大きな変化があったんだという証拠に使われている写真。」とねずさんが説明している。
写真のタイトルは「「岩手県宮野貝塚の縄文人(左)と島根県古浦遺跡の渡来系弥生人(右)」となっている。(Ⅾ)


 縄文人と弥生人 
https://www.youtube.com/watch?v=QwgK9s42Oxk&feature=emb_logo より引用

この写真は随分画質が悪いが、①-で紹介した『日本人はるかな旅⑤ そして日本人が生まれた(日本放送出版協会)』37ページに掲載されているものである。


縄文人 弥生人

「日本人はるかな旅⑤」37ページより引用

4:06あたりで写真を見せながら、ねずさんはこんなことを言っている。

「向かって右側の白っぽい写真、平べったい写真を線対称にしてコピーを繰り返した。
人間の顔は左右でちがう。細く写るほうを使って(?)線対称にしてコピーを繰り返しながらこういう写真を捏造した。」


偽造された弥生人 
 https://www.youtube.com/watch?v=QwgK9s42Oxk&feature=emb_logo より引用

上の写真のタイトルは「岩手県宮野貝塚の縄文人(左)と島根県古浦遺跡の渡来系弥生人(右)」と3:49の写真のタイトルと同じである。

しかし右は島根県古浦遺跡の渡来系弥生人の写真ではない。

①―で紹介した「日本人はるかな旅⑤」138ページに掲載されていた写真の左、「縄文時代晩期の男性頭骨[国立科学博物館]」の写真だと思う。


縄文人 弥生人2

「日本人はるかな旅⑤」より引用

するとタイトルは「岩手県宮野貝塚の縄文人と縄文晩期の男性頭骨」としなければいけない。

ねずさんが提示しているの比較画像を「日本人はるかな旅⑤」に掲載された写真を並べて作ってみるとになる。


比較画像4  

左右とも写真は「日本人はるかな旅⑤」より引用

F
比較画像7 

 https://www.youtube.com/watch?v=QwgK9s42Oxk&feature=emb_logo より引用

Fの写真部分を切り取ったものである。
ねずさんが提示するFの写真は左の頭蓋骨が細長く見えるが、実際に「日本人はるかな旅⑤」に掲載されている写真をみると左の写真はそんなに細長くは見えないと思う。むしろ右のほうが細長く見えるような気もする。

しかし、本の写真をさらに私が写真に撮ったものであり、写真の性質上、若干縦横の比率がかわるので、そういった影響があるかもしれない。


ねずさんが提示しているの左の写真と、「日本人はるかな旅⑤」に掲載されていた同じものと思われる写真(左)を並べてみたのがGである

G
比較画像5  
写真左(ねずさん動画より)・・・https://www.youtube.com/watch?v=QwgK9s42Oxk&feature=emb_logo より引用
写真右(はるかな旅⑤)・・・・・「日本人はるかな旅⑤」より引用

赤ラインは筆者(yu asada)による
 

ねずさんが提示している写真の画質がかなり悪いことがわかる。
そして、「日本人はるかな旅⑤」の写真より若干縦長に見えるようにも思える。

Gの写真をよく見ると、ねずさんが動画で用いている写真は顎や頭部など黒く潰れてしまって背景と同化している部分があることがわかる。
そのため、細長く見えているのではないだろうか。

H
比較画像6

Fの写真の赤ラインはかなりいい加減だが、黒く潰れて背景に同化しているあたりの輪郭を描いてみた。

④縄文人の頭蓋骨を細長くすると弥生人の頭蓋骨の特徴に近づき、NHKは主張に反する捏造を行った事になるが?


