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トンデモもののけ辞典112 片輪車 

片輪車

片輪車 著者不詳『諸国百物語』より「京東洞院かたわ車の事」

1⃣片輪車

京都の片輪車
延宝年間の怪談集『諸国百物語』巻一「京東洞院かたわ車の事」に記述がある。京都の東洞院通で毎晩のように片輪車が現れ、人々はみな外出を控えていた。ある女が興味本位で夜、家の扉の隙間から外を覗くと、牛車の車輪だけが転がって来て、車輪の中央には凄まじい形相の男の顔が小さな人間の足をくわえており「我を見るより我が子を見ろ」と叫んだ。驚いて女が我が子のもとへ行くと、子供は足を裂かれて血まみれになっていた。片輪車がくわえていたのは、その子供の足だったのである[1]。
滋賀県の片輪車
寛保年間の雑書『諸国里人談』に記述がある。寛文時代の近江国(現・滋賀県)甲賀郡のある村で、片輪車が毎晩のように徘徊していた。それを見た者は祟りがあり、そればかりか噂話をしただけでも祟られるとされ、人々は夜には外出を控えて家の戸を固く閉ざしていた。しかしある女が興味本位で、家の戸の隙間から外を覗き見ると、片輪の車に女が乗っており「我見るより我が子を見よ」と告げた。すると家の中にいたはずの女の子供の姿がない。女は嘆き「罪科(つみとが)は我にこそあれ小車のやるかたわかぬ子をばかくしそ」と一首詠んで戸口に貼り付けた。すると次の日の晩に片輪車が現れ、その歌を声高らか詠み上げると「やさしの者かな、さらば子を返すなり。我、人に見えては所にありがたし」と言って子供を返した。片輪車はそのまま姿を消し、人間に姿を見られてしまったがため、その村に姿を現すことは二度となかったという[2]。

2⃣江戸時代は車の使用は禁止だった?

延宝とは元号のひとつで、期間は江戸時代の1673年から1681年まで。

江戸時代には人が移動する際には徒歩、または駕籠がよく用いられていた。
これについて、江戸時代には車は禁止だったという話を聞いたことがある。

たとえば「教えてgoo」には、こんな回答がある。

技術的問題ではなく、幕府が軍事的な配慮から車の使用を禁じていたからです。
その為、東海道など主要街道では大八車もありません。
例外的に許されたのが京都でして、物流の関係で昔から使われていたので許可されたようです。
これ以外にも名古屋、静岡、江戸、仙台・・・の町にも許可されたようです。
これらの街には「くるまみち」という地名が残り、当時を伝えております。

2004年に投稿されたもので、参考URLのリンクが貼られているが、リンク先記事は削除されており、確認ができない。

3⃣江戸時代、一部地域では車が使用されていた。

江戸に入ってくる商品荷物は、上方・東北地方より船による場合と陸上を牛馬背で運送される場合とがあった。市内における運送手段には牛馬背、人背負・大八車・牛車が使用されていた。
~略~
貴族の乗用車である牛車(ぎっしゃ)は京都で発達していたが、江戸時代には衰退していた。荷物運搬用の牛車(うしぐるま)は、京都・駿府(静岡市)・江戸・仙台、幕末には箱館等の限定された都市でしか使用されなかった。
~略~
牛馬だけでなく人力による荷車輸送も全国的な展開はなかった。
~略~
全国的には未発達の車輌交通が、江戸においては大八車、牛車ともに許可されており、改めて近世都市江戸のもつ意味が問題となろう。なお、辞典においては「江戸は徳川家康の入国以来、大津牛を招いて荷車に用い、牛原や車町に配置されて、建築資材を中心とする輸送にあてたが、大八車の普及につれて、地名にその面影を残すにすぎなくなった。」と説明されている(『国史大辞典4』、九四三頁、吉川弘文館、昭和五十九年、参考文献は明記されていないが、司馬江漢「春波楼筆記」かと思われる)。ここでは地名だけでなく実態を追求するつもりである。
本稿は、錦絵、絵馬、地誌類の挿絵などに出ている牛・牛車の資料も掲載し検討の素材とした。

タイトルは「都史紀要32 江戸の牛」となっており、目次をみると興味をそそられるタイトルが並んでいる。
早速ネット注文して、読んでみた。
内容をざくっとまとめてみる。

①1707年に江戸橋広小路に200坪の牛置場がつくられた。
諸国より海・川を船で運ばれてきた荷物は、牛置場に待機する牛車で市中の各問屋へ送られた。

⓶家康 全国統一後、「伝馬の制」を確立した。
「伝馬の制」とは、 公用の書状や荷物を、宿場ごとに人馬を交替して運ぶ制度のこと。
大伝馬町、南伝馬町・・・道中筋伝馬御用
小伝馬町・・・・・・・・江戸府内伝馬御用 

③1657年、江戸大火後の復興事業後、大八車が使われる。
1662年「江戸名所記」 に地車(小車)、代八と記されている。 
飼料代がかからないなどメリットがあり増えた。馬持の荷物を奪う。
伝馬町、大八車に口銭をかけることを出願した。
極印賃徴収は元禄16年12月 諸運上停止に関連して中止 

④人力による荷車は江戸のほか、京都、大坂のベカ車、名古屋の大八車・小車・貧乏車・鬼カミ・しゅら、駿府(静岡市)など一部の地域で使用されたのみ 

⑤幕府は、人足と馬背による場合を公的機関としていたため、牛車・大八車を限定した地域にしか採用せず、伝馬町・馬持の保護をした。

⑥1845年、中山道樽井・今須宿(岐阜)に板車導入願がだされた。(樽井がどこにあったのかについては、わからなかった。)
1857年 使用許可される。

⑦1808年、馬持が「鞍判を受けて伝馬助役を務めた上で商売をしているが、諸商人の手引車と荷付牛が荷物を江戸市中に運んでいて、商売あがったりなので、これらを禁止してほしいと願い出て認められた。

⑧京都の牛車は1614の大坂冬の陣の際、二条城へ兵糧米、武具などを運搬した功績により、牛車の全国営業許可を得た。
京車・伏見車・鳥羽車・嵯峨車などにわかれていた。
京車の主要業務は年間50~60万俵の大津為登米輸送のほか、幕府御用。
http://liaj.lin.gr.jp/uploads/161-3.pdf(リンク先に京車の浮世絵あり)

⑨江戸の牛車は寛永期(1624~43]に土木普請工事のため京都から招き、芝高輪に居住地をさだめ、四日市(江戸橋広小路)・八丁堀牛置場を拠点として活動していた。

⓾安藤広重の高輪を描いた浮世絵53点中10点に牛車が描かれている。
1829年成立の江戸名所図会には高輪牛町、尾張町、魚籃観音堂、麻生一本松、神田明神祭礼に牛車の絵がある。

⑪狂歌、川柳にも牛車をよんだものがある。

⑫京都周辺では、淀・納所・横大路・上鳥羽・京都苦情にいたる鳥羽街道、伏見、武田街道、大津、逢坂、山科、日岡、粟田口にいたる山科街道で牛車が行われていた。
山科街道は未知の損傷を防ぐため敷石舗道だった。

⑬「摂津名所図会」では武庫の山中で採掘される御影石を諸国へ運送するのに牛車を利用している。

⑭1772年頃より西宮町ないの酒屋から積問屋、咳所までの咲け荷物浜出しの運搬にあたる西宮地車組が開始された。

⑮「明治政府になって車通行は解禁となり、馬車・牛車・荷車・人力車の第数は表八のようにいずれも急速にのびてるが」と50pに記されている。
解禁とは「法律、その他のとりきめで禁止していたことを、解きゆるすこと」である。
「解禁となり」という言葉は、車が禁止されていたという風にもよめる。

⑯1707年 町触などから交通規制があったことがわかる。

⑰宰領付添 は牛車・大八車で犬などをひき殺さないため、生類憐みの目的から1686年に出されていた。

⑱牛の産地・・・出羽・省内・陸奥・会津・南部
肥育地・・・飛騨・越中・越後・信濃

⑲駿府への牛車導入は1609年城廊工事のため伏見・鳥羽から招聘されていた。

4⃣幕末期、車使用許可申請が出されている。

↑ こちらの記事には、次のような内容が記されている。

❶幕末期の東海道では「車」が使用されており、旅人を載せて運ぶ営業もなされていた。

❷江戸時代、健康な一般人は武士も庶民も一切駕籠に乗ることは禁止されていた。
駕籠は街道筋では旅客用として許可されていた。(宿駕籠)

❸近世大阪では「べか車」が用いられていた。

❹シュンベリー 「江戸参府随行記」の記述
「この国の道路は一年中両行な状態であり、広く、かつ排水用の溝を備えている。」
シーボルトの記述
「地面を平らにし、数インチの厚さに小石・丸石または砂利を敷き、踏みかためてから、歩行者が歩きやすいように砂を撒く。(中略)また必要に応じて堀・堤防、水路を設けている」

❺車があまり用いられていなかった理由
・日本は地勢が急峻で車両交通に不便
・架端技術が未熟だった
・街道の路面を痛ませないため
1774年、「べか車の使用が橋の損傷を招くのでべか車の端上通行禁止」の触書がでている。
・馬方や船方の営業を脅かされる。
「べか車の進出により馬方や船方の荷物運送の営業権が脅かされるので使用をさしひかえよ」との触書が1791年、1799年にでている。

❻1845年、 中山道 垂井・今須宿、人を載せる車の使用許可を求め、3年後許可される。
1854年 東海道二川、御油、赤坂、藤川宿も願いでて許可される。
1862年全面許可

❼1865年、松兵衛が人と荷物を輸送する営業許可を江戸町奉行に出願したが認められなかった。
しかし、そこに「右は東海道岡崎辺りより草津宿までの間にてもっぱら合用い」とあり、
岡崎―草津間は旅人を車に乗せて運ばれていたことがわかる。

5⃣車の使用を禁じる制度の名前がでてこない?

私の疑問は、幕府は車の使用を禁じていたというが、それはなんという名前の制度で、またどのような形でその制度が広報されたのか、ということである。
例えば、4⃣❺に触書の内容がでてくるが、このようなものは残っていないのだろうか。
検索してもでてこない。調べたりないのかもしれないが。

そうではあるが、
4⃣❻「1845年、 中山道 垂井・今須宿、人を載せる車の使用許可を求め、3年後許可される。」
「1854年 東海道二川、御油、赤坂、藤川宿も願いでて許可される。」
4⃣❼「1865年、松兵衛が人と荷物を輸送する営業許可を江戸町奉行に出願したが認められなかった。」などとあり
中山道、東海道、江戸で人を載せる車を使用するためには許可を得る必要があったようである。

荷物を運ぶ車は、
3⃣⑧「京都の牛車は1614の大坂冬の陣の際、二条城へ兵糧米、武具などを運搬した功績により、牛車の全国営業許可を得た。」
とあり、やはり許可が必要だったのか?

6⃣江戸時代には交通事故が頻繁におきていた。

「江戸時代には車は使用されていなかった」というのは都市伝説で、実際には牛車や代八車、べか車などが一部地域で用いられていたことがわかった。

それも結構な交通量があり、残念ながら、こちらも一次資料的なものが見つけられていないが、
事故も頻繁におきていたと記したネット記事が多数ある。

元禄以前には、個人の飼い犬よりも町全体で養われている「町犬」の方が多く、路上では「大八車」という物を運搬する車に犬がひかれる事故が多発していました。そのため、幕府から「大八車、牛車による犬の事故防止」と、「飼い主のない犬にも食事を与え、生き物を憐れむこと」というお触れが出ます。

7⃣京都の片輪車は交通事故をおこす牛車のk

ようやく本題にはいる。(笑)

かたわ車

妖怪かるた「京の町へ出るかたわ車」の絵札

源氏車と言う模様があるが、牛車の車を模様にしたもののように見える。
この源氏車に波文様をあしらい車輪が半分見えない状態になった模様を「片輪車」というそうである。

牛車の車輪は、乾燥を防ぐために外して、鴨川の流れに浸したといい、それを模様にしたものであるという。

また片輪車の模様について、次のように説明された記事もあった。

秀吉の家来が朝鮮出兵の時、満潮になり牛車が波で動かなくなるのをかまわず進め、波の上を牛車が滑るように進んだ。」源氏車と波が美しい景色で人々に感嘆の声をあげさせたとか。勿論、敵に快勝したために秀吉に許されそれを家紋にしたという話を読んだことがある。

妖怪の片輪車は、おそらく京都でも頻発したであろう、牛車の事故をルーツとしているのではないだろうか。

3⃣⑧、「(京都の牛車は)1614年の大坂冬の陣の際、二条城へ兵糧米、武具などを運搬した功績により、牛車の全国営業許可を得た」のだった。
京都でも交通事故がおきたことだろう。
そしてその事故は人から人へうわさ話として伝わっていく。
写真、テレビ、パソコンなどがない、視覚に訴えかける情報が少ない時代である。
噂話が伝聞するうちに、人々の想像力が片輪車というの妖怪を生み出したのではないだろうか。
妖怪・片輪車がくわえている脚は牛車に引かれた子供の脚だと思う。

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「片輪車」

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「片輪車」

滋賀県の片輪車のほうは、牛車ではなく大八車ではないだろうか。
上の絵は滋賀県の片輪車を描いたものだが、車輪の前に車輪を引っ張るための棒がついている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%85%AB%E8%BB%8A#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:20081004%E8%8D%92%E4%BA%95%E5%AE%B6%E4%BD%8F%E5%AE%85%E6%B6%88%E9%98%B2%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%97%E8%BB%8A.jpg

リンク先の大八車は車の前にT字型の持ち手がついていて、上の絵の片輪車と同じ形である。



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[2023/02/06 22:22] トンデモもののけ辞典 | TB(0) | CM(0)

動物の形をしたみほとけたち 


1⃣縄文土器は食用植物のフィギュアだった?


上の動画はとても面白い内容である。
土偶は奇妙な形をしているなあ、と常々思っていたが、顔が食用植物の形と聞くと、なるほど、と思える。

9:15あたりの画像は、向かって左から
オニグルミ、クリ、トチノミ、ハマグリ、これは何という貝かわからない、イタボガキ

そのほかにも、竹倉 史人さんは「遮光器土偶はサトイモである」などとしておられるが、遮光器土偶がサトイモというのはちょっと納得がいかない。

遮光器土偶

遮光器土偶

25514440_s.jpg

サトイモ

そうではあるが、オニグルミ、クリ、ハマグリは確かにそのように見えるし、祖の説がまちがっていたとしても発想がすばらしい。
この竹倉 史人さんの説については、また改めて考えて見たいと思う。

今日なぜ、冒頭で竹倉 史人さんの説を紹介したのかといえば、
「昔の人は、この土偶のように、物の形にインスピレーションをうけて、仏像を製作したのではないか」と私は思っていて、それを説明したいと思ったからである。

2⃣蟹の死体から現れた観音

前回、私は山梨県山梨市万力にある長源寺に伝わる蟹坊主の話をした。
長源寺のご本尊の千手観音は、巨大な蟹の死体からあらわれたとされる。

長源寺のご本尊の写真はこちら↓

下の蟹満寺の額と長源寺のご本尊の写真を比べてみてほしい。
長源寺の千手観音の腕の付き方がカニの脚のように見える。

蟹満寺

京都市金戒光明寺の吉備観音は立像だが、やはり腕がカニのように見える。

滋賀県長浜市の高月観音の里には珍しい千手千足観音がおられるが、この観音様は二体のカニが合体した観音様ではないかと思う。

これは蟹の交尾を撮影したものとのこと。

2⃣蜘蛛のみほとけ

「仏像は動物などの形にインスピレーションを受けて製作されたものではないか」
私がこう考えるようになったのは、興福寺の阿修羅像を拝観したことがきっかけだった。

興福寺の八部衆像のうち5体のみほとけに動物のイメージがある。
 (八部衆の写真はこちら→https://www.kohfukuji.com/property/b-0008/

五部浄像(ごぶじょうぞう)は像の冠をかぶっている。
沙羯羅像(さからぞう)は頭に蛇を巻いている。
乾闥婆像(けんだつばぞう)は獅子の冠をかぶっている。
迦楼羅像(かるらぞう)は頭が鳥で体が人間。
畢婆迦羅像(ひばからぞう)はニシキヘビを神格化した神。

興福寺の八部衆の一である阿修羅像もまた、何かの動物をあらわしているのではないかと思ったのだ。

興福寺 阿修羅像

阿修羅像

その美しい顔立ちにうっとりしてしまい、つい見過ごしてしまいそうになるが、美しい顔だちよりももっと特徴的なのはその長い腕ではないだろうか。
腕は長いだけでなく、筋肉がまったくついておらず、昆虫的である。

阿修羅は蜘蛛ではないだろうか。腕は6本だが、脚の2本を足せば8本となって蜘蛛の脚の本数とあう。

蜘蛛 体

私は阿修羅の腕は蜘蛛の脚に似ていると思う。
また腕と脚と合わせて8本であり、蜘蛛の脚と同じ数である。
阿修羅は蜘蛛なのではないか?


↑ リンク先の東大寺三月堂の不空羂索観音の光背を見てほしい。
蜘蛛の巣のようではないだろうか。


阿修羅ほど昆虫的な腕ではないが、腕と脚の合計が8本で蜘蛛の脚の数と同じだ。

また不空羂索観音は手に羂索をもっている。
羂索とは仏教用語では罠の色糸を撚り合わせた縄のことだが、鳥獣をとらえる罠のことでもある。
不空羂索観音がこの羂索をなげると、よりあわせた綱がぱあっとほどけてひろがるのではないだろうか。
それはまさしく土蜘蛛の姿である。

清水寺 土蜘蛛

清水寺 六斎念仏 獅子と土蜘蛛

4⃣清水型観音は伊勢海老?
リンク先3枚目に清水寺のご本尊・清水型千手観音の御前立の写真がある。
清水寺のご本尊は秘仏であり、かわりによりもご本尊に似せて作られた御前立が厨子の前に置かれているのだ。
私は公開された秘仏の清水型千手観音を拝観したことがあるが、御前立よりも丸顔であったような記憶がある。

全国に清水寺と称する寺はあり、その多くの寺で清水型観音を祀っている。
特徴は頭上に高くあげられた二臂の長い腕を組んだおすがたである。



↑ これは長野県東筑摩郡山形村の清水寺の紙芝居だが、冒頭に清水型千手観音のイラストが登場する。

友人は京都清水寺の線所観音を拝んで、「これは伊勢海老だ」と言った。

 
写真のように伊勢海老は長い触覚をもっている。これを千手観音の腕として表現したのではないかというのである。
たしかにそれはありそうである。

3606646_s.jpg

清水型千手観音の頭上高く上げられた腕以外の腕は、伊勢海老の胴体から延びる脚のイメージ。
さらに伊勢海老の尻尾は緩やかに裾が広がる観音様の衣のように見える。

5⃣長い腕の十一面観音は猿?