そもそも、ねずさんは縄文人の頭蓋骨を細くのばして縄文人の頭蓋骨を捏造したと言っているわけで
こんなことをしてどういう意味があるといいたいのだろうか。

縄文人の頭蓋骨を細長く加工して縄文人だと偽れば、面長の弥生人の輪郭に近づく。
すると、NHKは弥生人に近い縄文人を捏造したということになるが、NHKの主張は「縄文人と弥生人の頭蓋骨の特徴は異なる」ということなので、主張に反する捏造を行ったというおかしなことになってしまう。

NHKは左右反転させることで写真を捏造したのではなく、写真が左右反転しているのは単なるミスだと思う。

④ソースの提示がないので確認できない。


宮野貝塚 

https://www.youtube.com/watch?v=QwgK9s42Oxk&feature=emb_logo より引用

ねずさんは「ネットで見つけた縄文中期の人骨」といっておられる。
これと同様の写真は見つかった↓ が、なぜか文章が全く読めない状態になっており、これが宮野貝塚出土の人骨であるかどうかの確認ができない。
http://www.museum.tohoku.ac.jp/exhibition_info/mini/1998SE/page06.html

ねずさんは出典元を明らかにするべきだろう。

⑥ねずさん、弥生人の頭蓋骨を縄文人と偽る。

J

弥生前期の女性の頭骨  
 https://www.youtube.com/watch?v=QwgK9s42Oxk&feature=emb_logo より引用

上の写真のタイトルに「雀居遺跡」とあり、ねずさんは「縄文人です」と言っている。
そして「日本人はるかな旅⑤」120ページに同じ写真が掲載されており、
「福岡県雀井遺跡から出土した弥生前期の女性の頭骨」というタイトルがつけられている。

雀居遺跡について調べると
「弥生時代から古墳時代にかけての濠をめぐらした集落や大型の掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)が姿を現したのです。」
http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/140/index.html より引用

とあり、雀居遺跡で出土したのは弥生時代の人骨だと思われる。

ねずさんは「縄文人」だと言ってるが、それではこの頭蓋骨はどこの遺跡で出土したものなのか。ねずさんはそれをはっきり言うべきだろう。




弥生前期の女性の頭骨 

「日本人はるかな旅⑤」より引用













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[2020/01/29 14:28] トンデモ説? | TB(0) | CM(0)

『聖徳太子不在説』ってどんな説かわかってる? 



【ねずさんの主張】※( ) 内は筆者yu asadaによる補足

⑴隋という軍事国家ができたのでがっちりした統一国家を作る必要が生じた。冠位十二階はそのため生まれた。
(明確に立場をはっきりさせる必要があった。)

⑵7世紀と19世紀に(日本では)大きな危機があるときに天皇を中心としてまとまるということが行われた。
(日本の国の柱)

⑶聖徳太子は隋に対して対等であることを示した。
(「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」と書を送った。)

⑷あんた(隋)が皇帝だったらうち(日本)は天皇だ。

⑸10年ほど前より、その聖徳太子が存在していなかったという説がでてきた。

⑹対等な外交をする日本に対して隋は一言も文句をいえず軍をだせなかった。
この事実を出すと彼ら(韓国)の歴史観はひっくり返る。だから突然聖徳太子なんていなかったんだと言い出した。

⑺たかもりよしのり〈(?)先生は次のように指摘している。
聖徳太子の法隆寺に釈迦三尊像の光背に碑文が埋め込まれている。聖徳太子に似せて作ったと書いてある。
釈迦と同じぐらい偉い立場においた。実在していなかったらありえない。

⑻聖徳太子はやたら背が高く、同じ人間と思えないというが、小野篁・阿倍仲麻呂は背が高かった。

⑼12月に冠位十二階を定め、1月に十七条憲法を発布している。すごい演出。

⑽日本はどこまでもシラス国だから、それぞれが納得してやった。

⑾最近の教科書は聖徳太子とは書いていない。書いてあっても厩戸皇子。

⑿ひどい教科書になると十七条憲法はなかったと書いてある。

⒀日本というすばらしい国にいて安全安心して暮らすことができる。
それなのによその国がボロカスに言うようなつまらんことをするのか。

⒁聖徳太子は日本の中世におけるルネッサンス運動。
(一般的に聖徳太子の時代は古代とされるがねずさんは中世と考えている。)