十一面観音は腕が長く作られることが多い。特に奈良・法華寺のものは腕が長く、膝のあたりまである。
像高は1メートルほどで、小ぶりのみほとけである。

法華寺 十一面観音

これは、猿をイメージして作られた観音様なのではないだろうか。

猿は膝を曲げて立つので腕が長く見える。

猿

大阪天満宮 猿回し 

厩猿信仰(猿を厩の守護神とする)はインドから中国を経て日本に伝わったとされるが、中国にはキンシコウという金色の猿がいる。
日本猿も手が長いと思うが、キンシコウはさらに腕が長いように見える。

ニホンサルの体長は83 cm、キンシコウの体長は65cmほどで、像高1mほどの小振りの法華寺・十一面観音像のイメージにあう。

6⃣伎芸天は迦楼羅

日本に現存する伎芸天は秋篠寺のものだけである。
美しいみほとけは数多くあるが、秋篠寺の伎芸天ほど優しそうな表情のみほとけは他にはないと思う。
掘辰雄さんはこの像を『東洋のミューズ』と称讃された。
ミューズとはギリシャ神話に登場する音楽・舞踏・学術・文芸などを司る女神である。

しかし私はこの美しい伎芸天を見て、迦楼羅(かるら)だ!と思ってしまった。 


2:39あたりの技芸天の耳の上向かって左あたりを見てほしい。
三面宝冠をつけているとのことだが、宝飾の真ん中あたりに小さな二重の円がある。

次に迦楼羅の伎楽面を見てみよう。
恐ろしい顔をしていて伎芸天にはちっとも似ていないが、耳に伎芸天と同じような二重の円がある。

私は伎芸天と迦楼羅のこの二重の円は鳥の耳を表したものではないかと考えている。
鳥の耳は羽毛で隠れていてわかり難いが、小さな穴があいている。

迦楼羅は鶏冠とくちばしを持ち、鳥を神格化した神である。
そして伎芸天は器楽の技芸に秀でた神・・・ということは音楽の神なので、やはり鳥を神格化した神とも考えられる。

7⃣葛井寺・千手千眼観音は孔雀?

葛井寺 千手千眼

大阪府藤井寺市の葛井寺のご本尊・千手千眼観音の脇手は
持物をもつ大手38本は手38本、小手1001本(右500本、左501本)を持つ迫力ある観音様で、
脇手には墨で眼が描かれている。

これは孔雀ではないかと思う。

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孔雀の雄は羽根を広げるとたくさんの目があるように見える。

ギリシャ神話に全身に100の目を持つアルゴスという神が登場するが、アルゴスも孔雀の神であるかもしれない。

8⃣水月観音はクラゲ?

神奈川県鎌倉市・東慶寺には水月観音という超美形の観音さまがおられる。



クラゲの漢字表記は「海月」「水母」「水月」である。
水月とは、ずばりクラゲのことなのである。
崩れた三角形の形はクラゲを思わせる。

くらげ








[2023/02/02 17:29] つれづれなるままに | TB(0) | CM(0)

トンデモもののけ辞典111 蟹坊主 


1⃣蟹坊主

山梨県山梨市万力の長源寺には、以下の伝説が伝えられている。かつて甲斐国万力村にあった同寺の住職のもとを雲水が訪ねて問答を申し込み、「両足八足、横行自在にして眼、天を差す時如何」と問うた。答に詰まる住職を雲水は殴り殺し、立ち去った。その後も代々の住職が同様に死に、とうとう寺は無人となった。話を聞いた法印という旅の僧がここに泊まったところ、例の雲水が訪ねて来て同様の問答を仕掛けたので「お前はカニだろう」と言って独鈷を投げつけると、雲水は巨大なカニの正体を現し、砕けた甲羅から血を流しつつ逃げ去った。以来、寺には何も起こることはなくなったという[1]。このカニの大きさは2間四方とも[2]、全長4メートルともいわれる[3]。
別説では、法印が寺に泊まると、夜中に身長3メートルもある怪僧が現れて問答を仕掛けたが、正体を見破られた上に独鈷で刺されて逃げ去り、翌朝に法印が村人たちと共に血痕を辿ると、そこには巨大なカニが死んでいたという[4]。また、長源寺の本尊は千手観音だが、このカニの死体から千手観音の姿が現れ、法印がそれに感激して千手観音を寺の本尊に祀ったとも[2]、法印は救蟹法師(きゅうかいほうし)と名を改めて寺の住職となったともいう[5][6]。
なお長源寺の山号は蟹沢山というが、享保11年(1726年)までの山号は富向山といっていたため、蟹坊主の伝説が語られたのは享保11年より後と考えられている[5]。長源寺ではこの化蟹伝説に基いた1885年(明治18年)作成の「救蟹伝説掛軸」二幅が伝来している。
この伝説にちなみ、カニが逃げ去ったといわれる場所には蟹追い坂、蟹沢といった地名が残されており、長源寺にはカニの爪跡とされる2つの穴があいた石や、カニが投げつけたという1メートル以上もの巨石などが残されている[7]。かつてはカニの甲羅も残されていたというが[6]、後に紛失している[5][7]。
長源寺と同様に、無人の寺に泊まった旅の僧にカニの化け物が問答をしかけ、僧がこれを暴いて退治するという伝説や昔話は、石川県珠洲市の永禅寺[8]、富山県小矢部市の本叡寺などに見られ、小矢部市には伝説にちなんで「北蟹谷」の名が残されている[9]。岩手県西磐井郡花泉町(現・一関市)の伝承では、甲橋という橋で巨大なカニが僧に化けて問答をしかけたが、寛法寺という寺の住職に鉄扇で退治されたという[10]。このような問答を仕掛けるカニの化け物の話は、狂言の『蟹山伏[11]』がルーツとされる[4]。

長いので内容をまとめておこう。

・雲水は長源寺(山梨県山梨市万力)の住職に「両足八足、横行自在にして眼、天を差す時如何」と問うた。
答に詰まる住職を雲水は殴り殺した。その後も代々の住職が同様に殺された。
そこで法印という旅の僧が長源寺に宿泊したところ、雲水が訪ねて来て同様の質問をした。
訪印が「お前はカニだろう」と言って独鈷を投げつけると、雲水は巨大なカニ(2間四方または全長4メートル)に変身し、血を流して逃げた。
正体を見破られた雲水が逃げ、血痕を辿ると、巨大なカニが死んでいたともいう。

・カニの死体から千手観音の姿が現れ、祭ったのが長源寺の御本尊の千手観音だとされる。

・長源寺の山号は蟹沢山というが、享保11年(1726年)までの山号は富向山だったため
蟹坊主伝説は享保11年より後に生じたと考えられている。

・永禅寺(石川県珠洲市)、本叡寺(富山県小矢部市)にも同様の話が伝わっている。

・岩手県西磐井郡花泉町(現・一関市)の甲橋という橋で巨大なカニが僧に化けて問答をしかけたが、寛法寺という寺の住職に鉄扇で退治されたと伝わる。

・とカニの妖怪の話は、狂言の『蟹山伏』がルーツとされる。

2⃣蟹山伏

狂言の曲名。山伏狂言。修行を終えた山伏が強力(ごうりき)をしたがえて帰国の途中,蟹の精が飛び出してきたのに出会う。強力が金剛杖で打ちかかると,かえってはさみで耳をはさまれてしまう。山伏が行法で離してやろうとさまざまに祈るが,蟹の精は反対に強力の耳を強く締めつけ,ついには山伏の耳まではさんでしまう。蟹の精はころあいを見はからって2人を突き倒して逃げ去り,あとを山伏主従が追い込む


3⃣カニの姿をした千手観音

長源寺のご本尊の写真はこちら↓

腕の付き方がカニの脚のように見える。
 
25541674_s.jpg

滋賀県長浜市の高月観音の里には珍しい千手千足観音がおられるが、この観音様は二体のカニが合体した観音様ではないかと思う。

これは蟹の交尾を撮影したものとのこと。

男女双体の神としては、歓喜天などがある。

歓喜天

聖天(歓喜天)

4⃣蟹満寺

蟹といえば、京都府木津川市にある蟹満寺を思い出す。
蟹満寺には次のような伝説が伝えられている。

昔、この地に住む娘が近所の人がとらえた蟹をたすけて逃した。
その後、この娘の父親が、蛇が蛙を飲み込もうとしているところに遭遇した。
父親は蛇に「自分の娘をあなたの嫁としてさしだすので、蛙を助けてあげてほしい」といった。
蛇は蛙を飲み込むのをやめ、夜になって娘をもらうためにやってきた。
娘の父親は「3日後にきてくれれば娘をさしあげる」といい、観音経を唱え続けた。
すると蟹が大勢の仲間を引き連れてやってきて、蛇を殺した。
蟹もまた死んでしまい、蟹と蛇を弔うために蟹満寺が建てられた。

蟹満寺

蟹満寺 

今昔物語集等に掲載されている「蟹の恩返し」の舞台が蟹満寺である。

寺の所在地の地は名綺田(かばた)というが、古には「蟹幡」「加波多」と書いて「カニハタ」「カムハタ」と読まれていたようだ。
「ハタ」という音をともなっているところをみると、秦氏と関係のあるお寺なのかもしれない。

私はこの蟹満寺を参拝したことがあるが、ご本尊は釈迦如来像だった。
しかし観音霊験説話であること、当時の山号の普門山も法華経の観世音菩薩普門品に因むものであることから、当寺の本来の本尊は観音菩薩であったと考えられている。

娘を助けた蟹は観音様の化身なのではないだろうか。

5⃣みほとけの化身として信仰されたタコ

↓ こちらは京都の新京極通にある蛸薬師堂(永福寺)の「なで薬師」である。

nade.jpg

蛸薬師 なで薬師

この「なで薬師」さんを左手で撫でると病治癒に霊験があると信仰されている。

また大阪府岸和田市には天性寺というお寺があり、「蛸地蔵」と呼ばれている。

どうも蟹だけでなく、タコもみほとけの化身であると考えられていたようだ。

6⃣イカの神もいた!

蛸に似た動物にイカがある。
イカも神仏として信仰されていたのだろうか?