⒂天皇によって統一された倭国をもう一度復活させようとしたのが聖徳太子。それを完成させたのが天智天皇。
そう考えるといろんなことの辻褄があってくる。

①ねずさんの話を分類わけする。

ねずさんの話をざっくり分類わけしてみよう。

1.ねずさんオリジナルの歴史観

⑴隋という軍事国家ができたのでがっちりした統一国家を作る必要が生じた。冠位十二階はそのため生まれた。
(明確に立場をはっきりさせる必要があった。)

⑵7世紀と19世紀に(日本では)大きな危機があるときに天皇を中心としてまとまるということが行われた。
(日本の国の柱)

⑶聖徳太子は隋に対して対等であることを示した。
(「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」と書を送った。)

⑷あんた(隋)が皇帝だったらうち(日本)は天皇だ。

⑼12月に冠位十二階を定め、1月に十七条憲法を発布している。すごい演出。

⑽日本はどこまでもシラス国だから、それぞれが納得してやった。

⒁聖徳太子は日本の中世におけるルネッサンス運動。
(一般的に聖徳太子の時代は古代とされるがねずさんは中世と考えている。)

⒂天皇によって統一された倭国をもう一度復活させようとしたのが聖徳太子。それを完成させたのが天智天皇。
そう考えるといろんなことの辻褄があってくる。


2.「聖徳太子はいなかった説」についての説明。

⑸10年ほど前より、その聖徳太子が存在していなかったという説がでてきた。

⑾最近の教科書は聖徳太子とは書いていない。書いてあっても厩戸皇子。

⑿ひどい教科書になると十七条憲法はなかったと書いてある。


3.『聖徳太子はいなかった説」の反論

⑹対等な外交をする日本に対して隋は一言も文句をいえず軍をだせなかった。
この事実を出すと彼ら(韓国)の歴史観はひっくり返る。だから突然聖徳太子なんていなかったんだと言い出した。


⑺たかもりよしのり〈(?)先生は次のように指摘している。
聖徳太子の法隆寺に釈迦三尊像の光背に碑文が埋め込まれている。聖徳太子に似せて作ったと書いてある。
釈迦と同じぐらい偉い立場においた。実在していなかったらありえない。


⑻聖徳太子はやたら背が高く、同じ人間と思えないというが、小野篁・阿倍仲麻呂は背が高かった。

⒀日本というすばらしい国にいて安全安心して暮らすことができる。
それなのによその国がボロカスに言うようなつまらんことをするのか



②ねずさんは「聖徳太子はいなかった説」について十分に説明していない。

いうまでもないことだが、ある説についての反論を述べる場合、まずその説がどんな説で、どんな根拠があって説かれた説なのかを説明しなければならない。

ねずさんはそれを十分に説明していない。
もしかして、「聖徳太子はいなかった説」の根拠をご存じないのだろうか、と思ってしまうほどだ。

ねずさんが批判する「聖徳太子はいなかった説」については、下の2本の動画にわかりやすくまとめられている。





上の動画の内容をまとめる。

㈠紙幣になった聖徳太子に肖像画は後世の偽作 700年前の敦煌の壁画に聖徳太子像にそっくりなものがある。
中国人が描いた唐の時代のもの。

㈡聖徳太子廟は直系50mの円墳。太子・母・后の3人が葬られているが、
聖徳太子伝暦には「太子は死後墓に2つの棺を設けよと指示したとある。
四天王寺の記録には「太子の墓を探しているがどこにあるかわからない」とある。
聖徳太子廟は後世の捏造ではないか。

㈢604年に十七条憲法が制定されたという記述は、720年の日本書記に初めてでてくる。
 600年代の隋書倭国伝に冠位十二階は書かれているが十七条憲法はかかれていない。

㈣十七条憲法に国司という言葉がでてくるが、この言葉は聖徳太子の時代にはなかった。
 国司は701年の大宝律令から始まる官職である。
 よって十七条憲法は大宝律令をもとに後世につくられたと考えられる。

㈤当時成立したばかりの律令制国家を権威づけるために聖徳太子のようなカリスマが必要であったため、
 日本書記編纂・大宝律令制定にもかかわった藤原不比等がでっちあげたのではないか