そう思って調べてみたところ
島根県西ノ島町浦郷地区にある「由良比女神社」に「イカ寄せ浜の伝説」が伝えられているという。

国づくりの神・由良比女命が出雲大社へ出かけ、芋桶に乗って隠岐へ帰る際、海に浸した手にイカが噛み付いた。
イカはそのおわびとして、神社前の由良の浜に大群でやってくる。
昭和20年代までは、大群でやってきたイカを捕獲する人々の姿が見られたとのこと。

明治まで神仏は習合して信仰されていたのでイカを神格化したみほとけが西ノ島にあるかもしれない。

7⃣みほとけは動物の形を象ったもの?

私はみほとけは動物の形を象った姿に造られることが多いのではないかと思っている。
これについてはこちらの記事でのべる。 → 動物の形をしたみほとけたち





[2023/02/01 13:48] トンデモもののけ辞典 | TB(0) | CM(0)

とんでももののけ辞典 金玉(カネダマ) 


金玉


1⃣金玉(カネダマ)

その名の通り玉のような物または怪火で、これを手にした者の家は栄えるという[8][9]。

東京都足立区では轟音と共に家へ落ちてくるといい[8]、千葉県印旛郡川上町(八街市)では、黄色い光の玉となって飛んで来たと伝えられている[9]。

静岡県沼津地方では、夜道を歩いていると手毬ほどの赤い光の玉となって足元に転がって来るといい、家へ持ち帰って床の間に置くと、一代で大金持ちになれるという。ただし金玉はそのままの姿で保存しなければならず、加工したり傷つけたりすると、家は滅びてしまう[10][11]。

江戸時代の奇談・怪談集である『兎園小説』では、1825年(文政8年)の房州(現・千葉県)での逸話が語られている。それによれば、丈助という農民が早朝から農作業に取り掛かろうとしていたところ、雷鳴のような音と共に赤々と光り輝く卵のようなものが落ちて来た。丈助はそれを家を持ち帰り、秘蔵の宝としたという[12]。この『兎園小説』では「金玉」ではなく「金霊」の名が用いられているため、金霊を語る際にこの房州での逸話が引き合いに出されることがあるが、妖怪研究家・村上健司はこれを、金霊ではなく金玉の方を語った話だと述べている[13]。また同じく妖怪研究家の多田克己は、この空から落ちてきたという物体を、赤々と光っていたとのことから、隕鉄(金属質の隕石)と推測している[11]。

東京都町田市のある家では、文化・文政時代に落ちてきたといわれる「カネダマ」が平成以降においても祀られているが、これも同様に隕石と考えられている[2]。


金玉(かねたま)の特徴を箇条書きにしてみよう。
①轟音と共に家へ落ちてくる。
⓶黄色い光の玉
③手毬ほどの赤い光の玉となって足元に転がって来る。
④早朝にも見える。

2⃣金玉は火球?

「①轟音とともに落ちてくる」光の玉というと、火球ではないかと思われる。

上の動画0.48あたりで、火球が流れたあとの轟音が録音されている。

 

↑ こちらの火球は黄色に見える。(⓶黄色い光の玉)


赤い火球もある。(③赤い光の玉)


 

緑色もある。 

上の動画1:39あたりからの字幕には次のようにある。
「流れ星に含まれる組成 大気の組成と2つの理由によって流れ星の色が決まるんです」
「鉄のスペクトルを多くふくんでいて緑色になったそうです」
上記動画より引用

こんな記事もあった。

流星は大気圏に高速で突入した際、流星を構成する物質や大気がプラズマ化(「気化」や「イオン化」とも言われます)して発光します。そのとき、どのような色で発光するかは元素によって異なります。一般的にマグネシウムは青緑色、カルシウムは紫色、ニッケルは緑色の光を放射します。しかし、赤は一般的に地球の大気中に存在する窒素と酸素に由来しています。


「ファイアーボール(火球)」のように輝く流星は、含まれる化学元素によって鮮やかに色を変える。地球大気に高速で突入する際に、流星物質は溶融・蒸発し、衝突する大気粒子とともにプラズマ化して発光する。このとき、ナトリウムは黄色からオレンジ色、銅は青から緑、カリウムはマゼンタ、ケイ素は赤く輝く。また、大気中の酸素粒子は緑色に光る。

説明が異なっているが、どちらのケースもありうるということだろうか。

マグネシウム 銅・・・青緑
カルシウム・・・・・・村崎
ニッケル 酸素・・・・緑
窒素 酸素 ケイ素・・赤
ナトリウム・・・・・・黄~橙
カリウム・・・・・・・マゼンダ

「④早朝に見える」ということは、空が明るいときに見えたということだろうが、火球は日中でも見える。


3⃣金霊(カネダマ)

金霊

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「金霊」

鳥山石燕による江戸時代の妖怪画集『今昔画図続百鬼』によれば、善行に努める家に金霊が現れ、土蔵が大判小判であふれる様子が描かれている。石燕は同書の解説文で、以下のように述べている。

金だまは金気也 唐詩に 不貪夜識金銀気といへり 又論語にも富貴在天(ふうきてんにあり)と見えたり 人善事を成せば天より福をあたふる事 必然の理也

「不貪夜識金銀気」は中国の唐代の詩選集『唐詩選』にある杜甫の詩からの引用で、無欲な者こそ埋蔵されている金銀の上に立ち昇る気を見分けることができるとの意味である。 また「富貴在天」は文中にもあるとおり、中国の儒教における四書の一つ『論語』からの引用で、富貴は天の定めだと述べられている。これらのことから石燕の金霊の絵は、実際に金霊というものが家に現れるのではなく、無欲善行の者に福が訪れることを象徴したものとされている[1]。

同時期にはいくつかの草双紙にも金霊が描かれている例があるが、いずれも金銭が空を飛ぶ姿で描かれている。1803年(享和3年)の山東京伝による草双紙『怪談摸摸夢字彙(かいだんももんじい)』では「金玉(かねだま)」の名で記載されており、正直者のもとに飛び込み、欲に溺れると去るものとされている[2][3]。

昭和以降の妖怪関連の文献では、漫画家・水木しげるらにより、金霊が訪れた家は栄え、金霊が去って行くと家も滅び去るものとも解釈されている。また水木は、自身も幼い頃に実際に金霊を目にしたと語っており、それによれば金霊の姿は、轟音とともに空を飛ぶ巨大な茶色い十円硬貨のような姿だったという[4]。

東京都青梅市のある民家では、実際に人家に金霊が現れたという目撃例がある。家の裏の林の中に薄ぼんやりと現れるもので、家の者には恐れられているが、その家でも見れば幸運になれるといわれている[5]。

似た仲間に、江戸時代の怪談本『古今百物語評判』に記述されている「銭神(ぜにがみ)」がある。銭霊(ぜにだま)ともいい[6]、黄昏時に世界中の銭の精が薄雲状となって人家の軒を通るもので、刀で切り落とすと大量の銭がこぼれ落ちるという。同書の著者・山岡元隣によれば、これは世界中の銭の精が集まって、空中にたなびいているのだと解説されている[7]。


3⃣金霊は1769年の彗星から創作された?


上の記事によれば

明和6年(1769年)夏
天保14年(1843年)2月 

に彗星が出現したとある。

明和6年夏の彗星は、全国的に記録が残っており、畿内の民衆は「豊年之瑞」として「稲星」と呼んだようです。一方、公家社会では凶兆と見て、臨時に御神楽を行って危機の打開を図りました。

「金霊」が描かれている『今昔画図続百鬼』は、1779年(安永8年)に刊行された鳥山石燕(1712 - 1788年)の妖怪画集である。
石燕も1769年の彗星を目撃したのかもしれない。

同時期にはいくつかの草双紙にも金霊が描かれている例がある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%9C%8A より引用

とあるのは、1769年の彗星を見た人々がこれを「豊年の瑞(めでたいしるし)」と考えたところから、金霊なるものを創作したということかもしれない。

『怪談摸摸夢字彙』より「金玉」。北尾重政画。

『怪談摸摸夢字彙』より「金玉」。北尾重政画。(1803年)

水木しげるさんが目撃された「轟音とともに空を飛ぶ巨大な茶色い十円硬貨のような姿」のものは、UFO❔



[2023/01/30 14:15] トンデモもののけ辞典 | TB(0) | CM(0)

トンデモもののけ辞典109 帷子辻 

竹原春泉画『絵本百物語』より「帷子辻」

竹原春泉画『絵本百物語』より「帷子辻」

1⃣帷子辻

平安時代初期、嵯峨天皇の皇后であった橘嘉智子(たちばなの かちこ、786年 - 850年)は仏教の信仰が厚く、檀林寺[3]を建立したことから「檀林皇后」と呼ばれた。また貴族の子弟教育のために学館院を設けるなど、多くの功績があった[4]。
伝説によると、檀林皇后はすばらしい美貌の持ち主でもあり、恋慕する人々が後を絶たず、修行中の若い僧侶たちでさえ心を動かされるほどであった。こうした状況を長く憂いてきた皇后は、自らが深く帰依する仏教の教えに説かれる、この世は無常であり、すべてのものは移り変わって、永遠なるものは一つも無い、という「諸行無常」の真理を自らの身をもって示して人々の心に菩提心(覚りを求める心)を呼び起こそうと、死に臨んで、自分の亡骸は埋葬せず、どこかの辻に打ち棄てよと遺言した。
遺言は守られ、皇后の遺体は辻に遺棄されたが、日に日に腐り、犬やカラスの餌食となって醜く無残な姿で横たわり、白骨となって朽ち果てた。人々はその様子を見て世の無常を心に刻み、僧たちも妄念を捨てて修行に打ち込んだという。皇后の遺体が置かれた場所が、以後「帷子辻」と呼ばれた場所である[4]。一説には皇后の経帷子(死装束)に因んだ名とされる[5]。
「九相図」(九相詩絵巻)[6]は檀林皇后(または小野小町等)の遺体が朽ち果てる様を九つの絵で描いたものとされる。
また詩書には「檀林皇后の御尊骸を捨てし故にや、今も折ふしごとに女の死がい見へて、犬鳥などのくらふさまの見ゆるとぞ、いぶかしき事になん[7]」とある。この意味について「もともと帷子辻は、こうして自らをなげうって人々の魂を救済しようとした檀林皇后の遺志の源であったはずであるが、その後この辻を通りかかると、犬やカラスに食い荒らされる女の死体の幻影が見えると恐れられるようになった[8]」との解釈もあるが、「後にも檀林皇后の例に倣い、女の死体が捨てられることがある」との意味に解釈すれば怪異でも何でもない、との指摘もある[9]。

2⃣帷子の辻はどこだ?

檀林寺は橘嘉智子が嵯峨野に創建した寺で、現在、天龍寺がある場所にあったという。
一条天皇:(在位986~1011)のころ、廃絶したと考えられている。
の頃には廃絶したとみられる。
現在、天龍寺の近所に法寳閣檀林寺があるが、1964年に壇林皇后の遺徳を偲んで再興されたものである。

橘嘉智子の遺体が朽ちていく様子を描いた九相図は東山区・六道の辻にある西福寺で見た。

九相図

帷子の辻の場所はこちら↓


辻とは十字路のことだが、どこが帷子の辻なのだろうか?

こんな記事があった。

彼女が亡くなった時に棺にかけられていたのが、絹や麻糸で織った着物(帷子)でした、お葬式の際にこのあたりを通った時に、三条通と交わる辻(交差点)で帷子が風に舞ってはらりと落ちたことから、このあたりが帷子ノ辻と呼ばれるようになったそうです。

三角形の形をした太秦帷子の辻町の東の角、112と数字のある道が三条通である。
つまり三角形の角のように鋭くとがった角のある場所が、帷子の辻だと思われる。
昔からこの角があったのだろうか。

とすればこの特徴的な交差点の形が帷子の辻という地名の由来ではないかと思えてくる。

友人は死装束の天冠のイメージから、死装束である経帷子の辻・・・・帷子の辻となったのではないかという。
また帷子で画像検索すると、下のように帷子を広げて三角状にした写真がたくさんでてくる。

https://maruai.up.seesaa.net/image/Picture20989.png

千本閻魔堂狂言 

千本閻魔堂狂言で亡者が額に着けている天冠

3⃣橘嘉智子の系譜

橘嘉智子の墓は右京区嵯峨鳥居本深谷町にある。
わずかに残った骨だけを葬ったとも考えられるが、「橘嘉智子の遺体が帷子ノ辻に打ち捨てられた」というのは事実ではないだろう。
皇后の遺体を粗末に扱うというのはちょっと信用できないからだ。

それでは橘嘉智子にまつわるこんな伝説が、なぜ創作されたのだろうか。

若宮社の橘諸兄(684~757)は敏達天皇の5世(もしくは4世)子孫で葛城王といった。
父親は美努王、母親は橘美千代である。
736年、橘諸兄は、弟の佐為王と共に母・橘三千代の姓氏である橘宿禰を継ぐことを願い出て許され、
葛城王はこれ以後、橘諸兄と称した。

橘三千代は夫の美努王が大宰府に単身赴任しているすきに藤原不比等と再婚して光明皇后を産んでいる。
光明皇后は橘諸兄の異父妹なのである。
737年、天然痘が流行し、藤原不比等の子である藤原四兄弟や舎人親王ら多くの政府高官が死亡した。
738年、こういった情況下で橘諸兄は右大臣となり、743年には左大臣になった。

755年、諸兄の従者が『諸兄は酒宴の席で朝廷を誹謗した』と讒言をした。
聖武太上天皇は問題視しなかったが756年、これを恥じた諸兄は辞職し、翌757年死亡している。
このころ、光明皇后の信任を得た藤原仲麻呂が勢力を伸ばしており、この事件には仲麻呂の思惑が働いていたのではないかと思われる。

758年、橘諸兄の子である奈良麻呂は藤原仲麻呂の専横に不満を持ち、クーデターを計画したが密告によって捕らえられた。
このクーデター計画にかかわった多くの人が厳しい拷問によって死亡している。
続日本紀の拷問死した人物の記述の中に、奈良麻呂の名は記されていないが、やはり拷問死したと考えられている。

奈良麻呂の子の橘清友は、777年に渤海大使都蒙を接待したとき、
『骨相から見るとあなたの子孫は繁栄するが、あなた自身は32歳で厄があるでしょう』
といわれ、その予言どおりに32歳で死亡した。

この橘清友の娘が橘嘉智子である。


4⃣承和の変

『骨相から見るとあなたの子孫は繁栄するが、あなた自身は32歳で厄があるでしょう』という予言どおり、橘清友の子孫は繁栄した。

娘の橘嘉智子は嵯峨天皇の皇后となり、橘嘉智子が生んだ正良親王は54代仁明天皇に、正子内親王は53代淳和天皇の皇后となった。
橘嘉智子の息子の橘嘉智子の正良親王は藤原順子との間に道康親王をもうけた。
橘嘉智子の娘の正子内親王は淳和天皇の皇后となり、恒貞親王をもうけた。

833年、正子内親王の夫・淳和天皇は、正子内親王の弟・正良親王(仁明天皇)に譲位した。
仁明天皇の皇太子には、淳和天皇と正子内親王の間に生まれた恒貞親王が立った。

このころ、藤原北家の藤原良房が嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子(檀林皇太后)の信任を得て権力を強めつつあった。
良房は恒貞親王ではなく、仁明天皇(正良親王)と妹順子の間にできた道康親王の皇位継承を望んでいた。

淳和上皇と恒貞親王はしばしば皇太子辞退を奏請しているが、それはおそらく良房を恐れてのことだろう。
しかし、恒貞親王の皇太子辞退は嵯峨上皇に慰留されていた。

840年、淳和上皇が崩御し、842年嵯峨上皇が病に伏せると、後ろ盾をなくした恒貞親王は不安定な立場に立たされる。
伴健岑と橘逸勢(橘嘉智子の従兄弟)は恒貞親王の身を案じて恒貞親王を東国へ移す計画をたてた。
ふたりはこの計画を安保親王(第51代平城天皇の皇子。在原業平の父)に相談するが、阿保親王はこれに与せず、橘嘉智子に密告した。
さらに橘嘉智子がこれを藤原良房に相談し、仁明天皇は伴健岑・橘逸勢らを逮捕した。恒貞親王は廃太子となる。
橘逸勢は姓・官位を剥奪、『非人』の姓を与えられて流罪になり、その護送途中に病没した。(承和の変)

従来『承和の変』は藤原良房による他氏排斥だと考えられていたが、当時良房はまだ中納言で第六位の身分にすぎなかった。
そんな良房がひとりでこんな事件を起こせるはずがない、仁明天皇や橘嘉智子もこの事件に深く関与しているのではないか、と言う説が近年となえられている。

『日本三代実録』によれば、恒貞親王の母・正子内親王は激しく怒り泣いて母・嘉智子太皇太后を恨んだとも記されています。
橘嘉智子は自分の孫の繁栄を願って仁明天皇と藤原順子の間に生まれた道康親王の立太子を画策したのだろう。
しかし、道康親王の立太子は適ったものの、橘氏はその後ぱっとせず、藤原氏の栄華の手助けをしたに過ぎなかったという結果に。
しかも橘嘉智子はそのために娘の正子内親王の恨みを買い、孫の恒貞親王を犠牲にしてしまっている。

橘氏の没落を招いたのは橘嘉智子だったといえるかもしれない。

橘嘉智子は我が国最初の禅寺である檀林寺を創建し、奨学・養老・施薬の施設をととのえるなど、大変信仰心の厚い女性であったとされる。
私は橘嘉智子が深く仏教に帰依したのは、自らの罪の重さにおののいたためではないかと思う。

「諸行無常」の真理を自らの身をもって示して人々の心に菩提心(覚りを求める心)を呼び起こそうと、死に臨んで、自分の亡骸は埋葬せず、どこかの辻に打ち棄てよと遺言した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B7%E5%AD%90%E8%BE%BB より引用

というのは、橘嘉智子の行動(孫の恒貞親王を廃太子によって、正子内親王の恨みを買い、橘氏を没落させたなど)が背景に会って、生み出されたのかもしれない。



[2023/01/28 20:21] トンデモもののけ辞典 | TB(0) | CM(0)

トンデモもののけ辞典108 片葉の葦  

『本所七不思議之内 片葉の芦』(片葉の葦)三代目 歌川国輝・画

『本所七不思議之内 片葉の芦』(片葉の葦)三代目 歌川国輝・画

1⃣片葉の葦

江戸時代の頃、本所にお駒という美しい娘が住んでいたが、近所に住む留蔵という男が恋心を抱き幾度も迫ったものの、お駒は一向になびかず、遂に爆発した留蔵は、所用で外出したお駒を追った。そして隅田川からの入り堀にかかる駒止橋付近(現在の両国橋付近の脇堀にかかっていた橋)でお駒を襲い、片手片足を切り落とし殺した挙げ句に堀に投げ込んでしまった。それ以降、駒止橋付近の堀の周囲に生い茂る葦は、何故か片方だけの葉しか付けなくなったという。


2⃣本所の葦

この物語の舞台は東京都墨田区本所である。


上の地図の赤い点線で囲まれた隅田川の東岸にある地域が現在の本所である。
葦は池沼、河岸、湿地など、水辺に生えるので、本所にも葦が茂っていたのだろう。

本所の料亭 広重

本所の料亭 広重

広重の絵にも葦のようなものが描かれている。

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葦


3⃣居多神社の片葉の葦

ウィキペディア「片葉の葦」のところに、次の様に記されている。

越後七不思議の一つの「片葉の芦」については「居多神社」をご覧ください。

どうやら片葉の葦は本所だけでなく、居多神社にもあるらしい。

境内には、葉が片方にのみ生える芦「片葉の芦」が群生する[3]。伝承では、親鸞が居多神社に参拝して祈願をすると境内の芦が一夜にして片葉になったという[3]。この片葉の芦は「越後七不思議」の1つにも数えられている[3]。

360px-片葉の芦

居多神社 片葉の芦

4⃣お駒は片葉の葦を擬人化したもの?