㈥聖徳太子の子孫は蘇我氏に滅ぼされていたので藤原氏にとって利用しやすかった。

㈦隋書倭国伝607年に「王は600人の妻を持つ」とあるが、当時の天皇は推古天皇で女帝。


『聖徳太子はいなかった説」を批判するというのなら、当然、上の7項目について批判する必用がある。
特に⑶⑷が大事だ。

しかしねずさんはこれらを批判を行っていない。
また動画の説明に
そもそもその根拠が「絵の中で異常に背が高いのだから、これはウソだ」程度のモノであり、
https://www.youtube.com/watch?v=C82a9VoEEBU&feature=emb_logo より引用
と書いてある。

やはり、聖徳太子はいなかった説について、十分に調べておられないのだろう。


太子廟

聖徳太子廟

③隋書に登場する多利思比孤は聖徳太子だといえるか?

ねずさんの発言で、気になった細かい点について指摘をしておく。

⑶聖徳太子は隋に対して対等であることを示した。
(「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや。」と書を送った。)


この書を出したのは、「姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌」という人物であり、厩戸王とも聖徳太子とも書いていない。
ねずさんは、なぜ聖徳太子だといえるのかの説明をしなければならないだろう。

厩と聖徳太子2

四天王寺 聖徳太子像

④飛鳥時代、天皇の称号はなかった。

⑷あんた(隋)が皇帝だったらうち(倭国)は天皇だ。

とあるが、この表現は厳密に言うと間違いである。
当時の日本は倭国と称していた。日本と称するのは701年前後とされている。
そして倭国では天皇という言葉は用いられておらず、国内では大王(おおきみ)、天王と称されていた。
対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された。
天皇と称されたのは第40代天武天皇が最初といわれる。

大聖将軍寺 神妙椋樹 

大聖将軍寺 神妙椋樹 弓で射られそうになった聖徳太子が椋の木に隠れたという伝説にもとづくもの。


④「聖徳太子はいなかった説」は韓国人によるものなのか?

⑹対等な外交をする日本に対して隋は一言も文句をいえず軍をだせなかった。
この事実を出すと彼ら(韓国)の歴史観はひっくり返る。だから突然聖徳太子なんていなかったんだと言い出した。

隋の煬帝がこの文書に怒ったことが隋書には記されている。
しかし軍を出さなかったというのはねずさんのいうとおりである。

「この事実を出すと彼らの歴史観はひっくり返る」とねずさんはいう。

彼らとは誰のことをいっているのか。

⒀日本というすばらしい国にいて安全安心して暮らすことができる。
それなのによその国がボロカスに言うようなつまらんことをするのか

といっていることから察するに、彼らとはよその国の人、韓国人のことを意味しているのだと思う。

どうやらねずさんは「聖徳太子はいなかった説」は韓国人がとなえた説だと考えているようだが
具体的にその韓国人とは誰のことなのか。

上の2本の動画にも何人かの研究者の顔と名前がでてくるが、彼らは韓国人なのか?
また、彼らを韓国人と断じる根拠は?

さらにいえば、研究者の国籍は学問には関係がない。

上にあげた㈠~㈦の項目についての意見をのべればいいだけである。
辻褄があっており、多くのことが説明できるほうが正しいと認められるはずだからだ。

間人 間人皇后と聖徳太子像2

間人 間人皇后 聖徳太子像

⑤聖人化された実在の人物に似せた像はつくれる。

⑺たかもりよしのり〈(?)先生は次のように指摘している。
聖徳太子の法隆寺に釈迦三尊像の光背に碑文が埋め込まれている。聖徳太子に似せて作ったと書いてある。
釈迦と同じぐらい偉い立場においた。実在していなかったらありえない


ねずさんは「実在していなかったらありえない」というが、そんなことはない。

妖怪ストリート ぬらりひょん

上の写真中央は京都の妖怪ストリートに置かれているぬらりひょんの像である。
ぬらりひょんとは妖怪で、実在していないが、ご覧のとおり、想像で像をつくることは可能である。