本所七不思議の「 片葉の芦」では、「留蔵が自分になびかないお駒の片手片足を切り落として殺した」とある。
片葉の葦を、人間の片手片足を切り落とした状態に喩えたものではないかと思う。
お駒は片葉の葦を擬人化したものと言ってもいいだろう。

葦はお駒の切り落とされた「足」の語呂合わせにもなっている。

留蔵は片葉の葦の、葉のないほうに立っていて、それで片葉の葦の葉が自分のほうに「なびかない」のではないか。

5⃣葦は男女のカップルをイメージさせる?

百人一首にこんな歌がある。

難波江の 蘆のかりねの 一よゆゑ 身をつくしてや 恋ひわたるべき/皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)
(難波江の、蘆を刈ってつくった小屋での、たった一夜の仮の一夜、蘆の一節(ひとよ)のような一夜のために、難波江に建てられている澪標の言葉と同じように身を尽くして 恋しつづけるべきでしょう。)

難波潟 みじかき蘆の ふしのまも 逢はで此の世を 過ぐしてよとや/伊勢
(難波潟の短い芦の節の間ほどの短い時間もあなたにお会いすることができず、一生を過ごせと、あなたは言うのでしょうか。)


どちらも恋の歌である。
肩葉の葦ではないふつうの葦が、両側に葉をつける。
古の人々は、両側に葉をつける葦から、男女のカップルを思い浮かべたのではないだろうか。
それで葦と恋をむすびつけた歌を詠んでいるのではないかと思った。

6⃣伊勢にも片葉の葦の伝説があった。

下記動画では伊勢の国・長井の里の井出のお宮を舞台とする話で
渡り鳥である雁が葦の葉をもらって長い渡りの旅に出て、疲れればその葉を海に浮かべて、体をやすめるという。


なんだか雁風呂を思わせる話である。

月の夜、雁は木の枝を口に咥えて北国から渡ってきて、飛び疲れると波間に枝を浮かべ、その上に停まって羽根を休める。そうやって津軽の浜までたどり着くと、要らなくなった枝を浜辺に落とす。日本で冬を過ごした雁は早春の頃、浜の枝を拾って北国に戻って行く。雁が去ったあとの浜辺には、生きて帰れなかった雁の数だけ枝が残っている。浜の人たちは、その枝を集めて風呂を焚き、不運な雁たちの供養をしたという[1]。

2012年、青森県立図書館の調査により、上記の伝説は1974年のテレビCMで広まったものであり、青森県内で伝承されたものではないと判明した[1]。また、伝説の基となった物語は四時堂其諺『滑稽雑談』(1713年(正徳3年)成立)巻16に収められているが、日本ではなく他国の島での話として収められた物語と判明した[1]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%81%E9%A2%A8%E5%91%82#%E6%A6%82%E8%A6%81 より引用

それはともかく、肩葉の葦はあちこちに生息していそうである。
今度、川辺にいったら探して見ようと思う。


[2023/01/27 23:03] トンデモもののけ辞典 | TB(0) | CM(0)

淀川河口にやってきた鯨 と えべっさん 

2023年1月9日、淀川河口で鯨が発見され、「よどちゃん」という愛称がつけられた。



残念ながら鯨は1月13日に死んでいるのが確認された。


1月9日、今宮戎神社は十日戎の宵戎だった。

十日戎は1月10日が本戎、11日 が残り戎である。



つまりよどちゃんは、宵戎の日に現れて、残り戎が終わって間もなく死んでしまったのである。
私はよどちゃんは、えべっさん(蛭子神のこと)の化身のようだなと思った。

その理由は十日戎が始まる日にあらわれて、残り戎の2日後に死んだというだけではない。
鯨のことを「エビス」という地方があるからだ。

https://ebisufan.com/news/ebisukujira.html/

↑ こちらの記事にも

「昔の人は「鯨」のことを「えびす」と呼んでいた」とあり、鯨を持ったり、鯨に乗ったエビス像の写真が掲載されている。


「寄り鯨の到来で七浦が潤う」(浅瀬に迷い込んだ鯨一頭で七つの漁村の暮らしが潤う)と言われており、魚業の神=鯨が身を挺して住民に恵みをもたらしたことを感謝し、鯨への信仰心が育ってきたそうです。その漁業神こそが「恵比寿様」のことであり、まさに、恵比寿様は鯨の化身として同一視されていたんです。


【震災追悼記事】「恵比寿」と「鯨」の意外な関係 より引用

よどちゃんは「エビス様」であり、「十日戎」にあわせるように淀川河口にあらわれたのだ。


報道によれば、今までにも大阪湾あたりに鯨が迷い込んできたことがあったといい、温暖化の影響で海水温があがったことが原因ではないかとしていた。

過去の日本には中世温暖期と呼ばれた時期があり、現在より2,3度気温が高かったとされる。
(「中世温暖期には現在よりも気温が高かったのであれば、現在温暖化を気にする日必要はないじゃないか」という人がいそうだが、現在、温暖化が危惧されているのは、その上昇率の高さによる。
2-02 700~2100年までの気温変動(観測と予測)

そのころは戎神社の総本社である西宮神社や、『日本最古の戎社』を称する大阪府堺市の石津太神社付近にも、時々鯨が迷い込んできていたのだろう。


 

↑ こちらの動画は千葉県浦安市の旅の記録である。

0:52あたりから稲荷神社境内にある大鯨の社の映像がでてくる。


稲荷神社のホームページには次のように記されている。


東京湾に鯨がいたということは現在では思いも及ばないことではあるが、水が澄み、自然環境が好く小魚が多く、鯨の餌が豊富だったのであろう。


河口から海へしばらく向かうと三枚洲(葛西沖)という好漁場があり、漁をしようといつものように日の出前に当代島の高梨源八、西脇清吉の両氏は船に立って漁場の三枚洲に近づいていくと、洲の上に大きな黒い大きな魚が暴れているのを見つけて近寄っていくと、うわさが絶えなかった大鯨が浅瀬の汐溜まりに取り残されている。


そこで両氏は驚きと興奮で体が硬直したものの気を取り直し、大格斗の末に大鯨を捕ることに成功し、意気揚々と当代島へと戻った。


両氏が帰還すると村中が知らせを聞いて大騒ぎとなり、老若男女がこぞって見物に来たそうです。


この大鯨は当時の価格で金弐百円もの高値で売れ、大金を手にした両氏はすっかり有名人になり、どこへ行っても英雄扱いされたそうです。両氏は大鯨捕獲劇のことで仕事も手につかなくなり、このことに終止符を打つために考えた末に年配者の知恵から稲荷神社に大鯨の碑を奉納し、祀ったとのことです。これが大鯨の碑建立の経緯であります。


稲荷神社について より引用

 

「【震災追悼記事】「恵比寿」と「鯨」の意外な関係」という記事、浦安・稲荷神社の大鯨の碑についての説明文
どちらを読んでも、鯨が古の人々に富をもたらす動物であったことがわかる。


そしてそれは、アイヌの熊送りに通じるところがある。


『蝦夷島奇観』村上島之允(秦檍麿)画を、平沢屏山が模写したもの(大英博物館蔵)の一部。イオマンテを描いたアイヌ絵


『蝦夷島奇観』村上島之允(秦檍麿)画を、平沢屏山が模写したもの(大英博物館蔵)の一部。イオマンテを描いたアイヌ絵


アイヌの熊送りは、神の化身である子熊を捕まえてきて飼育し、それを儀式の中で狩り、殺して食するというものである。

つまり犠牲になってわが身を与えて下さるもの(熊)が神であるという考え方である。

エビス信仰では、熊のかわりに鯨が神の化身であり、鯨はその身(肉)を人々に与えて下さるので尊いというわけだ。


実はエビスと呼ばれるのは鯨だけではない。
水死体のこともエビスといい、水死体があがると大漁になるなどといわれたそうである。


エビスはイザナギ・イザナミの長子として生まれたが、3歳になっても歩けなかったため、葦舟に乗せて流したとされる。

エビスは龍宮にたどりつき、海神に育てられたが、神の御子であるので陸上にもどされ、西宮神社で祀られるようになったという話を聞いたことがある。


足が悪くわずか3歳のエビスがたどり着いた龍宮とは死の国のことだろう。

そして地上に戻されたエビスとは水死体のことであったのかもしれない。

鯨は水死体の化身として信仰されていたということなのかもしれない。



大杉神社


千葉県鵜原理想郷 クジラの頭蓋骨を祀る大杉神社





[2023/01/14 14:54] つれづれなるままに | TB(0) | CM(0)

「因幡の素兎」はオキノウサギの換毛を比喩的に描いたものだった? 


地主神社

京都・地主神社の大国(大穴牟遲神)と素兎

①稲羽の素兎

大穴牟遲神(おおなむぢのかみ=大国主神)は八十神(やそがみ=兄弟)から嫌われていた。八十神は、稲羽の八上比賣(やがみひめ)に求婚したいと思い、稲羽(いなば)に出掛けた時、大穴牟遲神に袋を持たせ、従者のように引き連れた[2]。
「気多(けた)の前」に来たとき、裸の兎(あかはだのうさぎ)が伏せっていた。兎は、八十神に「海塩を浴び、山の頂で、強い風と日光にあたって、横になっていることだ」と教えられた通りに伏せていたが、海塩が乾くにつれ、体中の皮がことごとく裂けてきて、痛みに苦しんで泣いている。すると、最後に現れた大穴牟遲神が「なぜ泣いているの」と聞いた[2]。
菟は「私は隠岐の島からこの地に渡ろうと思ったが、渡る手段がありませんでした。そこで、ワニザメ(和邇)を欺いて、『私とあなたたち一族とを比べて、どちらが同族が多いか数えよう。できるだけ同族を集めてきて、この島から気多の前まで並んでおくれ。私がその上を踏んで走りながら数えて渡ろう』と誘いました。すると、欺かれてワニザメは列をなし、私はその上を踏んで数えるふりをしながら渡ってきて、今にも地に下りようとしたときに、私は『お前たちは欺されたのさ』と言いました。すると最後のワニザメは、たちまち私を捕えてすっかり毛を剥いでしまいました。それを泣き憂いていたところ、先に行った八十神たちが『海で塩水を浴びて、風に当たって伏していなさい』と教えたので、そうしたところ、この身はたちまち傷ついてしまったのです」といった。そこで、大穴牟遲神が兎に「今すぐ水門へ行き、水で体を洗い、その水門の蒲(がま)の穂をとって敷き散らして、その上を転がって花粉をつければ、膚はもとのように戻り、必ず癒えるだろう」と教えたので、そうすると、その体は回復した。これが、稲羽の素兎(しろうさぎ)である[2]。
その兎は「八十神は八上比賣を絶対に得ることはできません」と大穴牟遲神に言った。そのとおり、八上比賣は八十神に「あなたたちの言うことは聞かない」とはねつけ、大穴牟遲神に「袋を背負われるあなた様が、私を自分のものにしてください」と言ったため、今では兎神とされる[2]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E5%B9%A1%E3%81%AE%E7%99%BD%E5%85%8E#%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98 より引用

⓶海水は傷を悪化させる。

ネットを検索すると「傷は生理食塩水または水道水でよく洗浄する」と書かれている。
生理食塩液とは、0.9%の食塩液のことである。
海水の塩分濃度は3.4%ぐらい。
傷に塩を塗った経験はないが、「傷口に塩を塗る」という故事があり、傷口に塩を塗るとしみて痛みがますのだという。
また傷がある状態で海に入ると傷口から細菌が感染して化膿したりすることがあるとのこと。
毛をむしられた兎が海水をあびて悪化するのは当然だろう。

おそらく海水が傷を悪化させることは古より経験で広く知られていたのだろう。
八十神は、わざとまちがった情報を兎にあたえて意地悪をしたということだろうか。

③蒲黄

大穴牟遲神(大国主神)は兎に「水で体を洗い、その水門の蒲(がま)の穂をとって敷き散らして、その上を転がって花粉をつければ、膚はもとのように戻り、必ず癒えるだろう」
と教えているが、蒲の花粉には傷をいやす薬効がある。

ガマの穂に含まれる花粉を,蒲黄(ホオウ)と言います.古代から,止血,通経,利尿薬として用いられています.傷の治す作用の有ることが分かります.
http://www.pharm.kumamoto-u.ac.jp/flower/H1408.html より引用


下記リンク先にあるように穂蒲は黄色い粉末状である。

http://www.yanagidou.co.jp/hoou-funmatu-logo.jpg

古の人は穂蒲の薬効も知っていたのだ。

1293054_s.jpg

④なぜケガをしたのは兎だったのか。

古事記の作者は、なぜケガをしたのを兎としたのだろうか。

蒲は6月~8月に高く伸ばした茎の上部に花穂をつける。
花穂の上部は黄色い花粉を持つ雄花穂、下部の緑色部は雌花穂である。
花には花びらはなく、は黄色い葯(おしべの一部で, 花粉  をつくる袋状の部分)が見える状態になる。

https://pino330.com/archives/14605
上記記事、4枚目の写真がわかりやすい。

花が終わると、雄花は散り、雌花穂は茶褐色のソーセージのような形になる。
雌花は白い綿毛のようなものをつける。
この白い綿毛は素兎の毛のようにも見える。
ソーセージのような形の茶褐色の状態は毛をむしられた兎、綿毛が付いた状態は回復して白い毛が生えた素兎ということではないだろうか。

⑤因幡の兎はオキノウサギの換毛をあらわしたものだった。

話はこれで終わらなかった。

兎は換毛する。
「因幡の素兎」の物語は、実は兎が毛をむしられたのではなく、換毛を表現した物語なのではないか?
私はそう考えて、そこで、日本に棲息するニホンノウサギについて調べてみたのだ。

全身の毛衣は褐色、腹部の毛衣は白い[2]。耳介の先端は黒い体毛で被われる[2]。

~略~

東北地方や日本海側の積雪地帯に生息する個体群(トウホクノウサギ)や、佐渡島の個体群(サドノウサギ)は冬季に全身の毛衣が白くなる[2]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%82%A6%E3%82%B5%E3%82%AE#%E5%BD%A2%E6%85%8B
より引用

残念、ニホンノウサギには隠岐諸島(島根半島の北にある島)に棲息するオキノウサギもいるが、これは冬季に白くならないようだ。

  


しかし、オキノウサギには「白いのもいる」と記された記事があった!
https://www.oki-hs.ed.jp/files/original/20220318000818440bb3d75d4.pdf


「因幡の白兎」とあるが、「稲羽」が因幡(現在の鳥取県東部)だという記載はない。「イナバ」は稲葉、稲場すなわちイネの置き場を指し、各地の地名にもみえる。
より引用

とあるが、因幡(現在の鳥取県東部)の話だと思う。
兎は鳥取県北部の隠岐諸島に棲息するオキノウサギだろう。

通常のオキノウサギは茶色だが、この物語に登場するオキノウサギはまれにみられる白いオキノウサギだったのではないだろうか。
古来、白い動物は神聖視されたようで、ヤマトタケルの物語には、白い猪や白い鹿が登場する。



[2022/12/20 14:06] つれづれなるままに | TB(0) | CM(0)

江戸時代の日本の識字率は世界一は本当? 


①江戸時代の識字率は世界一だとは考えられない。その理由は・・・

最近、「『江戸時代の識字率は日本が世界一』はデマだという話を聞いたので検索してみたところ、次の記事が見つかった。

この記事にさまざまなデータが掲載されているのでそれを引用させていただくことにしよう。

❶明治初期に文部省によって実施された自署率
(6歳以上で,自己の姓名を記しうるものの割合)の調査

滋賀県:64.1%(1877年)
岡 山 県:54.4%(1887年)
青森県:19.9%(1884年)
鹿児島県:18.3%(1884年)

これを見ると地域によってかなり差があることがわかる。

江戸時代に来日した外国人の旅行記などに、日本人の識字率の高さを述べているものがあるが、都市の一部の人間の読書習慣をのべただけで、データをもとにした発言ではない。

昭和38年(1963年)のユネスコ調査によれば、日本の非識字率についても,女性,地方の非識字率は男性,都市の約3倍となっていて、格差がある。

❷1850年ごろ(日本の幕末にあたる)のヨーロッパ諸国の非識字率(チポラ・カルロによる)
・イングランドは30~50%・・・つまり識字率は50~70%
・スウェーデン:10%(1850年)・・・識字率は90%
・スコットランド:20%(1851年)・・・識字率は80%
・プロイセン(ドイツ):20%(1849年)・・・識字率80%

ヴィンセント・デイヴィッドによれば、1850年ころの男性の非識字率は,オランダ,スコットランド,プロイセンなどで20%をしたまわっていたという。(つまり識字率は80%以上)

❶の結果から考えて、江戸時代後期の日本の男性の識字率を高めに見積もって約50%とする。
諸外国のほぼ同時代の識字率は、イングランドは50~70%、スウェーデン90%、スコットランド80%、プロイセン80%なので
江戸時代の日本の識字率は世界一とはとてもいえなくなる。

❹日本の壮丁(労役・軍役にあたる成年の男子)の「文盲率」(非識字率)として,
5.77%(1908年),2.11%(1916年),1.99%(1917年)というデータがある。

デンマーク:0.2%(1907年),スウェーデン:0.2%(1911年),スイス:0.3%(1911年),ド イ ツ:0.5%
(1912年),イギリス:1.0%(1903-1905年)などが,日本をうわまわっている。

❺『ワールド・アルマナック』ば1931年版「諸外国の非識字」※調査方法は様々
日本の識字率は99.04%(1923年),99.3%(1927年)(※ことわりはないが,これは壮丁調査による新兵の識字率)
スウェーデン:100%(新兵検査,年度不詳),
ルクセンブルク:100%(調査方法・調査年不詳)
ドイツ:99.97%(6歳以上,1927年),
オランダ:99.7%(成人,1927年)
ノルウェー:99%(調査方法・調査年不詳)
フィンランド:99%(15歳以上,1920年)

日本は決して世界一ではない。

⓶近代日本の就学率

❶1942年の就学率は日本が世界一だった?