「そういう意味ではない。存在しない人を釈迦と同じくらい偉い立場におくことはありえないという意味だ」といわれるだろうか。

しかし存在しない人を偉い立場におくことはありえる。
架空の人物であっても人は憧れたり、尊敬したり、好意を持つことがある。
たとえばアニメのキャラなどがそうである。
そしてそのアニメのキャラのポスターやフィギュアを部屋に飾り、毎日声をかけたり、祈ったりしだすと信仰になる。
本来、アニメのキャラは実在せず、それ自体には何の力がないのだが
人々に愛されることによって、アニメのキャラは人々の心のよりどころとなり、信仰対象となることができるのである。

そして「実在していなかったらありえない」という発言から、やはりねずさんは勘違いしているように思えるのだが、厩戸王という人物は実在したと考えられている。
否定されているのは、厩戸王が憲法十七条などの事績を残したという点である。

つまり、厩戸王は聖人化されて聖徳太子になったという説なのだが、実在しないアニメのキャラでも十分信仰対象になるのだから、聖人化された実在する人物を釈迦と同じくらい偉い立場に置くことは当然ありえることである。

法隆寺 夕景

法隆寺

とにかく、きちんと聖徳太子はいなかった説について正しく認識したうえで、再度批判を試みたほうがいいだろう。

そもそもその根拠が「絵の中で異常に背が高いのだから、これはウソだ」程度のモノであり、
https://www.youtube.com/watch?v=C82a9VoEEBU&feature=emb_logo より引用
と書いている、そのこと自体が間違いなのだから。




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[2020/01/24 13:49] トンデモ説? | TB(0) | CM(0)

菜畑遺跡は7000年前の遺跡ではない 



【ねずさんの主張】

ねずさんの主張
㈠稲作は弥生時代に始まったと学校で習った。
㈡弥生時代は紀元前1000年~200年300年あたり。
㈢菜畑遺跡を復元したジオラマ。日本最古の水田。高床式住宅。7000年前。
㈣弥生時代に渡来人が稲作をもたらしたというのは嘘。
㈤日本はもともと亜熱帯だったので、ナウマン象や鰐がいた。
㈥稲は熱帯の植物である。雨季と乾季がある。それを人工的に再現したものが水田。(稲は日本に自生していた。)
㈦日本が温帯に変わる過程で自然と水田が発明された。
㈧6000年前の岡山県の朝寝鼻貝塚より稲作をやっていたという証拠がでてきた。
㈨土器のかけらの中にお米の結晶があった。
㈩弥生時代に稲作が渡来したというのは明らかに間違いである。


①縄文土器の縄はシダで作られた?

この動画のコメントにこういうのがある。
「縄文土器に縄目模様があるのは、当時すでに稲作をしていて稲藁で縄をつくったから」
「縄文の縄は稲でしか編めない。麦だと縄のような柔軟性のあるもを編もうとしても折れてしまう。」

縄は稲藁からしか作ることが出来ないということはなく
麻、カラムシ、アカソ、イラクサ、またヒノキなどの樹皮などで作られた可能性も考えらえている。

以前の記事、鳥浜貝塚から出てきたのは縄だが、縄は布の衣服があったことに結びつくか?  にも記したように
日本最古の縄は鳥浜貝塚から出土したもので約1万年前のものと考えられている。

調べたところ大麻製とあったので、記事にも大麻製と書いた。

しかし、http://aomori-jomon.jp/essay/?p=10027
↑ こちらの記事によれば、リョウメンシダの葉柄・中軸、ツヅラフジのツル、ヤマブドウの樹皮などでできていると書いてあった。

鳥浜貝塚から出土した縄文時代前期の三つ組みの縄 の写真も掲載されている。

そういうわけで、「縄があった」事と「稲藁で作った」事を安易に結びつけるのはまちがいなのだ。

枚岡神社 注連縄掛神事

平岡神社 注連縄作り 注連縄は稲藁でつくるが、稲藁以外のものでも縄は編める。

②菜畑遺跡は7000年前の遺跡ではない


㈢菜畑遺跡を復元したジオラマ。日本最古の水田。高床式住宅。7000年前。

とねずさんはおっしゃっているが、動画コメントで多くの人が7000年前は間違いであると指摘している。

https://www.city.karatsu.lg.jp/manabee/kyoiku/kyoiku/inkai/bunkazai/bunkazaihogo/nabatakeiseki.html
上記塔津市のサイトによると、「今から約2500~2600年前の縄文時代晩期中頃のもの」とある。

※縄文時代、弥生時代の区分については議論があるが、ウィキペディアは縄文時代を14000年頃 – 前10世紀、弥生時代を前4世紀ー後3世紀中ごろとしている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3

千早赤阪村 棚田

千早赤坂村 棚田


③稲作は半島経由の水田耕作と、中国経由の雑駁農耕があった?朝寝鼻貝塚のものは後者では?