1942(昭和17)年10月25日の読売新聞の記事が引用されている。

【学制が布かれ七十年 初めは小学校に高等,下等 今では世界一の就学率】
今では日本の就学率(国民学校に入学する者の割合)は99.4%で世界一です。近代的な学校の設備が一番早く出来たヨーロッパ諸国をはるかに追越しています。…東亜にある国々も日本にくらべたらお話にならないほど就学率は低く,私たちは教育の点でも日本に生れた幸福を深く感謝しなければなりません。

1941年に太平洋戦争が始まっている。1942年はその太平洋戦争が始まった翌年だ。
このとき、日本には新聞紙法があって新聞は検閲対象だった。
つまりこの時代には表現の自由がなかったのだ。
そのあたりを割り引いて、本当に日本の就学率が世界一だったのか考えてみる必要がありそうだ。

❷文部省データ

学齢児童就学率
出典:文部省『学制八十年史』,『学制百年史』,『学制百二十年史』
年度       就学率(%)  年度      就学率(%)
1875(明治08) 35.19    1935(昭和10) 99.51
1880(明治13) 41.06    1940(昭和15) 99.64
1885(明治18) 49.62    1945(昭和20) 99.79
1890(明治23) 48.93    1950(昭和25) 99.64
1895(明治28) 61.24    1955(昭和30) 99.77
1900(明治33) 81.48    1960(昭和35) 99.82
1905(明治38) 95.62    1965(昭和40) 99.82
1910(明治43) 98.14    1970(昭和45) 99.83
1915(大正04) 98.47    1975(昭和50) 99.91
1920(大正09) 99.03    1980(昭和55) 99.98
1925(大正14) 99.43   1985(昭和60) 99.99
1930(昭和05) 99.51    1990(平成02) 99.99

上記の表をみると、明治38年には95%の就学率となっていてかなり高い就学率となっているようにみえる。
しかし、「途中で退学した生徒も当初はおおく,就学率がたかくみつもられてきたのではないか」という疑問がだされている。

これらの研究成果によれば,日本で初等教育がほぼ普及したといえるのは1900年代ではなく,1920~1930年代ではないかとしているということだ。
ただし、どのようにして1920~1930年代と結論を出したのが、
そのあたりが
日本の就学率は世界一だったのか 角 知行
には明確に記されていない。


社会心理学者のウィルソンによれば、適応的無意識のひとつの能力である心理的免疫システムが、良い気分でいたいという欲求を非意識的思考によって満たすことで、この言説は疑われることなく受容される。



[2022/10/09 22:15] つれづれなるままに | TB(0) | CM(0)

奴隷貿易、奴隷を出荷していたのは西アフリカ諸国だった。 

① 奴隷貿易

15世紀ごろ、ヨーロッパでは丈夫なキャラック船やキャラベル船が建造されるようになり、羅針盤が伝わるなどして遠洋航海が可能となった。
大航海時代の到来である。

当時の日本人によって描かれた「南蛮船」としてのキャラック

当時の日本人によって描かれた「南蛮船」としてのキャラック

ヨーロッパ各国は西インド諸島やアメリカ大陸で大規模な農場経営を始めるようになる。
農場経営のための労働力として、ヨーロッパ人は原住民を用いていたが、疫病が流行するなどして人口が削減、労働力不足に陥ってしまう。

これを解消するために、アフリカの黒人奴隷が労働力として用いられるようになる。

黒人奴隷は三角貿易によって西インド諸島、アメリカ大陸にもたらされた。

三角貿易とは、 ヨーロッパから工業品を船に積み込んでアフリカ西海岸へむかい、次にアフリカ西海岸から黒人奴隷を船に載せて西インド諸島やアメリカ大陸にむかう。
その後、西インド諸島、アメリカ大陸の砂糖やタバコを積んでヨーロッパへ戻る、というものである。

黒人奴隷は人間としては扱われず、商品として扱われていたわけである。
ウィキペディア「アフリカ史」には次のように記されている。

アフリカ西海岸から新大陸に至る約40日から70日の奴隷の運搬は過酷を極め、航海中の奴隷の死亡率は8%から25%に上るとされ、平均して6人に1人が死亡した形となっている。全裸で鎖に繋がれた奴隷は剃毛(ていもう)され、会社の刻印を焼き付けられ、船倉に詰め込まれる。食事は1日2回で、少量の水とともに与えられるだけであった。不潔な船内ではマラリア、天然痘、赤痢などの感染症がはびこることも多々あり、病気にかかった奴隷は生きたまま船外へ投げ捨てられた。


たいへん惨酷な内容であり、これをもって、「ヨーロッパ人は残虐だ」と考える人がいるかもしれない。

奴隷船の内部構造

奴隷船の内部構造(部分)

⓶奴隷を出荷していたのは西アフリカ諸国だった。

さて、奴隷狩はどのようにして行われたのだろうか。
下の絵を見ると、右下にヨーロッパ人のような人が描かれている。

アフリカの奴隷狩

奴隷狩

ヨーロッパ人が鉄砲などで脅して奴隷狩を行ったのだろうか。
もしかしたらそういうこともあったかもしれないが、いくら鉄砲があるといっても奴隷狩りはやるほうも大変である。
ヘタすると命を落としかねない。
商品として手に入れられるのであれば買った方が安くつくだろう。

そう、ヨーロッパ商人たちは西アフリカ諸国から奴隷を商品として買っていたのである。

アフリカは暗黒大陸で、未開人が住んでいたと思っている人がいるかもしれないが、
アフリカには国が存在していた。
アフリカにはちゃんと文明があったのである。

ヨーロッパの商人たちは交易をおこなうにあたり、アフリカの土地の支配者や首長から許可をえたのだという。

アフリカにとって奴隷貿易の開始は、現代までに続く外部勢力による大規模な搾取・略奪そのものと言われるが、現実には奴隷狩りを行い、ヨーロッパ人に売却したのは現地アフリカの勢力である。奴隷貿易によりアフリカは社会構造そのものが破壊されてしまった。これに貢献したコンゴ王国、ンドンゴ王国、モノモタパ王国などは衰退の運命を辿った。

「歴ログ -世界史専門ブログ-なぜ西アフリカ諸国は奴隷貿易に加担したか」
という記事には、次のように記されている。

・奴隷貿易自体は古代から世界中のあらゆる地域で存在しましたが、それを主産業に据え、強力に推進したのは15世紀以降の西アフリカ諸王国でした。
彼らは近隣の王国に攻め入っては住民を引っ捕らえ、イギリスやスペイン、フランスに売却して武器などを買い取り、それを元にさらに奴隷獲得戦争に邁進していました。

・ギニア海岸地区はすでに、ベニン王国やコンゴ王国といった黒人による政治組織が高度に発達しており、彼らと対等な関係に基づいた貿易を行う必要がありました。
ヨーロッパ人はこれらの国の国王に貢物を捧げて謁見し、海岸に商館を置かせてもらうよう許可を得て、そこで地元の商人が運びこむ奴隷をめぐって売買交渉を行いました。
ごまかしや不正は一切許されなかった上、商館を置かせてもらうための王国への上納金も莫大なものとなりました。

・この頃、ダホメーの海外地区に隣接するウィダー、ジャキン、アラーダといった氏族が、ギニア湾岸に進出してきたポルトガル人と奴隷貿易に乗り出し始めました。
その時の奴隷は、北方の小部族への襲撃により獲得してきた捕虜を売り払っていましたが、ダホメーの王は「これはカネになる」と気づいたのでしょう。
1716年だけでもフランス人に6,000人、イギリス人とポルトガル人に7,000人、オランダ人には1,500人の奴隷を輸出しています。
その後ダホメー王国は直接貿易を望み、ウィダーやアラーダを武力制圧し奴隷貿易に本格的に乗り出しました。

・奴隷貿易行に従事していたフランス人ジョン・バボットが1683年頃に記した手記には
我々がアフリカからアメリカ大陸に運ぶ奴隷の多くのあいだでは、殺して食うためだと信じているものが多い
と記されています。

・ヨーロッパ人と直接貿易を行うための拠点を手に入れたアクワム王国は、各地の制覇行で手に入れた捕虜を売り払い、その代わりにヨーロッパ人から武器を入手しました。

・(アシャンティ王国は)それら辺境諸王国から奴隷を入手しては海岸地方でヨーロッパ各国に売りさばいていました。


奴隷たちを荷物同然に船に積み込んだり、過酷な労働をさせたヨーロッパ人も惨酷だが、食用だと思って奴隷を出荷していたアフリカ人も惨酷といわざるをえない。

③ アフリカ、奴隷貿易で衰退、植民地化する。

しかし1787年、イギリスに奴隷貿易廃止委員会が設立され、1807年にはイギリス、アメリカ、1814年にはオランダ、1815年にはフランスと次々に奴隷貿易が禁止された。
その理由のひとつは、イギリスなどの国内で、奴隷貿易は、キリスト教の立場からみて人道的に問題があると批判されるようになったためであるという。

奴隷貿易の廃止によってアフリカ諸国は衰退し、ヨーロッパ各国と保護条約を結ぶなどして植民地化されていった。
これは、自分で自分の首をしめる結果になったといわざるをえないのではないだろうか。

④残虐性は民族の特性ではなく個人の特性

残虐性は民族の特性ではなく、個人の特性、または環境によって作り出されるものだと私は思う。
それは左的な思想からくるものではなく、科学的に考えるとそういう結論になるのではないかと思うのだ。

ヨーロッパの商人たちはお金儲けのために奴隷貿易をおこなったが、ヨーロッパ人の中にはそれを「人道的ではない」として批判する人々もおり、その結果奴隷貿易は廃止された。

ある人は「アフリカ人は優しい」と発言されていたが、「食肉用と思って奴隷を出荷していた」アフリカ人もいた。

日本はアメリカに原爆を落とされた。これはとんでもなく残虐な行為である。
さらにGHQはプレスコードで報道を制限し、原爆被害の報道をさせないようにしていた。
そんな中で、現地取材し、原爆の真の恐ろしさを伝えたジャーナリスト・ジョン・ハーシーがいた。
彼はアメリカ人である。
https://courrier.jp/news/archives/209821/

日本海軍は「海軍々人精神注入棒」で毎日隊員の虐待を行っていた。
https://373news.com/_news/storyid/135693/

その一方で、「初めて日本兵と同じ食事をとり、人間らしい扱いを受けた。彼らは親切だった」と話すイギリス人もいる。

これらの例が示すことは、残虐性などの人間の性質は、民族やDNAによって決まるのではなく、個人の資質、または置かれた環境によって形成されるものであって
「ヨーロッパ人は残虐」などとはいえないということである。



[2022/10/07 14:22] つれづれなるままに | TB(0) | CM(0)