㈧6000年前の岡山県の朝寝鼻貝塚より稲作をやっていたという証拠がでてきた。


朝寝鼻貝塚では約4000年前の貝塚基底部より貝殻類や土器片が出土。
さらにその下層部から縄文前期の掻器・ 石鍬・獣骨・炭などが出土しており、約6000年前の遺跡と推定されている。

そして、この土壌から約6000年前の栽培種の稲の細胞化石が検出された。

なので「6000年前の岡山県の朝寝鼻貝塚より栽培種の稲の細胞化石がでてきた」のは正しいのだが
「栽培種の稲の細胞化石がでてきた」ことと「6000年前稲作をやっていた」ことを容易に結びつけるのが科学的な態度であるとは思えない。

これについてはいろいろと議論があるようだ。

たとえば、https://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_all.html
上のサイトで、静岡大学農学部助教授の佐藤 洋一郎 氏が稲作について次のような趣旨を話されている。

●日本の稲作はインドのアッサムや中国の雲南が起源だというのが通説だった。(建物の煉瓦に含まれているモミの長さなどを元に推測)
●中国の長江下流の河姆渡(かぼと)で7000年前の遺跡が発見され、栽培稲、栽培稲の先祖に当る野生稲の痕跡が発見された。
さらに野生稲から栽培稲へと変わっていった痕跡も発見されている。
●稲はインディカとジャポニカの2種類ある。
さらにジャポニカは温帯ジャポニカ(水田栽培向き)と、熱帯ジャポニカ(陸稲。畑作向き)の2種類に分れる。
●河姆渡のものはジャポニカで、地面にモミを播いて栽培(雑駁農耕)したのではないか。
●その理由は、長江流域は湿地帯でモミを播くだけで稲が育つためである。
●アジアで水田で稲作をしているのは半分くらい、あとの半分は今でも雑駁農耕。
●日本の稲作は水田栽培が中心で、縄文時代晩期に渡来人達によって持ち込まれたとされるが、水田栽培以外の稲作も行われていたのではないか。
●縄文時代の地層から、稲のプラントオパールが検出されている。
プラントオパールとは、植物の細胞にたまる0.05−o程のガラス状のケイ酸の塊が地中に残ったもののこと。
プラントオパールにより過去の植生や栽培植物の種を判別することができる。

日本で最も古いプラントオパールは岡山の朝寝鼻貝塚のもので、6000年前のもの。
●1990年代、縄文時代にも稲作があったと考えられるようになった。
●青森の縄文遺跡・三内丸山遺跡はおよそ5000年前のものと考えられているが、クリを大量に栽培していた可能性がある。
●野生植物の集団はDNAの並びはバラバラだが、三内丸山遺跡のクリはDNAパターンが揃っていた。
これは意図的に選抜して植林したためではないか。
●ヒョウタンやマメ、ゴボウなどの栽培植物も発見されている。

●水田は、通説通り、縄文時代晩期に持ち込まれた可能性が高い。
しかしジャポニカの起源だと考えられる長江流域は日本から近く、別のルートで日本に伝来していた可能性もある。
(つまり朝寝鼻貝塚の6000年前の稲のプラントオパールは水田耕作ではなく雑駁農耕されていた可能性がある。)

●曲金北(まがりがねきた)遺跡で、約5万−uもの広さを持つ古墳時代の水田跡が発見された。
3−4畳半程の小区画が連続しており、休耕田が含まれていた。
100の小区画のうち、水田は22区画。
DNA分析をしてみると、近在栽培されていた稲は、2割が水稲、4割が陸稲だった。
見掛けは水田だが、焼畑などの雑駁農耕をしていた。これは全国の弥生遺跡に共通する特徴。
(菜畑遺跡の水田あとも同様であった可能性がある。)
●縄文晩期から作られたごく初期の水田は、縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで見た水田を見よう見真似で作ったのではないか?
●大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっている。
稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠である。
●柳田國男氏は「稲作は熱帯の島々から琉球列島を経て九州に達する」と説かれたが、南西諸島に稲作跡がない。

●日本の各所に点在する稲のRM1-b遺伝子。
中国では90品種を調べた結果、61品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、朝鮮半島では、55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。なお現在の日本に存在する稲の遺伝子は、RM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類


わかりやすく、しかも面白い記事なので、一読をオススメしたい。

佐藤氏の主張が絶対正しいとは言わない。
朝寝鼻貝塚のプラントオパールの品種、遺伝子について述べられていない点も気にはなる。
しかし、こういう記事を読むと、6000年前のプラントオパールの発見を、水田耕作に結び付けるのがいかに安易であるかがわかるかと思う。

稲は水田耕作しかしないなんてことはないのだ。

なお、 岡山県灘崎町にある彦崎貝塚でも約6000年前のイネのプラントオパールが見つかっている。
朝寝鼻貝塚(岡山市)でプラントオパールは微量であったため、上層から混入したとか、風で飛ばされて飛来した可能性も説かれていたが、彦崎貝塚のものは大量に発見されており、稲作を行っていた可能性が指摘されている。
しかし、このプラントオパールは中国南部原産の可能性があるという。
ということは、水田耕作ではなく雑駁農耕であった可能性も考えなければいけない。

白米千枚田

白米千枚田

④朝寝鼻貝塚より発見されたのは6000年前の栽培種の稲の細胞化石で、野生種の細胞化石ではない。


㈥稲は熱帯の植物である。雨季と乾季がある。それを人工的に再現したものが水田。(稲は日本に自生していた。)
㈦日本が温帯に変わる過程で自然と水田が発明された。

これについては、③でご紹介した記事を読む限り、次のような理由で否定されているのではないかと思う。

中国・河姆渡(かぼと)で7000年前の栽培稲・栽培稲の先祖に当る野生稲の痕跡が発見されている。
朝寝鼻貝塚より発見されたのは6000年前の栽培種の稲の細胞化石なので、これだけでは稲が日本に自生していたとはいえない。

調べてみて、はっきりした理由がわかれば追記をいれる。

穂谷 稲穂

枚方市穂谷

⑤ねずさんの考え方

数度にわたり、ねずさんの説について見てみたが、どうやら彼には次のような考え方の特徴があるように思える。

⑴根拠を説明しない。
・古墳は墓ではなく田圃を作るために削った土をもりあげたものである。
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-entry-383.html

⑵説明した根拠が曖昧でわかりにくい。
・李氏朝鮮の庶民が箸を使っていなかった根拠としてあげた写真が不鮮明で小さすぎ、箸をつかっているかどうか確認ができない。
「李氏朝鮮の庶民は箸を使っていなかった」というけど証拠の写真が不鮮明すぎる。 

⑶結論の導き方が短絡的。
・鳥浜貝塚(12,000〜5,000年前)の集落遺跡から繊維製品(具体的には縄)が出土したことを、衣服があったことに結びつける。
・6000年前の稲のプラントオパールが発見されたことを水田があったことと結びつける。(実際には、水田耕作ではなく雑駁農耕であった可能性もある。)など。

⑷明らかな間違いがある。
・菜畑遺跡は3000年前の遺跡なのに7000年前だと発言する。

⑸具体的に言わない。
●鳥浜貝塚(12,000〜5,000年前)の集落遺跡からでてきたのは縄だが、繊維製品と表現する。

⑹学者や学会の頭が固いと悪口をいう。

福本遺跡 竪穴式

福本遺跡(弥生時代の竪穴式住居を再現したもの)







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[2020/01/22 14:39] トンデモ説? | TB(0) | CM(0)